丹後の伝説:14集 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
巨木伝説、世界樹、生命樹、不死樹このページの索引天の掛け橋 天梯立(宮津市) 大きな杉の木(大宮町明田) 大杉(岩滝町蛇谷) 海底の神木(高浜町) 御神木の渡御(夜久野町額田一宮) シメフジ・ネジレギ・ネンスク・ヅク・ズク 神代木(高浜町若宮) 枯野船(記紀神話) 巨木伝説(高浜町田ノ浦) 銀杏の木(綾部市高津町) しずく松(綾部市志賀里) 世界樹(スラブ世界) 橋立小女郎 ひいふ谷の山桜(大宮町新宮) 船木(宇部市) 吉佐宮の故地 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから探索してください。超強力サーチエンジンをお試し下さい。
『丹後風土記』逸文に、(現代語訳は小学館本による) (丹後の国)
天の椅立 久志浜 (丹後の国の風土記に曰ふ) 与謝の郡。 天の椅立 久志浜 (『丹後国風土記』に次のように出ている) 与謝の郡。郡の役所の東北の隅の方に速石の里がある。この里の海に長大な岬がある。〔岬の長さは一千二百二十九丈(約三・七キロ)、幅はある場所は九丈(約二七メートル)以下だがある場所では十丈(約三〇メートル)以上二十丈(約五九メートル以下である〕最初の名を天の椅立といい、その後の名を、久志浜という。その由来は、国生みをなさった大神である伊射奈藝の命が、高天の原と行き来しようとして椅(梯子)を作って立てかけなさった。よって天の椅立というのである。ところが、伊射奈藝の神が寝ていらっしゃる間にその梯子が倒れ伏してしまった。その神秘な力の発現(古語「クシブ」)を不思議にお思いになられた。それによって久志備の浜という。この久志備をその後中期に、久志というようになったのである。この岬より東の海を与謝の海といい、西の海を阿蘇の海という。この二つの海には多くの魚や貝がいる。ただし、ウムキ(ハマグリの類)は少ない。 上の写真は宮津へ入る手前の国道筋に立てられている大きな看板(橋立名物○○寿司とある看板の一部)。本来はこの梯子は倉椅山の頂上にあったことになる。絵に描かれているハシゴがクラハシである。クラハシは倉の入口に架けられたハシゴの意味であるが、ハシゴは天上世界まで続いていたのである、それが倒れて今の天橋立になったと伝える。 たぶんこの地の渡来系産鉄民に伝わった伝説と思われる。この地はこの伝説からも鉄の地である。倉橋山は現在は内海の西部にある小山であるが、本来は内海周辺の山々、鉄を生むこれらの山々のすべてが倉橋山ではなかったかと思う。久志備之浜は本来はそうした渡来語と考えねばならず、クシフルの転訛ではなかろうか。天孫降臨のクシフル峰はクシヒ峰とも伝えられている。ここは日向の高千穂の襲のクシヒの浜であったのではなかろうか。伊奘諾や天孫ではなく、ここの氏族の祖神が降りてきたと思われる。
『丹波・丹後の伝説』(京都新聞社 昭和52)に、(挿図も) 天の掛け橋 宮津市文珠・府中
日本三景の一つ・天橋立。海を二分し、宮津市文殊と府中を結ぶ、長さ約三・六キロの"白砂青松"の砂州。 古代の人々は、天橋立が宮津湾(与謝の海)の潮流によって、砂が一ところに集められてできあがったなどとは考えもつかず「きっと神様が天と地を昇り降りするのにつけられた橋の一部だろう」−と考えたのも、天橋立の美しさを知る人なら納得できるだろう。この「天の掛け橋」の伝説はその素朴で陽気な古代人の心を余すところなくいまに伝えている。 遠い神代の昔、日本の国をつくりに高天原から伊邪那岐命が伊邪那美命とやってきて、ホコで天の浮き橋の上から下界のドロをかきまぜ、そのホコを引きあげると、その先からしずくが落ち、固まっていまの日本の国ができあがった。 この光景をみていた高天原の神々は、美しい国ができたと大喜びで「みごとな美しい国だ。ぜひとも行ってみたい」と下界の日本の国をみつめていると、ある神様が「降りて行きたいけれど道がない。一つ天御中主神さまにたのんでみよう」と、みんなでたのみにいった。すると、天御中主神は「つくってあげるけれど、本当に必要なときだけ、私ら神だけが使う橋だよ。むちゃくちゃに使うとたちまちこわれてしまうよ」といって、日本の国へ通じる橋をおつけになった。 神々はまたまた大喜び。次から次へと、下界の日本の国をめざして橋を降りていった。着いたところがいまの宮津市日置といわれている。この日置のあたりにはきれいな娘さんがたくさんおり、天からゾロゾロ降りてくる神々を見て「神様たちがきて下さった」と感激。神々もきれいな娘たちを見てニッコリ。すぐ娘たちと仲よしになりいろいろな話をして楽しんでいた。 すると娘たちは天につきぬける橋を見あげて「私たちも一度高天原へ行きたいわ。ぜひつれていって」−とせがみ出し、神々は大弱り。ことわってもあまりしつこくせがむので神々はしかたなく「そんならないしょで連れていってあげよう。だけど絶対声をたててはだめだよ」と娘たちを連れて橋を昇っていった。長くて高い橋を昇っていくにしたがって下界が眼下に広がり、言葉ではいい尽くせない美しさ。娘たちはおもわず「ワァきれい」と、感嘆のウズ。神々はもう真っ青。そのうちにガラガラッと大音響とともに橋がくずれはじめ、娘たちは放り出きれて散りぢり。もうあの天への掛け橋の姿はなく、その一部が日置の近くに浮いているだけ。その後、人々は天の掛け橋の一部を「天橋立」と呼ぶようになったという。
『丹後の民話』に(イラストも)、 これも橋立にまつわる有名すぎるような伝説である。橋立という所がどんな所と意識されていたかの片鱗が残る伝説であろうか。古くからの神話や伝説に対する信仰心が失われると、神話は狐や狸の話に化けたりもする。 (写真は坂根正喜氏の空撮。橋立を中に右が与謝海。左が阿蘇海) 橋立小女郎
