〈
沈没し電探を海上にさらしている浮島丸の向こうを通る船はソ連からの引揚船興安丸で、喜びと悲しみの両極を写した貴重な一枚は、市内の写真館経営三浦日出夫さんの提供である。(*2)
〉
すごい写真が撮れたもの。小舟を浮かべて問題意識を強く持って、接近しないとこんな写真は撮れない。
かなり狭かったであろう、佐波賀寄りの航路を興安丸は取っていたことになる。しかし背景がシロトビしていて、大浦半島の山並が見えないのはどうしたことであろう。焼き付けで処理したのだろうか。
たとえ背景でも大浦半島などが写ることは、戦前戦中はもちろん厳禁であった、ヘタしたら死刑である。
平引揚港の背後になる三浜峠が低く、日本海の外海から軍港内まで、峠越えで艦砲を撃ち込むことができる。舞鶴湾口は機雷封鎖できても、三浜小橋沖に艦隊をまわしてここから射撃されると軍港防戦の道はなかった、舞鶴軍港一番の弱点とされてきたという。絶対に隠しておかねばならぬ所であった。
→下の写真の位置から舞鶴軍港の中枢まで直線10キロである。ちょっした艦砲で充分に射程内である。峠の稜線に着弾観測兵を出して射撃すれば、百発百中であろう。
昭和20年7月30日の空襲では、この小橋の葛島沖で網入れ中の漁船が襲撃されて四人が死亡し、三浜の丸山国民学校校舎も機銃掃射を受けた。という。小学校にはその時の弾痕が残っているという話を聞いたことがある。ここも戦場だったのである。
『丸山校百年誌』には、
〈
(昭和20・7・30)舞鶴空襲、米軍艦載機の空襲をうけ、丸山校も被弾破損し、葛島沖網入中の校区民の船が爆破され、四名が死亡する。
〉
優れた百年誌だが、なぜか戦争についてはこれしか記録を残さないのが惜しまれる。しかし次のようにも記している。
〈
こんなに、いろいろな事が残っていたのは、僻地として長く陸路が遮断されてきた事情や、舞鶴軍港という閉鎖された地域であったことが、歴史的な足跡を罐詰めのように残してきたからだとも言えます。
〉
『丸山校閉校記念誌』には、
〈
20.7.30 米空軍舞鶴地方空襲のため、丸山小学校被爆2教室崩壊する。
〉
〈
私の学校「丸山校」
昭和二十四年度・三十四年度育友会会長
松本友春
…
昭和二十年大東亜戦争の為、同年校舎は米軍の空襲に合い、校舎の屋根はバクグンの為大きなあなが出来、校舎全体が、大ゆれしてガラス窓には一枚のガラスもなく生徒達は寒い教室での授業を余儀されて可愛想だった。…
〉
〈
我が身太平洋の防波堤とならむ
昭和四十三年度育友会会長
加藤 潔
…
校舎で、幾度出征兵士を送る歌が歌われた事か、校庭の桜が知っています。
勝ってくるぞと勇ましく……
〉
そうしたことならば、攻撃を受けても文句はいえない。軍事施設と変わらぬ扱いとなろう。
私は愚かにも、その当時の穴があいてないかとキョロキョロと探したりしたが、今残されている校舎でなく、それ以前の建物のようである。
西隣になる『大丹生小学校閉校記念誌』も、
〈
20.5 縁故疎開児童が多数入学する。
20.7 校舎の西北200メートノし付近の山林に爆弾が投下爆発し、窓硝子等が被害を受ける。
〉
〈
昭和初期の学校や子どもの様子
…昭和六年九月の満州事変に端を発し、同十二年の日華事変後は次第に戦時色が濃厚となり、戦時体制へと移行していきました。
また、町村合併も行われ、翌十三年に舞鶴市と東舞鶴市が発足し、翌十四年舞鶴鎮守府が復活、軍港都として人口は急速に増大しました。
戦時色もいよいよ濃厚となり、戦時体制への教育改革が次々と進められて、ついに昭和十六年三月の『国民学校令』の公布となりました。同年十二月太平洋戦争に突入してからは、すべてが戦時教育体制の強化に集結されていきました。
昭和十六年『国民学校令』の施行によって、明治以来およそ七十年間、人々に親しまれた小学校の名称が『国民学校』と改められました。
