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2012年(平成24年)8月24日は、浮島丸事件から67年目。「浮島丸殉難者を追悼する会」は、爆沈現場に近い舞鶴市佐波賀 の「殉難の碑公園」に於いて、300名ばかり今年も集会を開いた。 事件後すでに67年が過ぎたが、人的被害の規模も事件真相の解明も、ほど遠い状況のままで、いっこうに手が付けられず進展しそうにはなく、そうして世間からは事件は静かに闇の中へと忘れられようとしている。 これでは犠牲者や遺族は浮かばれまい、この日は静かな追悼と祈りの集会なので、声高く述べるようなことではないのかも知れないが、何とかもう少し科学的な真相解明に向けて半歩でも進めたいと願わずにはいられない。新たな証拠や証言などは今後もう得られることはなさそうで、鉄壁を突き崩していくには世論と外圧の高まりを背景にしてジリジリ迫る方法しかないかと思うのである。 そうしたことで今年もあの時を思い出し、決して忘れないでいようと計画された集会である、時間的にも鎖のように運動をつないでいく以上の道もなさそうである。恐らくは数千名にのぼったであろう、あの日の無念の犠牲者の鎮魂と慰霊のため、平和と安全安心の確立に向けて開かれる。 あの日この海が阿鼻叫喚の地獄の海であったとは信じられない静かな舞鶴湾の一画である。 この日も35℃以上でガンガン照り、顔にできるカゲが濃くてベッピンさんたちを写しにくい。 殉難碑公園へのアクセス 「観光案内」や「イベント案内」などはコクスイウヨク、というよりも、ただ郷土歴史の認識レベルがかなり低いというだけなのか、こうした国際的な場所でもまず載せられてはいないようです。欠けていることすら気づいていない様子なのは何も浮島丸だけではないが… ←集会は事故現場に近い「殉難の碑公園」(舞鶴市下佐波賀) 会場はここです。事故が発生したこの日は毎年、午前11時より開催されます。どなたでも参加できます。
「はまなすの花咲きそめて」 テーマ・ソングというのか、イメージ・ソングというものか、この歌なくしては追悼集会もない、そうした欠かせない歌である。どこでも聞けるものでもないが、この集会でははじまる前から絶えず流されている。記憶して欲しいと願う名曲の一つ。 公園にはこの歌のパネルがあるし、集会では楽譜や詞が配布されている、CDはないようであるが、しかし何と言っても実際に聞いてみるのが一番かと思う。韓丘庸作詞 金正花作曲 姜主淳編曲で、1985年作成されて、2000年に一部補正された、という。 上は演奏のみですが、金一志様の舞のバックに流れていたもの、下は京都朝鮮中高級学校皆様のコーラス、今年録音したものです。上はダウンロードできますが、使用にあたっては自分で聞く範囲にして下さい。 演奏のみ ↑上は↓ここからダウンロードできます。 「はまなすの花咲きそめて」 (MP3形式 4986KB) コーラス ハマナスの花は見られたことがありますか、初夏に浜辺の砂地(砂混じりで土になりかけのような場所)に群生して咲く花で、低い位置に咲いている。知床岬まで行かなくても、このあたりなら天橋立にも咲いている、舞鶴なら神崎にも咲いている。このページのハマナスの写真は天橋立の自生の花です、赤いピンクなのであれはすぐわかります。 主催者様へ。ハマナスの造花も参加者全員に配布してもらえれば大変に結構かと願うのであります。胸に付けて哀悼の意をあらわすためです、少々の代金くらいは払いますので… 式場は狭くて、業務用ビデオカメラが写せるだけの「引き」がない状態ですし、ものすごく集まっているカメラの活躍する場、そのスペース分、1〜2メートルばかりをあけて、余裕ある写しやすい会場の設営下さると、よりよい報道をしてもらえるのではないでしょうか。 2012年集会次第 (主催者のパンフ「浮島丸殉難67周年追悼集会次第」のまま。当HPの引用はすべて同パンフによります) 浮島丸殉難67周年追悼集会 次第1 開会 2 黙祷 3 追悼の辞 1)主催者 2)開係諸団体 在日本大韓民国民団京都府舞鶴支部 在日本朝鮮人総聯合会京都府三丹支部常任委員会 4 来賓及びメッセージ紹介 厚生労働大臣 5 献花 京都府知事 舞鶴市長 関係諸団体 6 献茶 韓国茶道協会京都支部 支部長 尹道心 7 慰霊の舞 金一志韓国伝統舞芸術院 8 追悼歌 「はまなすの花さきそめて」京都朝鮮中高級学校 9 献花 参加者一同 10 閉会 ↓以下は集会の順番通りの紹介ではありません。1時間ばかりの集会のメダマ、売り出しもの(私の判断)の方を先にしています。
