丹後の地名
過去を忘れて、戦争へ行こう

浮島丸事件(7)
(浮島丸事件略年表)
(事件調査報告−在日本朝鮮人聯盟青森県本部)


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浮島丸事件関連略年表


年度 月・日 出来事
1937(s12) 3・15 浮島丸進水(大阪商船所属)
1941(s16) 9・5 浮島丸海軍に徴用
1945(s20) 6・30 花岡鉱山事件
8・15 終戦
8・19 大湊警備府が浮島丸に出航命令
8・22 青森県大湊港出港
8・24 京都府舞鶴湾で爆沈
9・16 舞鶴から朝鮮への帰国船第一便「雲仙丸」出航 浮島丸の生存乗船者約900人は特別列車で山口県仙崎港へ、そこから釜山港へ向かった。約2000名以上の残りの乗船者は日本に残ったという
9・18 『釜山日報』で浮島丸事件がはじめて報道された
1950(s25) 3・13 第1次引揚げ(後半分)
1954(s29) 1月 第2次引揚げ(前半分)
4・14 第1回浮島丸殉難者追悼慰霊祭(舞鶴東公会堂) 主催東本願寺浮島丸殉難者追悼慰霊祭実行委員会
1964(s39) 3・5 日朝協会舞鶴支部結成総会 この年から、野田幹夫氏と須永安郎氏が中心となり、追悼事業を取り組む。また、この年の8月24日から、東本願寺(別院)「現在の至徳寺」での法要に参加し、節目の年には追悼集会を開催する。
1965(s40) 6・22 日韓基本条約調印
8・24 浮島丸殉難20周年追悼法要(東公会堂)
1970(s45) 8・24 浮島丸殉雛25周年追悼慰霊祭(舞鶴東労働セツルメント)
1975(s45) 7・28 浮島丸殉難者慰霊碑建立の為の第一回実行委員会
8・24 浮島丸殉難30周年追悼式(舞鶴東労働セツルメント)
1977(s52) 8・13 NHKドキュメンタリー『爆沈』放送
1978(s53) 8・24 「浮島丸殉難追悼の碑」除幕式。 「追悼の碑」は浮島丸殉難者追悼の碑建立実行委員会(会長佐谷靖舞鶴市長)が建立する。
この年から、追悼集会は「浮島丸殉難者追悼実行委員会」が主催する。
1984(s59) 5・15 金賛汀氏『浮島丸釜山港へ向かわず』出版
1989(s64) 8・24 追悼実行委の「浮島丸事件の記録」出版
1992(h4) 8・25 生存者・遺族約50人が、日本政府に謝罪と損害賠償を求める訴訟を京都地裁に起こす(第一次提訴)
1993(平成 5) 3・22 「平安遷都1200年映画を作る会」が浮島丸事件を題材にした映画製作を決定する
8・23 遺族27人が京都地裁に提訴(第二次提訴)
11・5 「映画『浮島丸』製作協力舞鶴の会」発足。
1994(h6) 8・23 遺族5人が京都地裁に提訴(第三次提訴)
1995(h7) 5・24〜5・28 舞鶴ロケ
8・26〜8・27 映画「エイジアン・ブルー浮島丸サコン」舞鶴上映会(7回上映3600人)
1996(h8) 3・26 日本共産党参議院議員西山登紀子氏が参議院厚生委員会で、浮島丸事件について質問する
5・10 「浮島丸殉難者を追悼する会」改組。会長に野田幹夫氏、事務局長に須永安郎氏を選出する
6・23 「浮島丸通信」創刊
8・24 追悼集会に厚生大臣からメッセージが初めて届く
1997(h9) 8月25日〜26日 青森県を訪問し、「浮島丸下北の会」と交流する
1998(h10) 8・23 浮島丸殉難者追悼の碑建立20周年記念事業 りんご座公演「1998年夏・絆から海を見つめる群像の物語〜」
シンポジウム「いま、浮島丸事件を考える」
1999(h11) 11月 追悼公園の説明版に赤ペンキをかけられる
2000(h12) 4月 追悼公園の説明版の「植民地支配」の文字が削られる。
2001(h13) 8月 映画「エイジアン・ブルー浮島丸サコン」韓国で正式輸入許可、韓国ソウルで試写会。ソウル市の滄川教会で500人が鑑賞。以後、(ソウル、釜山、光州)等上映会続く
8・23 浮島丸訴訟で京都地裁が判決。国に賠償命令、謝罪請求は却下
2002(h14) 4・24〜4・28 韓国光州市を訪問し、光州市民連帯と交流する
8・24 光州市民連帯前代表、政策局長が追悼集会に参加
2003(h15) 5・30 浮島丸訴訟で大阪高裁が判決。原告敗訴
8・24 追悼集会に光州市民が参加。舞鶴市長初参加
2004(h16) 5月 韓国光州市を訪問し、光州市民連帯と交流する
8・23 浮島丸殉難58周年「オルス公演、韓国宮廷舞踊伝統芸能のつどい」開催(光州市から)舞鶴市民と光州市民との市民交流会を開催する
11・30 浮島丸訴訟で最高裁が大阪高裁判決を支持して原告の上告を棄却。原告敗訴が確定
2005(h17) 3・14 中国北京大学で「エイジアン・ブルー浮島丸サコン」上映。あわせて、須永安郎氏が「浮島丸事件と追悼事業」と題して講演を行う
8・24 浮島丸殉難60周年企画「東アジア国際シンポジウム〜浮島丸事件:東アジアの平和のための条件を考える〜、東アジア・市民交流と文化の夕べ」を開催する
駐大阪大韓民国総領事館金康寿領事から、鄭華秦総嶺事からの感謝状を受ける
11・6 追悼する会の野田幹夫会長死去
2006(h18 5・17 追悼する会総会を開催し、顧問に須永安郎氏・会長に余江勝彦氏を選出する
8・24 追悼公園にハングル文字の説明板を設置
2007(h19) 7・26 日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会による「浮島丸事件沈没地の現地調査及び懇談会」が実施される
2008(h20) 4月 浮島丸事件の聞き取り、下佐波賀出身当時5歳父の救助活動を手伝う
8・23 浮島丸殉難63周年事業。
浮島丸殉難者追悼の碑建立30周年「金一志韓国伝統舞踊のゆうべ」公演
8・24 浮島丸殉難63周年追悼集会
駐大阪大韓民国総領事館総領事・呉栄煥氏公式初参加
作成には、*4ならびに追悼する会の資料を参考にさせてもらいました。


