丹後の地名
過去を忘れて、戦争へ行こう

浮島丸事件(5)
ナゾ:触雷か自爆か


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京都府舞鶴市
浮島丸:触雷か自爆か

浮島丸事件:触雷か自爆か

多くの犠牲者を出した、たぶん戦後日本最大の海難事故であるにもかかわらず、不思議にも報道されず、事故原因調査らしいものもない。しかし、政府は触雷としている。触雷に決まっとるやろが…という態度である。はたして信用してもよいのか。

機雷は本当か

舞鶴防備隊は手旗で「掃海ズミ」と浮島丸に入港時に知らせてきた。これはウソか。
ウソではないと思われる。浮島丸以外のどの艦船も触雷していない。
舞鶴湾内には航空機から多くの機雷が投化されていた。具合が悪いから焼却してしまえとして日本側の資料はまず残っていないのだが、米軍には残されている。

 〈 舞鶴湾口をGRID1海域として、ここに対しては五月二一日、六月二○日、七月一二日、七月二八日、八月八日、八月一五日の計六回にわたって、機雷が投下された。
さらに、浮島丸が沈没した舞鶴湾内はGRID2海域とされ、六月三○日、七月一二日、七月二○日、七月二八日、八月八日の五回にわたり、機雷が投下されたと記録されている。(*1)

米軍資料によれば、若狭湾全体に投下された機雷数は六一一個、浮島丸沈没の海域である舞鶴湾内では一一六個の機雷が投下されている。(*1)  〉 

米軍の機雷は大変に精巧なものであった。
 〈 米空軍のB29が日本全国の港湾を軍事的、経済的に封鎖の為に夜来襲して機雷を投下するので脅威を与えました。舞鶴湾にも頻繁に来襲した事を思い出される方もあると思います。
 この機雷は、太平洋戦争が勃発した直後、米軍は国内の全科学者、全工業力を総動員して研究開発された優秀な兵器でした。当時経済大国であった米国は、短期間に膨大な数量を製造して、その殆どを日本の港湾に投下したものと思います。
 当時この機雷の内部構造並びに機能は知る事が出来ませんでしたが、ある日舞鶴海軍鎮守府から出頭せよとの連絡があり、海軍火薬廠から海軍技術大尉と化学分析担当の私の2名が集合場所の舞鶴海軍工廠の会議室に出頭しましたが、ここに問題の機雷が置かれていました。
 説明によると、数日前に B29が投下したもので、誤って海に落下せずに近くの山中に落下して不発に終った物との事でした。
 機雷は、各セクト毎に工廠の関係者の手で分けられていましたが、爆薬は直接関係者の私が受け取り、成分々析を依頼され、機構部分については各自現物を手に取って丹念に見ました。私は、これを見て驚きました。当時私は、電気の専門家でも機械の専門家でもありませんでしたが、趣味で(アマチュア)無線を学生時代からしていたので、直ぐにこの機雷の電気的、機械的機構を飲み込む事が出来ました。
 一番驚いた事は、当時日本には未だ「ミニチュア真空管」は製造されていませんでしたが、なんと20数本が 円盤状に2段に分れて
配列されて、防水のために全てがパラフィン漬けにされていました。
 又これも当時の日本には未だ見たことも無かった積層電池の円盤状のものが二組納めてありました。機械機構にも、その精巧さは見事なもので、さすがは全知全能を注ぎ込んだ新兵器だと感心しました。
 この機雷は、単純な日本海軍の触角機雷と違い、敵艦船の「エンジン」、「スクリュー」からの振動波と鋼船の磁気を感知して爆発するシステムですが、組み合わせの為のセッティング、カムを時計の回転で回して、セットされている為に、このセッティング一覧表が無いと掃海は不可能と言う厄介なものでした。
 その上にまだ厄介な事は、海に投下されても内臓の時計のセッティングで数時間から数年に渡って全ての機能を一時停止する事が出来るので、益々厄介でした。
 この機雷は、パラシュートを付けて投下され、変わったアイデアとして安全栓が化学薬品のヨード加里で封印機雷が海中に入ると、ヨード加里は非常に溶解し易いので、瞬時に溶けて安全栓を解除して起動の状態にする工夫がされていました。(*4)  〉 

上はある会報に掲載された第三火薬廠技術将校の記録だそうである。
 〈 舞鶴海軍始末記 G
     機雷掃海に命をかけて
         語る人 佐藤 吾七 氏(73)
    (昭和五十三年九月一日・舞鶴よみうり)
舞鶴海軍の後始末の一つに、極めて重要な問題として、舞鶴湾内外に、米軍が落とした機雷の掃海がある。大戦末期にB29と潜水艦で敷設された機雷は、船のエンジンの音や、磁気や、水圧で感応して爆発するという極めて厄介なしろもので、舞鶴湾内外で、浮島丸をはじめ十隻が沈没したり、航行不能になっている。これを掃海しない限り、港としての機能はよみがえらない。命がけのこの危険作業の指揮をとった元海軍大尉(後に三佐)佐藤吾七氏(七三)に、その苦心談をきいた。資料は海上幕僚監部防衛部編の「航路啓開史」によった。

やっかいな感応機雷
     苦心の五式掃海具の試作

 機雷は元来、敵の艦船の侵入を防ぐために敷設するもので、終戦当時日本周辺に日本海軍が敷設した係維機雷は五万五千三百四十七個ありました。これは敷設場所も、機能もわかっていますが、厄介なのは米軍が日本の港湾の機能を失わせるためにB29と潜水艦で敷設した感応機雷で、米軍の発表では一万七百三個もありました。
 感能機雷には鉄船から発する磁気に応じて爆発する磁気機雷が二種、エンジンの音に感じて爆発する音響機雷が二種、それに磁気・水圧複合機雷との五種があり、これが混用されていました。そのうえ厄介なのは、感能機雷には日限装置や回数起爆装置がついていたことです。
 日限装置は敷設してから何日後でなければ感応装置が働かないというもので、最長では百四十五日というものもありました。回数起爆装置は、船が機雷の上を何回目かに通ったときに感応する装置で、一〜五回になっていました。こんな装置があるため一応掃海は完了したはずの海域でも、そのあとで船が通ったら爆発する場合があります。また磁気水圧複合機雷は、小さな船の磁気に感じて爆発したのでは大きな船が沈められないので、ある程度大きな船が通って水圧がかかったとき爆発するという機雷で、投下した米軍でさえ掃海不可能という厄介なものです。
 感応機雷がどんな装置をもっているか、私も随分研究しました。敵が山の中に落とした機雷を回収、磁気に感じないよう、真ちゅう製のビス回しで分解して、どんな構造で感応するかを調べました。磁気機雷を爆発させるためには、電らんで磁気を発する掃海具を試作したのが、終戦間近い昭和二十年(皇紀一一六○五年)で、五式掃海具と名付けられました。戦後米軍から「五式」というのは、私の名前の吾七のゴではないかと質問を受けたことがありますが、五式は、雫式戦闘機と同様、皇紀の年数の末尾をとったものです。

舞鶴周辺に四百六十五個の感応機雷

 舞鶴周辺への感応機雷の敷設は昭和二十年五月二十日から八月十三日までの問に、九回にわたりB29延べ六十四機が投下したもので、四百六十五個です。私は敵がどこにどれだけの機雷を投下したかを知るため、空襲のときも防空壕には入らず、落下傘をつけて投下される機雷の行方を目で追っていましたので、戦後米軍が発表した数字と一致しました。舞鶴湾口、湾内外のほか、近くの山にも相当落ちました。
 このうち約三分の一の約百五十発は終戦までに処分しましたが、残りの三分の二、約二百発は未処理のまま終戦となりました。
 当時、私は舞鶴防備隊の掃海指揮官で、今の海上保安学校のところにいました。掃海するのは、まず始末のしやすい音響機雷から始めます。これは発音弾という音波を出す爆弾を投下すると、その音波に感応して爆発、そのあと五式掃海具で磁気機雷を掃海するのです。

