昭和20年の8月24日午後5時0X分。
22日の夜10時に大湊を出航した浮島丸(総トン数 4.730t。全長114.79m。航海速度14ノット・全速17.95ノット)は、上の写真のこの位置付近にいた。
浮島丸には255名の海軍将兵と3.735名の朝鮮人が乗り組んでいた。3.735名は政府発表の操作されている可能性が限りなく高いウソの数字のようで、本当は4.000名とも6.000名とも8.000数百名とも言われるが正確な記録はない。
浮島丸は貨客船であったころは860名が定員だそうだが軽くオーバーして、その10倍だったかも知れない、
ともかく浮島丸は船底から甲板までギッシリと満載の状態であった。
車だったら普通車一台に50〜25人ばかりが乗っていた勘定になる。それだけも乗れるのかい、といえるほどに乗ってここまでノロノロとやってきた。
〈
浮島丸はもともと客船であるが、船内の客室は士官と兵隊たちの居住区で占められ、朝鮮人労務者たちは、弾薬庫と機関室にはさまれた中甲板と船倉に詰め込まれていた。船底には、船のバランスを保つ必要から大量の砂利が積まれていたが、その上に木製のすのこのようなものを置き、そこにも大勢の朝鮮人労務者が詰め込まれた。このようにして乗せられた朝鮮人乗客の総数を、大湊海軍警備府では三、七三五名と発表しているが、長谷川是元二等兵曹は、
「私は六、○○○人とか八、○○○人とか聞いたのですがねえ。三、七三五人ですか。そうだったかなぁ−」
と疑問を投げかける。そして、斎藤恒次元上等兵曹はさらに具体的に、
「浮島丸に乗った朝鮮人は六、○○○近くいたんじゃあないですか。浮島丸が青函連絡船の代替として運行した時、船底には乗客を入れないで四、○○○名乗せたんですから。大湊から乗せた朝鮮人は船底までギッシリ詰め込みましたからね。青函連絡船の代替運航の時よりずいぶん多いことになりますから、四、○○○名ではすまないはずですよ」
と話している。
いずれにしろ、船底までぎっしりと詰め込まれた朝鮮人乗客は、帰国できるという興奮と、不吉な噂による不安感という、悲喜こもごもの感情に揺れ動きながら、釜山到着の日をじっと待っていた。(*1)
〉
上右の写真は舞鶴市千歳の「親海公園・海釣り公園」から湾口を見ている。右が石炭火電、その奥が博奕岬。左手は金ヶ崎。奥の山々は丹後半島である。
写真に写っている船は自衛隊の艦籍番号「124」の「みねゆき」(2.950t)である。
60数年昔の旧海軍特務艦・浮島丸も、現在の自衛隊護衛艦も、ほぼ同じ航路上を進むと思われる。
↑元々は沖縄航路に就航した大阪商船の貨客船。昭和16年徴用となり、南方監視船、千島列島への兵員輸送、青函連絡船などに従事していた。綺麗な船だが、徴用以前の姿か。
舞鶴湾口は狭いところでは幅は1キロしかない。
60数年前のこの日はことのほか入港する艦船が多かったと言われている。
浮島丸の先には2隻の海防艦が入港しようとしていた。その航跡を踏み従うようにして浮島丸も入港してきたという。
浮島丸乗組員は舞鶴は初めてであり、誰も湾内の地理を知らなかった、また海図もなかった。敗戦時にすべて焼却したあとであり、どこに機雷があるかなど書き込まれた機密海図はなかった。われわれが持っているような普通の地図しかなく、危険は何もわからない状態であった。従って先行した海防艦の航跡を道先案内にして進んだという。
(海防艦とは1000tに満たないような小型の沿岸警備用の海軍艦船である。)
狭い所であるし混み合う場所なので船のスピードは、きわめてゆっくりしたもの。
写真の「みねゆき」は時速10キロから15キロくらいと計算できる。
博奕岬から入って、戸島を正面に見ながら進み、三本松鼻と横波鼻を越えた所で左へ進路を切り、東舞鶴港へ進む。
浮島丸乗組員の証言に、
〈
「舞鶴に入港の時は、舞鶴の港湾を管理している舞鶴防備隊と手旗で連絡をとったところ、掃海ずみで、先に海防艦が二隻入港しているという連絡を受けての入港です。
私が操舵をしていたんではなく、他の水兵がやっていて、入港時の艦のスピードは非常に遅く、エンジンもほとんど切って、それまでの惰性で運航している状態でした。艦橋からの見張りもいましたし、機雷が浮いていたら発見していたと思いますよ。それまでにも津軽海峡などで、浮遊機雷を発見し、機銃掃射で爆発させたこともたびたびありましたから。…」(*1)
〉
その手旗で連絡をとったという「防備隊」はどこにあるのだろう。
