浮島丸殉難66周年追悼集会
 2011・8・24 殉難の碑公園


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↑集会は事故現場に近い「殉難の碑公園」(舞鶴市下佐波賀) 
会場はここです。毎年同じ日の午前11時より開催されます。どなたでも参加できます。



浮島丸殉難66周年追悼集会


 2011年(平成23年)8月24日は、浮島丸事件から66年目。「浮島丸殉難者を追悼する会」は、爆沈現場に近い舞鶴市佐波賀 の「殉難の碑公園」に於いて、300名ばかり今年も集会を開いた。
事件後66年が過ぎたが、人的被害の規模も事件真相の解明もほど遠い状況のままに世間からは事件が忘れられようとしている。日本海の、舞鶴湾の、平和も安全も脅かされる状況のなかで、恐らくは数千名にのぼったであろう、あの日の無念の犠牲者の鎮魂と慰霊のため、平和と安全安心の確立に向けて集会が開かれた。あの日この海が阿鼻叫喚の地獄の海であったとは信じられない静かな舞鶴湾の一画である。


 2011年集会次第 (主催者のパンフ「浮島丸殉難66周年追悼集会次第」のまま当HPの引用はすべて同パンフによります)  
                     ↓会場準備やリハーサルの風景
浮島丸事件追悼集会'11
浮島丸殉難66周年追悼集金 次第

 〈 
1 開会
2 黙祷
3 追悼の辞
1) 主催者
2) 関係諸団体
   在日本朝鮮人総聯合会京都府三丹支部常任委員会
   在日本大韓民国民団京都府舞鶴支部
4 来賓及びメッセージ紹介
   厚生労働大臣
5 献花
   京都府知事
   舞鶴市長
   駐大阪大韓民国総領事館 副総領事
   朝鮮人強制連行真相究明調査団在日本朝鮮人総聯合金中央本部副議長
6 慰霊の舞  金一志韓国伝統舞芸術院
7 追悼歌 「はまなすの花さきそめて」京都朝鮮中高級学校
8 献花 参加者一同
9 開会  〉 


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 慰霊の舞

 金一志韓国伝統舞芸術院の金一志様
会場の案内によれば、「正式な伝統の舞 無形文化財第57号サプリマイ」だそうです。
慰霊の舞




↑カメラ内の温度が上がると自動的に電源を落とす仕掛けがあるらしくて、そのために途中で記録が切れてしまいました。申し訳ありません。


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 追悼歌「はまなすの花さきそめて」


 京都朝鮮中高級学校生徒の皆様
                        ↓はまなすの花さきそめて(当日の録音。本番ではスピーカーの調整が具合悪く、最初部分が聞こえなかった、これはリハーサルを録音したものです、しかしこれも最後でハウリングが発生していた。)




浮島丸殉難追悼集会'11


↑本番ではスピーカーの調子悪かったのか、前半の音が出ませんでした。この動画はリハーサル時のものです、一部分しかありません。

 
 〈 朝鮮人浮島丸殉難者追悼歌 1985年作成 2000年一部補正

はまなすの花 咲きそめて
          韓 丘庸 作詞
          金 正花 作曲浮島丸殉難追悼集会'11

1花咲咲そめん はまなすの
 丘に眠れる 浮島よ
 (いしずえ)()に こうべたれ
 かの日 偲びつ 遠い影
 ああ わが故郷(ふるさと) ふるさとへ
 はやる心の 流れかし
 うらみは深き 舞鶴よ
  アリラン アラリヨ アラリヨ

2踏みしだかれし 浜辺にも
 行きかう船の マストにも
 つらき涙の 港街
 きみの 叫び声に 振り向けば浮島丸殉難追悼集会'11
 ああ わが故郷 ふるさとへ
 思いこめて 懐かしき
 歌う心の 舞鶴よ
  アリラン アラリヨ アラリヨ