浮島丸の触雷は証明されている

 浮島丸が爆発沈没した八月二十四日は、ちょうど当直士官で、午後五時、上陸(外出)員を出したあと、派遣防火隊の編成などをすませた頃に発生しました。すぐ救助のため出動したのですが、被害の状況から見ても明らかに感能機雷に触雷したことは間違いありません。船が入港するときは事前に連絡があり、掃海指揮官の私の方で嚮導(先導)するのが普通ですが、このときは事前に何の連絡もなく、爆発事故があって初めて浮島丸の入港を知ったような次第でした。想像するところでは、連合軍から百トン以上の船は一切航行をやめて、最寄りの港へ入るよう命令が出されましたので、急いで舞鶴に入港することになったためと思いますが、船と舞鶴鎮守府間の入港連絡がどうなっていたのか、私にはわかりません。
 事件後、朝鮮の警察や新聞記者の人が「海軍がやったのではないか」と調査に来られたり、二十二年秋には横浜の軍事裁判で原因を調べられたこともありますが、結局触雷によるもので、日本海軍には何等手落ちのないことが明らかになりました。終戦前後、舞鶴付近で浮島丸以外にも何隻か触雷しています。なにしろ感能機雷の掃海はむずかしく、一応掃海をすませたあとでも、残っている可能性があるからです。(*2)  〉 

やっかいな機雷であった。舞鶴湾内に投化された機雷はM9.M11.A3.A5.A6と機種があった。すべての機種が湾内にも投下されていた。Mはマグネチックで磁気感応機雷。Aはアコースチックで音響感応機雷である。米軍記録によれば湾内には一一六個が落とされた。一部は海に落ちずに山中などにも落下した。上空を飛行するB29は一直線に飛ぶので、機雷も一直線上にいくらかかの距離(だいたい200b)をおいて連続して落ちてくる。一つが見つかればお連れも探しやすい。何個どこに落ちたかは水面に落下したときの音を聞いてある程度はつかめる。ほぼ正確に落ちた機雷の位置と数を掃海部隊はつかんでいたように思われる。夜くるのだが、上空を飛行しているB29は下に設けられた3箇所の探照灯で、聞くと3つの山にあったというが、それでライトアップされていた。
 掃海はニセの音響発生装置や磁場発生装置を掃海艇が曳いて、これに感応させ機雷を爆発処理するわけである。ニセモノを引っ張って何回かやればたいていは掃海できたと思われるが、そう簡単に掃海されてたまるかと、これらの機雷には「日限遅動装置」と「回数調整起爆装置」が組み込まれていた。日限遅動装置はセットされた日数まで眠っていて、それまでは爆発もしないが、掃海にもひかからない。回数調整起爆装置はセットされた回数だけ感応しないと爆発しない。落ちたぞソレと急いで1回や2回掃海したくらいでは爆発してくれないやっかいなものであった。世界一の技術という掃海艇(現在のもの)

 かなり複雑だけれどもしかし、これらは無限にいろいろとセットできるものではない。そうした魔法の機械ではないし、連合国と雖も好き放題ができる訳ではない。機雷は無差別に爆発するものだから危険なものである。公海上に機雷を設置することは国際法で禁じられている。もし設置した場合は1時間後には無力化できるものでなくてはならないそうだし、掃海の責任はもちろん設置国にある。
戦場は入れ替わり今は敵地でも明日は自国船がいつ通るかもわからない、それに感応して爆発するかも知れず、第三国船に爆発するかも知れない。
できるだけそうしたことを避けるためには日限遅動装置は10日まで。回数調整起爆装置は8回までだったそうである。またある期間が過ぎれば自滅装置がついているものもあるという。
こんな事は掃海部隊は陸上で回収したこうした機雷を分解調査して知っていたので、安全と計算できるまで何度も掃海したことと思われる。

まして浮島丸爆発地点は防備隊の真北約1キロの水域である。防備隊の玄関先というか敷地内のような場所である。ここに落ちた機雷を見逃すマヌケではなかろうと思いたい。
↑の写真。
長浜から事故現場を見る。ちょうど正面あたりがそこになる。右手の島は蛇島。左手の白い巡視船が見える所が保安学校・昔の防備隊の本隊である。於:長浜海岸

 長浜の海岸は景観の良いところなのだが、昔の火薬廠があったところになり、今は国有地、全海岸線がフェンスで囲まれていて、近づけない。
見てくれ、クソ公務員(私はクソ役人と呼ぶが、舞鶴市民はこのように呼んでいる)のしくさることはふざけくさって右のような状況である。
ここは防衛庁の土地であるようだが、正気の者が見ればそもそも憲法に抵触するような官庁が、しかしも汚職だ、談合に無駄遣いだに明け暮れる官庁が、偉そうにこんなことである。格下げでいいだろう。防衛局くらいにしよう。同じクソ公務員同士でも、自衛隊は遊んでいるだけ、ええ身分や、と陰口をたたかれている。遊び人にこんな上等の土地は必要がない。こんな官庁の土地は取り上げて市民に開放しようではないか。
 こちら側から写真がとれない。海岸線が私有地もおかしいが、そうした私有地に入らせてもらわないと写せない。舞鶴観光何々がろくに調べもせずに大宣伝なさるような「舞鶴港町ロマン」といったようなものではないのである。北朝鮮は閉め出し、ロシア人と見れば税関が飛んでくる。自由で開放的でロマンある港町といったものではなく、国境の警備厳しいフェンスだらけの窮屈な町なのである。テロテロと好き放題にフェンスで囲み、市民は海の町に住みながらも自由に魚釣りもできない。これが情けない舞鶴の今の姿である。海岸線を全部囲むというならまだわかるが、長い長い海岸線のごくごく一部だけを囲んでみて、何かテロ対策になるのか。もしテロリスト集団が上陸する気ならわざわざフェンスのある所を選んで上陸するだろうか。ワイヤーカッター一つでワケもなく突破しないのだろうか。
こうした大バカ者が大手をふって指導するという現在の政治状況は新たな戦前状況という人もあるが、そうかも知れないぞ。西舞鶴第二埠頭の「テロ対策」のゲート
新たなる戦前の町・舞鶴軍港へぜひどうぞいらっしゃて下さい。

こんな感想を持つのは私だけではぜんぜんない。保安庁の巡視船乗組員が「あの馬鹿どもがヘにもならん」と怒る。保安庁といえば海の警察官ではないか。
「そう思いません。アホくさい。何にもならん。ようあんなことやっとる。税金の無駄遣いですよ。こんなモンにカネ使うくらいなら、全部開けとけよ。」西舞鶴第二埠頭の「テロ対策ゲート」
その門の監視員、どこかの警備会社の社員のようで、府の職員ではない。24時間2人で監視しているそうである。1人は門番、もう1人は巡回だそうである。
これほどの無駄遣いはなかろう、アホのやる、ヘにもならん、テロ対策である。



                              ↓
保安学校から爆発海面を見る

                         ↓
保安学校から爆発海面を見る

                              ↓
保安学校から爆発海域を見る

                         ↓
保安学校と爆発海面
↑←その後もこの付近を写したいものとチャンスを窺っていたのだが、保安学校には「五森祭」という学校祭があり、その時は一般市民も校内に入れてもらえる。
機雷投化の監視所がどこにあったかはわからないが、このあたりの海面のよく見える場所ではなかったかと思われる。↓で示しているの海面が爆発位置であるが、それならばまさに目と鼻の位置ではないか。何も遮るものはない。(これらの写真は位置関係を明確にするため超広角、それでも収まらないので魚眼を使用している。そのため、実際より距離感が強く表現されているが、裸眼でみると爆発場所はもっと近く見える。)

