京都府宮津市中野
京都府与謝郡府中村中野
−天橋立観光−
主なものだけ
(文珠地区)
智恩寺(智恵の文珠)
ビューランド展望台(飛龍観)
股のぞき
天橋立温泉(智恵の湯)
知恵の餅(橋立名物)
知恵の輪
廻旋橋
天橋立観光船
日本三景:天橋立
磯清水
橋立明神
(府中地区)
丹後一宮・元伊勢・籠神社
真名井神社
傘松公園
西国28番札所:成相寺
郷土資料館
国分寺址
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中野の概要
成相寺山南麓、府中の成相寺へのケーブル下、西側になる。府中小学校の周辺。南は天橋立内海の阿蘇海に臨み、沿岸を国道178号が走り、東の大垣、西の小松・溝尻を結ぶ。ケーブル下にはみやげ物店が建ち並ぶ。
中野を含むこの付近の一帯は府中とよばれ、古くは国衙所在の地であり、安国寺・万福寺・天橋立道場・妙立寺・大乗寺など、古代から中世にかけて大寺が集中した。また成相寺参道本坂道のある所で、江尻の慈光寺も中世はこの地にあって、府中城主延永修理進の菩提寺であったという。
↑成相寺へ登る「本坂」、一番右手にある前掛けが懸けられているのは「町石」
中野村は、江戸期〜明治22年の村。
単に中村ともよび、慶長7年の府中郷検地帳は「中村」と記される。府中郷のうちでは最も大村。はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年以降宮津藩領。明治4年宮津県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。
中野は、明治22年〜現在の大字名。はじめ府中村、昭和29年からは宮津市の大字。
《中野の人口・世帯数》 234・125
《主な社寺など》
中野遺跡。
縄文時代の土器、弥生後期の土器、奈良〜平安時代の平瓦・丸瓦・土師器など、平安後期〜室町時代の宋銭・明銭などが出土。
成相寺参詣道に不動坂・本坂などがある。参詣道の本坂道には16町の町石と板碑がある。本坂東方に慈光寺跡があり、大乗寺付近から弥生時代の土器片、奈良期の瓦・瓦片、中世中国かに輸入された古銭・陶磁器の類が出土した。
飯役社(印鎰社)。吹飯が浦の吹飯社。
国府に付随する印鎰社。付近は丹後国府妙立寺の比定地。
案内板に、
飯役社(いいやくしゃ)
宮津市中野
江戸時代後期の地誌『宮津府志』丹哥府志などには、この位置を溝尻村とする。中野・溝尻・小松等の大字の錯綜するこのあたり一帯に、この社を中心に、飯役・飯役前・飯役後・飯役浜・飯役立・飯役ノ上があり、北方妙立寺に至る間には、陣屋・大門・寺大門等がある。飯役社が大切な社であったし、この一帯が歴史的に重要な地であることをうかがわせる。
飯役社は諸国にみられる印鑰社と同じである。印は国衙の印章であり、鑰は印櫃のかぎ、或は穀倉開閉のかぎなどといわれるが、何れにしても在地の国司役人によって儀式化された神事が行われた場所である。祭神は豊受大神・天照大神等一定しない。
祭祀の為の料として『丹後国田数帳』には、拝師郷七町四段余のうちに、一町歩(一・二ヘクタール)を割いて「印鎰社」に充てている。
現在の田数帳は室町時代初めころ、一五世紀中ごろの状況をもとに記されているが、この「鎰役社」の創立はもっと遡って考えることが出来るかもしれない。
この社の存在を以て直もにこの付近に国衙が所在したと考えることはむずかしいにしても、密接な関係をもつ社ということは確かである。
社名の文字を古例に従わず「飯役」とするわけは、四月の宮の大祭に、この杜が供膳のことに関係を持ったからと伝えている。
宮津市教育委員会
宮津市文化財保護審議会 |
