丹後の伝説:13集

天日槍、一乗寺、池が首、他

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海部氏系図 天香語山命注文(勘注系図) 天日槍伝説(網野町浜詰) 池ケ首伝説(舞鶴市岡安) 岡の大女房(綾部市岡町) 冠島の女神(冠島) 陸耳御笠伝説(加佐郡)
巨勢金岡の絵(円隆寺) サルの話(舞鶴市大浦半島) 高城山の蜘蛛(綾部市位田町) 高野と高野山。一乗寺(大飯郡高浜町) 鷹ノ巣(大浦半島) 博奕岬(舞鶴市瀬崎) 彦火明命注文(勘注系図) 一つ目小僧(舞鶴市野原) 蛇と針糸(大江町夏間) 銅鐸出土状況(舞鶴市二尾) 丸石伝説(舞鶴市瀬崎)



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天日槍伝説 (網野町に伝わるもの)

【丹後の伝説】
『網野町誌・下』(平8)は、天日槍伝説。浜詰区の志布比神社の「社伝」に、大意が次のような記事がある。(『竹野郡誌』所載)−今回、読み易くあらためた−として、丹後唯一の日矛の渡来伝説を揚げている。

『(本社の)創立年代は不詳であるが、第十一代垂仁天皇の御代、新羅王の王子天日槍が九種の宝物を日本に伝え、垂仁天皇に献上した。九種の宝物というのは、「日の鏡」・「熊の神籬」・「出石の太刀」・「羽大玉」・「足高玉」・「金の鉾」「高馬鵜」・「赤石玉」・「橘」で、これらを御船に積んで来朝されたのである。
 この御船を案内された大神は「塩土翁の神」である。その船の着いた所は竹野郡の北浜で筥石の傍である。日本に初めて橘を持って来て下さったので、この辺を「橘の荘」と名付け、後世文字を替えて「木津」と書くようになった。
 天日槍命が日本で初めて鎮座された清い「塩比の浜」のあたりを、「宮故くごくごくご」と名付け、案内された塩土翁の神の祠も同所にお祀りしたという。
 その後、天日槍命は但馬国へ行きたいと思われ、熊野郡川上荘馬次まじまじまじの里の須郎すらすらすらに暫らく休まれ、それから川上の奥布袋野の西の峠を越えて立馬の国に越えられた。この時九種の宝物は馬に付けて峠を越えられた。後、この峠を「駒越し峠」と呼ぶ。(天日槍は)但馬国出石郡宮内村に鎮座し、宝物を垂仁天皇に奉献されたのである。』(後略)

注一 この「社伝」は、のち奥丹後震災で焼失した。
 二 「宝物」の数は、『古事記』では「八種」、『日本書紀』では「七種」とされている。
ところで、同じ『竹野郡誌』の「浜詰村誌稿」−唐櫃越からとごえからとごえからとごえ−の箇所には、「垂仁天皇が天日槍の孫の田道間守に対して、常世の国から橘の実を求めてくるよう命令された」と書かれている。十年余を経て、田道間守がようやく橘の実を求めて帰国したとき、着船した所を「橘の庄」といったというのである。
 このように、先の「志布比神社社伝」と「浜詰村誌稿」とは、内容が少々異なる。しかも、木津の「売布神社」は、田道間守がまず「ひもろぎ」を設けた記念の地として奉祀されたともいう。(『木津村誌』)
 さらに、このほかにも「意富加羅国の王子・都努我阿羅斯等」が木津の浜に上陸したという伝説もあるようで、全国的に名高い「函石遺跡」の存在も唐櫃越付近一帯、浜詰・木津・函石などの地域が、古代、大陸とさかんな往来のあった良港であったことを証明する伝承群であろう。そして、新しい文化文明が大陸から次々に渡来してきた事実が、「天日槍」という名に象徴されるのであろう。
補注一 「ひもろぎ」ヒモロキとも。神の宿る神聖な場所。玉垣で囲ったりした。
  二 「つぬがあらしと」古く角鹿、現福井県敦賀に上陸の説がある。気比神社に祀る。
  三 「天日槍」は現豊岡市の気比に上陸したという但馬の伝説がある。
  四 天日槍伝承は西日本一帯にさかんだが、丹後ではこの一例だけである。

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「天日槍伝説」




彦火明命の注文(勘注系図)

勘注系図の彦火明命の注文
(籠神社発行の『元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図』より)

籠名神宮祝部丹波国造海部直等氏之本記
(国寶海部氏勘注系図)
巻首(原漢文)

始祖彦火明命
亦名天火明命亦名天照園照彦火明命亦名天明火明命亦名天照御魂命 此神は正哉吾勝勝也速日天押穂耳尊の第三之御子にして母は高皇産霊神の女栲機千々姫命なり彦火明命高天原に坐しし時大己貴神の女天道日女を娶りて天香語山命を生みます天道日女命は亦名屋乎止女命と云ふ
大己貴神多岐津姫命亦名瀬屋号底姫命を娶りて屋乎止女命亦名高光日女命を生みます
天に上りて御祖の許に至る 其の後當国の伊去奈子嶽に降り坐す
丹後国は本丹波国と合せて一国たり日本根子天津御代豊国成姫天皇の御宇の時に詔りして丹波国五郡を割きて丹後国を置けるをり丹波と号くる所以は往昔豊宇気大神當国の伊佐奈子嶽に降り坐しし時天道日女命等大神に五穀及桑蚕等の種を請ふ即ち其嶽に眞名井を堀り其水を灌ぎて以て水田陸田を定めて悉に植ゑ給ふ即ち大神之を見そなはして大く歓喜びあなにえし田植満てし田庭と詔り給ふ其の後大神は復高天原に登ります故田庭と云ふ丹波の本字は田庭にして多尓波と訓ずるは當国風土記に在り
爾に火明命佐手依姫命を娶りて穂屋姫命を生みます佐手依姫命は亦名市杵嶋姫命亦名息津嶋姫命亦日子郎女神なり天香語山命穂屋姫命を娶りて天村雲命を生みます 其の後天祖乃ち二璽神寶息津鏡及び辺津鏡是なり天鹿児弓と天羽々矢を副へ賜ふ を火明命に授け給ひて汝宜しく葦原中国の丹波国に降り坐して此の神寶を斎き奉り速かに国土を造りかためよと詔り給ふ 故爾に火明命之を受け給ひて丹波園の凡海息津嶋に降り坐す
其の凡海と号くる所以は古老伝へて曰く往昔天下治しめすに當り大穴持神少彦名神と此地に到り坐しし時海中の大嶋小嶋を引集へ小嶋凡そ拾を以って壹の大嶋と成す故名づけて凡海と云ふ 當園の風土記にあり 
爾に火明命其の後由良の水門に遷り坐しし時即ち其の神寶 辺津鏡是也 を香語山命に分け授け給ひ汝宜しく此の神賓を斎ひ奉りて速かに国土を造りかためよと詔り給ふ 彦火明命の又の名は饒速日命亦名神饒速日命亦の名は天照国照彦天火明櫛玉饒速日命亦の名は膽杵磯丹杵穂命にして八州を統め給へり 已にして速日命即ち天磐船に乗り虚空に登りて凡河内国に降り坐す 其の後大和国鳥見白辻山に遷り坐して遂に登美屋彦の妹登美屋姫を娶りて可美眞手命を生みます 是に即ち其の弓矢及び神衣帯手貫等を其の妃に授け 復天翔りて丹波国に遷り坐して凡海の息津嶋に留り坐す 時に大寶元辛丑年三月己亥當園に地震起り三日止まず 此嶋一夜にして蒼茫変じて海と成る 漸く纔かに嶋中の高山二峯立神岩と海上に出で今常世嶋と号く 又俗に男嶋女嶋と称す 嶋毎に神祠有り 祭らるるは彦火明命と日子郎女神なり 當国風土記に在り 
故爾に彦火明神佐手依姫命と共に養老三己未年三月廿二日籠宮に天降り給ふ凡海の息津嶋の瀬に坐す日子社は祭神彦火明命なり凡海の息津嶋社に坐す祭神は佐手依姫命なり 正哉吾勝勝也速日天押穂耳尊栲幡千々姫命を娶りて天津彦火々瓊々杵尊を生みます 次に天之杵火々置瀬命を生みます 次に彦火明命を生みます 次に彦火耳命を生みます 或は云ふ正哉吾勝勝速日天押穂耳尊万幡豊秋津姫命を娶りて天火耳命を生みます 次に天杵火々置瀬命を生みます 次に天照国照彦火明命を生みます 次に天饒石国饒石天津彦火瓊々杵尊を生みます凡そ四柱なり栲幡千々姫命亦名天万栲幡千幡姫命亦名万幡秋津姫命にして高皇産霊尊或は高木神の女なり。