さて、

 〈 A6型を除いて、これらの機雷には日限遅動装置と回数調整起爆装置が付いており、日限遅動装置は最大一○日後作動、回数調整起爆装置は最大八回がセットされている。(*1)  〉 

だから湾内に投下された最後の日・8月8日の10日後すなわち8月19日以降に8回掃海するなり船が通るなりしていれば、そこには機雷はもうないといえるわけになる。
500隻も入港したとも言われるが、その数は正確にはどうだか知らないが、6日間に8隻以下といった入港数ではなかろう。十分すぎるほどに先に船が入港して十分すぎるほどに露払いをしてくれていて十分すぎるほどに安全が確認されていたと思われる。
 A6型というのは音響機雷 というより水圧、磁気の両方が感応しないと爆発しない複雑な構造をした機雷であった。これを掃海する手段は日本にはなかったし、当の米軍にもなかったという。
手の込んだ始末の悪いコイツが浮島丸の犯人でないのか、と疑われているが、しかしこれは大きい、日本の九三式機雷の3倍もの炸薬が詰め込まれている。あきらかに大型海軍艦船ネライの機雷である。大きな水圧がかかったときのみに爆発する仕掛けと思われる。これには掃海回避装置がない。一回で爆発してくれる。
しかしもしこんなものが爆発すれば、浮島丸のような客船仕様の船ならば、バラバラになって吹き飛んでしまうのではないかと思われる。迎撃ミサイルで撃ち落とされた蚊のようなもの、対重戦車用の箱爆薬を抱えた少年挺身隊兵士に車輪の下に飛び込まれた軽自動車のようなことであろう。もし仮にA6なら艦橋の下で爆発して、その艦橋が水面下に沈んだのは7時間も後というような小規模の爆発であったりはしない。
事件海域の近くには駆逐艦「あやめ」が停泊していたのだが、その「あやめ」はお前が砲撃したんだろうと事件後取り調べられたという。誰が取り調べたのかわからないが、海軍筋では「あやめ」の砲撃と同程度の爆発だと考えていたかもしれなくなる。またV字形になって沈んだという目撃証言も多いし、真っ二つに折れて沈んだなどとも、まじめな人達の文献でも書いてはいるのだが、それらもおかしな話になってくる。そうしたことならば7時間もかかるまい。アっという間ではなかろうか。

そんなことでA6ではないし、そのほかでもどんな遅くとも24日までには、航路はすべて掃海されていたと、機雷の掃海回避の能力上、我が大海軍の掃海能力上、船舶の通行量などからは考えられるのである。
 もっとも湾内でも掃海されていない航路以外の場所なら触雷はありえる。そうした所では事実触雷事故も起きている。しかし航路は掃海されていたとまず考えられるのである。
その航路上を先行する海防艦のワダチの跡を、湾内の知識がなかった浮島丸は、それから外れないように進行していった。また艦長は名艦長といわれ、兵学校あがりなら沈めていたような危機でも安全に浮島丸を運航してきた評判の高い特別にウデのいい艦長であった。船の出入りは艦長が操艦するのが通例というから、その彼が艦橋で睨んでいたかぎり航路から外れることはない。

 〈 そんな思いを抱いている時、私と同様の疑問を口にした旧海軍関係者に行き会った。
 旧日本海軍の掃海艇の将校であるA氏に浮島丸爆沈の状況について意見を聞いた時、
「舞鶴湾の水路上で八月二四日に触雷するというのはたしかにおかしい。普通はありえないことだが……
もし、誰かが自爆させたとするならば、それは下士官クラスの者が謀ってしたことだと思う。
 敗戦の混乱の時、艦の実権はそのような下士官に握られていたし、実際は彼らが最もよく精通していたからね。何人かで謀って爆発物を仕掛けたとしたら、それは誰がやったかはわからないよ。しかし、それは警備府や艦長らの命令・指示とは関係ないのじゃあないかなあ……」(*1)  〉 




 〈 下北半島と「浮島九事件」を読んで
           佐藤 勝巳

…さて、仮に、B29の投下した機雷に浮島九が触雷したと仮定して考えてみます。仮に、B29の投下した機雷の爆発力が、一定していたとすれば(調査の要)、また、そして証言にあるように三発であったとすれば、例え、五千屯の船であったとしても、やはり敷設機雷と同じく三千名の人間が助かるということは、どうしても想像できないことです。
 小生の乗っていた船は、さきにもふれた通り、二千屯で、三千屯ほどの積荷があった。それで二五名ほどの乗組員が死んだのです。死亡原因は、機雷が船底で爆発したのですから、その爆発力で、船が、もちあげられるような形になり、船のなかで、立っていたものの大部分は、頭を船室の天井に打ちつけられ、内出血を起こし、うなると耳の穴から、血が流れでるという、凄惨なものでした。いま一つは、機関室のスチームパイプが破裂し、スチームが一挙に噴き出し、エンジンルームにいた者が、やけどで命を失った、というものでした。
 小生は、幸にも、当直あけで、ベッドで寝ていたため、無傷で助かったのですが、爆音のため、飛び起きた瞬間から、耳は、まったく音を感じなくなっていました。
 浮島九に即して考えてみましょう。三発爆発したなら、三千五百名の人間が、一挙に騒ぎ出すのですから、船内は、修羅場と化すことは、これは間違いありません。小生は、かって、六千屯の船で、四千名の陸軍の兵隊を積んで、宇品からフィリッピンのセブ島まで輸送したことがあります。途中、何度か米軍の潜水艦に遭遇した経験をもっていますが、遭難しないまでも、その都度収拾できない状態が船内で起きることを何度かみてきています。本当に触雷なら、そのショックたるや物凄いもので混乱状態が起きることは、間違いありません。いわんや証言にみられるように、白という朝鮮人憲兵を、追いかける声などが、耳に入るなどということは、考えられないことです。さきにもふれたように、耳がきこえる、ということは、まずありえない筈。
 ただ、記載されている証言からは、爆発して沈没するまでの状態、特に時間が不明なため、詳しいことはわかりませんが、三千名の人間を、湾内といえど、海上です。その人達を救助するには、相当な時間を必要としたことは、容易に想像されます。また、陸上からの目撃者も、現存している筈ですし、救助に参加した人もいる筈です。それらの人をみつけ出し、話をきき、総合すれば、爆発から沈没までの時間ぐらいは、判明すると思う。証言者の話から想像されることは、爆発は、それほど大きなものではなかったらしいということです。証言をきかなくとも、三千名の人間が、救助されているという事実が、なによりも、そのことを証明しているのではないでしょうか。…(*3)  〉 

もし機雷なら爆発威力が小さすぎるし、機雷爆発なら小さい物でも50メートルばかりの水柱ができるが、浮島丸の場合はそれが上がっていない。水中で爆発物が爆発すれば水柱ができる。艦橋よりもはるかに高く吹き上がる。この柱が崩れてきて甲板に一気に流れ落ち、甲板上の水兵を海へ押しに流す、プロの軍艦乗りでも恐れた脅威であったという、もしそうした水柱ができていれば、誰か一人くらいはその脅威を語る者がありそうなものだが、誰も証言した者はない。機雷の掃海回避性能と日本海軍の掃海能力から考えると掃海はできていたのではないのか、など機雷説は疑問が投げられる。

