丹後の地名



                                    








2024(令和6)8月24日
浮島丸殉難79周年追悼集会

   於 舞鶴市下佐波賀 
            殉難公園

 飛び交うアゲハ蝶に、わが同胞(はらから)の姿見て… 
 優しい人達である。この海に沈んだわが同胞たち、迎えにきたよ。蝶と一緒に故郷へ帰ろう。
 韓国の小中学校の先生たちグループが、この日も見えられ、鎮魂の舞を舞い、祈り捧げた。
この日、像の献花に本物のアゲハが一羽止まった、カメラを向ける間もなく、飛び去ってしまった。写したかったのだが、私は日本人だから、怖がって逃げたか、と思った。もう少しやさしい国になりたい。

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 2024年(令和6年)8月24日は、浮島丸事件から79年目。79年前(昭和20年)のこの日(終戦から9日目)の午後5時20分ごろに当地のすこし沖合を通りかかった「浮島丸」は、ナゾの爆発を起こした。そして多数(これまでの政府発表では549名)の乗客や乗務員が亡くなった。

佐波賀の追悼会場の沖。写真↑のちょうど真正面あたり、今、自衛隊の掃海艇がいる位置より少し左側、そこへ沈んだという。すぐ目の前、岸から300メートルばかりの所であったともいう。当会場から蛇島(右側の島)までの距離はちょうど1qである。その半分よりも近い所へ沈んだ、掃海艇の位置よりすっと近いところであった。
図にすれば、
『京都新聞』(24/8/23)より↓

防備隊がS20年10月作成した図という。24/8とかあるのは8月24日のことと思われるが、何を目的として作成されたものかアヤシイ図である、何を根拠に浮島丸觸雷と決めているのか、20/8、24/8、19/8、は機雷遅延システムの期限切れを過ぎていて、本当に爆発したか疑われる。敦賀湾では17/8の触雷が最後であった、5/8が最後の投下であったので、舞Iは19/8、20/8はあったかも知れない。近油丸・鶴松丸という船は何物か、海軍艦船とは思えない船名であるし、觸雷位置が詳しい。これまでに知られていた資料にはないものである。しかし防備隊が作ったという図にしては、かなりアヤシイのである。三浦さんの有名な写真→と矛盾が生じる。興安丸は7000トン、一時海自が空母に改装しようとした大型船である、沈浮島丸の北側を通って通れないことはないだろうが、船は右側通行で、ヘンなコースを通るべき必要はなかろう。図の沈没位置が本当とは考えにくい。そうすると他の機雷位置も違うかも知れない。舞I防備隊(今の保安学校)からは1q少々の位置に沈没しているので、十分にその正確な位置は防備隊から目視で確認できる。プロ中のプロが誤るハズがないものであるはずなのに、納得できない、考え込まざるをえない。沈没位置すらいろいろあって、どこが本当の位置か不明なのだが、この沈没位置はあくまでも大本営発表によればであって、これまで79年も隠してきた大本営の文書なので、眉唾しながら見られるといいかも…
79年が流れても舞Iの海は鎮魂の海であるとともに、大本営の海のまま、大本営の町のままでもある。
もう一つ、何と今頃になって厚労省から「乗船名簿」が出てきた、しかも75冊もあるという。
上掲紙に、
浮島丸関係資料はジャーナリスト布施祐仁さんが情報公開請求し、乗船者名簿3種類などが開示された(氏名などは非公開)。これを受けて衆院外務委員会で共産党の穀田恵二議員が質問し、厚労省が「浮島丸死没朝鮮人名簿」「乗船半島労務者名簿」など75冊の資料名リストを示した。順次、公開作業が進む見通し。