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天香語山命の注文
(『元初の最高神と大和朝廷の元始』より)

始祖火明命の児になる、天香語山命の注文。原文は漢文

天香語山。亦名は手栗彦命。亦名は高志神彦火明命。天上に於いて生ます神也。母は天道姫命亦名屋乎止女命、亦名高光日女命、亦名祖母命也。爾に天香語山命と天村雲命は父火明命に従い、丹波国凡海嶋へ天降座す。而して神議を以て国土を造り修んと欲し、百八十軍神を率い、当国之伊去奈子嶽に到る時、母道日女命と逢い、因て此地へ天降る其由を問う。母は答えて曰く、此の国土を造り堅めんと欲す、然と雖も、此の国は豊受大神の所所国也。故に大神を斎奉しなければ、則ち国は成り難也。故に神議を以て斎清地を定る。此大神を奉斎れば、則ち国成。故に祖命乃其弓矢を香語山命に授け曰く。此則ち是大神之意者。汝宜しく之を発ち。而其落に随い清地に行くべし。故に香語山命は其弓矢を取り、之を発つ。則ち其矢は当国加佐郡矢原山に到りて留まる。即時根生て枝葉は青々、故に其地を名づけて矢原と云う。(矢原訓屋布)。爾に香語山命が南東に到れば則ち荒水が有。故に其地神籬を建て、以て大神を遷し祭る。而して始めて墾田を定む。是に於て春秋に田を耕し、稲種を施し、恩頼は四方に遍く。即ち人民は豊なり。故に其地を名つけて田造と云う。爾に香語山命は然る后に、百八十軍神を率い退いて由良之水門に到る時に、父火明命に逢う。詔が有る。命は其神宝を奉斎し、以て国土造りを速修せんと欲す。其地を覓めて行き而て遂到当国余社郡久志備之浜に遂到る之時。御祖多岐津姫命とに逢う。因て此地に居ます其由を問う祖命は答えて曰く。斯地は国生の大神伊射奈岐命が天より天降り坐す地也。甚清地也。故に参降りて而して汝の来るを待てり。是に是て、香語山命は地が速かに天に連き、天真名井之水に通うを知る。すなわち天津磐境に起て始て其神宝を其地に奉斎し、豊受大神を遷し祭る(分霊を矢原山に斎奉る)。是に於て則ち国成る。其時此地に霊泉出る。爾に天村雲命は天真名井之水を汲み、此泉に濯ぐ。其水は和らぎ以て御饌之料と為す。故に此泉を名づけて久志備之真名井と云也。今世に謂う比沼之真名井は訛也(真名井は亦宇介井と云う)。此時、磐境の傍に於て天吉葛が生る。天香語山命は其匏ゑ採り、真名井之清泉を汲み、神饌を調度し、厳かに祭りを奠る。故に匏宮と曰く(匏の訓は与佐)。亦久志浜宮也(此郡を匏を号くる所以は風土記に在り)。爾に香語山命は然る后に木国熊野に遷坐す。而て大屋津比売命を娶り高倉下を生む。道日女命は多岐津姫命と此地に留り、豊受大神に斎仕。
天藏社    祭神 天香語山命
山口坐祖母社 祭神 天道日女命
宇介井社 一名 吹井社  祭神 多岐津姫命

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海部氏系図(『宮津府志』拾遺・安永10年)

『宮津府志』拾遺に次の記事がある。古系図が伝わることはある程度知られていたと思われる。
日本最古の国宝・海部氏本系図を見ているようである。


神職海部氏所藏古系図一巻  古代之筆記而雖文意多クハ難解ナリト今略取要文

  丹後国與謝郡従四位下籠神社従元至今所齋奉仕海部氏直等之氏
  養老三年己未三月二十二日 籠宮天下給
始祖  彦火明命  押穂耳第三子
三世  品田天皇御宇若州木津高向宮爾海部直姓定賜弖楯杵賜国造仕奉支
            従白鳳壬千年養老元年合三十五年
児海部直伍佰道祝奉仕○考籠神降下在于養老三然則如上数代奉仕豊受太神焉乎
児海部直愛志祝   始爲籠神宮神主
児海部直田雄祝   右系図一巻至田雄祝下
海部直國雄  海部直重勝祝  徒明応至氷正年中
中興  従五位下美濃海部直久  天和年中人
   右  略  取
 按養老三年雖始可籠社兼司豊受乎当年豊受廃壊以故応仁年間祭豊受神於今社内而爲相殿爾以来特称豊受太神宮神職。           天野房成 考

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瀬崎の丸石(舞鶴市瀬崎)

【丹後の伝説】


こうじんさん(瀬崎)として、『舞鶴の民話3』に、
丸石信仰の趾?(舞鶴市小橋)
これは安寿姫塚(舞鶴市下東)











