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2015年(平成27年)8月24日は、浮島丸事件から70年目。「浮島丸殉難者を追悼する会」は、爆沈現場に近い舞鶴市佐波賀 の「殉難の碑公園」で、350名ばかり今夏も集会を開いた。70年前のこの日の午後5時20分ごろに当地のすこし沖合を通りかかった「浮島丸」は、ナゾの爆発を起こして沈没し、多数(政府発表では549名)の乗客や乗務員が亡くなった。
事件と書くのか事故と書くのかそれすらいまだに不明、原因や犠牲者数など何も納得のいく解明はなされていない。今回は70年目の節目の集会、事件の原点に戻り、ここで命を落とした犠牲者やその遺族の無念きわまりない気持ちに立ち戻り、二度と繰り返してはならないと新たなる運動の再出発の集会。 70年前もこうした静かな海であったという↑が、ここで多くの人々が亡くなった。 (しかし対岸の海自航空基地からヘリが舞い上がってうるさいし、また南北の国境線はいま緊張状態にあるというし、日本国会では違憲の声あがる「安保法案」が審議中) 殉難碑公園に展示されている写真↓ 日本人の引き揚げも大事であろうけれども、そればかり、全体的には美化ばかりだが、朝鮮人が引き揚げる途中の浮島丸は日本人から消えていった。何年もこうして犠牲者を船内に残したままでほったらかし、調査はなく遺骨(骨灰?)は今も故国に帰れず何柱あるのかもわからない、引き揚げはよく言うが、浮島丸は市民に対する案内なし、メール配信なし、何とも人道的で諸国民の安全安心に責任を自覚した国などがやりそうな話であるが、われら市民も含めてその情けない身勝手ぶりは慚愧の念と共に長く深く記憶にとどめておくべきかも知れない。 ロスケどもがメチャクチャしくさって、の彼らの言葉はこの写真と向き合えば根本から信じられなくなる。オマエらも相当にメチャして、ほったからかしにしてるんとちゃうの、オマエらに不都合な過去はホオカムリとちゃうの、この写真が語っているぞ、見える所ですらこのザマでないか、見えない所で何をしていたかそ、さぞやリッパなことをしていたのだろう、そうした疑いが出てくる。 良かった面もあったかも知れないが、足らぬ面も多かったはず、今一度この時点に立ち戻り謙虚に見直し、再出発としたいものと思う。せめて亡くなった人数や亡くなった原因についてくらいは知らないことには、一体われらは何を追悼しているのかもよくわからないことになってしまい、やがては忘れられてしまうかも知れない。 今回は秋晴れの少々暑い日となった。当ページは今回の会の様子一部の簡単な紹介です。 今回も小学生たちが加わっていた↑たいへん結構なことで、こうして世代を越えて語り継ぎ引き継ぎ行かもばならないわけだが、また課題も多かろう。 戦争体験を語らない体験者も多い、語れないのだ、と私は理解している。この子たちに何を語れるだろうか。この子らの前でウソは言えない、しかしそうかと言って戦争のホントのおぞましい姿も語れない。真実を語ればあるいは東史郎氏のように「戦友会を除名されました」という圧力がかかるかも知れない。私だけにかかるのなら辛抱するが関係のない家族にも累が及ぶかも知れない。 正義の戦争だったのなら誰もが誇らしげに、聞きもしないのに語り始めることであろうに… 舞鶴市民は彼らにどう浮島丸を語り継ぐのだろう、何人が亡くなったかわからないだよ、触雷事故だったのか、それとも何者かが自沈させたのか、それもわからないんだよ、70年前ここでそんなことがあったんだよ、キミたちも忘れてはならないんだよ、と言って語り継ぐことになる。 実際にこうした運動が続いていて解明の努力もそれなりになされ続けていてどこかの行政などとは違い口先だけではないが、そうとしても何ともナカミのないこと国の指導者どもと大して変わりのない話になってしまうかも知れない。市民達の無念の歯ぎしりの声が聞こえてきそうな70周年集会である。 ↓以下は集会の式の順番通りの紹介ではありません。1時間ばかりの集会のメダマ、小学生でもわかるもの(私の判断)の方を先に写してきたものを簡単に紹介します。
