浮島丸事件:地獄の爆沈現場
浮島丸は昭和20(1945)年8月24日の午後5時20分(15分とも)、下佐波賀の沖で謎の爆発が起こり、そのままほぼ400メートルばかり進み、沈没した。
右の地図はだいたいの位置である。
乗組員たちの証言、
〈
…その日、浮島丸は軍艦旗をかかげ、ゆっくりと入港してきたという。
浮島丸の前方を二隻の海防艦が静かに入港していく。その同じ航路を浮島丸は滑るように進入していった。
当日、艦橋で入港の指揮をとっていた航海長・倭島定雄元大尉は、
「舞鶴入港時、“掃海ずみ”という信号を受けて入港を開始したのですが、私は舞鶴は初めての港だったから、前に入港していく二隻の海防艦の後を忠実に航行したんですよ。
そしたら、突然、ドカン! でしょう。私は飛ばされて倒されましたが、すぐ起き上がって見ますと、艦はまだゆっくりと進んでいて、二つに折れるようにして沈没していきました。
その時、火災も起きなかったし、水柱も立たなかったですね。
船が沈むとすぐに、防備隊のカッターなどが救援に駆けつけて来て、それに救助されました」
と、その瞬間を語る。
同じく艦橋で、航路の計算をしていた航海士・田寺伸彦元中尉は、
「浮島丸が舞鶴に入港する時、私は艦橋に艦長や操舵手らと一緒に立っていました。前方三○○メートルぐらいのところを海防艦が進んでいました。その航路と全く同じところに針路をとり、浮島丸はゆっくりと進んでいたところ、突然『ドカン!』です。
私ははね飛ばされるような形で尻もちをついて、「あれ! どうしたんだ? 何だ?」と思っていると、艦長が大声で叫んでいるんです。『航海士、位置出せ!』と。それで私はあわてて飛び起きて、海図とコンパスで忠実に位置を出そうとしていました。
舞鶴湾内でしょう。そんなことをする必要もないのに、日頃の習慣でそうしたんでしょう。
艦長にしても突然の『ドカン!』で、習慣的に「位置出せ!」をやったのだと思うのですが……」
同じく艦橋右側の窓ごしに、前方の見張りをしていたという斎藤恒次元上等兵曹は、
「舞鶴に入港の時は、舞鶴の港湾を管理している舞鶴防備隊と手旗で連絡をとったところ、掃海ずみで、先に海防艦が二隻入港しているという連絡を受けての入港です。
私が操舵をしていたんではなく、他の水兵がやっていて、入港時の艦のスピードは非常に遅く、エンジンもほとんど切って、それまでの惰性で運航している状態でした。艦橋からの見張りもいましたし、機雷が浮いていたら発見していたと思いますよ。それまでにも津軽海峡などで、浮遊機雷を発見し、機銃掃射で爆発させたこともたびたびありましたから。
私は艦橋の右側の窓のところで外を見張っていたら、突然、真下でドカーンです。それで体がどこかにたたきつけられ、そのまま気絶して、気がついた時は海軍病院に運び込まれていました」
と、爆発の瞬間を語っている。
その時、野沢忠雄元少佐は士官室のソファーに寝そべっていたが、爆発の少し前、起き上がり中デッキに出て、艦の入港を見ようとした。
「そのまま士官室で寝ころんでいれば、たぶん怪我もしなかったと思うんだが、中デッキの廊下のところに出ていたので、ドカン! ときた時は中デッキの天井に頭をぶつつけてしまった。中デッキの天井は低いからね。
艦は激しく持ち上げられるようになって、天井に頭をぶつつけたので、私はそのまま気絶してしまった」
入港時、甲板では多くの水兵が入港作業に追われ、忙しくたち働いていた。
長谷川是元二等兵曹は、
「艦が爆発した時、私は甲板で入港準備のための作業をしていました。そしたら突然ボカーンでしょう。吹き飛ばされて甲板にたたきつけられました。
あとは無我夢中です。艦内も大混乱で、カッターを降ろす者、走り回る者、叫んでいる者、朝鮮人たちが必死で甲板まで上ろうとしている。アイゴー、アイゴーと叫んでいる女性や泣き叫ぶ子供。もう混乱の極にありました。
艦から降ろされていたカッターを吊っているローブの片方が切れ、カッターが海の中に墜落するという事故も目撃しました。
その時、私は地獄を見ました……」(*1)
〉
浮島丸の乗組員の証言をたんねんに聞いて回っている書は金氏のものしかないようだし、私は生まれる以前のことなので、同氏のものばかり多く引用ばかりになるのだが、ピカイチのルポを、さてもう少し、その地獄とは、
〈
そこで長谷川元二等兵曹の声はとぎれた。
しばらく沈黙があって−
「爆発で甲板にあった船倉の蓋が吹っ飛んだんでしょう。その近くにいた私は、ふと船倉の底をのぞき込んだのです。
なんと水がごうごうと渦巻いているんです。その渦に朝鮮人の女・子供が巻き込まれ、必死になって手を上げて「アイゴー!」(哀号−悲しい時、驚いた時に朝鮮人が発する声)と叫んでいるんです。そして水の中に飲まれていきました。地獄でしたね……」(*1)
〉
このあたりからようやく舞鶴人が登場してくる。
ドカーンの音を聞いて初めて舞鶴人との接点が発生した。
事件は国際的な問題なので、日本人から見れば、朝鮮人の引用ばかりしくさって、こいつおかしいのでないか、と思われるかも知れないし、朝鮮人から見れば、日本政府や日本人の言うことばかり引きやがって、こいつは日帝のまわし者かとなる−かも知れない。
私は別にどこのまわし者でもなく、一舞鶴人で市民の立場から、舞鶴湾内で起きた過去の不幸な歴史を忠実に復元したいと願う市民の一人でしかない。歴史にできるだけ忠実な書を引くという立場である。著者の国籍などは関係がないのである。二度とこんな事件は起こさせないという立場である。