三角経塚(舞鶴市下安久)より出土



 …村中の八幡神社の大木の根元に、自然石が四枚で組んだ支石墓形式の小祠がいくつか散在する。これは地主神である屋敷荒神の種で、かつて全戸の屋敷内に祭られていたといい、地元では「こうじんさん」とよんでいます。八幡神社脇には観音堂があって、西国三十三ヶ所観音様が勢ぞろいしています。
幕藩時代の頃、瀬崎の人たちにとって最大の楽しみは人形浄瑠璃でした。現在四十の頭と衣装が残り、瀬崎人形浄瑠璃の名が、近隣にまで聞こえ、あちこちから招きがあったという。明治三十七年の火災で民家とともに観音堂も焼けて、人形浄瑠璃の上演は二度となかった。この人形は阿波人形の系統である。衣装は、若狭、丹後の織物であり、その地方と織物の上で関係があるのではなかったかと古老は語ってくれた。白城神社(敦賀市白木)

累石壇



上の写真は同じ大浦半島瀬崎の東方に位置する小橋の若宮神社境内にあるもの、丸石が積み上げてあった。現在ある神社の本来の姿、始原の形態なのであろうか。荒神と呼ばれるのもそうした推測を裏付けそうに思う。卵を連想する形だが、太陽神が宿り給うといった信仰があったかも知れない。
そのほかにもいろいろと見られる。神々はこの石に宿りのたもうたのであろうか。安寿姫塚のものはゴイシさんと呼ばれて安産の守り神になるという。これを一個借りて帰り祀っておくと女性の病気に効果あるという。


左は累石壇と呼ばれる(『図説・韓国の歴史』(1988河出書房新社)。韓国でも今も残るようである。「小さな石をひとつひとつ積み重ねてできあかった神域。山や峠道などでよくみかける。」のキャプションがついている。)
 右はモンゴルのオボーというもの。兵庫県出石郡但東町の「日本・モンゴル民族博物館」の入り口にある。次のように書かれていた。モンゴルのオボー
 オボーはモンゴルの小高い丘や峠によく見られる土地の守護神の宿るものと考えられています。モンゴル人はオボーの横を通ると必ず車から降り、旅の安全を願って時計回りに3回まわります。ゆっくり歩いて回り、心の中で旅の安全を祈ればいいだけです。モンゴル博物館は皆様の旅が快適なものとなりますよう心より祈念しております。

大浦半島瀬崎の「石崎坐三輪社」丹後の伝説13へ




博奕岬(舞鶴市瀬崎)

【丹後の伝説】
『京都丹波・丹後の伝説』(京都新聞社・昭52)に、(イラストも)


博奕岬
               舞鶴市瀬崎

 舞鶴・大浦半島の先端に、ギャンブルファンにはありがたいご利益がありそうな博奕(ばくち)岬という名の岬がある。博奕岬
 昔むかしのあるとき、まだ名前もついていなかったこの岬で、竜神とクジラの大王がばったりと出会った。二人とも日ごろから「自分が一番強い」と思っていたから、しばらくすると自慢合戦をはじめた。
「オレ様はどんな深い海にも何時間でも潜れる。オレより大きな魚はよもやいまい」
「あたしは大空高く飛べるのよ。速さだってだれにも負けないわ」
さしずめこんないい合いをしたことだろう。
 論戦はいつまでもつきず「それでは腕ずくで決着をつけよう」ということになったが、竜神様は女性。そこで知恵くらべで雌雄を決することになり、近くの海岸にころがっている黒と白の石を使い囲碁で勝負することになった。そのときの勝敗は伝説では残っていないので不明。しかし、これ以降、この岬を博奕岬と呼ぶようになったと伝えられる。
 この岬の近く、瀬崎地区の海岸は黒い石ばかりの浜と白い石ばかりの浜に、真ん中で線をひいたうにきれいに分かれている。丹後風土記には二石崎と記されている。岬の先端は深い地層から隆起した白色の花崗岩、その南側は暗緑色の輝緑岩、と地質が異なるため。石の形は若狭湾の荒波の浸食で丸く、ちょうど碁石のよう。岬の突端には、地元民たちが碁盤石と呼んでいる高さ三十メートルほどもある切り立った大きな岩がある。
 江戸後期、宮津藩の儒学者小林玄章が調べた丹後地方の地名一覧丹哥府志には波口崎と書かれている。いつから博奕岬と呼ばれるようになったか、伝説がいつ生まれたかは不明。最近ではこの伝説を知っている地元民もほとんどいない。しかし、博奕という地名の中に伝説はいまも生きている。 
  (カット=奥西祥司君=舞鶴市大丹生校)
〔しるべ〕 博奕岬は東舞鶴市街地から北へ約二十キロ。車で約一時間。岬上には灯台があり、若狭湾を一望にのぞめる。ふもとの瀬崎地区にはタイアジなど好漁場の岩場がある。

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一つ目小僧(舞鶴市野原)

【丹後の伝説】
『舞鶴の民話4』にもある。(イラストも)

一つ目小僧    (野原)

 村の人たちは耕地が少いので、ほとんどの人が、それぞれの船で漁に出かけ、魚をとっては暮していました。三浜の人もよく野原をすぎ成生にいく途中にちょっと入りこんだ所があり、きれいな砂浜で、ちょっと寄って休むところでもあり、「ちんじゅの浜」といいます。
 あるとき、親子が漁に出ました。なぎの日で、船は楽なのですが、どうしたことかこの日は一匹も魚がとれません。網にかかった魚は小さいものしかかからない。一ぷくしようかと、このちんじゅの浜に舟をよせました。
 昼時であったので、持ってきたおにぎりべんとうを開いた。すると向うの方に、小さい子どもで、ちやんちゃこをきた頭でっかちの子が近づいてきた。
 「おらあ、もうながいことマソマたべてへんのや、ひもじゅうて、ひもじゅうてがまんできんのや、どうぞ食うもんめぐんでくださらんか」歩いてきた子をよく見ると、大きな目が一つ、口は耳までさけている。
 父親は、幼いころばあさんから聞いたことのある、ちんじゅの一つ目小僧で、うまいこといって人を食うということを思いだした。こんな奇妙なかっこうの子は、ちんじゅの一つ目小僧にちがいない。一つ目小僧『舞鶴の民話』より
 にぎりめしを一つつかんで遠くの方に、ぽ−いと放りました、小僧はその方に走っていき、大きな口にポイッとほりこんで、「もっとくれいや、おなさけや」という。また遠くへ投げたが、食べるが早いか、ぐっと近づく。ようけあったにぎり飯もみんなぁなくなってしまった。
 「うまかった、もっとあるやろ、生きているもんやったら、もっとおいしいやろ」
 父親は、子どもに「いけすにある魚をもってこい」といった。小僧はじっと待っていた。
 「おとう、どこのいけすや」
 「うん、そうやな、わしがさがしたろ」
 父親は、砂浜をけって舟に子どもと共にのりうつり、ろでぐっと船をだした。
 一つ目小僧は、大きな口をあけ、舌をぺろりぺろりさせながら波うちぎわに立ち
  「だまされた、ざんねん今日は生きた人間の肉がたべられたのに」とウエンウエンと泣きだしました。帰ってから子どもは、おそろしそうに
 「ちんじゅの小僧はこわな、ホーホットとホッ力リコーしとったな」
 と古老は語ってくれました。