航空機から投下された米軍の機雷はすべて沈底型で、ここなら水深18メートルの海底に沈んでいて、そこで爆発する。だから浮島丸から見れば船底の下で爆発するわけである。そうすれば船底かもしくは舷側の船底付近に大穴があくと思われる。ところが船底には穴もあいていないし、全部つながって上がってきた。損傷をうけていない、しかもさらに船体の一部が内側から外側へめくれていた、といわれる。もし仮に機雷ならそんなことはあるはずはないのであるが、−


 〈 沈没船がドックに入れられた後、遺骨の収容作業をしながら朝鮮人たちは、少しでも浮島丸の沈没原因を知る手掛りになるものが見つからないかと調査をしていたが、素人の集団である彼らには、浮島丸沈没原因と思われる事実を十分に究明することができなかった。
 しかし、船体の至るところを各角度から撮影し、後日の証拠にしようとしていた。
 そんな時、何人かの朝鮮人が不思議な現象に気づいた。船体の一部−船底に近い部分の鉄板に、外に向かって大きく破れている部分があるということである。
 その時調査に参加した人々の意見は、「触雷で船が沈没したものであるなら、船体の底部であれ側体部であれ、鉄板が内側にめくれるようにならなければならないのに、なぜ外側に破れているのか−これはやはり内側から、何か爆薬を仕掛けて爆裂させたからではないのか」ということに結論が一致していったという。
 当時、その現場に立ち会った田村敬男氏は、
「浮島丸の船体をドックに入れた時、船体を朝鮮の人たちが点検していましたが、素人ですので沈没の原因を突きとめるまでに至らない。それで船体の破れているところや、爆発したと思われるところを何枚も写真に撮っておいたのです。
 その時、船体の一ヵ所が破裂し、破れている部分の鉄板が、内から外にめくれているのを、私も直接確かめました。
 私は足が不自由なものですから、その部分を何度も検証するというわけにはいきませんでしたが、朝鮮の人たちと一緒にその個所を確認しました。
 今から考えると、もっと専門家の参加を考えるべきだったのですが、当時の状況ではそれができなかったのですね。
 例えば、遺骨なども大人か子供か、女か男かもわからないで、ただ総数で三百数十体というような処理の仕方でした。専門家に調べてもらって、それらも明らかにすべきだったのでしょうが、残念ながら、そこまで手を回せませんでした」
と語った。

 日本政府は、意志さえあれば、そのような処置もとれたであろうが、一人の造船専門家も、医学者も、派遺してはこなかった。
 この時、収容した遺体を、田村敬男氏も山本氏と同様、三百数十と記憶しているという。(*1)  〉 
もし機雷とするならば、陸地にもっとも近く避難しやすい水面に米軍はたまたまもっとも小さい機雷を投化していた。軍港に落とすにしてはあまりにも小さいものであったが、たまたまそれが投下され、安全に逃げるにはもっとも都合のよい位置に落ちたのであった。
米軍の機雷はきわめて精巧につくられたものであるが、たまたまその機雷だけはなぜか故障か誤作動をしていた。そんなことで何十回の掃海、何百隻の船舶にも感応しなかったが、なぜかたまたま浮島丸の通る直前に、たまたま不思議にも正常にもどり、たまたまちょうどセンサーに感応して、浮島丸でちょうどセットした回数調整起爆装置回数となり、まことに超運悪く爆発したのである。
それになぜかその機雷は船底には損傷を与えず、水柱もあげず、2〜3回も爆発した。そして外から爆発したのに、船体の内側から外側へめくれる穴をあけるという、まことにアホらしいほどに信じられないような、不思議なおかしな変わった爆発をした機雷だったのであった。

大本営発表の機雷説に立つならば、こんな風に書かなければならない。小学生のレポートでももう少しまともであろうと思われる、「もうすこし勉強してネ」などと先生に朱をいれられることだろうが、が、これがその後も日本政府やその阿諛追従者たちの主張する機雷説ということになる。
犠牲になった朝鮮人に対してはもとより、日本国民を馬鹿者するにもええかげんにさらさんかい、といいたくなるようなものであるが、しかしこれでも機雷などの知識がなく、表面だけを不注意にきいている分には、信じ込まされるようなものなのであった。浮島丸の乗組員ですら、そのほとんどが発表通りの機雷と信じて疑うことがなかったのである。ましてやほとんどの日本人は機雷と信じてきたし今も固くそう信じている。強い強い信仰にもなっている。しかしこんな政府説をそのまま信じて、ツユ疑わないような国民ばかりでは、政府は大喜びで、昨日は朝鮮人だったが、明日はまちがいなくそなたがそんな「事故」に遭う順番が回ってこようぞ、と言わねばなるまい。

 それは違うぞといいだしたのは、被害者の朝鮮人たちであった。
艦長の言い分だけ聞いたのでは調査にはならない。艦長が艦内の出来事をすべてを知っているわけではない。事故原因は双方の言い分をよく聞かないと真因はわからないものである。
彼等の証言を聞き逃してはなるまい。


機雷でないなら

もし機雷でなければ、自爆である。自然に何かが爆発したというより、これは故意に誰かが爆発させたのではないのか。
そんなことがあるのだろうか。誰が何の目的で爆発させたのだろうか。3000名を上回る犠牲者がでたのでなかろうかと思われるが、それなら9.11のワールド・トレード・センター(2.811名)を越える数になる。リッパなリッパすぎる、ブさんや日本政府の好みの用語でいえばテロであったということになる。低国の用語で言えば匪賊であったことになる。「テロ対策」と口を開けばいっているし、無理に無理に重ねてまだ油をただでやりたがっているが、誰もが知っているように本当にそんな本当のテロ対策ができるような立派な頭は彼らにはない。まちがってもない。本当は何かほかのおおやけには口に出しにくいこと(たとえば私腹を肥やす)をしたいのだが、その口実にこの用語を使っているように私にも思われるのであるが、それは置くとして、−

朝鮮人ばかりでなく日本人乗組員25名も犠牲になったようなテロを誰か本当にしたのだろうか。いかに低国でもここまでひどいものなのか。
朝鮮人と日本人を区別して、日本人も25名も死んでいるでないか、低国のしわざの自爆はあり得ないなどとする説もあるが、そんな朝鮮人だ日本人だ、朝鮮人なら殺してもいいが、日本人は殺してはならない、といったような区別が低国にあるだろうか。彼らから見ればいずれもクズや虫けらみたいなものでしかなく、その命などはなんら考慮の範囲にはいらない。朝鮮人や中国人は殺していいのなら、日本人に対しても又同様なのであった。
 イラク人を殺すということは、お次はあんさんが殺される順番ですよということなのである。イラク人は殺してもいいが、自国民は守るということはない。そういう思考回路は成り立ち得ない。自分に都合の悪い者は殺してもいい、守ることなどはない、そう考える者には他国民とか自国民とかの区別はないのである。おおやけには言わないが腹ではそう考えているのであった。
 いや日本軍は、海軍さんは日本人なら守ってくれるだろう、守ってくれるに違いない−、そう思いたいが、それは大きな思い違い、問題の沖縄住民自決の歴史、舞鶴ならそれは引揚げの歴史を見ていけばよくよく理解されよう。軍港の舞鶴近代化の歴史を見てもしっかりわかる。
あっちの虫けらよりも我らの虫けらの方が大事にされるだろう、我ら日本人ならば殺さないだろうと馬鹿げた優越感をもってもらうと、低国はありがたい。


浮島丸が爆破されるというテロ計画は実は大湊出航以前からウワサされていた。もうすでにこのHPでも幾らか引いているが、もう少し引いてみよう。


 〈 佐々木勇吉(現、45歳)氏の口述
 浮島丸は日本郵船所属の沖縄航路の連絡船で、千島航路の高島丸と姉妹船だったと記憶している。わたしの親父は、終戦直前に大湊海軍工作部造機科に勤務していたのであるが、浮島丸は工作部の大湊機関部で船名を塗りつぶし爆雷装置を仕掛けて出港させたと語ったことがある。浮島丸を日本海で爆破する予定だったといわれ、あとで舞鶴湾内で爆破したと聞いた。何か理由があるのではないだろうか。(*3)  〉 