韓国茶道協会京都支部 支部長 尹道心様による献茶。今回は「献茶」が行われた、長い追悼集会の歴史の中でもはじめかという。先だって5月29日にも一同で訪れられたとか、確か新聞にも載っていた。この日は白蓮茶とマツモチを供えて、犠牲者たちをなぐさめ、哀悼の意を捧げられるそうである。日本のお茶とは少し違っている。
金一志韓国伝統舞芸術院の皆様 ↑録画の途中でカメラがこけてしまいました、音楽があるためカットもできず、たいへん見苦しいことですが、ご容赦下さい。
京都朝鮮中高級学校生徒の皆様
集会の最後は犠牲者たちの眠る海へ向けて、参加者一同の献花。今回はそれに先だって献茶が行われた。
浮島丸殉難者を追悼する会 会長 余江勝彦氏の追悼の辞 〈 追悼の辞 本日ここに「浮島丸殉難67周年追悼集会」を開催するにあたり、549名(政府発表)の犠牲者の皆様方に謹んで哀悼の誠を捧げます。 1945年8月24日静けさを取り戻した舞鶴湾に入ってきた浮島丸が、午後5時20分頃ここ下佐波賀沖で、突然発生したすさまじい爆発音と共に、真っ二つに折れて沈んでいきました。静かな海は阿鼻叫喚の生き地獄に一変しました。 急を知った近くの佐波賀の人々などの、懸命の救助活動にもかかわらず、女性・乳幼児を含む乗客524名が、乗組員の日本兵士25名と共に、かけがえのない生命を失ってしまったのです。 この大惨事には長い歴史的な背景がありました。 1910年(明治43年)日本は統治権を朝鮮から奪い、朝鮮に総督府を置き軍隊を常駐させ、36年に及ぶ、植民地化政策を行ってきました。その練果、土地も仕事も失った人達が激増し、その多くは日本へ家族ぐるみの移住を余儀なくされました。一方、第二次世界大戦が勃発した1939年(昭和14年)からは、年老いた母を残した若者や一家の働き手である父親が、次々と日本へ強制的に連れてこられ、戦争遂行のための労働力として日本の各地で苛酷な労働を強いられました。このような背景を負っていただけに、過酷な異国での厳しい労働に耐える事が出来たのは、家族との安らかな生活と祖国の独立の実現でありました。 1945年8月15日の日本の敗戦は、家族との再会や祖国の独立への参加を現実のものとしました。しかし、浮島丸事件はこうした希望や喜びを一瞬にして消し去ってしまいました。私たちは亡くなられた人々が祖国の独立の回復の希望に胸をふくらませ、それを絶たれた無念さを思いました。私たちが浮島丸事件に取り組む時、一つには浮島丸事件の背景を日本の歴史の中で考えること、もう一つはこの事件で犠牲になられた人たちの立場になって考えることです。絶たれた希望や想いを共有することであり、それを語り継ぎ、忘れないことです。 大湊海軍警備府が出した「本国送還」の指示で、青森県下北半島方面で働かされていた朝鮮人労働者とその家族3735人(政府発表)が乗った旧日本海軍輸送船「浮島丸(4730トン)」は、8月22日午後10時に大湊を出発して航行を続けました。連合軍の要求に基づいて発せられた日本政府の命令で、浮島丸が針路を舞鶴に向け、湾内に入った直後にこの大惨事が起きたのです。夢にまで見た故郷や肉親との再会を翌日にひかえて、船内が喜びに沸きかえっていた最中に、予想もしなかった大惨事に遭遇し、尊い生命を失われた皆様の悲しみと無念さは如何ばかりであったでしょう。 私達は広範な市民の方々の浄財と京都府及び舞鶴市のご援助を頂いて、1978年8月、事件発生親場が一望できるこの地に「殉難の碑」を建立し、毎年追悼集会を開催して今日に至っています。 