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冠島の女神(冠島)

【丹後の伝説】
『わが郷土』(丸山校百年誌)に、


雄嶋(冠嶋)の話

 老人嶋おしまさんおしまさんおしまさん女神おんながみおんながみおんながみ  −小橋−
 今の雄嶋詣おしままいりおしままいりおしままいりは、六月一日だが、昔は三月三日じゃった。
 三月三日は、おしまさんの神さんが、島を留守にする日となっとった。おしまさんの神さんは、女の神さんで、だんなさんの神さんは、「にいざき」という所の神さんじゃった。三月三日は、年に一度、老人嶋から、女神さんが、恋いしいだんなざんに会いに行きなさる日やから、早うから島へ行ったら、女神さんが、人に姿を現わして舟にのるのが、恥しいてでけへん。そんなじゃまでもして、女神さんが会いに行けなんだら、村のもんが、老人鳩に上るなり、島が地震のように、ゆっさゆっさゆれたり、山鳴りがして、とってもそこにはおれんようになってしまう。
 漁師が、魚や貝をとりに海へ出ていっても、海が荒れて、家にも帰れん。しやなし、老人嶋に行っても、島がゆれて大変じゃ。船をかぶって一夜を過してから家に帰ったりしたもんじゃ。
 老人嶋さんには、木で作った古い船があるが、神さんが、この舟にのって「にいざき」へ行きなさる。
 ほんまか思て、ある人が、三月四日に島へ上ってこの舟みたそうな。そしたら、だれもいろとらんのに、舟の底がすりへったり、海の水でぬれとったりしとった。
 前は老人嶋神社は、「竹がタラ(平)」という島の高い所にまつっとったが、それでは、女の神さんが、海まで舟をおろすのに難儀しなさるんで、今の平らなところまでおろして肥りかえたんじゃ。
 なんせ前は、島の下を通ると、どうしょうにも、舟がピタッととまってしもうて、先へ漕げん。それで漁師は、舟の帆をおろして、老人嶋さんを拝むと、舟が進むんじや。
 今の所にまつりかえてから、もうそんなことは、起こらんようになった。
 せっかくの三月三日に、ワイワイじゃましにいかんようになったし、きっと、女の神さん満足しとらつしやるんじゃのう。

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舞鶴沖の漁民の信仰の島「冠島」



高野(大飯郡高浜町)の伝説

【若狭の伝説】
『舞鶴の民話2』に、

幻の大寺・一乗寺   (青郷)高野集落(高浜町)

 青葉山の南麓に高野という部落がある。ここには馬頭観世音像を安置する中山寺がある。そこから西に山を登れば西国二十九番の札所の松尾寺がある。この二寺の中間に位置するのがこの部落である。傾斜地に建てられた民家は、みなすばらしい石垣の上にある。この石は火成岩で青葉山の噴火によってできた石であろう。
山茶花が咲き南向きであるので、日当りがよく草木はよく育つ、民家は細い道で、自動車がようやく通れるぐらいだ。その道端には、老婆が日なたぼっこをしている。「いいお天気さん」というと、老婆は首をさげるだけである。眺下は高浜の海である。今寺集落(高浜町)
 ここには昔、大寺の一乗寺があったといわれる。
 この寺は紀州の高野山と本寺、末寺との争いがおこった時、焼きうちにあったという。いつの時代かわからないが、また高野の地に大きなお寺が復興して旧観を取りもどした。これをどう伝え聞いたのか、高野山のまわし者らしきものが、村人の目をぬすんでやって来て、再び焼き払ったと伝えられる。
 そのとき仏像一つだけが、グミの樹のかげにかくれて火災をまぬがれた。これが現在も清住庵にまつられている仏像である。
 高野の人は、このいい伝えを、祖父母から聞いているのか、グミの木を大切にして、決して薪には使わないという。

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『大飯郡誌』(昭6)に、青葉山遠景(麓に高野などの民家が見える)

高野寺跡と傳説


 高野は高野(カウヤ)に通ず、傳ふ、現今の高野附近に、昔時大伽藍ありて多くの僧坊を有せりと、(今尚其の當時のものと思はるし石垣古池等點在せり)口碑によれば往昔嘗て紀伊の高野と我が高野と本末を争ひしに紀伊高野寺の爲めに焼き払はれ堂宇悉く焼失せりと云ふ其時本尊釈迦の像胡頽(グミ)子の木の裏に其の難を免る今の清住庵の本尊即ち之なりと、廣野区民今尚胡頽子の木を焚かず、又精進畠といふ所なり、之れ本庵の蹟なりとて、人肥魚肥は全く用ひず近時此畠より金属製の一佛躯を発掘せり此の地附近尚坊名を附せる所多し。

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『若狭高浜むかしばなし』(平4・町教委)に、

青葉山麓の精進畑高野集落(真下中央が高野・山頂より)

 青葉山の南のふもと、高野、広野のあたりに精進畑(しょうじんばたけ)と呼ばれているところがある。料理の種類に、肉を用いない精進料理というのがあるが、その意味と同じである。つまり、その畑の肥やしとして人肥や魚肥が使われないのだ。どうして、そのあたりの畑が精進畑となったかについて、こんな話が伝えられている。
 むかしむかし、青葉山南麓に一乗寺(いちじょうじ)という真言宗の大きな寺があった。いかに、この寺が大きかったかということは、紀州の高野山と争ったことからも知られる。一乗寺がたいへん立派だった頃、高野山とどちらが本寺か末寺かと長年争いが絶えなかったのだった。互いに、本寺であると主張し続けて、話合う気配も見せなかった。
「空海様が八百十六年に開いた真言宗の総本山は、高野山なのじゃ」
といえば、一乗寺も負けてはいない。
「いや、空海様はこの一乗寺を総本山とされたのじゃ」
仏に仕える身の言葉とは思えないほど、激しい言い争いが続いた。
 時が流れるにつれ、双方の憎しみはつのるばかりだった。そんないきさつから、あるとき、ついに高野山の僧たちが暴力に出た。一乗寺の本堂をはじめ、広大な敷地の中に建てられていた、たくさんの堂という堂をことごとく焼き払ったのである。一乗寺の僧たちの嘆き、悲しんだ。
 すべてが焼かれてしまった中で見つかったものがある。寺のご本尊であった。ご本尊の釈迦如来がグミの木の陰になって火事から逃れることができたのだった。そのご本尊は、今は広野の清住寺(せいじゅうじ)(真言宗西明寺(さいみょうじ))のご本尊としてまつられている。
 むごい焼き打ちにあった一乗寺の悲劇は、後の世まで伝えられ、それをしのんで、このあたりに住む人たちは、本堂があった跡地を精進畑として大事に扱っているのである。
 また、ご本尊の釈迦如来様を助けたグミの木への感謝の思いから、高野広野の人たちは今でもグミの木をたきぎにしないという。
 むかし、このあたりに寺院があったというのは、大正年間に、三寸三分の観音様が掘り出されていることからも間違いないようである。

