丹後の伝説:1集 |
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徐福伝説、浦島伝説、羽衣伝説 このページの索引 浦島太郎伝説(伊根町筒川) 徐福伝説(伊根町新井崎) 徐福伝説(舞鶴市福来) 羽衣伝説(峰山町磯砂山) 羽衣伝説(大路の安達家のもの) |
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徐福伝説は全国にあるが、『宮津市史』は、『史記』と『神皇正統記』を載せている。そのまま写させてもらう。 徐福伝承 [史記] 秦始皇本紀二十八年
斉人徐市等上書言、海中有二三神山一、名曰二蓬莱・方丈・エイ州一、僊人居V之、請得下斎戒、与二童男女一求上V之、於V是遣下徐市発二童男女数千人一、入V海求中僊人上 ※『史記』秦始皇本紀三十五年・三十七年、准南衡山列伝などにも同様の記事あり。 [神皇正統記] 孝霊四十五年
第七代、孝霊天皇(略)四十五年乙卯、秦ノ始皇即位、此始皇仙方ヲコノミテ長生不死ノ薬ヲ日本ニモトム、 「徐福伝説」(京都府与謝郡伊根町新井崎に伝わる徐福伝説)
『丹哥府志(巻之四)』(丹後史料叢書第六輯)に、(挿絵も) 【童男童女宮】(新井崎、祭七月六日)
童男童女宮村人訛りてトウナンカジュクウという、其訛りに習ひて誰が書きたる縁起や童男寡女宮と記せり如何なる謂をしらず、古来秦の徐福を祭るなりと申伝ふ、俗に新井崎大明神といふ處なり。聴雨記続編朱子不註尚書處引、或説曰。日本有真本尚書乃徐福入海時所携者余初未之信也後観陽公日本詩有云徐生行時書未焚逸王百篇今尚存令岩不許伝中国挙世無人識古文先王典蔵夷貊蒼波浩蕩無通律則外国真有其本鴎陽之言未必無據朱子之不註者豈以是耶云。又始皇本記に徐福の事を載せたれども慥と日本にはあらず、然れども諸書を以て参考すれば徐福の日本に来る明なり、されども何れの御宇に来りて何れの国に居り如何様なる事をなしたるや、又其漂着せし處は何れの浜なりや其事蹟詳ならず、京洛西の大秦宮は徐福なりといふ秦の字をかけばなり、又紀州にもありと聞く、皆正史にのせたる事にあらず。 新井崎の徐福の宮初は疑ひしが其地を踏みて聊か信ずる事あり、新井より以西十里内外の處に湊あり、次に浦浜あれど波あれば着する事能はず、大洋より来りて勝手も知らざれば爰より外に着處はなかるべしとも覚ゆ、又其宮たる村より離れて四五町斗も山を下りて新井崎の恐ろしき處北海に向ひて神籬を建つ、尋常の宮造りにあらず、又其随神といふものを見るに、浦島などの随神と同じ形にていづれも千年にも及ぶものなり(冠服元製並年所を歴たる模様、大和などにある所と参考して記とす)、其等を参考して千年以前より斯童男童女宮と伝へ来ればたとひ正史に洩れたりとも虚といふべからず、たとひ徐福の漂着せし處にあらずとも其携へ来る童男女の由緒あるべし。王父柳街の話に蔓荊子のある處は皆昔唐船の着處なり、蓋蔓荊子は唐種なればなりといふ、此處蔓荊子のある處あり、なる程丹後も唐船の着し處なりと見へて往々唐船の話あり下に出す、尤朝鮮は略地の向ひ合ひたる處なれば折々朝鮮人の漂着するものあり、是等も地理に於て徐福の来る考にもならん。
祭神は秦の始皇帝の侍臣徐福を祀る。紀元前221年中国の統一に成功した秦王「政」は新たに皇帝の位をつくり始皇帝と名のり咸陽(今の西安)に都した。当時神仙思想が流行し仙丹に七返八環の法があって、この仙丹を服すると不老不死となることができるといわれ、権勢のある者は、この霊薬を求める者が多かった。
仙丹は三神仙(蓬莱方丈瀛?)に仙人が仙丹を練り不死の薬を蓄えているといわれた。 始皇帝はこの神山にいたことがあるという方士(神仙の術をよくする道士)徐福に仙丹を求めることを命じた。伝承によると七代孝霊天皇の時代に秦の始皇帝が不老不死長生の神薬を求め方士徐福がこの地を易筮によって予知し漂着した。その場所は箱岩である。 この地で徐福の求めた神薬とは九節の菖蒲と黒茎の蓬である。 徐福は仙薬を求むるままに、この地にとどまり、よく邑人を導いたので推されて邑長となり高徳は等しく仰慕の的となって死後産土神として奉祀されるに至った。 「徐福伝説」(京都府与謝郡伊根町新井崎に伝わる徐福伝説) この案内板はもうなかった。もっと鬱蒼たる森の中にあったように記憶しているが、最近は木を切ったのか日当たりがよくなっている感じであった。社のすぐ下が写真の海岸。凝灰岩のようである。付近にはこうした大岩がゴロゴロ転がっている。はるか遠い昔にはこの辺りに大火山があったのであろうか。伊根浦は火口だとともいわれる。
『京都の伝説・丹後を歩く』に、(伝承探訪も。地図・写真も) 新井崎の徐福
伝承地 与謝郡伊根町新井崎 新井崎神社には、秦の始皇帝の家臣の徐福という人がお祀りしてある。 その徐福という人は秦の始皇帝の具合が悪くなった時に、「東方に蓬莱の国がある。お前はそこに行き、不老不死の薬を捜し求めよ」と命じられて、その薬を取りにここに来た。たまたま荒波に遭って、うまく上陸することができず、大変難儀をしたが、なんとか上陸することができたという。そして、不老不死の薬を捜し求めたけれども、なかなか捜し求めることができなかったという。しかし、ようやく、これがそうだろうと思われるものが見つかった。神社の下に生えている黒節のよもぎ(よもぎの節の黒いもの)と菖蒲と、いまクコといわれる草とがそれで、それを捜し当て、やれやれと思っていた。けれども、海が荒れるなどして、とうとう帰る機会がなくなり、ここで成仏することになったという。 中国は日本より文明が進んでいるので、この人が中国からやって来て、産業のほうにも力を入れ、村人たちから大変慕われたのだそうだ。そこで、新井にお祀りしたという。そして、この人は海から漂着して来たのであるから、いちばん海岸くりにお祀りして、新井崎神社として崇めたということだ。 新井崎神社は非常に気高いので、帆かけ船が沖を通ると帆が折れてしまって、先を航海することができないのだそうだ。そのため、下の段にあった神社を上に上げることになった。 徐福が中国に帰らなかったのは、始皇帝があまりにわがままなため、「あのような王に支配されていては、人々が困る。だから、私はこの薬を見つけたけれども、帰国しない」と言って、帰らなかったことによるのだともいう。 (『丹後伊根の民話』) 〔伝承探訪〕 丹後半島東端の新井崎は蝙蝠岳のふもとにある。こうもりが羽を広げたようなかたちであるところから名づけられた。この山はかつて火山活動が盛んで、岬の波打ち際に流れ落ちた溶岩が固まり、突端から覗き込んでみると、長方形の奇岩がいくつも積み上げられたように見える。ここが徐福の流れ着いたとされる地である。新井崎神社の社殿はこの奇岩の上方、峻険な岬の突端台地にあり、東面している。春分・秋分の日の朝、神社に立ち、真東を見ると冠島の背後から朝日が昇るという。祭神は事代主神などであるが、村人たちはこの伝承にある如く徐福を祀るものとしている。また、海に臨んでいることから、航海の安全を司るともされ、船乗りや漁民たちの篤い信仰を集めてきた。境内には江戸時代末期から明治時代にかけて奉納された石灯龍がいくつかあるが、そこには広島や大阪などのような遠方の寄進者たちの名前も刻まれている。 三重県熊野市・佐賀県佐賀郡諸富町なども徐福漂着の地と伝え、和歌山県新宮市にはその墓と伝えるものがあり、また諸富町ではその像が祀られている。 この新井崎の地に徐福が上陸したと伝えるのはなにゆえか。丹後半島の海浜には異郷から帰り着いたと伝える地がいくつかある。浦の島子の本庄浜・浅茂川湖もそうした地であった。この半島を西に回った網野町・久美浜町境の函石も、垂仁天皇の命を受け、海の彼方の常世の国に不老不死の「時じくのかぐの木の実」を捜しに赴いた田道間守が帰り着いた地としている。 このような伝承の背景には、日本海の潮流や冬季の絶え間なく吹きつける北西の季節風によって海の彼方から盛んに漂流物が流れ着くことがあろう。この新井崎の岬も丹後半島のもっとも東に突き出した部分にあることから、対馬暖流に乗ってやって来た漂流物が若狭湾内へ回り込むときに最初に流れ着くところだ。しかも、その海浜の岩は貴人の乗って来たと伝えられるような箱型の奇岩である。そこに徐福漂着の伝承が定着したのだ。 「徐福伝説」(京都府与謝郡伊根町新井崎に伝わる徐福伝説)
『伊根町誌』に、 徐福伝説