国府にかかわる神社として「印鑰社」と呼ばれる神社の存在が知られている。印鑰とは印と鍵を指し、国司の国務執行にとってもっとも重要な国印と府庫の鍵を意味する。印鑰社とはそれを祀る神社であり、印鑰・印役・印薬などの文字があてられている場合もある。図40のように国分寺跡と籠神社の中ほどにある飯役社がそれに相当すると考えられている。印鑰が祀りの対象となるのは、一一世紀末から一三世紀初めにかけての時期に、印鑰の扱いに大きな変化が生じたことにかかわると考えられており(木下良、前掲書)、印鑰社の成立もそれ以前にはさかのぼり得ない。
(『宮津市史』) |
国府以前はここには吹飯社であり、さらに近くに奈具社(根子宮)もあったという。このあたりの阿蘇海を浮景の浦と呼んだ。国道脇に忘れられたように残されているが、この周辺の古代史にかかわる超重要神社である。
舞鶴で言う、福井とか九景浦と同じ地名と思われる。
日蓮宗栄昌山妙立寺。
国重文□(髟の下に休)漆厨子、
妙立寺は、この地にあった真言宗与内寺が身延山より下った日養上人によって日蓮宗となったものと伝える。日養は寛正元年ごろ但馬で没したという。
境内の案内板
栄高山 妙立寺縁起
當山の創立の最初は延暦元年の頃泰澄法印弘法の為に當国に下降し大同三年(八〇八年)弘法大師が唐より帰国し天橋の道場を法華堂と称し(天橋山萬福寺)建立された。
宝徳元年(一四四九年)四月八日実教院日養上人が甲州身延山より當地に布教され改宗して栄昌山妙隆寺と号し丹後における日蓮宗最初の道場となった。後寛永十年の項本山替えあり身延山久遠寺から京都の妙顕寺の末寺となり寺名も「隆」を改め橋立の「立」を取り妙立寺と称するようになった。
現在の本堂は天保二年(一八三一年)の建立である。
寺宝
御祖師像(木造) 中正院日護上人作(準宗宝)
山陰最大鬼子母神像 如水作(一八四七年造立)
見萬福寺の木造?漆厨子
旧国宝国指定重要文化財
南北朝時代永徳三阜(一三八三年)以前の作丹後の当時の歴史を知るうえで重要な墨書あり厨子自体も工芸的・美術的にもその頃の粋を尽くしたものとして有名 |
『丹後の宮津』は、
妙立寺の厨子(重文)
さきの「お七寺」をでて西へさらに四○○メートル、人家のとだえたところで、成相寺山の山すそにかなりととのった一寺、これが日蓮宗の栄昌山妙立寺である。さっそく案内をこうて本堂にあがると、向って須弥壇の左に、とうていこの寺には似あわぬ立派な「厨子」(重文)が安置されている。そこでこの「厨子」がなにゆえここにあるかを調べてみると、やはりさすがわ丹後の府中であることをふかく感じさせられるのである。というのは、もとこの妙立寺の境内をふくむこの辺一帯は、真言宗万福寺の故地であり、この万福寺は空海(弘法大師)唐の留学から帰って三年目の大同三年(八○八)、空海がはじめて開山建立した寺であること、そして万福寺は細川忠興の真言倒しによって破壊されたが、その寺内にあったこの「厨子」は、同じ寺祉に開山された妙立寺に伝えられたもので、おそらく鎌倉期の名工によって作られたものであろう。はたして去る大正十五年四月、旧国宝に指定をうけた。これを見るものの誰でもがその立派さをおどろき、かっての万福寺時代をかぎりなく追想させずにはおかない。 |
浄土宗鉾立山大乗寺。
大乗寺は貞観5年利生上人の開基、寛印供奉重修上いう。近世には時宗との関係をもったこともあった。
付近は南北朝期から時宗天橋立道場となる万福寺の比定地とされている。
籠神社大聖院供僧智海作の木彫不動明王坐像がある。
大乗寺はお七寺ともよばれ小姓吉三郎の木造と称するものや、吉三郎寄進と伝える二十五菩薩の内陣荘厳が残る。
有名なわりには何ともみすぼらしく(失礼)、つい行き過ぎてしまう。えっ、やはりあれでないのか、と引き返してくるのだが、さて、『与謝郡誌』は、
鉾立山大乗寺
