丹後の地名






2017(平29年)
 浮島丸殉難72周年追悼集会

        於:舞鶴市佐波賀下 殉難の碑公園

お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから検索してください。サイト内超強力サーチエンジンをお試し下さい。


 2017年(平成29年)8月24日は、浮島丸事件から72年目。「浮島丸殉難者を追悼する会」は、爆沈現場に近い舞鶴市下佐波賀 の「殉難の碑公園」で、今夏も集会を開いた。
72年前(昭和20年)のこの日(終戦から9日目)の午後5時20分ごろに当地のすこし沖合を通りかかった「浮島丸」は、ナゾの爆発を起こして沈没し、多数(これまでの政府発表では549名)の乗客や乗務員が亡くなった。
 実の所は、事件と書くのか事故と書くのかそれすら不明で、残されている犠牲者の遺骨の数も不明になってきたような、日本政府の従来の一方的主張がゆらぎはじめたかも知れない感じだが、その返還は見通しがたたず、事故の原因や犠牲者数などはこれまでは何も納得のいく解明はなされていない。終戦直後のドサクサまぎれのままに、その後も72年間よいかげんな話だけで、ほったらかしにされてきた。

「むしかえされた」とか政府などがブーブー言っている徴用工問題の一部がここにもほおかむりしたまま隠されている。事件が全容が解明され、遺骨が帰るまでは続けなければなるまい、日本国民としては当然の責務であろう。


 殉難の像が見つめる前の海が惨劇の海である。このあたりに↓浮島丸は沈没、マストを海面上に出し犠牲者を乗せたままに、長く置かれたままであった。

舞鶴東港の軍港へなぜか入港してきた浮島丸は↓このあたり(爆発地点はそこの半島の山の裏側になり、ここからは見えない)で爆発し(17:20ころ)、そのまま惰性か潮に流されたか、それとも自分のエンジンでか、400メートルばかり東ヘ移動し、そこで沈没し着底した。

このあたりの海岸は泳ぎついた人や泳ぎつけなかった人で一杯であった。

今は海鳥が数羽浮いているが、その時は鳥ではなく、これが人であった。もっともっと多かった。おそらく数千人が浮かんでいた。

このページの一番上へ



 今回も暑い日となった。日影で35℃、直射日光が当たる所は40℃ほどにもなったのでなかろうか。カメラが壊れないかと心配したが、それは大丈夫だった。しかし半分熱中症で本人のアタマが壊れそうになった。
当ページは今回の会の様子一部の簡単な紹介です。

 ↓以下は集会の式の順番通りの紹介ではありません。1時間ばかりの集会のメダマ、小学生でもわかるもの(私の判断)の方を先に写してきたものを簡単に紹介します。
 献茶
 韓国茶道協会京都支部の皆様
 



 追悼の舞
 金一志韓国伝統舞芸術院の皆様
 



 追悼歌 はまなすの花咲きそめて
 京都朝鮮中高級学校の皆様
 


音楽データー


同じものがここから↓ダウンロードできます(右クリック、「対象をファイルに保存」して下さい。使用は自分で聞く範囲にして下さい)
はまなすの花咲きそめて'17」(mp3 5.040M)



 献茶・献花
 集会の最後は犠牲者たちの眠る海へ向けて、参加者一同の献花。それに先だって献茶が行われた。

 

右手の島(蛇島)の西方(右側)約400メートル地点に浮島丸は沈んでいた。
当地は軍都舞鶴のもう一つの原点、戦後史の出発点である。

このページの一番上へ





   



 2017年集会次第 (主催者のパンフ「浮島丸殉難72周年追悼集会」当HPの引用はすべて同パンフによります)  




