丹後の伝説:40集
松尾寺の馬頭観音
中山寺の馬頭観音
馬居寺の馬頭観音
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松尾寺の本尊は馬頭観音である。これについて同寺の案内には、
「慶雲年中、唐の僧、威光上人が当山の二つの峰を望んで、中国に山容の似た馬耳山という霊験のある山があったことを想起された。登山したところ、果せるかな松の大樹の下に馬頭観音を感得し、草庵を結ばれたのが、和同元年(七〇八年)と伝えられる。」
としている。また
「当寺は、西国第二十九番札所で、本尊馬頭観世音は、三十三霊場中唯一の観音像であり、農耕の守り仏として、或いは牛馬畜産、車馬交通、更には競馬に因む信仰を広くあつめている。」
ともしるしている。
本尊は77年に一度だけ開帳される秘仏で普段は見ることはできない。写真の仏像は案内などによくあるものであるが、そのご本尊ではないようである。
頭の上にチョンマゲのように乗っているのが馬頭であると思われるが退化してよくわからなくなっている。松尾寺にはよく似た姿の少なくとも二體の馬頭観音像があるようである。ご本尊の写真は公開されていないようである。
尚、2008・10〜2009・9はその77年ぶりのご開帳にあたり、お参りすれば、見ることができる。ぜひともどうぞお参りを。
松尾寺の全般については「松尾寺(舞鶴市松尾)」
『舞鶴市史』に
松尾寺
松尾寺は丹後・若狭の国境に聳える標高六七○・六の青葉山の中腹にあり、山号を青葉山と称する真言宗醍醐寺派の古刹である。
同寺は永仁六年(一二九八)の火災後に再建された落慶供養時の作成といわれる「松尾寺再興啓白文」に徳治三年(一三○八)八月二十七日の年記があり、これによってその草創から鎌倉時代までの沿革を知ることができる。
(松尾寺再興啓白文)
(略)爰松尾寺者慶雲和銅之間威公道公開基、又一条天皇正暦年中春日為光為漁魚鱗漕出海上之処、依被曳悪風雖到羅刹嶋、蒙観音済度帰故郷之後、以霊木彫刻馬頭観音形像為本尊ト、此砌建立浄名大士方丈□□居、奇端間天下霊験秀海
内、加三十三所送三百余歳 (略)
徳治三年八月二十七日
(「松尾寺文書」)
これによると、松尾寺は慶雲(七○四〜○八)和銅(七○八〜一五)の間に威光道公を開基としたが、一条天皇の正暦年中(九九○〜九五)には、春日為光が漁をしに海上に舟を漕ぎ出して行ったところ、悪風に舟が曳かれて「羅刹島」(地獄)に着いたが、観音の済度を蒙って助かった。そして帰郷の後に霊木で馬頭観音像を彫りそれを本尊とする方丈を建立したところ、その奇瑞は天下に聞こえ、その霊験は国内中に勝るものはなく、三十三所観音霊場の一つに加えられ、徳治三年までに三○○余年が過ぎたという。松尾寺の開基を八世紀初頭で威光道公とするのは寺伝の域をでないが、しかし、青葉山は若狭国側から見れば「若狭富士」の名に恥じない秀麗な山容を見せるけれども、丹後国側からは山容も峻厳な姿を見せており、また山頂付近には白山神社があるなど、古くより修験道の要素を持った山岳寺院があったことは確かであろう。時代は降るが、院政期の「梁塵秘抄」巻第二に「四方の霊験所は、伊豆の走井、信濃の戸隠、駿河の富士の山、伯耆の大山、丹後の成相とか、土佐の室生ど讃岐の志度の道場とこそ聞け」とあり、成相寺が諸国修験の霊場として聞こえており、同じ丹後国にある松尾寺も同様の性格をもっていたと考えてよいであろう。
一○世紀末の一条天皇の時代の春日為光の観音利生譚については、鎌倉時代前期に成立したとされる上記「寺門高僧伝」所収の行尊と覚忠の三十三所巡礼記がある。
まず、行尊の巡礼記では、松尾寺を第十六番札所として次のように記してある。
十六番 松尾寺 馬頭観音、願主若狭三海人
丹後加佐郡、
つぎに、覚忠の巡礼記では同寺は十七番札所として次のように記してある。
(丹後)
十七番 同国加佐郡松尾寺 御堂九間南向 本尊馬頭観音 願主若狭国海人二人建立之
これらによれば松尾寺の南向きの九間(正面柱間が九間とすればかなりの大堂である)の御堂(観音堂のことであろう)に馬頭観音像を安置したのは丹後国ではなく若狭国の海人二人ないし三人であるというが、その実名は記していない。また、「覚禅抄 巻第四十六馬頭」(成立、平安末・鎌倉初)の裏書にも「霊所事」として、次のように記してある。
松尾寺本仏馬頭観音等身也
在丹後国加佐郡内、願主若狭国海人也、依悪風漂著鬼国、劇海人念願云、今度帰著本国者、可奉造立観音像云々、即葦
毛馬一疋現来、仍二人海人乍悦取之、即本国木津浜小松本到了、
説話の骨子は上記「松尾寺再興啓白文」とほぼ同じであるが、注目されるのは、悪風により鬼国に漂着した若狭国の海人二人が今度本国に帰れたならば観音像を造立しますと念願すると、一疋の葦毛の馬が出現し、二人は悦んでこれにつかまり、本国の若狭国木津浜小松本に生きて帰ることができたというものである。このような説話の根底には「法華経 観世音菩薩普門品」のなかにある、金・銀・瑠璃・瑪瑙・真珠などの宝を求めて大海に行き悪風により羅刹国に漂着しても、その中に一人でも観世音菩薩の名を称えれば皆羅刹の難をまぬがれることが出来るという一節を踏まえているようである。また、海難にあって観音の名を称えたところその功徳によって助かったという話は「石山寺縁起」巻七第二段にも見られて興味深い。