府中村字中野にあり。本尊阿禰陀如来、寺記によれば清和天皇貞観五年利生上人の草創に係り、後百餘年を経て寛弘年中寛印供奉伽藍を重修す。茲に於て利生上人を開山に寛印供奉を中興となす。蓋し寛印供奉丹後に来るに際し途に一婦人の艶色に迷ひ途に戒を破り其婦を携へて與謝郡波路村に来り住す、後大に其非を悔ひ遁れて竹野郡の等楽寺に隠れ出でゝ當寺を再建して住すといふ、固より一伝説に過ぎず。丹後田数帳に三町五反鉾立道場あり享保與謝海名勝略記に足利時代籠神社の祭禮に當山に山鉾を立て神社に練込みしよしあり蓋し同社と密接の関係あるべし。
附記 小姓吉三郎の木像、江戸時代芝居浄瑠璃にて有名なる八百屋お七の対手たる吉三郎がお七火刑の後その菩提を弔ふ爲め回国して諸国名藍梵刹を巡り當寺に入りて薙髪し名を西運と改め念佛修行の後江戸に帰れりといふ。 |
『丹後の宮津』は、
お七寺−−鉾立山大乗寺
傘松ケーブルの一の宮駅を出た足で、西に向って行くこと五○○メートル、ちょっと入り込んではいるが、その辺の人に聞けばすぐわかるこの「お七寺」、もとより俗称であってほんとうは「鉾立山大乗寺」という念仏宗の寺のことである。見ればまことにみすぼらしく、現に住職もおらず、檀家もないので荒れはててはいるが、そこで誰かに案内をこうて本堂にあがるとまず目につくのは普通の寺には見られぬ立派な須弥壇である。中央の奥ふかく阿弥陀如来をかこんで、二十五菩薩来迎の濃密なすかし彫刻をもって荘厳されている。あまり古くはなく、多分江戸中期頃の作ではあろうが、とりあえず丹後地方では他に見られぬ須弥壇である。そこでこの寺のはじまりをみると、平安期の貞観五年(八六三)利生上人の草創とあるから、この地方では古い方である。現に藤原期の作とおぼしき金銅仏、その他この荒れ寺にはふさわしからぬ記録書画類も多少は保存されて、かっての盛大であったことをわずかに物語っている。でもこれらは問題の「お七寺」にはほとんど関係がなく、なぜ「お七寺」というかは他に理由がある。
さてこの本堂須弥壇の向って左わきに、一体の美男僧形の椅坐の像がある。伝えに「小姓吉三郎木像」だといわれているから、なるほどとうなづかされる。でも、あの江戸振袖火事の「八百屋お七」の相手が、なぜここ丹後の「天橋立」あたりに関係があるのか、さっぱりわけがわからない。そこでこの寺の記録によると、「江戸の人吉三郎といふもの成相寺にまゐり、当寺の霊場を聞き伝へよって来る。始め吉三郎江戸にありてお七というものと契を結ぶ。故あってお七火罪となる。よって其菩提の為に回国し勝地名藍をめぐるといふ。遂に剃髪して名を西運と改め念仏修行者となる。後に江戸に帰り日々托鉢して許多の喜捨主となりぬ。」とあり、そしてこの寺へも莫大な寄附を行って、実に寺運再興の人であることが明かである。すなわち吉三郎の位牌をみると裏面に「一、本堂再建、一、廿五菩薩、一、田地十石、一、銀三貫九百五十匁.一、仏具品々、一、金燈籠、一、常灯明料」と刻み、なお記録によるとその常灯明の火種は自ら信州善光寺よりうけてきたことも明かであるから、吉三郎がここ大乗寺に尽した力はおどろくべきものであり、それがことごとく恋人お七の菩提のためであったと知るとき、この人のお七に対する熱愛のほどがうかがわれて、おぼえず襟を正させるものがある。吉三郎は元文五年十月四日(一七四○)、江戸において死し、「生蓮社万誉念阿西運大徳」と祀られているが、前記本堂須弥壇の廿五菩薩はもとより、この寺をなぜ「お七寺」というかは、これでようやく納得がいき、荒れはてるこの寺をひとしお借むものが少なくないのもなるほどと思われる。 |
《交通》
国道178号線
《産業》
中野の主な歴史記録
『丹哥府志』
◎中野村 (小松村の次)
【右大将社】
右大将社は丹後侍従の建る所なり、蓋其父重盛を祀るといふ。
【栄昌山妙立寺】(日蓮宗)