これは犠牲者の皆様方のご冥福を心からお祈りすると共に、そのような歴史的背景を持つ「浮島丸事件」を風化させず、我が国が過去の過ちと教訓を忘れて、再び同じ道を歩むことを決して許してはならないと考えたからです。 私は、日本人として、過去の歴史的加害に対して、心より謝罪の意を表するとともに、日本の若い世代に、正しい日本の歴史を伝える事を責務として、追悼事業を続ける決意です。 私達は、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起きることのないようにすることを決意する」と明記されている日本国憲法の立場に立って、追悼集会を続けてきました。 東京、中目黒の「祐天寺」には、いまだに故郷へ帰れない「遺骨280体」が残っております。 私達が願う日本海(東海)は、友好の船が行き交う平和な海であります。r浮島丸事件」を忘れないことを「日本人の責任」として、事件から教訓を学びとり、平和の確立に向けてこれからも追悼事業を続けて行くことが浮島丸犠牲者の皆さんとの約束であると思います。 日朝、日韓、日中国民の友好関係のさらなる発展を念じ、犠牲者の皆様のご冥福を心からお祈りして、追悼の辞と致します。 2012年8月24日 浮島丸殉難者を追悼する会 会長 余 江 勝 彦 〉 在日本大韓民国民団京都府舞鶴支部 支団長 金 英王氏の追悼の辞 〈 追悼の辞 本日ここに「浮島丸殉難67周年追悼集会」を迎え 549人の犠牲者の同胞の皆様に謹んで追悼の辞を捧げます。 事件後67年が経過した今 船体を引き揚げた時も爆破の原因は調査されず確たる証言も無く 謎の多いまま今日に至っています。私達は日本政府のこの事件に対する真相解明を早急にすることを要求致します。 祖国は今「漠江の奇跡」と呼ばれる程の奇跡的な経済成長を遂げ 今年7月には人口は5000万人を突破し 一人当たりの国民所得が2万ドルを超えいわゆる「20−50クラブ」の仲間入りし 世界7番目の国になりました。 この様に発展した祖国の姿を見ることも無く 亡くなられた同胞の事を思うと残念でなりません。 私達はこの事件を風化させず 世に知らしめる努力をしていかなければなりません。 最近は追悼する会の会長 余江先生のご努力で追悼の碑を訪れる人も年々増えてきております。 私達も韓日間の交流を一層深め アジアの平和の為に努力していかなければなりません。 最後に 事件当時困難な場所での救助活動にご尽力なされました地元佐波賀の皆様方 今日まで「浮島丸殉難者を追悼する会」に長年携わって来られた皆様方のご苦労に対して心から御礼を申し上げ追悼の辞と致します。 2012年8月24日 在日本大韓民国民団京都府舞鶴支部 支団長 金英王 通訳 在日本韓国婦人会京都府舞鶴支部 会長 高悦子 〉 在日本朝鮮人総聯合会京都府三丹支部常任委員会 委員長 李 宗一氏の追悼の辞 〈 浮島丸 殉難 67周年 追悼の辞 私は、浮島丸殉難67周年を迎えて犠牲者の霊前に衷心から哀悼の意を表します。 67年前の今日、≪亡国の民≫の苦しみと悲しみ、そして残酷な民族差別と虐待に耐え、漸く解放を迎えて、明るい希望を胸に懐かしい祖国に向った3735名の同胞を乗せた浮島丸が、この舞鶴港で突然爆発し、549名の尊い今が犠牲になりました。 私たち朝鮮民族は、107年前、日本帝国主義によるウルサ五条釣で強制占領されたことによって、土地や財産、資源のみならず、民族の魂である言葉や名前までも無残に奪われました。 植民地から解放されて長い歳月が経った今日に至っても、「浮島丸」事件の真相究明も、公的謝罪も、そして当然な補償も行おうとしないばかりではなく、いわゆる<経済制裁>の実施など、日本政府の態度に、激しい憤激を禁じえません。 私たち朝鮮民族は、過酷な植民地支配の負荷によって言葉に尽くせない民族分断の痛みを抱えています。 朝鮮学枚にのみ適用しない<高校無償化>問題など民族教育権をはじめ、同胞の権利と生活権はひどく侵害されています。 こうした問題解決のために私たちは団結してたたかわなければなりません。 