むかし、橋立に一匹の狐が住みついており、女の姿に化けては、そこを通る人や、舟で仕事をしている人たちを、毎日のように、たぶらかしておった。 女にしか化けないということから、人々はその狐を、橋立小女郎と呼び、「橋立で声かける女衆がいたら、それは、きっと橋立小女郎だで、化かされるな」と、いつもいいあっていたが、小女郎の方が一枚上手なのか、あいかわらずだまされては、みんなが腹をたてておった。 その悪さも、だんだん、だんだん、ひどくなってきたので、成相寺の下の方に住む若者が、何とかこらしめてやろう…と考えた。 ある夕暮れ、その若者は、狐の大好物の油揚げを持って橋立へ行った。そして、明神さんのあたりまで来た時、案の上、ひとりの娘が声をかけてきた。若者は、 「お前は、小女郎だろう。化かされる前に、この油揚げをやる」といって、松の根っこのところへ置いてやった。小女郎は、何かたくらんでるなと、若者をにらんでおった。 「な、小女郎、わしをずうっと化かさんと約束できるなら、その油揚げを、むこう十日間、毎日持って来てやるが、どうだ」小女郎は、油揚げ十枚という、その言葉にぱっと狐の姿に戻り、 「約束する。油揚げ十枚だな。きっとだな」 といって、油揚げをくわえて素早くかくれてしまった。 あくる日から、若者は約束通り、毎日毎日油揚げを橋立明神のそばまで運んでやった。 そして五日日になると、そのうまさが待ち遠しいのか、明神さんの前で小女郎が待つほどになり、若者への警戒心もなくなっておった。 そして、十日目。最後の一枚を持って来た時に、若者が聞いた。 「な、お前は化けるのが、本当にうまいが、どうして化けるんじゃ」 小女郎は、油揚げを食いながら、ちょっと考えていた。食いおわると、 「目をつぶっとれ」 そういうて、どこから出したのかきれいな玉を見せてくれた。 若者は、これが噂に聞く狐の玉かと思ったが、 「この、きれいな玉は、何だ」 と聞いた。狐は、 「これは明神さまからもらった玉じゃ。これ持っておるから、人間に化けられるんじゃ」 そういうた。 まってましたとばかり、若者がいうた。 「な、小女郎、その玉を一日でええから、貸してくれ。そうだな…、そのかわり、約束の油揚げはもうしめえだが、ん、明日、いっぺんに三枚もって来たるで」 小女郎は、明日から、もうもらえんと思っていた大好物を、三枚もいっぺんにもらえる嬉しさのあまり、 「一日だけだぞ。きっと。油揚げ三枚だぞ」 といって、玉をひっこめた。 あくる朝、約束通り油揚げ三枚と狐の玉は交換された。若者は家へ飛んで帰り、その玉を、わからないように隠した。 そして、二日目の朝がすぎ昼になった。小女郎は若者が返しに来んのでおかしいと思いはじめ、夕方になって、はじめてだまされたと気ずいた。何としても取り返さねばと思ったが、玉がないから化けられん。そこで人が寝しずまる夜中をまって村へ行き、若者の家をさがして、その天井にひそんでおった。 次の朝、若者が出かけると、小女郎は家の中をひっかきまわして、そして、やっと玉を取り戻した。帰ってきた若者は、玉が取り返されたと知ると、「しやあねえ、こうなりゃ、あの手だ…」 とつぶやいて、近くの神社へ走り、神主さんに訳をいって、神主さんの衣裳と御幣を借りた。 それをかかえて橋立まで行き、木の陰で神主さんの衣裳をつけ、顔は目だけをだして白い布でつつみ、ゆっくりと松並木のあいだを歩いていった。そして、明神さんの前で立ちどまり、おごそかな口調で、「小女郎、おるなら、出ませい」といった。小女郎は、何ごとかと思って、そばの穴から、ぬうっと顔を出した。とたんに、「頭が高い」 と御幣で頭をひと打ちされた。びっくりして穴にひっこんだ小女郎に、「そのほうに授けた大切な玉を、人間に貸すとは不屈千万。今かぎり玉を取りあげる。玉を差し出せ」と強い口調でいった。 小女郎は、明神さまだと信じて疑わず、穴の中から手だけが、そおっと出て玉を置いた。若者は、おもむろに玉をふところに入れて、又、ゆっくりと帰っていった。 それ以来、橋立で狐に化かされたという話は、もう聞かんようになった。 (俵野・井上正一様より)
【
倭姫命世紀云、御間城入彦天皇、殊立 豊受皇太神御鎮座本紀云、天照太神、遷幸但波之吉佐宮、今歳、止由気之皇太神結幽契、天降居。 補【与謝宮】○神祇志料、等由気太神、旧与謝郡切戸にありて与謝宮と云ひしを、後世橋立に遷し、改て橋立明神と云(丹後宮津志、丹後名所記) 按、吉佐宮旧址今切戸に在り、何頃よりか其近傍に文珠堂ありしが、奸僧雲山なる者、其仏の栄ふるまに遂に本社を今地に移して、其跡に文珠堂を構へたりし也とぞ、甚々憎むべき所業と謂ふべし、さて古は切戸より橋立の内府中真井原までも悉く本社の境内なりしと云ふ、姑付て考えに備ふ、 天照大御神の御饌都神等由気太神を祀る、雄略天皇御世大御神の御教に依て、此太神を伊勢の度会山田原に遷座奉らしめ給ひき、即今度会宮に鎮坐す神也(止由気太神神宮儀式帳、参取延喜式) 【智恩寺】切戸に在り、文珠堂とも云ふ、創建未詳、寛永年中僧別源重興し、禅院と為し五十石の田禄を給せられき、本尊師利は古来霊仏と称し、其縁起あり、本堂、多宝塔、無想堂(地蔵を置く)等あり、天橋立の南方なる岸頭に建ち、遥に成相寺に対し、以て画中の景物を添ふ。 宮津府志云、智恩寺記曰、当寺者神代開闢之地也、天橋記曰、延喜四年、智恩寺寺号を賜、又荘田を賜、其後四百余年を経て、嘉暦年中、嵩山禅師住侶となる、是禅刹之始也、寛永年中、国主京極高広公別源禅師を請じ住持せしむ、禁裏より修理料を賜ふ、伝奏の文書当寺に納むと、今謹按、一説に曰、今文珠堂の地は、往古吉佐宮の旧跡也、文珠堂波路村にあり、中古巳来今の地に移ると云ふ、又宮津古記の説、別源禅師より五代雲山和尚の代に、吉佐の宮旧跡に残りたる社を、橋立の洲崎に移し、橋立明神と神号を改めしとあり、多宝塔婆は、明応年中、府中城主延永修理進の造立なり、石地蔵二体あり、応永永享の銘を見る、鉄盤には正応三年の銘を刻む、鰐口最寄古なり、銘曰、 至治二年壬戌十月十六日海州首陽山薬師寺云々 縁起一巻、微書記の筆とつたふ、幹禄疏一巻、文明十八年相国寺興彦龍撰とあり、其他古画文書多し。 『丹後旧事記』に、 橋立大明神。余社郡天橋立。祭神=豊受皇太神宮 大川大明神 八大龍王。此所者崇神天皇卅九年天照皇太神宮奉崇與佐宮倭姫垂跡也。