紀元前二二一年、中国の統一に成功した秦王の「政(せい)」は、新たに皇帝の位をつくり始皇帝と名のり、成陽(かんよう・今の西安)に都した。この一世の英雄秦の始皇帝は方士徐福を召して不老不死の霊薬を求めることを命じた。当時神仙思想が流行し、仙丹に七返八還の法があって、この仙丹を服すると不老不死となることができるといわれ、権勢のある者はこの霊薬を求める者が多かった。仙丹は三神仙(渤海にある蓬莱・方丈・エイ州)に仙人が仙丹を練り、不死の薬を蓄えているといわれた。始皇帝はこの神山にいたことがあるという方士(神仙の術をよくする道士)徐福に、仙丹を求めることを命じたのである。伊根町字新井には古くから徐福信仰があり、地区住民は徐福を産土神として祭り、新井崎神社の祭神として崇拝している。 伝承によると『七代孝霊天皇の時代に秦の始皇帝が不老長生の神薬を求め、方士徐福がこの地を易筮によって予知し漂着した。漂着した場所は新井崎のハコ岩で、長途の船旅と波浪によって疲れ果てて岩の上で休んでいると、時の澄の江の邑長(むらおさ)がいぶかって来意を聞いた。徐福は「始皇帝の欲している仙薬を求めて来たが、眼前にある仙薬は少なく、得られなければ秦の都威陽宮に帰ることは許されない」といってこの土地に住みついた。この地で徐福の求めた神薬とは「九節の菖蒲と黒茎の蓬」(からよもぎ)である。 徐福はその後里人をよく導いたので、推されて邑長となり、里人の仰慕の的となって、死後産士神として奉祀されるに至った。』と伝えられている。「からよもぎ」は普通のよもぎ(綿蓬)と異なり、葉の裏にある白毛が少なく、草餅(よもぎ餅)にするため早春に蓬をつむとき、特に「からよもぎ」をえらんで若葉をつみとる。成長した葉は「もぐさ」にもなる。「からよもぎ」は当地方では新井崎海岸(のろせ海岸)に多く自生しているが、近年、道路の改修、土地基盤整備等により少なくなったが、現在なお自生している。 「童男童女宮」(とうなんかじょぐう) 新井崎神社は徐福を祭り新井崎大明神とよんでいるが、縁起に童男・童女の渡来を「童男寡女」と記したことにより、住民は「とうなんかじょぐう」とよぶようになった。御神体が男女二神であるのは、徐福とともに渡来した童男・童女をあらわしている。
『丹後 伊根の民話』(国土社・1988)に、(解説も) 新井崎神社のいわれ
秦の始皇帝の家臣の徐福いう人が、新井崎神社にはお祭してあるんです。 その徐福という人は、秦の始皇帝が具合が悪うなったときに、 「お前は、東方に蓬莱の国があるさかい、そこへ行って不老不死の薬を求めてこい。そこにはあるさかい」 いうことを言うて、ここへ来たんです、取りにねえ。 たまたま荒れに遭うて、うまいこと上がれなんで、それがために辛苦したんだけど、まあ上がったと。上がって不老不死の薬を、なんぼう仙薬ぅ求めたんじゃけどなかなか求まらなんだと。分からなんだと。へだけど、どうやらこうやら、これがそうだろうというものが分かった。それがなんだいうたら、お宮さんの下にある黒節のよもぎと、菖蒲と、もう一つなんだったか、いまのクコだというけど、そりょうさがし当てて、やれやれと思っておったけえど、ついに去ぬる機会がのうなってなあ、海が荒れたりなんかいして、ここで成仏することになったと。 そんだけえど、その人が、なかなか支那から来たぐらいで、支那は日本より文明が先に進んどるでなあ、ほうで産業の方も力を入れて、ここの一般人民からたいへん慕われたと。それがために、新井にお祭したんだと。漂着したんださかいいちばん海岸ぶちに、その人をお祭して、新井崎神社としてあがめたと。 新井崎神社は、ものすごう気高いんで、沖を帆掛け船が通ったら帆が折れたとな。帆が折れて、もうどの船も先が航海できんのだって。それでなあ、下の段に神社があったんだけど、上い上げた。 徐福が支那に帰らなんだのは、始皇帝があんまりわがままで、あんなわがままな王さんにされては、人民が困るで、私は、この薬を求めたけど帰らんいうてねえ、それで帰らなんだともいうんだと。 (新井の石倉勘兵衛さんに聞く) 解説 徐福が求めてきた神桑というのは「九節の菖蒲と黒茎の蓬」だともいう。黒茎の蓬はからよもぎといい、普通のよもぎと異なって葉の裏の白毛が少ない。よもぎ餅を作るのに適する。生長するともぐさになる。新井崎海岸に自生している。
『伊根町誌』に、 黄金の桜
新井崎神社の境内に桜の古木があり、新井崎の約一○キロ沖合にある冠島の老人島神社の前にも、同じ種類の桜があって、伝説として昔、冠島より新井崎神社まで黄金の橋がかかっていて、毎年この桜の花は七色に輝いて花を咲かせ、村の子供たちがその花を手折ると、腹痛をおこすといって、親たちが神社へ行き、「七色の桜の花を咲かせないようにしてほしい」と頼んだところ、翌年より普通の花が咲くようになったと伝えられている。春の陽に輝く桜の花の美しさを愛で、親と子、神社とを結ぷ物語りを誰がつくったのであろうか。
舞鶴の 『舞鶴の民話3』に、 余内の友が「福来というところは地名として何かしら由緒があるようだな。」といったことが気にかかって、福来の古老に訪ねてみた。私はおばあさんから次のようなことを聞いているのですがと、
「昔、中国に秦の始皇帝というえらい人がおりなさった。その第一の家来に徐福という人がいました。秦の始皇帝は二十三才で近隣の国々を征服しました。万里の長城を築いたことでも有名ですね。こんな力のある皇帝でも心配事があったのです。それはただ一つ、死ということでした。「俺は死ぬのはいやだ。いつまでも死なない薬はないものか。どこかに不老不死の薬があるはずだ。それを飲めば、俺の心配事はなくなる。」結局、その霊薬探しの特使に徐福が選ばれたのである。皇帝の命令である。徐福は死を覚悟して、不老不死の薬探しのため多くの家来と共に中国を旅立ったのだ。大量の金銀財宝を積み込み、まだ見ぬ東の国を目指して船出した。 苦労して着いた国は日本である。緑濃く、水清らかな国である。人の噂は広がった。丹後の霊峰青葉山に、その薬草があるのではないかと人の話をきき目指した。由良川を下り、いくつかの峠を越え、今の田辺にきたのだ。旅人の行き交う道を東へ進んだ。道々の人々は偉い人がこられると待っていた。多くの見慣れぬ服をきた集団がこの地にやってきた。人々は「徐福来る」と歓迎した。後世に徐がとれてこの地が福来となったという。
これも宮津市史をコピーしたもの。 [日本書紀] 雄略二十二年七月
秋七月、丹波国余社郡管川人水江浦嶋子乗V舟而釣、遂得二大亀一、便化二V為女一、於V是浦嶋子感以為V婦、相逐入V海、到二蓬莱山一歴一二観仙衆一、語在二別巻一、 「浦島伝説」
丹後国風土記逸文による浦島太郎の伝説。全文は次の通り。 筒川の嶼子(水江の浦の嶼子)
(丹後の国の風土記に曰ふ) 与謝の郡。 日置の里。 この里に筒川村がある。ここの民で、日下部の首らの先祖である、名を筒川の嶼子という者がいた。生まれつき容姿がすぐれて優雅なことはこの上なかった。これは、世間でいう水江の浦の嶼子という者である。以下の話は前任の国守である伊預部の連馬養様が記している内容と矛盾するところはない。よってこの昔話の概略をここに記すこととする。 長谷の朝倉の宮で天下を治められた天皇(雄略)の御世のこと。嶼子は、一人で小船に乗って大海に漕ぎ出して釣りをしていた。三日三夜が経過したが、一匹の魚も釣れず、ただ五色(青・赤・黄・白・黒)に輝く亀を釣り上げた。おかしなこともあるものだと思ってその亀を船の中に置いたまま、まどろんだところ、その亀は突然女性に身を変えた。その顔は美しくて他と比べようもなかった。 嶼子は「人里から遠く離れ、この海上に人は誰もいないのに、どうしてあなたはここへやって来たのか」と尋ねた。乙女はほほえんで「いい男がただ一人海に浮かんでいたので、親しくしたいと思って、風と雲に乗ってやって来たのよ」と応えた。嶼子はまた尋ねた。「その風と雲はどこから来たのか」。乙女は「天上に住む仙人ですわ。お願いだから疑わないで。親密な情愛をかけてください」と応えた。彼女が神の娘であるとわかり、ここで嶼子は恐れや疑いの気持ちをおさえることができたのであった。乙女は「私の思いは、無窮の天地、永遠の日月と共に、永遠に添い続けようと思っています。しかし、あなたはどう思っているのですか、諾否の気持ちをまず聞きたいもの」と語った。嶼子は「改めて言うことは何もない。どうして躊躇しようか」と応えたのであった。乙女は「あなたが船を漕ぎなさい、常世の蓬莱山へ行きましょう」と言った。嶼子はこれに従って船を漕いだ。 乙女は(この世と常世との境界で嶼子を)眠らせ、一瞬の内に海上の大きな島に到着した。その島の様子は宝玉を敷きつめているように美しいものであった。門外の高殿も門内の高殿も全て照り輝いていた。この情景はこれまで見たこともなければ聞いたこともなかった。 手を取りあってゆっくりと歩みを進めて行くと、一軒の立派な家の門に到着した。乙女が「あなたは少しの間ここで待っててね」と言って、門を開け内に入って行った。そこへ七人の童子が来て「あっ、亀比売のつれあいだ」と語り合った。また八人の童子が来て「あっ、亀比売のつれあいだ」と語り合った。そこで乙女の名が亀比売であるとわかった。そうこうするうちに乙女が戻って来た。嶼子は童子たちの話をした。乙女は「その七人の童子はスバル星。その八人の童子はアメフリ星よ。別に不思議に思わなくてよいわ」と言った。乙女は嶼子の前に立って案内し、内へと進み入った。 乙女の父母がともに嶼子を迎え挨拶を交わして座についた。