浮島丸殉難72周年追悼集会
   2017年8月24日(木)午前11時 舞鶴市下佐波賀「殉難の碑公園」

1 開会
2 黙祷
3 追悼の辞 
 ・主催者
 ・関係諸団体
     在日本朝鮮人総聯合会京都府本部常任委員会
     在日本大韓民国民団京都府舞鶴支部
     
4 来賓及びメッセージ紹介・献花
5 献茶
6 追悼の舞
7 追悼歌 「はまなすの花さきそめて」
8 献茶・献花 参加者一同
9 閉会


 追悼の辞やメッセージなど紹介
「会」発行の案内の通りです。ママです(明らかに変換ミスと思われる所は修正した)。

 浮島丸殉難者を追悼する会 会長 余江勝彦氏の追悼の辞


 〈 追悼の辞
本日ここに「浮島丸殉難72周年追悼集会」の開催にあたり、549名(政府発表)の犠牲者の皆様方に謹んで哀悼の誠を捧げます。
1945年8月24日舞鶴湾に入ってきた浮島丸が午後5時20分ごろ下佐波賀沖で突然発生したものすごい爆発音とともに真二つに折れ沈んでいきました。
急を知った佐波賀や近隣住民の人々によって、自らの命も顧みず懸命の救助活動がなされました。しかし、女性や乳幼児を含む乗客524名と乗組員25名の尊い生命が失われました。この大惨事には日本の長い歴史的背景がありました。
アジア進出のために、1910年(明治43年)朝鮮から統治権を奪い、総督府を置き、軍隊を常駐させ36年に及ぶ植民地支配を行ってきました。その結果、土地も仕事も失った人達が激増し、その多くは日本へ家族ぐるみの移住を余儀なくされました。一方、アジア・太平洋戦争が激しい中、年老いた母を残した若者や一家の働き手である父親が次々と日本へ強制的に連れてこられ、戦争遂行の労働力として過酷な労働を強いられました。
1945年8月15日の日本の敗戦は、家族との再会や祖国の独立への参加を現実のものとしました。
8月19日大湊海軍警備府が出した「本国送還」の指示で、青森県下北半島方面で働かされていた朝鮮人とその家族3735人(政府発表)が乗った旧日本海軍特設輸送艦浮島丸(4730トン定員800名)は8月22日午後10時大湊を出港し釜山にむけて航行を続けました。ところが何故か舞鶴港に入った直後、この大惨事が起きたのです。
夢にまで見た故郷や肉親との再会を翌日にひかえて、船内が沸き返っていた最中に、予想もしなかった大惨事に遭遇し、尊い生命が失われました。その哀しみと無念さは言葉では表し難いことであります。
私達舞鶴市民が浮島丸殉難者追悼事業を取り組む時、一つには浮島丸事件の背景を「日本の歴史の中で考える」ことであります。もう一つは故郷へ無事に帰ることなく「絶たれた希望や想いを共有すること」であります。私たちは日本が行ってきた歴史の事実を忘れず次世代に伝えていくことを「日本人として」責任を果たさなければなりません。
1978年8月24日舞鶴市民は「犠牲者の冥福を祈るとともに、再び悲しい歴史を繰り返さない」という思いや事件を風化させないために、多くの市民の浄財と京都府及び舞鶴市のご援助を頂いて事件発生現場が一望出来るこの地に「殉難の碑」を建立し 以後毎年追悼集会を開催し続けています。
東京都中目黒の「祐天寺」にはいまだ故郷へ帰れない遺骨「280体」が安置されています。浮島丸事件はまだ終わりていないと考えます。
私たちほ「政府の行為によって再び戦争の惨禍がおきることのないようにすることを決意する」と明記されている日本国憲法の立場に立って、追悼事業を続けていく決意です。
「浮島丸事件」から学び、平和の確立に向けてこれからも「日本人の責任」として追悼集会を続けていきます。
犠牲者の皆様のご冥福を心からお祈りして、追悼の辞と致します。
2017年8月24日
浮島丸殉難者を追悼する会 会長 余江 勝彦  〉 