枯野という船
−琴の歌− この御世に兔寸河の西の方に高い樹がありました。その樹の影は、朝日にあたれば淡路島に到り夕日にあたれば河内の高安山を越えました。そこでこの樹を切って船に作りましたところ、非常に早く行く船でした。その船の名は枯野といいました。それでこの船で、朝夕に淡路島の清水を汲んで御料の水といたしました。この船が壊れましてから、その船材で塩を焼き、その焼け残ったきっさか取って琴を作りましたところ、その音が七郷に響きました、それで歌に、 船の枯野で塩を焼いて、 その余りを琴に作って、 掻きひくと、由良の海峡の 海中の岩に触れて立っている 海の木のようにさやさやと鳴り響く。 と歌いました.これ静歌の歌い返しです。 橋立内海の奥は枯木浦と呼ばれる。倉橋山の麓であるから、カラもクラも同じと思われる。
『京都の伝説 丹後を歩く』(淡交社・平成6)に、(地図も。イラストは挿入しておいた。探訪も同誌のものである) 蛇谷の大杉(伝承地 与謝郡岩滝町蛇谷)
昔、岩滝村字男山の大杉の谷というところに杉の大木があった。中郡地方はこの木のために日光がさえぎられ、作物のできが悪くていつも不平を洩らしていたが、ついに抗議を申し出てこの木を切るよう要求した。村人たちは、神木として尊崇する霊樹を切ることは耐えられないことであるが、中郡地方の人々の抗議ももっともなことであって一概にしりぞけるべきでもないと考え、やむをえずこの木を切り倒した。ところが、驚いたことに、この木は、男山から海を渡って、その先端が宮津町の西端にまで達していた。 それで、そのところに 【伝承探訪】 この話は巨木伝説と呼ばれているものである。古くは記紀・風土記のなかに多く見出される。たとえば、『古事記』仁徳天皇条には、免寸河(現大阪府高石市)の辺りにあった大木はその影が朝日には淡路島まで届き、夕日には八尾市の高安山を越えたとあり、その木を伐って船脚の通い船を造り、さらにそれが朽ちた後は琴に作ったとある。今に伝わる伝承においても、全国に同型のものは多い。丹後地方にあっても、大宮町 『岩滝村誌』に載る話では、巨杉の生える地を大杉の谷と呼んでいるが、岩滝町男山などでは蛇谷のことだと伝えている。 この蛇谷地区は、多いときには十数戸の家があったが、昭和三十年ごろまでに男山地区などに移り住み、現在は廃村となっている。蛇谷出身の四宮幸雄氏のご案内によって、男山地区から男山川に沿って、二、三キロ道を上り、貯水ダムの設けられているところから、川に沿う谷へとさらに道をとって二キロばかり上ると、かつて集落のあったところに出る。今、屋敷跡にも植林がなされ、元の山に戻ってしまっているが、整地された敷地、築かれた石垣などに生活の跡が偲ばれる。四官民やご母堂静子さんのお話では、平家の末裔であるとも、戦国時代の一色氏の末裔であるとも伝えていると言われる。集落の入り口にあたるところには小さな滝がある。この滝には、かつて、ある人が道を上ってきて、この滝壷で塗りのお椀が浮いているのを見つけ、この奥に人が住んでいることを知ったという伝承が伴っている。隠れ里伝説にそうものである。また、この滝が、蛇が口から火を吐いているように、赤く見えるところから、蛇谷と呼ばれるようになったという。 巨杉があったと伝える場所を、今、ここと求め得ないが、この蛇谷の集落において、この伝説は、山仕事の生活のなかで共感されつつ、確かに伝承されてきたのである。 『岩滝町誌』(昭和45)に、 杉の木
昔、男山の大杉というところに杉の大木があった。加悦谷、中郡地方はこの杉の木のために日光を遮られ、作物ができないので常に不平をもらしていた。遂に我慢ができなくなり、例の杉の大木を伐ってくれと要求してきた。 男山の人々は神木として尊崇して来た霊樹を伐った後のたゝりを恐れてすぐには返事ができなかった。しかし、加悦谷、中郡方面の人々の抗議にも道理のあることで一概に拒絶することもできず村人達相談の結果これを伐り倒すことにした。 この杉の木、想像以上に大きく、その尖端は男山から海を越えて宮津町の西の端に達した。それからこゝに杉の末という町名がついた。また、元の方の枝が地中につきさゝって出来たのが今の阿蘇海であるといわれている。
『おおみやの民話』(大宮町教育委員会1991)に、 大きな杉の木
新宮 井上 保 昔、明田には大きな大きな杉の木があったげな。中郡たんぼに日当りが惑いいうことになって、切ることになったそうな。それで、村中総出でよきで、カンチコ、カンチコ、三、四年かかって切り倒しただって。そうしたら、宮津の杉の末まで届いたで、いまでも杉の末いうだって。明田にはその杉の木があった所に杉の元という所があるそうな。 ひいふ谷の山桜
新宮 井上 喜一郎 新宮の奥に、ひいふの谷いう所があるが、そこに、なんでもむかし、大きな桜の木があったげな。その桜は、宮津の町からでもよう見えたということだが、宮津の殿様は毎年お城から花見をしとったそうな。 ところがある年、一向に花が咲かん。それで家来をやって、調べさせたところ、なんと花が咲かんはずだった。その木をえぐり取って、木地わん作りが住みついとって、仕事をしとったそうな。その一の枝でつくった立臼が、つい、ひとむかしまで、茂さん家にあったそうだが、あんまり重たいので、つづみ形にしてあったということだ。その枝でつくった不精盆いうのが、あっちやこっちやに残っとるという話だ。
海底の神木
千年の昔・若宮の海浜 或云一軒堂の庵底 に一老榎あり、其陰翳朝には青葉山 中山寺 を覆ひ夕には遠く和田山を掩ひしに、一朝震災に遭ひ海中に仆ると、今尚天朗に波静なる時其躯幹を認むるを得、明治二十三年頃時の郡長之を曳揚げむとして果さず、大正四年御大典に区の青年等一片枝を採り、其倶楽部に紀念として保存せり。 『若狭高浜むかしばなし』(平4・町教委)に、(イラストも) 榎の大木