来る9月17日には、歴史上初めて朝日両国の首脳が会談し、植民地支配を謝罪・清算し諸問題を解決することによって、非正常的な関係を改善することを合意した、歴史的な≪朝・日平壌宣言≫の発表から10周年を竣えます。 私たち朝鮮総聯は、日本の皆さんの良心に問いかけながら、朝日関係改善と国交正常化実現の為に一層の努力をしていきます。そして、このことを通して、東北アジア地域の平和と繁栄を促進する上で、大きく貢献して行くことでしょう。 朝鮮総聯は、同胞たちが抱えている二重三重の痛みと苦痛を洗い流す為に、あらゆる問題を、民族的主体に基づいた平和的な対話と交渉によって解決し、今後も、≪わが民族同士≫の精神を旗印として高く掲げて一日も早い祖国統一を招来する為に、全力を尽くすことでしょう。 浮島丸撃沈により犠牲者になられた同胞の皆さん、そして遺族の皆さん、67年たった今も、民族が一つとなって追悼出来ないことを、どうぞお許しください。 最後に、事件当日の負傷者救援をはじめ今日までの真相究明、啓蒙、そして追悼行事などご苦労なさっている、余江勝彦会長を始めとす る≪浮島丸殉難者を追悼する会≫の皆様と地元住民の皆様に、心からの謝意を表し、私の追悼の辞といたします。 2012年8月24日 在日本朝鮮人総聯合会京都府三丹支部常任委員会 委員長 李 宗一 〉 メッセージなど 〈 今日、浮島丸殉難67周年追悼集会が挙行されるにあたり、謹んで追悼の青葉を申し上げます。 67年前のこの日、ここ舞鶴で海軍輸送艦浮島丸が沈没し、多くの犠牲者を出す大惨事となりました。 この惨事を知る方々も高齢化している今日にこそ、戦争の悲惨さと平和の尊さを次世代に語り継いでいかなければなりません。 平和への決意を新たにするとともに、お亡くなりになった方々のご冥福を心からお祈りいたします。 なお、厚生労働省でお預かりしているご遺骨は、東京都の祐天寺に丁重に安置されていますが、視在、外務省等と連携して韓国政府と早期の返還に向けて取り組んでいます。 ご遺族と関係者の皆様のご健勝を心からお祈り申し上げます。 厚生労働大臣 小宮山 洋子 〉 〈 浮島丸爆沈事件67周年に際して 私たちは、朝鮮民族が日本帝国主義の植民地統治から解放された感激と喜びを抱き、故郷へと向かう同胞たちを乗せた日本海軍輸送船「浮島丸」が爆沈されて67回目となる8月24日をむかえました。 この悲惨な事件により、数千人の罪なき同胞たちが尊い命を落とし、懐かしい祖国の地を踏むことさえできませんでした。 私は、浮島丸爆沈事件により尊い命を落とされた同胞犠牲者とその遺族に謹んで哀悼の意を表します。 私たちは良心的な各界日本の方々と連携し、この事件の実態解明など具体的な活動を展開してきましたが、日本政府はいまだその責任を回避し、謝罪と賠償、真相究明に背を向け続けています。 それどころか、朝鮮民主主義人民共和国に対する不当な「制裁」措置を継続し、過去の植民地統治の犠牲者である在日朝鮮人の子孫まで差別しつづけています。 特に見過ごせないのは、各種学校の認可を得た外国人学校の中で、朝鮮高校の生徒のみを無償化制度の対象から除外し続けていることです。 外交関係や政治的思惑で、朝鮮高校生徒に対する無償化の適用を先送りにし、過去の植民地統治の犠牲者である在日朝鮮人の子孫たちまで差別しつづけることは決して許されることではありません。 日本政府は朝日ピョンヤン宣言に則り、不当な「制裁」措置を速かに解除し、このような異常な状況を一日も早く是正すべきです。 歴史的事実は隠すことも歪曲することもできません。 私たちは、日本政府が深い反省のもと、自ら浮島丸爆沈事件の真相を明らかにし、犠牲者に心からの謝罪と賠償を行うことを強く求めます。 私は浮島丸爆沈事件67周年に降し、朝日間の不幸な過去を皆様とともに、力を合わせ必ずや克服し、心が通い合う真の友好関係をつくるため、より一層の努力を傾けていく決意を新たに表明します。 この間、追悼事業をはじめ地道な活動を行われてきた皆様に、心からの感謝と敬意を表する次第です。 