「高浜町高野」丹後の伝説13へ



サルの話(舞鶴市大山・水ケ浦)

【丹後の伝説】
 昔から大浦半島には猿が多かったようである。
『舞鶴市史』に、

サルの話     (大山・水ケ浦)

 大山村では、サルの害に苦しんだあげく、山王大権硯を氏神にお祭りしたといわれている。また、毎年、節分の夜は村の美しい娘を一人選んで、人身御供として氏神に供えると、真夜中にサルどもがその娘を連れ去るとも言い伝えられている。
 水ケ浦でも、サルのために随分農作物が荒された。こんなにサルが多くては、とても年貢が納められないというので、殿様に年貢を減らしてもらうよう願い出ることを決め、このことを田井村の寄り合いに出したが、そのころは、年貢を減らしてほしいなどという訴えは、大変なことであったから、村の人はなかなか賛成せず、庄屋どんも反対であった。そこで水ケ浦の人たちは直訴する決心をした。当時、直訴は重い罪になっていた。水ケ浦の人たちが直訴の決心を話すと、庄屋どんを始め、村の人ほ何とか止めさせようとした。そしてとうとう言い争いになり、水ケ浦の人たちは寄り合いから飛び出し、田井の大橋の上で直訴の願書を書いた。この直訴は首尾よく成功して、願いも聞き届けられ、その時以後、田井の大川から東の田畑は年貢を減らされ、水ケ浦は馬の飼い葉だけを納めればよいことになったという。

「大浦半島のサル」丹後の伝説13の一番上へ

『田井校区のすがた』(1969)に、

猿の話

 今は人間の知恵が進んで、野生のけものたちをこわがることも少をなくなりましたが、昔は、けものの数も今よりずっと多く、人間はいろんなけものにおびやかされていました。田井校区では、サルになやまされることが多かったらしく、サルの話がいろいろのこっています。
・大山村では、サルの害に苦しんだあげく、山王大権現を氏神様にお祭りしたといわれています。山王様というのはサルを召し使いにしている神様です。毎年節分の夜には、村の美しい娘をひとりえらんで人身御供として氏神様に供えた、ということも言い伝えられています。真夜中になるとサルどもが、その娘を連れ去るといわれます。娘がどうなったのか、誰も知る人はありません。このような人身御供の娘を助けようとして、その昔、岩見重太郎がヒヒ退治をしたというのは河辺中の八幡様に残る伝説です。
 水ケ浦でもサルのためにずいぶん農作物を荒されました。こんなにサルが多くてはとても年貢が納められん、というので、殿様に年貢を減らしてもらうよう願い出ることに決めました。そして、このことを田井村の「寄合」(村の大事なことを決める集会)に出しましたが、そのころは、年貢を減らしてほしいなどという訴えは、役人からひどくしかられるのがおちでしたから、村の人はなかなか賛成してくれません。庄屋どんも反対です。そこで、水ケ浦の人たちは直訴(じきそ)する決心をしました。そのころは、願いごとをするのにきびしい順序ときまりがありました。百姓の願いごとは、まず庄屋から大庄屋へ、大庄屋から藩の役人へ、それから重立った役人に取り次がれて、最後に殿様に届くのです。ですから、この途中で誰かが反対したり、どこかで止められたりすると、百姓の願いは上へ届きません。直訴というのは、この順序を守らないで、直接に重立った役人や殿様に願書を差し出すことです。これはたいへん重い罪にされます。
 水ケ浦の人たちが直訴の決心を話しますと、庄屋どんをはじめ村の人は何とかやめさせようとしました。そしてとうとう言い争いになって、水ケ浦の人たちは寄合からとび出し、田井の大橋の上で直訴の願書を書いた、ということです。
この直訴は首尾よく成功して、願いも聞き届けられ、そのとき以後、田井の大川から東の田畑は年貢を減らしてもらい、水ケ浦は、馬の飼いばだけを納めればよいということになったそうです。
 昔から、サルはまず薬にされ、それから肉を食べ、毛皮も使ったので、高いねだんで売れました。そこで猟師がサルをとりにやってきました。
明治から大正にかけて、猟師は水ケ浦に1か月もとまり込んでサルとりをしたそうです。南有路の木村八右ヱ門という人などは腕がよくて、どんどん取ってもう12.3匹しかおりませんわというほどに減ったそうです。しかし、サルが保護獣にされて、勝手に取れたくなってからまたふえ出し、今では100匹もいるか、といわれ、作物を荒されるので困っています。
 サルは集団(社会)生活のしかたもすすんでいますが、何よりも人間に似ているので、猟師もサルを殺すのをいやがります。一方、サルは動物園の人気者であり、医学や文化の発達についての研究にたいへん貴重な動物です。近年、日本のサルの研究は非常に進み、各地にサルの山・サルが島がつくられてきています。この地方でも、サルが島をつくれば、猿害もなくなり、人とサルの親しみが生れるでしょう。


舞鶴市民病院の市民投票の誓願否決の話などは江戸時代と変わりない、お前ら人間は何も進歩しないナと、たぶん大浦の猿どもが大笑していることであろう。猿に笑われ、独裁国家と呼ぶ隣国にも笑われることであろう。お前らの方がよほどに独裁ではないかと。テロリストにも笑われるだろう、お前らの方がテロではないかと。
猿ヶ島を作ろうというのはいいアイディアと思われる。しかし現状だとどちらが猿ヶ島だかわからないかも知れない。片方は本物の猿ヶ島、もう一方は携帯をもった猿ヶ島。いやワシらは猿ではないといえるほどの人間様の叡智はもう失われたのではないのかと心配なこの頃である。。

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巨勢金岡の絵 

【丹後の伝説】

巨勢金岡の絵の伝説は引土の円隆寺にもある。円隆寺(舞鶴市引土)この本堂を見ただけで真言宗のお寺でしょうと当てた人がいた。私はわからない。



『舞鶴市史』に、

放れ駒の絵(引土)

 円隆寺本堂の本尊後ろの羽目板に、巨勢金岡の筆といわれる放れ駒の絵があった。ところが、この馬が夜ごとに脱け出しては、あちらこちらの田畑を荒らし回った。そこでとうとうこれを繋ぎ駒にしたところ、それからはまったく出て行かなくなったという。
 また、東の方、若狭街道を白鳥峠から東の土橋まで行って帰るというので、この橋を駒返しの橋というと伝えている。

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鷹ノ巣 (大浦半島周辺)