本庁は長浜五森。だから現在の保安学校の地にあった。
しかしここでは手旗で連絡を取るのには遅い。もっと手前になければ、連絡がとれたのは爆沈直前ということになる。
記録によれば瀬崎に「舞鶴防備隊送信所」があるから、そこであろうか。現在も自衛隊が使っているいるようで、立入禁止となっている。今も何か置かれているようである。
そうだとすれば、一番上の写真の位置で浮島丸は「掃海済み」の連絡を受けたことになる。
戸島を左手に見ながら、それを過ぎればいよいよ東舞鶴湾へ入る。
写真でいえば、右端の島陰が戸島、左手に白く見える建物は保安学校(当時の舞鶴防備隊)である。千歳沖からここまで「みねゆき」は10分で来ている。
えっ!こんなに近くに寄ってくるの。と思うくらい、ここでは岸に近づく。大浦半島に近づく。下佐波賀の村より少し西側の地点である。
船は車と違って右側通行だから、対向する艦船があれば、写真の手前側を通行しなければならないが、これは無理だな。と思われるほどに近づく。艦首には人が鈴なりになって、懸命に航路の安全確保に努めている。
「みねゆき」は日本では護衛艦とか自衛艦とか呼ばれているが、英文ではdestroyerと書かれている、世界標準では立派な駆逐艦である。
三菱造船製で昭和57年進水。全長は130メートルある。4万5千馬力のガスタービンエンジンを積み、速力は30ノットも出る。私の簡単な資料ではどこ製とも書かれていないが、ロールスロイス製かも知れない。マストのレーダー系もすべてアメリカ製か。乗務員200名。浮島丸は全長114メートルであり、横から見ればこの船よりも少し短い。
「みねゆき」の先頭にあるのは76ミリ単装速射砲。このごろはローテクなのかこんな鉄砲はあまり積んでないようで、これ一門のみ。しかしこれもレーダー誘導だろうから、真っ暗闇のなか全速でぶっ飛ばす大揺れ艦から発射しても撃てば不思議にも全弾が命中する百発百中必殺の砲であろう。その後にあるのが8連装のアスロックのランチャーである。対潜用の短魚雷をロケットに付けてここから発射する。対潜哨戒ヘリが後の甲板に積まれているが、それが敵潜水艦を発見すると、ここからマッハ1のスピードで飛んでいく。射程は4.000〜12.000ヤードという。艦橋の上に白くファランクスと呼ばれる超高性能の20ミリ機関砲が見える。白いのはレーダーで、その下に毎分3.000発も発射できるバルカン砲が付いている。イージスシステムを突破して近づいた敵対艦ミサイルは、これで撃ち落とそうというものである。
煙突の下にあるのは4連装ハープーンランチャー。ハープーンは対艦ミサイルで、アクティブホーミング装置付き。射程は200キロもある。
その下に3連装短魚雷発射管が見える。短魚雷というが軽魚雷としたほうがいいようなもので、対潜用の魚雷をこう呼ぶようである。アクティブホーミング付き。ホーミング付きは一発ずつしか発射できないそうである。なぜなら同時に発射すれは味方同士で攻撃し合うから。
艦尾のヘリ甲板のさらに後にシースパローの8連装のランチャーがある。これは対空ミサイル。
うるさく書くのは、これは誰が見ても憲法に触れる「戦力」だと言いたかったからである。この船で魚釣りをするとは誰も考えるものはない。現在に至るも我々の国や政府はこんな国だということである。彼らののたまう話はあまり信用のできるようなものではないのである。大本営発表を鵜呑みにする者はいないだろうが、それと似たような発表がありうる。
「日本海のまもり」とか「日本のまもり」とか宣伝しているが、装備を見るとそんなものというよりは米第七艦隊の脇のまもり、アメリカハイテク兵器産業のまもり、そのおこぼれにあずかろうとするクソ官僚やクソ政治屋、クソ企業や商社などなどのまもりの感じで、どう見ても日本国憲法のまもりではない。
浮島丸はこの地点で爆発が起きた。爆発後400メートルほど進み、烏島285度1080米の地点に沈没した(その時刻は17:20とも17:15とも)。
逆算すれば最も岸に近づいた場所で爆発が起こったのであった。
この事故で朝鮮人引揚者524名と海軍軍人25名が死亡した(政府発表の数字)。なぜか日本の新聞には一行も報じられていないしラジオも伝えなかった。沈没していた所は戸島と蛇島のちょうど真ん中あたりになる。水深18メートルである。
これが浮島丸事件と呼ばれているものである。
浮島丸事件には
数々の疑惑がある