この榎の大木は今から千年ほど前までは、岸名町の海辺にうっそうと茂っていた。この榎がどれほど大きかったかというと、朝日が地平線に上ると、木の影が青葉山のふもとの里に伸び、また夕日が落ちるときは ある年のこと、大地震が起こった。そのとき、榎の大木は天地を揺るがせて、どうっとばかりに海中の方へと倒れてしまった。やがて、その大きな姿は海底に沈んで見えなくなった。しかし、海流の加減で天気のよい波静かな日には、海中に横たわっている榎の大木の幹を見ることができるという。 明治二十二年、大飯郡の郡長をしていた遠藤正敏さんは、日頃からこの大木にたいへん興味をもっていたのだが、ついに決心した。 「そのように大きな木を見てみたいものだ。ぜひとも、榎を海底から引上げて見ようでないか。」 「それは、おもしろそうだ」 村の皆も興味津々だった。そこで、海底の榎の大木を引上げることになった。村中のものが懸命に綱で引いてみたが、大木は海の中から上がってこようとしなかったそうだ。 また、昔から伝わる榎の大木を一目見たいものだという思いにかられた若宮の青年団員は、大正四年ついに海底にもぐった。そこで海底に横たわる大木を見つけ、その一片を取ってきたそうである。それは、今も保存されているという。 日本各地の巨木伝説や柱を立てる祭や嫁の尻を叩くという祝棒に至るまで、これらは世界樹・宇宙樹に関する人類の超古くからのグローバルな物語の一端に繋がるのではないのか、その世界樹はまた蛇の姿をとることがあるのでなかろうかと 私は素人の思いつきとして考えてきたわけである、誰もそのようには考えないのかと少し不安でもあったのであるが、そのように考える専門家もやはりあった。次に少しそれらを引かせてもらうと…
…むかしむかし、青葉山麓の内浦湾に面した田の浦村(福井県大飯郡高浜町田の浦、現在、関電高浜原子力発電所の所在地となっている)に田中某という樵が住んでいた。 あるとき、東の空にむかって朝日を拝んでいると、峠の上にくるぐろと巨木の影がさしてきた。不思議に思い、その木の影をたどって行くが行くが行くと、越前の池河内(敦賀市)の阿原池にたどりついた。池のほとりには三本の白蓮(白木蓮)の木がおいしげっており、朝日夕日に照らされてその巨大な影を投げかけていた。
樵は小天地のような盆地の景観がすっかり気にいり、居をさだめて村を拓くことにした。まず白蓮の木から伐ることにして、いざ斧をふりおろそうとすると、岸辺の三本の白蓮の木に囲まれた池のなかから忽然と白髪の老人があらわれ、「自分は阿原池の主の龍神である」とのべた。そのハクレンの木は龍神の魂の木である。 三国岳の山の上にある夜叉池へ十二頭の眷族が移り住むまで待ってほしい。そのあと、この地をひらいて住みつき、われらを神として祀ってほしいと告げてかき消えた。その言葉にしたがって、田中某は田の浦から一族をひきつれて移住したのが池の河内のおこりである。氏神の諏訪神社は夜叉池に移りすんだ龍を祀ったと語り伝えられている。 この池河内の開拓伝承は、文化庁の昭和五十四年度福井県緊急民俗資料分布調査の際に、二ッ矢三郎(明治三十五年生)と田中ことゑ(明治三十九年生)から教わった話である。その後、五年前に当地を再調査した折、竹田正直(昭和三年生)からさらに次のような龍神伝説を聞き、断片的な伝承を補うことができた。 二ツ矢・田中両氏はコブシと伝えるが、実際はハクレン(植物学上はキタコブシ)の木で四月末ごろに花が咲く。コブシもタムシバもハクレン(ハクモクレン)もモクレン科の落葉樹で、素人目には区別はつかないが、コブシはハクレンほど高木にはならないという。ハクレンは阿原池の岸辺の三ヶ所に生えており、その三点を結んだ三角形の池のなかに龍神の一族が住んでいた。あるとき、龍神が女姿で御堂の大岩に腰かけて髪をくしけずっているのを、村びとに盗み見られてしまった。姿を見られてはもはやこれまでと、白装束の遍路姿になって、ラフ竹(キセルのラフに用いるもようのある竹)を杖にして、夜叉池へ移った。夜叉池にはラフ竹の逆さ竹が生えているという。ハクレンの木を伐って池河内をきりひらいた斧は今も諏訪神社に奉納してある。 日照りがつづいて、いよいよ雨乞いをしなければならなくなると、大岩の岸辺で水をくんで神社に供えた。水ごりをとり、三日三晩神社にこもって「雨たもれ」と祈り、雨が降りだすとそのお礼に踊りを奉納した。福井県無形民俗文化財に指定されている「池河内の雨乞い踊り」の由来である。 かつては他所の女の人が、安産祈願のためによく諏訪神社へ参拝に来た。昔は阿原池が村の入口まで水をたたえていたので「池の端」と呼ばれるところに、藤づるが巻きつくチサの古木がある。そこは深くよどんだ渕になっており、逆さに流れをくみ、神社でゴクをいただいて帰ると安産するといわれた。古木には龍神の子供という白蛇が巣くっていた。 小さな集落でも、村びとのなかには異伝の持主がいるものである。森中清(大正十一年生)はこう語る。 あるとき、龍神があらわれ一夜にして大沼になったが、夜叉池へ移ったために海が引いた。移るときに、冷い清水が湧くハクレンの木の根元に、三枚のウロコを埋めていった。沼の底から、今も巨木の切株と木っ端が出ることがある。龍神以前にこの地に人が住んでいた証であろう。もともと藤の森(池の端)まで、深い沼がひろがっていたといわれている。 ある時、隣家の爺さんが西谷から谷口へと山越えをするために池の渕を歩いていると、御堂の大岩の上で、若い娘が長い髪をすいているのを見かけた。他言すれば即座に殺すと言われた爺さんは、死ぬ間際に龍神とのその秘密の約束を言いのこして息絶えたという。 伝説の舞台である敦賀市池河内は、市を縦断して流れる笙の川の水源地の山村である。以前は戸数も三○余戸あったが、当地もご多分にもれず過疎化が進み、現在は八戸に激減した。わずかな田畑と集落をとりかこむ山林があり、市内で職を得て生計をたてている。 集落のそばを流れる笙の川の水源をたどっていくと、榛の木の林がしげる広大な湿原に出る。そこが阿原池、鴨池とも呼ばれる池河内湿原で、昭和五十二年に自然環境保全地域に指定された。水辺にはコウホネやヤナギトラノオ、ヤチスギラン、ミツガシワ、オオミズゴケ、カキツバタが生え、木道を歩いて自然のいぶきを存分に味あうことができる。 