丹後の伝説:21集

 宇良神社、経ケ崎、他
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浦島神社(伊根町本庄宇治) 経ケ崎(丹後町袖志)



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浦島神社


小牧進三氏のものなら、もっと引きたいのであるが、この論稿もずいぶんと長い。途中の一部だけです。かなり有名な論稿のようで、なかなか面白い。氏なら浦島伝説と金属のつながりを言うのではないかと考えていたのであるが、海だけで金属には何も触れてないようである。

『郷土と美術』(1984.・6)に、
古代丹後逍遙−浦島伝説と羽衣伝説の謎(第二章)
  小牧進三

天橋立の竜神


さきほど竜について前述したので天橋立の「竜」をのべよう。この風光明眉な天橋立に竜神がすみ、丹後半島の突端の岬に悪竜伝説を残すなど随所に竜がさん見するゆえである。
 この古伝のみなもとは、天の橋立(宮津市文珠)の寺域。天橋山智恩寺に伝わる。「九世戸(くせと)えん起」など一連の文珠信仰が横たわっている。「九世戸智恩寺幹縁疏并序」によると。
 天橋山智恩寺、この地は文珠大聖降応の地で、日本の五台山であるという。天神七代をへた地神三代の正哉吾勝々速日天忍穂耳尊のとき悪竜を降伏させそのもとをひらいたとのべる。
 九世戸は、天神七代地神二代(九代九世)によって「九世戸」という。つづいて大土威神(天忍穂耳尊)が〃如意〃を海中になげ成った遺跡が「天の橋立」で、火をともして一夜のうちに千本の松を植え、その火をすてたところが「火置島(日置)」であるという。そして大土威神かあん息した地が「獅子のわたり」で諸竜を集めて講経授戒した地か「戒岩寺」であり、千年の浦で説いた地を「経御崎(きょうみさき)だとのべる(文明十八(一四八六)
 さらに別伝は
 九世戸の有斉日天燈・竜灯の由をのべ、磯清水(並木の中)の橋立明神は「竜宮」だといい、この明神を伊勢では豊受大神だとつげる。また文殊のみ前に月の六斉天女あまくたり給い灯をもちまいらせ、府中の竜神、竜穴よりいで榊をもって立ち、江尻(えじり)の「江の姫神社」の神は婆竭羅(しゃかつら)竜王の第二の姫、竜王女を祭る。……
(九世戸えんぎ)
 こうして智恩寺を軸とし、天の橋立近傍の地名の由来や、智恩寺のえんぎをえんえんと語りかける。「九世戸」はいうまでもなく文殊堂(智恩寺)から橋立明神へとたどる「よさの海」と「阿蘇(あそ)の海とが分界する今日の廻旋橋の水道をいう。同えん起にいう五台山は、中国山西省五台県東北の高山で五峰から成り一名「清涼山」ともいい、そこに文殊の浄土かあるという文殊信仰である。(文殊は梵語)
 わが国の文殊信仰は奈良時代三論宗の祖師と仰がれ、文殊菩薩は普賢とともに「釈迦」の左に智恵をもって獅子にのり仕えた。ことに平安時代天台宗では、釈迦・普賢・文殊を三トリティとし信仰され広く世に伝えられた。獅子の渡りの地名獅子も文殊がのる獅子にからめたもので、これらえん起は文殊信仰を骨格とした神仏習合のかげか色濃くおちている。それは「アメノオシホミミノミコト」を地神としたことで、記・紀がのべる日本神話のオシホミミは天孫降臨の天孫神で決して地神とされる神ではない。 これは中世の神道家か説いた、天照大神・アメノオシホミミ・彦ホノニニギ・彦ホホデミ・ウガヤフキアエズの五神を五代とする説をうけつぎ、天ノオンホミミと如意とのかかわりもなり これらえん起は、中世の文殊菩薩の功徳を説きことに九世戸縁起は諸国諸人の寄進を求めるため勧進聖人らの筆になる内容を盛り込んでいる。
 丹後半島の突端、経ヶ岬の伝説に……この岬の近海に悪竜が出没し日夜漁民を困らせていた。そこで三日三晩、文殊真言を唱えたところ海中から悪竜か頭をもたげてきた。ところが坊僧のさとしをうけた悪竜は、経を唱えながら遠く海のかなたへ消え去ったと、かたり伝えている。この海辺は海流かさか巻き古来より竜が出没する海の難所であることはたしかである。物語りの背景は、文殊菩薩の法力で竜を教化し封じこめる文殊信仰の功徳がひそんでいる。
 この経ケ岬の悪竜伝説は、法華経の「提婆達多品」に文殊さんは、大海の婆竭羅竜宮に行ってあまたの竜神を教化したという所伝と一致し文殊信仰のふえんの残照とみたい。戒岩寺(波路)は諸竜を集め講経授戒した地とのべるが、華厳経の「入法界品」にも大海中の無量千億の竜王とその眷族を教化したという一文と同一性格のふえんにほかならない。
 このことは江尻の「江ノ姫神社」の祭神を裟竭竜王女としたえん起ともかかわる。この竜王女は、文殊さんが教化した裟竭羅竜王(竜宮)の第二の姫か裟竭羅竜王女で、江ノ姫神社の神は、文殊信仰からおこる神名で、ここにも神仏習合のかげがれっきとのこる。