これで何もかも真相解明できるわけではないし、何といっても遺骨(骨灰状態という)がまだ日本に残ったままである、79年たってもまだである。舞I内ではどうしようもなく、各国各地各界各分野の皆様のご支援ご援助、お世話なしでは進めそうにはない、今後ともどうかよろしくお願い申し上げます。
今もって事件の真相は国家機密のヤミの中にある。
多くの犠牲者を追悼し、事件を新たに心にきざみ、平和につなげようと、今年もこの地で追悼集会が開かれた。
簡単に79周年集会の様子を紹介をしてみようかと思う。

 当ページは今回の会の、式次第の流れに沿っての、様子一部の簡単な紹介です。35℃にもなった暑い日であった。
1 開会 11:00
2 黙とう
3 追悼の辞
浮島丸殉難者を追悼する会 品田茂会長の追悼の辞


在日本朝鮮人総聯合会 京都府本部常任委員会 姜世哲委員長の追悼の辞


在日本大韓民国民団京都府舞I支部 金英王支団長の追悼の辞

それぞれスピーチの内容は下にあります。

4 献花
京都府知事、舞鶴市長及び駐大阪大韓民国総領事陳昌洙氏


5 来賓及びメッセージ紹介(下にあります)
6 追悼歌斉唱
追悼歌「はまなすの花咲きそめて」(京都朝鮮中高級学校生徒の皆様)


7 参加者全員による献花


8 閉会
追悼の舞や献茶がなかったためか、いつもよりは早く終わった。250名の参加があったという。


9 特別集会

追悼集会が終わり、会場後片付けもすべて終わってからになるが、今回は特別の集会があった。簡単な紹介。
1月に韓国から35名の小中学校の先生達が当地に見えられた。その中の9名が、この日も見えられて、鎮魂の舞など捧げられた。

音がないと、一部だけ動画紹介


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追悼の辞
メッセージなど紹介






「追悼する会」発行の案内冊子にある通りです。

追悼の辞
 本日ここに「浮島丸殉難79周年追悼集会」を開催するにあたり、犠牲者の皆様に心より哀悼の意を表します。
 1945年8月24日、舞鶴湾に入ってきた浮島丸は、午後5時10分、突然に爆発し、船体は真っ二つに壊れました。乗っていた朝鮮の人たちや、浮島丸の乗組員は、舞鶴の海に投げ出され、多くの人たちが力尽きて沈んでいきました。
 この大爆発を目撃した人々は、すぐに船を出して救助に向かい、地域の人々と海軍による懸命の救助活動が続けられました。
 しかし、この大惨事により、女性や乳幼児を含む乗客524名(政府発表)と乗組員25名の尊い命が失われました。
 この浮島丸の大惨事には、明治以降の歴史的な経緯がありました。
 日本は、1875年の江華島事件以降、朝鮮への侵略を重ね、1910年には韓国を併合し、過酷な植民地支配をおこなってきました。
 その結果、土地も仕事も失った朝鮮半島の人たちが激増し、日本への家族ぐるみの移住が相次ぎました。また、アジア・太平洋戦争が長期化するにつれて、朝鮮の若者や一家の働き手である父親が、募集、官斡旋、徴用などの方法で日本に連れてこられ、過酷な労働と生活を強いられました。
 8月15日、日本の敗戦によって、アジア・太平洋戦争が終結しました。
 そして8月22日、海軍大湊警備府の強引な指示により、青森県内の朝鮮人労働者とその家族数千名は、大湊港を出港し、朝鮮・釜山港をめざしました。
 朝鮮の人たちにとっては、ようやく故郷に帰り、なつかしい家族と再会できる航海はずでした。浮島丸の船内は、故郷に帰れる喜びがあふれ、とてもにぎやかだったといいます。
 しかし、その途中で、なぜか舞鶴湾に入り、その直後に大惨事が起きたのです。
 亡くなられた人たち、そして故郷で帰りを待っていたご家族の、悲しさと、無念さを思い、考えると、いまも胸が痛みます。