馬頭観音を本尊とする寺としては、松尾寺のほかにも若狭国大飯郡の中山寺と馬居寺(いずれも福井県大飯郡高浜町)がある。なかでも、中山寺の縁起には松尾寺観音の御衣木をもって本尊馬頭観音を作像したことを記し、また、享禄三年(一五三○)の同寺勧進帳では「本尊之霊木者、第一番讃州志度寺観音、第二丹州松尾寺、第三当寺之本尊是也」としている。
松尾寺の馬頭観音信仰については、平安時代の終りごろより都の僧侶らによって知られるところとなり、西国三十三所観音霊場寺院のひとつに加えられた。それは馬頭という異形の観音像を祀る寺院が三十三所観音巡礼寺院のなかで他に見当らぬことなども理由のひとつであろう。
元永年中(一一一八〜二○)、「行業専一」の誉れが高く鳥羽院(鳥羽上皇)の崇恩を蒙っていた京都の智徳唯尊上人なるものが、平生より伽藍を創建したいという願いをもっていた。ある時の上人の夢に、高僧が日輪を帯びた白馬に乗ってやってきてその光明が部屋を照らすと、「我は馬頭明王なり、住む処の伽藍は腐朽に属すといえども、中興するにその人なし、汝労せんことを請う」と述べたという。夢から覚めた上人は不思議に思い、たまたま三十三所の記録を手にし悦んで開いてみると第二十九番に松尾寺のことが載っていたので、丹後国の松尾寺までやって来て寺の古記録を調べて夢に見たのと同じであることを知り、鳥羽上皇の帰依を受け瓦葺きの伽藍を建立したという。この時に建立されたのは、旧三間四面を七間四面に改めた本堂・五重の塔・二階建の鐘楼・三間の鎮守堂・五間の阿弥陀堂ならびに常行堂・三問の薬師堂・三間の地蔵堂・一切経蔵・二階建の中門・浴室等であった。鳥羽上皇が院政を行なった時期は、大治四年(一一二九)から保元元年(一一五六)までであるから、元永年中とあるのは、上皇となって院政を布く前の鳥羽天皇の時代のことであろう。
『丹後国加佐郡寺社町在旧起』に、
松尾村
青葉山松尾寺 遍明院と号す。
本寺醍醐三宝院 真言。
開基一条院正暦年中、元禄十丁丑年まで七百十一年、元正皇帝養老元年始めて西国三十三番の内二十九番の札所中絶其後一条院の御宇、若州神野浦叟太夫先祖為光と云う漁夫観音の奇瑞を得て松尾山え登り草庵を結び為真と法名して観音を念ずる。
その後、後鳥院御時文治年中にすなわち勅諚あり惟尊上人七堂伽藍に御建立。
本尊馬頭観音。、堂五間四面、鎮守天照皇太神宮、弁才天、鐘楼 二王門。
六所権現社同村の氏神なり、寺僧五軒境内の外、修験山伏、実相坊、池の坊、桜本坊、北の坊、円蔵坊、奥院青葉山大権現、加賀国白山権現勧請す。
縁起有増
人皇四十四代元正皇帝之御宇初李し西国巡礼の札所なり、同六十六代帝一条院正暦年中若州大飯郡神野浦高野浦とも有、叟太夫先祖為光と云漁夫あり、元来公家の落ぶれ成が身命を送りかね北海へ 出て釣を垂渡世する。為光毎日普門品三十三遍ずつ不怠して唱え有時つりに出しに俄に大風に吹流され海中に七日たたよひき、きかいが嶋へ着夢乃心地に老僧来ていふやう汝此浮木に乗べしとあり、為光夢覚て我をたすけ給ふと、ありがたく思ひ彼大木にのると、ひとしく本国神野浦しつみのはまに着にけり、為光こころに思ふ様いか成因縁にかくはたすけ給ふぞ不思議なりとよろこび家やにかへり人々に語る。是希代なる事ぞとて親族とも彼浜へ行てみれ共浮木はなし、ふしぎ成とて尋ぬれば山に馬の足跡あり、したひみれは南山へ白馬と成て行給ふ、きいのおもいをなして猶跡より慕行ば萱カヤ野の中に彼浮木有、為光思ふ様正しく馬頭くわんおんにておはすらん有難しとて礼拝し其後出家と成、為真(光真ともあり)と改名し鹿のふしと成しに三間四面の草庵を結び居住する。
ふしぎや何国ともなく仏師来り、彼木にて一夜に馬頭之尊像を作り立、仏師は行方しれされば、為真坊よに有がたく思ひ則安置して香花を備へ朝暮読経懈怠なく一生送りし成。今の本堂の地是なり、為真子孫叟太夫七百年以来松尾観音開帳閉帳に立合事此因縁なり。
又人皇八十二代後鳥羽院御宇惟尊上人は都にかくれなき名僧成しが、有時上人え告たまわく是より北にあたりて馬頭観音あり、尋行て伽藍を建立すべしとて夢は覚たり、此上人為真坊化身なり、夢想に任尋行ば丹後国二十九番の札所青葉山松尾寺是ぞと思て建立の事、奏聞ありければ帝より過分の工料を下し給り七堂がらん造立あり、其上奥院青葉山並に寺門に到まで五十一坊立給ふ、三百年已前炎上して伽藍のこらず焼失す。
若州丹州両国として七間四面に建立す。又人皇百十二代本院女帝之御時、寛永七丙午年午之同之刻炎焼、其時とうしんの観世音焼給ふ、とうしんといふ事は自御作のほとけをいふ、其後年久しく無住にて寺領米は田辺の領主へ預り給ひ三間四面のかり堂立置なり。
本尊寺領米の内、領主よりこれを下され京都よの本尊新仏作り安置す。
其後鹿原山宝生坊入寺ありて遍明院と号す是寺院号之始なり。
二王再興釣鐘等、慶安二己丑年成就せり、其後仏舞の道具を求に今四月八日興行するなり、又人皇百十三代にあたり京極飛騨守殿加佐郡城主之時建立のためにとて家中町在奉加の事之を免ぜられ、其上被地領米相くわへ、上中知行高に応し借し預けさせ給ひて、年数経る所に御息伊勢守殿但州豊岡へ御所替に付寛文八年申年金子四百二十四両松尾寺へ渡し給ふゆへ、越前の国より数多の材木を調、延宝四丙辰年建立する。