3いずれの日にか 帰りなん
 死して みたまの 帰りなん
 今日も 飛びかう 白き蝶に
 わが同胞(はらから)の 姿見で
 ああ わが故郷 ふるさとへ
 いで立つ人の 慕わしき
 祈りささげん 舞鶴よ  〉 

これまでここにはなかったが、ムクゲでは、↑
韓国国花でもあるという。
北朝鮮国花はスモモとか、ここにあったかな。
犠牲者達の慰霊のため二つの花を植えれば、きっとよろこばれるでしょう。
ハマナスも植えられたというが、気が付かなかった、咲く時期が違うし、あれは砂地に咲くから、ここではかなり難しいかも…
ムクゲとスモモの歌もつくられればさらによろこばれるか…
ちなみに日本は桜と菊。しかし現状では植えれないか、いつの日にか四つの花が咲くことを願おう。


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 献花

 信じられないほどの多数に登った犠牲者たちの冥福を祈り、集会の最後は全員による献花が行われる。この目の前に広がる静かな海で66年前のこの日、実際に起きたことであった。

浮島丸殉難追悼集会'11



いつもよりは引き潮で、カメラマンは波打ち際へ降りやすかったのであるが、今夏はゴミが目立って具合が悪い、手が空いた者があれば、大きなゴミだけでも拾っておく方がよいかも…
浮島丸殉難追悼集会'11



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追悼の辞やメッセージなど


 浮島丸殉難者を追悼する会 会長 余江勝彦氏の追悼の辞

浮島丸殉難追悼集会'11


 〈 追悼の辞
 本日ここに「浮島丸殉難66周年追悼集会」を開催するにあたり、549名の犠牲者の皆様方に謹んで哀悼の誠を捧げます。
 1945年8月24日静けさを取り戻した舞鶴湾に入ってきた浮島丸が、午後5時20分頃ここ下佐波賀沖で、突然発生したすさまじい爆発音と共に、真っ二つに折れて沈んでいきました。静かな海は阿鼻叫喚の生き地獄に一変しました。
急を知った近くの佐波賀の人々などの、懸命の救助活動にもかかわらず、女性・乳幼児を含む乗客524名が、乗組員の日本兵士25名と共に、かけがえのない生命を失ってしまったのです。
 この大惨事には長い歴史的な背景がありました。
1910年(明治43年)日本は統治権を朝鮮から奪い、朝鮮に総督府を置き軍隊を常駐させ、36年に及ぶ、植民地化政策を行ってきました。その結果、土地も仕事も失った人達が激増し、その多くは日本へ家族ぐるみの移住を余儀なくされました。一方、第二次世界大戦が勃発した1939年(昭和14年)からは、年老いた母を残した若者や一家の働き手である父親が、次々と日本へ強制的に連れてこられ、戦争遂行のための労働力として日本の各地で苛酷な労働を強いられました。
 1945年8月15日の日本の敗戦は、それら人々にとって苦役からの解放と明るい未来をめざす日となりました。
 大湊海軍警備府が出した「本国送還」の指示で、青森県下北半島方面で働かされていた朝鮮人労働者とその家族3735人(政府発表)が乗った旧日本海軍輸送船「浮島丸(4730トン)」は、8月22日午後10時に大湊を出発して航行を続けました。連合軍の要求に基づいて発せられた日本政府の命令で、浮島丸が針路を舞鶴に向け、湾内に入った直後にこの大惨事が起きたのです。夢にまで見た故郷や肉親との再会を翌日にひかえて、船内が喜びに沸きかえっていた最中に、予想もしなかった大惨事に遭遇し、尊い生命を失われた皆様の悲しみと無念さは如何ばかりであったでしょう。
 私達は国籍を問わず、いかなる大義があろうとも、人間が尊い人の命を奪うことは許されないと考えます。
私達は広範な市民の方々の浄財と京都府及び舞鶴市のご援助を頂いて、1978年8月、事件発生現場が一望できるこの地に「殉難の碑」を建立し、毎年追悼集会を開催して今日に至っています。
 これは犠牲者の皆様方のご冥福を心からお祈りすると共に、そのような歴史的背景を持つ「浮島丸事件」を風化させず、我が国が過去の過ちと教訓を忘れて、再び同じ道を歩むことを決して許してはならないと考えたからです。
 私は、日本人として、過去の歴史的加害に対して、心より謝罪の意を表するとともに、日本の若い世代に、正しい日本の歴史を伝える事を責務として、追悼事業を続ける決意です。
 私達は、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起きることのないようにすることを決意する」と明記されている日本国憲法の立場に立って、追悼集会を続けてきました。
 東京、中目黒の「祐天寺」には、いまだに故郷へ帰れない「遺骨280体」が残っております。このことは「浮島丸事件」が、また「日本が起こした戦争」の後始末がまだ終わっていないと考えるものです。
 私達が願う日本海(東海)は、友好の船が行き交う平和な海であります。「浮島丸事件」を忘れないことを「日本人の責任」として、事件から教訓を学びとり、、平和の確立に向けてこれからも追悼事業を続けて行くことが浮島丸犠牲者の皆さんとの約束であると思います。
 日朝、日韓、日中国民の友好関係のさらなる発展を念じ、犠牲者の皆様のご冥福を心からお祈りして、追悼の辞と致します。
2011年8月24日
浮島丸殉蔵者を追悼する会
会長 余江勝彦  〉 