天橋記云。栄昌山妙立寺は大同三年弘法大師の開基なり、当時寓福寺といふ。所謂橋立の道場といふ是なり。今其隣寺に萬福寺の額あり、額の裏に貞和二年七月十二日遊行第七他阿書とあり。抑大同年中より五百有餘年共間真言の寺なり。貞和年中より二百餘年遊行派となる。寛永年中日受といふ僧伽藍を重修してより日蓮宗となり、此時號を改め栄昌山妙立寺といふ。
【鉾立山大乗寺】(浄土宗)
寺記云。鉾立山阿禰陀院大乗寺は清和帝貞観五年利生上人の草創なり、其後一百餘年を経て寛弘年中寛印供奉伽藍を重修す、よって利生上人を開山と称し寛印供奉を中興開山と称す。元亨釈書に寛印供奉の伝あり、其傳に寛印供奉の丹後に来るを載す。又舜昌法印述懐抄云。寛仁年中寛印供奉執行恵心僧都来迎会儀式或於国府天橋立云。宮津府志云。土人の説に寛印供奉丹後に来るはじめ山城の国桂の里に於て婦人の丹後に帰るに逢ふ、寛印供奉共艶色に迷ひ遂に戒を破り其婦人を携へ與佐郡波路村に来り住す、寛印供奉後に其非を悔ひ偽て病と称し穀を絶す十余日、一日婦人に告て曰、予の病殆ど危し今服せんと欲するものは唯枳?(けんぼなし)のみ、其枳?といふもの黒崎山といふ處にありときく、よく吾爲にとり来れといふ。婦人喜んで黒崎山に赴く、寛印供奉其不在に乗じて懺悔を語り材の人に寛印供奉既に死したりと偽はらしめて、?魚を焼き火葬の躰をなす。覚印供奉は是より遁れて竹野郡等楽寺といふ寺に隠れ居る、後に大乗寺に来て伽藍を再建す。かの婦人は黒崎より帰りて寛印供奉の既に死したるを怨み遂に與佐の海に溺れて死す。一説に其婦人は與輿の海の悪龍なり其龍婦人に化して寛印供奉の障碍をなせりといふ。始め波路村にありし頃女子を生む、其女子成長の後巫女となる、是梓神子の祖なりといふ、子孫続て巫女なりしが近世に至て其家亡ぶ、却而但馬国に余裔残れりとす、今波路村の辺に神子屋敷、神子川などいふ處あり、蓋其名の残るなりといふ。元より此説妄誕なりといへども国俗の傳ふ處には拠なきにもあらず。よって記す。
【小姓吉三郎木像】(大乗寺)
大乗寺の記録に云。江戸の人吉三郎といふもの成相寺にまゐり、当寺の霊湯を聞き伝へよって来る。始め吉三郎江戸にありてお七といふものと契を結ぶ、故あってお七大罪となる、よって其菩提の爲に回国して勝地名藍をめぐるといふ、遂に剃髪して名を西運と改め念佛修行者となる。後に江戸に帰り日夜托鉢して許多の喜捨主となりね。其位牌の正面に生蓮社方誉念阿西運大徳、其右の肩に常念佛、左の肩に大旦那、右の下に元文庚申歳、左の下に十月四日、其裏面に寄附の次第を録す一、本堂再建一、廿五菩薩一、田地十石一、銀三貫九百五十匁一、佛具品々一、金燈籠一、常燈明料其火は自身善光寺より博へ来るといふ、此を以て観る時は吉三郎の處々に寄附する挙て数ふべからかと言ふ。抑諺に一妄想百菩提といふは蓋此人の如きもの々爲にいふなるべし。
【附録】(若宮社、角明神森、立荒神、八丈荒神、祭光寺荒神、愛宕社、西光寺荒神)
【世屋山成相寺】(真言宗、寺領廿三石、塔頭五院末寺四ケ寺、西国第廿八番)…略… |
『宮津市史』
中野遺跡
府中一帯では、国府に直接関連するとみられる事象のほとんどの起源が平安時代末をさかのぼるものではなかった。したがって、府中と呼ばれることが多かったこの時期以降の国府の所在は確認されたとしてもよいが、必ずしもそれ以前の国府の存在を示すものではない。しかし、中野遺跡で検出された遺物・遺構は奈良時代にさかのぼるものであり、注目に値する。
中野遺跡は旧府中村中野の大乗寺付近において図41のような調査で確認された(「中野遺跡第一次〜第四次発掘調査概要」『宮津市文化財調査報告』二・三・五・七)。礎石建物・掘立柱建物。井戸・列石などの遺構が検出されたほか、瓦・須恵器・土師器・黒色土器・緑釉陶器・灰釉陶器・輸入陶磁器などが出土した。瓦には平城宮系の軒九瓦と軒平瓦のセットが見られるほか、かなりの量の奈良時代の瓦片が出土するので、奈良時代に瓦葺きの建物が存在したことは推定し得る。