浮島丸遭難事件調査報告



日本側には、何も当事件の調査報告などが残されてはいないが、遭難者側はGHQ指令官当てに、「浮島丸遭難事件調査報告」というものを上げている。
国会図書館憲政資料室のマイクロフィルムをコピーしたものが東舞鶴図書館にある。GHQ/SCAP RECORDS、LS-39.38という資料だそうである。以下はその中の日本語のものだけ。

一九四五年十二月七日
進駐軍
  指令官殿    
         在日本朝鮮人聯盟青森縣本部
           (民衆新聞支局)
           青森縣弘前市大字富田町○○
             電話 番
           委員長  孫 一

一、青森縣上北郡三本木警察署テハ終戦ト同時ニ三本木在住一般朝鮮人ヲ直グ帰国サセルカラト強制的ニ家財道具ヲ最低價額ニテ授費サセ(例ヘハ時価百円ノ物ヲ十円位)或者ハ警察当局ノ餘リノ強圧ノ爲家財道具ヲ其ノ儘授ゲ捨テ又ハ日本女性ト結婚シタ者ハ理由如何ヲ不問、強制的離婚サセ下関マテ追出シ追出サレタ彼等ハ下関マテ行ッテ帰国ヲ待ッタガ輸送計割ニアラザル故二ヶ月モ餘リ帯留金銭ハ一銭モ無ク消費 ルンペントナッテ各地エ各々分散シタ事実アリ目下当聯盟本部ニテ明確證拠ヲ調査スルト同時ニ必要ナル證人ヲ選択中ニシテ後日改メテ報告スル事ヲ約束スル
事実明確ナ場合ニハ厳重処罰ヲ要求スルモノナリ 以上


一九四五年十二月七日
進駐軍
  指令官殿    
         在日本朝鮮人聯盟青森縣本部
           (民衆新聞支局)
           青森縣弘前市大字富田町○○
             電話    番
           委員長  孫 一