 しかしこれらの竜は、文殊信仰とばかり、かかわっていると言い切れない部分がある。それはえん起の文中に〃府中の竜神竜穴より出て榊云々〃とあるとおり籠神社の摂社に海神の竜女豊玉姫とまじわった彦ホホデミの尊を祭っている点にある。前述のとおり同社の社家である〃海部〃家はかって竜神信仰をもち、日本海辺の雄として古代海に生きてきた物部氏である。
 その証明は国宝海部係図(籠名神社祝部氏係図)に応神天皇(品田別)のみ代(四世紀末)健振熊宿弥が若狭木津高向宮(たかむこのみや)において国造りとし海部の直の姓を与えられた記さいかみえる。
 それは嶋子の時代からほぼ八十年をさかのぼる時代のことである。
 同社にほど近い江ノ姫神社の祭日は七月六日とされ、翌七月七日は筒川の里宇良神社の祭日となる。
 丹後の国のなかで北辺の一隅とされ、寒村とも言えるこの筒川の里がなぜこうした物語りの舞台となったのか明解な答えはない。答えは潮流、潮のながれにそのキイは穏されている。
 丹後の最北端、経ヶ岬沖を滔々と北流し、やがて若狭、能登へと向う対島暖流と袂を命けた潮路をゆるやかにいざなう入江が本庄浜である。古代の海に生きる海人にとってこの地が唯一の船だまりの地であったと思われる。さらにこの他は、海人がかて(食糧)を求めうる適地であったこと。筒川谷流域は小盆地ながらここより沃野がひらけ、その渇望を満し得る自然の恵みの地と言える。加えて宇良神社の西方、色あざやかな神奈備(三五八)の山腹に光る布引の滝は養老の霊泉にふさわしく、そり身魂を甦みがえらせる風光である。
 こうした自然のふところに抱かれた筒川の里は安息の地とし、古代交易の拠点とされていたとしてもなんら遜色はない。
 式内宇良神社の主祭神は、本文浦の島子であるか、相殿に丹後国唯一の月神「月読尊」が祀られていることに注目したい。
 この月読尊は『日本書紀』に滄海原(あおうなばら)の潮の八百重を治すべし。とみえ月か海原の支配者であるとのべている。
 潮はさんずいに朝、夕と書いて潮・汐を表現され、一月二回月と太陽の引力作用で生じる干潮、満潮の現象がある。その負量からみると太陽だが、地球に近い「月」は太陽の二倍の引力をもつ。
 古代人は、潮のみちひきは太陽の働きより月のなせるわざとみてとり月を船出の神とし崇めた。
 万葉集に
   にぎた津に船乗りせんと月待てば
      潮もかなひぬ 今は漕ぎいてな
               額 田 王
 にぎた津は今日の伊予(愛媛)の港であるが、船出の用意をととのえ、月の出とともに満ちくる潮を刻一々と待ち満をじし舟出する舟人達の胸中がひしひしと伝わってくる。月はこうして船出と航海にかかせない神で、書紀がいうまさに青海原を支配し航海の命運を決する神であった。大陸文化の導入口で潮流いちじるしい対島暖流に浮かぶ「壱岐」島に月読尊を祀るのもやはり航海にかかわるものとみたい。
 島子を主神とする宇良神社に船出と航海の神「月読尊」を把る理由は、島子か小舟で釣をし、トコヨの国へと赴いた伝説とはうらはらな島子の海洋的性格が一段と求められる。
 今日、宇良神社の社宝として玉匣(玉手箱)が伝来するが、化粧具が納まり、社宝で姫の小袖とともにその様式は室町期を下ろう。まことの神宝は同社々宝でかって宮地直一博士が指摘されたとおり、古代海洋民か秘具とした「珠(水晶)」で、ここにも島子の海洋的性格がさらに高まりをみせる。
 さらに例年二月十七日の早暁同社執行の「延年祭」に古式な祭祀をみることができる。その一端にふれると。
 同社の外社家で島子の後裔とされる三野家一門は、二月十日から同社ほとりの筒の川で七日のあいだ〃ミソギと祓をし宮ごもる。こもりのあいだ、小枝の上枝に細カンナ屑でしつらえ真綿で覆った「サナギ」と「繭」を吊し、下枝(しもつえ)には、同様「サンダワラ」(米俵の覆いフク)のミニサイズを吊り飾る。これを神前に供しのら氏子一同に撒く。このミニサンダワラにはその年の豊かな稲作のみのりか希求されていることはいうまでもない。
  サナギと繭 のさまは「古事記」仁徳記の山代(山背、山城)の筒木(綴喜)の宮の段、韓人奴理能美が養っていた三色に変わるあやしき虫「蚕」そのままが投影されている。蚕となりやがて白い絹糸を吐きやがて繭となり飛び立っ蝶へと三様に変化しながら永遠の生命に息づく蚕、ここにもその年の繭豊穣の願望がこの神事の小枝に託されていることはきわめて明白である。
 例年二月十七日は、太宝令(七○一)に定められた「年祈祭」にあたるか、ことに宇良神社がこの祭祀を延年祭と呼び宮中祭祀に同系の祭祀がみいだせるのは、文献によらずともこの祭りは平安時代まで悠にさかのぼりうる。その祭祀の全般をとおしてみる素朴さと重厚さは、筒川の里の風光と巧みに溶け千古無量の光陰がよみがえる。