開拓伝承の発端ともなったハクレン(キタコブシ)の木は、今も阿原池の三ケ所の岸に生えており、五月には純白の高貴な花が満開となる。御堂の大岩のハクレンの木は、枯死するたびに根元からひこばえが生えるのか、株手から枝分れして水辺に影をおとしている。ハクレンにしては巨木かもしれないが、いずれの木も巨木伝承のイメージにはそぐわない。まして、越前の敦賀と若狭の高浜では直線でも五○キロメートル以上は離れている。朝日をうけて、その影が高浜の田の浦にまで届いたなどとはとうてい思えない。しかし、現実味のないところが伝説の伝説たる由縁である。あくまでも心意伝承のイマジネーションの世界とすれば、何ら異をとなえることもない。もしかすると、この池河内の開拓伝承には、『古事記』や『日本書紀』『風土記』における古代の巨樹伝承、あるいは世界各地の宇宙樹の神話に通底するものがありはしないか、というのが本稿の眼目である。 このように書かれて先に続いていく。 福井県敦賀市の池河内には高浜の田の浦から移住したという伝えがあるそうである。 田の浦は高浜だけでなく敦賀の立石半島にも 先の高浜の巨木も取り上げられている。 左は現在の高浜町田の浦、高浜原発の敷地となっている。
福井県の巨樹伝承としては杉原丈夫編『越前若狭の伝説』のなかに、高浜町若宮の「神代木」の伝説がある。
「むかし若宮の海岸に一本の巨大なえのき(榎)があった。その木の影は、朝は太陽光を受けて、青葉山のふもとの中山の里にその影を映し、夕暮れには犬見山をその木の影がおおった。ある時地震にあい、海中へ倒れてしまった。今なお天気のよい波静かな日には、海中に木の幹をみることができる。 明治二十三年に郡長が、この木を海中から引きあげようとして、村中の者が綱で引いたが、どうしても引きあげることができなかった」。 「船木」というのも世界樹だろうと、私はどこかこのHPの中で書いたが、たぶんそうなのであろう。次のような伝説があるそうである。
…たとえば高木敏雄「日本伝説集」には、「巨木伝説」として次のような「船木」の伝説が掲載されている。
「長門国に船木と云ふ所がある。其昔神功皇后三韓征伐の折、此海岸で船の用意をするために、材木を伐出したところから、是まで山田と呼んでゐたのを、船木に改めたのださうな。四十幾艦の船が、唯一本の大木で出来たと云ふのが、面白いではないか。 大昔、此地方は一面の沼地で、其中央に樟の大木が一本有った。高さは雲を貫いて、枝は二里四方に拡がり、其下に当るところは昼さへ暗く、北の村は一年中日の光を見ないので、真闇と呼ばれ、西の村は一年中朝日を拝まないので、朝蔭と呼ばれてゐた。今の万倉は、真闇を改めたのである。今も其大木の芽生だと云ふ樟が二本残ってゐて、一本は神功皇后を祀る八幡宮に、今一本は武内宿祢を祀る住吉神社にある。軍船の帆を造った跡だとか云って、船木の南に、有帆と云ふ所もある。 住吉神社の樟には、河ニラが沢山寄生してゐて、潮が満れば高く、退けば低く、幹を上り下りするので、潮の満干を知ることができる。此ニラを持ってゐると、船に酔ふことがない。また、此村の者に限って、昔から曽て溺れた例がない。 今では、船木の村は、海岸から二里余も深く離れてゐる。(東京府西久保今橋香園君)」 このあと舞鶴の龍神もよく調べられている。氏は福井の人だが、与保呂・布敷・城屋など、不勉強な舞鶴人としては、何とも恥ずかしいがよく調査されている。すばらしい仕事ぶりである。あちこちに引かせてもらおうと思う。
何鹿の二名木
何鹿が、かつてもっていた、二つの大樹、二名木のお話をいたしませう。それは、高津町の八幡さんの 「銀杏の木」と、志賀の七不思議の一つ「しづく松」の話です。高津お山の銀杏木みやれ、枝は観音寺 葉は長田、影は福知の城にさす。 こんな話をしようとすると、ある人は、それはちっこい、もつと大きな話がある。それは「江州(滋賀縣)栗田郡の栗の木は、その大きかったこと、朝日は伊勢でさえぎられ、夕日は丹波でさえぎられた。つまり、この巨木の枝は、伊勢や丹波まで、ひろがっていた」というのです。 咄も、ここまでくれば、超々的なものとなります。わたくしは、島国日本にも、また、世間せまといわれる、丹波国にも、かつて、こんな雄大な話をもっていたのかと、心ひろびろ、うれしく思うものです。 大むかしでなくとも、人間は、大樹のウッソウたるたたずまい、それは、幾度かの嵐を耐えてきた大樹−を、みるとき、下世話にいう「立寄れば大樹のもと」というものでなく、太古えの郷愁といいますか、大樹えの思慕は、いまなお、われわれの血に、脈うっています。 さて、高津お山の銀杏木のことですが(八幡さんのことを、土地の人はお山という)もう、この銀杏木はありません。残念なことには、銀杏木があったという傳承さえ、ぜんぜん、消滅していますが、不思議にも、この歌だけは、実在をぬいて、いまなお、人々の口にときどき口ずさまれてます。火のないところに煙はたたぬ、と、いいますが、かつての実在は、煙の如く消えても歌だけはのこる。こんなことは、世間にはいくらもあることですから、べつに強て不思議と、しなくてもよいと思ます。それでわれわれは、かつて、高津八幡さんの大銀杏木は、この歌どほり近隣を圧して、そびえたっていたであろうと、確信していいでしょう。 八幡さんの清水芳之宮司に、このことの考証をお願したら「真亭年間 (一六八四)の書類に「市之木」という、地名らしきものがある。また、いまはなくなられたが、塩見皓紀老の話に、いちの木と称した木が、八幡さんの西方傾斜地、小字「上地」にあったと、いうほかに何もない」との御返事でした。銀杏の本を、いちよの木といい、いちよの木を、いちの木となることも、また、ありうることでしょう。したがって、この市之木なる地名、古老のいう、いちの木は、かつてのこの歌の出所と、関係があるのでないか。とも考えられます。 つぎに、「影は幅知の城にさす」この景観は、豪快な朝日の景色になるわけですが、幅知の城というからには、この城は、光秀築城(再修)いごのものと、いちおう、しなければならぬと思ます。