 1978年、舞鶴市民は犠牲者の死を悲しみ、この痛ましく悲しい歴史を後世に伝え、二度と再び大惨事を繰りかえさないために、地元下佐波賀の皆様のご協力と、多くの市民の皆様の募金、そして京都府ならびに舞鶴市のご支援により、この場所に追悼公園と追悼の碑をつくりました。それ以降毎年、この地で追悼集会を開催しています。
 浮島丸の爆沈から、79年が経ちました。しかし、未解決の問題は、現在も数多く残されています。
 まず、浮島丸爆沈に関する事実関係が解明されていません。乗船者の人数も、犠牲者の人数も、そして浮島丸が爆発した原因さえも、疑問点が残されたままになっています。
 そしてまた、犠牲者の遺骨が日本に残されたままになっています。高齢になられたご遺族の願いやお気持ちをふまえると、遺骨を早急に返還することが必要です。
 このような未解決の問題を解決していく責任が、日本および日本人には課せられています。

 今年の春、ジャーナリストの情報公開請求に応えて、厚生労働省は浮島丸の乗船者名簿を初めて公開しました。
 私たちは、乗船者名簿がようやく公開されたことに驚きました。公開された資料は、未解明の問題を明らかにしていくための重要な資料になるからです。
 私たちは、政府が保有されている名簿や公文書の全面的な公開を要望します。そして保有する名簿は、ご遺族の方々に早急に提供されることを強く求めるものです。

 歴史をふりかえってみますと、浮島丸の大惨事は、植民地支配や戦争さえ無ければ起こっていませんでした。二度と再び大惨事を起こさないために、愚かな戦争は、けっして繰り返してはなりません。軍拡競争など戦争につながっていく危険な動きには、何よりも敏感でいたいと考えています。
 そして私たちは、戦争を起こさないために、どうしていけばいいのかを、世界中の人々と考え、語り合い、平和を求める声を上げていきたいと思っています。

 結びにあたりまして、本日ここに改めて平和への決意を新たにし、犠牲者の皆様への追悼の辞とさせていただきます。

   2024年8月24日
     浮島丸殉難者を追悼する会                     会長 品田 茂


浮島丸殉難79周年追悼の辞
 私は「浮島丸爆沈事件」から79周年に際し、愛する故郷の地を踏むことなく、見知らぬここ舞鶴の地で尊い命を失った数多くの犠牲者のみなさまに、朝鮮総聯京都府本部を代表し、心から追悼の意を表します。
 「浮島丸爆沈事件」の背景には、言うまでもなく日本による朝鮮植民地支配がありました。36年にわたる植民地支配は、朝鮮の人たちに多くの傷を残すものでした。特に植民地支配下で、多くの朝鮮人が強制的に故郷から引き離され、過酷な労働に従事させられました。
 「浮島丸爆沈事件」の犠牲者もそのような方々でした。1945年8月に祖国解放を迎え、希望を抱いて浮島丸に乗った同胞たちが、見知らぬ舞鶴の地で非業の死を遂げなければならなかったことを思うと、胸が張り裂けそうになります。
 日本政府は「浮島丸爆沈事件」の朝鮮人犠牲者数を524人としてきましたが、実際には6,000人以上が乗船しており、犠牲者数は1,000人を超えるとも言われています。
 犠牲者数や爆沈の理由など、事実関係がわからない理由は、ひとえに日本政府の態度にあります。日本政府はこれまで、「浮島丸爆沈事件」に対する公式謝罪や補償はもちろんのこと、まともな真相究明すら行ってきませんでした。
 また、これまで日本政府は乗船者名簿の存在を認めてきませんでしたが、今年に入り情報公開請求に3種類の名簿を開示し、その後厚生労働省は衆議院外務委員会で「名簿」と名の付く資料が「70くらいある」と明らかにしました。ただそれすらも「正式な名簿ではない」という態度を崩していません。
 このような日本政府の姿勢は、あまりにも不誠実なものであると言わざるを得ません。
 昨今、在日朝鮮人に対するヘイト行為が社会問題になっています。一方、関東大震災における朝鮮人虐殺を否定する言説の拡大、群馬県による県立公園の「追悼の碑」撤去など、日本の歴史修正、歴史歪曲の動きはますます深刻となっています。
 今も続く朝鮮人差別の根柢には、日本の歴史加害の問題があることを忘れるわけにはいきません。
 私たちは、日本政府が「浮島丸爆沈事件」に対し真摯に向き合うよう、そして加害の歴史に対してし
っかりとした清算を行うよう、強く求めます。

