丹後の地名






2018(平30年)
 浮島丸殉難73周年追悼集会

        於:舞鶴市佐波賀下 殉難の碑公園

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 2018年(平成30年)8月24日は、浮島丸事件から73年目。この日は台風20号が通過したため、一日延期して25日に「浮島丸殉難者を追悼する会」は、爆沈現場に近い舞鶴市下佐波賀 の「殉難の碑公園」で、今夏も集会を開いた。
73年前(昭和20年)のこの日(終戦から9日目)の午後5時20分ごろに当地のすこし沖合を通りかかった「浮島丸」は、ナゾの爆発を起こして沈没し、多数(これまでの政府発表では549名)の乗客や乗務員が亡くなった。
 実の所は、事件と書くのか事故と書くのかそれすら不明で、残されている犠牲者の遺骨の数も不明になってきたような、日本政府の従来の一方的主張がゆらぎはじめたかも知れない感じだが、その返還は見通しがたたず、事故の原因や犠牲者数などはこれまでは何も納得のいく解明はなされていない。終戦直後のドサクサまぎれのままに、その後も73年間よいかげんな話だけで、ほったらかしにされてきた。浮島丸は終わらないままにこの日を迎えている。

 今夏は当地も特に猛暑で、35℃を越える暑さが7月の下旬からずっと続いている。その上に24日の当日は台風までやってきた。
おかげで皆が暑さと心労でアタマがおかしくなったのか、アンビリバボな珍しいことも発生していたようである、例年欠かせたことがない献花に舞鶴市がやってこない。「舞鶴市長」の花輪は届いているのに捧げる者がいなかった。府や韓国総領事も遠路足を運ばれ、舞鶴市議会の花籠もあるのに、舞鶴市は何か言い分があるかも知れないが、常軌を逸していると言われても致し方もない、喪主が気にくわないとかはぜんぜん理由になるまい、そうしたことで葬式に地元縁者が来ないようなことであった、どうしようもない。

 「会」も須永氏という当会の発起人であり永年の功労者・心張棒を今年失った、氏ばかりでなく永年の苦労人は次々に去っていく、ワタシも氏の弟子のハシクレ、立派な大きな運動というのはこうした人柄から生まれるものかとずいぶん勉強させてもらった、偉そうにしてるだけの薄らバカども相手に、自分の利益にもならないことで、どれほど頭を下げられたことであろうか、氏も役人だけれども、まったくそこらの役人らしくはなかった、まだまだ学び足りないまま、ワタシにはムリのままに、逝かれてしまわれた、さみしいことである。
いろいろ心痛は半分ほど察するが、事は国際的大事である、日本の大事である、平和と友好のためである、妙な者の相手で当会までもそのレベルになりカリカリしておかしくならないよう、それくらいで正気を見失わないよう、上がオタオタすれば下はその卑しい根性丸出しにし、とんでもない間違いを起こし、弱そうな所へ八つ当たりする、ドクソの見本のようなことでなくその調子が強いところへ物言ってみろよ。いろんな人がそのために集まる車輪の回転軸である、40年苦労してきて会であっても「会のメンツ」にこだわるなど、本当は会のメンツでもないのだが、要するに個人的なエエカッコ的強がりで、それはオカシイ、不当だと問い詰めると、でまかせの大ウソ並べて逃れる、まじめな市民にウソをつくなどはとんでもないことだぞ、ここに参加する資格が問われる、あとの対応もなっていない、対処もできないなら初めから起こすな、会が誇る「40年の伝統」が行き着いたのが弱い者イジメか市民イジメか、ともとらえかねない対応だったぞ。会には百戦錬磨の闘士もいてそのあたりがチロっと漏らしてくれた情報も加味して書いているのたが、弱い者へのヘンな強がりは押さえて、氏のように何であれ、言いたいことも言わずニコニコとじっと耐えるのが仕事、そうしないと平和の大車輪は回らない。
その心得がなく、「そこらの子供会の役員か」(多くの子供会には失礼、自分の応援団に自分からトラブルを売るなどはアホの極地で、子供会よりまだ落ちたが)と感じられるよう質の、判りもせぬ者が好きなこと言うだけの外部への対応で心配になったので、書きたくもないが書き添える。須永氏のあの風貌を思い起こそう、あの調子だ、仲間を失わないようお互いに穏やかに進めて行こう、わけわからんイチャモンはつけないでおこうではないか。今回は情けない姿も見てしまった、会に珍しいトラブルマンで、まちがって紛れ込んだものか、まともな多くの会員達、ワタシもたくさん知っているので、その手前、黙っていようかとも考えたが、ダレも言う者もないと、裸の王様、やがて大きなホコロビにならぬとも限らぬので、小さいうちに苦言を敢えて呈する次第、これも応援団のお仕事かも、ヨソの組織に首突っ込みたくないのでしたくもない仕事、くだらぬ話で誠に申し訳ない。こともあろうに碑の前でバカがイチャモンつけるので、衆人環視の元であった。何をもめとったんじゃいやと、もしもっと読みたければ下の方に書いておきます。