一般に舞鶴人は触雷説である。大湊での事情は知らないからである。舞鶴湾で爆発したのは機雷に決まっていると思い込んでいる。不運にして機雷に触れたとしても当時の事情なら不思議はなく、自爆などはまったく思いもよらない、降って湧いたようなおかしな話に聞こえる。
一般論として前史なしで、いきなり事故だけを見ているわけだから、それは無理もない。もし普通の日本海軍艦船がここで爆発したのなら、触雷で問題はないと思われる。それと同じ事故と見れば触雷で何もおかしくはない。浮島丸乗組員ですら、その多くは政府発表の通りに触雷事故と思っていたそうである、そういえば、おかしなことはいっぱいあったのだが…、触雷と言われれば触雷なんだろう。そう考えていたそうである。
しかし浮島丸は少しと言うかかなりというべきか事情がありそうである。何事もゆえあって起こるのである。浮島丸を調べてゆけば、この事件はどうもおかしいぞ、−そんな気持ちが強まるのである。
浮島丸乗組員は誰も釜山へ行きたくなかった
浮島丸乗組員には艦長はじめ誰も行きたくない航海であった。8月18日(たぶん)に青函連絡船の代わり任務を終えて、函館から大湊へ帰ってきた浮島丸には、皆が予想した招集解除、復員という命令でなく、釜山へ行けという命令が来ていた。
釜山だと、そこは機雷だらけではないか、海図もないしそんな所へ行けるわけがないだろう。仮に運良く行けたとしても、帰ってこれるという保障がない。そこはソ連軍が入っていて、船は没収、我々は捕虜になるかも知れない。誰が朝鮮人をいっぱい連れてきたんだ、ワシは知らんぞ。そいつらが送ればいいでないか。商船で送れ、それが安全だ。何でワシらがせにゃならん。
戦時中なら、そんな事は言えない、抗命で銃殺であるが、もう戦争はすでに終わっていたのである。命令指揮系統は機能十分でなく、軍隊秩序は半分くらい崩れ混乱あるいは反乱状態であったという。
いろいろなグループが強固ないろいろな反対意見を言い、いろいろと各個バラバラにバラバラの計画や対策、中には謀議謀略もあったかも知れないが、そうした行為を互いに連絡もなく取り始めていた。機械を壊そうというのはどんなグループを考えていた。しかしそれを止める力はもうどこにもなかったのである。こりゃヤバイぞと肌で感じたのか脱走した乗組員もあった。
釜山へ行けは、はじめからおかしな命令であったが、それは次の機会に書いてみようと思う。
さて、大湊警備府は何としても命令を実行させようとするが、浮島丸はとても行けるように状態ではなかったのである。ある上等兵長の証言に、
〈
…どこからともなく噂になって浮島丸は釜山に行くんだという。真偽がはっきりしない。それで、艦長に聞こうということになったんだ。私は艦長と同じ千葉県の出身ということで親近感があったから聞きに行ったら、釜山行きの命令が出ているというんだ。
そんな馬鹿な、と兵隊が騒ぎ出した。戦争終っているのに何で朝鮮まで行かなならんのか、ソ連が参戦していて朝鮮もソ連軍に占領されとるだろう、そんなところに行ったら俘虜になる、とかいろいろ言うんですよ。理屈はいろいろ言っていましたが、本当のところは戦争で沈められることもなく命びるいしたのに、何でまた出航しなならんのか、早く復員したいという気持ですよ。
その日から、兵隊は出航しないというんで各分隊ごとに会議を開いて皆、強固に反対したんです。敗戦の日から、乗組員を縛っていた強い軍隊秩序は少しずつ崩れてきていましたが、この時には絶対的な命令関係や秩序はもう半分ぐらい崩れとったんですわ。皆、これからどうなるかわからない状態ですし、軍の秩序で痛めつけられた兵隊たちの反軍気運がみなぎっていましたからね。
分隊ごとの討議でも反対者が圧倒的でした。
そんな時、憲兵が乗り込んできて、反乱だ、命令違反だとか脅かしながら、軍法会議に回すとか言って、発言を全部記録したりしているんですよ。
大湊警備府は何としても命令を実行させようとする。乗組員は士官も含めて反対という状況で、艦内は騒然としていました。
私は甲板班長でしたが、部下の若い者の中には私に『班長! 私は脱走します。止めないでください』なんて宣言して、脱走していく者もいました。たしかそんな兵隊が三名いたと思います。戦争中だったら考えられないことです。
え−私ですか。私も出港に反対でしたよ、復員するつもりでいましたから。ただ、私は艦長を信頼していましたので、艦長が行くと言えば行かないかんだろうとは考えていましたが。とにかく艦内は騒然としていました。