このような情勢の中で、東舞鶴、舞鶴両市の合併が進められ、昭和十八年に新しい舞鶴市が誕生しました。
当地大丹生でも、戦争と直接かかわりをもっていきました。浦入一帯が軍事用地として活用されたり、砲台が作られたりしました。昭和十九年には、学童疎開がはじまり、大丹生校区へも縁故疎開などで児童数も一時的に増加しました。昭和二十年には、大丹生にも小型爆弾が投下され、学校のガラスが壊れるということもありました。
〉
〈
吾が青春の故郷 大丹生小学校
昭和十四年〜二十一年三月在職
井元 芬
…食糧増産が叫ばれ小学校でも教科の時間を犠牲にして学校の裏山の頂近くを開墾して甘藷を植え毎日水をやりに往復したこと。戦争が激化するにつれ湾口封鎖の機雷投下のために連夜敵機の襲来があり、学校の裏山の枇杷畑に落ちた一発が爆発し学校中の窓ガラスが壊れてしまったこと。…
戦争というものをまざまざと実感させられた艦載機による空襲。ああわてて逃げ込んだ防空壕から見た敵機の機銃掃射。
終戦。あちこちで始まった製塩。校庭に水槽と太い藁縄で作った道具での製塩。浮島丸のこと。帝立丸のこと。…
〉
この方は与保呂の方で、私のオヤジとは同級生だったと聞いたことがある。こんなことならお邪魔して話をうかがうのだったのだが…
南隣の『平校閉校記念誌』は、
〈
20.7
空襲波状的に二四時間爆撃となる
九時四十分より十時五十分まで平民家二箇所に投弾・機銃掃射十数箇所・艦載機数十機
〉
さて、要塞地帯のもっとも厳しい警戒監視地区だったと思われる、平と三浜・小橋を結ぶ、大浦半島を横断する三浜峠は、いまこそ見通しのきくアケッピロゲのすごい観光道になっているが、それは戦後のことであって、軍港当時は、人が歩いてすれ違うのもむつかいし程度の幅1〜2メートルの小径であったという。この峠道をカメラなど持って越した日には、憲兵に捕まえられたという(『港の景観』による.)。
たいした用もなくのんきに風景見物などしながら旅人が歩けるような道ではなかった。道をわずかでも拡げるとか、村のわずかな民俗調査なども、軍の警戒が厳しくできる話でもなかったようである。
そのきびしい監視の中をこの峠を調査目的で越えるのは山本文顕氏くらいだったかも知れない。
「丹後の冬は雪深い。昭和九年、一月の寒い雪の日に、ただ一人で道のわるい三浜峠を越え、遠い昔からの史実を尋ねて行かれる山本文顕氏の姿を、当時の人々はよく見かけたという。なんとしても、初志をまげられず、殆んどの人が声をひそめてしまった時に、なお問題の雄島所有権をあきらかにするため、昔から冠島を共同管理していた三浜、小橋、野原へ、降りしきる雪、肌さすような寒さのなか、ゲートルに地下足袋姿の山本文顕氏が何回となく峠越えをされたということである。」(清水厳三郎氏・『海の景観』より孫引)。舞鶴もバカにしたもんでもないね。舞鶴にもゴッツイ人がいた。
大浦半島の村々、道々、峠々、山々などはすべて、特にそうしたことであった。あるいはそうした暗い時代の習性がこの時にもまだ生きていて、このプロの写真家は大浦半島を消したのかも知れない。
浮島丸事件:第一次の引き上げ
1950(昭和25)年
浮島丸は昭和20年8月24日に爆発して佐波賀沖に沈没したのであった、犠牲者数は隠されているがおそらく本当は3.000名以上といったものであったと推測できる。爆発原因も隠されているが、恐らく先に書いた通りの自爆でなかったかと推測できる。
すぐに船体を引き上げて、すべての遺体を収容し、事故調査などをするのは当然だと思われるが、実際には何もなされず、一行の報道すらもなかった。当然のことが何もなされなかったのである。低国にはそんなことなどはまことにまことにまったくどうでもよいことなのであった。自国民が引き揚げてくれば万歳万歳であった。朝鮮人なんか知りまへん、すぐ脇に何年も沈んだままでも知らん顔。上の三浦氏の写真は自分さえよければいい、そうした低国の手前勝手をみごとに写し取っている。