  請書報告
一、青森縣下北郡大湊海軍当局トシテハ一九四五年八月十五日終戦スルト同時ニ海軍、軍属、徴用工、募集、集団人夫及一般労務者及ビ家族等、合計七千五百人又ハ八千人ヲ一九四五年八月?二、三日頃(日付不明)大湊海軍輸送艦ニテ(七千五百屯又ハ八千屯)(船名不明)優先帰国サセルトノ美名ノ本ニ乗艦サセ大湊出航後四日目ニ京都府東舞鶴軍港ニ入港陸地ヲ隔ル事僅カ五百メートルノ安全地帯ニ於テ日本側ノ曰ク機雷ニ觸レタル理由ニテ瞬時ニシテ沈没上記七千五百乃至八千人ノ内二千人位シカ生存セズ後ハ全部犠牲トナレリ
一、当時生存者ノ一人トシテ余ノ知人ト合ヒ同時直接聞イタ事(其ノ時ノ事情ヲ)以下記憶ヲ追ッテ記録スル
一、大湊出港当時船長ハ悲愴ナ面持チテ涙ヲ落シナガラ或ル船長ノ知人ニ語ッテ曰ク、ドウセ死ヌナラ朝鮮ヲ立派ニ帰国サセ自分(船長)ハ帰途太平洋ノ(マン中)ニ行ッテ死ストノ事、出航ニ先キ立チ出航予定日時ノ遅延シタ原因ハ食堂、便所等ノ設備ノ爲ニモ一理ハ有ルガ海軍部ヨリノ命令ヲ船長ガ拒否シタ事ニモ原因ガアル、其レハ死ニ着クノヲ知リズツ船長トナルノヲ恐レ、イヤデアッタカラデアル、
一、其ノ後船ハ出航シ四日目ニ東舞鶴軍港ニ入港碇泊スルト同時一隻ノ小型機船ガ走リ依リ(軍港ノキシカラ)主要人物ノ四、五人ガ急イテ下船、当小型ボートが稍、船体ヨリ離レタ時、突然一大轟沈ト音ガシタ、其ノ直前碇泊スル時(イカリ)ヲ置クノニ(ジャマ)ニナルカラ甲板上ノ人間ヲ全部強制的ニ船室入レテカラノ事テス、余ノ知人ハ水泳達人ニシテ船員ノ経験モアルノヲ其ノ瞬間ニ巻イタ(ゲートル)ヲ(ハズシ)赤裸ニナッテ船上ヨリ海中ニ飛ビ込ミ約十分位シテ(オヨイテ)陸地ニタトリツキ小型船一隻ヲ見付ケ(ロウ)ヲ漕ギ沈没船ノ場所ニ行キ三人救助シテ陸地ニ漕ギツケタリ、其ノ後東舞鶴軍港海軍工廠エ一時収容サレタルモ衣類ノ支給モ無ク食事ハ一日小児ノ(コブシ)大ノ(ニギリ飯)二個ズツ與エ外出ヲ絶大禁止厳重ナ監視ヲナシタリ、余ノ知人ハ三人共謀シテ夜陰ニ乗ジ地獄ヲ脱出徒歩ニテ京都マテ(タトリ着キ)三人中一人ガ四、五百円ノ金銭ガ有ッタノテ、ボロボロノ衣服ナガラ身ヲ包ミ生ヲ求メテ出処元港ノ青森縣大湊マテ来マシタ、其ノ後十日程シテ余ハ其ノ本人ニ合イ以上ノ如キ事実ヲ明確ニ分リマシタ、大湊事件ハ当時新聞機関ヲ通ジテ発表サレテアリマセン、船ガ沈没同時船長ハ割腹シタト話シテマス、其ノ時東舞鶴軍港ノ状況ハ余ノ知人ハ左ノ如ク話シマシタ、自分等ノ乗ッタ船ハ完全ニ安全水域ニ停泊シタ事、機雷ヲ港内ニ?沈スルニ殆ンド陸地ト泳イデ十分シカ時間ガカカラナイ處ニ有ル竿ガナイ、又曰ク危険ヲ知セル意味カハ知ラナイガ水中ニ二本ノ赤イ旗ヲ立テ有ル事、沈没シタ船ヨリ倍位ノ大型船ガ何等支障ナク沈没シタ船の直グバヲ悠々ト出航シテイッタ事、殊ニ東舞鶴軍港ニ碇泊シテ居タ軍艦一隻ガ沈没シタ船ニ向イテ大砲ヲ発射スル体制ニ砲口ヲ向ケテ有ッタ事、余ノ知人ハ又云フ機雷ノ爲カ、或ハ軍艦ヨリ発射シタ爲沈没シタカ兎ニ角ク三回程偉大ナ鈍重ノ音響ト共ニ船体ハ三回程上下振動シタトノコトデス 最近当聯盟本部(東京中央)ニテ日本政府ニ厳重抗議シタ結果犠牲者ハ約三百五十名位トノ名簿ト死亡者ニ対スル慰藉料四十五萬円オ提供当事件解決方オ内密ニ哀願シタルモ同連盟デハ死亡者名簿ノミ接収金銭ハ其ノ儘返還シタトノ通知ガアリマス
一、思フニ日本政府当局者ハ当時計画的ニ最後ノ暴悪ナ野獣性ヲ発揮シ、天人共ニ許シ得ザル天罪ヲ侵シタルモ尚改心ノ情ナシ、上記ノ件ニ関シ余ハ事情ノ許ス限リ徹底的ニ探貞シ確実ナル証拠ト実際ノ證人ヲ探シ改メテ報告スルテアロウ、日本各陸海軍部又ハ北海道、千島等ノ同胞諸君モ上記ト同一ノ事故ガ幾十件及ブ??イテ居ルガ残念ナガラ確証??分ナルガ故ナリ
以上