〈
岬の先から、キラキラ光る波をかきわけ、滑るように進んでくる船が見えた。灰色の軍艦ばかりを見慣れた目には優しげに、美しく見えた船は「浮島丸」(四七三○卜ン)だった。
岸から約五百メートルのいつもの水路を進む船の甲板には、入港準備に立ち働く兵士の他に、風景を眺める民間人の姿も見えた。
静かに進んで来た船に突然轟音が響いた。何事かといぶかる目に、船体の中央部に吹きだす水蒸気が見えた。
スローモーションのように持ち上げられた船が、真ん中から二つに折れて徐々に沈みながら、まだ滑っていた。
甲板には助けを求め、手を振る人の姿が見えた。人の姿は次々に増え、沈みかけた船のマストにも人々が連なった。
湧きでる人に押し出されるように甲板から海に飛びこみ、岸に向かって、泳ぐ姿が見えた。
「大変だ!」突然の事に茫然と見ていた村(舞鶴市佐波賀)の人々は、事情の分からないままに、小舟のトモヅナを解き、櫓を漕ぎ出した。
普段は小魚の泳ぐ姿の見える澄んだ海面に、船から流れ出した重油が広がっていった。
船に引き上げようとした遭難者の顔にも、重油がべっとりついていた。
粘る海に舟足は進まない。数人でいっぱいになる舟で何度往復しただろうか。一度にたくさんの人にふなべりを掴まれ、沈みそうに傾き「離して!」とあわてて叫んだりもした。
ただ浮いているだけのような人は、手を差し伸ばしても掴む元気もないようだった。舟に乗ろうともせず後ろを指さして何か怒鳴っているように見えた人は、家族の事を訴えていたのだろうとは、のちになって気がついた。
家族を呼びあう声が、波間に交わされていた。
救助に漕ぎ出した舟の数は増えたが、次から次へと人が波間に浮いてきた。「フッ」と波間に浮いていた顔が消えた。「アッ」と思ったが手のくだしようもなかった。
夕暮れ近く、舟はマストを突出したまま動かなくなった。煙突は沈んで見えず、電探が波の上に見えた。
ようやく、波の上に人影は見えなくなった。助けられた人々は、村の社の境内に濡れた身体を寄せあい、重油に汚れたまま身震いしながら放心しているように見えた。
やがて海軍からの指示があったのだろう。みんな身体を起こし、ノロノロと歩き出した。
「海兵団へ行くのやそうや」村の人々が言葉もなく見送る列は続いた。みんな濡れそぼり、はだしだった。誰かが家に走り、「これ、はきなはれ」と草履を差し出した。僅かにうなずく。それが精いっぱいのように見えた。気がついだ何人かが、ふかした芋を持って来たが、ほんの一部の人達にしかいき渡らなかった。
暮れてゆく闇の中に人々は姿を消していった。
闇と静けさが戻るなかで、村人達はとてつもない重大な事件の渦中にあった実感を覚えつつあった。自分達の目の前で沈んだ船の名は「浮島丸」と伝わってきたが、夢中になって助けた人達がどのような人達であったのか、まだ、誰も知らなかった。(*2)
〉
新しい道路やトンネルが社前に出来て、事件の当時と変わっているだろうが、ここは下佐波賀の天満神社。事故現場の海を見ている。
この神社の境内に浮島丸から逃れた重油にまみれた人々は集まってきたという。また最初の現地慰霊祭もここで行われた。−そうである。
〈
ああ、ちょうど今時分ですねえ。
このあたりの海岸はいかにも静かな所のように見えますが、戦時中はそれは大変な所でしたね。
何しろ毎日のようにアメリカのB29が機雷を落としにやってくる。パラシュートが付いているので、それが海面についたときに〃ピシャッ〃と大きな音を出す。その音で、夜中でも「あっ何発落としたな」と勘定したものです。この先に火薬庫がありましてね、そこの衛兵が毎日聞きにやってきましたよ。「さっきの空襲では何発落としたか」ってね。この海に落ちないで山の中に落ち、誘発を起こしそうなので、あわてて海中へ投げ入れたこともありました。
七十五歳のOさんは船修理の手を休めて、こう前置きしながら、あの時の様子を次のように語ってくれました。
あの時は、ちょうど軍需部から「油をやる」というので、それを貰いに行き、帰ってみんなで分けていた最中でした。
〃ダダーン〃というものすごい音が地響きをともなって村中をふるわしたのです。みんなは「何事か」と、ともかく村はずれの坂までかけのぼったのです。
私達の目に映ったのは、八幡さんの沖合に、大きな船が真二つに割れ、大変な人達がマストやあらゆる高い所によじのぼって、わめいているせい惨な有様でした。
私達は、てっきり外地からの引揚者だと思いました。朝鮮の人だとわかったのは何度目かの救助を行ったあとです。とにかく船をもつ者はすぐに漕ぎ出したのです。
浮島丸に近づくと、径五十メートル位にわたって海面がふくれ上がり、坊主のようになっています。すでに息絶えた人の体が爆風でうち上げられたのか、「砲座」のあたりに折重なっていました。一度目は波が洗う浮島丸の甲板から自分の船へ移して磯へ。二度目は泳いでいる人を引き上げて陸へ、と何度も繰り返しました。でも厚さ一センチにもわたって海面をおおう重油のために、手がすべってなかなか引き上げられません。なかには見つからない子どもを求めて、いくらすすめても船に乗ろうとしない人もいました。