 最後になりましたが、品田茂会長をはじめとする「浮島丸殉難者を追悼する会」のみなさまと地元住民のみなさまに心から謝意を表し、追悼の辞といたします。

 2024年8月24日
在日本朝鮮人総聯合会 京都府本部常任委員会
     委員長 姜世哲
(※集会では朝鮮語で行われており、「会」が日本語に翻訳したもの)


追悼の辞
本日ここに浮島丸殉難79周年を迎え 韓国民団を代表して尊い命を落とされました同胞の皆様に謹んで追悼の意を表します.
日本に強制的に又は騙されて或いは土地を奪われ仕方なく日本に来て 劣悪環境の下 強制労働させられた同胞が 解放直後の1945年8月24日再び祖国に帰れるというはやる気持ちと喜びを胸に祖国に向かう矢先の爆発でした.
同胞の無念さを思うと本当に胸が締め付けられます.
 今世界で起きている不条理な戦争これは常に一部の特権階級 そして思想,宗教の違い それに振り回され犠牲になるのは常にその国の国民であります.
毎日人が死んで行きます.理由はどうであれ早急に終わらせる必要があります.
それに対する審判は歴史が下すでしょう.
東アジアでは以前より緊張感が高まり核には核で対抗するという構図が出来つつあります.
この愚かなチキンレースに日本国も勿論無関係ではありません.
膨大な防衛費が日々の生活に苦しんでいる国民の為でなく 戦急の準備の為に使われています.
誰の為の戦争 誰の為に緊張状態を継続させるのか 人間1人1人がよく考える必要があるのではないでしょうか.
追悼集会の努力が徐々に実り世界の平和の為の一助になればと願うばかりです.
私は1951年に日本で生まれました.もしこの時私が祖国にいたならば戦争の為に今この場所に存在していないかも知れません.
114年前に日本に因る植民地化 その次は戦争 現在は核の脅威 気持ちが休まる時がありません.
 もう止めませんか.
 最後に当時救命活動に当たられた佐波賀の近隣住民の皆様と 長年に亘り追悼の行事に努めてこられた浮島丸殉難者を追悼する会の方々に謹んでお礼申し上げます.

2024年8月24日
 在日本大韓民国民団京都府舞鶴支部
 支団長  金英王
(※集会では朝鮮語で行われており、「会」が日本語に翻訳したもの)


 本日、浮島丸殉難79周年追悼集会が挙行されるにあたり、謹んで追悼の言葉を申し上げます。
 79年前のこの日、ここ舞鶴で海軍輸送船浮島丸が沈没し、多くの犠牲者を出す大惨事となりました。
 この惨事を知る方々も高齢化している今日にこそ、戦争の悲惨さと平和の尊さを次世代に語り継いでいかなければなりません。
 ここに改めて平和への決意を新たにするとともに、お亡くなりになりました方々のご冥福を心からお祈りいたします。
 なお、厚生労働省でお預かりしているご遺骨は、東京都の祐天寺に丁重に安置しており、外務省等と連携し、ご遺骨の返還に向けて適切に対応したいと考えております。
 ご遺族の方々並びに関係各位のご健勝を心より祈念申し上げます。
厚生労働大臣 武見 敬三