一九四五年十二月十二日
進駐軍
  指令官殿    
         調査員  黄 ?正
         住所 青森縣弘前市大字富田町○○

一九四五年八月二十三日大湊軍港ヨリ帰国サレタル朝鮮人輸送船浮島丸遭難事件調査報告書(第二號)

一、船名  浮島丸(七千五百頓仮装巡洋艦速力二十五節程度)
一、乗船人員 六千五百名程度(確定人員調査中)

  出発日時及ビ沈没マデノ状況
一九四五年八月二十三日二十三時頃出航(確定時間調査中)
大湊軍港ヨリ出航直前ニ於テ乗組員各自ノ手持品一切ハ本船ヨリ下サセ大湊駅ヨリ自宅ヘ発送後本船ニ戻リ乗組員一同ハ船長ニ対シ危険区域リ航海ハ絶対反対ヲ絶叫シ尚朝鮮人ノ爲終戦後ノ今日我等ノ生命ヲ犠牲ニスル事ハ出来得ヌト激奮セリ 船長ハ止ム無ク大湊海軍施設部ヘ其旨ヲ報告シ施設部ヨリ機関参謀長船内ヘ出張シ全船員招集ノ上参謀長曰ク諸君ハ任務遂行ノ爲清ク死ンデ来イト爆弾的ナ命令ノ基ニ本船ハ大湊軍港ヲ出航セリ 出航後青森湾ヲ出テ佐渡ヶ島マデノ海陜ニテ黒暗ノ夜中ニ船内ヘ常備シ有リタル一切ノ救命袋及ビ其他ノ品々ヲ同船乗組員ハ海中ヘ投棄セリ其後モ運航ハ継続シ京都府東舞鶴沖ニテ針路ヲ転ジ舞鶴湾ニ向ヒ入港セリ 入港直前一旦停船シ手旗信号ニテ相図ノ上スローデ入港シタリ 便乗者一同ハ大湊軍港ヨリ出航当時釜山マデ直行セシムト約束シタルニモ拘ズ不思議ナ予感ニウタレタリ 本船ハ東舞鶴軍港ノ内港ニ入港シ陸地ヲ隔ダル夜久百五十米ノ海上ニ於テ大音響ト共ニ三回ニ渉リ爆発セリ 船底船室ニ居リタル人ハ爆音ト同時ニ機関部ヨリ流レル油及ビ海水ニ驚キ綱梯子三本ヘ我先ニト甲板ヘ上ルベクスガリツイタ爲綱梯子ハ切断サレ船底船室ノ便乗者ハ溺死シタリ 尚甲板ノ上ニ居リタル人達ハ沈没刹那ノ渦巻ヲ恐レ無我夢中ニテ海中ヘ飛込ミ重リ死ノ修羅場ト化セリ泳ノ出来ヌ男女老人病人子供等ハ九死ニ一生ヲ得 沈没シツゝアル同船ノ最高部ニ登リ救助船ニ依ッテ救助サリタリ爆発時刻ハ一九四五年八月二十四日十六時十分頃ナリ救助者ハ一切東舞鶴海軍施設部徴用工員宿舎ニ監禁シ銃剣付ノ番兵ヲ以ッテ周囲ヲ取囲ミ一歩ノ外出ヲモ許サズ自由ヲ束縛セリ宿舎ニ監禁サレタル者ハ肉親ノ生死安否ヲ知ルベク日本人係官ニ哀願スルモ外出ハ一歩モ許さず犠牲者ハ如何ニ始末シタルカ不明ナリ此處ニ於テ惨酷鬼畜ノ本姓ヲ暴露セリ 尚本船ニ積載シタル遭難者ノ一切ノ所持品ハ附近住民ガ勝手ニ引上自由ニ處分シタルモ日本官憲ニ於テハ一切黙認セリ当浮島丸沈没ニ基因セル死亡者及重軽傷者調査ノ結果左ノ如シ