 殉難の像が見つめる前の海が惨劇の海である↓このあたりの海に浮島丸は沈没、マストを海面上に出し犠牲者を船腹に乗せたままに、長く置かれたままであった。(写真はリハーサルの様子)

舞鶴東港の軍港へなぜか入港してきた浮島丸は、このあたり(爆発地点↓はそこの半島の山の裏側になり、ここからは見えない)で爆発し(17:20ころ)、そのまま惰性か潮に流されたか、それとも自分のエンジンでか、400メートルばかり東ヘ移動し、そこで沈没し着底した。

このあたりの海岸は泳ぎついた人や泳ぎつけなかった人で一杯であった。

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 当ページは今回の会の様子一部の簡単な紹介です。

 ↓以下は集会の式の順番通りの紹介ではありません。1時間ばかりの集会のメダマ、小学生でもわかるもの(私の判断)の方を先に写してきたものを簡単に紹介します。

 献茶

 韓国茶道協会京都支部の皆様
 



 追悼の舞
 金一志韓国伝統舞芸術院の皆様
 
台風のための急な日程の変更で、スケジュールが取れず、今回はない。
急な変更でも、遠くからでも、暑いさなかに、たくさんの人々が集まっていた。いつもよりは少し少なかったように見えたが、それは仕方がない。


 追悼歌 はまなすの花咲きそめて
 京都朝鮮中高級学校の皆様
 


音楽データー


同じものがここから↓ダウンロードできます(右クリック、「対象をファイルに保存」して下さい。使用は自分で聞く範囲にして下さい)
はまなすの花咲きそめて'18」(mp3 1.75M)



 献茶・献花
 集会の最後は犠牲者たちの眠る海へ向けて、参加者一同の献花。

 

右手の島(蛇島)の西方(右側)約400メートル地点に浮島丸は沈んでいた。
当地は軍都舞鶴のもう一つの原点、戦後史の出発点である。

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 2018年集会次第 (主催者のパンフ「浮島丸殉難73周年追悼集会」当HPの引用はすべて同パンフによります)  
そのままですので、日付もそのままです。



