丹後の地名

志楽(しらく)
舞鶴市志楽(広域地名)


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京都府舞鶴市志楽

京都府加佐郡志楽村

志楽の地誌




《志楽の概要》

志楽は舞鶴市の東部。現在は志楽川の流域を指す。舞鶴湾東岸から若狭国境までである。霊峰青葉山があり、若狭街道や鉄道が通る。志楽小学校がある。
和名抄の「志楽郷」は広く、現在の志楽谷・朝来谷・河辺谷に大浦半島が含まれたと見られている。
中世の志楽庄は現在の志楽谷と朝来谷、河辺谷を含んでいた。志楽庄春日部村が現在の志楽にあたる。
江戸期の志楽庄は志楽谷とさらに祖母谷・与保呂谷・森、行永を含み、森・行永・与保呂上・与保呂下・溝尻・堂奥・多門院・浜・市場・泉源寺・田中・安岡・小倉・鹿原・吉坂・松尾の16か村を総称する。
明治22年〜昭和13年の加佐郡志楽村は、泉源寺・田中・安岡・小倉・鹿原・吉坂・松尾・市場の8か村が合併して成立した。旧村名を継承した8大字を編成し役場は小倉に設置させた。明治39年市場全域と泉源寺の一部が分離して新舞鶴町の大字となり、当村は6大字となる。
明治42年志楽尋常小学校が設立された。大正11年国鉄小浜線が開通し、松尾寺駅が設置された。


《人口》5394《世帯数》1919


《主な社寺など》

《交通》


《産業》

志楽の主な歴史記録

《藤原京跡出土木簡》
 〈 丹□(波カ)国加佐郡白薬里大贄久己利魚(月+昔)膳一斗五升和銅二年四月  〉 

(久己利(くこり)魚というのは、今のカワハギ、するっと皮が剥げて取ることができる。舞鶴あたりではハゲともウマヅラともクチボソとも呼んでいる。餌とりの名人である、小さな口でコイツに餌を取られるので狙った大物(鯛や鰤)を釣り逃がすことになる。コングリとも呼ばれ冠島周辺では餌を撒いてコイツを集めて、網で一網打尽にする「コングリすくい」漁法がある。クコリ→コングリか。大きなハゲが釣れても、こんなモンいらんわいと投げ捨てる釣り人が多いが、料理次第で結構うまい魚である。フグよりうまいとも言われておる。キモが大きくてうまいのだ。ゼータクな奴らめ。)


《丹後風土記残欠》
 〈 志楽郷 本字領知

志楽と号つくる所以は、往昔、少彦名命大穴持が天下治しめす所を巡覧し、悉く此国を巡行畢オエ、更に高志国に致り坐す時に当たり、天火明神を召して、汝命は此国を領知シラスべしと詔りたまう。火明神は大歓喜して、すなわち永母也青雲乃志良久国と曰く。故に志楽と云う也。  〉 

《和名抄》

志楽(訓注・之良之)

《注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録》
 〈 一 志楽庄 二百町九段百八十歩内
  九十四町三段三百四十六歩  西大寺
  四十二町五十歩       朝来村 三宝院
  五町百五十歩        河部村公文分 大方殿様
  七町一段三百歩       春日村公文分 伊賀次良左衛門
  五町四段二百九十歩     朝来村公文分 同人
  廿二町二段二百卅八歩    河部村  安国寺
  廿二町二段二百卅八歩・但十五町致御公事  同半済  延永左京亮
  三町            同貞名  安国寺  〉 

