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2014年(平成26年)8月24日は、浮島丸事件から69年目。「浮島丸殉難者を追悼する会」は、爆沈現場に近い舞鶴市佐波賀 の「殉難の碑公園」で、300余名ばかり今年も集会を開いた。69年前のこの日の午後5時20分ごろに当地のすこし沖合を通りかかった「浮島丸」は、ナゾの爆発を起こして沈没し、多数(政府発表では549名)の乗客や乗組員が亡くなった。
例年だいたいこの日は晴れるが、今年は曇りで雨がまじり蒸し暑かった。以下は会の様子一部の紹介です。 小学生たちが加わった↑大浦校のよう、小さな学校だが当校の児童たちは忙しい、当地は舞鶴の原点のような地で、古代から現代まで、生まれ育った郷土にはぜひにも学ぶべき超重要な事蹟が目白押しに残されている。 3000羽の折鶴も送られた。送り主は長岡京市の何かだとか、聞き取れなかった。さらにピンぼけ写真で重ねて申し訳なし、このシーン10コマ以上写しているのだが、なぜかすべてピンぼけであった。小さな折鶴がびっしりと連ねられている、意図されたかは不明だが、事件の犠牲者は恐らくは、あるいはこれくらいにのぼっていたかもとよくいわれている数の折鶴である。昨年の3羽もそうだが政府発表などは信用してませんよ、のメッセージも含まれていたのかも知れない。浮島丸も舞鶴を超えてひろがりはじめた、と思わされるものであった。 のちほと確認したところ折り鶴には「平和な日本をめざして浮島丸で殉難した人たちの霊に誓います」「全日本年金者組合長岡京支部おりずる九条ごまくさの会」とあった。 ↓以下は集会の式の順番通りの紹介ではありません。1時間ばかりの集会のメダマ、小学生でもわかるもの(私の判断)の方を先に写してきたものを簡単に紹介します。
もう一つの原点、戦後史の出発点である。
浮島丸の犠牲者は国の発表ですら500人超、実際はその数倍もあったと思われるが、これほどの大事件を知らない、正確な知識のある市民はどれくらいになるだろう、周辺諸国から非難されているのは市民でもある。 現場からなにほども離れていない場所で生まれこのトシになったが、この事件を誰にも正確に伝えられたことはない。 都合の悪い過去とは向き合わない、誠に勝手な情けない者である、程度の差はあれ、たいていが皆その様子で、それが今の政治の右傾化を生み出している根かも知れない。 過去を忘れる者は未来も忘れる、歴史認識を非難されない一人前市民となるには、まだまだなすべきことが多く残されていそうである。 この現場へ立ち戻るより出発できない。こんな歴史はカナンわいや、の声もあろう、みな本心ではそうであろう、人間の歴史は何もよいものばかりであるはずがない、しかし学んでいくより、教えていくより、伝えていくより、われらの未来はない。 改めてそうした思いにさせられる会である。 当追悼集会のテーマ・ソングになっている「はまなすの花咲きそめて」の歌詞と楽譜の紹介。 当日の会場で録音したもの。マイクやスピーカーが一杯あるので時折ヒス音がはいる。京都朝鮮中高級学校の皆様のコーラス。 同じものがここから↓ダウンロードできます(自分で聞く範囲にして下さい) 「はまなすの花咲きそめて'14」(4.8M) 2014年集会次第 (主催者のパンフ「浮島丸殉難69周年追悼集会次第」。当HPの引用はすべて同パンフによります) 浮島丸殉難69周年追悼集会 次第1 開会 2 黙祷 3 追悼の辞 1)主催者 2)開係諸団体 (在日本大韓民国民団京都府舞鶴支部) (在日本朝鮮人総聯合会京都府三丹支部常任委員会) 4 来賓及びメッセージ紹介 5 献花 京都府知事 舞鶴市長 関係諸団体 6 献茶 韓国茶道協会京都支部 7 慰霊の舞 金一志韓国伝統舞芸術院 8 追悼歌 「はまなすの花さきそめて」京都朝鮮中高級学校 9 献花・献茶 参加者一同 10 閉会