【丹後の伝説】
『田井校区のすがた』に、

鷹の巣

 田辺城の殿様は、毛島のタカの巣から、ひなを捕えさせ、それを黒地で飼っていました。
 そのころはタカ狩りといって、飼いならしたタカを使って小鳥を取らせる遊びが身分の高い武士の間でさかんだったのです。黒地のタカの番をしたり、えさをやったりするのは地元の庄屋どんの役目でした。
 ある年、タカが逃げ出したために、ふたりの庄屋どんは殿様からきついおしかりを受けて、とうとう打ち首にされることになりました。
 いよいよその日の朝、庄屋どんのひとりは、ふだん信心している観音さまに最後のおいのりをするためにまわり道をしました。もうひとりの庄屋どんは、「もうすぐ打ち首にされるというのに、おいのりなんかしても何にもならない。」と思って刑場にきめられた大山の椎の木の下へひとりで行き、とうとう打ち首にされてしまいました。ところが、ちょうどそのとき逃げていたタカが見つかった、という知らせかきたのです。観音さまへおまいりしたためにおそくなった庄屋どんは、おかげで打ち首にされずにすみました。
 大山と田井の間の旧道のそばの大きい岩に、そのとき打ち首になった庄屋どんの首を置いたといわれています。(大山邑風土沿革誌の記事をもとにした)

 昔の本に、馬立のタカの巣からひなを取るときのようすが書かれています。
 タカは切り立った岩かべの上の方のほら穴に巣をつくっています。そこでひなを取る人は、岩かぺの上から太いつなをからだにくくりつけておりて行きます。つなのはしは岩の上のくいに巻きつけてあり、その人の親子兄弟などがそれを引っぱっています。取る人は頭にずきんをかぶり、片手にはかごを持ち、もう一方の手にはわきづなを持っています。わきづなというのは細いつなでこれで上にいる人に合図をおくるのです。
 いよいよ穴のそばまでくると、その人は岩をけってちゅうぶらりんになり、調子をつけて穴の中へ飛びこみます。そしてひなを取ってかごに入れると、そのあとへ扇子を1本置きます。これはひなをもらったお礼なのです。
 ある年、上にいた人たちがまちがって急につなをゆるめました。つなにぷらさがった人はびっくりしてきもをひやしました。そしてみるみる内にかみの毛がまつ白になってしまったそうです。
 この本を書いた人は、その白髪がになった老人を見たそうで、この話はうそでないと書いています。(丹哥府志ー 今から百数十年以上前の本ーによる)
注.ひなを取る人の給銀は、米5斗、銀10匁であったと記されている。
民謡に名を残す五郎左は、タカのために命を落し、(ひな取りか、タカ狩りか、飼育の責任を問われたのか、わからない)村人に哀惜されたものであろう。
 なお、丹哥府志の以上の話は、馬立島のことになっているが、この外、冠島のこととして同じような話が記録されている。
 山本文願氏「名勝雄島考」によると、同氏は、大浦の在方で、「文政八年、大島(冠島)にタカの巣之有り、殿様御入用につき、右巣下し相納め候、その節米7斗3升3合、人夫料とし〆て三ヶ村の者へ下され.… 」 という文書を見た、という。
 また、丹後旧語集には、この島(冠島)隼(ハヤブサ)・… タカをり、巣は山の岸、人の足の及ばざるところ、穴の内にあり、上より取る人繩をつけ下し、子をとる、ほうびに7斗3升3合の米下さるが古例なり、とある。
 このように、タカはおしま(冠島)、馬立島、毛島の3島にそれぞれ巣をつくり、その外、成 生岬の西面の絶壁にも巣があった、といわれている。

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池ケ首伝説 (舞鶴市岡安)

【丹後の伝説】
『朝来村史』に、

池ケ首の伝説
岡安峠
 岡安の村の北端、峠の上に大なる池あり蛇ケ池と称し、往昔此池に大蛇住めり.時人は其池の傍に立寄るときは影を呑まるべしと懼れ登尾へ越す峠道を特に左右二筋に作り、即午前は西の方を午後は東の方側を往還したるなりき。今を去る凡一千二百年前、泉源寺村に殿さんと尊称する豪族あり、一人の娘の許へ夜な夜な通ふ忍び男あるにより殿さん夫婦太く心配し、或夜密かに苧のつづね糸のいとも長きに針を附し、先夜忍び男の脱ぎ忘れし袴の裾に縫ひ附けおきたるところ、翌朝に至り戸の節穴より外に出で其苧糸は、遠く岡安の峠の池にあとを引いてきてゐるのを見届け、大に驚き帰り直ちに討伐に取かゝったのである。大蛇は池を追ひ立てられ中山まで、逃がれ出でしが、此時討手の中に稀代の弓の名人あり遂に大蛇を此地に於て退治せり。大蛇は遁ぐる道中で六人の人を呑み殺せしを以て後に白屋の下に堂宇を建て六地蔵とし懇ろにまつれりと請う中山の大蛇を射止めし地点は今に蛇地(じゃぢ)と称呼せられあり。
 以上古老の語りの儘を記したが此池の所在を池ケ首と称し、先年府道開鑿の時其池あとの一部を埋むるに道路敷の下に大きさ廻り二尺長七尺の粗朶千二百把を投じ漸く其上に土砂を置くことができたと謂う。随分深い池であったとみえる。
 昭和十四年海軍用地関係により久しきに亙り光輝ある伝統をもつ字岡安は茲に自然的解体を遂げ、住民は夫々新たなる郷土に移転したのである。

写真は岡安の舞鶴市青葉山麓公園から北の登尾・笹部口へ越える峠である。峠とは呼べないような低い平坦な峠である。この峠の上に蛇ヶ池があったと思われるが、現在は見当たらないようである。丹後の伝説13へ



『京都丹波・丹後の伝説』(京都新聞社・昭52)に、

池ケ首
          舞鶴市朝来岡安

 伝説に大蛇はつきもの。素戔嗚尊が八岐大蛇を退治、櫛名田姫を救い、その尾から草薙剣を得たという神話はその代表的なものだが、舞鶴地方にも大蛇の伝説は数多い。喜多の「建部山の大蛇」、小倉の「こも池」、市場の「古池の主」、与保呂の「蛇切岩」等々……。ほとんど美しい姫がその犠牲者で、舞鶴市朝来地区に伝わる「池ヶ首」伝説も美女がからんだ大蛇退治の話の一つ。
 朝来岡安の北端、峠の上に蛇ヶ池という大きな池があった。昔、この池に大蛇が住んでいた。村人たちの間では池のそばに立ち寄ると影をのまれるといって恐れられていた。このため、登尾方面へ越す峠道を特に東西二本造り、午前中は西の道を、午後は東の道を往来したという。
 そのころ、南隣にある志楽・泉源寺村に美しい娘を持つ豪族がいた。両親は娘を目に入れても痛くないほどの可愛がりよう。豪華な部屋を造り、調度品もぜいたくを極めた。きらびやかな衣装に包まれた娘は「朝来小町」ともてはやされるにふさわしい美人。その娘の部屋に夜ごと忍び通う若者がいた。両親は大変心配し、ある夜、脱ぎ忘れてあったハカマのすそに、長い糸をぬいつけておいた。翌朝、両親がこの糸をたぐって行くと、娘の部屋から出た糸は戸の節穴から外に出ている。さらにたぐっていくと泉源寺から安岡を通り、朝来の岡安まで続き、峠にある池の中へ消えていた。
 夜ごと通い続ける男は池の主の大蛇だったのだ。両親の驚きと悲しみは例えようもないほど。村に急いで帰ると村人を集め討伐にかかった。
 大蛇は池を追い立てられ中山まで逃れたが、村人たちの中に弓の名人がおり、ついに大蛇を射止めた。大蛇は逃げる途中、六人の村人を飲んだので、後に白屋の下にお堂をたてて六地蔵とし、手厚くまつったという。
 大蛇を射止めた場所は、いまも安岡小字蛇死(じゃし)という地名として残っており、蛇ヶ池のあったところは小字池ヶ首と呼ばれているが、池はいまない。

