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浮島丸追悼集会
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![]() ![]() 放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。 『舞鶴市史(現代編)』 海面にマストを残して沈没した浮島丸の船体は、その後五年近くもの間、海底に放置されたままであったが、二十五年三月、元の所属の大阪商船㈱へ返還されたので、飯野産業㈱サルベージ事業所の手で引き揚げることになり、三月十三日、現場で着工式及び朝鮮人死没者の慰霊祭を行った。作業は二十三日から開始され、毎日二組の潜水班が死体捜索に当たり、白骨化した遺体を引き揚げる一方、遭難当時、舞鶴海兵団仮埋葬地に埋葬した遺体を発掘、火葬に付して、舞鶴地方復員残務処理部に運び御霊室に安置した。引揚げ作業は同年末まで続行され、後半部は引き揚げたが、前半部は作業困難のためいったん中止、二十九年二月末引揚げを完了した。収容された遺体は三四○柱で、残りは爆発時に四散したらしく船体内には見当たらなかった。その後、これらの遺体は富士通吾妻角の東本願寺別院に安置された。
そして四月十四日、第一回遭難者追悼慰霊祭が東本願寺と浮島丸殉難者慰霊祭実行委員会の主催により舞鶴東公会堂で行われた。慰霊祭はその後、四十年、四十二年にも行われたが、四十五年八月二十四日、日朝協会舞鶴支部が中心になって二条海岸の舞鶴東労働セツルメントで浮島丸殉難二十五周年追悼慰霊祭が催された。約二○○人が参列、犠牲者の冥福を祈ったあと、約三○人が船二隻に乗り、遭難現場の佐波賀沖で花束を海中に投下、霊を慰めた。また、この慰霊祭を契機として殉難者の追悼碑建設の声が起こり、五十年秋、日朝協会舞鶴支部を中心に浮島丸殉難者追悼の碑建立実行委員会が結成され、府、市はじめ広く一般に協力を呼びかけた。 浮島丸殉難者追悼の碑を ぜひ皆様の手で 日本海を平和の海に!舞鶴湾を京都の表玄関に! これは、舞鶴の、京都の、そして日本のみんなの願いです。この美しい港にも、悲しく暗い歴史が眠っています。 朝鮮-三十六年間に及ぶ日本の植民地支配の中で仕事も土地も奪われて、年老いた母を残した若者が、一家の柱の父親が、次々に日本に連れてこられて過酷な労働にかりたてられました。 一九四五年八月、日本は戦いに敗れ、解放された喜びを胸に夢にまで見た祖国をめざして、三、七二五人の朝鮮人労働者やその家族たちは、青森の大湊から浮島丸に乗船し一路帰国の途についたのでした。 ところがその途中、連合軍最高司令官の「八月二十四日以降日本の全船舶航行禁止」の指令で、進路を変更して舞鶴港に入ったところ、八月二十四日午後五時二○分頃浮島丸は突如大爆発を起こし、真二つに折れて海底へ 母を呼ぶ子どもたちの、妻を呼ぶ夫の叫びは波間に消え五四二人の尊い生命が失われていったのでした。 残った人たちは、負傷した身体で、自力で岸に泳ぎつきあるいは近くの佐波賀の人たちが、急いで出した小舟に助けあげられました。 私たちは、舞鶴の暗い歴史の一つである、この浮島丸事件は将来にわたって、忘れ去ることのできないものと考えました。 そして毎年、追悼式典をおこなってきましたが、殉難三十周年を機に、これを永く記念する事業実施の声が起こり、今日まで各方面の皆様方の幅広い御支持を得て、その具体化にとりくんでまいりました。 この「殉難者追悼の碑」建立の事業が、舞鶴の平和な発展に役立ち、国際友好のかけ橋として、大きな役割を果たす趣旨を御理解いただき、格別の御支援をたまわりますよう心からお願い申し上げます。 一九七七年三月 浮島丸殉難者追悼の碑建立実行委員会 会長 佐谷 晴 (同前) こうした運動が実って追悼碑が完成し、五十三年八月二十四日午後一時半から佐波賀の現地で除幕式と慰霊祭が行われた。 この後は長い舞鶴が密かに誇りとしてよい(かも)立派な活動の歴史がある。(マッチポンプか) 以下は 品田茂氏(浮島丸殉難者を追悼する会会長)にお越しいただく予定で、氏より直接説明を聞いて下さい。 追悼集会![]() 毎年、事件日の8/24、現場に近い「追悼の碑公園」で追悼集会が開かれている。 集会の様子は以下など参照 ![]() 追悼する会の活動![]() ![]() 上の栞↑から、まる写し 追悼する会のこれまでの活動 ① 浮島丸引き上げから10年後の1964年。現在の至徳寺(舞鶴市浜)で開かれていた浮島丸犠牲者の法要に、舞鶴市内の教職員を中心としたグループが参加。 