浮島丸殉難79周年追悼集会へのメッセージ

 浮島丸殉難79周年追悼集会にあたり、犠牲になられた方々への心からの哀悼と平和への誓いをこめて、連帯のごあいさつを申し上げます。
 強制連行された朝鮮人労働者らを乗せた旧日本海軍輸送船「浮島丸」が1945年8月24日、京都府の舞鶴港で爆発、沈没し500人以上が死亡した「浮島丸事件」を巡り、この間、日本共産党の穀田衆議院議員の追及の中で、これまで厚労省が「不存在」としてきた、乗船者が記された名簿を75種保有していることが新たに分かりました。また、穀田議員は、韓国側への名簿提供にあたっては、マスキング(塗りつぶし)を外したものを提供するよう求め、同省は「期待に背かないように進めていく」と前向きに回答しました。
 また、倉林参議院議員は、祐天寺(東京都目黒区)に安置されている韓国、北朝鮮出身者の遺骨について、「人道的な観点から返還に向けた取り組みを」「早期の協議を行え」と強く求めてきました。
 私たち日本共産党は、「碑」に刻まれているとおり、浮島丸事件を「風化」させることなく、この碑が平和と国際友好のかけ橋となるよう、また、いまだ帰れない遺骨が一日も早く返還できることを願ってやみません。
 ご遺族ならびにご参加の皆さまのご健勝とご多幸、浮島丸殉難者を追悼する会の今後ますますのご発展をご祈念申し上げメッセージといたします。
2024年8月24日
日本共産党 衆議院議員 こくた恵二
      参議院議員 井上さとし
      参議院議員 倉林 明子


「浮島丸」爆沈事件犠牲者追悼集会実行委員会へ

 解放の喜びを胸に故郷へと向かった数多くの朝鮮人の命を奪った「浮島丸」爆沈事件が起きてから、79年という月日が流れました。
 愛する家族が待つ故郷の地、新たな生活の希望が芽生えようとしていた祖国の地を再び踏むことができず、異国の空の下で尊い命を奪われた犠牲者のみなさまに、深い哀悼の心で追慕します。
 日本当局は、元から「浮島丸」爆沈事件が自身により意図的に計画された集団的な朝鮮人殺戮蛮行であったことを認め、誠実に謝罪し補償しなければなりませんでした。
 しかし日本当局は、今日に至ってもこの殺戮蛮行を「偶発的な事故」とみなし、賠償を求めるどのような動きにも応じないどころか、最近では朝鮮人強制連行という犯罪それ自体を全面否定しています。
 国会の場で、どのような形態で日本に来たとしても強制動員ではなかったという言葉が何はばかることなく飛び出し、歴史問題で誤解を生む可能性があるという奇怪な主張を持ち出し、「従軍慰安婦」、「強制徴集」などの表現をこれ以上使わないようにしています。
 それでも飽き足らず、過去の犯罪を白紙化し、逆転した歴史観を次世代に注入しています。
 敗戦の復讐を朝鮮人に向けようとした排他主義的性根を今日までもそのままむき出しにしながら、在日朝鮮人の生存権と発展権に多大な脅威を与えています。
 過去の犯罪的事実は、加害者が否定するからと言って絶対に無くなるわけではありません。
 日本は、自身が美化粉飾している過去の前轍を再び踏もうとするのではなく、前世紀の辛い経験から教訓を見つけ出すべきです。
 最後になりましたが、ご多忙の中、貴重な時間を割き、今日の集会にご参席されたみなさま方の積極的な努力により、「浮島丸」爆沈事件の犠牲者たちの怨恨が晴らされる日が必ずや訪れることを信じ、改めて心から犠牲者のご冥福をお祈りいたします。