浮島丸殉難者を追悼する会 会長 余江勝彦氏の追悼の辞 〈 追悼の辞 本日ここに「浮島丸殉難69周年追悼集会」を開催にあたり、549名(政府発表)の犠牲者の皆様方に謹んで哀悼の誠を捧げます。 1945年8月24日舞鶴湾に入ってきた浮島丸が午後5時20分頃下佐波賀沖で、突然発生したものすごい爆発音とともに真っ二つに折れ沈んでいきました。急を知った佐波賀や近隣住民の人々は、自らの命も顧みず、懸命の救助活動にもかかわらず女性や乳幼児を含む乗客524名が、乗組員の日本兵25名と共に尊い生命が失われました。 この大惨事には長い歴史的背景がありました。 1910年(明治43年)統治権を朝鮮から奪い、朝鮮に総督府を置き軍隊を常駐させ、36年に及ぶ植民地政策を行ってきました。その結果、土地も仕事も失った人達が激増し、その多くは日本へ家族ぐるみで移住を余儀なくされました。 一方、第二次大戦が勃発した1939年(昭和14年)からは年老いた母を残した若者や一家の働き手である父親が次々と日本へ強制的に連れてこられ、戦争遂行の為の労働力として過酷な労働を強いられました。このような背景を追っていただけに、過酷な異国での厳しい労働に耐えることが出来たのは、家族との安らかな生活と祖国の独立の実現でありました。 1945年8月15日の日本の敗戦は、家族との再会や祖国の独立への参加を現実のものとしました。しかし、浮島丸事件はこうした希望や喜びを一瞬にして消し去ってしまいました。 私達が浮島丸事件を取り組む時、一つには浮島丸事件の背景を日本の歴史の中で考えること、もう一つはこの事件で犠牲になられた人たちの立場にたって考えることです。絶たれた希望や憩いを共有することであり、それを語り継ぎ、忘れず次世代に伝える責任を「日本人として」果たさなければなりません。 8月19日、大湊海軍警備府が出した「本国送還」の指示で、青森県下北半島方面ではたらかされていた朝鮮人労働者とその家族3735人(政府発表)が乗った旧日本海軍輸送艦「浮島丸(4730トン)」は、8月22日午後10時に大湊を出港し航行を続けました。連合軍の要求にもとづいて発せられた日本政府の命令で、浮島丸が針路を舞鶴に向け、湾内に入った直後にこの大惨事が起きたのです。 夢にまで見た故郷や肉親との再会を翌日にひかえて、船内が沸きかえっていた最中に、予想もしなかった大惨事に遭遇し、尊い生命を失われた犠牲者の皆様の悲しみと無念さは言葉では表しがたいことであります。 私達舞鶴市民は広範な市民の浄財と京都府及び舞鶴市のご援助を頂いて、1978年8月24日事件発生現場が一望できるこの地に「殉難の碑」を建立し、以後毎年追悼集会を開催し続けて、37年目を迎えます。 しかし、今日本では「人の生命や心より、お金が大事」という風潮が広がっております。しかも、戦争の事実を知っている人が少なくなっている中で、歴史の事実を認めず、再び誤った道を歩もうとするような動きが大変危倶されます。 私は、日本人として、過去の加害に対して心より謝罪の意を表するとともに日本の若い世代に正しい歴史を伝える事を責務として追悼事業を続ける決意です。 私達は「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起きることのないようにすることを決意する」と明記されている日本国憲法の立場にたって、追悼集会を続けてきました。 東京中目黒の「祐天寺」には、いまだに故郷へ帰れない「遺骨280体」が残っています。浮島丸事件はまだ終わっていないと考えます。 「浮島丸事件」を忘れず、事件から教訓を学びとり、平和の確立に向けてこれからも「日本人の責任」として、追悼集会を続けて行くことが犠牲者の皆様との約束であると考えます。 犠牲者の皆様のご冥福を心からお祈りして、追悼の辞と致します。 2014年8月24日 浮島丸殉難者を追悼する会 会長 余江 勝彦 〉 在日本大韓民国民団京都府舞鶴支部 支団長 金英王氏の追悼の辞 〈 追悼の辞 本日ここに浮島丸殉難69周年を迎え 韓国民団を代表しまして尊い命を落とされました犠牲者の皆様に謹んで哀悼の意を表します. 日本に強制的に 又は騙されて或いは土地を奪われ仕方無く日本に来て劣悪な環境のもと強制労働させられた同胞が解放直後の1945年8月24日 再び祖国に帰れるというはやる気持ちと喜びを胸に祖国に向かっている矢先の爆発でした.同胞たちの無念さを思うと本当に胸が痛みやるせない気持ちで一杯です. 