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同じものがここから↓ダウンロードできます(自分で聞く範囲にして下さい) 「はまなすの花咲きそめて'15」(4.59M)
右手の島(蛇島)の西方(右側)約400メートル地点に浮島丸は沈んでいた。 こここそが舞鶴のもう一つの原点、戦後史の出発点である。 2015年集会次第 (主催者のパンフ「浮島丸殉難70周年追悼集会次第」。当HPの引用はすべて同パンフによります) 浮島丸殉難70周年追悼集会 次第1 開会 2 黙祷 3 追悼の辞 ・主催者 ・京都府知事 ・舞鶴市長 ・開係諸団体 (在日本大韓民国民団京都府舞鶴支部) (在日本朝鮮人総聯合会京都府本部常任委員会) 4 来賓及びメッセージ紹介 5 献茶 6 追悼の舞 7 追悼歌 「はまなすの花さきそめて」 8 献花 参加者一同 9 閉会
浮島丸殉難者を追悼する会 会長 余江勝彦氏の追悼の辞 〈 追悼の辞 本日ここに「浮島丸殉難70周年追悼集会」の開催にあたり、549名(政府発表)の犠牲者の皆様方に謹んで哀悼の誠を捧げます。 1945年8月24日舞鶴湾に入ってきた浮島丸が午後5時20分頃下佐波賀沖で突然発生したものすごい爆発音とともに真二つに折れ沈んでいきました。 急を知った佐波賀や近隣住民の人々は、自分の命も顧みず懸命の救助活動にもかかわらず女性や乳幼児を含む乗客524名が乗組員25名と共に尊い生命が失われました。 この大惨事には日本の長い歴史的背景がありました。 アジア進出のために、1910年(明治43年)統治権を朝鮮から奪い、朝鮮に総督府を置き軍隊を常駐させ36年に及ぶ植民地政策を行ってきました。その結果、土地も仕事も失った人たちが激増し、その多くは日本へ家族ぐるみで移住を余儀なくされました。一方、アジア・太平洋戦争が激しい中、年老いた母を残した若者や一家の働き手である父親が次々と日本へ強制的に連れてこられ、戦争遂行の為の労働力として過酷な労働を強いられました。 このような背景をおっていただけに、1945年8月15日の日本の敗戦は、家族との再会や祖国の独立への参加を親実のものとしました。しかし、浮島丸事件はこうした希望や喜びを一瞬にして消し去ってしまいました。 8月19日大湊海軍警備府が出した「本国送還」の指示で、青森県下北半島方面で働かされていた朝鮮人とその家族3735名(政府発表)が乗った旧日本海軍特設輸送艦「浮島丸(4730トン定員800名)」は8月22日午後10時大湊を出港し釜山へむけて航行を続けました。ところが何故か舞鶴港に入った直後、この大惨事が起きたのです。 夢にまで見た故郷や肉親との再会を翌日にひかえて、船内が沸き返っていた最中に、予想もしなかった大惨事に遭遇し、尊い生命を失われた犠牲者の皆様の悲しみと無念さは言葉では表しがたいことであります。 私達舞鶴市民が浮島丸事件を取り組む時、一つには浮島丸事件の背景を「日本の歴史の中で考える」ことです。もう一つは故郷に無事に帰ることなく「絶たれた希望や想いを共有する」ことであります。それを語り継ぎ忘れず次世代に伝える責任を「日本人として」果たさなければなりません。 1978年8月24日舞鶴市民は「犠牲者の冥福を祈るとともに、再び悲しい歴史が繰り返さない」という思いや事件を風化させないために、多くの市民の浄財と京都府及び舞鶴市のご援助を頂いて事件発生現場が一望できるこの地に「殉難の碑」を建立し、以後毎年、追悼集全を開催し続けています。 私は、どのような大義名分があろうとも「人間が、人の尊い生命を奮うことは絶許されない」ことであると考えます。