乙女の父母は人の世と仙人世界との違いを説明するとともに、人と神との奇遇の喜びを語った。そうして数々の馳走を勧めた。兄弟姉妹たちも酒を酌み交わした。隣村の幼女たちも血色のよい顔をして一座に加わった。仙界の歌は遠くまでよく響き、仙女の舞姿はなまめかしいものであった。華やかな宴の様子は人の世とは格段の違いであった。仙界では日が暮れるということもわからなかった。ただ、たそがれ時には多くの仙人たちが徐々に退散し、留まるのは乙女一人であった。ここに肩を並べ袖を接して、夫婦となるのであった。 こうして嶼子は、元の世を忘れ仙人世界に遊んで三年はうち過ぎてしまった。急に望郷の念が起こり、ただ父母に恋い焦がれた。溜息はしきりに起こり嘆きは日々につのっていった。乙女は「最近、あなたの様子を見るとただごとではないわ。一体どうなっているのかしら、その気持ちを聞かせてください」と声をかけた。嶼子は「昔の人の言葉に、凡人は故郷を偲ぶと言い、狐は故郷の山に頭を向けて死ぬとある。私は作り話だと思っていたが、これが本来の姿だと今になってわかってきた」と故事を踏まえて応えるのであった。乙女は「あなたは帰りたいのね」と念を押した。嶼子は「私は親族から離れ、遠い神仙世界に入ってきた。この人恋しさにこらえきれず、あさはかなことを口走ってしまった。でもできることなら、暫くの間故郷に帰り父母に会いたいものだ」と応えた。乙女は涙を拭って嘆いて、「二人の思いは金属や石ほどに固いと永遠を約束したのに、古里を懐かしむあまりに私を棄て去るということがどうしてこのようにあっけなくもやって来るのか」と言うのであった。二人は手を取りあって思案に暮れ、話し合っては嘆き悲しんだ。 とうとう二人は訣を翻して別れ、嶼子は故郷への道に向かおうとした。乙女もその父母も親族も皆一様に悲しんで見送った。その時、乙女は愛用の美しい化粧の箱を取り出し、嶼子に与えて、「あなたが最後まで私を棄てず、またここへ戻って来ようと思うなら、この化粧箱を固く封じて絶対開けて見ないでね」と語るのであった。そこで二隻の船に分乗し、(乙女は境界で嶼子を)眠らせ、一瞬の内に故郷の筒川の郷に戻ってきた。さて村里を見回したが、人も物も全てが移り変わり、とりつく島もなかった。 そこで里の人に「水江の浦の嶼子の家族は今どこにいるのか」と尋ねた。里人は「あなたは一体どこの人なのか。大昔の人を尋ねているのか。私が古老たちから聞いた話だが、『前代に水江の浦の嶼子という者がいた。その男はただ一人海原に漕ぎ出して二度と戻って来ることはなかった』という。既に三百年余がたつのに、何で急にこんな話を持ち出すのか」というのであった。そこで茫然とした虚ろな心で故郷を探し回ったけれども片親にさえ会うことができず、早くも一か月余が過ぎてしまった。嶼子は美しい化粧の箱を愛撫して神の乙女に思いを馳せるばかりであった。とうとう嶼子は以前の約束を忘れ、発作的に化粧の箱を開けてしまった。すると突如かぐわしい香の匂いが風雲と共に翻って、天上に昇って行った。ここで嶼子は約束に反したことに気付き、乙女に会うことはもう難しいのだと悟った。後ろを振り返っては佇み、涙に咽んで歩き回った。 そこで涙を拭って次の歌をうたった、その歌は、 常世辺に……(常世のある方角に向かって雲が棚引いている。水江の浦嶋の子の言葉を持って雪が棚引いている) 神の乙女が雲の彼方を飛びながら、 長い声で歌っていった、その歌は、 倭辺に……(大和の方角に向かって風が吹き上げ、その雲と共にあなたと離れて別れてしまっても、あなたは私を忘れないでね) 嶼子はまた恋しさに我慢できず歌をうたった、その歌は、 子等に……(あなたに心ひかれて朝の戸を開けて私が物思いに沈んでいると、あなたがいる常世の浜の波の音がここまで聞こえて来る) 後世の人が右の歌に続けて歌った、その歌は、 水江の……(水江の浦嶋の子の美しい化粧の箱。もし開けなかったならもう一度会えたものを) 常世辺に……(常世のある方角に向かって雲が棚引いている。(多由女)雲は次々と引き続いてあらわれるが、それだけでは乙女に逢うこともできず、私は悲しくなってくることだ) (原文は漢文。現代語訳は小学館版の『風土記』による) 写真は合成したもの。伊根町から見える冠島・沓島と浦島博物館のモニュメント。まさに時空の壁を越えようとする瞬間。 「浦島伝説」
今なれば、文部科学省唱歌とでもいうのであろうか。『伊根町誌』にあるので引用してみよう。 文部省唱歌一浦島太郎 尋常小学校唱歌第二学年用教科書 明治四十四年六月二十八日刊行 (一) 昔々浦島は
助けた亀に連れられて 竜宮城へ来て見れば 絵にもかけない美しさ (二) 乙姫様の御馳走に 鯛や比目魚の舞踊 ただ珍らしく面白く 月日のたつのも夢の中 (三) 遊びにあきて気がついて お暇乞もそこそこに 帰る途中の楽は 土産に貰った玉手箱 (四) 帰ってみればこは如何に 元居た家も村も無く 路に行きあう人々は 顔も知らない者ばかり (五) 心細さに蓋とれば あけて悔しや玉手箱 中からぱっと白煙 たちまち太郎はお爺さん 「浦島太郎」
これも『伊根町誌』に、(挿図も) . 尋常小学国語読本(巻三) 小学校三年用 うらしま太郎
むかし うらしま太郎 と いふ 人 が ありました。 ある 日 はま を 通ると、子ども が 大ぜい で かめ を つかまへて、おもちゃ に して ゐます。 うらしま ば かはい さうに おもって、子ども から その かめ を かつて、海 へ はなして やりました。 それ から 二三日 たって、うらしま が 舟に のって つり を して ゐます と、大きな かめ が 出て きて、 「うらしま さん、この あひだ は ありがたう ございました。そのおれい に りゆうぐう へ つれて いって 上げませう。私 の せ中 へ おのり なさい。」 と しひました。うらしま が よろこんで かめ にのる と、かめは だんだん 海 の 中 へ はいって いって、まもなく りゆうぐう へ つきました。 りゆうぐう の おとひめ は うらしま の きた のを よろこんで、毎日 いろいろな ごちそう を したり、さまざまな あそび をして 見せたり しました。 うらしま は おもしろがつて うち へ かへる の も わすれて ゐましたが、その うち に かへりたく なって、おとひめ に 「いろいろ おせわ に なりました。あまり 長く なります から、 もう おいとま に いたしませう。」 と いひました。おとひめ は 「それ は まことに おなごりをしい こと で ございます。それではこの 玉手箱 を 上げます。どんなこと が あって も、ふた を おあけ なさいます な」 と いって、きれいな 箱 を わたしました。 うらしま は 玉手箱 を もらって、又 かめ の せ中 に のって、海の 上 へ 出て きました。 うち へ かへつて みる と、おどろきました、父 も 母 も しんで しまって、うち も なくなつて ゐて、村 の やうす も すつかり かはつて ゐます。しって ゐる もの は 一人 も ありません。かなしくて かなしくて たまりません から、おとひめ の いった こと も わすれて、玉手箱 を あけました。あける と、 箱の中から白いけむりがぱっと出て、うらしまは たちまち 白が の おぢいさん に なって しまひました。
『丹後 伊根の民話』に、(解説も) 浦島太郎
このへんは昔、水江の里いうたんですなあ。ここに昔に、浦島太郎左衛門いう長者がおって、それの兄弟に、弟に曾布谷次郎いうのと、今田三郎いうのとおったんだそうです。 ほしてしたんだけど、太郎左衛門いうのに子がのうて、で、神さんに願を掛けたんですなあ。子どもを授かるようにいうて。へでしたんだけど、子どもは産まれなんだ。 ある日、ふらっと、きれえな若あ男の子が出てきて、 「お前どっから来たんだ」 いうてしたところが、 「わしは家もない、兄弟もない一人ぼっちだ」 いう。 「そうか、そうなら、まあ品格もあるし、なかなか上品なふうをしとるけえ、まあ、いわれのあるとこの家のもんに違いをあだけえ、こりやあ神さんがわしらに授けてくれたに違あない」 いうので、それを養子にして、それが島子いうんですなあ。 それが毎日釣りをしとったんだそうです。釣りをして、まあ、その時分には、このへんで大将やっとったもんですさかい、 別に仕事をせんならんことあらへんのだし、常世の浜へ出て、いまの本庄浜に出て、あそこへ出ては釣りをして、向こうの岩の方に行ったりして、鯛釣り岩だなんだいう、ああいうとこへ行って釣って遊んどったんだそうですけど。 ほてしたところが、浜で子どもが亀をつかまえて遊んどったんで、かわいそう な思って、亀をば子どもから自分が分けてもろうて海ぃ放してやった。 ある日、どういうわけじゃったかしらんけど、風に流された、遭難に遇うたいうか、いつも釣船に乗って釣りに出とったそうですけど、その船に乗って釣りに出たなり、もう帰ってこんようになってしもうて、どこへ行ったやら分からんようになってしもうたんですなあ。