2012年8月24日 朝鮮人強制連行真相調査団 朝鮮人側代表 在日本朝鮮人総聯合会中央本部 副議長 朴久好 〉 〈 浮島丸殉難者を追悼する会 会長 余江 勝彦 様 「浮島丸殉難67周年追悼集会」開催へのメッセージ 「浮島丸殉難追悼の碑」建立から35年、そして「第1回殉難者追悼慰霊祭」開催から日本国憲法を柱に「誤った歴史を二度と繰り返さない」の初心を元に、今年で59回となります「追悼集会」を開催されますことに敬意を表します。 私たち「浮島丸下北の会」も貴会から多くの事を学び、またご協力のもとに浮島丸出港の8月22日に、「出港追悼集会」を開催してきました。今年は第19回となります。貴会のご支援に感謝申し上げます。 昨年、舞鶴市の仲間が作成しました紙芝居「うきしままるじけん」むつ市での上映には多くの市民が参加し、感動し、そして「会員」の奮起を促し、この1年で2つの大きな課題に取り組み、やり遂げました。 一つは、長年の「夢」であった「出港地に記念碑」を建立することができました。むつ市の協力と何よりも市民の後押しがなければ実現出来なかった事業でした。朝夕に通りかかった市民が「碑」を目にしている姿は「浮島丸事件」を確実に次に伝える土台となっていることを痛感します。 もう一つは「浮島丸事件の真相」に迫ることを目的に、浮島丸事件の生存者を招き、当時の状況を聞きたい! この企画には、当時の小学校の同級生等の協力を得て、広く県内外に呼びかけて間もなく実現可能の状況までたどり着きましたが、病気を宣告され、来日を目前に計画を断念せざるを得ませんでした。 しかし、「貴会」からの激励、多数の方の「招く会」加入の意思表示は「浮島丸下北の会」をどれほど勇気づけたか計りしれません。 「生存者を招く会」活動から得られた数々の結びつきは、下北での新しい芽となって来年の第20回、飾目の年につなげていくことを確信できます。ともに頑張りましょう。 「浮島丸殉難67周年追悼集会」のご盛会を心から願っています。 2012年 8月 24日 浮島丸下北の会 会長 村上 準一 〉 参考資料 事件のこれまでの略史が同じパンフに書かれている。 〈 浮島丸殉難67周年追悼集会にあたって 1.1945年(昭和20)午後5時過ぎ、日本海軍特設輸送艦浮島丸(4730トン)が舞鶴湾に入港してきた。青森県地方で働いていた朝鮮人労畿者とその家族(3735名)を乗せ、8月22日午後10時に大湊港を出港、釜山へ向かう途中針路を変更、日本海を南下して舞鶴湾に入ってきたものである。入港してきた浮島丸は下佐波賀沖にさしかかたところ、突如大爆発音とともに中央部から二つに折れて沈没した。突然の大事故により、近辺住民など懸命の救助活動にもかかわらず朝鮮人524名、乗組員25名、計549名(政府発表)の犠牲者を出す大惨事になった。 2.1910年(明治43)日本は統治権を朝鮮から奪い、朝鮮に総督府を置き軍隊を常駐させ、武断政治と同化政策をとった。朝鮮人民は日本語の使用を強制され、日本名を名乗らせられ(創氏改名)異民族の宗教である神社参拝を強要された。又、法律の悪用による土地取り上げが行われた。15年戦争の進行と共に、朝鮮人にも徴兵・徴用がおこなわれた。 徴用された人達は炭坑・鉄道や軍の施設の建設工事等に従事させられ苛酷な労働が強制された。浮島丸はこれらの人の帰国のため配船されたものであった。 3. 1954年(昭和29)4月1日、東舞鶴公会堂において第一回浮島丸殉難者慰霊祭が同実行委員会と東本願寺の共催で行われた。実行委員会の呼びかけ人は、大山郁夫(参議委員)未川博(立命館大総長)住谷悦治(同志社大総長)大谷蛍潤(東本願寺)その他の各氏である。 以来、東本願寺別院(市内浮島、至志徳寺)などで追悼慰霊祭が行われてきたが、追悼の碑建立の気運が起こり、佐谷靖舞鶴市長(当時)を会長に「浮島丸殉難者追悼の碑建立実行委員会」がつくられ、幅広い市民の浄財と府、市の補助金を得、用地も現場を目前にした最適の地を地元のご協力で確保することができ、土地の造成は地元の建設業者の手で、像の制作は市内中学校美術教師の集団制作によって、1978年(昭和53)に完成した。