死亡者   一千三百五十名内外(後日明確ニ調査ス)
重傷者   二百名内外    (〃)
軽傷者   六百名内外    (〃)

     終


一九四五年十二月二十二日
進駐軍指令官殿
    浮島丸遭難事件調査報告之件(第三次)
        遭難者  李 相鳳
          大正十年四月四日生二十五才
        本籍地 全北沃溝郡臨皮面邑内里
        現住所 青森縣上北郡陸奥横浜村

右遭難者当聯盟ニ於ケル口述左ノ如シ
一、船名   不明
一、乗船人員   八千人内外(概算)
  出航日時及沈没迄ノ状況
一九四五年八月二十二日十三時頃乗船二十三日一時頃出航本船ガ大湊ヲ出航直前船員等荷物ハ全部積卸シタ後出航シテ五六時間モシタ地点ニテ本船内ニ常備シテ有ッタ救命具其他ノ総ユル品物ヲ海中ヘ投ゲルノヲ私ハ目撃シマシタ 私ノ居ッタ所ハ本船ノ一番先ノ船室デ有リマシタガ東舞鶴湾ニ入ル時一旦停船シマシタ其時私ハ船室ヨリ甲板ヘ出テ来タ處船員達ガ来テ甲板上ノ便乗者ヲ船室ヘ入ル様命令シマシタ 私ハ船室ヘ入ラズ船ノ一番先ノ方ヘ歩イテ行ッテ前方ヲナガメテ居リマシタ 其時船ノ真中ノ方カラ爆発シテ二ツニ折レ真中ガ先ニ沈ンデ行キマタ 私ハ泳ゲナイ爲船ノ沈ムニシタガッテ高イ方ヘ登ッテ居リマシタ約三十分バカリシテ救助船ニ依ッテ助リ東舞鶴海軍施設部徴用工員宿舎ニ監禁サレ二日目ニ逃亡シマシタ宿舎ニ監禁サレタ時ハ銃剣付ノ番兵ヲ以ッテ厳重ニ番シテ居ルノデ飢ト恐怖心ニ襲ハレ四人共謀ノ上板壁ヲ乗越ヘ逃亡シマシタ 私ガ見聞シタノヲ綜合スルト死傷者約六千名以上ト思ッテ居ノマス 私ハ本船ガ沈没シタ同時ト同ジ様ニパンツ一枚デ徴用工員宿舎ニ監禁サレ一日二食一食分小児拳程ノ握飯一個ヅゝデ 此レモ場合ニ依リモラエナイ人モ有リマシタ 私ハ当事件ノ発生シタ総ユル点ヲ綜合シテ考ヘマスト絶対計画的デアルト断言シマス
         右遭難者  李 相鳳 (拇印)
代筆者    李 京憲 (拇印)
           本籍地 咸北慶?安農面承良洞七
          立会者   黄  ?山          本籍地 慶南釜山府西町
          立会者   孫  一   (印)
           本籍地 江原道高城郡杵城面校洞里
          立会者   尹 海水   (印)
           本籍地 咸南高原郡高原面東陽里
                   終