浮島丸殉難73周年追悼集会
   2018年8月24日(木)午前11時 舞鶴市下佐波賀「殉難の碑公園」

1 開会
2 黙祷
3 追悼の辞 
 ・主催者
 ・関係諸団体
     在日本大韓民国民団京都府舞鶴支部
     在日本朝鮮人総聯合会京都府本部常任委員会

     
4 来賓及びメッセージ紹介・献花
5 献茶
6 追悼の舞
7 追悼歌 「はまなすの花さきそめて」
8 献茶・献花 参加者一同
9 閉会


 追悼の辞やメッセージなど紹介
「会」発行の案内の通りです。ママです。

 浮島丸殉難者を追悼する会 会長 余江勝彦氏の追悼の辞


 〈 追悼の辞
本日ここに「浮島丸殉難73周年追悼集会」の開催にあたり、549名(政府発表)の犠牲者の皆様方に謹んで哀悼の誠を捧げます。
1945年8月24日舞鶴湾に入ってきた浮島丸が午後5時20分ごろ下佐波賀沖で突然発生したものすごい爆発音とともに真二つに折れ沈んでいきました。
急を知った佐波賀や近隣住民の人々によって、自らの命も顧みず懸命の救助活動がなされました。しかし、女性や乳幼児を含む乗客524名と乗組員25名の尊い生命が失われました。
この大惨事には日本の長い歴史的背景がありました。
アジア進出のために、1910年(明治43年)朝鮮から統治権を奪い、総督府を置き、軍隊を常駐させ36年に及ぶ植民地支配を行ってきました。その結果、土地も仕事も失った人達が激増し、その多くは日本へ家族ぐるみの移住を余儀なくされました。一方、アジア・太平洋戦争が激しい中、年老いた母を残した若者や一家の働き手である父親が次々と日本へ強制的に連れてこられ、戦争遂行の労働力として過酷な労働を強いられました。
1945年8月15日の日本の敗戦は、家族との再会や祖国の独立への参加を現実のものとしました。
8月19日大湊海軍警備府が出した「本国送還」の指示で、青森県下北半島方面で働かされていた朝鮮人とその家族3735人(政府発表)が乗った旧日本海軍特設輸送艦浮島丸(4730トン定員800名)は8月22日午後10時大湊を出港し釜山にむけて航行を続けました。ところが何故か舞鶴港に入った直後、この大惨事が起きたのです。
夢にまで見た故郷や肉親との再会を翌日にひかえて、船内が沸き返っていた最中に、予想もしなかった大惨事に遭遇し、尊い生命が失われました。その哀しみと無念さは言葉では表し難いことであります。
私達舞鶴市民が浮島丸事件を取り組む時、一つには浮島丸事件の背景を「日本の歴史の中で考える」ことであります。もう一つは故郷へ無事に帰ることなく「絶たれた希望や想いを共有すること」であります。それを語り継ぎ忘れず次世代に伝える責任を「日本人として」果たさなければなりません。
1978年8月24日舞鶴市民は「犠牲者の冥福を祈るとともに、再び悲しい歴史を繰り返さない」という思いや事件を風化させないために、多くの市民の浄財と京都府及び舞鶴市のご援助を頂いて事件発生現場が一望出来るこの地に「殉難の碑」を建立し、以後毎年追悼集会を開催し続けています。
政府の責任において、事件の調査が未だになされていません。東京都中目黒の「祐天寺」にはいまだに故郷へ帰れない遺骨が「280体」が安置されています。
浮島丸事件はまだ終わっていないと考えます。
永年にわたり浮島丸追悼事業の基礎をつくり上げられ、がんばって来られた、故須永安郎さんが次のように、私たちに最後の言葉を残されました。
「戦争が終わって73年がたちました。戦争を体験することによって沸き起こった『戦争のない平和なこの国をつくろう』という思いが継続される必要があります。『特に浮島丸事件は、日本の植民地支配、戦争政策の一つとして語り継がれる必要があるでしょう。』 追悼の像を中心に、これからもこの取り組みが続けられることを強く望みます。」と。
今年の追悼集会は、前会長野田幹夫氏・前顧問の須永安郎氏がおられない中での開催となりますが、私たちは二人の意思を受け継ぎ、これからも「追悼事業」を継続していく決意でおります。
犠牲者の皆様のご冥福を心からお祈りして、追悼の辞と致します。
2018年8月24日
浮島丸殉難者を追悼する会
会長 余江 勝彦

  〉 



 在日本大韓民国民団京都府舞鶴支部 支団長 金英王氏の追悼の辞


 〈 追悼の辞
本日ここに浮島丸殉難73周年を迎え 韓国民団を代表して尊い命を落とされました同胞の皆様に謹んで追悼の意を表します.
日本に強制的に又は騙されて或いは土地を奪われ仕方なく日本に来て 劣悪な環境の下強制労働させられた同胞が 解放直後の1945年8月24日再び祖国に帰れるというはやる気持ちと喜びを胸に祖国に向かう矢先の爆発でした.
同胞の無念さを思うと本当に胸が締め付けられます.
日本国が韓半島を植民地化して108年 光復節から73年 祖国が何故分断されたのかとよくよく考えてみると 日本国による植民地化と戦争が無ければ祖国の分断は無かったでしょう.

韓日間の様々な問題を解決する上でこの事を抜きにして語れません.
勿論過去ばかり固執してもいけないと思われますが そう思うにはあまりにも過酷な過去を背負っています.
平倉オリンピックを境にして一気に南北融和ムードが広がり 歴史上初めて北米頂上会談が行われました.
それまでの緊張状態から180度方向が変わりました.
終戦宣言.韓半島の非核化を通じて韓半島の恒久的な平和を望みます.
今までの長い年月の対立構造を考えると簡単に事が進むとは思えません.
しかし多少の時間がかかっても、もつれた糸を解くように一歩一歩前進して行くしかありません.