しかし、歴史の事実を認めず、再び誤った道を歩もうとするような動きがあることに、大変不安を感じ危惧しています。 私は日本人として、過去の加害に対して心より謝罪の意を表すとともに日本の若い世代に「浮島丸事件」を風化させず伝え続ける事を責務として追悼事業を続ける決意です。 私達は「政府の行為によって再び戦争の惨禍がおきることのないようにすることを決意する」と明記されている日本国憲準の立場にたって、追悼集会を続けてきました。 政府の責任において、事件の調査が未だになされていませんし、東京都中目黒のつ「祐天寺」には、いまだに故郷へ帰れない「遺骨が280体」が残っています。浮島丸事件はまだ終わっていないと考えます。 「浮島丸事件」を忘れず、事件から教訓を学びとり、平和の確立に向けでこれからも「日本人の責任」として、追悼集会を続けて行くことが犠牲者の皆様との約束であると考えます。 犠牲者の皆様のご冥福を心からお祈りして、追悼の辞と致します。 2015年8月24日 浮島丸殉難者を追悼する会 会長 余江 勝彦 〉 京都府知事(代理)の献花と追悼の辞 舞鶴市長(代理)の献花と追悼の辞 在日本朝鮮人総聯合会京都府本部常任委員会 副委員長 李 時雄氏の追悼の辞 〈 浮島丸殉難70周年 追悼の辞 「浮島丸爆沈事件」発生70周年という大きな節目を迎えた今日549名の犠牲者に心からの哀悼の意を捧げます。 植民地《亡国の民》の苦しみと悲しみ、そして残酷な民族差別と虐待に耐え、ようやく解放を迎えて、明るい希望を胸に懐かしい祖国に向かった3735名の同胞を乗せた浮島丸が、何故この舞鶴港で突然大爆発し、何故549名の尊い命が犠牲にならねばならなかったのか、70年経った今日に至ってもその真実は明かされていません。 儚く犠牲になった、同胞たちの悔しさを晴らすためにも、真相解明は一時たりとも遅らせることはできません。 今日安倍政権は、国民の反対をおしきり戦争の道へとつながる法案をつくり国会で強行採決をしようとやっきになっています。 私は《朝・日ピョンヤン宣言》の精神にもとづきこれからも朝・日間の親善と友好の絆をより一層深めていきたいと思います。 解放された祖国の繁栄と、懐かしい故郷での楽しい暮らしを夢見て、浮島丸に乗船し、無残にも犠牲になられた先輩たちよ。 私たちは諸先輩たちが抱いた夢と希望を必ずや実現させていくことを此処に固く誓うものであります。 最後に、余江勝彦会長を始めとする《浮島丸殉難者を追悼する会》の皆様と地元住民の皆様に心からの謝意を表し私の追悼の辞といたします。 在日本朝鮮人総聯合会 京都府本部常任委員会 副委員長 李 時雄 〉 在日本大韓民国民団京都府舞鶴支部 支団長 金英王氏の追悼の辞 〈 追悼の辞 本日ここに浮島丸殉難70周年を向かえ 韓国民団を代表しまして 尊い命を落とされました犠牲者の皆様に謹んで哀悼の意を表します。 日本に強制的に又は騙されて連れて来られた日本で 強制労働させられた同胞が解放直後の1945年8月24日 船底にぎゅうぎゅう詰めにされながらも再び祖国の地を踏めるという喜びを一瞬の内に打ち砕かれました。公式発表によれば3735名の内524名の尊い命が奪われました。 そして70年が経ち 日本の国会では大多数が反対する中 安保法案を来月にも成立させようとしています。この法案は日本の平和と安全を守るという目的の為の法案ですが アメリカとの同盟が存在する中で今現在平和と安全が守られていないのでしょうか。 これは戦争法案と呼ばれている様に 日本が進みたい方向へ少しづつ近づいて行く様です。 ところで今日本ではヘイトスピーチが激しさを増しています。京都地裁、大阪高裁が「在特会」による街宣は「人種差別」と認定し賠償命令を下しています。 韓日友好を謳う日本政府は全く静観しています。