此堂又享保元申年三月三日に炎焼、本尊二王ともに此時は恙なし之に依り国々貴賎巡礼に奉加帳相渡し遠国より年々奉加寄金を集め助情によって、京都大工飯田河内棟梁して享保十五庚戌年中堂建立成就せり、此外開帳閉帳之時寺法の事これを略す。
『若狭高浜むかしばなし』に、
叟太夫
今から千年ほど前のことである。神野浦の漁夫叟太夫は沖合で突然の嵐にあった。しかし、幸いにも白馬に助けられ、無事神野浦(志ッ見)の浜にたどり着くとこができた。
その白馬は観音岩の上で、もとの大木の姿となり、叟太夫の前に横たわっていた。
「この大木は白馬の化身だ。わたしを救ってくれた観音様だ」
叟太夫はお礼をしないではいられなかった。そしてついに、その重い大木を背負い、お参りする場所を求めて歩きだした。
どのくらい歩いただろうか。やっと叟太夫はある丘の上で立ち止まった。
「ここは流れ尾だ。ここに観音様をおまつりするとしよう」
叟太夫がつぶやくと、どこからか声が聞こえてきた。
「なに、流れ尾だと? そんな流れるような場所は困る。もっと上の方がよい」
その声はなんと、里太夫が背負っている大木からだった。里太夫は心の中で思った。
「流れ尾はよいところなのに、もったいないなあ」
しかし、精一杯こう考えた。
「はい、かしこまりました」
それから、どんどん青葉山を登っていくと、きれいな清水の湧いているところへ出た。
「今度こそは、気に入ってもらえるにちがいない」
そう思いつつ、おそるおそる大木にたずねた。
「白馬さま、ここは“強生水”と言いますが、いかがでございましょう」
「強生水? それはいかん。もっと上の方がよい」
叟太夫はがっかりして、さらに山を登っていくのだった。
とうとう松尾までやって来た。そこには小さなほこらがあり、叟太夫がひと休みしていると、背負っている大木から声がした。
「叟太夫よ、ここがよい」
「さようでございますか」
叟太夫はほっとして、背から白馬の化身を降ろし、ほこらに安置した。叟太夫の額には快い汗が吹き出していた。こうしてやっと、観音様をおまつりする場所が決まったのである。
叟太夫は、この白馬の化身の大木で馬頭観音像を二体刻んだ。そして一体は松尾寺のほこらに、もう一体は神野浦へおまつりした。
松尾寺は、その馬頭観音が御本尊様だと伝えられている。また、叟太夫は、その後光心という名に改め、御本尊様に奉仕したと言われている。
観音岩
今から千年ほど昔のことである。神野浦の漁師であった叟太夫(春日為光)は、舟に乗って沖釣りを楽しんでいた。すると、さっきまで晴れわたっていた青い空がにわかにかき曇り、大嵐となってしまった。
叟太夫は必死になって乗り舟にしがみついたが、荒れ狂う波のすさまじいこと。とうとう乗り舟を波にさらわれてしまい、叟太夫は生死の境にあった。しかし、幸いにしてようやく嵐もおさまり、叟太夫は見知らぬ島に打ちあげられた。
「ここはいったい、どこなのだろう」
やっと意識を取り一戻した叟太夫は、あたりをきょろきょろと見まわした。すると、遠くの方から鬼のような者がこちらに近づいてくるではないか。
「こんなところにいては、殺されてしまう」
叟太夫は、あわてて砂浜を駆け出した。疲れきった足は、砂のなかで何度ももつれた。
「ああ、もうだめかもしれない」
その時である。波打ち際に大木が浮かんでいるのを見つけた。
「なんて大きな木なのだろう」
叟太夫が近づいていくと、不思議なことにその大木がこう言ったのである。
「叟太夫よ、わしの背に乗れ。神野浦の浜まで連れて帰ってやる」
大木が口をきいたのには驚かされたが、そのありがたい申し出に狂喜して、叟太夫はさっそく大木にまたがった。すると、大木が見る見る美しい白馬となり、海の上をすべるように駆け出した。
「神野浦の浜まで、何とか無事に帰れますように」
叟太夫が一心にお祈りしている間に、白馬は何千何百里をあっという間に駆けぬけて、神野浦の浜に到着した。そして、近くにあった大岩へと駆けのぼった。岩に馬の蹄のあとが二つ残されたのは、その時である。
「おかげで命が助かりました。何とお礼を言ったらいいのでしょう」
叟太夫がそう言って馬から降りるやいなや、白馬はまたもとの大木に戻ったのであった。
神野浦の海岸には、今も観音岩と称して馬の蹄のあとを残す巨石がある。
『舞鶴の民話4』に、
惣太夫(松尾)
西国二十九番の松尾寺は、青葉山の中腹にあり大がらんがあった。文武天皇の慶雲元年(一三○○年前)中国の威光上人が仏法を広めるため、対馬海流に乗って、苦労の末日本へ渡来した。各地の名山霊地を回っているうちに、丹後の国へたどり着き、空高くそびえている青葉山をながめていると、何か中国の馬耳山に似ているので、霊峰であると、供と共に草木をわけ頂上めざして登った。その中腹に平地があり、その中央に松の大木が生えていた。上人はその下に座を構え、供のものと法華経を読誦していること久しきに及んだ。すると不思議なことに天人が持ってきたように、金色まばゆい馬頭観世音像がいつのまにか、上人の手に渡されたのである。上人はここぞ仏法を修める最適の地と庵を結びこの尊像を安置した。これが松尾寺の縁起であり、境内にある千年の松の大樹は、山号青葉山も、寺号松尾寺もこの松の瑞相による。