へえでまあ二親は、それをたいへん心配して、ほって死んでしもうたんだ。 ほしたところが、その船に遭難に遇うて流されて性根がついたら、そばにきれえな女の人がおって、介抱しとってくれたいうんじゃ。それが乙姫じゃったいうてなあ。ほしたところが目鼻立ちもええだし、上品な人だもんだはかい 乙姫が世話ぁしてえて、自分のうちい連れて帰って、ほして二親に、 「これをわしの夫にするさかい」 いうて、そこへ行って何不自由なしに、おもしろう暮らしておったんだけど、年がたったら、ふと故郷のことを思いだあて、親がどうしとるかしらん思うて、そして帰ってきたいうんです。 三年ほどおった思うて帰ってきたら三百年ほどたつとった。 帰ってきたのが常世の浜ぁ着いた。地形も変わっとるし、もう顔を知った人ぁおらへんし、へてしたところが、カンコ川のカンコ橋のとこで出てきたところが、確かにこのへんじゃった思うて来たところが、お婆さんが洗濯うしとって八十ぐらいになったお婆さんが、ほて、 「浦島の屋敷は、このへんにあったと思うんだが、どこです」 いうて聞いたら、 「浦島の屋敷は、あの向こうに大きな榎の実の木のあるとこで、あれが浦島の元庭先にあった木で、もう今ぁその家ぁ滅びてしもうて、あの木が形見に残っとんだ」 そこを教えてもらって、何も知った人ぁあらへんし、なつかしゅうなって、その木の下ぁ行って、形見に乙姫からもらってきた玉手箱を開けた。こりやあ決して開けるこたぁならん。開けんとおったら、もとの姿でおるさかい、また竜宮へ来られることがあるけど、この蓋ぁ開けたら来られん。決して開けるこたぁならん。こりやぁわしの形見だいうてもらった玉手箱を、なんにもあらへんし、知った人おりゃへんし、その形見の玉手箱を、そこで開けたら、にわかに白髪のお爺さんになった。 しわができて、しわを取っては木に投げて、その木にしわがいっぱいひっついて、榎の木がしわくちゃになった。皺榎(しわえ)の実いう木じゃ。 そこで死んでしもうたいう。そのあとへ、浦島太郎を祭ったんが、浦嶋神社で、いまも祭ってあるんじゃ。曾布谷次郎や今田三郎の屋敷跡も残つとって、曾布谷の屋敷跡には、椎の木があるけど。 乙姫さんいうのは、亀で、助けられた亀が恩返しに乙姫になって助けてくれたんだいうていわれとるんだ。 (本庄上の藤原国蔵さんに聞く) 解説 浦島太郎を祭っているのは、伊根町本庄浜にある宇艮神社で、祭神は浦嶋子(浦島太郎)など。浦嶋神社とも呼ばれている。「延喜式神名帳」には「宇良神社(うらのかむやしろ)と記されている。 神社には、浦嶋明神縁起絵巻(重要文化財)玉手箱、浦嶋子伝記など浦島太郎と関係する宝物が所蔵されている。 同社は豊漁の神として信仰されるとともに、牛馬の守護神、農作、養蚕の神としても信仰された。とくに筒川牛の名で知られるこの地では、子牛が生まれると子牛を連れて同社に参拝した。同社の笹を境内の井戸水に浸して牛馬に食べさせると災厄を免れると信じられた。 本文中にある曾布谷次郎、今田三郎の名は、元禄九年(一六九六)の文書に「浦嶋五社」として、「本神 中島子、左脇 浦島太良、同次 母御前、右脇 竜女、同次 今田三良、外ニ 曾布谷二良」と記され出てくる。
『丹後路の史跡めぐり』(梅本政幸・昭47)に、 水の江の浦島の里
春の日霞める時に 墨之江の岸に出でいて 釣り舟の通らふ見れば いにしえの事ぞ想ほる 万葉集 丹後半島も北端に近い浦島の里は意外にも山あいの盆地にあり、浦島さんの名で親しまれている宇良神社もその本庄の田んぽの中にある。 ところが少し行くと岬に囲まれた美しい海が見えて驚く。これが浦島太郎が亀を助けたという永世(とこよ)の浜である。その途中に竜穴という風洞があり、浦島太郎はここを通って帰って来たという。浜の沖あいに太郎が釣をしていたという鯛釣岩が見え、左手の断涯を縫うて行くと雷神洞(はたがみうろ)という大きな洞窟があり、小さな祠が祀ってある。ここが太郎が竜宮から帰りついた所といい竜穴はここへ通じていると信じられている。 日本書紀巻十二に「余社郡筒川人水之江浦嶋子」とあり、丹後風土記には「与謝郡日置里筒川村日下部首先祖三河筒川嶋子」とある。筒川は宇良神社の裏を流れ永世の浜へ注いでいる川である。 六撰言司(むたりのまきとをえらぶのつかさ)の一人である伊預部連小野馬養(初代の丹後国司)の書いた浦嶋子伝一巻に「応仁二季八月二四日於丹州筒河庄福田村宝蓬寺」とあり、日本書紀別巻に「雄略天皇二二年七月瑞江浦島児」とのせ、室町時代のお伽草子や釈日本記巻十二にものせている。 浦島太郎は四道将軍丹波道主を祖とする日下部(くさかべ)の一族で、雄略天皇の二二年(四七八)に亀につられて竜宮へ行き、三四七年後の淳和天皇の天長二年(八二五)十一月帰ってきたという。 丹後浦島島じゃと言えど 島じゃござらぬ田の中じゃ 田の中にある宇良神社はもと浦島大明神といい、祭神に浦嶋子、浦嶋太郎、竜女、母御前、次弟曾布谷次郎と今田の三郎を祀っている。 社宝に縁起絵巻三巻(室町期の作)、刺繍桐桜筆文肩裾小袖(乙姫小袖とよばれ桃山期のもの・重文)、玉手箱(紫雲筺重文)等があり、毎年八月に奉納される「花の踊」は単調な踊りであり、この地方最古の踊りであろうと思われる。この神社は長寿、縁結び、豊作豊漁の神として知られ、近在はもとより中郡、竹野郡までも信仰篇く、また農業に欠かすことのできない牛の神様でもあって、参拝者は境内の笹の葉を持ち帰って牛に食べさせる風習がある。 本庄の字良神社の近くには浦島太郎ゆかりの今田、曾布谷、福田などの地名が残っている。 宇良神社の近く滝山は雲引山、紫雲山ともよび、数条の白い滝水が流れ落ちているが、浦島太郎の屋敷はこの滝の麓にあって、竜宮から帰ってきた時に庭の榎の下で玉手箱をあけた所、白い煙が立ち昇って滝となったという伝説があり、水の江の熊野の滝、浦島の滝ともよばれている。夏は水量が少ないため枯れることが多い。 本庄宇治の来迎寺の麓には昔長廷(ちようえん)を経て蒲入(かまにゅう)へ通じた古道があるが、そのかたわらに珍らしい陰陽石が祀られ、また野尻にも陽石が見られる。 筒川をさかのぼれば本坂部落の下に大きな阿弥陀如来の石仏が坐っている。これは大正八年一月、当時筒川にあった製糸工場の女工さん一行が関東旅行に行ってスペイン風邪にかかり、帰郷してから多くの死亡者を出した。その霊を慰めるため同村の品川万右衛門が主唱して大正八年四月八日鎌倉大仏を模して露坐の阿弥陀如来を鋳て祀ったもので、仏体の高さ約三メートルある。太平洋戦争に金属不足のため赤だすきをかけて供出されたが、そのあとに村民の手で石仏が造られたものである。 ここをさらに登ると種畜場(旧名)を通りあやめ咲く碇(いかり)高原に出て、丹後縦貫道路に達することができるし、本庄宇治から昭和三七年六月に完成した丹後半島一周道路を走れば、美しい漁港蒲入を見おろし、その沖に冠島、沓島、遠くに能登半島を望見しながらかまや海岸等の奇勝を通り、蜷川知事の名づけた白南風(しらばえ)トンネルを抜けて経ヶ岬より宇川の袖志へ達することができる。 丹後にはもう一つ、網野町に伝わる浦島伝説がある。
『丹後の民話』(萬年社・挿絵=杉井ギサブロー・関西電力・昭56)に、 浦の嶋子
むかし、ずっと昔、今の旧網野村が松原村と福田村という二つの村にわかれていた頃の話です。 ここに水の江の長者とよばれていた日下部氏の家があり、その頃、丹波(たにわ)(今の丹後も丹波も一つであり丹波国(たにわのくに)といっていた)の北岸でこの家は二十七か村の支配を許されていたといいます。屋敷は今の銚子山古墳のある丘陵の地つづきにありました。 この水の江の長者、日下部曽却善次の代に夫婦の間に子供がなく、なんとかして子宝に恵まれたいと百日の祈願をして毎日、天に祈りました。そしてちょうど満願の夜、夫婦は不思議に同じ夢を見たのです。神の姿があらわれて、二人の心からの願いを聞き届けよう。明朝、福島まで来いというお告げを聞いたのです。 翌朝、二人は喜んで福島まで出かけて見ますと、生まれたばかりの赤子が布団にくるんで置かれていました。さっそく抱いて帰り嶋子と名ずけて大切に育てました。元気ですくすくと成長した嶋子は、釣りが好きで、毎日釣竿を肩に出かけたのです。 そんなある日、嶋子が福島の白鷺が鼻という海辺で釣りをしていると、たいへん美しい婦人に出会い、それが乙姫様であることがわかりました。声をかけられた嶋子は一目で感じてしまい、二人は夫婦の約束をしたのです。そして、両親のいる竜宮城に行こうと、乙姫様のたってのすすめにより、二人は小舟で出かけました。 竜宮城に着いてみると、乙姫様の両親はじめ多くの人々に迎えられ、毎日毎日手厚いもてなしをうけ、楽しい日々をおくっていましたので、またたくうちに三年の月日が流れてしまいました。 