乗組員は全員出港反対ですから、大湊警備府でも手を焼いてたんでしょう。たしか八月二一日だったと思いますが、総員集合で集まれというので全員が参加した席上、大湊警備府の参謀が「出航は命令である。最後の御奉公だから朝鮮の釜山まで行け」ということを言っていました。たしか千島から転属してきたので、兵隊から千島参謀と呼ばれている参謀でした。
それでも皆が納得しないので、千島参謀が質問を許すと言ったんです。すると何人かが手を挙げて『終戦になったのに出航することはないのではないか』というようなことを言ったとたん、参謀が軍刀を抜いて『命令違反者は俺がたたき斬ってやる、前に出ろ』とわめくので、皆黙ってしまって……。
そんなことで、結局その次の夜一○時頃、浮島丸は大湊港を出港しました。…(*1)
機関長・野沢忠雄元少佐は、
「一八日か一九日か記憶にないが、大湊の警備府の参謀から釜山だか鎮海だが、朝鮮に朝鮮人労務者を運んで行け、と命令が出た時、戦争は終ったのに朝鮮なんかに行けるか、というのが正直な気持でしたよ。
それは私だけでなく、乗組員のほとんどがそう思っていたんじゃあないかな。
戦争が終る前はおとなしかった兵隊が、酒を飲んで『朝鮮に行くもんか』とわめいていましたからね。
戦争中の軍律だと考えられないことですが、艦内の軍律もだいぶ秩序を失っていたのと、それに今、朝鮮に行ったら帰ってこれないというせっぱ詰まった気持だったんじゃないかな」
と話している。兵隊の反対が強かっただけでなく、士官にも反対を表明する者は少なくなかった。そして、当の倭島定雄元大尉も反対していたと、その時の行動を具体的に語っている。
「士官たちも朝鮮への航海は反対しておりましたからね。航海長とは話し合って、エンジンや舵などの船の重要な部分を壊し、航海できない状態にしようと相談しました。
ただ大湊入港中にエンジンなどを故障させても、警備府から修理に来て、すぐ故障個所はわかりますから。それに船が航海できないほどの故障ということになると、それを故意に壊したということが発見できないようにするにはそんなに簡単でないですからね。いずれにしろ、出港してからというようなことを、航海長と話したことは記憶しているんですが。…」(*1)
〉
倭島氏は浮島丸副長・航海士であった。
乗組員の動き士官・下士官・兵の各層・いろいろなグループの複雑な全体像を知ることはできない。どのグループが建前はともかくとして、何を裏では考え、どんな計画を練っていたかを知る者はない。
知っている人があるかも知れないが、さあー記憶にないなー、本当は当然記憶にはあるが、おおやけに言うことはできないなー。ということであろう。全体の実情をかなり掴んでいたと思われる、上の方はだいたいとぼけた証言をしているように感じられる。
しかし上がいくらとぼけても下の方から重要な聞き逃せない証言が出てくる。悪事千里を走る、の理あり。
なぜ、浮島丸は舞鶴に入港したのか。
艦長はじめ浮島丸側は命令は実行できない、行けないと何度も何度も断っている。それに対してこれは天皇陛下の命令だ、行かないなら軍法会議だ、文句がある者は前に出ろ、オレの軍刀でたたき切ってやる、と大湊機関府参謀がすごむものだから、泣く子と地頭には勝てぬ、仕方なくいやいや出航したのだが、ー
クソッタレどもが、お前らがそうならこちにも考えがあるぞ、ということなのか、初めから本気で大湊から釜山へ向かう気があれば、直線コースを通ればよく、それならばずっと沖合を通ると思われる。その方が早いし、たぶん安全であったと思われる。
しかし沖合には出ずに、左手に常に日本の山々を視界に入れながら、南下している。それは釜山行きの航路ではなかった。
〈
…機関長・野沢忠雄元少佐もその一人だ。
「出港命令が出て、いよいよ出港だということになった時、たしか士官室で艦長、航海長、私ら古参の士官二〜三人、それから下士官の代表格数人が協議し、出港はするが朝鮮には行かない、どこかの日本の港に入港するということを申し合わせたんですよ。
そんな了解のもとに出港したのですが、私はどこの港に入港するのかは聞かされていなかった。艦長たちはどこか決めていたのかもしれないが、作戦に関することが機関長には知らせてくれないので、そのうちどこかに入港するだろうぐらいに思っていた」
と、はっきり裏日本のどこかの港に入港する予定であったと言う。
これは野沢忠雄元少佐の証言だけではない。
操舵長・斎藤恒次元上等兵曹もはっきりと断言した。