日本政府の発表では同胞の乗客3735人 犠牲者524人となっていますが関係者の話によると乗客数6、000人から8、000人 犠牲音数3、000人以上といわれており まだ多くの同胞犠牲者が海の底に放置されています.日本政府はいまだに爆発の真相究明もせず乗船名簿もだしていません.日本政府の対応は不誠実極まりません.我々は日本政府に対して速やかな真相究明と同胞犠牲者への賠償を求めます. そして今 日本の安倍政権は集団的自衛権行使容認の閣議決定をしました.自国が攻撃を受けなくても密接な関係にある国が第三国の攻撃を受けた場合に反撃できる権利であります.安倍政権は何をめざしているのでしょうか.我々にとっては悪夢の日帝時代に少しずつ気づかれない様にそっと近づいて行く様に思われてなりません. 河野談話を継承するのになぜわざわざ検証するのでしょうか.我々にしわじわ圧力をかけています。 韓日の対立ではなく早期に両国の関係が改善され東アジアの平和に向けて前進することを望みます. 最後に当時救命活動に当たられた佐波賀の近隣住民の皆様と 浮島丸殉難者を追悼する会の長年のご苦労に対して感謝と敬意を表し私の追悼の辞と致します. 2014年8月24日 在日本大韓民国民団京都府舞鶴支部 支団長 金英王 通訳 在日韓国婦人会京都府舞鶴支部 会長 朴昭子 〉 在日本朝鮮人総聯合会京都府三丹支部常任委員会 委員長 李 宗一氏の追悼の辞 〈 浮島丸殉難69周年 追悼の辞 私は、「浮島丸爆沈事件」が発生し、70年目という大きな節目を一年後に控えた今日、549名の犠牲者に心からの哀悼の意を捧げるため、今年も、此処、舞鶴港、佐波賀にやってきました。 植民地≪亡国の民≫の苦しみと悲しみ、そして残酷な民族差別と虐待に耐え、漸く解放を迎えて、明るい希望を胸に、懐かしい祖国に向った3735名の同胞を乗せた浮島丸が、何故、この舞鶴港で突然大爆発し、何故、549名の尊い命が犠牲にならねばならなかったのか、70年経った今日に至っても、その真実は明かされていません。また、この「浮島丸」事件の真相究明も、公的謝罪も、そして当然な補償も行われたということを一度も耳にしたことがありません。 儚く犠牲になった同胞たちの悔しさを晴らすためにも、真相解明は一時たりとも遅らせられないし、わが民族は、これ以上、別れて暮らすことが出来ません。 我々は、あらゆる問題に対し、今後も、≪わが民族同士≫の精神に基づいて、北と南が心をひとつにして、一日も早い祖国統一を実現し、この事件の真相を究明する声を上げていかなければなりません。 また、《朝・日ピョンヤン宣言》の精神を12年ぶりに再確認した〈朝・日政府間協議〉の合意事項履行に両国が誠実に臨み、日本政府が国交正常化のための不幸な過去を清算する過程を通じて、浮島丸爆沈事件の真相究明と公式謝罪、如いては、高等学校無償化適用問題を始めとする民族教育と朝鮮学校に対する差別政策の是正、ヘイトスピーチなどの人種差別行為の克服に繋がることに、努力を傾けてほしいと願うものです。 開放された祖国の繁栄と、懐かしい故郷での楽しい暮らしを夢見て、浮島丸に乗船し、無残にも犠牲になられた先輩たち。 私たちは、諸先輩たちが抱いた夢と希望を、必ずや、実視させて行くことを此処に、固く誓うものであります。 最後に、事件当日の負傷者救援をはじめ今日までの真相究明、啓蒙、そして追悼行事などご苦労なさっている、余江勝彦会長を始めとする≪浮島丸殉難者を追悼する会≫の皆様と地元住民の皆様に、心からの謝意を表し、私の追悼の辞といたします。 2014年8月24日 在日本朝鮮人総聯合会 京都府三丹支部を代表して 季 宗一 通訳 在日本朝鮮人総聯合会 京都府本部 呉 淑姫 〉 メッセージなど 〈 追悼メッセージ 69年前の8月24日、日本の朝鮮植民地統治から解放され喜びに沸きながら故郷へと向かう同胞たちを乗せた日本海軍輸送船「浮島丸」が爆沈され、数千人の無辜なる同胞たちが犠牲となりました。 私は、尊い命を落とされた同胞犠牲者とその遺族に対し、謹んで哀悼の意を表します。 