とすれば、高津お山の銀杏の木は、つぎにのべる「しづく松」とは反対に、光秀のバツサイをまぬかれた、名木ということになり、したがって、その消滅は、ごく近世のものとなり、所在もはっきり、しなければならぬことになるが、それが判らないとすれば、いちおう、この城は、光秀以前のものと考えねばなりません。きめ手は、歌にいう「福知の城」なるものが、光秀以前のものの、横山城、掻上城(かきあげ城)あるいは、それ以前の城を、指しているのでないか。 わたくしの考では、この福知の城は、光秀以前のものであり、したがって、名木お山の銀杏木は、光秀のときバッサイされてなくなった。したがって、この歌も徳川三百年の間、歌に主なき思出となって、だんだん消えつつあるのでないか。と思うのが本当のようです。 もつと考証を精密にたぐりよせ、今後の綜合研究を、めんみつに組立れぱ、このなつかしい大樹の実体は、ほぼ、わかると思いますが、げんざいでは、残念ながらこの程度でございます。 ○ 志賀の七不思議のうちに、 「しづく松」というのがあります。縁起は『何鹿郡誌』に、「向田の南方にあり、四ツ時(午前十時)に、雫の落つること雨の如し。これによりてり旱損水害を卜知せり。今その跡に、一基の碑をのこす」とあるように、この松はいまありませんが、かつて、 「旱損水害」を卜知していたと、いわれるぐらい 絶間なく、ふっていた、松の雫は、ちょうど雨の如し。と、いわれていたほどですから、いかに大樹であったかが、わかります。この松は、あとでのべるように、天正のむかし(一五八○前後)明智光秀によって、切られていますから、「卜占の行事」が、いつ、いかなる人々によって、なされたか、ここでは不問として滴下する、しづくの多少によって、日照と降雨の多少は、この巨木を中心にして、はっきりしりえた現象であるし、この現象を確立し、抽象化して、年頭、あるいは、ある特定の日時をかくして、一年の旱損水害を卜したことは、自然のキョーイを、そのまま受けいれねばならなかったことの多い、古代の人々にとつて、まことに自然のことであったでしょう。さて、人間のかなしい悲願を、卜占の行事と結ばした「しづく松」とは、一体どんな松であったでしょうか。と、いうことは、徳川期を通じて、いな、明治このかた、げんざいに至るまで、一般の人々に、よく知られていなかったと、いうことだけは、はっきり、いうことができます。 では、「しづく松」とは、どんな松であったであろうか。まづ、志賀の七不思議のうち、五ツは、徳川初期すでになくなっていた。ということは、延宝年間(一六八一)の「志賀甚太郎文書」で、確信されたのは、昨年のことであります。でありますから、世人は「しづく松」の縁起はいまも語りつがれていますが、その「しづく松」の実体は、さて、どんなものであったかは、不問のまま、今日まできていたわけと、思うのであります。 昨秋、わたくしは、綾部の風流人、四方庄之助老の御宅で、「これが志賀の七不思議のしづく松の松の皮だ」と、いうのをみせてもらって、びっくりしたのでした。その「松の皮」は、長さ四尺あまりもあり、厚さ六尺余もあった大きいものでしたが、所蔵中倒れて、二つに折れていましたが、松の皮というより、「まあ、松の皮の怪物にちかい」と、いうものであります。 いま、その片方が、綾部中学校に寄附されているから、奇特な人はごらんになれば、百間は一見に如ずと思ます。 この松の皮から幹の直樫を計算してみると、おおまかであるが、五、四六メートル、まわり十八メートル余と、いうことになりました。この「松の皮」のうらには、朱書で「光秀築城之際棟木に使用すと云ふ」と、記されてあります。 何鹿志賀郷向田を中心にしてあたりをヘイゲイして聳えたっていた、名木「しづく松」は、戦国争乱の英雄、明智左馬介光秀によって、無残にもバヅサイされてしまったのであります。 ともあれ、いらい志賀の人々は、いな、志賀ばかりでなく近隣の人々も、どんなに悲しんだかわかる気がします。神事行事に藍でして、悲願の対照として、誇りとしていた、このしづく松は光秀らの戦乱に利用されて、あとかたなくなくなってしまいました。 光秀築城のとき、附近の民家の墓石まで徴発されたことは、いまでも城の石垣に、その名残りをとどめているが、いたいたしい限りです。戦争のもつ暴力と惨禍は、なにも天正のむかしでなくとも、今次大戦のとき、人のいのちも、なんのその 佛像、つり鐘、セントク、花びんに至るまでが、徴発されたことは、生々しい体験であります。 話をもどして、この「松の皮」が、どうして残されたかを、備忘のために、書いておくのも、むだではないでしょう。 志賀の向田の旧家、岡田秀松氏が、どうしてもち続けていたものか(これがじつに貴重なこと)持っていられた。それが物部の大槻健太郎氏に伝り、さらに、福知山の茶人松井芋庵が、うけつがれていたが、同氏が、郷里の浜阪に帰るとき、福知山のある古物商に売られた。それを綾部の四方庄之助老が、わが何鹿のものである、というので、買いとられていたのであります。この「松の皮」は、のべた通り、もと一つであったが、二つに折れ、大きい方は、志賀の大槻貞二氏 にゆづられ、一つが綾部中学校に納まっています。スワリをよくするため、底を削ったときの余り皮で、「茶托」ができたが、その一つが木枝清閑堂(綾部市広小路)にもあります。 つぎに清閑堂の話を、つけ加えておきませう。これは、しづく松の原木の話です。「明智の切った、しづく松の棟木は、明治のはじめ、城をつぶしたとき、残っていた。福知の人々は、志賀の名本であるから、志賀郷に返さにやならん。と、いって、交渉したが、当時志賀の人は、だいいち「福知までもらいに行くのがかなわん」し「保存にもメイワクする」と、いうわけで断ったいま思えばおしいことであったが、この話は、それきりになってしまった。「さア、福知の人はその木をどうしたか。判らん」と、いうのである。おそらく、いまの福知山の人々も、「そんなこと判るもんかいな」と、なっていることでしょう。