大湊から釜山に向けての出航命令を受けた後、どのような航路で釜山に向かおうとしていたのかという質問に、
「私たちは、初めから釜山に行くつもりなんかなかったのですよ」
と、いとも簡単に言ってのけた。
「え? そんなのは命令違反でしょう」
「ええ」
「艦長も承知なのですか」
「当然です。艦長の命令でそのように操船したのですから」
「本当ですか……」
「間違いないですよ」
艦長の命令で、釜山には行かないように操船したのだという。
「海図もなしに出航はできないと、艦長が何度も参謀部に申し入れていたと聞いていますが、それが出港を強要する命令を受けたものですから、出港することにはなったものの、大湊を出る時からほぼ舞鶴に入港する予定でした。それは艦橋にいた者は承知していたと思います。
大湊を出てから、一般海図しかありませんから、沿岸を視界にしながら南下していったのです。だから舞鶴入港は予定の行動です」
と、はっきり言い切る。
参謀部から出た命令は釜山行きだったが、艦橋では出航の時から舞鶴行きだったという。そして、
「船の航路なんてもんは船が動き出してから決めるものではなく、目的港が決められれば定められた航路を航行していくんですよ。
釜山に行くとなれば、その航路に従って艦を動かしますし、その航路はおのずと決まってくる。浮島丸が大湊を出た時から釜山行きなら、その航路をとって航海するのですが、当時の浮島丸の航路は釜山行きの航路ではなく、沿岸ぞいに南下する航路で、それは裏日本のどこかの港に入る航路です。
そんな航路をとりながら釜山に行くつもりだったと言っても、誰が信じますかね。燃料も残り少ないのですから、釜山に行くなら一直線の航路をとります。
私は、艦が大湊を出た時から舞鶴をめざしていたと思っていましたし、実際にその航路を航海したのですからね。予定変更なんて、そんな航海ではなかったですよ」
と、舞鶴行きは最初からの計画であったと断言するのである。
浮島丸の軍関係者ではない乗客の中にも、浮島丸の入港地を舞鶴だと聞き乗船した人がいる。
前出の、日通が強制連行した朝鮮人を朝鮮に返す引率責任者、日通労務係の高橋嘉一郎氏である。
「労務者を引率する役割を引き受けた時、どこまでかと責任者に聞いたら、舞鶴だと。向こうに行けばちゃんと出迎えに来ていると。ただそれだけです」(NHK『爆沈』より)と述べている。舞鶴まで、というのは、一部の人には事前に知らされていたという。
もっとも、船の目的地は舞鶴ではなかったと、主張する士官もいる。航海士・田寺伸彦元中尉である。
「田寺さんは浮島丸が釜山港に行くものだと思っておられたのですか」と質問した私の疑問に、「そうですよ」との答えが返ってきた。
「私はずーっと、艦が朝鮮の鎮海湾に入るものだと思っていました」
「すると、艦が日本沿岸を航海していることに不審は抱かなかったのですか」
「いや、不審はなかったですね。朝鮮に行くのにこのような航海方法もあるのだぐらいにしか思いませんでした。
ただ、艦の位置を私はずっと正確に把握していましたが、大湊を出航した後、艦長からか誰からか知りませんが、連合軍から大型艦船の二四日以降の航行禁止処置が出たということは聞きました。
だから舞鶴に入港した時も、そのために入港するのだと理解したので、何の不審もありませんでした」
と言う。
日本海の沿岸を視界の左手に入れながらの航海が、朝鮮に向けての航海として何の不審もない点に、「おかしいとは思われなかったのですか」と何度も念を押したが、「不審はおぼえなかった」との返事であった。
士官たち−若い士官たちは正直に釜山港に向けての航海だと信じていたが、兵隊たちのほとんども、また同様の状態だった。
長谷川是元二等兵曹は、
「浮島丸が出航した時、私たち兵隊は浮島丸が釜山に向かっていると思っていました。だから出航する前、もう一度、大湊に帰って来るつもりで、衣服や毛布なんかは全部下宿屋に預けてきましたよ。
しかし、出航してから何だか変だなと思ったんです。艦が沖に出ないで沿岸ぞいに航行しているので、どこかの港に寄っていくのかな、と思ったり、そんなことを兵隊仲間で話したことがあります。兵隊たちは、上部の情報はほとんどというより、全然わからないのです。古参の下士官クラスは実際に艦を運営していますから、少尉・中尉クラスより実力があったので、いろんなことをよく知っていたと思いますが、兵隊たちは情報を一切与えられなかったので、何もわからなかったと思います。