 在日本朝鮮人総聯合会京都府本部常任委員会 副委員長 姜 主淳氏の追悼の辞



 〈 浮島丸殉難72周年 追悼の辞
私は、《浮島丸爆沈事件》72周年に際し、549名の犠牲者に心から哀悼の意をささげるため、ここ舞鶴佐波賀に参りました。
植民地《亡国の民》の苦しみと悲しみ、そして残虐な民族差別と虐待に耐え、ようやく解放を迎えて明るい希望を胸に、懐かしい祖国に向かった、3、735名の同胞を乗せた浮島丸が、何故この舞鶴港で、突然大爆発し、尊い命が犠牲になったのか、72年経った今日に至っても、その真相は明らかにされていません。
儚く犠牲になられた同胞たちの、悔しさを晴らすためにも、真相解明は一時たりとも遅らせることはできません。
「浮島丸事件」の真相解明は、植民地分断の過去を清算し、祖国統一と朝・日関係正常化の実現によって、成し遂げなければなりません。
私は、北と南が合意した《わが民族同士》のもとに、民族の念願である祖国統一と、《朝・日ピョンヤン宣言》の精神にもとづき、これから朝・日間の親善と友好の絆を深め、事件の真実を明らかにする声を、あげて行きたいと思います。
解放された祖国の繁栄と、懐かしい故郷での楽しい暮らしを夢見て、浮島丸に乗船し、無残にも犠牲になられた先輩たちよ、私たちは、諸先輩たちが抱いた夢と希望を必ずや実現させて行くことを、此処に固く誓い、最後に余江勝彦会長をはじめとする、追悼する会の皆様と、地元住民の皆様に、心からの謝意を表し、私の追悼の辞をいたします。
在日本朝鮮人総聯合会 京都府本部常任委員会
副委員長  姜  主  淳  〉 


 在日本大韓民国民団京都府舞鶴支部 支団長 金英王氏の追悼の辞


 〈 追悼の辞
本日ここに浮島丸殉難72周年を迎え 韓国民団を代表して尊い命を落とされました同胞の皆様に謹んで哀悼の意を表します。
日本に強制的に又は騙されて或いは土地を奪われ仕方なく日本に来て、劣悪な環境の下強制労働させられた同胞が 解放直後の1945年8月24日再び祖国に帰れるというはやる気持ちと喜びを胸に祖国に向かう矢先の爆発でした。
同胞の無念さを思うと本当に胸が締め付けられます。悲劇はそれだけでは有りませんでした。祖国が分断されてしまいました。日本国は分断される事なく我が祖国が分断されました。
今我が国を取り巻く環境は急速に悪化しています。韓半島を挟んでの対立の構図がはっきりしてきました。今まで大国に振り回され続けた我が国の歴史は、いつになったら治まるのでしょうか。この悲惨な歴史に終止符を打つ真の平和が来る事を祈るばかりです。
そして今日本に於いては昨年へイトスピーチ対策法が成立し、排外主義団体は少しずつ衰えて来ている様に思えます。神奈川県川崎市では昨年6月に警察の説得を受けてヘイトデモが中止になり、今年7月には市民中心の団体によりヘイトデモが中止に追い込まれました。我々はヘイトスピーチが根絶されるまで戦い続けます。
最後に当時救命活動に当たられた佐波賀の近隣住民の皆様と、長年に亘り追悼の行事に努めて来られた「浮島丸殉難者を追悼する会」の方々に謹んでお礼申し上げます。
2017年8月24日
在日本大韓民国民団京都府舞鶴支部 支団長 金英王
通訳 在日本大韓民国婦人会京都府舞鶴支部 会長 朴昭子  〉 


 献花

舞鶴市、京都府、駐大阪大韓民国総領事の献花


 寄せられたメッセージなど


 〈 本日、浮島丸殉難72周年追悼集会が挙行されるにあたり、謹んで追悼の言葉を申し上げます。72年前のこの日、ここ舞鶴で海軍輸送船浮島丸が沈没し、多くの犠牲者を出す大惨事となりました。
この惨事を知る方々も高齢化している今日にこそ、戦争の悲惨さと平和の尊さを次世代に語り継いでいかなければなりません。
ここに改めて平和への決意を新たにするとともに、お亡くなりになりました方々のご冥福を心からお祈りいたします。
なお、厚生労働省でお預かりしているご遺骨は、東京都の祐天寺に丁寧に安置されていますが、現在、外務省等と連携して韓国政府と早期の返還に向けて取り組んでいます。ご遺族の方々並びに関係各位のご健勝を心より祈念申し上げます。厚生労働大臣  加藤 勝信  〉 