又、若狭の神勝浦の古老の話によると、この地はむかし七戸の部落であった。この浦での舟の主は為光惣太夫といわれていた。村の若者と共に漁に出た。海はないでいるが、少しも魚がとれない。それで沖へ沖へとろをこぎ進んでいった。空をみあげると西の空がどんより曇り、生暖かい風が吹いてきた。柴紺だった海の色も黒緑にかわり、波が強くなってきた。それに雨がぽつんぽつんと降ってきた。突然に栓を抜いたように大雨がどっと降り、風が強くなり、船は木の葉のようにゆれ、まさに難破の危機にあった。風は益々きつく、雨が甲板をたたきつけた。船員たちは、船にはいる水を手や、船板でかいだしていた。しかしその効なく、船は上り、下り、船は傾きひっくり返ってしまった。乗組員は四散し、海に浮かんでいたが、いつのまにか一人又一人と海に沈んでいってしまった。惣太夫も一生懸命泳いだ。波はようしやなく彼をあっちこっちへと流した。突然一片の丸太が流れてきた。彼は必死にそれをつかみ、波に身をまかせた。波はやがて彼を無人の島に運んだ。岩にしがみつき全身の力をふりしぼってはい上がった。島に上がった彼は、足をひきずりながら、岩穴を見つけ、そこにはいった。ここだと雨風がしのげる。彼はそこに横たわった。疲れが一度に出たのであろう。夢の中にひきこまれた。「惣太夫、ここは鬼蛇の住む島なるぞ。ここにいるとそれのエジキになってしまうぞよ」はつと目がさめた。彼は立ちあがると、浜に向かって歩きはじめた。野には小さい蛇がじっと彼を見つめている。浜につくとそこにさきほどの丸太がころがっといる。どうにでもなれ、彼は丸太に乗り海に乗り出した。丸太は真白い馬と化し、波をけり、暫時のあいだに故郷の浜の岩についた。馬は岩にヒヅメのあとを残して、砂地に立った途端に、もとの丸太になり海の方へ波と共に浮いている。惣太夫は両手をあわせてお礼をいった。家にかえると、家の人はびっくりした。死人だと思っていた惣太夫が家の前に立っている。かけつけた親族は、荒海から帰ってきた彼、姿変わりばてた彼をみてよろこび、あやしんだ。しかし白馬の話をきき、お通夜はよろこびの大酒宴に変わった。惣太夫は「わたしを助けてくれた丸太にお礼をせねば気がすまい」と急ぎ、もとの浜べに引きかえした。丸太は浜辺に人まちげであった。惣太夫は「よっこらしよ」と背おって、高見の畑にやってきて、「見晴らしがよいでここにおまつりしよう」と、あとからついてきた親族たちと相談した。すると丸太が「ここは流れみちじゃ、流されて又海にいかんなん、心配じゃ、ここはいやじゃ」
山の坂道を丸太をかついで進み、鳥越のところにきた。ここがいいだろう、と下ろすと「見はらしのよい所じゃが、このすぐ近くにコワショウの清水がある。こんなコワイところはいやじゃ」
とおっしゃる。さらに坂道をくねりながら行く。丸太は気持ちよさそうにだかれている。松尾の里にきた。寺にもうて、丸太を下ろした。丸太は、
「ここじゃ、ここじゃ」
と大声でさけぶ。丸太はいつのまにやら、岩の上にあがり白馬となったという。
松尾寺の東側に同じ青葉山麓に中山寺がある。ここも本尊を馬頭観音としている。33年に一度だけ開帳される。右の画像がそれで、重文である。
目玉が三つありそうで馬頭も見える。
『高浜町誌』に、
真言宗御室派 青葉山中山寺
一 所 在 地 高浜町中山
一 開 創 泰澄大師
一 開 基 覚阿法印
一 檀家数 五五戸
一 本 尊 馬頭観世音菩薩
一 由緒沿革 当寺は天平八年(七三六)聖武天皇の勅願所として、泰澄大師の創建になる由緒ある寺である。享禄三年(一五三○)の、当寺縁起によれば「泰澄大師弥山(青葉山)の麓に精舎を建立、一乗寺と号す本尊は釈迦、阿弥陀、観音を安置それより以降中絶良久し」とあるように、創建より程もなく中絶したようだが、南北朝のころに至り、今の高野のあたりに、『一乗寺』となって再興された。当時は七堂伽藍二十五坊を構えて隆盛をきわめたという。その後延喜二十二年(九二二)に覚阿上人この寺に入るに及び、本来は天台宗であったが、改めて真言宗となった。更に長徳年間(九九五頃)に、『中山寺』を称することとなり、今日に至っている。
現本堂は、室町初期の建立で中世は茅葺きであったものを、現在の入母屋槍皮葺きの旧建当時に復して重要文化財に指定された(昭和三七・六・二一)
本尊馬頭観世音菩薩像は、これまた国指定の重要文化財(昭四三・三・三○)であり、山門である仁王門は、三間に一間半の八脚門で、由緒についてはわからないが、昭和六○年四月修復改建が行われた。その門にある金剛力士阿・吽両尊像は、鎌倉期の作といわれ、昭和五五年六月国指定重要文化財となった。
そのほか、堂内安置の阿弥陀如来像は行基菩薩の御作と伝え、曽ては境内阿弥陀堂の本尊であった(県指定文化財)。
なお更に町指定の文化財多数を蔵し、往時の殷盛時代を偲ばせている。
『大飯郡誌』は、
中山寺 眞言宗古義派仁和寺未 中山字サゴマに在り 寺地三百六十六坪 本堂七間四方 境内佛堂 阿弥陀堂・五仏堂 本尊馬頭観世昔菩薩。
〔明細帳〕 泰澄師開闢ノ地也則チ禰山ノ頂上ニ住居シ白山大権現ヲ勧請ス社頭并ニ泰澄居住跡今尚存セリ天平八年聖武天皇御勅願ニ依り山麓ニ伽藍九尺問七間四面ノ本堂建立シ釈迦三尊ヲ安置シテ本尊トス其外鎮守経藏鐘楼堂楼門等造営シ號ヲ一乗寺云々旦夕平城帝御勅願ニテ大同年中素澄師ノ徒定行者住居シ五重大塔ヲ建立ス然リト雖中絶良久キ處醍醐天皇延喜二十二壬午年覚阿和尚姓不詳来リテ大堂伽藍ヲ再興シ本尊ヲ改メ松尾寺観音御衣木ヲ以テ馬頭観音トス 一條院長徳年中覚阿師又禰山ニ居住ス寺號ヲ改メ中山寺ト称ス(〔年譜記〕以松尾順爲巡礼所故覚阿発大広怒退而結一宇草房名中山寺)