『ロシア異界幻想』(栗原成郎著・岩波新書)に、 古代スラヴ人は、地(地上界と地下界を含む)と九つの天は一本の「世界樹」(「宇宙樹」)によって繋がれている、と考えた。世界樹は世界の軸であり、宇宙秩序の基礎である。世界樹は第七の天にも伸び、その大海原に浮かぶ一つの島を、大きく張った枝々で覆っている。
中世ロシアの聖書外典(アポクリフア)の写本には、翻訳の過程でスラヴ・ロシアの口承文芸の要素が聖書主題の物語の中に織り込まれているが、『パナギオトとアジミトの対話』(十六世紀写本)には楽園に木陰をつくる世界樹の様子が描かれている。 園の中央には生命の樹があり、その樹は神であり、その樹の梢はもろもろの天に達している。その樹は燃えるように美しい色の黄金の樹である。樹はその枝々で楽園全体を覆い、あらゆる樹々の枝と葉をもち、また果実をつけている。樹からは甘美な芳香が漂い、その根からは十二の泉から出ずる乳と蜜が流れている。 この樹は楽園の中央にありながらも、その枝々だけで楽園を覆っている。樹の他の部分は別の世界にあり、樹はすべての天を貫いている。 世界樹は神であり蛇であり、命でありまた泉でなければならないと、私は推測しているのであるが、この伝説をみればやはり命の水の源でもあるように思われる。
口絵にネンスクの写真も添えられている。説明書は一番下。 :元初の世界樹とはこんなものとして表徴されたのかも知れない。 自然にできたもののように書かれてあるが、世界樹に蛇が巻き付いているところに見える。そしてこの木の根元には泉があったという。 霊力授與の表示
この葛飾記所載のツクの御柱行事を行ふ八幡神社は、下総の二の宮になってゐるから或る点まで古式であったと信じて宜しい。それに葛飾記の著者が其の書を執筆したあたり、この行事は衰微しかゝつて居り、当時参詣者でも知らない者が多い事を語ってゐるのも、何がなし由緒の古い事を想はせる。 ところが是れを證明する材料が現れた。それは昭和十六年夏九州北部に旅行せられた我れ等の同志作家の那須辰造氏は、筆者に筑後川流域の朝倉郡方面の所見を寄せた報告に、ネンスクといふものの存在を報告せられたのが夫れである。これは九州の此の方面には弘く行はれるものであるらしいが、筆者には初めてのもので又甚だ貴重である。那須氏の最初見たのは同郡夜須村(三並)所在の寳満宮入口、恵比須大神と刻した石塔に立てかけられてあったもので、長さ二尺ばかりのネヂれね木葛の棒である。 この木は延命に効験があって、かうして上げられるのだと謂ひ、木はネヂれてゐる程それだけ効験があると信じられてゐる。既述筑後三潴郡酒見村の風浪宮(筋十九章第五節)に残る遺跡によって、後でも説明する如く此のネンはトシ(年)と云ふ事を字音読みにしたもので、従つてネンスクと言ふ言葉の主体は「スク」であって、更に比のスクは前掲のツク、ヅク、ズクの転訛であると信じられる。日本語上ではかういふ転訛は極めて普通に行はれる現象であると共に、この蔓性の植物が他の立ち木に捲きついたものが、神の霊力の懸ったものとせられる事は、わが民族信仰に在る事なのである。 前述の下総市川のツクの柱が布で段だらに捲かれてある事も、此の意味を保存してゐるのであって、場所によつては此の布が繩である例もある。三重県志摩半島は神社の神事に古い特徴を保存してゐる地方であるが、この長野村海士潜女神社が三月と十二月は行ふ神事に、長さ三尺五寸の女竹十二本を繩で螺旋状に捲き、他に御幣を添へて配る儀式がある。これに付帯した土地の伝承がある。兎に角、この柱、棒、竿等に繩、布等を捲きつけ、霊力ある神聖な憑拠物とする信仰は扱想以上に古い特徴を以て我が国内所々に流布してゐる。 この原初のものと覚しい形式は、民俗研究者早川孝太郎氏が三遠地方の川奥で収集したものにある。天龍川河口から十五里乃至卅里その支流の渓谷に遡る山間部落民の信仰中のもので、こゝはカヅラで無くて藤である。この藤が二本の樹木に絡まったものを、神の霊力のかゝる神聖な憑拠物として厳重に崇祀するのであるが、この全体の名を「シメフジ」と言ひ「ツク」の名は出て来ないが注目に値以する。左に全文を紹介しよう。 早川氏のシメフジの証明 「野生の藤の生態より言へる名らし。或は別に来由あるかとも思はるれど今は不明なり。第二図(図略)の如く立木を柱として巻上れる藤の、他方の木に絡み懸りたるをいふ。これを神の木又は山の神の木と称して、伐る事は勿論触るゝ事も畏るゝなり。シメフジは神の木として尚幾多の条件ありと言へり。即ち木より木に移り絡みて、其の根本は泉又は川などの、水辺より出でたるもの、或は図(図略)の如き形はなさざれども尚根元の水辺より出でゝ高く木に絡み上れるもの、又は木より木に、川を跨げるもの等なり。以上の内、根元の水辺より出でゝ、川を跨げるものを最も神聖としたり」(早川孝太郎氏「参遠山村手記」民族昭和二年十一月発行) これでシメフジの形状、及び神木として畏敬されてゐる事が判る。水に関係のある事も重大である。神の通路が水の走る渓谷及び水の湧出する地の里にあると信じた古い徴表で、この信仰が水の意味を特に保存した所に注目すべきものが見える。早川氏の説明は以下尚続く。 「而も以上の条件を具へざるも総て年経たる藤は伐る事を好まず。又一度シメフジの柱となりたる木は、如何程価値ある材にても利用の術なくなるなり。シメフジを過って伐り災を得たる話あり。数年前、三河北設楽郡豊根村字曾川の清水定吉といふ若き杣(樵夫)隣村黒川のヒヤシ谷といふ山に杉の伐木に雇はれて入り、過ってシメアジの柱となれる木を伐りしが其の夕方より退かに発熱し、一夜にして顔面腫れて鬼の如く、遂に気狂ひて二三日にして狂ひ死に死にたり。人々山の神の罰なりとて怖れたり。其の男の師匠なる杣の、シメフジの畏るべきを弁へながら傳へざりしは返す返すも手落なりしと言へり」(同) 此のシメフジの絡んだ柱の木は何と言ふか不明だが、筆者に言はせれば是れがツク、及びネンスクのスクである。畏るべき霊力が懸ってゐるといふ信仰が此の通りである。 「シメフジの代表的と思はるるもの、遠江周智郡水窪より両久頭に至る途上.