最後に当時救命活動に当たられた佐波賀の近隣住民の皆様と長年に亘り追悼の行事に努めて来られた「浮島丸殉難者を追悼する会」の方々に謹んでお礼申し上げます.

2018年8月24日
在日本大韓民国民団京都府舞鶴支部
支団長   金英王
  〉 



 在日本朝鮮人総聯合会京都府本部常任委員会 副委員長兼組織部長 金 正根氏の追悼の辞


 〈 浮島丸殉難73周年 追悼の辞

「浮島丸爆沈事件」73周年を迎え、549名の犠牲者に心から哀悼の意を捧げます。

日本植民地亡国の苦しみと悲しみ、残酷な民族差別と虐待に耐え、祖国解放の喜びの中、明るい希望を胸に懐かしい故郷に向かった3、785名の同胞を乗せた浮島丸号が、この舞鶴港でなぜ大爆発し、尊い命が犠牲にならなければならなかったのか、73年経った今日に至っても真実は明かされず、事件に対する寡相究明や公式謝罪、保障すらありません。

儚く犠牲になった同胞たちの悔しさを晴らすためにも、真相解明は一時たりとも遅らせる事はできず、真相解明と解決のためには、我が民族の植民地分断からの過去を清算し、祖国統一と朝・日関係正常化を実現する中で、なされなければなりません。

4月27日、北南首脳会談で「朝鮮半島の平和と繁栄、統一のための板門店宣言」が採択され、6月12日には歴史上初となる朝・米首席会談が実現し、シンガポール共同声明が発表され、朝鮮の自主的平和統一の新しい機達が高まる中、安倍政権はこれと逆行するように対朝鮮敵視政策と、在日同胞に対する不当な差別を加えています。

我々は、「わが民族同士」の精神に基づき、「板門店宣言」を履行し、我が民族の念願である祖国統一を成し遂げ、「朝・日平壌宣言」に沿い、朝・日間の親善と友好の絆をより一層深めていきたいと思います。

解放された祖国の繁栄を夢見て、懐かしい故郷で楽しく暮らそうと浮島丸号に乗船した先輩たちよ。私たちは、先輩たちが抱いた夢と希望をかならずや実現させていく事を固く誓うものであります。
最後に、余江勝彦会長をはじめとするr浮島丸殉難者を追悼する会」の皆様と地元住民の皆様に心から謝意を表し、追悼の辞といたします。

在日本朝鮮人総聯合会 京都府本部常任委員会
副委員長兼組織部真 金 正 根(キム・ジョングン)
  〉 



 献花

京都府、駐大阪大韓民国総領事の献花


 寄せられたメッセージなど


 〈 本日、浮島丸殉難73周年追悼集会が挙行されるにあたり、謹んで追悼の言葉を申し上げます。
73年前のこの日、ここ舞鶴で海軍輸送船浮島丸が沈没し、多くの犠牲者を出す大惨となりました。
この惨事を知る方々も高齢化している今日にこそ、戦争の悲惨さと平和の尊さを次世代に語り継いでいかなければなりません。
ここに改めて平和への決意を新たにするとともに、お亡くなりになりました方々のご冥福を心からお祈りいたします。
なお、厚生労働省でお預かりしているご遺骨は東京都の祐天寺に丁重に安置しており、外務省と連携して早期の返還に向けて適切に対応したいと考えております。
ご遺族の方々並びに関係各位のご健勝を心より祈念申し上げます。
厚生労働大臣 加藤 勝信
  〉 