たしか三度目位の救助の頃です、汽船がやってきたのは。その晩、下佐波賀で何やったかの集会があり、終わって帰りかけた午後十一時頃には、全部沈んでしまって二本のマストの先だけが水面に見えていました。何でも十時ごろ、「へさき」と「とも」の両方がもち上がり、スクリューも海面上に見えて、それから全体が沈み出したようです。
磯へ揚げられた人々は、軍の指示で平海兵団(現合板の所)へ収容されることになり、人々は恐怖と不安に疲れきった体で、海岸伝いに平まで歩いたのです。その列がきれる間もなくズーッと海岸道に続いていました。たいていが着のみ着のままの素足で、村のとしより達は冬の間に作ったゾウリをあげていました。
それから一週間ほどの間、毎日のように浮き上がってくる遺体は、軍の指示で水面に出ているマストに結わえておけということでした。そして多くなると、まとめて松ヶ崎の海兵団(現教育隊)に運び、北側の空地で荼毘に付したのです。やがてそれも出来なくなって、平海兵団の所に埋葬しました。
予期せぬ惨禍に、必死に叫ぶ「アイゴー」の声が未だに耳から消えませんし、また祖国帰還の夢をもちながら不遇の事故で亡くなられた人々のくやしさが、ほとんどの人が両方のこぶしを固くにぎって水面に突き出していた遺体の有様からもうかがわれ、これまたまぶたの裏から離れません。
それにしても、舞鶴湾には機雷が沈んでいて危険だ! なんて位は、輸送にあたっていた人達は知っていたやるに−と首をかしげた○さんは 「もう絶対二度とあんな事はあってはなりません」と、日焼けした老顔に緊張の一筋が走り、口を閉じられた。(*2)
浮島丸沈没を舞鶴湾内の漁村、下佐波賀部落の人たちも多く目撃していた。
梅垣障さんは、
「当日はハタゴ神社の夜祭があるので、夕方から村の人が皆集まってタイマツを作っていたんです。
浮島丸が軍艦旗を上げて入ってきましたので、大きな軍艦が入ってきたなあと思っていました。外地から兵隊さんでも乗せて帰ってきたのかなあと話している時、ちょうど目の前でドカンとはじけまして〃へ〃の字型に折れ、次は反対に〃V”に折れて沈みながら、四○○メートルほど進みました。
私は工廠(舞鶴海軍工廠)に勤めていましたが、モーター付きの小さな船でその日の朝帰ってきて、船をそのままにしてあったんです。
それで爆発音が聞こえて船が沈み始めた時、さあ大変だというので一番早く船を出して、現場まで(約三〜四○○メートル)行くと、海に投げ込まれていた兵隊さんだと思うのですが、『女、子供が多勢乗っている。助けに来る船は近寄らんようにしてくれ』と言うんです。その言葉で、乗っているのが男の兵隊だけでないと知ったんです。
浮島丸の沈没点に行くと、海に投げ出されたり飛び込んだりした乗客が四方から船にすがりつき、小さな船は沈没しそうになった。『すぐに他の船も来るから手を離してくれ!』とあわてて頼んでも、誰も手を離そうとはしません。それで私の船は、水が入って動かなくなってしまいました」
梅垣さんとは違った地点にいた三島恵子さんは、
「当時、塩が不足していた時代ですから、部落の女の人と一緒に塩焼きをしていたんです。
大きな艦が入ってくるなり目の前で『ドカン!』とはじけ、びっくりしていると、隣の家のオバアチャンが「うちの息子も海軍で船が沈没して死んだんや! 早よう助けてやって! ねえさん船出して助けてやって!」と叫んでいるんで、私もあわてて船を出して助けに行ったんです。
でも、女は救助船に乗るなと言われて、一回だけしか行けませんでした……」
同じように救助船を出した大場安雄氏(仮名)は、
「あの時は、ちょうど軍需部が『油をやる』というので、それをもらって帰って、みんなで分けている最中でした。
〃ダダーン〃というものすごい音が、地響きをともなって村中を震わしたのです。みんなは『何事か』と、
ともかく村はずれの坂まで駆け上りました。
私たちの目に映ったのは、八幡さんの沖合で大きな船が真っ二つに割れ、大勢の人たちがマストやあらゆる高い所によじのぼってわめいている、凄惨な有様でした。……とにかく船を持つ者はすぐに漕ぎ出したのです。
……一度目は波が洗う浮島丸の甲板から乗客を自分の船に移して、二度目は泳いでいる人を引き揚げて陸へと、何度か救援に行きました……」(浮島丸殉難二五周年記念『御霊よ、永久に安かれ!』より)
と救援活動の様子を物語っている。
艦上から海に飛び込み、岸をめざしていたという長谷川是元二等兵曹は、
「艦から海に飛び込み、岸をめざして泳いでいきました。海は重油で真っ黒で、油が入って目は痛いわ、泳ぎはそれほど得意ではないので水を飲み疲れるわで、もうここで御陀仏かと思いましたが、岸辺から地元の人が漁船を出して救助に向かってくるんです。
ああ、助かったと思って、近づいてきた漁船に手を上げ助けを求めたら、その漁船が近くに来て、舟の上から私を見て言うのですよ、『兵隊さん、兵隊さんはあと、女・子供が先だ』と。その時は無情なと思いましたが、考えてみればそれは当然ですね。
あとで地元の人は立派だったなあと、その時のことをよく思い出します」
艦橋では、艦長以下幹部たちが沈みゆく浮島丸の最後を見つめていた。
倭島定雄元大尉は、浮島丸の軍艦旗が気になった。艦の最後の時に軍艦旗は引き揚げてくることになっていたからである。
それをどうすればよいか考えている時、一人の水兵がその旗を収容しに行った。
「艦が沈んでいく時、軍艦旗などは降ろさなくてはならないのですが、艦上にあった軍艦旗を兵隊の一人が泳いでいって降ろしてきましてね。危険な中でも、日常的に教えられていることは実行するものなのですね」