朝鮮人強制連行被害者・遺族協会
2024年8月24日


「浮島丸殉難79周年追悼集会」追悼のメッセージ
    駐大阪大韓民国総領事陳昌洙

こんにちは。駐大阪大韓民国総領事の陳昌洙と申します。
 79年前、舞鶴沖で発生した浮島丸爆発事故で犠牲になられた英霊に対し謹んで哀悼の言葉を捧げます。
 1978年、ここ下佐波賀の公園に舞鶴市民を中心として「浮島丸殉難者追悼の碑」が立てられてから、毎年8月には必ず追悼集会が行われ、韓日両国の市民が大勢参加してきました。
 今年も例年通り、追悼集会が開催されることができるようご尽力くださいました「浮島丸殉難者を追悼する会」の品田茂会長をはじめご関係者の皆様、在日本大韓民国民団京都府本部及び舞鶴支部関係者の皆様にも深く御礼申し上げます。
 79年前、解放の喜びを胸に抱きながら祖国に向かうため、浮島丸に乗船した我々の同胞が理由もわからずこの舞鶴沖で犠牲になったことを考えると、胸が苦しくてたまりません。
 今日、私たちが彼らの無念な犠牲を哀悼し、過去の悲しい歴史を振り返る理由は、このような悲劇が二度と起こらないことを誓うと共に戦争の悲惨さと平和の大切さを次の世代に伝えるためだと思います。
 韓日両国は、自由・人権・法治主義という普遍的な価値を共有し、共同の利益を追求するパートナーであります。また世界平和と繁栄のために手を取り合うべき大切な隣人同士でもあります。浮島丸殉難追悼集会は、韓日両国民が大切な隣人として過去を乗り越え、お互いを理解し、未来志向的な韓日関係を築いていく意味深い場でございます。
 今後もここにいらっしゃる皆様一人一人が、和解と包容の精神で両国間の調和を図り、ひいては世界平和のために一助を担ってくださることを願っております。
 もう一度犠牲者の方々を哀悼し、本日追悼巣会にご臨席くださいました皆様に改めて深<感謝申し上げながら、私の追悼の辞とさせていただきます。ありがとうございます。


「浮島丸殉難79周年追悼集会」へのメッセージ

 舞鶴市「浮島丸殉難者を追悼する会」の皆さん、「集会」参加の皆さん、猛暑が続く中で「浮島丸殉難79周年追悼集会」を開催されますことに敬意を表します。本当にご苦労様です。
 79年前の今日、祖国への帰還を目前にしてこの地で犠牲になられた朝鮮人乗船者524人、乗組員25人、549人の方々に浮島丸出港地 大湊より謹んで哀悼の意を表します。
 人道的な見地から東京・祐天寺に眠る遺骨の一日も早い返還が実現されるように祈り続けた一年でした。しかし、返還の見通しは今だたっていません。戦争行為による他国への侵略は、その国の文化や言葉、氏名までも奪う加害に相違ありません。この加害に対する責任を果たしていないことが明白です。
 加害の歴史にしっかりと向き合うことは、誰もが納得のいく対応に結びつくと考えます。また、自国にあっては平和憲法を守ることであり民主主義の発展につながります。
 不幸な歴史が繰り返す事がないように、「浮島丸事件」の歴史的検証は極めて重要です。そして、未来を担う子どもたちに伝えで行かなければと痛切に感じます。
 日韓友好、東アジアの平和への充実した取り組みの継続と発展、そして「浮島丸殉難79周年追悼集会」のご盛会を心からお祈りし、連帯のメッセージを送ります。
 2024年8月24日
 浮島丸下北の会  会長 村上 準一