「浮島丸殉難者追悼の碑建立実行委員会」同年「浮島丸殉雛者追悼実行委員会」に改組し、追悼式典を行ってきたが、個人が参加できるよう1996年(平成3)「浮島丸殉難者を追悼する会」に改めた。 4.「会」は1989年(昭和64)事件の経緯と死没者名を収録した「浮島丸事件の記録」を刊行し、1998年(平成10)には「殉難の像」建立20周年記念行事として青森、東京、京都、舞鶴の関係者による 「シンポジュウム」と事件と運動を回顧する演劇「海を見つめる群像物語」を公演した。 5.1995年(平成7)浮島丸事件に題材をとった映画「エイジアン・ブルー 浮島丸サコン」が製作され、舞鶴ロケには多数の市民がエキストラとして参加した。この映画の中で舞鶴は、犠牲者を救助し、追悼を続けるヒューマンな街として描かれている。この映画は2001年(平成13)から韓国各地で上映運動が始まり、韓国で事件と舞鶴に対する関心が高まり2002年(平成14)2003年(平成15)には韓国・光州市民との交流・相互訪問が行われた。 6.1996年(平成8)本集会に対して厚生大臣名で追悼の電報よせられ、以後毎年、本集会に対し、政府から弔慰の表明が行われている。 7.沈没していた浮島丸は1950年(昭和25)に後半分が、1954年(昭和29)前半分が引き上げられた。浮島丸事件犠牲者のうち、まだ引き取られていない遺骨280体が東京目黒の祐天寺に祀られている。 8.2005年(平成17)中国・北京大学での映画上映が行われた。こうした国際交流の成果を受けて、2005年(平成17)、浮島丸殉難60周年企画として「国際シンポジュウム」を韓国・延世大学、中国・北京大学の研究者、及び日本の関係者の協力お得て行いました。又、これまでの追悼事業の取組が評価され、駐大阪大韓民国総領事館総領事による感謝状が贈られました。 11月6日 追悼する会の野田会長死亡。 9.2006年追悼する会総会を開催し、顧問須永安郎 会長余江勝彦を選出する。 10.2007年7月 日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会による「浮島丸事件沈没地の現地調査及び懇談会」実施。8月23日 追悼の碑建立30周年 r金一志韓国伝統舞鯖の夕べJ 公演。 11.2008年4月 浮島丸事件の聞き取り、下佐波賀出身 当時5歳父の救助活動手伝う。駐大阪大韓民国総領事館総領事 公式初参加。 12.2009年8月24日浮島丸殉難64周年追悼集会実施 13.2010年8月24日 「韓国併合」100周年・浮島丸殉難65月年追悼集会を実施厚生労働大臣からのメッセージを始め、駐大阪大韓民国総領事、京都府知事、舞鶴市長の献花と追悼の言葉を頂きました。 7月23日紙芝居「浮島丸事件」完成 上演開始 14.2011年8月24日浮島丸殉難66周年追悼集会実施 8月25〜30日紙芝居 「浮島丸事件」完成報告下北ツアー実施 11月14日韓国海軍司令官・艇長・東京大使館員(通訳)下佐波賀訪問 献花 15.2012年2月7日韓国「ハンサリム」一行 下佐波賀訪問 献花 6月 碑公園「ハマナスの木」植樹 追悼歌 歌詞パネル設置 韓国冊子 rマンガで見る東学農民革命」日本語版 舞鶴から発行 〉 上のほかにもけっこうたくさんあるようで、『舞鶴市民新聞』さんがよく報道されている。そのいくつかを− 『舞鶴市民新聞』(2011.11.18) 〈 *韓国海軍初来訪、幹部らが献花* *浮島丸事件殉難の碑で、犠牲になった同胞追悼* 海上自衛隊との共同訓練を終え、親善訪問のため舞鶴港に入港した韓国海軍の艦艇二隻の幹部たちが十四日、下佐波賀に立つ浮島丸事件の殉難の碑で献花した。韓国の軍関係者が訪れるのは初めて。舞鶴湾で亡くなった多くの同胞たちを悼むとともに、事件を伝える舞鶴市民に感謝の言葉を述べた。 対馬北東海域で十二、十三日、日韓共同で捜索・救助訓練を実施した後、韓国海軍のヘリ搭載駆逐艦「ワンゴン」と機雷敷設艦「ウォンサン」が北吸岸壁に入港し、海上自衛隊や市民から歓迎を受け、十六日に出港した。 