正常な感覚の人間なら積極的に動くはずの事が 全く動きすら見せないのは日本の保守の本音のように思われます。我々は禁止法案成立まで戦って行きます。 最後に当時救命活動に当たられた佐波賀の近隣住民の皆様と 浮島丸殉難者を追悼する会の長年のご苦労に感謝し また「浮島丸下北の会」の懸命の真相究明の努力に感謝とエールを送ります。 2015年8月24日 在日本大韓民国民団京都府舞鶴支部 支団長 金英王 通訳 在日韓国婦人会京都府舞鶴支部 会長 朴昭子 〉 メッセージなど 〈 本日、浮島丸殉難七十周年追悼集会が挙行されるにあたり、謹んで追悼の誠を申し上げます。 七十年前のこの日、ここ舞鶴で海軍輸送船浮島丸が沈没し、多くの犠牲者を出す大惨事となりました。 この惨事を知る方々も高齢化している今日にこそ、戦争の悲惨さと平和の尊さを次世代に語り継いでいかなければなりません。 ここに改めて平和への決意を新たにするとともに、お亡くなりになりました方々のご冥福を心からお祈りいたします。 なお、厚生労働省でお預かりしているご遺骨は、東京都の祐天寺に丁寧に安置されていますが、現在、外務省等と連係して韓国政府と早期の返還に向けて取り組んでいます。 ご遺族の方々ならびに関係各位のご健勝を心より祈念申し上げます。 厚生労働大臣 塩崎 恭久 〉 〈 追悼メッセージ 私は、「浮島丸」爆沈事件により尊い命を落とされた同胞犠牲者とその遺族に対し、謹んで哀悼の意を表します。 祖国が解放され70回目の8月15日をむかえた私たちは、日本帝国主義による朝鮮植民地統治の悲惨な歴史を改めて思い起こし、強い憤りを禁じえないでいます。 とくに祖国解放直後、日本当局がわが同胞たちに対して敢行した非人間的な仕打ちである「浮島丸」爆沈事件を決して忘れることはできません。 敗亡した日本が、朝鮮人強制連行被害者に対して引き続き集団的虐殺を行った代表的な蛮行がまさにこの事件でした。 「浮島丸」爆沈事件は青森県をはじめとする各地で多くの朝鮮人強制連行被害者たちとその家族を帰国させてあげると騙し、船に乗せて沈没させるという非道極まりない蛮行であり、決して偶発的な事故ではなく、日本軍部によって故意的かつ計画的に行われました。 日本政府は70年も経つ今日においても被害者に対する謝罪や補償、事件の真相すら明らかにしておらず、不誠実な態度に終始しています。 私たちは「浮島丸」爆沈事件70周年に際し、この事件の真相を日本政府が速やかに明らかにし、誠意ある態度で犠牲者と遺族たちに謝罪と補償を行うことを強く訴えます。 また、戦後70年の節目を迎える今日、日本の過去の犯罪行為に対する真相究明と謝罪、補償がいまだに行われていないばかりか、ヘイトスピーチなどの民族排外主義と加害責任を歪曲・隠蔽しようとする不穏な動きも助長されています。 このような社会的風潮によって最も大きな被害を受けているのは、まざれもなく過去の朝鮮植民地支配の犠牲者とその子孫たちです。 とくに民族教育を受けている在日朝鮮人の子どもたちが、心無い輩たちから学校を襲撃され、また、高校無償化制度から不当に除外されるなど、当然保障されるべき学習権などが著しく侵害されています。 私たちは、日本政府が朝日ピョンヤン宣言に則り、一日も早く不幸な過去を清算し、戦後一貫して行われきた在日朝鮮人差別政策をただちに是正することを強く求めます。 私たちは「浮島丸」爆沈事件70周年に際し、朝日間の不幸な歴史を克服するため、また、心通い合う友好親善関係をつくるために不断の努力を傾けていくことを表明します。 本集会にご参加された皆さまのご健勝を心からお祈り申し上げます。 2015年8月24日 朝鮮人強制連行真相調査団 朝鮮人側代表 在日本朝鮮人総聯合会中央本部 副議長 朴 久好(パク・クホ) 〉 〈 連帯のメッセージ 2015年度 浮島丸殉難70周年追悼集会 御中 2015年度浮島丸殉難70周年追悼集会にあたり、犠牲になられた方々への心6からの哀悼の意と、平和への誓いをこめてごあいさつを申し上げます。 