この凄惨な事件が発生して69年が経つ今日も、日本政府はこの事件の真相を明らかにしていないばかりか、その責任を一貫して回避し続けています。 私は、浮島丸爆沈事件69周年に際し、この浮島丸爆沈事件の真相を日本政府が速やかに明らかにし、誠意ある態度で犠牲者と遺族たちに対する謝罪と補償を行うことを強く訴えます。 今日、民族差別と排外主義の社会的風潮の蔓延のみならず、朝鮮をはじめとするアジアの人々に対する日本の加害責任を歪曲、隠蔽しようとする不穏な動きが助長されています。 特に昨今、朝鮮人強制連行や日本軍性奴隷制問題など、日本軍国主義の加害事実を正当化しようとする傾向が高まっていることと、露骨な民族排他意識にもとづくヘイトスピーチが蔓延していることは、歪んだ歴史認識を是正していくことが如何に大切なことなのかを物語っています。 このような社会的風潮によって最も大きな被害を受けているのは、まざれもなく過去の朝鮮植民地支配の犠牲者とその子孫であり、とくに民族教育を受けている在日朝鮮人の子どもたちです。 在日朝鮮人の子どもたちは、心無い輩たちに学校が襲撃され、また、高校無償化制度から不当にも除外されるなどの深刻な被害を被っています。 私は、日本政府が朝日ピョンヤン宣言に基づいて一日も早く不幸な過去を清算し、戦後一貫して行われてきた在日朝鮮人に対する不当な差別政策をただちに是正することを強く求めます。 対話を通じてのみ真の友好関係が築かれるということは歴史の教訓です。 浮島丸爆沈事件69周年に際し、朝日間の不幸な歴史を克服するため、そして心通い合う善隣友好関係をつくるため、皆さんとともに邁進してまいります。 浮島丸殉難69周年追悼集会にご参席された皆様のご健勝を心からお祈り申し上げます。 2014年8月24日 朝鮮人強制連行真相調査団 朝鮮人側代表 在日本朝鮮人総聯合会中央本部 副議長 朴久好(パク・クホ) 〉 〈 本日、浮島丸殉難69周年追悼集会が挙行されるにあたり、謹んで追悼の言葉を申し上げます。 69年前のこの日、ここ舞鶴で海軍輸送艦浮島丸が沈没し、多くの犠牲者を出す大惨事となりました。この惨事を知る方々も高齢化している今にこそ、戦争の悲惨さと平和の尊さを次世代に語り継いでいかなければなりません。 ここにあらためて平和への決意を新たにするとともに、お亡くなりなりました方々のご冥福を心からお祈りいたします。 なお、厚生労働省でお預かりしているご遺骨は、東京都の祐天寺に丁寧に安置されていますが現在、外務省等と連係して韓国政府と早期の返還に向けて取り組んでいます。 ご遺族の方々ならびに関係各位のご健勝を心より祈念申し上げます。 厚生労働大臣 田村憲久 〉 〈 「浮島丸殉難69周年追悼集会」開催メッセージ 舞鶴市「浮島丸殉難者を追悼する会」の皆さん、「誤った歴史を二度と繰り返さない」ために懸命で地道な諸取り組みをされておりますことに敬意を表します。 既に戦後60年という歳月が流れ去りましたが、未だに日本政府による戦争の後始末が十分になされない中、過去の「歴史」に目を瞑るかのように特定秘密法の制定、集団的自衛権の憲法解釈の変更、等等。この1年に多くの異変が出現しました。それはそのまま国内はもちろん、隣国の緊張を高め「歴史認識」、「友好」、「平和」の本来の方向と相反する結果をまねいています。 本日、内外ともに難しい情勢の中ですが、「浮島丸殉難69周年追悼集会」が整然と開催されます。それは、貴会がこれまで積み重ねきました貴重なご努力の成果にほかありません。改めて敬意を表するとともに連帯のメッセージを送ります。 貴会の「浮島丸事件」にかかわる歴史の事実を忘れないこと、次世代に伝える責任を果たすことは、私たち「浮島丸下北の会」にも受け継がれています。貴会からのメッセージは私たちを励まし、浮島丸が出港した当時の桟橋の写真が出現するなど新しい試みもありました。 また、第2部として学習会を催しました。「戦争と平和を考える」として、「浮島丸事件と日韓友好」のテーマでお話しいただき、意見交流をしました。今後とも、継続していきます。 来年は、浮島丸出港70年というけじめの年です。共にがんばりましょう。 「浮島丸殉難69周年追悼集会」のご盛会を心からお祈ります。 