やがて嶋子は、両親のいる故郷のことを思い出す日が多くなり、打ち沈んでいる姿を見かけた乙姫様は、嶋子の心を察して帰ることを認め、 「もし再びここへおいでになりたくなったら、いつでも来て下さい。お別れにこの手箱を差し上げます。再びおいで下さるお心持ちがあるなら、決して中をおあけなさいますな」と言って、美しい玉ぐしげを嶋子に渡しました。 嶋子は、そのほか数々のおみやげ物をいただき、舟に乗ってなつかしい網野の浜へ帰ってきました。屋敷から二キロほど離れた万畳浜へ着いたのです。嶋子は早く両親に逢いたいものと、わが家への道を急ぎました。道で出会う顔は、どれもみな知らない人ばかり。両親の名を言って尋ねてみても誰一人知っている者はありません。やっと屋敷まで着いて見ると、これはどうしたことでしょう。もとの家はなく、屋敷跡は雑草が茂り、一面の荒野原になっているのです。わずか三年と思ったのですが、竜宮での一年は、人間界の何十年にもなるのですから仕方のないことです。 嶋子は、なげき悲しみ途方にくれていました。もしやこの際、乙姫様からもらった、この玉くしげを開けてみれば、ひょっとして昔にさかのぼり、故郷があらわれて両親にも逢えるかも知れないと思い、ついにその箱のふたを開けてしまったのです。 するとどうでしょう。中から白い煙が立ちのぼったと思えば、たちまち嶋子の髪は白くなり、顔にはしわができて、すっかりおじいさんになってしまいました。あまりのことに驚いた嶋子は、思わず自分の頬のしわをちぎっては榎に投げつけたということです。 それから、とても長い年月がたった、ある日、浅茂川の海岸に大亀が流れついたのです。村人が一生懸命に介抱しましたが、ついに生きかえることはありませんでした。 人々は、乙姫様が亀に姿をかえて、嶋子あいたさに竜宮からやって来たにちがいないと、島児神社のかたわらに「霊亀の塚」をたて手厚く葬ってやったということです。 又、嶋子がしわを投げつけたという榎は「しわ榎」といわれ、今でも飄然と立っています。 (俵野・井上正一様より)
「元伊勢宮」のページに全文あります。 羽衣伝説(比治真奈井・奈具社)
『京都の伝説・丹後を歩く』に、(伝承地探訪も) (1) 逸文風土記のもの、上と同じにつき略 (2) 伝承地 峰山町大路 昔むかし、大呂に三ネモという若い猟師がいた。ある夏の暑い日に、足占山(磯砂山)に登った。その頂上付近には池があって、その近くの木の枝に、見たこともない、きれいな着物がかけてあった。三ネモは正直者で、他人の物など盗んだことはなかったが、あまりきれいなので、持って帰りたくなった。そこで、手で取るのは悪いと思い、鉄砲の先に引っかかったようにして取り、大急ぎでわが家に帰って、その着物を隠した。
その池で泳いでいたのは天女であったが、水から上がって着物を着ようとすると、着物がなかった。そこで、三ネモを調べてみようと思って、きれいな娘に化け、彼の家にやって来て、「家に置いてくれ」と頼んだ。三ネモは一人暮らしてあったし、きれいな娘でもあったので、彼女を家に置くことにし、嫁になってもらった。天女は家の中を調べてみたが、羽衣は見当らない。そのうちに子供ができて、三歳にもなった。 ある日、天女が子供に「お父さんは毎朝どこを拝んでいるのか」と尋ねると、子供は床の柱だと教えた。そこで、天女は、三ネモが出かけた後で床の柱をよく調べてみると、柱の下のところに埋め木がしてあった。不審に思い、それを外してみると、中には羽衣が入れられていた。天女は、これさえあれば天に帰れる、と喜んで「もしわたしに会いたいなら、千荷の堆肥の上にこの種を播き、蔓が伸びたら、それを伝って来てほしい」と書き置きをして、羽衣を着て天に帰っていった。 仕事から帰ってきた三ネモは、天女だったらなおのこと別れてなるものか、と、村人たちに頼んで千荷の堆肥を積み重ね、天女が残した種を播いた。すると、ほどなく芽が出て伸びてゆき、雲よりも高くなった。そこで、三ネモがその蔓を何日も何日も上って行くと、とうとう天上に着き、天人たちに迎えられた。彼は、「瓜畑の番をしてほしい。しかし、いくら瓜が赤くなっても食べてはいけない」と言われ、毎日瓜の番をしていた。すると、たくさんの瓜があまりにおいしそうに成っているので、彼がとって食べていたら、にわかに大洪水が起こって流されてしまった。それを見て、天女は「七日、七日に会おう」と叫んだが、悪魔が「七月七日に会おう」と取り次いだ。 それ以来、天女は、年に一度、七月七日の夜に三ネモと会うことになった。また、三ネモの流された川は、天の川として、今も天に残っている。大呂の家には、残された子供の子孫が今も続いている。 (『丹後の民話』第二集) 〔伝承探訪〕 (1)の『丹後国風土記』の掲げる説話は、記録された「天人女房」として最古のものと言える。しかし、そのストーリーは、天女の婚姻を言わぬ特異なもので、あるいは養女型とも称される。「天人女房」が、当地方の古代風土のなかで変異したもので、それは昔物語が神話化して伝承されるときに生じたものと言える。そして、この神話伝承を支えた当地方の風土は、竹野川の支流、鱒留の清流がもたらした豊穣な沃土地帯であった。はやく当地は、うまき酒をかもすみごとな稲米を産するところであった。 豊宇賀能売命の化身なる天女が天降りした豊穣の源なる比治山はどこか。それは言うまでもなく鱒留川の源流に見出されるものだ。しかし、その説は真名井山・真名井ヶ岳とも称される久次岳と、比治山・足占山とも称される磯砂山とに分れる。そして、そのいずれかに『延喜式』神名帳の丹波郡「比沼麻奈為神社」が見出されるはずだが、それも前者山麓・旧久次村鎮座の現比沼麻奈為神社に比定すべきか、後者山麓・旧鱒留村鎮座の現藤社神社とすべきかは判じ得ない。どらも豊穣の沃土なる土形にふさわしい聖地と言わねばならない。 しかし、天降りした天女が、土形なる聖地を追われてさまよった荒塩や哭木の里は、ほぼ今日の荒山および内記の緊落と決することができる。ちなみに荒山には、『延喜式』にみえる波弥神社が祁られて、祭神を天酒大明神・豊宇賀能?命と伝えており、内記にも同じく『延喜式』の名木神社があって、荒山と同じ祭神を伝えている。そしてその旧荒塩・旧哭木の里は、鱒留の清流が竹野の本流に注ぎ込む肥沃なる中洲の聖地であった。 しかも、その聖地の一角には、この伝承を収集・管理した郡役所を擁した丹波緊落もあって、『延喜式』神名帳にみえる「多久神社」を配祀しており、同じく祭神を豊宇賀能?命、あるいは天酒大明神と伝える。そして、この中洲の聖地からさらに竹野川を下ると、天女が心をなごめて生涯の最後を過した船木の里がうかがえる。つまり鱒留川の源流から竹野川の中洲・船木の里に至る沃士地帯こそうまき酒の元なる稲米を産する豊穣の聖域だったのだ。おそらくこの天女の伝承は、当地域において豊穣の実りを期する豊宇賀能売命の祭祀儀礼のなかで醸成されたものであろう。 (?は口偏に羊。豊宇賀能?はトヨウカノメ) 一方、(2)の「丹後の民話』による伝承は、七夕の由来を説く天女昇天・再会破局型の昔話「天人女房」に属するもので、大路・安達家の伝説の意義をもつものであった。その大呂緊落は、鱒留川の最上流で、しぱしば雨乞いの祈願を営んだ女池を擁する磯砂山の西麓にあり、天女の残した長女を祀る乙女神社を配している。そして近年まで、旧七月七日、当安達家を中心として、乙女神社の祭祀が営まれてきた。その祭りのなかで、「天人女房」は、伝説から、さらに昔話へと復元していったのであろう。 羽衣伝説(比治真奈井・奈具社)
『丹後の民話』に(イラストも)、上の話の原文ではないかと思われるが、 むかしむかし大呂に、三ネモ(三ヱ門)と、いう若い猟師がおったそうな。ある夏の、暑い日に何かいないかと思って、足占山(いさなござん)ちゅう山の、その頂上ふきんに、水の溜った穴があったそうなが、その池には、よう鳥がつくので、今日も何かがいると思って、えっさえっさ登ってみると、どうだろう。池の近くの木の枝に、見たこともないきれいな、きれいな着物らしいものがかけてあるだそうです。三ネモは、正直者ですので、他人の物など盗ったりすることはなかったが、あんまりきれいなものですので、つい持って帰って見とうなった。そこで、手で取るのは悪いと思って、鉄砲の先に引っかかったようにして、知らん顔をして、木の下を通ったら思ったように、きれいな物が鉄砲の先に引っかかってきた。おお急ぎで三ネモは我が家に帰って、そのきれいな物をどこかにかくした。