山王といふ離所にあり。戸中川の渓谷を挟んで、数十間の長きに懸れる様は橋の如く見事なり。十数年前一度枯れたる由にて、今あるものは古本に新しき芽の絡みしものなりといふ。前記曾川の隣村はる黒川にも.村瑞なる大入川の河畔に、高く茂りたる桜の古木あり。之はシメフジにはあらざれども、里人の自慢のものにて、兼て神の木なりと崇め居り」(同) 橋の如く十数間延びて渓谷上に打ち渡した藤、それは記紀の出雲国譲の條にある神歌の、 「天なるや、乙機橋の頭せる玉の御統、みすまるに穴玉はや、二わたらす云々」の趣きが見えて、花盛りの見事さが思いやられ、寔に是れは神のものである。 (写真の説明文) ネンスクに対する着眼は昭和十六年八月、九州筑後平野野山辺の鐸遺跡を踏査した那須辰造氏によって、わが国に於て最初に行はれた。即ち福岡県朝倉郡夜須村三並の寳満宮境内中に、「…大日ヒルメ貴命と刻したる石塔建てられてあり。これには葛の巻きたる二尺ばかりなるを立て掛けてあり。村人に訊けばネンスクといひ、延命を祈る也といふ」(同月十三日附け著者宛て同氏書簡)この写真にあるのは傳統研究所員大坪年光氏の寄贈に関るもので、筑後川上流地方の福岡県浮羽郡大石村大字西高見部落に所在し、石塔は石面の文字に著しきが如く、猿田彦太神を祀り纏繞した葛の痕が見事に三重に附いてゐる。ネンスクはなほ地方名ではネジレギとも謂ふ。 HPにもまずないのだが、 「神の木」
有名な額田のダシや二階部分が回転する山車と同じ神社の同じ祭礼の一部である。 祭は最低3回は見ないとわからないといわれる。1回行っただけであれこれ言うのも気が引けるのだが、この先いつまた行けるかはわからない。この日もどこもかしこも祭だらけ。一回見ただけの者の妄想に近い推測と思って読んでください。 『天田郡志資料』(昭11年・山口?(加の下に米)之助)に、 村社
何だかも一つよくわからないが、額田という地名と籠神という、これが本当の祭神のようだが気になる。天御影命の元の名前かも知れない。一宮神社 下夜久野村字額田小字松本鎮座 祭神 彦火々出見命 豊玉姫命 籠神 草創 年代不詳なれども、もと夜久郷の大社にして村内五社の第一なり。永神中(二二二八−二二二九)火災に罹り仮殿に奉遷し、天正中(二二三三−二二五一)石田、水谷の両氏社殿を再建し、貞享中(二三四四−二三四七)水谷道範等石垣を築く。又元禄中(二三四八−二三六三)華表を立て、宝永中(二三六四−二三七○)正一位の額を掲げ。元文四年(二三九九)杉苗を四方の境界に植ゑ以て奉賽す。明治六年二月十日村社に列す。 社地東は山陰街道に面し、南は旧社地に連り、西は耕地、北は里道に接す。此面積四畝阻歩、杉、樅、槻等の老樹蓊欝たり。京都府庁を距る二十六里二十五町といふ。 (社殿) は本殿梁行六尺一寸、桁行六尺六寸、棟高十五尺七寸二分、軒高十四尺三寸、向拝の出五尺八寸。四方に椽あり、勾欄付。桧皮葺にして入母屋造、千鳥破風、棟に千木、鰹木あり。 (拝殿)梁行十尺.桁行十三尺一寸二分棟高十二尺九寸三分軒高九尺六寸八分、瓦葺切妻 (渡殿) 梁行六尺五寸六分桁行九尺一寸八分、棟高十一尺一寸六分。軒高九尺八寸。柿葺にして両流 末社 神明神社 稲荷神社 蛭子神社 祭日 十月十三日、紳幸式あり。 氏子 二百廿戸 當社に一宮神社志ありて(大正三年四月十日印刷非賣品)寳物、建物、神田等詳細に記載せられたり。 神職 役野正雄− 仝 信吉− 仝 勇 本殿前右手に置かれてあるのが、そのご神木である。ご神体であろう。 木というのか、ご覧のように四角い柱である。下が少し尖っていて、上には何の木なのか葉のある木がつけられ、白い幣がつけられている。 長さや大きさを測るわけにもいかないので写真から判断してください。 ご神木の渡御ということで、これからの神事の後に、御旅所の八幡神社へ移される。 八幡神社は額田を見下ろす裏山の上にある。 神事も終わり、御旅所へ向かう。 担ぎ手というのか、足元はこんな様子。祭礼参加者のほとんどがこれを履いている。白い地下足袋というのか。それを荒縄で縛る。 ものすごい数の行列になる。 こんな道をよじ登って行く。 裏山の八幡神社の境内。 古い寺院があったという。たぶん真言宗ではなかろうか。しかし本来はここに一宮神社が鎮座していたものと思われる。 これは世界樹。生命樹。不死樹。豊饒の樹。 伊射奈伎と伊射奈美が周囲をめぐって国生みしたという天の御柱でもある。ここでも古くは何かそうした神話と行事があったと思われるが今は失われている。 世界に共通する信仰と思われるが、日本へはたぶん金属精錬の集団が持ち込んだのではなかろうか。 神木が二本もある。本当は一本でいいのだろうけど、いつの時代か意味がわからなくなり混乱してこのようになったのではなかろうか。 ご神木にはいつの間にか「一宮神社」と書かれた神額が取り付けられて、この神社の本来の姿を彷彿させれらる。 下の民家には左のようにこの神木が立てられている家もあった。 世界樹ならば蛇が絡みついていたはず、頭の方が紐でくくられているが、あるいはこれがその残滓か。 さて、あとはご神木の町内の巡幸である。 気の向くままというのか、神意のままに、行き先も歩くも走るもふいに変わる。 準備して待ちかまえることができないから、カメラマンとしてつらい。 今晩の9時くらいまでそうして町中を巡幸し続けるという。担ぎ手は死ぬ思いだろう。選手交代の人員もないようである。何時間に及ぶのだろうか鉄人の耐久レースだ。「十分に覚悟してます」とのことであった。 古い素朴なそれだけによくわかる神事の形態を今に留めるものと思われる。神輿の原形、祭礼の原風景。 200戸ばかりの集落でよく今まで保存できたものと驚かざるをえない。 特別に豊かとも思われぬ(失礼)普通の村である。これだけの祭礼行事を毎年続けている。 見物人にも親切で地区の全員が祭を大事に考えているのだろう。 |
資料編の索引
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
第十四集(世界樹伝説)