 〈 浮島丸爆沈事件72周年に際して
何よりもまず、私は尊い命を落とされた同胞犠牲者とその遺族に対して謹んで哀悼の意を表します。
日本帝国主義による朝鮮植民地統治から解放された喜びに沸き、懐かしい故郷へと向かう同胞を乗せた日本海軍輸送船「浮島丸」が爆沈され、72年の歳月が過ぎようとしています。これまで日本政府は、この事件の真相を明らかにしていないばかりか、その責任を一貫して回避し続けています。また、同胞犠牲者の遺骨も、すべての遺族に返還されていません。
私は、日本政府がこの事件の真相を速やかに明らかにし、誠意ある態度で犠牲者と遺族たちに対する謝罪と補償を行うことを、強く訴えます。
今日も 日本は朝鮮をはじめとするアジアの人々に対する加害の歴史を歪曲、隠蔽し、かっての過ちを忘却しようとしています。特に、朝鮮人強制連行や日本軍性奴隷制問題など、日本軍国主義の加害事実を正当化しようとする傾向が高まっていると同時に、露骨な民族排他意識に基づくヘイトスピーチが加速度的に蔓延しています。これは、ゆがんだ歴史認識を是正していくことが如何に大切であるのかを物語っています。
このような社会風潮によって最も大きな被害を受けているのはまざれもなく過去の朝鮮植民地支配の犠牲者とその子孫であり、民族教育を受けている在日朝鮮人の子どもたちです。
朝鮮学校に通う在日朝鮮人の子どもたちは、高校無償化制度から不当にも排除されているばかりか、地方自治体の助成金まで削減、停止されるなど、民族教育を受ける権利を著しく侵害され、深刻な被害を受けています。
私は、日本政府が朝日ピョンヤン宣言に基づいて一日も早く不幸な過去を清算し、戦後一貫して行われてきた在日朝鮮人に対する不当な差別政策を直ちに是正することを強く求めます。
浮島丸爆沈事件72年に際し、朝日間の不幸な歴史を克服するため、そして心通い合う善隣友好関係をつくるためも皆さんとともに邁進してまいります。
最後に、浮島丸殉難72周年追悼集会にご参加された皆様に、心から敬意を表します。
2017年8月24日
在日本朝鮮人総聯合会中央本部 権利福祉局長
陳吉相 (チン・ギルサン)  〉 




 〈 海軍特設輸送艦「浮島丸」が韓国・釜山に向けて、青森・大湊港を出港し、京都・舞鶴湾内で、大音響を残して沈没し、朝鮮人524名と乗組員の海軍軍人25名が尊い命を失いました。あの日から72年の時を経ました。
通信兵として乗り込んでいた小野寺和一氏の証言を忘れることが出来ません。
大湊港を出港する際には、朝鮮人労働者たちは祖国への熱い想いから「マンセー」と喜びに沸き、その直後のこの日「爆発」による惨劇は目を覆うばかり、あちこちから「アイゴー」の叫びが‥。「あの喜びと惨劇は消え去ることはなく、忘れようにも忘れられない。戦争は絶対にやるべきではない」と力をこめて語っていたのを…。
「浮島丸事件」を教訓に真実の追求と平和を確立するため「殉職現場」において「浮島丸殉難追悼集会」を開催されておりますことに敬意を表します。
「戦争」への足音がこれまでになく高く聞こえる昨今、歴史の事実から得た貴重な教訓を後世に伝えていくことを誓い、「二度と誤った過去の歴史を繰り返さない」とする貴会に連帯のメッセージを送ります。
貴会のさらなるご活躍と「浮島丸殉難72周年追悼集会」の盛会を心からお祈り致します。
2017年8月24日
浮島丸下北の会
会長 村上 準一  〉 




 〈 2017年度 浮島丸殉難72周年追悼集会にあたり、犠牲になられた方々への心からの哀悼の意と、平和への誓いをこめて連帯のごあいさつを申し上げます。
二度と戦争のない平和な世界と日本を作ることが政治の責任と強く自覚をしているところです。歴史を逆行させる安倍政権の戦争法に続く共謀罪は、絶対に許すわけには参りません。
戦後70余年。私たちは、「戦争出来る国づくり」を許さず、今こそ日本の平和憲法を守り、韓国・朝鮮の皆さまと手を携えて、恒久平和実現のため全力でがんばる決意です。
最後に、ご遺族ならびにご参加の皆さまのご健勝とご多幸を祈念し、ごあいさつとします。
2017年 8月 24日
日本共産党 衆議院議員 こくた恵二
      参議院議員 井上さとし
      参議院議員 倉林 明子  〉 