と、倭島定雄元大尉は語っていたが、朝鮮人労務者がどうなっていたかについてはほとんど記憶にとどめていない。
航海士・田寺伸彦元中尉は、
「浮島丸が沈む最後まで、私は艦長と一緒に艦橋にいました。船は沈み切らなかったので、そのままおれたのです。
それで引き船−タグ・ボートが船に横づけになった時、艦長らと一緒にそのボートに乗り、平海兵団に行きました」
と、最後に浮島丸を後にしたと語っている。
救援活動のために船を出した梅垣障さんは、
「私の船は水が入ってエンジンがかからなくなったので、他の船に引っ張ってもらって浜に着きました。そこで水をかき出して、エンジンを調整して、また助けに何往復もしました。
全員助け終ったのは、もう夜九時半になっていたと思いますよ。
最後に浮島丸に行った時は、まだ沈んでいなかった。艦橋のあたりは水面上にあったんですが、それも沈んだのは夜の一時頃だったと思います」(*1)
〉
海軍や自衛隊は人殺しが本来の仕事だから、人助けはヘタクソだろうと、巷ではウワサされるが、どうもそのようである。
人殺しなどと言えばご当人たちは嫌がるだろうが、持ってる武器を見てみろ、それは人助けのものか、あるいは単に威嚇するためのものか、そんな可愛らしいものではない。確実に一発で人を殺す、当たれば人間などはバラバラになってしまう強力なものだろう。
海軍は国を守る、アホくさいことを言うなよといいたい。目の前で溺れている者の救助もできないような者が何で国が守れたりできよう。
懸命に救助しましたなどと後に書かれたりもしているが、村人の証言からはどうもあやしい話になる。近くにいた駆逐艦「あやめ」だけがまともであったようである。もし事故の海岸に下佐波賀がなかったならば、犠牲者はもっと多かった…
浮島丸事件:平海兵団へ収容
何とか救助された朝鮮人たちはその夜の11:00頃になって、下佐波賀から
平海兵団へ移動はじめた。
右3枚の空撮写真は坂根正喜氏によるもの(部分)。煙が出ているあたりからサラ地の部分手前の工場一帯がそれであった。後に引揚の地として有名になった。
〈
救助された朝鮮人労務者とその家族は、全員重油で真っ黒になって、下佐波賀の海岸に上がった。
激しい不安、死の恐怖に彼らはおびえ、少しでも海から遠ざかろうと、山の方に登ろうとする人も少なくなかった。
救助されたそんな朝鮮人を梅垣障さんは、
「救助してきた人を海岸に上げて岸よりのところに降ろすと、皆、山の方に上がっていくんですね。ここにいても大丈夫だと言っても、皆恐がって、海から離れようとするんですよ。
岸に上がって、街の方に向かって歩いていく人もいましたが、負傷している人は部落の何人かの家に頼んで寝かしてもらい、手当てをしました」
下佐波賀の部落の人々が救援と看護に当たった。
舞鶴防備隊から救援艇やカッターが来たと証言した浮島丸乗組員がいたが、下佐波賀の人々は、たまたま近くに避難停泊していた駆逐艦「あやめ」からは救援のカッターが出されたが、それ以外は海軍から救助船は出されなかったという。
救助された朝鮮人労務者に対する救護活動はさらに続けられた。梅垣障さんは、
「海岸に連れてこられた人は、夕食時を過ぎてもひもじい思いもしていたと思うのですが、しばらくして『あやめ』から、炊き出しで握り飯を持って来てくれました。
食糧不足の時代ですから、部落では食事関係の世話は何もできませんでしたが、皆精一杯働きました。
当時部落では若い者は全部兵隊にとられ、残っているのは年配の男と女・子供だけですから、二、○○○も三、○○○もの人が上がって来ても、世話をしきれませんね。
警察で海軍と連絡をとって、海兵団の寮に収容することにしたんですよ。海兵団は当時、解散していて空家になっていたものですから。それで海兵団からシャラン船で迎えに来ていただいて、
一一時頃、船に乗って平海兵団の寮まで連れて行きました」
「全員、そのシャラン船に乗ってですか」
「ええ、そこにいた人は全員です」
梅垣さんの記憶では全員となっているが、大場安雄さん(仮名)は、
「磯に揚げられた人々は、軍の指示で平海兵団(現、合板会社)に収容されることになり、人々は恐怖と不安に疲れ切った体で、海岸伝いに平まで歩いたのです。
その列が切れる間もなくズーッと、海岸道に続いていました。たいていが着のみ着のままの素足で、村の年寄りたちは彼らに、冬の間に作ったゾウリをあげていました」
と語っており、平海兵団まで歩いたと証言している。
さらに、当時遭難した金東経さんも、「平の海兵団の寮まで歩いて行った」と述べていることから、シャラン船に乗った人もおり、歩いて行った人もいる、ということであろう。
重油で真っ黒になり疲れ切った体で、朝鮮人乗客は平海兵団の寮までの道をトボトボと歩いた。明日はどうなるのだろうとおびえながら、人々は平海兵団までの暗く長い道を黙々と歩んでいった。(*1)
〉
シャラン船というのはどんな字を書くのか知らないが、弁当箱のフタをとって浮かべたような土砂運搬用の四角いへらべったい船である。自分では動けるようになっていないので、曳船に曳かれて動く。大きいのなら1.000人くらいなら楽に乗せられると思われる。広辞苑にもないが、シャーラ船(精霊船)のことであろうか。
平海兵団は後に引揚援護局に使われて、大変に有名な場所になった。
