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浮島丸爆沈書件66周年に際して
祖国解放の喜びを抱いて故郷へ向かう同胞を乗せた日本海軍輸送船「浮島丸」が爆沈され66年の歳月が流れました。
1945年8月24日、この爆沈事件により数千人の同胞が懐かしい祖国の地を踏むことさえできずに海に沈められました。
私は、尊い命を落とされた犠牲者とその遺族に謹んで哀悼の意を表します。
朝鮮人強制連行真相究明調査団は、良心的な各界日本の方々と連携し、この車件の実態解明など、具体的な活動を展開してまいりました。
しかし日本政府は、いまだにその責任を回避し、謝罪と賠償、真相究明に背を向けています。
それどころか、日本の植民地支配の犠牲者である在日同胞にたいして、朝鮮高校生の「高校無償化制度」除外など基本的人権を蹂躙し、「制裁」の名目で不当な弾圧を加えています。
私達は、日本政府が自ら事件の真相を究明し、犠牲者に対して心からの謝罪と賠償をおこない、在日同胞にたいする不当な弾圧や人権侵害を即時中止することを強く求めます。
また、朝日ピョンヤン宣言にのっとり、過去の精算と朝日開係改善に取り組むことを要求します。
歴史的事実は隠すことも歪曲することもできません。
この不幸なできごとを決して風化させてはならず、過去の歴史的教訓を世代を継いで、現在そして未来に活かして行かなければなりません。
私達は、朝鮮と日本の友好関係発展とアジアの平和の為に益々努力することを、ここに改めて約束すると共に、毎年追悼事業などの様々な活動を行われて来た皆様に対して、感謝と敬意を表しながら追悼の挨拶とさせて頂きます。
2011年8月24日
朝鮮人強制連行真相究明調査団 朝鮮側代表
在日本朝鮮人総聯合会中央本部 副義長 朴 久好

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浮島丸下北の会 代表 村上準一氏のメッセージ
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追悼の辞
本日、66回目を迎える「浮島丸殉難者追悼集会」にたいして謹んで追悼の言葉を申し上げます。
事件がおきてから66年がたった今なお、日本政府は公式な謝罪をすることなく、浮島丸事件は多くの謎をかかえたまま今日にいたっています。
浮島丸事件の解明と、生存者・遺族への補償は、『平和国家』への道をあゆもうとするわが国の国際的な責務だと思います。
私達「浮島丸下北の会」も貴会から多くのことを学び、浮島丸が大湊港を出港した8月22日に「浮島丸出港追悼集会」を開催し、今年で第18回を迎えることになりました。
下北半島に住む人たちの中には、いまも「浮島事件のことは知らないし、知りたくもない」「お前たちは朝鮮人の味方をするのか」と、浮島丸事件の否定や民族差別の風潮が多く残っています。
こうした中で「浮島丸下北の会」は、戦争や強制連行の時代を生き抜いてきた世代から戦後生まれの「戦争を知らない世代」へとバトンタッチすることになりました。
新スタッフの当面の取り組みは、舞鶴市の余江美穂子さんが製作した「うきしままるじけん」の紙芝居の上演を通して浮島丸事件の持つ意味を下北の人たちと一緒に考えることだと思っています。
「浮島丸殉難66周年追悼集会」のご盛会を心から願っています。
2011年8月24日
浮島丸下北の会 代表 村上準一
浮島丸殉難者を追悼する会
会長 余江勝彦 様

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むつ市長 宮下順一郎氏のメッセージ (一緒にあったのでここに載せさせていただく)
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追悼の辞
第18回「浮島丸出港追悼集会」にあたり出港地の市長として追悼の青葉を申し上げます。
太平洋戦争を遂行する中で、下北半島は、ほぼ全島が要塞と化しましたが、とくに大間鉄道、樺山飛行場と宇曾利に建設中の一万トン級の乾式ドックの工事完成が急がれていました。
ところが、わが国の若者は軍人として戦地に赴く者や軍需工場に徴用され、この工事に従事することが出来ませんでした。
そこで、当時日本国に併合されていた朝鮮の若者たちが下北半島に連行されてこの工事にあたったのです。
1945年8月15日の終戦からわずか一週間後の8月22日の午後10時頃、大湊桟橋から凡そ4千人と言われる朝鮮の人たちを海軍特設輸送艦浮島丸に乗せ、故国釜山港に向けて出港しましたが、途中で進路を変えて京都府舞鶴湾に入ったときに大きな爆音を響かせて爆沈しました。
日本政府の公式発表によれば朝鮮人引揚者524名、海軍軍人25名が死没したと記録されています。
あれから66年がたったいま、戦争の悲惨さと平和の貴さを次の世代に伝えるためにも浮島丸事件を風化させてはならないと思います。
ここに今集会を企画された実行委員会の方々に敬意を表すると共に、お亡くなりになられた方々のご冥福を心からお祈りいたします。
平成23年8月22日
むつ市長 宮下順一郎

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