ニ度と戦争のない平和な世界と日本を作ることが政治の責任と、強く自覚をしているところです。歴史を逆行させる安倍政権の「戦争法案貴」は絶対に廃棄するしかありません。 戦後70年。私たちは、「戦争できる国つくり」を許さず、今こそ日本の平和憲法を守り、韓国・朝鮮の皆さまと手を携えて、恒久平和の実現のため、全力でがんばる決意です。 最後に、ご遺族ならびにご参加の皆さまのご健勝とご多幸を祈念しご挨拶とします。 2015年8月248 日本共産党 衆議院議員 こくた恵二 参議院議員 井上さとし 参議院議員 倉林 明子 〉 〈 「浮島丸殉難70周年追悼集会」開催へのメッセージ 去る7月、舞鶴での「浮島丸事件、70周年のつどい」への参加を契機に、70年という節目に「殉難視場」で犠牲者に花を手向け、手を合わせることができました。このような機会を与えていただきましたこと下北を代表して心から感謝申し上げます。 私たち「浮島丸下北の会」の原点も、日本(下北)で当時何があったのか?真実を知り!歴史と向き合う!でした。そして「浮島丸事件」の1つ1つの謎に地道に検証を重ね、一定の成果も得てきました。しかし、「真実の解明」は正確な資料と責任ある証言でしかないという壁にも直面しています。 「70周年のつどい」後の交流会で「70年も経つのにまだ、沈没の原因も明らかでないのか?」の率直な問いかけがありました。何年かかろうとも、「真実」を生みだすために、追悼事業を継続し、歴史の事実を伝えていく事に共に取り組みましょう。「浮島丸事件」の背景にあるのは「植民地政策・併合」という民族差別、それを生み出すのは「戦争」であることは明白です。 貴会の活発な活動に敬意を表すとともに連帯のメッセージを送ります。 「浮島丸殉難70周年追悼集会」の盛会を心からお祈りいたします。 2015年8月24日 浮島丸下北の会 会長 村上 準一 〉 参考資料 会の略史が同じパンフに書かれている。 〈 浮島丸事件と追悼事業の経過 (資料) 1.昭和20年8月24日午後5時20分頃、京都府舞鶴港に入港してきた海軍特設輸送船「浮島丸」(4730トン)は、突如大爆発を起こし船体は二つに折れて沈没、地元の人々や海軍艦艇の救助活動にもかかわらず、乗組員25人、乗客524人計549人(政府発表)が死亡する大惨事となりました。 2.浮島丸に乗っていた人々は、青森県地方で働いていた朝鮮人労働者とその家族3735人(政府資料)で、戦争の終結に伴う帰国の知らせで配給された浮島丸に乗船、8月22日午後10時青森県大湊港を出港、朝鮮釜山をめざして航行中、8月24日進路を変更して舞鶴港に寄港し、この災禍にあったものです。 3.浮島丸の船体は長く海中にありましたが、昭和25年に後半分が、昭和29年に前半分が引き揚げられ、船内の遺骨も収集されました。これを機に京都の著名人の呼びかけによる慰霊祭が舞鶴東公会堂で行われ、以後は市民の手で慰霊祭が行われてきました。 4.昭和50年代に入り、関係者の死亡等により事件の風化が心配されるようになり事件を語り継ぐモニュメントを製作する動きが起こり、舞鶴市長(当時)を会長に「浮島丸殉難者追悼の碑建立実行委員会」がつくられ、市民の募金と、京都府・舞鶴市の補助金を得て、事件現場を目前にした場に「殉難の碑」及び公園がつくられ、(昭和53年)、以後この場所で追悼集会を行い今日に至りました。 5.「浮島丸殉難者追悼の碑建立実行委員会」は建立事業が完了したことから、「浮島丸殉難者追悼実行委員会」に改組されました。平成7年浮島丸事件を題材にした映画「ちょうエイジアンブルー・浮島丸サコン」が製作され、舞鶴市内でもロケーションが行われこともあって、事件に対する市民の関心の高まりが見られことから、個人参加の組織に改めることにし、平成8年5月10日「浮島丸殉難者を追悼する会」を発足させ、以後追悼事業を行うことになったものです。 