右写真で言えば、橋の向こうの何やら煙が立ち上っている所にあった。現在は合板会社になっている。
ここまで歩いたり、シャラン船だったりして移動した。
結構距離がある。
浮かび上がり打ち寄せる死体
助かった人はまだしも幸いだった。事故で死亡した人はどうだっただろうか。
〈
浮島丸の朝鮮人乗客も乗組員も、負傷していない者は平海兵団の寮に収容され、傷ついた人々は舞鶴海軍病院に入院した。
平海兵団の寮に入った金東経さんは、
「浜辺から連れていかれたのが平海兵団の兵舎だった。そんな兵舎の一室に収容されたが体も衣服も重油で真っ黒で、見るも哀れな姿だった。そこで海軍の係員が海軍兵士の軍服、帽子などを出してくれ、毛布を一枚くれた。食事はカンパンが五枚分で、それが夜食のすべてで、腹がへってたまらなかった」
人々は自分たちの知人、肉親の無事を確認するのに必死であった。特に家族持ちの朝鮮人は、血走った目つきで肉親を探し回っていた。
しかし、多くの人々が自分の肉親を探し出せずにいた。沈没の時死亡したのだろうと誰しもが思ったが、それを口に出す者はいなかったという。
恐怖と悲しみの夜が明けた。
朝鮮人労務者たちは平海兵団から他の場所に移されることになった。
一方、救助された日本人乗組員も平海兵団に収容されていた。
長谷川是元二等兵曹も、他の乗組員たちと一緒に平海兵団に収容されたという。
「私は軽傷で、平海兵団に収容されたのですが、その翌々日ぐらいでしたか、海辺に行くと土左衛門が岸辺に流れついているんです。
あちこちに死体が横たわっていて、それは見ていても気持が悪く、恐ろしくてそこにはいられませんでした。
二九日に私たちは平海兵団を出て復員したのですが、その時も、海中にあった土左衛門が体内のガスで浮き上がって海岸に流れてくる、と聞きました」
朝鮮人乗客の中には女性や子供も多く、弱者であるこれらの人々は、渦巻く水底に引き込まれるようにして水死した。
男性にしてもすべてが泳げる人たちばかりではない。沈没する船体から海中に投げ出され、救援船のくる前に溺れ死んだ人々も無数であった。
浮島丸が沈没した場所の見える小さなプレハブ小屋で、当時を回想していた梅垣障さんに、水死者のことを聞いてみた。
「溺れ死んだ人や爆発で死んだ人もいると思うのですが、その人たちの死体はその時、どうしたのですか」
「助けに行った時は泳いでいる人を収容したので、そこまで気が回りませんでしたし、海岸に死体があったということもなかったと思いますよ」
「上陸した人の中でも、死んだ人もいるのではないですか」
「上陸した人の中で死んだ人とか、その日海岸に死体があったということはありませんでした。
土左衛門になって海岸に死体が打ち上げられるようになったのは、村の互助会の寄り合いの時か、何かの寄り合いがあった日です。
浮島丸が沈没して一週間もたっていたと思うのですが、その日は南風で、沖から岸に風が吹いていて、その風で海に浮いた死体が寄って来ました。最初の死体が海岸に打ち上げられたあとは、数時間で海岸一帯がびっしり死体で埋まるぐらい、次々と打ち上げられました。
それを海軍の人が来て収容していました。その時、ものすごい臭いで、部落の人は皆海岸に出れませんでしたから、死体が何人かというようなことはとても数えられない状態でしたよ」
と、梅垣さんは話していた。
この梅垣さんの話とは違った証言もいくつかある。
大場安雄さん(仮名)は救援に向かった時、
「(二四日に)すでに息絶えた人の体が爆風で打ち上げられたのか、『ほう座』のあたりに折り重なっていました」
と証言しており、二四日当日も、相当数の死体が海岸にあったと述べている。
さらに、一週間後に急に大量の死体が上がったという梅垣さんの証言に対して、
「それから(二四日から)一週間ほど、毎日のように浮き上がってくる遺体は、軍の指示で水面に出ている浮島丸のマストに結わえつけておけということで、それが多くなるとまとめて松ヶ崎の海兵団(現自衛隊教育隊)に運び、北側の空地で荼毘に付したのです。やがて、それもできなくなって、平海兵団の敷地に埋葬しました」
と述べている。
女・子供が多数乗船している船が爆沈した時、その場で死体が出ないということはまずないであろう。
死体を見なかった梅垣さんの思い違いがあるのかもしれない。
浮島丸に乗船して死亡し、舞鶴の海岸に打ち上げられた遺体は、日本海軍に収容され、松ヶ崎の海兵団の北側の空地で荼毘に付され、やがて、あまりにも数が多くなったため、平海兵団の敷地内に埋葬されたというのである。その遺体数はわからない。
しかし、いずれにしろ、海兵団のような広い場所でも一ヵ所で処理しきれずに二ヵ所で処理をしたといことだけでも、死亡者が相当の数に上ったことは推測できる。(*1)
海兵団は二つあって、平海兵団は今の木材団地や引揚公園のある場所である。第二海兵団とも呼ばれる。
右は松ヶ崎海兵団の地、手前の広い所の全部がそうである。(坂根正喜氏の空撮)。第一海兵団である。
〈
●現場救援者の証言
@ 海軍軍人の一人として
浮島丸殉難者追悼の碑建立実行委員会のメンバーの一人である池田淳郎氏は、終戦当時海軍軍人として浮島丸遭難者救護に当たった体験を持っているが、この事件について地元紙に次のように述べている。
浮島丸事件の真相 池田 淳郎
(昭和五十三年七月一日・舞鶴よみうり)
…
犠牲者
朝鮮への帰還者 五百二十五人
日本人乗組員 二十五人