 在日本朝鮮人総聯合会京都府三丹支部常任委員会 委員長 李 宗一氏の追悼の辞

浮島丸殉難追悼集会'11


 〈 浮島丸殉難66周年追悼の辞
 私は、浮島丸殉難66周年を迎えて犠牲者の霊前に衷心から哀悼の意を表します。
 66年前の今日、《亡国の民》の苦しみと悲しみ、そして残酷な民族差別と虐待に耐え、漸く解放を迎えて、明るい希望を胸に懐かしい祖国に向かった3735名の同胞を乗せた浮島丸が、この舞鶴港で突然爆発し、549名の尊い命が犠牲になりました。
 今から101年前の併合により朝鮮人は、土地や財産、資源のみならず、民族の魂である言葉までも無残に奪われました。
 一世紀という長い歳月が経ち今日に至るも、日本政府は一般的な言葉でのみ、朝鮮植民地支配に対して遺憾であるなど口にするものの、過去精算を誠実に行わないばかりか、この「浮島丸」事件の真相究明も、公的謝罪もそして当然な補償も行おうとしないことに、憤激を禁じえません。
 また、朝鮮民族が解放されて66年が経ちますが、私たちは祖国分断という大きな苦痛を今現在も被っています。
 分断という大きな苦痛だけでなく、制裁を始めとした日本政府の民族差別政策や日本社会の中で絶え間なく息づく排他的傾向の渦の中で、同胞たちが、民族教育を始めとした人権を侵害されることに、私は強い憂慮を禁じえません。
 朝鮮総聯は、同胞たちの二重三重の苦痛を少しでも和らげるために、あらゆる問題に対して、民族的主体に基づいて、平和的な対話と交渉によって解決し、今後も、《わが民族同士》の精神に基づいて、一日も早い祖国統一を実現するために全力を尽くします。また、《朝日ピョンヤン宣言》の精神と基本原則に基づく、早期の朝日国交正常化の実現と、北東アジア地域の平和と安定、共栄の為に、大いに貢献してまいります。
 浮島丸撃沈により犠牲者になられた同胞の皆さん、66年たった今も、民族が一つとなって先輩方を追悼できないことをどうぞお許しください。
 最後に、事件当日の負傷者救援をはじめ今日までの真相究明、啓蒙、そして追悼行事などご苦労なさっている、余江勝彦会長を始めとする《浮島丸殉難者を追悼する会》の皆様と地元住民の皆様に、心からの謝意を表し、私の追悼の辞といたします。
2011年8月24日
在日本朝鮮人総聯合会京都府三丹支部常任委員会
委員長 李 宗一  〉 