6.浮島丸事件死没者名簿を入手したことから、事件と追悼事業の経過を併せ「浮島丸事件の記録」(A6版188ページ)を1989年に発刊しました。 「殉難の碑」及び「公園」の設置から20周年にあたる1998年に記念事業として浮島丸事件と追悼事業に取り組んでいる青森・東京・舞鶴の関係者による「シンポジュウム」と追悼事業をまとめた演劇「1998年夏・絆〜海を見つめる群像の物語〜」を発表しました。 7.浮島丸事件を題材にした映画「エイジアンブルー・浮島丸サコン」ハングル版がつくられ、2001年より韓国で上映されたことから、韓国で事件と舞鶴に対する関心が高まり、2002年・2003年には韓国光州市民との交流・相互訪問が行われ、韓国芸能の舞鶴市民へ公開公演が行われました。また、2005年には中国・北京大学での映画上映が行われました。 こうした国際交流の成果を受けて2005年、浮島丸殉難60周年企画として「国際シンポジュウム」を韓国・延世大学、中国北京大学の研究者、及び日本の関係者の協力を得て行いました。また、これまでの追悼事業の取組が評価され、 駐大阪大韓民国総領事官名による感謝状が贈られました。 8.2010年8月24日「韓国併合」100周年・浮島丸殉難66周年追悼集会を実施。厚生労働大臣からのメッセージを始め駐大阪大韓民国総領事、京都府知事・舞鶴市長の献花と 追悼の言葉をいただきました。参加者一同、犠牲となられた海に献花し悲惨な歴史を繰り返さないことを誓いました。 9.2011年7月23日 紙芝居「浮島丸事件」完成 上演活動開始。 8月25日から30日 紙芝居「浮島丸事件」完成報告下北ツアー実施 「浮島丸下北の会」と交流 11月14日 韓国海軍舞鶴寄港時 司令官・艦長・東京韓国大使館員(通訳)下佐波賀「追悼の碑公園」訪問・慰霊・献花 映画「エイジアンブルー・浮島丸サコン」製作監督死去 東京 偲ぶ会」 参加 10.2012年2月7日 韓国「ハンサリム」の一行 下佐波賀「追悼の碑」公園訪問 追悼・献花 6月 碑公園「ハマナスの木」植樹 追悼歌「ハマナスの花さきそめて」歌詞パネル設置 11月 韓国 「東学農民軍の歴史を訪ねる旅」ツアーに参加、光州市民との交流会で「浮島丸事件」について講演 11.2013年8月8日 「東アジア青少年歴史体験キャンプ」日・中・韓(中・高・大学生参加)「追悼の碑公園」浮島丸殉難者追悼集会実施 12 2014年 「浮島丸追悼公園」環境整備 井戸設備確保 2014年8月24日 浮島丸殉難69周年追悼集会 開催 13 2015年7月25日 「浮島丸事件 70周年のつどい」開催 追悼事業を振り返って 浮島丸下北の会の取り組みについて 映画「エイジアン・ブルー浮島丸サコン」 上映 〉 会場 わかりにくくて不便な場所↓ですが、会場はここです。車も駐められます。追悼の意あれば、どなたでもご参加できます。 |
浮島丸殉難追悼集会の記録 2024追悼集会 2023追悼集会 2022追悼集会 2019追悼集会 2018追悼集会 2017追悼集会 2016追悼集会 2015追悼集会(このページ) 2014追悼集会 2013追悼集会 2012追悼集会 2011追悼集会 2010追悼集会 2009追悼集会 |
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関連情報 70年前の浮島丸事件とその後のおおよその経過は、すでに何度も書いていますのでそちらを参照して下さい。 以前の追悼集会については「浮島丸追悼集会:丹後の伝説17」 事件そのものについては「浮島丸事件」 など参照して下さい。 |
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