触雷爆発によって海面に投げ出されたり、船内に残ったまま海底に沈んだものを含め犠牲者の数は、乗船者名簿によって五百二十五人の朝鮮人と二十五人の日本人乗組員と認定せられたが、乗船者名簿にも多少疑わしい点があるので、本当の死亡者の数はもう少し多いのではないかとも想像される。
当時収容した遺体は現在の教育隊のボートダビット付近と、大浦中学校の海寄りの畑に仮埋葬し、船内の遺体は収容することが出来ずにそのまま十年近くも文字どおり水漬く屍となっていた。(*2)
平海兵団跡地は引揚援護局が後に置かれた場所である。航空写真は坂根正喜氏のものである、正面の工場群の地にあった。
大浦中学校(現大浦小学校)は中央にグランドが見えるが、そこである。
ここは引揚第二桟橋があった。少し前まではそれを記念する木柱が建てられていたが、今はもうないようである。この地でも引揚すら忘れられようとしているのかと思ったが、左のような案内が大浦校のフェンスに掲げられていた。
ここの海はシベリアからのカモが羽根を休める。気付かずに近づくといきなりバタバタと一斉に飛び立つので、その羽音に驚かされる。
現在は荒地、あるいは何か事業所の敷地、畑地、宅地などになっている。
何人が犠牲となったのか
「浮島丸に最初に乗っていた人数」−「生存者数」=「犠牲者数」
となるわけで、生存者数は誤差少なく確認できると思われるが、最初に一体どれだれ乗っていたのかという数がわからない。多少疑わしいといった話ではなくて、船客名簿といったものははじめから存在しなかった。しかし不思議な話であるが、政府は3274名が乗っていたとしている。どこからこんな端数まででてきたのであろうか。
最初の乗員数がわからないのだから、そうなると犠牲者数もわからないはずなのである。
犠牲者数= X - 2.750
こんな数式を皆さんは解けるだろうか。
犠牲者数= X - 2.750 なら
= 計算不能、従って不明
数学ではこうした解しか出てこない。
もしや解けるならば、驚異の大天才か、並のペテン師か、壊れたコンピュータ・プログラムであろう。
犠牲者数は不明、これが正しい。もう少し言えば犠牲者数は日本人乗務員が25名、朝鮮人乗客が524名、これは最小の確定できた数字で、これ以上の+αであるが、実数は不明である、とするのが正しい。
が、不思議な話で、「浮島丸死没者名簿」というものがある。『浮島丸の記録』には、その名簿が転載されているが、これに基づいて朝鮮人乗客の犠牲者数524名と政府は発表しているわけである。その名簿の作成時期は9月1日のようである。
政府発表の数字はかなりおかしな数字であり、数字の根拠は示されていない。示せるわけはない。恐らく事実は、
(3.274+α)−2.750=(524+α)
であろう。
〈
乗務員たちから聞き出した話から、朝鮮人乗客数を割り出すものとしては、斎藤恒次元上等兵曹らが語っているように、「青函連絡船の代替船として運航していた時、船底には人を入れないで満員になった時が約四千名だったが、朝鮮人の場合、船底にまで詰め込んだので、それよりは二千名は多いはずだ」という約六千名説が説得力を持っている。(*1)
〉
その実数を入れると
6.000−2.750=3.250
だいたいこれほどの犠牲者があったのではなかろうか。
「〜3.000」。犠牲者3.000名以上。これは洞爺丸の2倍以上。戦後史上最悪の海難事件であったはずと推測できる。
αがかなりの数字になることは政府も承知していると思われる。しっかりと承知しているから、いまだ隠しているのでのではなかろうか。忘れてくれ、忘れてくれ、と祈りながら。
最初に乗っていた人数がどれだけか、これが大きければ大きいほどに犠牲者も大きくなる。
いかに低国のお役所仕事か知らないが、こんな肝腎の数値も信用できないような記録を元にした政府の主張は、全体が寝言であろう。日本国民としてもこんな馬鹿げたものを信用してはだめであろう。
当時の朝鮮人の方は、乗船者は多ければだいたい8000名と見ていたようである。
〈
朝鮮人便乗者八千人トハ乗船ノ際乗船申込者六千五百名ノ外申込無シデ乗船シタ者約一千五百名ヲ含ム概算ナリ
〉
「占領軍指令官への青森県朝鮮人聯盟の報告」の一文であるが、6500は間違いなし、後で何人が乗り込んだかが不明で、もしかしたら8000名くらいになっていたかも…、ということである。
一方「
戦争遺跡を訪ねて」や「
浮島丸事件 下北からの報告@」は、
〈
終戦時、下北にいた朝鮮人は4千人程度と推定されている。大湊海軍施設部の徴用工、大間鉄道の作業員、猿が森炭鉱の炭鉱員だったという。
〉
データーの出所不明で信憑性も不明だが、これは工員のみの数字なのか家族も含めてのものなのかも不明である。これが家族も含めてのものならば、彼らがほぼ全員浮島丸に乗船したものとすると、政府発表の乗船数3274との関係がビミョーになるが、下北にいた朝鮮人だけが乗船したというのでもなかろう。
「
浮島丸不当判決糾弾」には、
〈
当時青森県には約21000人の朝鮮人が強制連行されていました。
〉
とある。彼らも乗船したとするならば…。
実際のところ乗船者数はつかめないのである。
←この写真は日本人の引揚の様子。『引揚港・舞鶴の記録』より