このページの一番上へ



  


 参考資料
会の略史が同じパンフに書かれている。


 〈 浮島丸事件と追悼事業の経過(資料)
1.昭和20年8月24日午後5時20分頃、京都府舞鶴に入港してきた海軍特設輸送船「浮島丸」(4730トン)は、突如大爆発を起こし船体は二つに折れて沈没、地元の人々や海軍艦艇の救助活動にもかかわらず、乗組員25人、乗客524人計549人(政府発表)が死亡する大惨事となりました。
2.浮島丸に乗っていた人々は、青森県地方で働いていた朝鮮人労働者とその家族3735人(政府資料)で、戦争の終結に伴う帰国の知らせで配給された浮島丸に乗船、8月22日午後10時青森県大湊港を出港、朝鮮釜山をめざして航行中8月24日進路を変更して舞鶴港に寄港し、この災禍にあったものです。
3.浮島丸の船体は長く海中にありましたが、昭和25年に後半分が、昭和29年に前半分が引き揚げられ、船内の遺骨も収集されました。これを機に京都の著名人の呼びかけによる慰霊祭が舞鶴東公会堂で行われ、以後は市民の手で慰霊祭が行われてきました。
4.昭和50年代に入り、関係者の死亡等により事件の風化が心配されるようになり事件を語り継ぐモニョメントを製作する動きが起こり、舞鶴市長(当時)を会長に「浮島丸殉難者追悼の碑建立実行委員会」がつくられ、市民の募金と、京都府・舞鶴市の補助金を得て、事件現場を目前にした場に「殉難の碑」及び公園がつくむられ、(昭和53年)、以後この場所で追悼集会を行い今日に至りました。
5.「浮島丸殉難者追悼の碑建立実行委員会」は建立事業が完了したことから、「浮島丸殉難者追悼実行委員会」に改組されました。平成7年浮島丸事件を題材にした映画「エイジアンブルー・浮島丸サコン」が製作され、舞鶴市 内でもロケーションが行われこともあって、事件に対する市民の関心の高まりが見られことから、個人参加の組織に改めることにし、平成8年5月16日「浮島丸殉難者を追悼する会」を発足させ、以後追悼事業を行うことになったものです。
6.浮島丸事件死没者名簿を入手したことから、事件と追悼事業の経過を併せ「浮島丸事件の記録」(A6版188ページ)を1989年に発刊しました。「殉難の碑」及び「公園」の設置から20周年にあたる1998年に記念事業として浮島丸事件と追悼事業に取り組んでいる青森・東京・舞鶴の関係者による「シンポジュウム」と追悼事業をまとめた演劇「1998年夏・絆〜海を見づめる群像の物語〜」を発表しました。
7.浮島丸事件を題材にした映画「エイジアンブルー・浮島丸サコン」ハングル版がづくられ、2001年より韓国で上映されたことから、韓国で事件と舞鶴に対する関心が高まり、2002年・2003年には韓国光州市民との交流・相互訪問が行われ、韓国芸能の舞鶴市民へ公開公演が行われました。また、2005年には中国・北京大学での映画上映が行われました。
こうした国際交流の成果を受けて2005年、浮島丸殉難60周年企画として「国際シンポジュウム」を韓国・延世大学、中国北京大学の研究者、及び日本の関係者の協力を得て行いました。また、これまでの追悼事業の取組が評価され、駐大阪大韓民国総領事官名による感謝状が贈られました。
8.2010年8月24日「韓国併合」100周年・浮島丸殉難66周年追悼集会を実施。厚生労働大臣からのメッセージを始め駐大阪大韓民国総領事、京都府知事・舞鶴市長の献花と追悼の言葉をいただきました。参加者一同、犠牲となられた海に献花し悲惨な歴史を繰り返さないことを誓いました。
9.2011年7月23日 紙芝居「浮島丸事件」完成 上演活動開始。8月25日から30日 紙芝居「浮島丸事件」完成報告下北ツアー実施 「浮島丸下北の会」と交流 11月14日 韓国海軍舞鶴寄港時 司令官・艦長・東京韓国大使館員(通訳)下佐波賀「追悼の碑公園」訪問・慰霊・献花 映画「エイジアンブルー・浮島丸サコン」製作監督死去 「東京 偲ぶ会」参加
10.2012年2月7日 韓国「ハンサリム」の一行 下佐波賀「追悼の碑」公園訪問 追悼・献花 6月 碑公園「ハマナスの木」植樹 追悼歌「ハマナスの花さきそめて」歌詞パネル設置 11月 韓国 「東学農民軍の歴史を訪ねる旅」ツアーに参加 光州市民との交流会で「浮島丸事件」について講演
11.2013年8月8日 「東アジア青少年歴史体験キャンプ」日・中・韓(中・高・大学生参加)「追悼の碑公園」浮島丸殉難者追悼集会実施
12.2014年「浮島丸追悼公園」環境整備 井戸設備確保
2014年8月24日 浮島丸殉難69周年追悼集会 開催
13.2015年7月25日「浮島丸事件 70周年のつどい」開催 追悼事業を振り返って 浮島丸下北の会の取り組みについて 映画「エイジアン・ブルー浮島丸サコン」上映
14.2015年8月24日 浮島丸殉難70周年追悼集会 開催
15.2015年韓国MBN TV局取材 光復70周年特集「帰国前」全国放映
16.2016年8月 韓国KBS TV熊 取材 全国放映
17.2016年8月24日 浮島丸殉難71周年追悼集会 開催
18.2016年9月19日 浮島丸殉難71周年講演会 講師 中塚 明氏
19.2017年4月16日 北海道大学助教 ジョナサン ブル氏 英国人 ハイデルベルグ大学教授 Drスティーブン アイビンズ氏 ドイツ人共に、「引揚」をテーマに研究し来舞「浮島丸事件」を取材 尚、アイビンズ氏は帰国し「浮島丸事件」の事業を国民に伝えていくと述べる。  〉 