池で泳いでいたのは美しい天女の七夕様で、水から上って、着物を着ようとしたら、着物が見当らん。「はてなおかしいことだな。いま通ったのは、三ネモだったが、あれは正直者だで、人の物を盗るような男ではないし、そうかというて、風に吹きとばされたようにもないし。着物がないと、天に帰ることができんし、困った事になった。どうしょうか」と、考えこんでしまった。そうして、「そうだ。三ネモを調べて見てやろう」ときれいな娘さんに化けて、三ネモの家にやってきて、「私をこの家においてくれ」とたのんだ。三ネモも、一人ぐらしだし、なにかと不自由しているときだったし、きれいな娘さんなんで「よしよし」と、二つ返事でこの娘さんを家におくことにした。そうしてこの娘さんに、嫁さんになってもらった。 嫁さんになった天女は、いろいろと考えて、家の内を調べてみるが、羽衣は見当らん。そのうちに子どもができて、三つにもなった。 ある日、その子どもに、「お父っさんは、毎朝、神様を拝んでおるが、どこを拝んどるか」と、聞いてみたら、子どもが言うには「表の床の柱を拝んでおる」いうので、主人の出て行ったあとで、床の柱をよう調べてみたら柱の下の所にわからんようにして、込木(うめき)がしてあった。おかしいおもって込木のところをはずしてみたら、その中に探しておった羽衣が入れてあった。喜んだ天女は、これさえあれば、天に帰れる。と、喜んで、書き置きをして、二ネモにあてて「もし私に会いたいのなら、千荷(せんがい)のまや肥の上に、この種子を蒔いて、つるが延びたら、それを伝わって、来てほしい。実は、私は、天女でした。羽衣が見つかったので、天上に帰ります」と、書き置きをして、羽衣を着て、ひらひらと、天に帰ってしまったそうです。仕事から帰ってきた三ネモが、この手紙を見て、きれいな女だと思ったら、天女だったのか、そんなら、なおのこと別れてなるもんかと、村中をたのんで、千荷のまや肥を積み重ねて、その上に、残してくれた種子を蒔きつけた。それはゆうごう(かんぴょう)の種だった。 すると、ほどなく種子は芽を出し、つる草が、天に向って、どんどんと、伸びて行って先の方は雲よりも高う高うなった。これを伝って行けば、天に昇れるにちがいない思った三ネモは、つる草の葉の元に、足をかけては、えっさ、えっさと、のぼって行った。何日のぼったか、どれだけ登れたか、わからんほどだったが、とうとう天上にのぼり着いたようなんで、三ネモが、天上に姿を現わすと、七夕さんや、天人達がおおぜい集まってきて「ようまあ、ここまで無事に来られたなあ」と、みんな喜んで迎えてくれた。「それでも、お前がきてくれても、何もしてもらう仕事がないが、瓜畑の番人でもしてほしい。しかし、なんぼ瓜があからんでも、とって食うことはならんで」と、いうことで、毎日、毎日、瓜畑の番人をしておったが、あんまり、うまそうな瓜が、ようけなっとるもんで、一つ位は、とって食っても、わからんだろうと思って、一つとって食って見たら、はんまに、うまいうまい瓜だったんで、も一つぐらいは、と思って食っとったら、にわかに、大洪水となって、三ネモは、どんぶり、どんぶり流されてしまった。 それを見た七夕様が、三ネモに向って、「七日七日に会うで−」と叫んだが、そうしたら、悪魔がおって、「七月七日に会うでえ」と、とり次いだんで、七夕さんは、年に一度、七月七日の晩に、三ネモと会う事になり、三ネモの流された川は、天の川となって、今も天に残っとると、いうはなしです。ほんで大呂の七夕様の家には、残された子どもの子孫が今もつづいているそうな…。 (長岡・堀 かつ様より) この本は、本というのか薄いパンフレット程度のものだが、関西電力が作ったものである。どこで入手したのか記憶がない。なかなかに面白いものを集めている。ナミ以上の実力。儲けるだけが企業ではない、儲けるのも資本の論理で当然であろうしやってもらえばいいのであるが、もし儲けたら社会にもしっかり還元するという社会的責任論理も当然にも持ってもらいたいものである。人に偉そうに言う前に、まずは私企業自体が権利ばかりでなく責任も持ってもらおう。年間1兆円も大儲けるくせに、何も還元できないような、手前がひとりため込むばっかり、そんなセコイ企業が長続きするものであろうか。これは昭和56年のもの、このごろはやってないのでなかろうか。そんなことだから事故も起こすのであろう。恥ずかしい欲ボケしてはなるまい 羽衣伝説は七夕伝説は実は一つのもの…とか、標題に書いているが、そのとおりのようである。イラストを見れば、すぐに気付かれようが、ジャックと豆の木や桃太郎も同根の伝説のようである。世界は一つ、暴利をむさぼるのは自分一人だけというわけにはいくまい。 尚、不死樹は東洋では桃の木のようだが、西洋ではリンゴのようである。世界の西の荒野の彼方にあるというエデンの園の林檎の木も本来は不死樹であったようである。徐福伝説も似てきた。白雪姫は確かリンゴを食べて…どうしたのだったか。林檎の実は性と結びつくようだが、智恵の実、人間だけはその不死樹の実を食べて生きている。人は死ぬが、知恵の真理は不死、何か真理を発見すれば永遠の命が得られるかも知れない。私たちも不死樹を探してみよう。上とまったく同じようなものもある。 『京都の昔話』(昭58・京都新聞社)に、 サンネモと七夕さん
むかしむかし大呂(おおろ峰山町)に、サンネモという若い猟師がおったそうな。 ある夏の暑い日に、何かいないかと思って、足占山(いさなごさん)の山に登ったそうです。むかしはこの山が火山だったそうで、頂上ふきんの穴に水がたまって、その池には、よう鳥がつくので、今日も何かがおると思って、えっさえっさと登ってみると、木の枝に見たこともないきれいなきれいな着物がかげてあるだそうです。サンネモは正直者ですので、他人の物など盗ったりすることばなかったが、あんまりきれいなものですので、つい持って帰ってみとうなった。そこで知らん顔をして、木の下を通ったら鉄砲の先きにきれいな着物が引っかかってきた。サンネモは大急ぎで我が家に帰って、その着物を隠した。 池で泳いでいた天女が水から上がって着物を着ようとしたら、着物が見当たらん。 「はてなおかしなことだな。いま通ったのはサンネモだったが、あれは正直者だで、人の物を盗るような男ではないし、そうかというて、風に吹きとばされたようにもないし、着物がないと天に帰ることができんし、困った事になった。どうしようか」と考えこんでしまった。それできれいな娘さんになって、サンネモの家にやってきて、 「私をこの家に置いてくれ」と頼んだ。サンネモも、一人暮らしだし、なにかと不自由しているときだったし、きれいな娘さんなんで、 「よしよし」と二つ返事でこの娘さんを家に置くことにした。そうしてこの娘さんに、嫁さんになってもらった。 嫁さんになった天人は、いろいろと家の内を調べてみるが、羽衣は見当たらん。そのうちに子供ができて、三つにもなった。 ある日、その子供に、 「おとっさんは毎朝神様を拝んでおるが、どこを拝んどるか」と聞いてみたら、子供が、「表の床の柱を拝んでおる」言う。それで主人の出て行ったあとで、床の柱をよう調べてみたら柱の下の所にわからんようにして、込め木がしてあった。おかしい思って込め木のところをはずしてみたら、その中に捜しておった羽衣が入れてあった。天女はこれさえあれば天に帰れると喜んで、 「もし私に会いたいのなら、千荷(せんがい)のまや肥の上にこの種をまいて、つるが延びたら、それを伝わって来てほしい。実は私は天女でした。羽衣が見つかったので天上に帰ります」と書き置きをして、羽衣を着て、ひらひらと天に帰ってしまったそうです。 仕事から帰ってきたサンネモはこの手紙を見て、きれいな女だと思ったら天女だったのか、そんなら、なおのこと別れてなるもんかと、村中を頼んで、千荷のまや肥を積み重ね、その上に残してくれた種をまきつけた。 するとほどなく種は芽を出し、つるが天に向かって伸びていって、先のほうは雲よりも高う高うなった。サンネモはつる草の葉のもとに足をかけては、えっさ、えっさと昇っていった。何日昇ったか、どれだけ昇ったかわからんほどだったが、とうとう天上に昇りついたようなんで、天上に姿を現わすと、七夕(たなばた)さんや、天人たちが、おおぜい集まってきて、 「ようまあ、ここまで無事に来られたなあ」とみんな喜んで迎えてくれた。 「それでも、おまえが来てくれても、何もしてもらう仕事がないが、瓜畑の番人でもしてほしい。しかし、なんぼ瓜があからんでも(うれても)とって食うことはならんで」ということで、毎日毎日、瓜畑の番人をしておったが、あんまりうまそうな瓜がようけなっとるもんで、一つくらいとって食ってもわからんだろうと思って、一つとって食ってみたら、ほんまにうまいうまい瓜だったんで、も一つぐらいはと思って食っとったら、にわかに大洪水となって、サンネモは、どんぶり、どんぶり流されてしまった。 それを見た七夕様が、サンネモに向かって、 「七日、七日に会うでえ」と叫んだが、悪魔がおって、 「七月七日に会うでえ」ととりついだんで、七夕さんは、年に一度、七月七日の晩にサンネモと会うことになり、サンネモの流された川は天の川となって今も天に残っとると。 大呂の七夕様の家には、残された子供の子孫が、今もつづいているそうですが、ほんとかどうかわからんそうです。 語り手・井上 保(大宮町新宮) 「天人女房」(天女を女房にもらった男。子供と三人で天国に暮らすことになったが、約束を守らなかったため、男と子供は地上に返されてしまう。という鳥取県・新潟県の伝説) 「原始七夕伝承」(世界樹と七夕伝説の関係に触れられている) 羽衣伝説(比治真奈井・奈具社) 「世界樹伝説」