だから、釜山に行くとばかり思っていたのが兵隊だったんじゃあないですか」
と語っている。(*1)
〉
プロが東京から必要もないのに京都へ進みながら、ワシは北海道へ行くつもりだったのだといっても誰も信用しないだろう。
さて、その船内では、
〈
朝鮮人乗客に対する警戒心が薄れると共に、水兵たちの間から下士官に対する日頃の憎しみ、恨みが爆発し、憎まれ者の下士官が集団リンチにあうようになった。
外崎善二郎元二等兵曹は、
「ガブル時に行くから、甲板に出られなかったな。塩けむりあげてくる時にやられたら、全然わからない。だからその、やられる奴がちょっと厩へ出るとか、当直を終って帰ってくるとかの時目がけて、いくら力
持ちでも五人、一○人でワーッとくると……」(NHK「爆沈」より)と語っている。
長谷川是元二等兵曹は、
「憎まれ者の下士官も、この航海中だいぶ兵隊たちから報復されました。私たち大砲要員の先任下士官もひどい目にあっています。
この人は十二年兵という古兵で、将校なんかよりよっぽど力がありましたが、底意地の悪い人で、よく兵隊をいじめていました。
例えば当番の兵が食事を運んで来ますね。すると、その食事を見て、『こんなものが食えるか!』と、バチャンと床にたたきつけてしまうんです。
兵隊はおろおろして、しかたがないから、また烹炊所に行って食事をもらってくるのですが、烹炊所の兵隊が簡単に食事を出してくれません。
そこを殴られたり土下座したりして、やっともう一度作ってくれたのを先任下士官に届けると、『腹をすかして餓死させるつもりか』とボロクソに叱る、というようなやり方で兵隊をいびるんです。だから、この先任下士官はものすごく憎まれていた。
航海中に、兵隊たちが寄ってたかってリンチを加えた時、缶詰で頭を殴られたりして大怪我をして歩けなくなり、下士官室でうんうんうなりながら寝ていました。爆沈した時もそこから出られなくて、そのまま死亡したと思いますよ。死亡者名簿には戦死となっていますがね」
殴られて怪我をするだけではなく、何人かに海に投げ込まれて「行方不明」になった下士官もいるとい
う。
その時の状況について斎藤恒次元上等兵曹と話した。
「大湊を出航してから、艦内の命令・指揮系統は相当乱れていたんじゃあないですか。
私はずーつと艦橋で艦長たちと一緒でしたので、そんなに混乱はなかったのですが、兵隊の居住区では、兵隊に〃気合い〃を入れていびっていた下士官が、相当リンチを受けたようですね……」
「斎藤さん、下士官の中には海に投げ込まれた人もいると聞きましたが」
「……どこで聞きました……」
「ある乗組員に聞いたのですが。
その人は、『陸軍でも憎まれ者の下士官が後ろから鉄砲弾をくらったでしょうがな。海軍では海に投げ込んでしまうんですよ。実際に投げ込まれた者を私は知っています』と言っていましたが……」
「……ええ、一人か二人海に投げ込まれたようです。その人は戦死ということで処理されていますね。行方不明者は戦死扱いにしていますから」
とすると、浮島丸の舞鶴入港時に爆沈によって死亡したとされる乗組員二五名中の一、二名は、それ以前に海に投げ込まれて死亡していたということである。
舞鶴入港時の爆沈で死亡した浮島丸乗組員の死亡者も遺体が、確認され「戦死」と認定されたものではない。
国藤八郎元上等兵曹は、出身地が同じである鈴木武夫上等水兵の未亡人に遺品等の引き渡しをしたが、鈴木上等水兵の遺体は舞鶴では発見できず、遺骨箱には骨や毛のような遺体の一部すら納めることができなかったという。
兵隊たちの憎しみを買って海に投げ込まれた下士官たちの扱いも、この鈴木上等水兵と同じ扱いですまされたのであろう。
下士官に対する憎しみが集団リンチになり、心当たりのある下士官たちも、航海中は戦々恐々とした日々を送っていた。
軍律の乱れは水兵たちの勤務状況にも表われてくる。多くの水兵が昼間から酒を飲んで騒いでいたという。
浮島丸に乗せられた朝鮮人乗客・李英出さんは、
「浮島丸が出航した後、日本兵はどこからか酒を持ち出し、自分たちの部屋などでドンチャン騒ぎをしていた。
そして、酒に酔っぱらった兵隊が海に毛布なんかを投げ込んで騒いでいるのが見えた。そんな兵隊を見ていると、本当に大丈夫なのかなあと恐くなった」
と語っている。
もっとも、若い士官たちはこのような水兵の状態を知らなかった。
田寺伸彦元中尉は、