さて、戦争で船は全部沈められたので、日本は大変な船舶不足のなかで、昭和24年ころに、浮島丸所有者の大阪商船から引き上げて再利用したいからと飯野サルベージに沈没状態の調査依頼があったという。
〈
その間の事情を朝日新聞は、次のように報じている。
「まず半分を引揚げ
舞鶴湾に沈んだまま、ついに五年の年月を経た浮島丸(三千?トン)がこの中ごろから飯野サル ベージで引揚げることになった。
同船は元大阪商船が沖縄航路に使っていた優秀船で終戦後触雷して沈んだ際、船体が二つに折れ たとみられ、当時の模様から引揚げてもエンジンの再使用は不可能ではないかと、半ばあきらめていたが、その後三回にわたる調査で、船体の上部こそ二つに割れているが底部は原型のままで残り、機関部にも思ったほどの損傷がなく、とりあえず、後半分を引揚げ、再使用できる見通しがつけば、前半分を引揚げ、元の浮島丸につなぎ合わせようと苦心することになった」(大阪本社版一九五○年二月一○日付)(*1)
〉
遺体を収容するとか事故調査などといった考えは頭よりない。海兵団などに埋葬された遺体も、この時点ではそのままにほったらかされていた。
船に乗るのが怖くなり舞鶴にそのまま住み着いた朝鮮人たちからの強い抗議を受けたのであった。浮島丸を引き上げる前にこれだはどうしてもやってくれというワケであるが、それはどれも当然すぎるほど当然なものであった。
〈
その間の事情を、地元紙は次のように報道している。
「浮島丸を引揚げ
舞鶴湾内の沈没船
舞鶴湾内佐波賀沖にマストだけをのぞかして沈没している元海軍徴用船浮島丸(四、七三○トン大阪商船所属)は終戦以来五年間放置されていたが本年になって大阪商船に返還されたので引揚げを行うことになり飯野サルベージの手で十三日午後一時から現場で着工式および朝鮮人死没者の慰霊祭が行なわれた。同船は海軍省徴用船として終戦時大湊海軍徴用工員の朝鮮人を送還するため大湊を出港して釜山に向う途中、舞鶴に寄港した二十年八月二十四日午後五時十五分前記佐波賀沖で触雷沈没したもので当時、海軍側から舟艇を動員し救助に万全をつくして大半を収容したが一部死没者が出たものである。これにたいして朝鮮側は故意のものであると疑念を抱いて問題となり、朝鮮側と再三交渉が行なわれたが、乗船人数の問題で解決を見ず、また去る二月一日、地元朝鮮側から触雷の真相、乗船人員の究明、死没者取扱いについて申し入れがあり、一方、舞鶴寄港は連合軍命令で日本船舶の航行は二十四日午後六時以降禁止するの条項によって舞鶴港に寄港したというハツキリした事実があるので飯野サルベージでは引揚げに当って船中にある死者については特に丁重に取扱うよう留意しており、さらに旧海軍もその復員処理に万全を期している。
なお同船は船体が二つに割れ、どろの中に相当食い込んでいるので引揚げ作業もかなり困難であるので早くて七月末ごろ完了する模様である」(『京都新聞』昭和二五年三月一四日)
地元・京都新聞による浮島丸事件報道はこれが最初だが、その内容は舞鶴復員残務処理部の主張に沿ったものである。(*1)
〉
しかし今以て原因も犠牲者数も調査されたとはいいがたく、現地慰霊祭に政府(厚生省)が形ばかりの電報をよこすようになったのもごく最近のことでしかない。
調査の結果、機関の破壊状態から浮島丸を再利用することは困難と判断され、引き上げは中止された。沈没原因の調査ではない、あくまでも再利用できるかどうかの調査であった。海に残った遺体はまたもそのままほったらかしとなった。
浮島丸事件:第二次引き上げ
1954(昭和29)年
後半部だけは引き上げられた。そのときまったくの事のついでに遺骨も収容された。103柱だったと言われるが、正確な数字ではもちろんない。
その後に朝鮮戦争(1950〜1953.7.27)が勃発し、米軍特需で日本は好景気に沸き、鉄資材も一気に値上がりした。