《加佐郡誌》
 〈 志楽村。志楽谷、新舞鶴町字市場を併せて日下部村又は春日部村と云った。今は泉源寺、田中、安岡、小倉、鹿原、吉坂、松尾の七ケ字から成っている。参考一、昔天火明命が当地を領し給ふて志良久といった。或は設楽又は領地にも作る。後崇神天皇の朝に丹波道主命が青葉の賊を御征伐になって此地を日下部村と改められ、次で天武天皇の神護景雲元年に春日大社の領となってから春日部と称せられた。明治十九年町村制実施に際し古名志楽(村)に復した。二、現時の志楽村耕地の大半は枯木ケ浦の入江であって字鹿原小字船塚(船附の意か)まで船が出入したとの説がある。三、字鹿原恐らくは河原の意であらう。此所に鹿原山慈恩寺(金剛院は主坊)がある。郡中最古の建築物で詳細は神社寺院の部に載せてある。又城址があるがあるが之は竹内主膳(現竹内家の祖)の依った城で天正元年に細川幽斎の為めに落とされたと伝へられている。尚ほ小字杉の木に送り杉がある。それは水田中の倭杉であって、古老の伝ふるところによると白鳳十年十月十四日の北国大地震に際に青葉山が崩壊したが、其の時山中の大杉一株土砂と共に流出して埋もれ、梢のみ現はれたものであるといはれている。(異説がある。)四、泉源寺は昔寺院が千軒あったからと村の名としたといふことである。市場は単に西方の一部であった由。城址があるが、これは織田信長が覇を称へた頃栗屋丹後守の居城であったといひ伝へられている。五、泉源寺は愛宕神社を氏神としていたによって、本社は浅間の奥の社であるから、浅間を泉源に改めて村名にしたのである。(旧語集)六、田中は当地の田の始めの意である。城址がある。それは栗屋氏の滅亡後、大島但馬(肥前守にも作る。)といって大和西大寺の(春日大社)納米取立方を勤めていた一色氏の臣下の居城であったが、後山本掃頭といふものが依っていたとの事。此れは五郎右衛門今は(支族彦左衛門)筋の先祖であるといはれている。七、小倉には小倉木王の領であったから王を慕ふて小倉と称したとのことである。小字に血原と称する所がある。崇神天皇の十年青葉の賊を此処に追ひ詰めて射殺した時、血の流れたのを以て後血原といふと伝へられている。城址がある。一は但馬谷市村出羽守、一は大久保城主大倉播磨守であって共に天正九年三月細川幽斎の為めに亡ぼされたのである。八、吉坂にクレ谷がある。公家谷の訛であって高穴穂の朝、億計、弘計の御子等潜み坐せし故後人が尊んで公家谷と称したのであるとのことである。九、松尾に青葉山松尾地がある。裏山を青葉山といひ、白山火山脈中にあって消火山脈中にあって消火山である。有史以来噴火の記録はないけれども旧噴火口の位置を明に見ることができる。今の山は火口壁の東北部の一片に過ぎない。山頂に祀ってある所の神に就いて丹後風土記に次の記事がある。「青葉山は一つの山であって東西の峰がある。何れにも名神が祀ってある。共に青葉神と号づけている。其東に祭られているのが若狭彦神と若狭姫神との二座で、其西に祭られているのが笠津ウケツ彦神と笠津姫神との二座である。ここは若狭の国と丹後の国との分界であって、夫の笠津彦神と笠津姫神とは丹後の国の造海部直の祖神である。二峰共に松柏が多く、秋になっても色を変へない。」松尾寺の奥の院とは位置も祠も祭神も別である。十、志楽の語の由来も亦丹後風土記に出ている。(前略)昔少彦名命と大穴持命とが天下をお治めになるに当り親しく此国を御巡視になって高志国にお出でになった。この時天火明命をお召しになって汝は此国を治めよと詔せられた。天火明命はお喜びになって永い国であるなあ青雲の志良久の国であると仰せられた。それで志楽といふのである。(後略)  〉 




志楽の小字



関連項目

「朝来と志楽」
「朝来の古代」
「志楽つづき」
「松尾」
「吉坂」
「鹿原」
「小倉」
「安岡」
「田中」
「泉源寺」
「市場」



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