 〈 機密の海図もなく、燃料も十分でないと聞かされ、その上に、朝鮮にはソ連軍が攻め込み占領地となって、捕虜になるかもしれないという風説が流れる。兵隊たちの間に、戦争が終ったのに何でそのような危険な航海をしなければならないのか、という出航反対気運はさらに強まっていった。
 そして、その気運は釜山行き航海を〃阻止〃、あるいは行かずにすむようにしようという具体的な〃謀議〃として、いろいろな階級の士官、下士官、兵の間に語られ、計画が練られていった。
 最も単純な方法は脱走である。
 水兵たちのうち、朝鮮行きの出港を嫌い浮島丸から脱走した者が数名いる。
 しかし、敗戦したとはいえ、その直後のことで、まだ軍事裁判の恐怖もある状況での脱走は相当の決意を必要とするし、その時点まで一緒に闘ってきた仲間から逃げるというような精神的な抵抗感も強く、長く勤務した兵、下士官たちほど決行できないでいた。
 そんな兵や下士官たちが考えた方法は、浮島丸の運航能力に欠損を生じさせ、出港できないような方策を考えることだった。
 野沢忠雄元少佐の機関を故障ざせ出航できなくさせるという計画は、機関科を中心に練られた計画であるが、機関を破壊するという計画は直裁的で誰もが思いつく計画なのだから、他のグループも計画していた。
 神定雄元上等兵曹は、
「津軽海峡で(出航後に)機械を壊してしまおうではないか−。船が動かなくなるんだから、これは士官にもわからないから……」(NHK『爆沈』より)と同様の計画について述べている。
 このような艦内機関を故障させる方法などが、兵、下士官、士官らの間で連携もなく、ばらばらに語られ、計られていた。
 軍艦内で、艦を破壊させる計画が将兵の間で語られ、計られるということは、その艦での軍隊秩序の崩壊を意味している。
 浮島丸では、下士官を中心に、まさに反乱直前の状況になっていた。
 状況を把握できる立場にあった下士官たちは現状認識も正確で、無謀な行動には動かなかったが、外からの情報が正確に与えられていなかった兵隊たちは、不安と恐怖と秩序崩壊による緊張感からの解放とで荒れ始めていた。
 昼間から酒を飲む者、夜間に脱走を宣言して艦から脱け出る者。水兵たちの行動は、軍隊組織の秩序が敗戦を境にして音をたてて崩れていく過程を正確に反映していた。(*1)  〉 


 〈 その頃、大湊市内では市民たちの間に、浮島丸について奇妙な噂が流れていた。
 それは、浮島丸がどこかの海で〃自爆〃するという噂なのである。
 敗戦当時、むつ市で農業団体の役員をしていた伊勢広太郎氏は、その噂についてこう語っている。
「浮島丸は新潟まで行けば爆沈されるのだ、という噂を聞いたことがあります。それでうちの娘たちが朝鮮の友だちに、爆沈の噂があるから行かないで、と言って止めたようですが、なにしろ、帰国できるというので喜んで 『マンセー!マンセー!』と叫んでいる状態ですから、言うことは聞きませんでしたよ」(NHK『爆沈」より)
 さらに、日本通運で強制連行してきた朝鮮人を送り返す、引率責任の役を割り当てられた日通労務係高橋嘉一郎氏も、
「浮島丸に乗って行こうとすると弟が来て、浮島丸は爆沈されるということだから乗らない方がいいのじゃないかと言っていたが、そんな馬鹿な、ということで乗った」(同『爆沈』より)と語っている。
 むつ市で長く教鞭を取っていた秋元良治氏は、かって同僚であった教員が、
「私は浮島丸事件があった時、田名部国民学校の五年生でしたが、私の家と懇意にしていた海軍の下士官が遊びに来て、『俺たちは釜山に着いたら銃殺される。浮島丸は没収されてしまうのであろう。だから、釜山に着くまでには自爆させるんだ』と言って、自爆させる場所まで話しておったのを記憶しております」と語っていたと言う。
 浮島丸の出港前から大湊では、浮島丸が日本海で〃自爆〃するという噂が市民の間に流れていたのである。
 それは、大湊市内の地元の人々が浮島丸の乗組員から聞いた話として、伝えられていった。その噂を聞いた人は一人や二人でなく、きわめて多くの人々の口にのぼっていた。
 この浮島丸〃自爆〃の噂は、少数の朝鮮人乗客たちも知人の日本人から聞いたようだが、帰国の喜びに沸く朝鮮人労務者たちは一笑に付して取り合わなかったようである。(*1)  〉 



 〈 そんな浮島丸の船内で、朝鮮人乗客の間に大湊出港前に日本人から流された噂−−浮島九自爆の噂が流れていた。そして、それはまたたく間に朝鮮人の間に広まっていった。
金東経さんは、
「菊地桟橋で四日ぐらい待って乗船した後、船は出港しましたが、出港してから、噂が流れてきました。司令部から、軍の機密がもれるといけないから朝鮮人を送り返せ、と言われた兵隊が、戦争が終ったあとで船が沈没するような危ない航海をするのはばかばかしいと抵抗したため、船の出港が遅れたようだという噂でした。
 それに、兵隊は船が沈没するようなことを言っているというので、皆、不安になって、どうせ死ぬなら金を持っていてもしかたがないじゃないかと、ヤケクソのようにバクチをやる人も出て来ました」と言う。
 同様の証言を京都府下網野町在住の申美子さんが語っている。浮島丸には、飯場を経営していた父親たちと一家全員で乗り組んだが、乗船した後、すぐに、
「この船は沈没するという噂が朝鮮人の間に広がっていきました。皆、自分たちは殺されて死ぬかも知れないと語っていて、かなり動揺していました。
 私たち一家もそんな噂に不安でしたが、死ぬときも、親子家族、皆で死ぬのだからいいじゃないかと話し合っていたものです」(*1)  〉 
政府発表では何も触れないが、こうした噂がかなり広く流れていた。
浮島丸の噂ではないが、旧軍港舞鶴あたりでは一般に「ウワサはホンマやで」と言われている。「そんなウワサがあるんか、ほんならホンマやろ」などと世間のウワサの信用度はかなり高い。さてその旧軍港人の経験則はこの事件にも適用できるのか。
次は新聞資料−

 〈 …大阪で発刊の『国際新聞』は、
「大湊港を八月二十二日出航することになっていたのに、緊急に二十一日と出航をふれこみ、これに乗船しそこねた者の帰国は保障しないといって船内に押し込めておきながら、まる一昼夜、ダイナマイト・銃砲類を船底に積み込んだ」(一九五四〔昭和29〕年十月九日付)(*3)  〉 


 〈 …前掲『朝鮮新報』がこの異例さと関連して、
「船には日本海軍の憲兵と将校たちも乗っていた。大湊を出港してから間もなく彼らは『釜山に到着すれば我われは皆死ぬだろうし、船も没収されるだろう』と、始めて行方を明らかにした。
 そして、彼らは船内で秘密会議を重ねつつ、船に沢山積んであった毛布・衣類・食料を投げ捨てた。八月二十四日、浮島九は、にわかに方向を変え、『水を積むから』と言いながら舞鶴港に舵をとった。この日、午後五時二十分頃、船が戸島舞鶴湾を通って間もなく突然爆発をおこし、下佐波賀と蛇島の間で沈没した」
と、疑問を投げかけていることには注意する必要がある。(*3)  〉 