何丸で何人が乗っていたのか日付などの詳しいの記録がないが、興安丸クラスなら8000トン〜9000トンくらいで、多いときで6000人ばかり、舞鶴へはだいたい2〜3000人ばかりが乗って引き揚げてきた。十分余裕があると思われるが、それでも日本だと喜び片舷に人が集中すると船が傾くくらいという。
米軍の輸送船・リバティー艦も似たくらいの大きさで同じくらいが乗って引き揚げてきたようである。
浮島丸はこれらよりは一回り小さいが、無理矢理に詰め込めば乗れなくはない数字と思われる。6000人説はでたらめな数値とは思えないのである。
犠牲者数のハンパぶりと数値が低すぎるのがおかしい。なぜこんなことになっているのだろうか。
事件が起きたときに、日本の上層部が最初に考えることは、まず自分には責任がないと逃れる責任逃れそして保身である。それ以外は何も考えない。男も女もみなこれだけである。証拠がなければ、わからなければ隠しとおせ、知らないととぼけよ。本当にド汚い連中である。これはそうした目に合われれば本当によく理解されると思う。
正義感が強くてこんな人道に反する人間として卑怯なことができないような者は出世できない社会なのである。これは日本の支配者どもの体質。伝統。DNAである。先に書いた時はちょうど不幸にも福知山線の事故が発生した時であったが、事故は置き石ですよと、犠牲者の救助もできていない時点で、JR西は写真付きで発表した。体質だから何十年たっても基本的には変わらないように見える。今も政治屋どもが毎日のように繰り返しているのが見られる。ただただ情けない国である。このままでは未来のない国である。
〈
幸い、一九七七(昭和五二)年にNHKが浮島丸の沈没事件をドキュメンタリーにして『爆沈』というタイトルで放映した折、そのフィルムをVTRに録画してあったのを知人が貸してくれた。
永田茂元大佐はNHKの記者のインタビュー申し入れを拒否したが、通勤のため自宅を出る永田元大佐にNHKの記者が強引に食い下がる。
「どうして朝鮮人を帰国させたのですか」
「どうしてだって? 終戦になったんだから出港させた 朝鮮人を帰すというんで−それだけだよ」
「朝鮮人が暴動を起こすという話があったでしょうか」
「それは知らない.わしは知らない.そんなことはなかっただろう−おそらく」
「それではなぜ……」
永田元大佐は怒声を発し、大声で、
「だからそれはわからない。だいたい施設部関係の人夫なんていうものは、我々に関係していなかった」
「権限がなかったということですか」
「権限なんてありませんよ。……我々にそんな権限はない」
「昔ですが、五○○人以上の人が死んでおりますね」
「それは出港後のことですからね。出港までは長官の決審であり、それ以後のことは……」
「では、永田さんは全く判断されなかった」
「しませんよ。みんなそういうのは長官と参謀長の命令でやるんだから。大事なことは−。何かやる時に私はいちいち動いていない」
「全責任は……」
「ああ、責任なし。全然感じておりません」
「どうしてですか」
「我々はそういう責任をもっていないんだって−参謀なんてものはそんな責任がない」
そういうと、そのままNHK記者を振り切って消えてしまった。
言っていることが事実と矛盾している。浮島丸の出航命令のようなことは長官と参謀長の命令でやると言っているが、当時、長官と参謀長が留守にしていたのだから、それは当然、永田元大佐の責任になるはずなのに、それについては触れない。
さらに徹底して、なぜ出航させたのかについて語ろうとしない。(*1)
〉
この場面は番組の一番最後である。私はかすかに見た記憶がある。
永田氏は当時の大湊警備府bRである。bPとbQが東京に呼ばれていて留守であったから、bRの彼がトップなのである。何千名が移動するのを、彼が知らないなどあるはずのないことである。
これが日本上層部の情けない姿である。彼が象徴しているが、彼だけではなく上層部全員の姿勢がよく見えすぎる。
事故を起こした当時の上部はまず犠牲者を少なく見せる、触雷で押し通す。やるだけは私らは全力をあげてやりましたよ。犠牲者はむしろ私たちの方ですよと、暗に主張する。
そんな定石通りに動いたと思われるし、上層部は彼らこんなクズ同士、そんな者同士であるから事情は似たようなことですぐわかり、言ってることが少々おかしくてもかばい合って何とか誤魔化してやる。
〈
京都で「平和のための戦争展」が毎年行われている。新聞にでたその紹介記事の中に「終戦直後、舞鶴で起こった浮島九事件の犠牲者名簿を公開」とあった。名簿の提出者から紹介を受け、京都市東山区の寓寿寺・尹一山(ユンイルサン)師を訪ねた。終戦直後から在日朝鮮人救援と犠牲者の供養・追悼を続けて来られた師は、病後の不自由な身体をおして話を聞いていただき、心よく手持ちの資料の貸し出しを許していただいた。ガリ版刷りの名簿は読みにくいところもあったが、一人一人の名前が訴えてくるのを感じた。(*2)
〉
「死亡認定書写」「戸籍抹消通知写」と「浮島丸死没者名簿」がセットになり、大湊海軍設備部から9月1日付けになっている。
こうした運動に関わっている日本人でもこの名簿が正しい信用できるものと、勝手に信じ込んでいる人もいるようだが、この名簿ははっきり言えばヤシである。
24日に事故が起こり、1週間で正確な死亡者の全名簿が作れるだろうか。何人が乗っていたのかもわからないのである。
「死没者名簿」の先頭の人を引かせてもらえば、
土工 山本相旭 25 忠北永同郡永同邑富竜里