〔しるべ〕朝来岡安地区は東舞鶴中心街から約五キロ。純農村地帯だったが、近くに日本板硝子工場、舞鶴高専をはじめ、最近では府営住宅、さらにゴルフ場もオープンするなど開発が急ピッチで進んでいる。

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池ヶ首の伝説 つづき(舞鶴市岡安)
【丹後の伝説】
『京都の伝説・丹後を歩く』に(伝承探訪も)

蛇ケ池の大蛇退治
         伝承地舞鶴市岡安

 朝来岡安の北端の峠の上に大きな池があり、蛇ヶ池と呼ばれていた。
 昔、この池に大蛇が棲んでいた。人々は、この池のそばに立ち寄る時には影を呑まれるといって恐れ、登尾へ越す峠道を特に左右二筋作って、午前は西の方を通り、午後は東の方側を往き来したものだという。
そのころ、志楽の泉源寺村に美しい娘を持つ、殿さんといわれる豪族がいた。その娘のところへ夜ごとに忍んで通ってくる若い男がいた。両親はこのことをたいそう心配して、ある夜ひそかに長い糸を針に付け、先夜脱ぎ忘れた袴の裾に縫いつけておいた。翌朝、両親がこの糸をたぐってゆくと、娘の部屋から抜けた糸は戸の節穴から外へ出ていた。さらにたぐってゆくと、泉源寺から安岡を通り、朝来の岡安まで続き、峠にある池のなかへ消えていた。夜ごと娘のもとへ通ってきていた男は池の主だったので、両親は大いに驚き、村に帰るとさっそく村人を集めて討伐にかかった。大蛇は池を追い立てられて中山まで逃れ出たが、この討手のなかに希代の弓の名人がいて、ついに大蛇を退治した。
大蛇は逃げる途中で村人を呑んだので、後に白屋の下にお堂を立てて六地蔵とし、懇ろに祀ったという。大蛇を射止めた場所は「蛇死」と呼ばれている。また、この蛇ヶ池のあった場所は「蛇ヶ首」と呼ばれているが、今はこの池はない。   (『舞鶴市史』各説編)

〈伝承探訪〉
 山のなかの湖沼に、大蛇がその主として棲んでいたと伝えることはしばしばある。
 登尾出身の水元静枝さんのお話によると、昭和十七年に旧海軍が岡安・白屋の地に火薬廠を建設し、集落は移転させられて、あたりの様相はすさかり変わってしまったが、いまグリーンスポーツセンターとなっているあたりに岡安の集落があったという。さらにその十年前、登尾への新道が開通したが、その開通前には集落の奥、峠の頂上のところに池が広がっていたという。周りはさほど高い山に囲まれているわけではないが、今もこんもりとした森が茂っている。かつて、その池からは岡安の方へ川が流れ出し、あたりの水田の水源となっていた。この伝説の大蛇はその水の神であったのだ。
 ところで、この話のなかで、男の正体を知るために糸のついた針を袴の裾に縫いつけ、その糸の後をたどるというモチーフは『古事記』の三輪山伝説や『平家物語』の緒方三郎という武将の出自伝承にもみられ、東アジアに広く分布する説話のモチーフである。今日の昔話にも、五月五日の菖蒲湯の由来を説く話などとして、数多く伝えられている。
 さて、この大蛇がかよって行ったとされる泉源寺村は、この地域から南西に見える山の向こう側にある。街道はその山裾をめぐって泉源寺村へと続いている。美しい娘がいたとされる、さる家はかつて栄えた大家であったという。伝説は、そのような名高い家に主人
公を求めるのである。
 その糸が続いていたという安岡・岡安、大蛇が逃げたという中山・白屋という地名は、いずれも、泉源寺村から若狭街道の本道に分かれ、大浦半島の山塊と青葉山との間の塩汲峠を越えて若狭へ出る枝街道に沿う地名である。このような歴史的景観のなかで、この伝説は伝えられてきたのである。
 大蛇に呑まれた六人の村人を記ったという六地蔵は、白屋の集落が移転した後も、移転先の地において、今も手厚く祁られている。

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池:ヶ首伝説 つづき
【丹後の伝説】
『市史編纂だより』(昭48.12)に、

蛇男の話
       (朝来中)  林 勝治さん
 今を去る千二百年の昔、志楽の郷泉源寺のさる豪族の娘の元へ夜な夜な通う若者があった、怒った両親が娘にその男の名前を尋ねるが娘も知らない、なんとかその正体を確かめさせようと、若者の着物の袖(そで)に長い糸のついた針をつけさせておいたところ、朝来谷岡安地内のある大池に帰りついた若者は、ここで大蛇に身を変えた。
 これを知ったある弓の名人が、この大蛇を追って行き志楽村字中山でこれを討ち取った。その池を「蛇池」といい、いまもその名の小字がある。現在の字中山、未だ家の北裏にある。その討伐の途中、大人の討手が大蛇に飲まれて死んだ。その地は白屋といい、現在の国立高専の前庭辺りにあたる。その人たちの霊をとむらうために地蔵を建て六地蔵を祭り小字名も六地蔵という。地蔵さんは、高専建設の際、土地買収のためよそへ移転した。
 またこの池は字登尾との境で「池ヵ首」といったが、先年府道改修の際、切り下げたところ、池跡と思われる泥土があって深いので、多くのソダを投げてようやく道が出来たほどである。

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蛇と針糸(大江町夏間)