 〈 一九五四(昭和29)年十月九日付の大阪市西区にある国際新聞社(現在、『大阪夕刊』)のカメラマンが、かの造船疑獄に関係していた飯野サルベージ(飯野重工舞鶴造船所)がスクラップを主目的に浮島丸の解体作業をしていた一九五四(昭和29)年十月、浮島丸の船底撮影に成功し、二枚の写真を新聞に載せた。
写真解説には、
「触雷だと内側に向かって穴があくが、この写真では外側にふくれており、船内での爆発によるものとの推論もうまれてくる」
と記しているが、これは触雷説に重大な疑問を投げかけるものである。
 なお、同紙は、
「沈没直前に生存者は爆発音を三度聞いたといっている。もし、触雷であれば、このようなことはない」
(前掲『国際新聞』)とも記している。
 在日朝鮮人が早くからこれら数々の疑点を問題にしてきたのは当然である。
 青森市で入手した堀江資料には、
「船は釜山行きの予定を変え、突如として舞鶴に入港して『釜山に行ったら殺され、船は没収されるだろう』と、憲兵や海軍将校たちは秘密会議を持ち、船に爆薬を仕かけ沖合で爆沈させた」(一九五四〔昭和29)年四月二十四日付、在日朝鮮解放救援会青森県本部)と銘記されている。
 一九五○(昭和25)年五月号の『民主朝鮮』の元容徳氏の「吉田政府への公開状」(二三ページ)も同趣旨である。
 なお、浮島丸を意識的に沈没させたとする推論を聞き取り調査にもとづいて最も具体的に展開したものは『朝鮮新報』であろう。
「爆発は汽罐室でおこった。日本軍人たちの大部分はすでに甲板の上に立っていたし、爆発と同時にボートに乗り移って逃げ出してしまった。同胞労働者たちと家族は叫びをあげたらみんな船室から甲板に上がってきたが、はしごは一つしか無く船の沈む時、同胞たちの死体が波の間から浮かびはじめた。
 この時、甲板の上には不思議な事件が起きた。朝鮮人である日本海軍憲兵中尉白−南(南は創氏忠清北道出身)という人が突然海の中に飛び込んだ。続いて、日本語で『あいつを殺せ』という声と同時に日本水兵三名がそれを追って海に飛び込んで泳ぎはじめた。然し、海は油でおおわれ水の上に出てきた顔は、黒くよごれ誰が誰だか識別することができなかった。何故、日本の水兵たちが白を殺そうとしたのか、それは白が、《船の中に爆破物が置いてあり、電線が連結されていた》事実を同胞たちに知らせたからだ。
 残忍な日帝は、同胞たちの生命を奪い、自分たちの犯罪行為の証拠を隠滅するために汽罐室に爆発物を装置して、船を爆破して沈没させる蛮行を行ったのである」(*3)  〉 



 〈 今一人、生き残りの女性、徐鳳芽(64歳)は、西舞鶴大森海岸通りに居住していた。彼女は、
「一九四五(昭和20)年六月、大湊に行って防空壕掘りをした。このような中で解放をむかえ、この船(浮島丸)に乗船したわけであるが、この時、家の人びとは六名皆同じ船に乗った。(中略)
 日本の憲兵をしながら朝鮮人に多くの悪いことをしたけれども、やはり同じ朝鮮人は、はっきりと『日帝のやつらが火薬に火をつけて船が沈むようにした』と言った。その時、私たちも突然に船がダンという音をたてて真中から二つに折れるようになるや、われさきに生きようともがいたのに、白は甲板の上におどりあがって、『今、船が沈もうとしているが、これは日帝のやつらが我われを全部殺そうとして意識的に爆破したのである』と、大きな声で叫んだ。そしたら、日本の水兵のやつらが、彼をつかまえて殺そうとして海に飛び込んだ。本当にそのままどうして生き残ったのか、良くわからないけれども、今でも、船を思えば悪夢を見ているような気がする」
と、回想している。(*3)  〉 



 〈 …これに対し、「当時の日本軍隊の、とりわけ指揮部門のものの考え方は異常なものだったことはよく知られており、犠牲も自爆もあって不思議はない。まして戦争終結直後の混乱期という状況を考えると、現在の常識で考えられない行動もあり得ることだ」と「自爆」説への疑念をかくさない。
 疑惑の存在を初めに明らかにしたのは、一九五四年四月十四日行われた大山郁夫、大谷宝潤氏らを発起人とした第一回の浮島丸殉難者追悼慰霊祭の経過の中で、当日の司会を担当した田村敬男氏(日朝協会京都府連合会理事当時)の報告書である。この中で、慰霊祭を挙行するにあたり、現地調査を朝鮮人解放救援会の諸君とした折に、老人達の記憶から引き出したものである。として、
(1)八月二十二日大湊出港と同時に、この船が無事朝鮮につくか否か分からない。日本人将校や水兵は殺され船は沈没されるだろう、とまことしやかに話されていた。
(2)乗船者に配給されるために船に積みこんであった毛布や衣類などの必要物資を海中に投棄しているのを目撃している。
(3)船が舞鶴に近づく頃、朝鮮人憲兵の白氏は、同船底に爆発物が仕掛けられ電線がつないであるのを知り、驚き、湾に入るや船から海にとびこんで逃げ出した。これを追跡する三人の水兵の手を逃れて、朝鮮同胞の家にかくれて助かった、というものであった。(*2)  〉 



 〈 浮島丸事件の真相
  昭和十九年十月九日国際新聞

…いずれともまだ断定はできないようだ。終戦時の混乱のさ中の出来事ではあるし、さらに時日が相当経過しているので決定的なキメ手発見は困難ではないかと見られるが、つぎの諸点に多くの疑惑が残されている。
(1)大湊港を八月二十二日出港することになっていたのに、緊急に二十一日出港とふれこみ、これに乗船しそこねた者の帰国は保障しないといって船内に押し込めておきながら、まる一昼夜、ダイナマイト、銃砲類を多量船底に積み込んだ。
(2)触雷による沈没であれば、船内に向かって穴があかなければならないのに、引き揚げられた船底は外にふくらんでいる。
(3)優秀な外航船でありながら飲料水の補給という名目でなぜ舞鶴に寄港しなければならなかったか。
(4)沈没直前、生存者は爆発音を三度連続して聞いたといっている。もし触雷であれば、このようなことはない。
(5)海に飛び込み、陸にはい上がって助かった者約二千名の逃走を見張り監視した。
(6)死亡者名簿は当局が握って再度の要請にもかかわらず公表しないため、その死亡者数や生存者数にも相当食い違いがある模様で、その後の遺骨引き揚げの数が増すにつれ開きが大きくなっている。(*2)  〉 



爆破テロリストを推理する

いろいろな証言のどこまでが信用できるのかはわからないが、もし、これらの証言がある程度信用できるものならば、の話であるが、−
これらの証言のなかにやはり爆破犯人グループがちらりと姿を見せている。しっかりと見られている。完全犯罪ではない、悪いことはできないものである。
推理小説好きの方なら、これが推理小説ならば、もう爆破犯人の目星は、私が言うまでもなく、お気づきかと思う。
いやわからないナという方は証言をテキトーにしか読まれなかったのかも知れない。もう一度読み返してください。
以下は蛇足。ということでわたくし風に謎解きをしてみよう。

