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稲作の伝来⑥
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![]() ![]() 放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。 (主にネット上の資料) 縄文期の気候変動(海進と海退) ![]() 約5700年前の気候変動は、縄文時代早期の終わりから前期のはじめ頃にあたり、地球の平均気温が現在よりも高かった温暖化のピーク時期になる。この温暖化により、海面が上昇し日本列島に多くの海が入り込む「縄文海進」が起こり、豊かな森が育まれ、魚や貝類も豊富になり、人々は豊かな暮らしを営んでいた。 ![]() 白点は貝塚、それにより復元された汀線↑4.4メートル高かったとされる。 ピーク時の気候は現在より平均気温が1~2℃高かった。なお特にピーク時およびその数100年間の海進を強調し縄文海進と呼ぶ場合もある。 5700年前(縄文時代前期)の気候変動の特徴 温暖化のピークは 縄文時代、特に早期の終わりから前期の初め(9,000年〜6,000年頃)は、最も気温が高い時代であった。 気温上昇によって氷床が溶け、海面が上昇し、海水が内陸まで入り込み、現在の海岸線とは異なる地形を形成した。 豊かな自然環境: 温暖な気候と豊富な降水量により、森が豊かに育ち、食料源となる動植物が豊富になり、海には魚や貝が豊富に生息していた。 豊富な食料源を背景に、人々は豊かな暮らしを営むことができた。日本列島各地で大規模な集落が形成された。 一方、こうした高位海面論に対し、西ヨーロッパや北米大陸では現海水準よりも高い旧汀線は確認されず、日本列島等の「見かけの高位旧汀線」はすべて地盤変動の結果であり、現海水準が完新世の最高水準で、高位海面期はなかったとする低位海面論も有力な学説である。関東の地下は4枚のプレートが重なる場所なので、何があっても不思議ではない、またまた4メートルばかり沈むかも知れない。 鳥浜貝塚 縄文時代前期の6000年〜5500年前が最盛期であった。 三内丸山 ピークは、縄文前期末から中期前葉にかけて(約5,900~4,200年前)。 4200年前の気候変動-長江文明も崩壊 長江河口域の沖合から採取された海洋堆積物コアについて、アルケノンを用いて古水温を復元した結果、約4400~3800年前に複数回かつ急激な大規模寒冷化(3~4℃の水温低下)が発生していた証拠を初めて発見した。このような大規模な水温変化の証拠が見つかるのは、完新世(地質時代区分のうち約1万年前~現在の最も新しい時代)のなかでは異例である。 ![]() ![]() 約4200年前の気候変動は、「4.2Kイベント」とも呼ばれ、地球規模の急激な寒冷化と乾燥化が起こった気候現象。この変動は多くの古代文明(メソポタミア文明、アッカド帝国、長江文明など)の衰退を招き、日本では縄文時代の社会に大きな影響を与え、三内丸山遺跡が放棄された原因の一つと考えられている。 長江文明を担った民族長江文明の発掘調査はまだ始まったばかりであり、この文明を担った民族の起源に関する研究は今後の進展が期待されている。ここでは倭人との関係深そうな民族を見てみる。 ![]() ![]() 倭人は呉の太伯の子孫と自称した 中国では倭人を「呉の太伯の子孫」とする説があり、それが日本にも伝えられて林羅山などの儒学者に支持されたという。 『魏略』( …。自帯方至女(王)国万二千余里、其俗男子皆点而文、聞其旧語、自謂太伯之後、昔夏后小康之子、封於会稽、断髪文身、以避蛟竜之害、今倭人亦文身、以厭水害也。… 「帯方(郡)から女王国(耶馬台国)に至るには、一万二千余里。その風俗は、男子はみな入れ墨をしている。その過去の話を聞くと、自ら太伯の後と言う。昔、夏后の帝、小(少)康の子は会稽に封じられると、髪を切り、入れ墨をして蛟龍の害を避けた。