 〈 浮島丸爆沈事件73周年に際して
祖国の解放直後、故郷へ帰る喜びを胸に朝鮮人労働者とその家族たが乗船した浮島丸が帰還途中爆発・沈没し、多くの同胞たちが犠牲になったあの忌まわしい事件から73年目を迎えました。私は尊い命を落とされた犠牲者とその遺族に対し、謹んで哀悼の意を表します。
日本帝国主義による朝鮮植民地統治から解放され今年で73年が過ぎましたが、この事件の真相と責任を究明し、同胞犠牲者の遺骨を遺族に返還することを繰り返し求めてきた私たちの思いに、日本政府は今も向き合おうとせず、責任を回避し続けています。
私は、日本政府が事件の真相を速やかに明らかにし、誠意ある態度で犠牲者と遺族たちに対する謝罪と補償を行うことを強く訴えます。
今年に入り2回の北南首脳会談と初の朝米首脳会議が開かれ、朝鮮半島には現在、和解と平和繁栄の新たな歴史が拓かれる転機が訪れています。和解と平和の好機を逃さず、8月には北、南、日本の志ある民間人たちが協力し合い、植民地犠牲者たちの遺骨を祖国へ送還する事業を合同で始めています。朝鮮半島と日本との真の和解と新たな未来を拓結こうとする市民たちの思いを私たちはより大きな流れにまとめ上げなければなりません。
そのためにも、日本は朝鮮をはじめアジアの人々に対する加害の歴史を歪曲、隠ぺいし、かつての過ちを忘却してはなりません。特に、朝鮮人強制連行や日本軍性奴隷制問題など、日本軍国主義の加害事実を正当化しようとする姿勢は改められるべきです。現在深刻な社会問題となっているヘイトスピーチも、ゆがめられた歴史認識によって生み出されたものに他なりません。ゆがんだ歴史認識を是正していくことは、日本が朝鮮半島の人々と和解するための喫緊の課題であります。
他民族排他の社会的風潮によっで最も大きな被害を受けているの、まぎれもなく過去の朝鮮植民地支配の犠牲者とその子孫であり、民族教育を受けている在日朝鮮人の子どもたちです。朝鮮学校に通う在日朝鮮人の子どもたちは、高校無償化制度から不当にも排除されているばかりか、地方自治体の助成金まで削減、停止されるなど、民族教育を受ける権利を著しく侵害され、深刻な被害を受けています。
私は、日本政府が朝日ピョンヤン宣言に基づいて一日も早く不幸な過去を清算し、戦後一貫して行われてきた在日朝鮮人に対する不当な差別政策を直ちに是正することを強く求めます。
浮島丸爆沈事件73周年に際し、朝日間の不幸な歴史を克服するため、そして心通い合う善隣友好関係をつくるため、皆さんとともに邁進してまいります。
最後に、浮島丸殉難73周年追悼集会にご参席された皆様に、心からの敬意を表します。
2018年8月24日
在日本朝鮮人総連合会中央本部 権利福祉局長
陳吉相(チン・ギルサン)
  〉 




 〈 「浮島丸殉難73周年追悼集会」開催へのメッセージ
舞鶴市「浮島丸殉難者を追悼する会」の皆さん、海軍特設輸送艦「浮島丸」が下北・大湊を出港してから73年目の夏を迎えます。この間、皆さんは殉難者の追悼と「歴史の真実」を次世代に語り継ぐ為に懸命で地道な諸取組みをされてこられました。貴会のこれまでの努力に敬意を表すると共に連帯のメッセージを送ります。
下北の私たちも貴会の取り組みに学び、浮島丸の航跡と出港前後の「史実」を調べ、証言を集め、追悼集会を継続する中で真実を読み解く努力をしているところです。私たちは8月22日(水)に「第25回浮島丸出港追悼集会」を開催しました。今年のテーマは「浮島丸はなぜ、終戦1週間(直後)に出港したのか?しなければならなかったのか?です。史実を背景に真実に迫りたいと考えています。2018年は思いがけない動きにも驚きもしました。朝鮮半島統一へ向けての対話になるのではないかの期待です。日韓友好を願う私たちとしでは、我が国もこの輪に繋がればと願うものです。 貴会の大先輩、故須永安郎様から寄せられましたメッセージ「浮島丸事件に関わる諸問題には極めで‘現代に繋がる課題’が含まれています。」時が経つほどに心に響きます。
「浮島丸殉難73周年追悼集会」のご盛会を心からお祈りいたします。
2818年8月24日  浮島丸下北の会 会長 村上 準一
  〉 