光明院康永二年源惟綱寺領免状ス 後光巌院延文四年先規ニ依テ但治光政ヲ以テ天下安全ノ御祈祷仰付ラル則チ免状寄附状存在セリ其後浅野弾正領地ノ時寺領召上ラレ伽藍悉ク破壊シ九尺間五間四面ノ本堂鎮守鐘楼禰陀堂仁王門ノ三存セリ天正年間石黒三郎右衛門ヲ以テ本堂修覆山林竹木諸役免許ス正保年中酒井忠勝今ノ本堂再建シ山林竹木諸役免許アリ云々(〔年譜記〕三年)
〔萬明二年原本明和八年所写 寺社什物帳〕 一真興言宗青柴山中山観音堂 御寄木松尾観音同木之由 勅願寺時代不知 右什物一釈迦絵筆不知 一幅 一不動絵 同 一幅 一大般若 印本 一部一十六善神 同一幅
一花唐金瓶一対
〔若狭郡県志〕 傳言平城天皇之勅願所而大同年中所創建也其後荒廃法印覚阿再興之改称一乗寺後復中山寺中安馬頭観音像正保二年酒井忠勝…修補…大門坊杉本坊知寺事又云三十三所観音二十四番十一面観音中山一乗寺准摂津国中山寺。
〔若狭國志〕 養老年中越智泰澄創建泰澄所持之鈷及康永二年源惟綱延文三年左衛門但治光政寄田地三書倶藏在寺庫…
(青葉山麓に一乗院跡と称し、田畑の字に奥の坊桜本坊東の坊の名を遺せり、或は一乗寺此に在り、現称に復せし時現称に移せし乎)
〔所藏文書〕 足利時代に関るもの多きこと本郡に冠たり就中発郡誌 沿革條等 に写載せしは如左。…
案内板に、
由緒
中山寺は、真言宗仁和寺の末寺で、山号を青葉山といい、天平八年(七三六)に泰澄大師が開創したもので.創建当時は、釈迦・阿弥陀・観音の三尊を安置していたと『当寺縁起』に記されておりますが、鎌倉時代に至り、覚阿法印が名を一乗寺と改めて馬頭観音坐像を本尊として再興したものであります。
本堂は、五間四面の和様建築の美しい建物で、昭和四十年に工費約四千五百万円をもって解体修理が行われ、平成十九年には屋根桧皮が葺き替えられました。
本尊馬頭観音坐像は、像高七九・三pの三両八臂の像で、永く秘仏として守り継がれてまいりました。山門に安置される金剛力士立像二躰も、本尊共に、鎌倉時代の有名な仏師湛慶が彫ったものといわれております。また、阿弥陀如来坐像は、像高八三・七pの一木割剥ぎ造りで、持佛堂に安置されています。
このように鎌倉時代に再建されました中山寺は、爾来約六百年間、人々の信仰によって、今まで大切に守られてきました。
もう一つ馬居寺というお寺がある。案外に有名なお寺で、ここも馬頭観音である。
「エルどらんど」というアマゾンのピラルクーが泳ぐ施設があるが、その南側山裾である。福井県下では最も古い創建と伝わるお寺で、重文の本尊は25年に一度開帳される。
『若狭のふれあい』(平16年6月・関西電力の地域交流誌)に、(画像も)
馬居寺の馬頭観音
わかさ探訪102
〃厚化粧〃の下に身を隠した仏様
馬居寺(真言宗)は、若狭で最も古く619年に聖徳太子が開いたとされる寺です。その縁起によると−
太子が摂政として、愛馬にまたがり諸国を巡る途中、和田の浜で休息をとられた。そのとき馬が姿を消し、突然、南の山からいななきが聞こえ、光明が輝いた。太子は、その光明輝く山を「観音の霊地である」として、本光山と称し、党塔を建立。のちに仏師が馬頭観世音菩薩坐像を刻み、安置した。馬頭観音が居られる寺ということから「馬居寺」と呼ばれるようになった、とのことです。
馬居寺は、JR小浜線の若狭和田駅から南に1qほど谷奥へ入ったところにあります。観音堂(1677年建立)と、本尊馬頭観世音菩薩坐像(国指定重要文化財)が納められている収蔵庫(2002年建立)、庫裏・写経所、石仏群などがひっそりとたたずむ山あいの寺です。往年には荘田20町歩(約114石)が与えられ、本堂のほか阿弥陀堂、経堂、仁王門などがあり、6坊(坊は僧侶の住居、今でいう庫裏)を擁する一大霊場でした。京都の東寺(教王護国寺)に残る文書からも、室町時代、この地に多くの僧侶を擁する大寺院があったことを知ることができます。
ところが、戦国期に馬居寺一帯は戦場となり、寺の由来を伝える文書や什物を焼失。そして太閤検地では荘田をことごとく召し上げられました。『若州管内社寺由緒記』には、このとき本堂と仁王門・仁王像は小浜の長源寺へ、阿弥陀堂と本尊は高浜の西福寺へ移されたとあります。その仁王像2体は、のちに京都・嵯峨の常寂光寺に移り、「仁王像は丈七尺、若狭小浜の長源寺より移せるものにて運慶の作と伝えらる」(常寂光寺のパンフ)とされ、現存しています。一方、西福寺は江戸後期(1817年)の高浜大火で諸堂とともに本尊阿弥陀仏を焼失。その像は快慶の作であったと伝えられています。
江戸期から明治中期までの約300年間、鳥居寺は住職のいない寺(他の寺の住職が兼務)となっていました。その馬居寺にただ一つ残されていた“重要文化財“が、この馬頭観世音菩薩です。馬頭観音では数少ない平安後期の作で、頭上に馬頭をいただく三面八臂(臂は肘のこと)の像。忿怒の表情は、人間の煩悩をかみ砕き、衆生を救済するとされています。昔から秘仏として観音堂に納められ、24年ごとの午年にだけ本開帳されてきました。