【丹後の伝説】
『京都の昔話』(昭58・京都新聞社)に、

長もんと針糸

 むかし、なにやら、どだい(とても)器量のよい娘はんが、ある旦那衆にありましたて。ほったらどえらいりっぱなよい息子がなあ、夜なかになるとその娘さんのそばへはいってくるんですって。ほで、それが毎晩毎晩つづくんですって。それで親がなあ、
「まあ、違とったらええけど、どうもおかしい。夜なか過ぎになると、うじゃうじゃ話があるようなし、誰か娘のそばへ来とるような」っちゅうてな。ほれから、考えても考えてもわからんに。ほれからしとって、母親が娘に、
「おまえ、この頃毎晩、誰か知らんけど夜なか過ぎになると、人が来とるようなが、話し声がするようなじゃが、誰ぞ人が来てんか」ってこう言って問うたら、
「どこやらほどから、きれいなきれいな男の人はんがなあ、遊びにきてんじゃ」って、こう言うんですげな。ほれから、
「ふしぎなことやなあ」っちゅうてな、
「どうや、遊びにくるいうても、戸を開けてはいるような音もせえへんじゃし、いぬんもわからんじゃし、いつの間にやおらんようになる。ふしぎでかなん」ちゅうこって、どっか拝んでもらいに行ったんですげな。ほったら、
「これはな、長もん(蛇)かもしれんでな。丸い玉に糸をやっと(たくさん)巻いて針に糸を通してな、ころころころころなんぼでも、どこまで行っても、その糸がつづいてころげていくようにせえ。りっぱな人やったら袴をはいてくるに違いないで、袴の裾にグシグシッと縫いつけて、針を刺いとけ」つちゅうて、教えてもるたんですげな。
 ほいからもどってきて、娘に言うてな、ほいたら、また遊びに来ちゃったげなで、針を刺いて、グシグシッと、いんでん(帰る)おりに、裏うしろに刺いといたんですげな。ほで、そうしたら、深い山へ、血がぼとぼとぼとぼと落ちて、ずうっとつづいとりましたげな。やっぱりなあ、深い山におる主じゃったそうでな、深い山へ行ったらなあ、大きな長もんが、ぬたっとったって(からだをくねらせていたと)。長もんは 鉄(くろがね)が一番かなんのですげなでな。                          語り手・今井峯子

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三輪山型と言われる伝承である。蛇婿入り型とされ、丹後にもあちこちにある。語り手は大江町夏間の人だそうである。



高城山の蜘蛛(綾部市位田町)

『丹波の話』(礒貝勇・昭和31)に、

高城山の蜘蛛

 綾部市の井倉の大見家は代々美人の筋であったが、これに目をつけた高津の蜘蛛が毎夜々々美男の武士に化けて通った。そのうちにみごもった娘は、ある夜、男の足に針をさした。男が帰っていった後、そのしたたる血痕をつけて行ったら位田の高城という山の峰で蜘蛛が死んでいた。間もなく女は沢山の蜘蛛の子を生んだ。その美女の墓は今、井倉のコージン薮にある。
 この話は水神の化身である蜘蛛−普遍は大蛇である場合が多い−が一人の美しい処女を求めた求婚譚の一つの型式である。一人の処女のもとに大蛇の化身である美男が通って来て、その男の在処を知るために苧環の絲の端を男の衣裳につけて跡をたどって、男の在処を見定める話の節は.われわれのいう苧環型の異類求婚譚であって、大三輪の神話につながる数千年来の型式である。水の神の奉仕者に処女を任命した古い習俗の痕跡を物語る説話であって、神話につながる一連の説話の持つ意味には遠く且深いものがあることはいうまでもない。この類の昔話の中には、日本の古い婚姻形式を示すデータも、又異民族通婚の痕を暗示するファクターも含まれていることを知るのである。
 井倉に残る民話の一断片にも昔を語る重要な要素を持つということは注意されなければならない。
  (一九五○・四)

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岡の大女房(綾部市岡町)

『何鹿の伝承』(加藤宗一・昭29)に、

岡の大女房

 むかし、むかし、岡(綾部市岡町)に、大きな大きな女がいました。大女房といわれるからには、夫もあったでしょうが、その夫は、普通の男であったもんでしよう。なにも傳わっていませんから。ともかく、この大女房は、ちょっとや、そっとの女房でなく、桁外れであったということは、「四尾山」と、由良川の向う側にある、位田の「高城山」を棒でかつごうとして、棒が折れた。と、いうのですから、女角力、そんなものとは、桁にも、棒にもあわない、代物であったことは、想像されるでしょう。
 こんな傳承をすれば、そら、どこにある、大男、大人道などの、怪力に輪をかけた、話しじゃなにも面白いことじゃない。しいて面白いといえば、女であることだ。ぐらいに、おっしゃる方もおありでしょう。しかし、この大女房の咄は「大女房塚」といって、その塚趾が、げん然とのこっているのです。あと輪をかけるより、先に輪がかかっています。塚がのこっていても、後のものの附会じゃと、いってしまえば、いまのさかしらで、それまでのことですが、そう簡単に、いってしまえないところに、傳承の味があると、いえるものでしょう。
 その塚というのは、いまの綾部市岡の東端、旧綾部町井倉と、岡との界は、小さい溝で境をしていますが、その岡の方側、すぐその南を、鉄道がまつ十字につき切っており、それにそって、旧幕時代の本郷街道(但馬から若狭の本郷まで)の八尺道が、今でものこっておりますが、そのすぐ、ねきのところに、約五坪あまりの、ちょっと小高い、茶垣のある畑があります。これを村人は「大女房塚」と、いっています。げんざいは崩されて、畑になっているが、それでも、この塚の分だけは、あたりの田より、三尺ほども高い。そして面白いことには、このあたりの、やや北よりの一帯は、「小丈子」(こよしという)といわれ(井倉分は「小庄司」とかく)この「小丈子」の名は、ここばかりでなく、下延町にもあると、いうのです。「小庄司」という名は、いまは、何のことやら、判らなくなっているが、ただの名ではないようです。また「堂の前」「舘の内」などの地名ものこっているという。
 この地方の郷土史家、加藤省一老は、律令国家以前、この地方の豪族が、のちに「庄司」として、構大な、屋敷を構えていたのでないか。げんに、岡町には、猫塚はじめ、七つの古墳と思しき塚があり、また、この辺の田から、沢山の「須恵器」の断片がでると、いわれている。
 この、大女房の傳承は、もちろん、むかし、むかし、その猿むかし、あんまり力の強い、働き手の、大女房がいたので、ひとつ、力を試してやれ、といって、里人らが申込んだら、よろしいと、いって、すぐさま、右側の「四尾山」と、左りての「高城山」に、棒を突込んで、うん、とになおうとすると、棒がボキンとおれ、その拍子に尻餅ついて、死んでしまった。と、いうのです。さア、どんな棒で、どう突こんだか、それは判りません。里人は可哀そうに思って、この塚に、ねんごろに葬った。と、いうのですが、話半分といいますが、あまりにも隔絶した話でございます。
 しかしです。われらの郷土にかつて実在、非実在にせよ、男でない、大女が、母なる大地に、しかも、わが郷土に、いたという傳承は、じつに嬉しく、また、力強くするものではありませんか。

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岡の大女房(綾部市岡町)


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