2014年8月24日 浮島丸下北の会 会長 村上 準一 〉 〈 メッセージ 2014年度浮島丸殉難69周年追悼集会 御中 2014年度浮島丸殉難69周年追悼集会にあたり、犠牲に なられた方々への心からの哀悼の意と、平和への誓いをこめてご挨拶を申しあげます。 二度と戦争のない平和な世界と日本を作ることが政治の責任と、強く自覚をしているところです。安倍政権の集団的自衛権の行使容認は断じて認められません。 私たちは、「戦争する国づくり」を許さず、今こそ日本の平和憲法を守り、韓国・朝鮮の皆さまと手を携えて、恒久平和の実現のため、全力でがんばる決意です。 最後に、ご遺族ならびにご参加の昏さまのご健勝とご多幸を祈念しご挨拶とします。 2014年8月24日 日本共産党 衆議院議員 こくた 恵二 参議院議員 井上 さとし 参議院議員 倉林 明子 〉 参考資料 会の略史が同じパンフに書かれている。 〈 浮島丸事件と追悼事業の経過(資料) 1.昭和20年8月24日午後5時20分頃、京都府舞鶴港に入港してきた海軍特設輸送船「浮島丸」(4730トン)は、突如大爆発を起こし船体は二つに折れて沈没、地元の人々や海軍艦艇の救助活動にもかかわらず、乗組員25人、乗客524人計549人(政府発表)が死亡する大惨事となりました。 2.浮島丸に乗っていた人々は、青森県地方で働いていた朝鮮人労働者とその家族3735人(政府資料)で、戦争の終結に伴う帰国の知らせで配給された浮島丸に乗船、8月22日午後10時青森県大湊港を出港、朝鮮釜山をめざして航行中8月24日進路を変更して舞鶴港に寄港し、この災禍にあったものです。 3.浮島丸の船体は長く海中にありましたが、昭和25年に後半分が、昭和29年に前半分が引き揚げられ、船内の遺骨も収集されました。これを機に京都の著名人の呼びかけによる慰霊祭が舞鶴東公会堂で行われ、以後は市民の手で慰霊祭が行われてきました。 4.昭和50年代に入り、関係者の死亡等により事件の風化が心配されるようになり事件を語り継ぐモニュメントを製作する動きが起こり、舞鶴市長(当時)を会長に「浮島丸殉難者追悼の碑建立実行委員会」がつくられ、市民の募金と、京都府・舞鶴市の補助金を得て、事件現場を目前にした場に「殉難の碑」及び公園がつくられ、(昭和53年)、以後この場所で追悼集会を行い今日に至りました。 5.「浮島丸殉難者追悼の碑建立実行委員会」は建立事業が完了したことから、「浮島丸殉難者追悼実行委員会」に改組されました。平成7年浮島丸事件を題材にした映画「エイジアンブルー・浮島丸サコン」が製作され、舞鶴市内でもロケーションが行われこともあって、事件に対する市民の関心の高まりが見られことから、個人参加の組織に改めることにし、平成8年5月10日「浮島丸殉難者を追悼する会」を発足させ、以後追悼事業を行うことになったものです。 6.浮島丸事件死没者名簿を入手したことから、事件と追悼事業の経過を併せ「浮島丸事件の記録」(A6版188ページ)を1989年に発刊しました。 「殉難の碑」及び「公園」の設置から20周年にあたる1998年に記念事業として浮島丸事件と追悼事業に取り組んでいる青森・東京・舞鶴の関係者による「シンポジュウム」と追悼事業をまとめた演劇「1998年夏・絆〜海を見つめる群像の物語〜」を発表しました。 7.浮島丸事件を題材にした映画「エイジアンブルー・浮島丸サコン」ハングル版がつくられ、2001年より韓国で上映されたことから、韓国で事件と舞鶴に対する関心が高まり、2002年・2003年には韓国光州市民との交流・相互訪問が行われ、韓国芸能の舞鶴市民へ公開公演が行われました。また、2005年には中国・北京大学での映画上映が行われました。 こうした国際交流の成果を受けて2005年、浮島丸殉難60周年企画として「国際シンポジュウム」を韓国・延世大学、中国北京大学の研究者、及び日本の関係者の協力を得て行いました。また、これまでの追悼事業の取組が評価され、駐大阪大韓民国総領事官名による感謝状が贈られました。 8.2010年8月24日「韓国併合」100周年・浮島丸殉難66周年追悼集会を実施。