実はこの仏像、四半世紀前まで、今とはおよそ見掛けの異なる仏様でした。けばけばしい色の塗料が厚く塗られ、少々漫画的な風貌だったのです。その当時は高浜町の文化財に指定されており、右肩から下へ大きな亀裂が生じたことから、京都国宝修理所へ送り塗料をはがしたところ、中から真の姿が現れ出たとのこと。杉本隆演住職(77歳)は、「とても同じ仏様とは思えず、私自身驚きました。いつの時代になされた造作か不明ですが世を忍ぶ仮の姿″のまま、長年、秘仏として地元で守りつがれてきたのです」と話されています。ひょっとしたら、時の権力者から仏像を守るため、意図的に外側を塗り固め、本来の姿を内に隠したのかもしれません。非常に興味深いミステリーを秘めた仏様です。
『若狭高浜むかしばなし』に、
黄金千両
今からおよそ百四十年ほど前のことである。馬居寺村の地主上羽助左衛門は、馬居寺の近くを畑にして、和田村の黒田伝右衛門に小作をさせていた。
伝右衛門は、もう長年耕作していたが、畑のあるひとところだけが、いくら世話をしても実りが悪く、いつも不思議に思っていた。
そんなある日、伝右衛門は思い切って地主の助左衛門に提案した。
「このわたしがいくら耕しても、実りの悪いところがあります。一度畑地をあらためてみてはどうでしょう」
ところが助左衛門は、伝右衛門の言うことをすげなく拒んだ。
伝右衛門はどうしてもその謎を解きたかったので、ついに人目をしのんでひとり密かにその畑を掘りおこしてみた。すると平べったい石の下から、黒色の壷が出てきたのである。壷の中には一面朱が入っていて、その中から黄金の棒数本と、次のような歌の短冊が出てきた。
朝日かがやく入り日をうけて
黄金千両 有明の月
伝右衛門は、思いがけない掘り出し物に喜んだ。そして日暮れになるまで待ち、村人たちに知られないように馬居坂の海辺で壷を洗い朱を流して、黄金の棒と短冊と壷を持ち帰った。惜しいことに、この朱が千金の値打ちのあるものだったと言う。翌朝馬居坂の海辺には、一面朱の海が広がっていたのだった。
その後、誰が言うともなく、
「伝右衛門が、馬居寺の黄金千両を掘り出したそうな」
とのうわさが立った。さっそく陣屋より調べがあり、伝右衛門はから壷だけを持って出かけた。
「なかには一面朱がありましたが、それは全部海へ洗い流してしまいました」
と申し立て、役人もそれ以上たずねることができなかった。
それから伝右衛門は、京都の厨子屋へその壷と黄金の棒と短冊を持っていった。それらを高い値で売り払うことができたので、伝右衛門はにわかに長者となり、家を建て直し、田畑を買い集めた。そんなことから人々は、伝右衛門のことを“つぼ伝”と呼ぶようになった。
しかしその後、伝右衛門は仏罰を受けた。家中の者が病気にかかり、やがてこの家は絶えてしまったのである。
馬居寺のいわれ
むかし、推古天皇(五五四−六二八)の時代に聖徳太子が秦河勝を従えて、甲斐の黒駒にまたがって各地をおまわりになったときのことである。
聖徳太子は若狭国の高浜の海辺で、ひととき休まれた。しばらくくつろがれているうちに、黒駒の姿が見えなくなった。
「馬がどこかへいってしまった。どうしたことだろう」
みんなは不思議に思いながら、あちらこちらを眺めて、馬の姿を探した。ずっと見渡しても砂浜には見当たらない。すると、そのとき山の上の方で、馬のいななきが聞こえた。みんながそちらの方を向くと、いななきのするあたりはまぶしいばかりに光り輝いていた。
「あれは何だ」
「後光がさしているように見える」
そこで、聖徳太子がいわれた。
「あそこは観音さまの霊地である」
光り輝くところまでいかれて、そこに塔を建て本尊をまつられた。そして、そこに寺を建てるようお命じになった。その寺が本光山馬居寺である。
そうして、この寺のある一帯は、寺の名をとって馬居寺という、馬居寺は約千三百年前に建てられた。福井県最古の寺として知られる。ご本尊の馬頭観世音菩薩は平安時代の後期に作られたもので、現在、国の重要文化財に指定されている。
『高浜町誌』に、
古代寺院の伝承と仏教文化 若狭国の古代寺院は七世紀代に興道寺廃寺(美浜町興道寺)、太興寺廃寺(小浜市太興寺)が建立されているが、これらは中央に直結した豪族の氏寺として造営されたと考えられている。奈良時代(八世紀)には聖武天皇の発願によって諸国に国分寺が建立され、若狭も小浜市国分にその遺跡が残る(国史跡指定)。
当町においても古い伝承を持つ寺院がある。馬居寺は聖徳太子の創建と伝えられる古寺で本尊は平安末期の馬頭観音(重文)である。若狭と聖徳太子は深いかかわりを持つ。若狭を領したという膳臣加太夫古の女、菩狭岐美郎女が太子の妃となっているのである。また中山寺(本尊馬頭観音・重文)は泰澄大師の開山とあって『若州管内社寺由緒記』同じく平安末期の阿弥陀如来座像(県指定)を保存する。その他、青葉山周辺では、高野阿弥陀堂(高浜町高野)に一一世紀代の阿弥陀如来像、今寺観音堂(同町今寺)には如来立像・菩薩立像が残されている。
また、日引の正楽寺(同町日引)は永享三年(一四三一)三月付『普門山正楽寺縁起』に行基の創建と記されるなど、青葉山を中心にして、丹後松尾寺を含めて多くの古代寺院が所在したことを伺わせており、とくに正楽寺には次に示した配列で平安時代末期の古仏群が二三体も保存されている(次頁配列略図は芝田寿郎氏による)。