指揮官を務める第七機動隊隊長のホー・チョル海宣大佐、在日韓国大使館武官室のチェ・ミョンハン海軍大佐ら六人が、公式行事の合間に碑を訪問。浮島丸殉難者を追悼する会の余江勝彦会長から、事件に対する謝罪と説明を受け、碑に献花し敬礼した。 ホー海軍大佐は「舞鶴へ入港するにあたり、舞鶴の歴史を諷べ浮島丸事件を知った。この地に立ち胸が痛むが、舞鶴市民が事件を忘れられないように活動を続けておられるのがわかり、来てよかった。韓国に帰ったらこのことを伝え、日韓の間でこうした悲しい歴史が二度と起こらないようにしたい」と語った。余江さんは「事件と追悼活動が広く知られるようになったことを感じます」と話す。 〉 『舞鶴市民新聞』(2012.2.10) 〈 *浮島丸資源芝居に、日韓の重い「荷」問いかける* *障国の劇作家が脚本、劇団・東京演劇アンサンブル 24日から練馬区で上演* 一九四五年八月二十四日、舞鶴湾内で海軍特設輸送艦が爆沈し、多くの朝鮮人労働者が犠牲となった浮島丸事件を主題にした芝居「荷(チム)」か、プロ劇団の東京演劇アンサンブル(東京都練馬区)によって取り組まれる。韓国の劇作家による脚本で、昨年十二月 に来鶴して殉難の碑を見た劇団員たちが、日本と韓国に残る重い荷物を問いかける。二十四日から練馬区の劇場で上演が始まる。 五四年創設の同劇団は、文芸作品や戦争をモチーフにした作品などを、国内外で手がけている。韓国との演劇交流の中で作品「荷」を知った。女性劇作家の鄭福根(チョン・ボックン)さんが書き上げ、〇八年に韓国で初演され、今回の日本公演のため新たに加筆した。 戦争中、強制労働をさせられていた朝鮮人たちを乗せた船「浮島丸」が、戦争が終わって朝鮮半島に向け出港した青森県大湊。この地に住む日本人男性が事件の犠牲となった朝鮮人女性の小さな荷物を預かっていた。その男性の娘が女性の関係者を探し出し、韓国にいる男に送る。 しかし、男は自分が受け取るべき荷物ではないと日本へと送り返した。戦争を知らない世代の日韓の二人の間で荷物が行き交ううちに、乗船を止められなかった日本人男性の罪悪感、強制運行された女性を突き放した韓国人側の罪の意識などがあぶりだされる。 劇団員ら十五人は、下佐波賀の殉難の碑前で殉難者を追悼する会の余江勝彦会長から事件の概要、救助の様子、追悼活動の説明を受けた。韓国から招かれた俳優二人と舞台を作り上げ、社会派演劇の旗手、坂手洋二さんが演出する。 制作担当の太田昭さん(39)は「韓国では事件が芝居になる一方、日本ではほとんど知られていないことに、荷物の重さの違いを感じます。日韓の間で押し付け合う荷を介して、双方で対話を重ねて関係を作っていくことが大切です」と語る。余江会長は「事件がいまだ未解決で終わっていないことによる意識の違いが込められているように思う。上演によって事件を知り考えてもらう機会になれば」と話している。 公演はブレヒトの芝居小屋で三月四日まで。午後二時と同七時の二回。前売り三千八百円 〉 わかりにくくて不便な場所↓ですが、会場はここです。車も駐められます。 |
浮島丸殉難追悼集会の記録 2024追悼集会 2023追悼集会 2022追悼集会 2019追悼集会 2018追悼集会 2017追悼集会 2016追悼集会 2015追悼集会 2014追悼集会 2013追悼集会 2012追悼集会(このページ) 2011追悼集会 2010追悼集会 2009追悼集会 |
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関連情報 67年前の浮島丸事件とその後のおおよその経過は、すでに何度も書いていますのでそちらを参照して下さい。 以前の追悼集会については「浮島丸追悼集会:丹後の伝説17」 事件そのものについては「浮島丸事件」 など参照して下さい。 |
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