それならば浮島丸を引き上て、鉄くずとして売って、大儲けしようと考え出したわけである。大阪商船から大蔵省に浮島丸所有権は移管されていたのであるが、払い下げの申請が多くの企業から出された。
〈
その間の事情を新聞は、次のように報じている。
「終戦直後の昭和二十年八月二十四日朝鮮人三百七十名の生命とともに舞鶴湾内で触雷、沈没してから八年間海底に眠り、引揚げるかどうかで問題になっていた元大阪商船客船浮島丸(四七三○トン)−現在国有−がいよいよ払下げられることになり三日午後二時から近畿財務局でこの払下げ入札が行なわれた結果、飯野重工業株式会社−元飯野産業株式会社−が二千五百万円で落札、近く同社の手で引揚げられることになった。……
入札は山下汽船、飯野重工、川崎重工など六社によって行なわれ、飯野海運が落札したが、海底から出てくる遺骨に対して朝鮮人がどう動くか注目されている」(『大阪新聞」昭和二八年一二月七日付)(*1)
新聞の報道どおり、在日朝鮮人の怒りが爆発した。犠牲になった朝鮮人のことは何一つ考慮に入れられることなく、事態は進行したからである。
もともと浮島丸の乗客である朝鮮人たちは、日本政府が戦争遂行のため、権力を背景に嫌がる人々を強制的に朝鮮から連行し、強制労働を押しつけた被害者である。強制連行地の下北半島でも多くの犠牲者を出し、日本が戦争に敗北すると、再び日本国の御都合で強制的に送還すると乗船させ、死亡させてしまった人々である。
それは当然、日本の国家の手で手厚く処理されなければならない人々の遺体ではないか。
それにもかかわらず、船体の引き揚げも遺体の収容も、すべてが民間企業の利潤追求のかたわら、添えもののような形でしか処理されないことに対する在日朝鮮人の怒りが、第二次浮島丸引き揚げの時に爆発した。
舞鶴地方復員残務処理部や関係官庁に対する朝鮮人の要請団が、抗議と要求を掲げて毎日のように押しかけた。
その要求は、沈没原因の究明、死没者数の確認及びその補償、そして死者に対する手厚い遺骨の取り扱いと供養であった。
日本政府は、これらの朝鮮人の要求をほとんど全面的に拒絶した。
沈没原因は触雷説で押し通し、死亡者は確認ずみであると主張。そして補償は南北朝鮮との間に国交がないことを理由に、朝鮮人の要求を拒絶したが、遺骨の収容と手厚い取り扱いだけは一応約している。
交渉は何の進展もみないまま、サルベージが強行されようとした。
要求行動の中心になっていた朝鮮民族解放救援会は、日本の諸団体、人々にも実情を訴え、闘争への参加を呼びかけたが、日本人の参加ははかばかしいものではなかった。(*1)
〉
これは過去の話ではなく、今現在もこの通りのことである。情けない話であるが、こうした国に未来があると思われるだろうか。
〈
田村氏は、一九二○年代からの左翼運動者であり、京都では末川博元立命館大学総長らと共に民主運動に挺身、朝鮮人問題では大山郁夫早大教授らと共に運動をされた老闘士である。
京都の下鴨神社近くの自宅で、健康を害して病床に伏しておられると聞いて、話は聞けないとあきらめかけたが、ともかく電話を入れてみた。
電話口に出られた田村敬男氏は、「話をするぐらい大丈夫だ」との御返事である。
早速、自宅を訪問した。
「浮島丸とは古い話ですね」と、なつかしそうに当時のアルバムをテーブルの上に開き、写真を見ながら、
浮島丸遺骨収容に参加したいきさつを語ってくれた。
「浮島丸が飯野サルベージ会社に引き揚げられ、スクラップとして処分されるというので、舞鶴にいた朝鮮の人や朝鮮民族解放救援会らが、それでは船内に放置してある遺骨や、沈没の原因がわからないと抗議している。日本人にも応援を求めているというので、私も、それは人道的見地からも当然、日本人がやらなければいけない仕事だと思ったので、朝鮮の人たちと一緒に復員局−当時は援護局になっていましたか−に、抗議に行ったんですよ。