一九四五年十二月二十二日
進駐軍司令官殿
      浮島丸遭難事件調査報告之件(第三次)
        遭難者   李 基賛
            大正十一年十二月十四日生二十四才
          本籍地 全北南原郡三海面西道里
          現住所 青森縣上北郡陸奥横浜村

右遭難者当連盟ニ於ケル口述左ノ如シ
一、船名  不明
一、乗船人員   八千人内外(概算)
  出航日時及沈没迄ノ状況
一九四五年八月二十二日十三時頃乗船仝二十三日頃出航ス大湊軍港ヲ出航、当時船員ノ荷物ハ全部積卸シタ後出航シ青森沖ヲ出テ船内ニ常備シアル救命具及ビ総ユル物資ヲ海中ヘ投ゲルノヲ居合セノ人ガ船員ニ御願ヒシテ衣類ヲ分ケテモラフベク頼ミマシタガ軍人ノ物品ハ一般人ニ分ケルコトハ出来ヌト断ワラレマシタ其他色々ナ物品モ海中ヘ投ゲルノヲ目撃シマシタ 本船ハ二十四日十六時頃東舞鶴港湾ヘ入港一旦停船約三十分シテ再ビ緩速(人間ガ歩ク程度)ニテ進行シ手旗信号ヲ以ッテ信号シナガラ船ハ内港ニ向イテ進航スル時 其ノ方向ニ赤イ旗ヲ立テテアル所ガアリマシタ 其時内港桟橋ヨリ小型発動船一隻ガ本船ニ向ッテ進行何カ暗示デモスルガ如ク前記赤旗ノ傍ヲ通リ去ルト同時ニ本船ハ前記赤旗ノ上ヲ故意カ偶然カ乗越ス瞬間大爆音ト共ニ爆発シマシタ 其現場ハ形容シ難イ惨状ヲ一瞬ニシテ程シ死傷者多数ヲ出シマシタ 其後救助船ニ助リ東舞鶴海軍施設部徴用工員宿舎ニ監禁サレ銃剣付テ番ヲスル爲外出モ許サレズ仝八月二十六日夜三人共謀ノ上板壁ヲ乗越ヘテ現住地ニ逃ゲテ来マシタ 右宿舎ニ於ケル待遇ハ一日二食小型握飯二個ヅゝ與ヘルモ飯不足ノ爲一日中一食モ食エナイ人モ沢山居リマシタ衣類ハ全然ナク海中ニ投ゲタリレタ時ノ儘パンツ一枚デシカモ何時迄監禁サレルカ極度ノ恐怖心ニ襲ハレ死ヲ決シテ逃ゲ出シ今日ニ至リマシタ 朝鮮人便乗者八千人トハ乗船ノ際乗船申込者六千五百名ノ外申込無シデ乗船シタ者約一千五百名ヲ含ム概算ナリ 尚大湊出港当時日本人士官ハ?ニ乗船ヲ断リ爲ニ出航ハ予定ヨリ二日間遅延シタリ理由ハ同船ハ途中沈没サセル故自分達ハ犠牲ニナルノガ嫌ナル故ト聞ク 私ハ当事件ノ発生シタ総ユル点ヲ綜合シテ考ヘマスト絶対計画的デアルトフ事ヲ断言シマス
      右遭難者  李 基賛(拇印)
      代筆者   李 京憲(拇印)
       本籍地 咸北慶北郡安農面承良洞七一
      立会人   黄 ?山
       本籍地 慶南釜山府西町
      立会人   孫  一(印)
       本籍地 江原道高城郡杵城面校洞里
      立会人   尹 海水(印)
       本籍地 咸南高原郡高原面東陽里
                       終


一九四五年十二月二十二日
進駐軍指令官殿
   浮島丸遭難事件調査報告之件(第三次)
     遭難者 崔 鳳春
      大正十年七月五日二十五才
     本籍地 京畿道仁川府松観町八九番地
     現住所 青森縣上北郡陸奥横浜村