 在日本大韓民国民団京都府舞鶴支部 支団長  英王氏の追悼の辞

浮島丸殉難追悼集会'11


 〈 追悼の辞
 浮島丸殉難66周年を迎え、韓国民団を代表しまして、尊い命を落とされました殉難者の皆様方に謹んで哀悼の意を表します。
 解放直後の1945年8月24日、過酷な労働から解放された喜び一杯の同胞達は、祖国への帰路の途中、舞鶴港の下佐波賀で爆沈され、多くの尊い命を奪われました。日本が過去の誤った歴史を真に反省すること無く、過去を精算する具体的な行動も無く今日に至っております。
 本年3月11日に東日本大震災で多くの人が亡くなられ、また被災されました我が民団は「東日本大震災被害者支援中央対策本部」を設置し、現地の民団地方本部と協議し救護活動をしております。
 宮城県塩釜市では1000人規模の炊き出しをする等、多くの支援をしておりますまた本国では、マスコミが「隣人を救え」と連日大キャンペーンをはり、大企業、芸能界、スポーツ選手、在日同胞の企業等、それこそ総動員で日本国の支援をしております。これは何かの見返りを求めるものではなく、過去を引きずる事なく単純に「隣人を救え」という人間愛であります。
 東アジアの国家間では領土問題など様々な問題がありますが、この人間愛があれば過去の歴史は忘れてはならないのですが、未来に向かって東アジアが1つになれは「浮島丸」事件の様な悲惨な事は起こらないでしょう。
我が韓半島においでも平和的な統一が成されれば、必ず東アジアの平和に貢献出来ると信じています。
 最後に、当時救命活動に当たられた佐波賀の近隣住民の皆様と、浮島丸殉難者を追悼する会の長年のご苦労に対して、感謝と敬意を表し、私の追悼の辞と致します。
2011年8月24日
在日本大韓民国民団京都府舞鶴支部 支団長 金 英王
通訳 在日本韓国婦人会京都府舞鶴支部 会長 高 悦子  〉 






 京都府知事の献花(代理)

 舞鶴市長の献花

浮島丸殉難追悼集会'11

 駐大阪大韓民国総領事館 副総領事の献花

 朝鮮人強制連行真相究明調査団 在日本朝鮮人総聯合会中央本部副議長の献花





 厚生労働大臣 細川律夫氏のメッセージ

 
 〈 本日、浮島丸殉難66周年追悼集会が挙行されるに当たりまして、謹んで哀悼の言葉を申し上げます。66年前のこの日ここ舞鶴において海軍輸送船浮島丸が沈没し、多くの犠牲者を出す大惨事となりました。
 この惨事を知る方々も高齢化する今日においてこそ、戦争の悲惨さと平和の尊さを次の世代に語り継いで行かなければなりません。
ここに改めて平和への決意を新たにするとともに、お亡くなりになりました方々の御冥福を心からお祈りいたします。
 なお、厚生労働省でお預かりしております御遺骨につきましては、東京都の祐天寺に丁重に安置されているとこでございますが、親在、外務省等と連携して韓国政府と早期の返還に向けて取り組んでいるところです。
 御遺族の方々並びに関係各位の御健勝を心より祈念申し上げます。
厚生労働大臣 細川 律夫  〉 