私は以前、浮島丸について書いた時に、
「私としては悲しいことだが、どうも低国海軍(浮島丸に乗り組んでいた一部の低国軍人だが)が犯人でなかろうかの説に傾いている。そう考える説も多いので、彼らのために私見をたてて弁護してやれば、本来は船を沈めるとか、朝鮮人達を殺すという意図はなかったであろう、エンジンだけを爆破・破壊して動かなくしようとしたのでないかと思われるのである。エンジンの三箇所ばかりに爆薬を仕掛けたのだが、計算違いで火薬の分量が多すぎた、目的に反して船底までも破壊してしまったのでなかろうか。」と書いている。「浮島丸事件」
これを書いたときは、こんなことは私しか考えないのか、誰かほかにも普通なら考えそうな推測なのだがなと不思議に思っていたのであるが、さらに資料を読みかえしてみると、やはり見落としていた。同じ思いをいだく人があった。

 〈 そんな思いを抱いている時、私と同様の疑問を口にした旧海軍関係者に行き会った。
 旧日本海軍の掃海艇の将校であるA氏に浮島丸爆沈の状況について意見を聞いた時、
「舞鶴湾の水路上で八月二四日に触雷するというのはたしかにおかしい。普通はありえないことだが……
もし、誰かが自爆させたとするならば、それは下士官クラスの者が謀ってしたことだと思う。
 敗戦の混乱の時、艦の実権はそのような下士官に握られていたし、実際は彼らが最もよく精通していたからね。何人かで謀って爆発物を仕掛けたとしたら、それは誰がやったかはわからないよ。しかし、それは警備府や艦長らの命令・指示とは関係ないのじゃあないかなあ……」
と言う。
状況だけから推測するならば、「大海令」による航行禁止処置も知らない乗組員の誰かが、釜山行きを阻止するために船内で小爆発を起こして機関等の故障を狙ったが、予想以上の爆発で艦が沈んでしまった。
という状況が考えられるということなのである。(*1)  〉 
彼はプロの掃海屋将校だそうだが、別に素人さんでもこうした推測は一般に成り立つと思われるのである。これが第一の解とするなら、さらに残された証言を検討すると、もう少し犯人像を絞り込むことができると思われる。誰もこれは書いていないようなのだが、第二の解も得られる。

証言によって食い違いがあるが、わたくし風に大筋を復元してみると、−
爆発寸前に白憲兵が追っかけられているのが目撃されている。憲兵は追っかける側の者であるはずなのに、なぜ追っ掛けられたのか。彼は誰に追っ掛けたのか。
これは爆発前の光景であったと思われる。爆発してからでは、そんな状況を誰も見ていられた状況ではなかった。自分の命が危ない中で、呑気にひとのことなどかまってはおれるわけがない。
普通は追っ掛ける憲兵が、なぜか「殺せ」と言われながら追っ掛けられ、彼は懸命に逃げていたから、この不思議なこの世ではあり得ぬような光景が人々の記憶に強く残ったのではなかろうか。これは大筋では本当のことであったと思われる。誰かが後に思いついて、でっち上げられるような話の内容ではない。この事件についての記憶まちがいや思い込みによる証言の食い違いがあるが、大筋こんな事件がまず事実あったと見られる。
 だからこの時に白憲兵を追っかけた「水兵」グループが爆破犯人である。仮にも憲兵を「殺せ」といって追っ掛けたのだから、よほどのグループである。下っ端水兵だっただろうか。
証言を信用するならば、爆破の主犯はたぶん日本海軍憲兵グループだと思われる、本心はいやいやながらも職務関係上白憲兵も最初は一味に引き込まれていたのかも知れない風も見える。
憲兵なら艦長機関長から独立して勝手に船内を動いていても誰も怪しまない。船内のどこへ入ってもとがめられたりはしなかったと思われる。ちょっと調査するなどと言えばどこでも入れただろう。これは不審だから持ち帰って調査すると言えば何でも自由にどこからでも持ち出せたであろう。
朝鮮へ行くのが一番怖かったのも彼らであろう。乗員の中で一番逃げ出したかったのは彼らであろう。怖ろしくて怖ろしくて逃げたくて逃げたくてであったと思われる。そんな所へいけばワシら官憲は最初に殺されると信じていたことであろう。彼等がそうしてきたように敵国もすること間違いないと信じたと思われる。
官憲といえば、低国のもっとも忠実な番犬である。犬は飼い主に似るという。飼い主そっくりのもので、低国のもっとも低国らしいおぞましい精神を体現したものである。犬が飼い主に似るのか、飼い主が犬に似るのか、低国と官憲は同じものと見ていいのであるが、官憲(=低国権力)がいろいろとわるさをしたらしいことは歴史上よく知られている。それらは氷山の一角であろう。都合の悪い日本人や朝鮮人を殺すくらいは朝飯前である。

今は建前的には自治体警察的ではあるが、体質は昔の官憲・国家警察を引き継いでいるようで、裏金はつくる、それを「密告した」という正義の警官は左遷する。組織ぐるみの税金ドロボー犯罪者集団にもなっていて、市民が「クソ公務員」と呼ぶ筆頭に立っている。「また京都府警か」と言われるくらいに不祥事が相次ぐのだが、何とかカニとか税金をくすね取ろうとすること以外には頭のない「確かな与党」ばかりの政治状況なので、これを追求する正義の政治家は京都にもない。口先だけは違うというが、実質は似たもの同士、何ら官憲と変わるところがない。


 〈 ・火薬廠の引込み線ガソリンカーから松尾寺駅で乗換えを待っている時、「火薬廠」の話をしたので特攻に「秘密を漏らした」と「特攻」に連れて行かれた。そんな事があって駅や列車の中では何も話さないようにしていた。
・私は、電話交換の仕事をしていたが、男の人と歩いたり、話したりしていると直ぐに「話しをしていたのは誰か、どんな話をしていたのか?」と聞かれた。私は「監視されている」と思った。
・火薬廠では、みんな一生懸命働いている。用もないのにジロジロとよその工場を見る事は、直ぐに疑われる。 (この事はよく徹底をしていました。其のためにいろいろな事を質問しても、自分の職場しか分らない方が多く、管理体制の徹底ぶりがよく理解出来ます。)
・そんな事があったりして、松尾寺駅から火薬廠までのガソリンカーの中は、夜間の空襲警報が連日続き、皆寝不足で少しの時間でも寝ていた。あまり話をするようなことがなかった。(*4)  〉 
「特攻」と書かれているが、それなら特別攻撃隊であり、ここには不似合いである。たぶん特高の間違いかと思う。特別高等警察とかいったと思うが軍の憲兵のような内務省警察の憲兵のようなものである。
彼等は後ろ盾があれば強そうにしているが、それが一端崩れると−

 〈 ・終戦の時、「今までいじめられてきたので朝鮮人がメチャクチャするで=暴れるで…」といわれたが何の事はない、一番先に逃げたのは憲兵と巡査だった。(*4)  〉 
所詮はこうした卑怯者・裏切者である。アメちゃんがいれば強そうにキャンキャン吠えるが…、どこぞの国の政治屋集団のようなものである。ご主人のアメちゃんはこんな幼児的テイ脳な連中の都合に合わせてはおれぬと勝手に頭越しに己が政策をすすめていく。ワシのことほっとくんかいと犬は泣き言をいい油をあげますので、どうか私らを見捨てないでほしいと情けないの限りをつくす。
あるいは後に市や市教育委員会、できれば政府などがあれば、偉そうに吠えたくるが、そうしたバックに強力な上部のものがあれば、その権威をかさにきて好き放題をするが、自分一人なら何の信念もあるような者ではなく、さっさと尾っぽをまいておとなしく逃げ出す…、どこぞにも一杯いっぱいおりますような卑怯なクズ連中と見て貰えばよくわかると思われる。
憲兵はあまり出世はできないらしいが、浮島丸日本人犠牲者名簿の中には何とも憲兵らしい者となると、等級が略名でしか書かれていないので、私にはわからない。憲兵と書かれたりしてはっきりわかるものはない。
海軍憲兵については大村さんが書いていた。『舞鶴文化懇話会会報』(76.3)に、