厚生労働大臣からのメッセージを始め駐大阪大韓民国総領事、京都府知事・舞鶴市長の献花と追悼の言葉をいただきました。参加者一同、犠牲となられた海に献花し悲惨な歴史を繰り返さないことを誓いました。 9.2011年7月23日 紙芝居「浮島丸事件」完成 上演活動開始。8月25日から30日 紙芝居「浮島丸事件」完成報告下北ツアー実施「浮島丸下北の会」と交流 11月14日 韓国海軍舞鶴寄港時 司令官・艦長・東京韓国大使館員(通訳)下佐波賀「追悼の碑公園」訪問・慰霊・献花 映画「エイジアンブルー・浮島丸サコン」製作監督死去「東京 偲ぶ会」参加 10.2012年2月7日 韓国「バンサリム」の一行下佐波賀「追悼の碑」公園訪問 慰霊・献花 6月 碑公園「ハマナスの木」植樹 追悼歌「ハマナスの花さきそめて」歌詞パネル設置 11月韓国「東学農民軍の歴史を訪ねる旅Jツアーに参加 光州市民との交流会で「浮島丸事件」にづいて講演 11.2013年8月8日「東アジア青少年歴史体験キャンプ」日・中・韓(中・高・大学生参加) 「追悼の碑公園」浮島丸殉難者追悼集会実施 〉 尹博士の来日 今年は尹明淑さん↑からメールを事前にもらい、事件の資料を探している、当日は会場へ行くから何とか願えないか、と。 何かフツーのオバちゃんみたいだけれども、肩書きはスゴイ、社会学博士、忠南大学の主席研究員。専門は日韓関係史の近現代史、特に専門は慰安婦問題だそう。安倍さんとかなら泣きそうな超高度な脳味噌の持主である。長く日本留学していたのでと、日本語も流暢である。 医学博士だとか、そうした超高度研究者から私もメールをもらうこともあるが、安倍さんでなくとも、当方の貧しき知性では満足な対応は荷が重すぎてもう泣けそうであった。 余江会長も当日はいそがしく、テントの後片付けなどにも汗する人なので、相手してくれそうにもない、資料といってもロクなものはないし、日本政府がまったく調査してないのだから、当地の証言くらいしかない、現場周辺でも案内しましょう、ホントにナンもないんですよ、案内地図にすら載ってないでしょう、70年も昔のことで、体験者などはもうまず生きてはおられない、事件はそもそも最初から忘れられていた、70年を経て今ではますます忘れられてます。なにしろ自国の戦争被害すら忘れて集団的自衛権だとかいうようなことでしょう、他国の被害なんか覚えているワケがない、完璧に忘れてます、自国の暗黒の恥ずべき歴史を何とか美化したいようで過去の検証を検証するなどと恥の上塗りをする足りずぶりなことですから。 などとボヤキながら案内をしたようなことであったが、超高級脳味噌の影響をそれとはなく受けるのか当方のボケた脳味噌も何か活性化してくるような気がしたようなことでもあった。 湾口から爆発現場、沈没着底海域、ここへ遺体を埋めたと伝わる場所、第二海兵団、引揚記念館、赤れんが倉庫群、市政記念館、余江会長宅…帰りの電車の関係でこれくらいが限界。 これは↓市政記念館に展示されていた文鎮、字が読めるように写しておいてくれ、とのことであったのであった。 何度も私は一人で巡った所であるが再度二人回ってみて、やはり一番気になるのは、遺体をどうしたのかという点であろうか。このあたりに埋めたといわれていますと案内はしたのだが、中目黒の祐天寺の遺骨は280体とか285体とか言われる、そんなに少ないのはおかしいでしょ、事件の犠牲者数は政府の発表ですら524名、遺骨が足りない、239体は足りない。たぶん多くがここにまだ埋まったままなのではないでしょうか。 祐天寺の遺骨は浮島丸をサルベージで引き揚げたときに船内から出てきたものではないでしょうか。問題にするのは、事件後に岸辺に流れ着いた数多くの乗客遺体の遺骨ですが、その一部は荼毘にふしたようですがその後はどうしたのでしょう、何体分かはすでに引き取られたとかの話も聞かないし、遺骨はええかげんな対応にシビレをきたし海を泳いで母国へ帰ったのであろうか。これまではまったく不問になっていて、重要なところを見落としたままになっているのだが、今後は大きな問題になることだろう。そうした話もしたようなことであった。 (海岸に流れ着いた多数の遺体の遺骨に関して、その後どうしたかの報道も一部されてはいるが、ホントかどうか疑わざるを得ない内容である、身元が確認された遺骨については韓国に引き取られたなどとされるが、遺骨の身元など確認などできるはずがない、朝鮮人乗客か日本人クルーかの見分けすら出来まい、また何体分が、厚生省のいう人数柱ではなく本当の人数だが、引き取られたかは明らかでない、実際はどうなっているのか不明としか言いようがない、どれだけ遺骨があるのかが分かれば、何体分かは正確にはわからないかも知れないが、われらは殉難者の数の実態に肉迫できるかも知れない、すべての遺骨片(厚生省は「ご遺骨」と言っている) 厚生省の言葉からなら骨なのだろう、焼いてはいないのであろうから、それをDNA鑑定すれば何体分かを明らかにできるかも知れない。自国兵士の遺骨さえいまだにほったらかしにしている国である、植民地支配していた他国民、差別し抑圧してきた被害者は特別に大事に考えた、などとは誠に思いにくいハナシである。何体分あるのか不明、何柱分などと数えることは不可能な状態の遺骨や骨灰の山を厚生省の主張する死亡者人数分に帳簿上で分けているというだけもののようと見るのが正解かも知れない。 埋めたといわれる場所がいつくか伝えられているがそこをすべて掘り起こして確認する必要がありそうだし、遺骨があれば謝罪と賠償をして返還しなければなるまい。当時のものは何も残されていないのではない、実は超重要な遺骨が当地には誰にも忘れられて密かにそのまま残されていそうに考えるのである。) (参考)−遺骨はどこに何体分(厚生省が自分に都合のよいよう勝手に分けたカッコつきの人数分で、その数が本当に正しいかはおおいに疑問)があるのか? 『浮島丸の記録』(浮島丸殉難者追悼実行委員会) 〈 ●未だ帰れない遺骨 … 仮埋葬地から発掘されたり、引き揚げられた船体や海底から収集された遺体は荼毘に付され、舞鶴地方復員残務処理部に安置されていたが、のち呉地方復員残務処理部から横須賀へと移送されていった。これらの遺骨の所在については、本国へ移送されて遺族の手に渡ったとされていたが、厚生省引揚援護局に安置されているとの噂もあったので調査したところ、遺骨の一部について本国に帰ることなく、未だに東京のお寺に祀られていることがわかった。当時の新聞は次のように報じている。 二八五柱 東京の寺に眠っていた 舞鶴湾で沈んだ浮島丸犠牲者の遺骨 日朝協会などの調査で判明 (昭和五十年八月二十四日・毎日新聞−京都版) 終戦直後の昭和二十年八月二十四日、舞鶴湾の佐波賀沖で爆沈した浮島丸=四七三〇トン=に乗船していて遭難、死亡した五百四十二人の朝鮮人労働者、家族のうちまだ祖国に帰れない遺骨二百八十五柱が東京都目黒区中目黒の祐天寺に安置されていることが日朝協会舞鶴支部(和田藤吉支部長)や浮島丸殉難者慰霊碑建立実行委員会(佐谷靖会長)関係者の調査でわかった。二十四日午後一時から舞鶴東労働セツルメントで開く殉難三十周年追悼式で報告されるが、日朝協会舞鶴支部は今後、この遺骨が一日も早く“ふるさと”へ帰れるよう運動を進める。 浮島丸には東北、北海道方面の炭鉱やドックなどで働かされていた朝鮮の人や家族三千五百二十五人が終戦で祖国へ引揚げるため乗船、二十年八月二十一日、青森県大湊港を出航、釜山へ向かった。しかし途中でGHQの指令で舞鶴港へ寄港、二十四日午後五時過ぎ佐波賀沖で大爆発を起こし、沈没五百四十二人が死亡した。爆発の原因は触雷といわれている。 野田幹夫同支部事務局長の話では死亡者の遺骨は昭和三十年一月まで舞鶴にあったが、その後、呉へ移送されてからどこに安置されているのかわからなかった。しかし、今年は殉難三十周年に当たるので、当時の舞鶴地方引揚援護局にいた人の話を聞いたりして、関係者が手分けして調べた結果、厚生省の手で祐天寺に安置されていることがわかったという。 厚生省業務第二課の話では昭和三十年に呉地方援護部が海軍関係の朝鮮出身者の人事処理を一括して扱うことになったので、遺骨は巡視船“つがる”で舞鶴から呉へ移送、その後、呉地方援護部が廃止になったので、三十三年五月十六日に巡視船“こじま”で厚生省へ移し、霊安室に安置。さらに四十六年六月に朝鮮出身者の軍人、軍属の遺骨と一緒に祐天寺に移したという。 