援護局でまず、朝鮮の人の遺体がそのまま船底に残っているというが、誰と誰の遺体が残っているのか、その資料を出して欲しいと要望書を提出したのですが、そんな資料は出せないと言うんですね。
そんな馬鹿なことあるか、誰が死んだのかもわからないまま、うやむやにするのかと大激論になって、資料を提出しないならここを動かない、と朝鮮の人たち数十人と援護局舞鶴支部の前で座り込みましてね。
三日間、座り込んで頑張ったら、援護局の方で渋々、『浮島丸死没者名簿』というのを出してきました。それで、死没者として日本政府が記録している人数が五二四名だとわかったのですよ」
ああ、そうか、私が現有している『浮島丸死没者名簿』はその時の座り込みの抗議で入手した資料だったのかと、手元にある名簿がどのような経過で日本政府から出てきたものか、ようやくにして納得がいった。
それにしても、この日の交渉がなければ日本政府は死没者の名簿を公表することもなかったからであろう、それまでは報道される新聞記事なども、朝鮮人死亡者数をまちまちに発表している。(*1)
〉
〈
苦しかった浮島丸・浮上解体作業
−遺骨保存と作業の統一
作業にあたったYさん(余部在住)
作業にかかったのは、昭和二十七年だったと思います。それまでからこの作業の話はあったようですが、今なお船体に眠る多くの遺体の問題、あるいは賠償のこともあって、難しかったようです。
作業は、まず浮上させてから払い下げを受け、そして解体するということですが、問題はこの間に、遺体の安置保存という大切なことを含んでいたという点です。
船体は下図のように船底部がくっついた状態で、ほとんど真ん中から二つに割れ、前マストと後マストは約六度位のズレで船体上半部がねじ曲がっていました。そこでまず「ヘサキ」と「トモ」の部分を別々に浮上させるため、船底のひっついた部分を切断することになったわけです。
ところがこの作業にマイトを使うということで、朝鮮人同胞の人から強い要請が起こったのです。
〃マイトを使えば遺骨も何も粉ごなになるではないか、冒涜甚だしい〃と、もっともな事です。
私達は、マイトを使うにしても陸地で使うのとちがって、一度に爆破するのでなく、竹でまずワクを組み、それにマイトをとりつけて徐徐に離すことによって切断していく方法を説明しました。それにもう一つ困難であったのは、船の重みをつけるため、数百トンの砂利を積んでいたのですが、長い間放置されているうちに、その砂利の中に埋もれた遺骨の収集作業でした。造船所のドックで排水し、遺骨を一つ一つ洗って箱におさめ、とりあえず東本願寺に安置しました。たしか三百七十体位ではなかったかと思います。
ここに殉難された人々の霊を心より慰めるものであります。(*2)
〉
南京も従軍慰安婦も沖縄住民自決もみな同じで、これらの「事件」は「賠償金欲しいがためのデマとデッチあげ、ウソ」とされているわけある。
見ていた人達やそれに直接に関わった人々がこう証言しているにもかかわらず、まだ生まれていなかった者や現地にいるはずもなかった者が、見もしないし調べもしないで「そんなものはなかった」というし「いやあったとしてもやむを得なかったのであり、犠牲者はずっとずっと少ないはず、強制なんかでありません、自発的なものです、当人達の希望でしょう」とされ、私などは「日本人のくせに、それに加担する誠に情けない日本人」となる。
最近でも慰安婦の歴史認識問題ではアメリカやイギリスまでも、というか全世界を敵にしてしまい、なぜかアメリカ大統領にだけ謝罪するような超お坊ちゃま日本政府であったが、多くの日本人達はめでたくもそうした者どもを固く信じて、せっせと投票をなさるわけである。
事実を凝視できないチョウひ弱なお子ちゃまの精神というか、むしろ〃丸出しのアホ〃とするのがいいのかも知れない。誠に情けない。
裁判も起こされるが、そのような筋となっている。