「浮島丸が大湊を出航した後、艦内で兵隊たちが酒を飲んで騒いでいたとか、古参の下士官にリンチを加えたというのも、私は知りません。あとでちょっとそんな噂を聞いたぐらいですから」
と言い、
「若い士官というのは、なかなか兵隊の居住区などには行けなかった。いや、規律上からも兵隊の居住区には入れないようなところがありましてね。
だから大湊から出港した時も、艦内の秩序が乱れていたということを、私はあまり感じなかったのですが……」
と話している。
しかし、兵、下士官たちは皆、そのようなリンチ事件を知っている。
酒を飲んでいた兵隊たちについて斎藤恒次元上等兵曹は、
「大湊を出航する時から私たち航海科や機関科の兵、下士官は忙しくて、酒を飲めるような状態にはありませんでしたが、大砲や機雷らの兵器関係は、戦争が終っているのですからする仕事もほとんどなかったので、酒を飲んで騒いでいたんじゃあないですか」
と言う。
勤務もなくなった兵隊たちは酒を飲み、その勢いをかって下士官たちにリンチを加えたのであろう。そして浮島丸の戦友会が発足した後も、この時のリンチ事件などがわだかまりとなって、戦友会に出席しない下士官が多いという。(*1)
〉
命令では釜山へ向かったはずの浮島丸は、なぜ舞鶴へ入港したのか。
だいぶにおかしいのである。
本気で義侠心を起こして朝鮮人達を一日も早く故郷へ安全に送り届けようなどと考えた海軍さんは一人もいなかったように記録を読む限りは思われる。我らが誇りとしてよいであろう。みな自分さえよければいいのであった。
19日に浮島丸には出航命令が出されていた。それは大湊警備府の命令であった。そして21日に大海令52号が発令されていて、これは大湊を出航する以前に多くの乗組員たちは知っていた。それは
「
八月二十四日一八○○以降特ニ定ムルモノノ外航行中以外ノ艦船ノ航行ヲ禁止ス」
これは連合国要求第三で船舶についての命令、「
日本国に属し又は日本国の支配下にある一切の種類の陸海軍及民間の船舶にして日本国領海にあるものは、聯合国最高司令官の追て命令する迄之を破損することなく保存すべく又は現に進行中の航海以外に一切移動せざるものとする」に対応したものであった。
こんな命令はまじめに本意の額面通りに読む人は多くはないものであろう。自分の都合の良いように読み替える。
大湊でねばって二十四日がくれば、出航はあり得ない。しかしそれは出来なかった。すったもんだのあげく二十二日夜10:00に出航してしまった。それならばとー、次善の策も考えられた、あるいは何も考えていなかった。
本気で公海上を航海しているなら行かねばならないが、もし24日の午後6時までにどこかの港に入っていれば、それで次の新たな航行はできない。釜山に行かなくてもよい。−かも知れない。
『浮島丸釜山港へ向かわず』の著者・金賛汀氏は大変な努力をされたものと思われるが、防衛庁資料室で次の電文を発見している。
〈
それは八月二二日午後七時に発信された電文である。
電信の発信者は海軍省運輸本部長石川中将。宛先は、浮島丸・長運丸艦長である。電文は
「八月二十四日一八○○以後、左ノ通り処理スベシ
一 現ニ航行中ノモノノ外船舶ノ航行禁止
二 各種爆発物ノ処置
(イ) 航行中ノ場合ハ無害トナシタル上海上投棄
(ロ) 航行中ニ非ザル場合ハ陸上ニ安全ニ格納
(終)」
と打電し、その二○分後に再び本部長名で浮島丸艦長に宛てて
「八月二四・一八○○以降一○○総屯以上の船舶ハ航行ヲ禁止セラル。其ノ時刻迄ニ目的港ニ到着スル如ク努力セヨ。到着見込ミ無キモノハ右日時迄ニ最寄り軍港又ハ港湾ニ入港セヨ (終)」(*1)
〉
釜山へ行けの海軍省運輸本部の命令である。
浮島丸はどれくらいのスピードが出るものなのか、web上の資料など見てみると17ノットとか15ノットとかともある。大湊〜釜山間は一直線で行けば約1.000キロばかり、44時間あるとすれば、12.3ノットばかり出れば時間内に釜山へたどり着ける計算になる。海流の影響もあろうが比較的高速な船と言われていたのだから、忠実に命令通りに努力していたならば時間内にたぶん行けたはずの計算にはなる。
このありたのところは後にいろいろな人がいろいろと書いているが、たいていはいいかげんになっているところでもある。
浮島丸はマッカーサーの命令で舞鶴へ入港したのではない。ぜんぜんない、そんなことは連合国も海軍も誰も命令はしていない。
連合国は「日本国領海にあるもの…」は、と言っているのであって、無制限に全ての船舶の航行を禁止したわけではない。領海は3海里(5.5キロ)であり、それ以上沖の日本領海外にいれば問題はない。