このページの一番上へ



 この集会の後、音楽イベント(「追悼浮島丸東アジア大衆平和祭」)が開かれた、という。半熱中症でノーミソが故障中で、様子を覗いてみることもできなかった。
『京都新聞』(2017.8.23)

 〈 *浮島丸事件の日*平和を考えよう*日韓音楽家らイベント*舞鶴であす
終戦直後の1945年8月24日に朝鮮半島に帰る労働者らを乗せた旧海軍輸送艦が舞鶴湾で爆沈した浮島丸事件に合わせ、日韓の音楽家らによる音楽イベントが24日、舞鶴市北吸の舞鶴赤れんがパーク4号棟で開かれる。10個人・グループが参加予定。
音楽を通じて交流し、平和について考えようと市内外の音楽家らでつくる実行委員会が初めて企画した。関西の歌手やバンドに加え、韓国から5人組のグループ「WINDY CITY(ウィンデイー・シティー)」が出演し、黒人音楽を基にした創作曲などを演奏する。京都朝鮮歌舞団も民族音楽や舞踊を披露する。…  〉 




会場
 わかりにくくて不便な場所↓ですが、会場はここです。車も駐められます。追悼の意あれば、どなたでもご参加できます。11時からです。






  浮島丸殉難追悼集会の記録

2024追悼集会
2023追悼集会
2022追悼集会
2019追悼集会
2018追悼集会
2017追悼集会(このページ)
2016追悼集会
2015追悼集会
2014追悼集会
2013追悼集会
2012追悼集会
2011追悼集会
2010追悼集会
2009追悼集会










関連情報
 72年前の浮島丸事件とその後のおおよその経過は、すでに何度も書いていますのでそちらを参照して下さい。

以前の追悼集会については「浮島丸追悼集会:丹後の伝説17
事件そのものについては「浮島丸事件
など参照して下さい。



Link Free
Copyright © 2017 Kiichi Saito (kiitisaito@gmail.com
All Rights Reserved