 総領事 金 碩基 氏のメッセージ


 〈 総領事追悼辞
<浮島丸殉難66周年追悼集会 2011年8月24日(水)>

 本日浮島丸殉難66周年を迎え、思いがけない船舶沈没事故により犠牲となった多くの同胞の方々の英霊が安らかに眠られることを願い、そして遺族の皆様に深甚なる哀悼の意を表します。
 解放直後であった1945年8月24日、韓国人労働者とその家族500人余りは、浮島丸に乗り祖国に向かう途中で、舞鶴港の沖合いにおいて疑わしい爆発音と共に沈没し犠牲となられました。
 徴兵によって日本に渡ってきてからは、強制労働や差別の中、耐え忍びづらい苦痛を受け、解放と共に祖国へ帰る喜びに溢れていた同胞達の悲劇を思うと、今も言葉にはできないほどの悲痛さを感じます。
 良心的で志のある日本の方々の寄付金と京都府及び舞鶴市の支援により、1978年に「殉難碑」が建てられて以来、毎年追悼集会を開催しているという事実が、遺族の方々にとっては、せめてもの慰安になるのではないでしょうか。
 新しい100年に向かって、韓・日両国が目指す成熟した未来志向的な関係を築いていくためには過去の不幸な歴史に執着してはなりませんが、少なくとも日本社会が過去に対する徹底した反省の上、二度と悲劇的な歴史を繰り返さないという努力を隣国らに示すことが大切だと思います。
 そのような意味において昨年8月、菅直人総理が強制併合100年を迎え、韓国への植民地支配に対し謝罪する談話を発表したことは、意味のある進展だといえます。今後このような謝罪の精神が、韓・日間の過去史清算に向けた具体的な行動へとつながることを期待します。
 何卒、本日の浮島丸殉難66周年追悼集会が、平和に向けた我ら全員の願いと覚悟をもう一度心に刻み、韓・日両国が真の隣人へと成長するために役立つきっかけとなることを願っています。
 最後に、誤った歴史に対する自己反省を黙々と実践してこられた浮島丸殉難者追悼会の関係者や、民団京都府地方本部及び舞鶴支部、そして本日の追悼集会にご参加された皆様に感謝を申し上げます。
駐大阪大韓民国総領事館
総領事 金 碩基  〉 


 朝鮮人強制連行真相究明調査団 朝鮮人側代表 在日本朝鮮人総聯合会中央本部 副護長 朴久好氏のメッセージ


 〈 浮島丸爆沈書件66周年に際して
 祖国解放の喜びを抱いて故郷へ向かう同胞を乗せた日本海軍輸送船「浮島丸」が爆沈され66年の歳月が流れました。
1945年8月24日、この爆沈事件により数千人の同胞が懐かしい祖国の地を踏むことさえできずに海に沈められました。
 私は、尊い命を落とされた犠牲者とその遺族に謹んで哀悼の意を表します。
 朝鮮人強制連行真相究明調査団は、良心的な各界日本の方々と連携し、この車件の実態解明など、具体的な活動を展開してまいりました。
 しかし日本政府は、いまだにその責任を回避し、謝罪と賠償、真相究明に背を向けています。
 それどころか、日本の植民地支配の犠牲者である在日同胞にたいして、朝鮮高校生の「高校無償化制度」除外など基本的人権を蹂躙し、「制裁」の名目で不当な弾圧を加えています。
 私達は、日本政府が自ら事件の真相を究明し、犠牲者に対して心からの謝罪と賠償をおこない、在日同胞にたいする不当な弾圧や人権侵害を即時中止することを強く求めます。
 また、朝日ピョンヤン宣言にのっとり、過去の精算と朝日開係改善に取り組むことを要求します。
 歴史的事実は隠すことも歪曲することもできません。
 この不幸なできごとを決して風化させてはならず、過去の歴史的教訓を世代を継いで、現在そして未来に活かして行かなければなりません。
 私達は、朝鮮と日本の友好関係発展とアジアの平和の為に益々努力することを、ここに改めて約束すると共に、毎年追悼事業などの様々な活動を行われて来た皆様に対して、感謝と敬意を表しながら追悼の挨拶とさせて頂きます。
2011年8月24日
朝鮮人強制連行真相究明調査団 朝鮮側代表
在日本朝鮮人総聯合会中央本部 副義長 朴 久好  〉 