これらはいずれも二 世紀〜一二世紀に造像されており、この地域の人々がいかに深い信仰心を持っていたかを知ることができる。もっともこれらは末法思想によるものと思われるが、庄園の発達と信仰の普遍化など当時の社会情勢の影響も考えねばならない。仏像に托して願いをする風潮は一つの流行としておこなわれたことも推測されるが、このことは『更科日記』(著者は菅原孝標の女)に一三才のとき源氏物語を読みたいため等身大の仏像を父に造ってもらい願いをこめたとあることで伺われよう。
今一つは高浜中央部の南側に牧山・宝尾と称する山嶺があり、そこには、弘法大師が高野山へ赴く以前に真言寺院を創立したとの伝承を持つ。かっては壮大な伽らんがあったとし、高野山との勢力争いの結果焼打ちされ消滅したという。弘法大師云こは別としても山頂で平安期と思われる須恵器も出土していることから何らかの遺構が残存すると推察され、加えて、牧山に所在したとする仏像が牧山・宝尾の山裾集落に点在することも合せて考えねばならない。牧山がどの年代まで持続したか明らかでないが、北側山麓の坂田(高浜町坂田)金蔵寺には平安末期の地蔵菩薩立像があり、西側の畑(同町畑)に鎌倉未の毘沙門天、北東の笠原に阿弥陀如来がある。また、牧山の尾根続きの南に位置する宝尾山裾の川上(大飯町川上)では阿弥陀如来、懸仏があって牧山伝説を裏付ける資料が数多く残されている。牧山山上の寺院は一乗寺或いは福願寺とも称され、松尾寺金剛院(舞鶴市)とともに大きな勢力を持っていたというが定かで
ない。現中山寺は一乗寺の後身とするが、享禄三年(一五三○)一一月一五日付一乗寺本堂修覆勧進帳『飯盛寺文書』にはもともと中山寺であったものを再興して一乗寺に改めたと記す。
以上のように、当町の仏教文化は青葉山を中心にする地域と、牧山・宝尾を中心とする地域の二つに分播されるが、青葉山は青郷、牧山は木津郷の範囲に求められ、原始・古代を通してこの区分が存続したと推考されるのである。
高野山古義真言宗 本光山馬居寺
一所在地 高浜町馬居寺三−一
一開 創 推古天皇二十七年(六一九)
一開 基 聖徳太子
一本 尊 馬頭観世音菩薩
一檀家数 八戸
一由緒沿革 当寺はその昔(文安六年頃一四四九)馬居山西光寺と称し高野派正智院の末寺で白石山々麓にあったという。当寺縁起によれば、人皇三十四代推古天皇の御代(五九二〜六二八)聖徳太子の御開創といわれる。「あるとき太子は摂政の御役目を帯びて御愛馬甲斐の黒駒に召され、当地方御巡行の道すがら、馬を下り海辺に歩を進めて、しばし御休息をとられた。ちょうどそのとき彼方山上に御乗馬のいななくを聞かれた。それと刻を同じくして時ならぬ一大光明がそのあたりに輝くのを見たまい、この処こそわれ日頃求めていた霊地なりとして、太子御自ら馬頭観世音菩薩像をお刻みになり、堂を建て、ここにその像を安置し、御乗馬の居たところであることと、大光明の奇異があらわれた」というゆかりによって、馬居山西光寺と称し、勅願所と定められたという。往年はこの寺に荘田二十丁歩(およそ一一四石余)が付され、坊舎棟を並べ霊山霊場として栄えた。
それから時は移り世は変わり国中騒然として兵乱打ち続き、時には回禄あり、あるいは、荘田を召し上げられ、綸旨、院宣その他御教書等のたぐいも悉く灰燼に帰してしまった。後年わずかに残った境内、門前田畑も織豊時代に及び検地制度厳しく、時の検地奉行丹羽五郎左衛門長秀、当国所領となるに及んで悉く召し上げられた。その昔百石余といわれた今の馬居地籍はその当時境内地であったという。今はわずか三間四面のお堂にすぎないが、本尊馬頭観世音菩薩の信仰はきわめて篤い。
御仏体は永年にわたり度々の修理その他で原の御尊容著しく損われていたものを、国費その他の浄資により、京都国宝修理所の手により、本来の御姿に復され昭和五五年六月六日国指定重要文化財となった。
本尊馬頭観世音菩薩御開帳法要は二五年目毎に修されるならわしになっている。
参考として、延宝五丁巳暦霜月兼務龍蔵院の良詮法師誌るすところの縁起の一部を左に抄記する。
『今の草堂ハ延宝五丁巳暦方々勧化シ造立セリ西光寺ハ阿弥陀堂預リノ坊舎ナリシモ後在所へ下り村ノ寺トナレリ是レ天正以後ノ事ナリ故ニ馬居寺ノ別当タリ伝へ聞く当山往古供百十四石余有り伽藍寺院軒ヲ並フト雖モ世ノ変化ニ依リ寺領廃絶堂寺供泯滅纔カニ本尊ヲ草蘆中ニ安置シ奉ツルニ至レリ鳴呼天カ命カ人々之ヲ歎カザルナシ時ニ上野中務本願ヲ生ジ和田村上車持村下車持村当村寄会ヒ相談ヲ為シ三間四面ノ本堂ヲ造立セシモノ也』云々と
東寺文書 「真言宗古義派高野山正智院末馬居寺字上屋敷に在り、寺地百六十二坪、境外所有地五反廿九歩田畑、檀徒六十四人、本尊馬頭観音 堂宇三間三間 門一間五〇とあり。現今の堂宇は延宝五年霜月高森山の木材にて造営、大工高浜江上甚兵衛」とあり又「堂側の小池は、古の放生池にして、中央小島に弁財天を祀れり。」と、此の弁財天今尚存する。−町指定文化財
若州管内社寺由緒記
真言宗高浜龍蔵院末寺本光山馬居寺は聖徳太子為御建立天喜五丁酉年御造営五間四面の本堂本尊は馬頭観音三間四面の阿弥陀堂鎮守経堂鐘楼堂坊数六坊此寺領百拾四石有之也太閤御検地に被召上候本堂は小浜長源寺へ二王門二王共に参り阿弥陀堂本尊共高浜西福寺へ参り其外朽損申候(筆者註)この仁王像は京都嵯峨常寂光寺に移り重文に指定されている。観音は柴の小堂へ入置申候鎮守の社は昔の形少残り申候、古に不替は本尊と大□□(般若)計に御座侯
延宝三年 馬居寺住持無住 龍蔵院 良詮