『丹後の昔話』(昭53・日本放送出版協会)に、(イラストも) 天女の羽衣
日和のええ日に山へ行つとったら、磯砂山に、ほいたこころが、どうもなんどもかんども言えんええにおいがして不思議でしょうがない思って、まあ、ほてまあ、ずうっと見回したら、そのあの、小さい沢があったそうですわな。ほいて、その沢にきれいな、その、女が行水しとったいうて。ほんだもんだで、その、三右衛門(さねもん)があれっと思って、あんまりそれがきれいな、ええにおいするので、あのもんをたたんで、なつべとった(しまっておいた)ですわな。ほうすると、 「頼むで返してくれ、それがなかったら天へ昇られん」言うて、悲しがって悲しがっておるのを、 「なんにも持つとれへん」言うて、その人が家の宝にしよう思って、隠してしまったらしいですわな。 ほいたどころか、そう言うてもどったこころが、その女の人がある日女中においてくれ言うて、ほいて女中に住み込んで、ほいてその、器量はええだし、働くのはよう働くだし、しなるもんだし、いつにかそこに住み込んでしまった。そいて子どもがでけた。ほいたこころが、嘘かほんまか知らんけど、その子どもがでけて大けなった。そいたこころが、朝ま、お父さんはどこを拝んどるかいうて子どもに訊いたらしいですわな。ほいたところ、そのまあ、大黒柱の元をいっつもこうして拝みなる。そうして分限者にもなったらしいですな、その家がなあ。ほしたところが、よしよし、それでわかったいうことで、そこをばな、三右衛門さんがおんならんまに掘ってみたら、その、出てきた。へて、それをまとうて天へ昇って行った。 (名彙『天人女房」) 語り手・中郡大宮町善王寺 松村初枝 『おおみやの民話』(町教委・91)に、(イラストも) 七夕さん(一) 上常吉 小塚謙治 三 「お父さんは、どこを拝みなる」いうたら、 「大黒柱を拝みなる」いうたで、大黒柱をよう調べてみたら、羽衣が隠いであったで、へいて、瓜を植えて、そのつるが長う延びて、そのつるに上って、羽衣を着て天へかえられたそうな。 七夕さん(二)
河辺 近藤桂女 大呂(峰山町)の七夕伝説は、天女が水浴していたとき、舞衣が干してあったのを見て、「これは天女が着とった衣だ」いうので、急いで持って帰って、隠すところがのうて、柱に穴をあけて、穴の中へ、その舞衣を隠しとったという話で、これを隠していたのは大呂の三右衛門さんで、毎朝、それを拝入どんなったそうな。 そうしたら、ある日、きれえな女の人が来て、 「女衆(女中)にでもおいてくれ」いうた。あんまりきれいな女だもんだで、 『こんな女が家に来てくれたら』思って、 「よかったら家におってくれ」いうて、おってもらったって。 その女は寝ても起きても『この三右衛門さんは、どこへわたしの衣を隠いでおんなるだろう』思いもって、毎日その家で炊事したり、洗濯したりしておんなっただけど、ある日、朝ま早よう、その柱を三右衛門さんが拝んどるとこを、ちらっと見て、その女が、『どうで柱を拝みなるだろうな、あの柱は、これの大黒柱だで、拝みなるだろうか、どうだろうか』思って、三右衛門さんが仕事に出なったあとで、しらべてみたら、柱の穴に舞衣があって、 『ああ、こんなかにあった。悪いこったけど、もらって天に帰らな仕様がない。わたしは天の女だもん地におられん。ああ、天にかえれる』思って、喜んで、その三右衛門さんに置手紙を書いて、『天に帰ろう』恩っとったら、三右衛門さんがもどってきなったで、もうなんにもいわんと、 「ごはんもでけとるし、悪いけど帰らしてもらいます」いうたら、 「どうで、にわかにいぬるだ」 「わたしは天女で、天から来た者だで、悪いけど帰らしておくれ」いうて、その衣をまとって、パアッと、舞いながら天へ帰ってしまいなったって。 それて、どうも仕様ないもんだで、三右衛門さんは、ロあけて、あんこみたいな顔で、見送っとったが、どうしょうもあらへんだし、ちいとまでも、羽衣いうもんを、わが家に持っとったで、それでええだ。羽衣はのうでも、いっつも羽衣があるだと思って、その柱を拝むんだそうな。 七夕さん(三)
新宮 井上 保 むかし、むかし大呂に、三右衛門という若い猟師がおったそうな。ある夏の暑い日に、何かおらんかな思って、 その池で泳いどったのは、天女だって、水から上って、着物を着よう思ったら、着物が見当らん。 『はてな、おかしいことだなあ、いま通ったのは、三右衛門だったが、あれは正直者で、人の物を取るような男でないし、着物がないと、天に帰ることがでけんし、困ったことになった。どうしようか』と、考えこんでしまった。それで、「おおそうだ、娘に化けて調べてみてやろう」といって、きれえな娘さんに化けて、三右衛門の家にやってきて、 「私をこの家においてくれ」いうてたのんだ。三右衛門も一人ぐらしだし、なにかと不自由しているときだったし、きれえな娘さんだし、「よしよし」と、二つ返事で、この娘さんを家におくことにした。そうしとるうちに、この娘さんに嫁さんになってもらった。 嫁さんになった天女は、いろいろと考えて、家の内を調べてみるが、その羽衣は見当たらん。そのうちに子どもができて、三つにもなった。 ある日、その子供に、 「お父っさんは毎朝、神さんを拝入どるが、どこを拝入どるか」いうて、聞いてみたら、「萩の床の柱を拝んどる」いうんで、三右衛門の出て行ったあとで、床の柱を調べてみたら、柱の下のところにわからんようにして、埋木がしてあった。おかしい思って埋木のところをはずしてみたら、そのなかに、探しとった羽衣が入れてあった。天女は喜んで、『これさえあれば天に帰れる』思って、書き置きをして、 「もし私に会いたいなら、千荷(せんかん)のまや肥の上に、この種子をまいて、芽が出てつるが延びたら、それを伝ってきてほしい。実は私は天女でした。羽衣が見つかったので、天に帰ります」いうで、書き置きして、羽衣を着て、ひらひらと天に上ってしまった。仕事から帰ってきた三右衛門が、この手紙を見て、『きれいな女だと思ったら、天女だったのか、そんなら、なおのこと別れてなるもんか』思って、村中をたのんで、千荷のまや肥を積み重ねて、その上に、残してくれた種子をまいた。すると、種子は芽を出し、つるが伸びて、天に向って、どんどん延びて行って、先きの方は雲よりも高なった。『ようし、これを伝って行けば天に上れるにちがいない』思って、三右衛門は、つる草の葉の元に足をかけて、えっさ、えっさ上っていった。何日上ったか、どれだけ上れたか、わからんほどだったけど、とうとう天上に上り着いた。それで、三右衛門が、天上に姿を現すと、七夕さんや、天人達が、ようけ集まってきて、「ようまあ、ここまで無事に来なったなあ」いうて、みんな喜んで迎えてくれた。 「それでも、お前がきてくれても、なんにもしてもらう仕事はないけど、まあ、瓜畑の番人でもしてもらおうか、しかしなあ、なんぼ瓜があからんでも、取って食うことはならんで」いうことで、毎日、毎日、瓜畑の番人をしておったが、あんまりうまそうな瓜が、ようけなっとるもんで、一つぐらいは取って食っても、わからんだろう思って、一つ取って食ってみたら、ほんまに、うまい、うまい瓜だったんで、も一つぐらいは思って食ったら、にわかに大洪水になって、三右衛門は、どんぶり、どんぶり流されてしまった。 それを見た七タさんが、三右衛門に向って、 「七日、七日に会おうで」いうて叫んだが、ぞうしたら悪魔がおって、 「七月七日に会おうで」いうで、取り次いだんで、七夕さんは、年に一度、七月七日の晩に、三右衛門と会うことになり、三右衛門の流された川は、天の川となって、今も天に残っとる。いう話です。 『ふるさとの民話』(丹後町教委・昭58)に、 天人女房
間人 木佐 一りう 大呂(峰山町大呂)の三ネ門さんの若且那さんだったそうです。 あの山にがさい堤があったいいますわな。そこに大けな堤があってなあ、それが日照りで、ひいさひいさ日照りでしたら、その三ネ門さんの若且郡さんが、このくらい日よりが久しなりゃあ、あの池の水が細んでおらみゃあきゃあなあ、あがってみよう思って、あがってみなはったって。そしたら、あがってみたら女が一人おって、その若且那さんが行ったら、びっくりしてその女の人が走って逃げた。せて、逃げたあとに、なんだあれはあの女が忘れたんだか置いてえたんだか思って行ってみたら、その七夕さんの羽衣やいうて。それを持ってもどって、まあおらんさきゃあ、七夕さんは逃げてしまって。それを家へ持ってもどって せえで、三ネ門さん家の且那が、中大黒が大けな柱だったそうな、中大黒に穴を掘って、せえて埋め木して、桐の箱にその七夕さんの羽衣いうもんをええてなあ、もうちょっとも外からわからんようにしてくりゃあておって。 その女の人は若且那さんの嫁さんになっとって、わしの羽衣はとこぞになつべとるんだろう、どこぞにあろう思ってたずねたずれしとって、十年暮れて。そうしたら、そのまあ、ぼんが生まれて、その人「ぼん」言うたら、 「はい」言うてしたら、 「お久さんは朝間一番早うどこ拝む」いうて問いなった。 「お父さんはあそこの柱を一番さっきにこうやって手を合わせなる。それよりほかにずうっと拝みなるけど知らん」言うて。そしてしたら、その七夕さんがどこだと思って考えてみなって、その柱を見まして。へたら、こうその柱に穴を掘って埋め木して、ちょっとわからんようにしちゃる。あ、これだと思って、そいて、且那さんの出た間にそこを見たらありましたといなあ。やっぱりそいでその女は神さんださかい、ぼんに、 「わしはなあ、これをもらっていぬるさかい、お前はお父さんと大けなれ。お父さんになあ、七日七日に会ういうてお母さんが言うとった言いなれ」言うたところが、そのぼんが、七日七日に会う言うたのを七月七日に、そのとぎに会う言うた。そいで、七月一ぺんより会われん。