遺構の性格は不明であるが、墨書土器の中に「西寺」と記したものがあり、丹後国分尼寺に比定する考えもある。しかし、寺院跡として確認されたわけではなく、少なくとも瓦葺建物が存在し、平城宮系の瓦が含まれていることからすれば、官衙であった可能性は高い。とすれば、国府の施設群の一部であった可能性がある。
中野遺跡の一帯は小字廻り垣・教光神・クゴンドンなどであり、他の国の国府所在地に見られるような官衙・施設を示す小字地名を検出することはできない。図42は、国分寺跡付近から籠神社にかけての一帯の小字地名を示したものであるが、やはり国府の施設に直接かかわるとみられる小字地名は検出されない。この範囲で目につくのは、国分寺跡の前面付近から東北東へ進み、籠神社に至る道であり、この道は古くからの主要道であったことを示すように、小字地名の境界ないし軸となっていることである。国分付近では、この道を「縄手」と称していたようであり、平安京近郊の久我畷や大縄手・小縄手といった中世史料に見られる道路名を連想させる。
中野遺跡はこの道路の山麓側に立地していることにも留意しておきたい。山麓には小規模な扇状地が形成されており、中野遺跡はその上に立地している。図41に示されているように、標高は約一○〜二○メートル程度の部分である。 |
中野の小字名
中野
屋倉谷 ポコ 六反田西切 六反田中 六反田上 六反田 六反田下 六反田飛地 六反田角 石塚 西山 西河原 土石 大口谷 大橋 西角田 青井田 細田 西三谷 鳥ケ谷 クボタ 大坪 西ノ杉池 西杉池 西深田 稲留 縄手正面口 片山奥 片山 天神 稲ドメ 安国寺 金井津 飯役後 飯役 飯役前 薮ノ後 蓮池 ヨナイジ 奥ノ谷 寺大門 ジンヤ 四町田 飯役浜 若宮 角田 角田ノ上 陣屋 法尼堂 陣屋ノ上 梶原 円花谷 百町 廻り垣 須戸 蓬原 梶原口 梶原口下車 草之地 草之地東立 草之地西立 柳 柳浜 下草之地 松之浜 迫ノ本 老ノ本 ヨモギ原 屋敷田 尾大明神 煤毛 城坂 サゝ木谷 妙源寺 弁才天 円浄院 金安 柚木東 嶋ノ堂 竹本 寺井坊 大戸 片岡 サザイブシ 池ノ尻 池ノ尻下切 東六反田 五反田 池ノ上 浜田 丁田 堀分ノ上 横田 滝ケ鼻 谷口 三反田 スミ田 打杭 下坪 深田 深田角町 深田トヨ口 東深田 深田東角 沖深田 ヘラ町 大袖下 ツカワラ上 ツカワラ下切 妙見 山森 生家ケ谷 新ガイ 萩原 茶ノ木 高石 大橋 西之谷 片山下切 大池ノ上 小松ノ上 法蓮寺 千年堂 坂之下 西立畑ケ 麻町 ダギ所 石ノ段 二日市 飯役廻り角 飯役立 家ノ西 立畑ケ下 越シ前ノ下 越前 奥ノ谷口 大門東切 シンヤノ上 老之本 ユノミガ堂 湯呑堂 教光神 大道筋 クゴレドシ 池ノ前 荒神前 荒神西 荒神 細畠ケ 本坂 板橋 イヤ子 下イヤ子 薮畠ケ 元屋敷 妙源寺東 サン敷角 サン敷 慈光寺山 行者谷河原 行者口 焼燈籠 行者立 柚木段 西光寺 極楽谷口 宮ノ上 宮ノ脇 教堂 大正院 須戸口角 山添 九条 真名井角力場下 阿弥陀堂 伝左ヱ門下 橋詰 荒神垣西 荒神垣 中江 神子屋敷 小川立 ヨリス 真戸場 東三谷 三谷口 東三谷口 細田堤淵 細田道ノ上 タモノ木 田ロ ツカワラ 供養谷 生家ケ谷 金持 ケシ川 滝の水 見明谷 茶円林 カゴ畑 灰谷 ハイ谷 笛ケ尾尻 茶釜石 不動岩 ハイノ谷 大ハゲ 出合 持谷 惣持谷 中尾 出合奥 金ケナル 出合東切 出合谷 奥ノ谷口 打越し 百町上 サゝギ谷 薮下 西之坊谷 モロカ 真名井角力場 東三谷奥切 西奥ノ谷 円華谷 東奥ノ谷 奥ノ谷 行者ノ谷 極楽谷 西ノ坊 本ケ谷下切 見明谷川原 茶釜谷 坂の下 屋敷ノ上 真名井 大西 大石谷 小川尻 金津井 西町田 草ノ地 飯役浜 柚ノ木 柚ノ木東
関連項目
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