今、倭人もまた入れ墨して水害をはらう。」 夏后の帝、小(少)康の子は会稽に封じられると、髪を切り、入れ墨をして蛟龍の害を避けたと伝わる。 夏后は夏の帝で、漢民族の文化地域から、異民族の地にやってきて、自らその地の文化に同化し、元の地には帰る意志がないことを表明したという意味であろうか。 春秋時代の呉(ご、紀元前585年頃 - 紀元前473年)は、中国の春秋時代に存在した君国の一つ。現在の蘇州周辺を支配した。元の国号は句呉(こうご)。工䱷とも表記される。国姓は姫(き)。 中国の周王朝の祖の古公亶父の長男の太伯(泰伯)が、太伯の次弟の虞仲(呉仲・仲雍)と千余家の人々と共に建てた国である。虞仲の子孫である寿夢が国名を「句呉」から「呉」に改めた。 紀元前12世紀から紀元前473年、七代の夫差まで続き、越王の勾践により滅ぼされた。太伯はその始祖王。 『魏志倭人伝』には、 夏后少康之子封於会稽 斷髪文身 以避蛟龍之害 今 倭水人好沉没捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽 後稍以為飾 諸国文身各異 或左或右 或大或小 尊卑有差 「夏后少康の子は会稽に封ぜられ、断髪文身し、以って蛟龍の害を避く。今、倭の水人は沈没して魚蛤を捕るを好み、文身は、また、以って大魚、水禽を厭(おさ)ふ。後、やうやく以って飾となす。諸国の文身はそれぞれに異なり、或いは左、或いは右、あるいは大、あるいは小たりて、尊卑の差あり。」 計其道里 當在会稽東治之東 「その道里を計るに、まさに会稽東治の東にあるべし。」 などとある。 「会稽」は、春秋時代の ![]() 長江流域は古くは異民族(漢民族から見て)の地であったが、まず下流域に黄河流域の漢民族が南下してきた。下流域の異民族は斷髪文身で、沈没して魚蛤を捕るを好んだのが特徴であった。 これは倭人と似ていて、倭人は長江下流域を原郷とするとの見方になっている。 また 『魏志倭人伝』 兵用矛盾木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃 所有無與儋耳朱崖同 「兵は、矛、盾、木弓を用いる。木弓は下を短かく、上を長くする。竹箭は或いは鉄鏃、或いは骨鏃なり。有無する所は儋耳珠崖と同じくする。」 長江文明は稲作+漁撈の文明。魚米之郷![]() ![]() ![]() 長江文明は稲作と漁撈を基盤にした文明であった。 太湖の周辺は、長江と浙江によって運ばれてくる肥沃な土によって、イネと魚介類の生産性がきわめて高く、「魚米之郷」と呼ばれた。 ![]() 中国江蘇省・太湖の周辺に広がる水郷地帯のナノハナ畑↑ 上海の西方、長江(揚子江)南岸の江南地方は「魚米之郷」とも称され、水路に囲まれた農地と湖沼から豊かな農産物と水産物の恵みを得ています。 その中心に位置する太湖、さらに長江中流の洞庭湖、そして日本の琵琶湖における水辺の暮らしを紹介する企画展示「魚米之郷」が、滋賀県立琵琶湖博物館で開催されています。(何年か前の企画展の案内) さらに水路と陸路の要に位置していた。 豊富な水と森の文明で、これは古代四大文明と異なる。 ![]() 長江の流域辺りから稲は伝来したと思われる。 日本への伝来ルート魚米文化が日本へ伝わったルートは3つが考えられている。![]() ![]() 魚米伝来ルートは、倭人が渡来してきたルートであり、たいていの日本人のルーツでもあったと見られる。稲作はムラからクニへ発展していく原動力となったと思われ、耶馬台国も見えてくるかも知れない。 また青森県垂柳に弥生水田遺跡があるように、北九州へ伝来した稲は寒さに強い、北回りルートの稲であったかも知れない。 ![]() ![]() ![]() ![]()
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![]() ![]() 資料編の索引
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