『大宮町誌』に、 磯砂の女池(めいけ)
上常吉の車が谷から峰山町の大成に通ずる磯砂山の鞍部より稜線を南へ少し行くと、五箇、常吉、但馬の境界附近のそのごく狭隘な頂上に「女池」がある。この他は季節によっては可成の水量のあったものか、古記録によると広さは六間に一二間あうたという。現在では三坪足らずの水溜りで水深も頗る浅くなっている。この池は不思議なことに年中枯渇することがないという。古来稲作と水とは重大な関係がある。したがって、この水の枯渇しない女池は雨乞池として有名で、昔は干天に際してよくこの池に雨乞いをして奇蹟を得たという。昭和になってからもあちこちの村の農民がこの池をかきまぜに行ったというし、上常吉の古老の話によると遠く丹波の国からも雨乞いに来たと伝えている。なお、昔天女が水浴したのもこの池ではないかともいわれている。(常吉の口碑)
『舞鶴の民話2』に、 羽衣の松 (新舞鶴)
大木が翼をのばしたように繁っている。浮島、頂上には嶋満神社がある。 この社は元冦のとき天皇が勅使をここにつかわし、戦勝を祈願されたという。小さい社だがこんないわれがあった。 海の中に浮ぶのでこの島を浮島という、島には松の木しいの木等がおいしげっている。 ここから浜辺をみると、白砂に、さざ波がうちよせ、すばらしい眺めであった。細川幽斎もこの浜をうたって、白糸浜といっている。現在の八島通りも浜であり、漁家がぽつんぽつんと立っていたそうだ。 母と子二人で住んでいる漁家があった。息子は魚つりを業としていた。浜から浮島は浅いところがあり、歩いて浮島にいっては魚を釣っていた。ある日のこと、いくらたっても魚が釣れない、たいくつして草むらに寝ころがっていた。 春のぽかぽか陽気で、海の方から気持いい風がふいてきて、木々の葉がさらさらなっていた。いつのまにかねむってしまった。浜辺に波がしゃばしゃばとうち寄せる、潮が満ちてきたのか、彼のほほに海水がかかり、びっくりしてとびおきた。と、なんともいえぬ香が風にのってやってきた、ふと北側の松の木を見上げた。ひらひらともも色と白いものがみえる、いまだ見たこともない、やらかい布である。夢をみているのかと、目をこすったが白い布がひらひらしているのがみえる。彼は立ちあがりその方に歩を進めた、こんな香はかいだ事がない、近づくと、においが強くなる、ひらひらしている布の下にきた。手をのばせばとどく、ばしゃばしゃ音がする、みると毛の長い女が岩の上にすわって足を海の水につけたたいている、みたこともない女だ、白いはだがみえるようなうすい衣をきている。ふっくらとした乳房がみえる、楽しそうだ、男はそばに近よった、女はびっくりしたようにこちらをじっとみている。男はあとすざりして白い布のところに来た。松の緑に布はゆれている、手をのばしてさわった、やらかい、枝からするすると落ちてきた、両手でかかえた、じゃこうのような香が鼻をつく。軽くて持っている感じもない、家に持って帰って家の宝にしようかと思った。と、女が小走りにやってきて、手合図で何かそれを返してくれという様なしぐさをする。男が両手で布をささげるようにすると、女は嬉しそうにやってきた。男はおしいけれど女の物に違いないと両手でもちあげるとふわりと浮いて女の手の方にいってしまった。女はそれを着るなり岩かげにかくれてしまった。 とたん魚がぴしゃんと飛びあがった。男は釣りざおをつかみその方に糸をたらした。つれるは釣れるは魚が次から次へとあがる。男はさき程の女のことも忘れて魚を釣った。 岩かげから白い煙があがったと思ったら白いものが空めがけてあがり、煙はすーと消えてしまった。それからは魚がつぎつぎに釣れて沢山の魚をもちかえった。 その話を家に帰って母に話すと、「それは羽衣だ、いいことしたね。」 これから布のたれていた松を羽衣の松と人々はいうようになった。 羽後も伝説も浦島伝説も元は同じかも知れないと思えるような話である。 枯木浦の四島「浮島」
『舞鶴の民話1』に、(イラストも) 岩ノ鼻
(大波下) 杉山を下りて舞鶴工専を過ぎ、朝来小学校の近代的な校舎を右に折れてしばらく行くと日本板ガラス工場に出るが、その右の山すそに“野山“という小さな山があった。 昔から村人はここで薪を集み、深いところでは二キロほどある谷あいを薪を背にわが家を目指すのだった。その途中に”岩鼻“という所があった。そこには腰をおろすのにころあいの岩が二つほどあり、村人はここまでくると荷を降ろして汗をふき、一休みするのだったが、ちょうどその上の方に大きな岩鼻がそびえていた。 ある時、年老いたおばあさんが薪を集めての帰り道、急に胸が苦しくなり、やっとの思いでここまでたどりつき、体を横たえた。すると、目の上の岩鼻の上にどこからともなく美しい姿をした羽衣姫が現われ、舞いはじめた。おばあさんは、その美しさにうっとりとしている内に、苦しみはしだいになくなり、ふと我にかえったときには羽衣姫の姿はどこにもなかったが、おばあさんは無事にわが家に帰りつくことができたのだった。 それから後、その休み場を極楽岩、岩鼻を舞姫岩といい、今に伝えられている。 『舞鶴市史(各説編)』にも、 岩鼻 (大波下)
大波下にある深い谷間は、以前は野山といって村の共有林であった。昔から村人はここで薪を作り、深い所で二キロほどもある谷間を背負って持ち帰った。その途中に岩鼻といわれている所があって、そこに腰を下ろすのにころ合の岩が二つほどあった。だれもがここまで来ると、荷を下ろして一汗ぬぐった。その上の方に大きな岩鼻がそびえていた。 昔、ある老婆が薪を作っての帰り道、急に苦しくなり、やっとこの休み場まで来て休んでいた。すると上の岩鼻の上にひらりと羽衣姫の美しい舞姿が現れた。老婆がうっとりと眺めているうちに苦しみは次第になくなり、われに返って無事わが家にたどりついたという。 それから後、その休み場を極楽岩、岩鼻を舞姫岩といい、いまに伝えている。 『市史編纂だより』(昭和48.10.1)に、 岩鼻の伝説
(大波下) 藤村繁雄さん 当部落の上に深い谷間があり、その辺りは昔から野山と称し、部落の共有林で、住民はその谷深い野山へ行って薪を作り、深いところでは2キロもあるけわしい谷間を薪を背負って家まで帰つれものである。ちょうどその途中に岩鼻という地名のところがあり、荷を下ろして休むのに適当な岩が二つある。みんをここまで来ると、 やれやれと腰を下ろし一汗ぬぐうのであった。 ある時、老婆が薪を背負って帰る途中、急に苦しくなり、ここまで来て休んでいると、上方の岩鼻の上にひらりと美しい羽衣姫の姿が現れ、老婆がこれをうっとりと眺めているうちに苦しみも消え、無事に家まで帰り着いたという。その後、この休み岩を極楽岩と名づけ、かの岩鼻を舞姫岩と名付けて、いまなお伝わっている。 しかし、このごろは薪作りをする人もなくなりこの山道も生い茂って登ることも困難な状態である。 不死樹の伝説ともつながりそうである。
天の羽衣の原形になるものはずいぶんと古くから人類は持っていたと思われる。原形は鳥人と呼ぶか、羽人と呼ぶか天の神の世界の羽根を持った人でなかったかと思う。 【遺跡(丹後)】 鳥の装いをした司祭者像
蛭子山1号墳後円部の頂上より出土した朝顔形埴輪の表面には、不思議な人物の絵が描かれていました。その人物の絵は高さ8pほどの小さなものですが、両腕を高くあげて左手には弓と矢、左肩の上には三角形の飾りのようなものを身につけています。両腕の下には鳥の翼を思わせる羽衣のような表現があります。この絵はまさに、1600年前の鳥の装いをした司祭者で、神に祈りを捧げる姿です。このような絵は弥生時代にはまれに見られますが、古墳時代では非常に珍しいものです。 (はにわ博物館の説明) 加悦町明石の古墳公園からも磯砂山はよく見える。蛭子山一号墳からもよく見えるのだろうが、高い樹木があった見えにくい。すぐ隣にある作山二号墳上から見た磯砂山(右写真・一番奥中央の山)。 |
資料編の索引
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第一集