と書かれている、詳しいデーターである。死没者名簿の全データーに本籍地が記載されている。あまりに上手が過ぎてヤシの手口が見えてしまうが、誰が確かにこの人だと確認したのであろうか。
岸辺などに浮き寄せた遺体の数は数えられる(実際に数えたとか数えていたようだとかの記録や証言はない、現在でも遺体の数は不明である、のちに引き上げられた船内に残された遺体も実際は推定何体分とかで、確定されてはいない)、しかし海底に沈んだままの遺体や、船体内に閉じこめられている遺体があり、一体全体でどれほどの遺体があるのかは、この9月1日の時点ではまったく確認することはできなかったと思われる、遺体数は不明であった(現在も不明)。
だからこれは9月1日時点で死亡が認定された者の名簿であろう。誰が死亡を認定したか、と言えば、それは朝鮮人自身であろう。金氏の推測された通りではなかろうか。朝鮮人が自分の肉親や知り合いを必死で捜し廻り(監禁状態でそうしたことすらできなかったとも言われる)、それでも見つからなかったので、どうも死亡したようだと報告したというのか、申請して、誰が死亡と戸籍上認定したかは知らないが、ともかく死亡と戸籍上認定された、そうした名簿だと思われる。それ以外にこんな名簿はつくりようがない。
だから家族全員が死亡していてほかに申請してくれる者のないグループや、誰も知り合いがいない独り者、こうした人々はリストから漏れていよう。アホくさいと申請しなかった者もいようし、そんな気力も体力なかった者もあるだろう、そんな話は知らなかったという者もあったろう。申請はされたが、上のように、職種氏名年齢本籍地が明確でない者、戸籍係が「聞き落としていた」、あるいは多すぎると勝手に省いた、その他もろもろの理由で申請がなかったり死亡が確定されなかったり、申請戸籍にあいまいな部分があり一項目でも明確に確認できない者はリストから漏れる(自分で勝手にワクをつくりそれから外れればナイものとする、クソ役人がやりそうな話である)。
金さんの想定にワタシは次の想定を加えたい。
死没者名簿は大湊海軍施設部工員(410名)の部とその他(施設部以外の分として114名)の部がある。合わせて524名ということになっている。本籍地などは他人は正確には知るまい、と思われる。だからこの名簿は施設部やその大手下請会社から乗船したであろう朝鮮人の名簿を出してもらい、それから生き残った朝鮮人、オイオマエはどこの誰じゃと聞いてそれを引いた名簿である。だからそうした大手にしっかり名簿がなかった朝鮮人は実際は死亡していてもこの名簿には載らない、どこの誰かが不明な者は死亡者名簿にはない。こうしかこの名簿はつくりようはない。施設部関係朝鮮人だけの限った、名簿のある者のみに限った名簿であろう。
9月1日以後の申請者のリストはない。それはまた後ほど作りますが、今は省きますということであろうが、二次分以降は作られることはなかった。生き残った人達からの本籍地まで明確な申請がない限りは名簿はつくりようがない、彼らは次々に母国へ引き揚げていきもう二次以降は作りようもなかったと思われる。
だからこれは9月1日時点で判明した、というかこれくらいは認めておかなければ仕方がない、そうした犠牲者の数が524名であるということであろう。かなり政治的判断の加わった作られたデッチあげられた粉飾された犠牲者数かも知れない。
「浮島丸死没者名簿」は、全名簿にはほど遠く、「浮島丸死没者名簿そのごく一部(9月1日までに朝鮮人遺族より死亡申請のあった者で戸籍が明確な者のみ、当局が死亡としぶしぶいやいや追認した者のみの名簿)(注:申請者たちが帰国したため二次以降は作れないが、この名簿は浮島丸死没者の全名簿ではない)」とでも書かれるべき名簿のように思われる。二次以降の名簿が実際にないことからもこの推測は当たっていよう。実際の犠牲者数は「名簿」の数よりも多いと推測される。
男性だけの名簿だという話もあるが、『浮島丸の記録』転載名簿には女性も子どもも名簿に含まれている。「死没者名簿」は「戸籍抹消通知」とセットだから、戸籍がハッキリしている者のみが死亡者と認定されたと推定される、戸籍不詳では実際には死亡していても死亡者とは認定されなかったのではなかろうか。海軍施設部に徴用工として働いていた者はスパイ等が入り込まないよう国によりしっかり身元調査されていたと推定するが、その下請け、そのまた下請けの民間会社等で働いていた、半分ラチっときたような者の戸籍などがそうハッキリしていたとは思いにくい、彼ら下積み労務者はすべてこの名簿からは省かれていると推定する、恐らく海軍の正規の徴用工の死亡者のみの名簿ではなかろうか。
私のオヤジは終戦当時海軍関係のどこにいたのか知らないが、今のフェリー埠頭のあるあのあたりに勤めていたようである。あのあたり今は全部埋め立てられて、当時と様子は変わっているのだが、海岸から陸の修理工場へ小艦艇を引き上げるための幅20メートルばかりの斜面が作られている場所があった。花崗岩製の立派な海岸であったが、一部にそんな場所があった。
その石垣の上に「浮島丸の朝鮮人の頭蓋骨が一杯並べてあった」と話したことがあった。私もはっきりと記憶していないのたが、その場所はいつもの遊び場所だったので、覚えているようなことである。
いつの話か、「一杯」というのはどれくらいの数なのか、頭蓋骨だけか、詳しい話はわからないが、本当の事と思われる。