  浦の嶋子を祀る神社は、
(1)同社をはじめとし
(2)与謝郡加悦町字虫本(式内大虫神社合祀)
     床 浦 神 社
(3)竹野郡網野町字網野の大同元(八○六)
     日下部嶋根保重神主とみえる
  式内 網 野 神 社
(4)同町浅茂川 川口の明神岡
      島 児 神 社
(5)同町下岡の
      六 神 社(島子とその一族)
(6)竹野郡丹後町字宇川上野
     浦 島 五 社
(7)加佐郡大江町河守
      浦 島 神 社(筒明神)
(8)福知山市字戸田
      浦 島 神 社(月読尊)
(9)綾部市字下延町
      浦 島 神 社
(10) 〃 字奥黒谷
     浦 島 神 社
(11)兵庫県朝来郡山東町粟鹿(粟鹿大明神摂社)
     床 浦 神 社
 と広範囲な神社分布の中に浦の島子は永劫の未来へと命脈している。


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経ケ崎(丹後町袖志)

『郷土と美術』(1984.2)に、経ケ崎(袖志側から)

丹後の海の伝説
 井上正一



経ケ岬のいわれ

 丹後半島の北端にかたつむりのツノのように飛びだしている経ケ岬、これをなぜこのような名がつけられたかいろんな説もあるが、つぎのような話もある。経ケ崎燈台
なにしろこの付近の海は難所で、よく船が転覆するので、漁師たちの間ではこれはこの辺にひそんでいる悪竜のしわざだとおそれられていた。
この話をきいた一人のえらいお坊さまが、険しい岩場をのぼって、岬のてっぺんに単坐され、三日三晩文殊真言のお経をとなえたところ、その経にひかれて海から竜があらわれた。
 竜はお坊さまの説教をうけて改心し、みずからお経をとなえながら遠くの海へいってしまったという。それ以来、ここを経ケ岬とよぶようになったといい伝えられている。
 日本海の荒波の、そのまたもっともきびしい北端の難所に、昔の人びとは漁のぶじをいのってこういう救いの伝説をのこしたのである。


経ケ崎燈台はこんな断崖の上にある。足を踏み外せば命はない。
『宮津府志』に、

経ケ崎

府城より亥子の方十七里にあたり、当国北辺のはづれなり。此山より右與謝郡、左竹野郡の境なり。此海辺岩石多く北海の廻船毎歳破船多き所なり。当国海辺第一の難所也。海手より此岩岸へのぞき見れば、経巻を立たる如く或は開き巻かけたる形したる岩むらがり並べり、故に経ケ御崎と呼ぶなり。尤荒磯にて少しも風ある時は岸へ船よせがたし。

カマヤ海岸の東、甲崎。半島の裏は蒲入集落





『丹後旧事記』に、



経ケ崎
経ケ崎からカマヤ海岸方向
宮津府志に曰く與佐郡竹野の海郷成故境か崎といふ一説文珠大士出現の頃宝徳依而一ツ沖の山ことごとく巻たる経文の如く成故に経ケ崎の云又昔丹後国海辺に流木あり香気勝れ其故海人朝廷へ奉りける此香ひ後世海人の燈しといふより其香木の出たる所なれば香が崎ともいふと伝ふ。


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