 浮島丸下北の会 代表 村上準一氏のメッセージ


 〈 追悼の辞
 本日、66回目を迎える「浮島丸殉難者追悼集会」にたいして謹んで追悼の言葉を申し上げます。
 事件がおきてから66年がたった今なお、日本政府は公式な謝罪をすることなく、浮島丸事件は多くの謎をかかえたまま今日にいたっています。
 浮島丸事件の解明と、生存者・遺族への補償は、『平和国家』への道をあゆもうとするわが国の国際的な責務だと思います。
 私達「浮島丸下北の会」も貴会から多くのことを学び、浮島丸が大湊港を出港した8月22日に「浮島丸出港追悼集会」を開催し、今年で第18回を迎えることになりました。
 下北半島に住む人たちの中には、いまも「浮島事件のことは知らないし、知りたくもない」「お前たちは朝鮮人の味方をするのか」と、浮島丸事件の否定や民族差別の風潮が多く残っています。
 こうした中で「浮島丸下北の会」は、戦争や強制連行の時代を生き抜いてきた世代から戦後生まれの「戦争を知らない世代」へとバトンタッチすることになりました。
 新スタッフの当面の取り組みは、舞鶴市の余江美穂子さんが製作した「うきしままるじけん」の紙芝居の上演を通して浮島丸事件の持つ意味を下北の人たちと一緒に考えることだと思っています。
 「浮島丸殉難66周年追悼集会」のご盛会を心から願っています。
2011年8月24日
浮島丸下北の会 代表 村上準一
浮島丸殉難者を追悼する会
会長 余江勝彦 様  〉 


 むつ市長 宮下順一郎氏のメッセージ (一緒にあったのでここに載せさせていただく)


 〈 追悼の辞
 第18回「浮島丸出港追悼集会」にあたり出港地の市長として追悼の青葉を申し上げます。
 太平洋戦争を遂行する中で、下北半島は、ほぼ全島が要塞と化しましたが、とくに大間鉄道、樺山飛行場と宇曾利に建設中の一万トン級の乾式ドックの工事完成が急がれていました。
 ところが、わが国の若者は軍人として戦地に赴く者や軍需工場に徴用され、この工事に従事することが出来ませんでした。
 そこで、当時日本国に併合されていた朝鮮の若者たちが下北半島に連行されてこの工事にあたったのです。
 1945年8月15日の終戦からわずか一週間後の8月22日の午後10時頃、大湊桟橋から凡そ4千人と言われる朝鮮の人たちを海軍特設輸送艦浮島丸に乗せ、故国釜山港に向けて出港しましたが、途中で進路を変えて京都府舞鶴湾に入ったときに大きな爆音を響かせて爆沈しました。
 日本政府の公式発表によれば朝鮮人引揚者524名、海軍軍人25名が死没したと記録されています。
 あれから66年がたったいま、戦争の悲惨さと平和の貴さを次の世代に伝えるためにも浮島丸事件を風化させてはならないと思います。
 ここに今集会を企画された実行委員会の方々に敬意を表すると共に、お亡くなりになられた方々のご冥福を心からお祈りいたします。
平成23年8月22日
むつ市長 宮下順一郎  〉 

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浮島丸殉難追悼集会'11←66年前の事件当時の浮島丸乗組員と取材する記者たち。
氏は志願で軍人となり当時16才の通信兵だったという。過去に一度この集会に来られたことがある、やって来たら集会はもう終わっていた。風呂の世話をしていたときに爆発に遭い吹き飛ばされ逃げた、海軍のボートが寄ってきてそれに救われたが、右半身に打撲傷があった。
一歩間違えば死んでいただろう、生かせてくれたのは、何か私に使命が託されているように思うと。





浮島丸殉難追悼集会の記録

2019追悼集会
2018追悼集会
2017追悼集会
2016追悼集会
2015追悼集会
2014追悼集会
2013追悼集会
2012追悼集会
2011追悼集会(このページ)
2010追悼集会
2009追悼集会











関連情報
 66年前の浮島丸事件とその後のおおよその経過は、すでに何度も書いていますのでそちらを参照して下さい。

以前の追悼集会については「浮島丸追悼集会:丹後の伝説17
事件そのものについては「浮島丸事件
など参照して下さい。



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