『大飯郡誌』に、
馬居坂山。嘉永年中黒田某朱壷と棒金を発掘せしと傳ふ
『福井県の地名』
馬居寺(まごじ) (現)高浜町馬居寺
馬居寺南部の最奥にある。山号本光山、高野山眞言宗、本尊馬頭観音(坐像、重要文化財)。かつて当地にあった西光(さいこう)寺の後身と伝えるが詳細は不明。西光寺は、文安六年(一四四九)五月二日付の若狭国西光寺東寺修造料足奉加人数注進状(東寺百合文書)があり、京都東寺の支配下にあったことがわかる。
馬居寺の草創・来歴について延宝三年(一六七五)の「若州管内社寺由緒記」は「聖徳大子為二御建立一、天喜五丁酉年御造営五間四面の本堂本尊は馬頭観音・三間四面の阿弥陀堂・鎮守・経堂・鐘楼・堂坊数六坊・此寺領百拾四石有レ之処大閤御検地に被二召上一候、本堂は小浜長源寺へ二王門二王共に参り、阿弥陀堂本尊共高浜西福寺へ参り、其外朽損申候、観音は柴の小□餝麿(堂ヘカ)入置申候、鎮守の社は昔の形少残り申候、古に不レ替は本尊と大□□(般若カ)計に御座候」と記す。本尊馬頭観音は平安末期の作とされ、中山(なかやま)寺、松尾(まつのお)寺(現京都府舞鶴市)両寺の二体とともに一木で彫られたという伝承がある
『定本柳田国男集第二十七巻』(山島民譚集)
甲斐ノ黒駒 駿府ノ猿屋ガ秘傳ノ巻物、サテハ江州小野圧ノ馬醤佐藤家ノ由緒書ノ外ニモ、聖徳太子ヲ以テ馬ノ保護者トスル傳説ハ弘ク行ハレタリシガ如シ。古クハ天平神護元年ノ五月、播磨賀古郡ノ人馬養造人上ノ款状ニ、此者ハ吉備都彦ノ苗裔、上道臣息長借鎌ノ後ナルニ、其六世ノ孫牟射志ナル者、能ク馬ヲ養フヲ以テ上宮太子之ヲ馬司ニ任ジタマヒ、此ガ爲ニ庚午ノ戸籍ニハ誤リテ馬養造ニ編セラルト称セリ〔続日本紀〕。此君馬ヲ愛シタマフト云フコトハ久シキ世ヨリノ傳説ニシテ、難波ノ四天王寺ニ甲斐黒駒ノ影像ヲ安置シ〔台記久安二年九月十四日條〕、或ハ此馬ノ太子ノ御枢ニ殉ジタル物語ヲ傳ヘ〔元亨釈書〕、或ハ又秦川勝ガ黒駒ノ口ヲ取リテ太子ノ巡国ニ随ヒマツリシ由ヲ言ヘリ〔花鳥餘情〕。而シテ猿屋ノ徒モ亦自ラ秦氏ノ末ナリト称スルナリ。近世ニ及ビテモ大和ノ橘寺若狭ノ馬居寺、安房ノ檀特山小松寺等、太子卜黒駒トノ関係ヲ語り傳フル例甚ダ多シ。東国ニテハ武蔵甲斐ノ間ニハ太子講ト称スル月祭アリ。常陸北部ニテハ太子塚ト刻セシ石塔到ル處ノ路傍ニ在リ。此モ亦馬ノ斃レシ跡ナドニ造立スルコト、馬頭観音勢至菩薩ノ立石或ハ駒形権現ノ祠ナドト其趣ヲ一ニセリ。陸中岩谷堂町ノ太子ノ宮ノ如キモ、亦馬ノ祈願ノ爲ニ勧請セシモノナルベシ。或ハ鎮守府将軍秀衡ガ奈良ノ都ノ俤ヲ移セシトモ傳へラレ、其地ヲ片岡ト称シ岡ノ片岨ニハ太子ノ宮ト並ビテ又達磨尊者ノ社アリキ〔真澄遊覧記十〕。後世ノ俗説ニテハ達磨ニ御脚ガアルモノカナド云フニ、時トシテ馬ノ神ニ祀ラルゝハ珍シキ事ナリ。猿牽ノ仲間ニ在リテモ家芸ノ祖神トシテ達磨ヲ祀レリ。彼等ハ或ハ太子ノ調馬術モ亦片岡ノ飢人ヨリ学ビ得タマヒシ如ク説クナランモ、ソハ信ズベカラザル後世ノ附曾ニシテ、其根原ハ単ニ古代ノ駿馬傳説ガ聖徳太子ト云フ日本ノ理想的人物ト因縁ヲ有セシ結果ニ他ナラザルベシ。最モ古キ記述ニ依レバ、太子ノ愛馬ハ四脚雪ノ如ク白ク極メテ美シキ黒駒ナリキ。推古女帝ノ第六年ノ始ニ、諸国ヨリ献上セシ数百頭ノ中ニ於テ、太子ハ能ク此黒駒ノ駿足ナルコトヲ見現ハシタマフ。同ジ年ノ秋太子ハ黒駒ニ召シ、白雲ヲ躡ミテ富士山ノ頂ニ騰リ、ソレヨリ信濃三越路ヲ巡リテ三日ニシテ大和ニ帰ラセタマフ〔扶桑略記〕。甲斐ノ黒駒ハ此馬ノ名ニハ非ザリシモ、黒駒ハ夙クヨリ甲州ノ名産ニシテ、且ツ駿逸ノ誉高カリシモノナリ〔日本書紀雄略天皇十三年九月條〕。加之此毛色ノ馬ハ特ニ朝廷ニ於テ詳瑞トシテ迎ヘラルベキ仔細アリキ。例へバ聖武天皇ノ天平十年ニ信濃国ヨリ貢セシ神馬ノ如キハ、甲斐ノ黒駒ニヨク似テ更ニ髪ト尾白カリキ。其翌年ノ三月ニ対馬ノ島ヨリ献上セシハ、青身ニシテ尾髪白シト見ユ〔続日本紀〕。此等ハ何レモ聖人政ヲ爲シ資服制アルノ御世ニ非ザレバ、現ハレ来ラザル馬ニテ、始ヨリ凡人ノ乗用ニ供スベキ物ニハ非ザリシナリ。故ニ世治マリ天下平カニシテ之ヲ大内ノ庭ニ曳クコトヲ得レバ好シ。然ラザルモノハ諸国ニ留マリテ氷ク神遊幸ノ乗具ニ供セラレシナルベク、後世池月磨墨ノ二名馬ニ由リテ代表セラレシ二種ノ純色ハ、即チ馬ノ最モ神聖ナルモノト認メラレシ物ナルベシ。尤モ古史ニ見エタル神馬ト云フ漢語ハ、単ニ極端ニ結構ナル馬ト云フ意味ニ用ヰシモノカモ知レザレドモ、辺土ノ人々ニ至リテハ終ニ之ヲ以テ神ノ馬又ハ馬ノ神ト解シ、或ハ木曾ノ駒ケ獄ニ於テ馬蹄ヲ印セシカトオボシキ土砂ヲ取還リ、或ハ樹ノ枝ナドニ懸リタル馬ノ尾ノ如キ一物ヲ持チ来リテ、厩ノ守護用トスル迄ニハナリタルナリ。…
馬頭観音の本場は若狭
上中町の天徳寺の本尊も馬頭観音で、馬頭観音の本場は若狭である。
『口名田郷土誌』曰く、
若狭地方は全国の馬頭観音の三分一を保有し、松尾寺を入れて十二体あり、それ等が三面八臂の座像であり馬居寺を除けばその大半が鎌倉時代から江戸時代に造られている。
丹後にはそれほどはない。若狭に近い京都府舞鶴市北吸の大聖寺、倉谷の大泉寺(忠興の守護仏とか)、京田の小祠に祀られているもの。丹後の本場は京丹後市大宮町五十河内山の妙法廃寺だけ。松尾寺を入れても5体である。
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