 〈 戦時要塞地帯における写真撮影について
        大村重夫

 戦前から戦時にかけて要塞地帯では陸海軍当局の許可なくしてカメラを所持する事すら不安を感じました。舞鶴でカメラを所持し撮影するには、舞鶴海軍鎮守府指令長官並に舞鶴陸軍要塞部司令官に許可申請をして、厳重な身元調査をされて交付される撮影許可証を所持しなければ、一切の撮影は禁止されて居りました。許可条件として、撮影済みの写真は必ず両司令部に提出し校閲を受ける事、山の稜線、海岸線は勿論の手市街地の撮影でも山や海岸が写って居ればその写真はネガ共に没収される、この事は戦時になって尚厳しくなりました。検閲が通れば検閲済みのスタンプを押印され、始めて公然と人にも見せられると云う、今日考えますと全く馬鹿げた話ですが、当時は許可なくこれを犯せば軍機保護法に触れ、軍法会議にかけられ弁護士も付けられず一方的な判決で゜重刑に処せられました。私は少年の頃より写真に興味を持って居りましたので、当然両司令部へ申請して交付を受け、許可証は常に所持して居りました。当時のアマチュア写員愛好家は、この許可証の交付を受ければ鬼の首でも取ったような喜び様でした。
もよりの者が広島より訪れて参りましたので、宮津へ案内して文珠さんの境内で記念撮影をする心算でカメラを肩ににして東舞鶴駅へ出ましに処、改札口に憲兵が立って居て写真撮影の許可証の有無を点検し何処へ行くのか、何を撮る目的か等を尋問され、宮津の文珠さんのや堂の前で記念撮影するので海岸も山も撮らないと云いましたが、宮津へカメラも持って旅行するとは怪しからん話だ、敢て持って行くと云うなら此の場でカメラを没収すると云う高圧的な態度で、帰るまで駅長室の金庫に保管して貰えと云うので、仕方なく駅に保管を頼みました。(泣く子と地頭には勝てぬとはこういこうことかと思いました。)折角の宮津行きも不愉快な一日を過して帰りましてから早速憲兵隊宛に、私としては舞鶴の陸海軍の最高責任者が発行した訂可証を所持して居り、許可条件は守りますと駅頭で憲兵に弁明しても尚且駄目だと云われると、許可証を過信して何時無意識の内にでも軍機保護法に触れる罪を犯し国家に不利益を与えるかも知れませんので、以後写真は撮りませんからこの許可証は返納するという意味の文章を書いて送りました。その数日後に中舞鶴憲兵隊より呼出しを受け、担当の憲兵がこの手紙はお前が書いた物か、この文章を見るとお前は日本帝国の官憲に対し反感を抱いて居る、官憲に対し反感を抱くという事は、これ即ち恐れ多くも天皇に対し反感を抱いて居るという事だ、お前は左翼主義者か、身元調査をする間一週間程留置所に入れると云うので、私の身元調査は許可申請の段階で調査済の筈だから結構でしょううと反論しましたら、結構とは何事か、何んとかかんとか文句を云う奴だ、留置所に入れと真赤な顔をして立ち上がりましたので、留置所に入れられては大変に事になると思い、私も軍隊生活の経験がありますのでそれ以後は相于の話に反諭せず、軍隊口調で、「ハイ」「ソーデアリマス」と対応しして、永々と説教をされ(これを当時の軍隊で学科をするという)、やっと放免になり、やれやれと安心する半面腹立にしい複雑な思いでした。
 当時の軍に於いては軍機保護法と云えば、あの悪法治安維持法に勝るとも劣らぬ厳しい取締りをして居りました。現在国道二十七号線添いにある自衛艦の繋留されて居る所は当時潜水艦の基地で、その対岸にある工廠では上陸用舟艇や特株潜航艇等を搭載する艦を建造中で、これが極秘工事のため一般民間人に見られぬよう今の日立造船所の正門の辺りから自衛艦基地の山の所まで高い塀を張り、その辺りでうろうろして居ると警備兵や憲兵に注意を受け不審な奴だと思われたら憲兵隊に勾引され取調べを受けるという有様で、今の若い人達には考えも及ばなぬ恐ろしい、時代でした。
 憲兵と云う軍の警察制度については、私の弟が戦時中憲兵伍長でしたので彼の話を聞きますと、その出身階級は憲兵隊長等幹部将校はには各地の帝国大学(現在の東大等)の法科卒業の法律専修者を採用し、下級の下士官、兵の憲兵は中産階級以下の出身者で旧制中等学校以下の卒業者で、各部隊間の中で成績最優秀の兵の中から希望者を募り憲兵学校入学の受験をさせ、合格者は憲兵学校で一年間帝国憲法を始め軍警察の法律を教育し、各地方の憲兵隊へ配属勤務を命じたものでした。彼等は中等学校以下の教育しか受けていないため軍隊を除隊して社会に出て就職しても大した出世は望めばいが、憲兵になれば一般民間人は勿論の事、軍の中では下士官伍長の階級で高級将校である佐官級まで取調べが出来ると云う大きな権力が与えられ、将来は尉官級まで昇進出来るという望みを持たせ、彼等を天皇制軍隊の中では絶対に裏切る事なく忠実な犬のように働かせるという、階級制度を利用して、軍は実に巧妙な制度を作ったものだと思います。
 私は今でも下手の横好きで写真は続けて居りますが、何処で何を撮ても誰にも咎められる事のない平和な世の中になったものと思いますが、内外の情勢を見ましても平和についてはまだまだ沢山の問題があり、子孫のためにもより良き平和な時代を作る事に努力する事が我々に課せられに使命かと思います。  〉 
こんなように私は推測するのであるが、いかがなことであろうか。




「憲兵のしわざだろう」という話は、これを書きながら思い出していたのだが、どこかで何かで読んだ記憶がある。
そうした話を港湾関係者から聞いた、とかいう話だったと記憶していて、その文書記録を探すのだが、出てこない。この私のパソコンの中にあるのか、ないのかもわからない。そんな話は唐突で、信じられなかった当時の私が、エエかげんな事を書きくさって、などと考えて、その資料を大事には考えなかった可能性が高く、たぶんもう見つからないかもわからないので、私の記憶も失われないあいだに、ここに書いておくのであるが、書かれた方が、そうした話を港湾関係の上部層で聞いたことがある、という簡単な内容だったと思うのである。証拠も挙げられてはいなかったが、その話の出所者のその人個人の勝手な思い込みとかいうものでなく、いろいろ各方面の情報を交換しながら港湾管理の上部層の間では、事故当初から、犯人は憲兵だろうと、うすうす目星をつけ、まず間違いないと確信を持っていた共有認識だったではなかろうかと想像するのである。今は舞鶴のどの港湾関係者に聞いても「さぁー」であろう、そうした記憶はすでに失われているようである。
しかしこれはまことに不都合な話になるので、すぐにもみ消され、触雷とすることになった、そのようにも思われるのである。引き上げて調査もしなかったし、解体で引き上げた際には国は調査官も送って来なかったのはそれだけの理由があったのではなかろうか。記憶が薄れるのを待って闇から闇へ事件を葬り去る、これが方針であった、今もそうである、−かも知れない。
腐った××市議会のように、市民病院を潰した原因を調査する委員会の設置を否決したようなことで、まともに調査していない政府が言う「死亡524名」「触雷」は、そのままには信用できないハナシになる。



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引用文献
*1−『浮島丸釜山港へ向かわず』(金賛汀・1994・かもがわ出版)
*2−『浮島丸の記録』(殉難者追悼実行委・1989)
*3−『アイゴーの海』(下北からの証言発刊をすすめる会・1992)
*4−





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