厚生省で遺骨の名簿を整理、韓国には名簿を渡して、四十六年十一月と四十九年十二月の二回、身元のはっきりした人の遺骨は“ふるさと”へ無言の帰国をしたが、同支部の調査では、まだ浮島丸の殉難者のうち二百八十五柱が同寺に残されている。 「早く故郷への運動すすめる」 野田事務局長 野田事務局長は「身元のわからない人は北朝鮮が出身地の人や日本名の人が多い。朝鮮民主主義人民共和国とは国交が回復していないので、確認はむずかしいのかも知れないが、人道上の問題なので、一日も早く“ふるさと”へ帰国できるよう運動していきたい」と話している。 浮島丸乗船者名簿には三千七百三十五名が乗ったとされているが、実際には名簿にはない相当数のカケコミ乗船があったという。そして死亡者数は乗船者名簿から生存者数を差し引いたといわれるから、実際の犠牲者はもっと多かったに違いない。これら死没者名簿に載らなかった犠牲者は、今となっては歴史の闇の中に消えたとしかいいようがない。 目黒の祐天寺に祀られているという遺骨は帰国の日を待ちわびていることだろう。それにしても死没者の名簿もありながら何故引き取り手がなかったのだろうか、と話しあったことがあった。いろいろな意見が出たなかで、「一家をあげて離村した」「朝鮮戦争で関係者が移動した」というのがあったが「日本名での名簿ではわからなかったのではないか」という指摘に植民地支配の実感を覚えさせられた。 〉 『語りつぐ京都の戦争と平和』(戦争遺跡に平和を学ぶ京都の会) 〈 浮島丸訴訟と遺骨問題 一九九二(平成四)年八月、韓国に住む生存者や遺族五〇人が、日本政府に対して公式謝罪と損害賠償を求める訴訟を起こし、翌年、追加訴訟の人も加わって原告の数は八〇人になりました。この訴訟の背景には、日本政府が朝鮮人強制連行と浮島丸事件について真相究明や戦後補償を怠って来たことがあったことは言うまでもありません。 裁判では、第一審の京都地裁は二〇〇一(平成一三)年、日本政府の安全配慮義務違反を認定し、原告のうち浮島丸に乗船していたことが確認できるとした一五人に、一人あたり三〇〇万円、合計四、五〇〇万円の賠償金の支払いを命じました。しかし、第二審の大阪高裁は、〇二(平成一四)年、時効を理由に原告の要求を退け、最高裁でも原告敗訴が確定しました。 一方、浮島丸犠牲者の遺骨は当初、舞鶴地方復員残務処理部が管理し、舞鶴の東本願寺別院に祀られ慰霊祭が行なわれていましたが、その後、呉地方復員部、さらに厚生省引揚援護局へ移管され、七一(昭和四六)年から東京都目黒区の祐天寺に預託されています。 これらの遺骨は、個人の名前の判明した遺骨ではなく、全体を死者の人数分に分けた混骨であるところにも問題がありました。そのため、遺族が判明した遺骨二四一柱は、韓国政府を通じて遺族へ返還されましたが、残りの二八〇柱は遺族が分からないか、遺族が分かっても、自分の身内かどうか分からない遺骨は受け取れないとして、遺族が受け取りを拒否しており、今なお返還のメドが立っていない状態です。遺骨返還問題を含め、日本政府が全ての戦争責任を果たすのは、一体いつのことになるのでしょうか。 〉 歴史とはウソである、これが人間の歴史学の本質、彼らの都合のいいように書かれたおハナシであり、「証拠」なるものも捏造されている危険性は高いかも知れない、官憲が出してくるような「証拠」にはその点を十分に留意を。 殉難者たちは事件の当時はまだ日本国籍であったと思われるが、朝鮮人引揚者で舞鶴引揚とは何も関係がないと見ているのかここにも何の展示もない。 わかりにくくて不便な場所↓ですが、会場はここです。車も駐められます。 |
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関連情報 69年前の浮島丸事件とその後のおおよその経過は、すでに何度も書いていますのでそちらを参照して下さい。 以前の追悼集会については「浮島丸追悼集会:丹後の伝説17」 事件そのものについては「浮島丸事件」 など参照して下さい。 |
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