右遭難者当時連盟ニ於ケル口述左ノ如シ
一、船名   不明
一、乗船人員 八千人内外(概算)
   出航日時及沈没迄ノ状況
一九四五年八月二十二日十三時頃乗船二十三日一時頃出航ス途中ノ出来事ハ一切不明デ有リマシタ二十四日十六時頃突然大音響ト共ニ爆発シ其瞬間私ハ身体ハ十米バカリ吹キ飛バサレ海中ヘ投ゲダサレマシタ私ハ奇跡ニモ海中ニテ泳イデ居ル時救命ボートニ救助サレ陸地ニ揚ゲラレ其後ハ意識不明デシタ 私ハ陸地ヘ揚ゲテカラ運バレル途中人々ノ騒グ声デ漸ク意識ヲ取戻シマシタ 其時兵隊達ハ私ヲ此レハ死ンダカラ海ヘ投棄シヨウト話合ヒナガラタンカニ乗セタ儘海ヘ運ンデシルノニ気付キ本能的ニ救ヲ求メタ結果幸ニシテ病院ヘ運搬サレ十日間治療ヲ受ケルモ話バカリノ治療デ顔面ノ形バカリノ小傷ダケノ手当ヲシ薬モ注射ノ一本モ施サナカッタ 十日間同ジ状態ヲ続ケ同病院ヨリ帰国ヲ理由ニ徴用工員宿舎ニ強制収容サレ軍部ヨリ作業服(古着)一着ノ支給ヲ受ケマシタ当時治療ガ不完全ノ爲帰国出来ズ現住所ニ戻リ今日ニ至ルモ未ダ当時ノ衝撃デ身ハ完治セズ現今ノ生活ハ無一文デ困難ヲ極メテ居リマス現住所ニ戻ル時手当金百円ヲ支給サレマシタ自分ガ見聞シタ處ニ依ルト死傷者約六千人内外ト思ヒマス私ハ当時ノ総ユル状況ヲ綜合シテ考ヘル時本事件ハ絶対計画的ダト思フ事ヲ断言シマス

    右遭難者  崔 鳳春(拇印)
   代筆者     李 京憲(拇印)
     本籍地 咸北慶?郡安農面承良洞七一
   立会人     黄 ?山
     本籍地 慶南釜山府西町
   立会人     孫  一(印)
     本籍地 江原道高城郡杵城面校洞里
   立会人     尹 海水(印)
     本籍地 咸南高原郡高原面東陽里
                      終

テキストは手書きの縦書き、一部読めない所がある、日本の漢字にはない漢字が使われているなどの所は「?」にした。

もう一通、元憲兵中尉の住所の報告が復員局からGHQ法務局調査部当てに届けられている文書が収められている。GHQからの調査要求に答えたもので、当人の名、年齢と本籍、現住所が書かれている。昭和23年7月1日付けである。
GHQもどうやら真相にたどり着いていたのではなかろうかと思われるが、このあとの資料はない。中共がどうやら勝ちそうな勢いになるし、ソ連も強い、GHQの変質が起き始めるので、彼らの関心はそんなことよりも日本をどうアメリカの支配下に組み込むかに移っていったのかも知れない。

日本語のものはこれらだけで、あとはこれらを英訳したものと、あとは何か不明のものも納められている31枚である。
アメリカに何か大事な資料が残されている可能性が推定できる。興味のある方は調べてみられるといいだろう。




関連項目


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このページの目次
爆沈までの航路を歩く
爆沈
触雷か自爆か
引き上げ
略年表&調査報告(このページ)



殉難者追悼集会の
     記録
62、63周年集会
64周年集会(2009)
65周年集会(2010)
66周年集会(2011)
67周年集会(2012)




資料編の索引

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京都府与謝郡与謝野町
京都府京丹後市
京都府福知山市
京都府綾部市
京都府船井郡京丹波町
京都府南丹市

 若狭・越前
市町別
福井県大飯郡高浜町
福井県大飯郡おおい町
福井県小浜市
福井県三方上中郡若狭町
福井県三方郡美浜町
福井県敦賀市





引用文献
*1−『浮島丸釜山港へ向かわず』(金賛汀・1994・かもがわ出版)
*2−『浮島丸の記録』(殉難者追悼実行委・1989)
*3−『アイゴーの海』(下北からの証言発刊をすすめる会・1992)
*4−『爆沈・浮島丸−歴史の風化とたたかう』(品田茂・2008)





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