メッセージ

 浮島丸事件79周年にあたり、浮島丸事件で亡くなられた方々に、こころから哀悼の意を表明したします。
 東京都目黒区にある祐天寺には、アジア太平洋戦争で亡くなられた朝鮮人戦争犠牲者のご遺骨が、旧日本軍軍人・軍属として、1971年から祀られています。 日本の戦争犯罪の肩代わりをさせられた、韓国・朝鮮BC級戦犯として処刑された方や特攻隊員として亡くなられた方など、今なお700体のご遺骨が仮安置されています。そのうち、280体は79年前の今日、舞鶴湾佐波賀沖で爆沈した浮島丸の犠牲者のご遺骨です。
 本籍地が現在の朝鮮民主主義人民共和国の方々の425体のご遺骨の中には、5人の浮島丸事件の犠牲者や4人の元BC級戦犯のご遺骨も含まれています。
 私たちは、祐天寺に預けられている、これらの遺骨が1日も早く遺族の許へ、故国へお返しできることを願って追悼会を続けてきました。浮島丸が大湊港から出港して79年目、日韓併合条約から114年目の8月22日には、36回目の追悼会を執り行いました。
 ジャーナリスト布施祐仁氏の求めで存在が明らかになった浮島丸事件の乗船名簿は、日
本、韓国でも話題となり、75種類の浮島丸に関する乗船名簿や死没者名簿などの存在も
判明しました。韓国でも、7月17日に「浮島丸爆沈事件の真相究明に向けた韓日共同対応と戦略模索」と題する討論集会が、遺族会を始め浮島丸事件の問題に取り組む様々な団体の共催で開催され、「朝鮮人戦争犠牲者追悼会」からは世話人の小林喜平が参加しました。
 こうした動きは、舞鶴市の「浮島丸殉難者を追悼する会」、青森県むつ市の「浮島丸下北の会」、東京目黒の「朝鮮人戦争犠牲者追悼会」の私たちが行った厚生労働大臣に対しての遺骨の早期返還を求める要請と韓国の遺族の想いが届きつつあることを実感した出来事です。
 人道上からも遺骨は、1日でも早く遺族の許にお返ししなければなりません。日韓、日朝の政府間で直ちに返還に向けた交渉を行わなければなりません。ご遺骨返還に向けた政府の一層の努力を求めます。
ロシアによるウクライナ侵略開始から、今日8月24日はちょうど2年と半年にあたります。ロシア軍の占領地からは、故郷を追われる住民の強制移住も行われています。パレスチナのガザ地区では、病院や学校なども爆撃されています。いかなる理由があろうとも、戦争で紛争を解決しようとするのは、政治指導者の最も愚かな行いです。
 下北、目黒、舞鶴で行われている追悼集会は、不幸な事件の歴史を心に刻み、再び戦争の惨禍で、故郷を追われ、命が失われることがないように誓う場として続けられています。
 舞鶴の浮島丸殉難79周年追悼集会に集まりのみなさま、自宅や職場で哀悼の黙祷を捧げられたみなさまに、改めて心からの敬意と連帯の意思を表明いたします。

2024年8月24日
朝鮮人戦争犠牲者追悼会(於・祐天寺) 世話人一同


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会場
 わかりにくくて不便な場所↓ですが、会場はここです。車も駐められます、トイレもあります。追悼の意あれば、どなたでも参加できます。11時からです。たいていは35℃くらいにはなります。暑さ対策が必要です。




  浮島丸殉難追悼集会の記録

2024追悼集会
2023追悼集会
2022追悼集会
2021年

8/16に訪れたが、集会看板がない、広場一帯はムクゲの花が美しい、綺麗に清掃されて、花が手向けてあった。公式発表かわからないが、「本年の浮島丸殉難76周年追悼集会については、コロナ禍のため、昨年同様人数を大幅に制限して開催し、一般の方のご参加はお断りすることとしました」の文を「戦争展実行委」が載せている(新聞の折り込みチラシ)

2020は、こんな看板が現地に立ててあった

事務局様へ。一般市民は現地まで赴かないとナニもわからない。SNSかナニかで情報発信を願えないだろうか。

2019追悼集会
2018追悼集会
2017追悼集会
2016追悼集会
2015追悼集会
2014追悼集会
2013追悼集会
2012追悼集会
2011追悼集会
2010追悼集会
2009追悼集会




関連情報
 79年前の浮島丸事件とその後のおおよその経過は、すでに何度も書いていますのでそちらを参照して下さい。

以前の追悼集会については「浮島丸追悼集会:丹後の伝説17
事件そのものについては「浮島丸事件
など参照して下さい。


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