翌65年8月24日には、「浮島丸殉難20周年追悼法要」を東公会堂で開催し、市民約500人が参加。この追悼法要が、舞鶴市民による追悼活動の始まりとなった。 ② 1975年、浮島丸犠牲者の追悼と、爆沈の歴史を後世に伝えていくために、佐谷靖舞鶴市長を会長に「浮島丸殉難者追悼の碑建立実行委員会」設立。下佐波賀区の皆様のご協力をはじめ、多くの市民の皆様、京都府・舞鶴市のご支援をいただき、1978年に現在の場所を「追悼公園亅として整備し、追悼碑「殉難の碑」を建立した。 モニュメントの群像は、舞鶴市の美術教師を中心にして制作された。 ③ 1989年、浮島丸殉難者追悼実行委員会編『浮島丸事件の記録』を自費出版。「浮島丸死没者名簿」と、爆沈についての資料、手記、新聞記事をまとめた内容で、2500部を普及した。 ④ 1995年5月、映画「エイジアン・ブルー 浮島丸サコン」舞鶴ロケに、市民約千人が参加した。8月から全国で上映され、約30万人が鑑賞。この映画づくりを契機として、1996年5月に「浮島丸殉難者を追悼する会」を新たに発足。初代会長には、1964年から追悼活動に取り組んできた野田幹夫さんを選出した。 ⑤ 1996年3月26日、参議院厚生委員会で、日本共産党の西山登紀子議員により、浮島丸爆沈と京都での映画づくり、舞鶴市民の追悼活動が、国会の揚で初めて紹介され論議された。その結果、この年8月から、厚生大臣の追悼メッセージを追悼集会に寄せていただけるようになった。 ⑥ 1998年、追悼碑建立20周年を記念して、市民100人が参加する演劇「1998年夏・絆~海を見つめる群像の物語~」を上演。あわせて、舞鶴市、青森県、東京都の追悼関係者をパネラーに、シンポジウム「いま、浮島丸事件を考える」を開催した。 ⑦ 1999年11月に、追悼公園の説明板にペンキがかけられる。翌2000年4月には、説明板の「植民地支配」の文字が削られ破損した。そのため、「追悼する会」の会員と市民の皆様から寄せられたカンパにより説明板を修復した。 ⑧ 2000年、映画「エイジアン・ブルー」の韓国初上映により、韓国の市民との交流がはじまる。2002年、03年には、韓国・光州市を訪問し、光州市民と交流。 2005年には、中国・北京大学で、映画上映と、事務局長の須永安郎さんによる講演会開催。 ⑨ 2005年、浮島丸殉難60周年企画。東アジア国際平和シンポジウム「浮島丸事件:東北アジアの平和のための条件を考える」では、広島、舞鶴、韓国、中国の人たちと平和について語り合う。終了後、「東アジア 市民交流と文化の夕べ」を開催。 ⑩ 2008年、野田幹夫さんと須永安郎さんへの取材と資料調査をもとに、「追悼する会」の歴史をまとめた品田茂著『爆沈・浮島丸 一歴史の風化とたたかうー』が、高文研から出版され、全国に普及した。 2010年、余江美穂子作画の紙芝居「うきしままるじけん」が完成。2011年の青森県下北ツアーでは、むつ市で紙芝居を上演するとともに、「浮島丸下北の会」と交流。 ⑪ 2015年、「浮島丸事件70周年のつどい」開催。映画「エイジアン・ブルー 浮島丸サコン」上映と、「浮島丸下北の会」の取り組みを報告。 ⑫ 2022年12月19日、東京都目黒区の祐天寺に安置されたままとなっている遺骨の早期返還を求める要請書を、東京、青森の追悼団体と共同して厚生労働大臣に提出した。 ⑬2022年12月12~15日、韓国・釜山市の「北東アジア平和&浮島丸犠牲者追悼協会」から要請を受け、第2回北東アジア国際平和学術会議に参加し、浮島丸爆沈と「追悼する会」の取り組みを報告した。 2023年4月3~5日には、追悼協会と遺族団体代表の皆さんが舞鶴市を訪問され 学習会、フィ-ルドワークと親睦交流会を開催した。 ■「浮島丸殉難者を追悼する会」の取り組み ①毎年8月24日に、浮島丸殉難者追悼公園で、追悼集会を開催 ②追悼公園と追悼碑「殉難の碑」の維持管理と清掃 ③『浮島丸通信』の発行(4月、7月、9月の年3回発行) ④広報活動と学習会開催 平和学習のために追悼公園を訪問される学校、グループなどの要請に応えて 浮島丸爆沈についての説明、「追悼する会」の取り組みを紹介しています。 ⑤記録・資料の収集 ![]() ![]() ![]()
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![]() ![]() 資料編の索引
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