大海令では「特ニ定ムルモノ」「航海中」に当たろうから、仮に多少の時間切れでも、公海上をそのまま釜山へ行っても何も咎められるものではないと思われる。
海軍省命令に忠実に従うなら、浮島丸とすれば舞鶴軍港へ入港することはなかったと思われる。
浮島丸乗組員はたぶん前段は自分たちに都合が悪いので無視して、あるいはさぼって、都合の良い後段の部分だけに従ったのかも知れない。問題が起きれば、命令でしたから、あの混乱のときですから、ちゃんと見る余裕はなかったなー、記憶にないなーとかとぼけておこう。−ということであったかも知れない。
そうなのかも知れないが、乗組員の立場で考えれば、そのあと、舞鶴入港後はどうなるのかがわからない。命令を誤解したこととしてなんとか舞鶴へ入港するのだが、すし詰めの朝鮮人を乗せたままにして、乗組員は復員となるのかどうかはかなり怪しい。そんなことは考えられない話になる。何をまたムチャクチャを言い出すかわかったものではない。現に大湊が終われば、同じ浮島丸で次は小樽から北海道の朝鮮人を送り返そうという計画もあったという。
そのあたりの事情を乗組員の全員が詳しく知っていたわけではない。普通の兵隊なら知るわけもない、知らない者・グループも多くあった。−と思われる。
「ちょっと舞鶴に寄って、すぐまた釜山へ行かなければならないとばかり思ってました。ワシらは早く復員したいのに…」の乗組員も多くあったと推測される。
昭和52年にNHKでは「爆沈」というデキュメンタリー番組を放映した。私はしっかり見てなかったように思うが、その中では、次のように語られていたそうである。
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鈴木健二アナ
「浮島丸の通常の速力は時速十二ノットである。大湊から釜山までの距離は、安全な陸沿いをとって八五○海里。順調に走っても、釜山到着は三日後の八月二十五日夜七時を過ぎる。(*2)
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なぜ陸沿いが安全なのかわからない、米軍機雷なら公海上にはなかろうと思われる、しかしその沿岸航路をとるなら850海里(1600キロ)にもなり、12ノットの通常スピードで走っていては無理なことになる。
舞鶴あたりがちょうどタイムリミットとなる。こちらを取れば命令に違反したとは言えないことになる。命令を忠実に実行しましたともいえる。
いずれにしても浮島丸は舞鶴へ入ってきた。
NHK番組は次のように続いたそうである。
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敗戦後、大湊警備府のディーゼルエソジン用燃料の備蓄は底をついていた。出港にあたって、浮島丸は油の補給をうけていない」
神定雄上等兵曹「津軽海峡で機械をこわしてしまうではないか−。船が動かなくなるんだから……。このことは士官はだれもわからない」
NHK記者「機関部をこわすことは簡単なんですか」
神定雄上等兵曹「……何時間か交代でいつも機械室に入っているからみんなわかっている」
鈴木健二アナ
「当初の計画は、津軽海峡で実行されるはずであった。しかし司令部から余りに近すぎた。計画はとりあえず、大湊警備府の命令の届かない地点に達するまで見合わされた。
士官達は、別の計画をつめていた。日本海に出たあと、てごろな港をみつけて入港し、復員する逃亡計画である。機関長野沢忠雄海軍少佐がその中心であった。
−−(略)−−
−−略−−
機関長野沢忠雄少佐「私らはとにかく、積めという(筆者注 朝鮮人の乗船のこと)から積んだと−。ただし朝鮮へ行くのは嫌だと−捕虜になるから……だから途中でもし文句があるなら艦長以下全部戦争すんでの召集だから、私達は帰るという気持ちがあったんですよ。
私なんか舞鶴に入ったらみんなと別れて帰ろうとトランク等を部屋へ用意してあった……」
NHK記者「そうすると、船艦に積んだ人達は、舞鶴へおろすのか……」
機関長野沢忠雄少佐「うん、そう、ともかく舞鶴に入ったら朝鮮人は、舞鶴の方でなんとかしてもらうと−、兵隊はここでもって戦争すんだから解散しようと−」
−−略−−(*2)
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