 〈 メッセージ
浮島丸殉難73周年追悼集会開催にあたり、浮島丸事件で亡くなられた方々に、心から哀悼の意を表明いたします。
東京都中目黒区にある祐天寺には、浮島丸事件で亡くなられた方を始め、先の戦争で亡くなられた朝鮮人旧日本軍軍人・軍属として、1971年からそのご遺骨が祀られています。祐天寺車には、日本の戦争犯罪の肩代わりをさせられた、韓国・朝鮮人BC級戦犯として処刑された方や特攻隊員として亡くなられた方など、今なお700体のご遺骨があります。
今年は、明治150年にあたるととから、政府も記念行事を行っています。明治政府が行ってきた富国強兵政策が、「日韓併合」をはじめとするアジア諸国への進出、戦争へ、ひいては浮島丸の殉難につながったことを忘れてはなりません。私たちは、1日も早く、祐天寺に仮安置されているご遺骨が遺族の許へ、故国の地にお返しをできるととを願って、追悼会を続けてまいりました。目黒の追悼会は、期せずして、平成と元号が変わった年に始まっています。この思いは、平成から新たな元号に変わっても、変わることはありません。
本日の浮島丸殉難73少年集会にお集まりのみなさん、長きにわたりこの集会の開催にご尽力されてきた舞鶴市民のみなさんに、改めて心からの敬意を表明いたします。
今年は8月24日午後6時から30回目の追悼会を開催します。78年前の同時刻には、佐波賀沖で多数の浮島丸に乗船していた人々が救いを求めていたことに思いを過らせて。
2018年8月24日
第30回朝鮮人戦争犠牲者追悼会 世話人 小林喜平  〉 



 〈 連帯のメヅセージ
2018年度浮島丸殉難73周年追悼集会 御中
2018年度浮島丸殉難73周年追悼集会にあたり、犠牲になられた方々への心からの哀悼の意と、平和への誓いをこめて連帯のごあいさつを申し上げます。
ニ度と戦争のない平和な世界と日本を作ることが政治の責任と、強く自覚をしているところです。
昨年の国連での核兵器禁止条約の採決や、6月の米朝首脳会談で、平和の道のりが大きく前進しています。
戦後70余年。私たちは、「戦争できる国づくり」を許さず、今こそ日本の平和憲法を守り、韓国・朝鮮の皆きまと手を携えて、恒久平和の実現のため全力でがんばる決意です。
最後に、ご遺族ならびにご参加の皆さまのご健勝とご多幸を祈念し、ごあいさつとします。
2018年 8月24日
日本共産党 衆磯院議員 こくた恵二
      参議院議員 井上さとし
      参議院議員 倉林 明子
  〉 




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 参考資料
会の略史が同じパンフに書かれている。


 〈 浮島丸事件と追悼事業の経過   (資料)
1.昭和20年8月24日午後5時20分頃、京都府舞鶴港に入港してきた海軍特設輸送船「浮島丸」(4730トン)は、突如大爆発を起こし船体は二つに折れて沈没、地元の人々や海軍艦艇の救助活動にもかかわらず、乗組員25人、乗客524人計549人(政府発表)が死亡する大惨事となりました。
2.浮島丸に乗っていた人々は、青森県地方で働いていた朝鮮人労働者とその家族3735人(政府資料)で、戦争の終結に伴う帰国の知らせで配給された浮島丸に乗船、8月22日午後10時青森県大湊港を出港、朝鮮釜山をめざして航行中8月24日進路を変更して舞鶴港に寄港し、この災禍にあったものです。
3.浮島丸の船体は長く海中にありましたが、昭和25年に後半分が、昭和29年に前半分が引き揚げられ、船内の遺骨も収集されました。これを機に京都の著名人の呼びかけによる慰霊祭が舞鶴東公会堂で行われ、以後は市民の手で慰霊祭が行われてきました。
4.昭和50年代に入り、関係者の死亡等により事件の風化が心配されるようになり事件を語り継ぐモニュメントを製作する動きが起こり、舞鶴市長(当時)を会長に「浮島丸殉難者追悼の碑建立実行委員会」がつくられ、市民の募金と、京都府・舞鶴市の補助金を得て、事件現場を目前にした場に「殉難の碑」及び公園がっくられ、(昭和53年)、以後この場所で追悼集会を行い今日に至りました。
5.「浮島丸殉難者追悼の碑建立実行委員会」は建立事業が完了したことから、「浮島丸殉難者追悼実行委員会」に改組されました。平成7年浮島丸事件を題材にした映画「ちょうエイジアンブルー・浮島丸サコン」が製作され、舞鶴市内でもロケーションが行われこともあって、事件に対する市民の関心の高まりが見られことから、個人参加の組織に改めることにし、平成8年5月10日「浮島丸殉難者を追悼する会」を発足させ、以後追悼事業を行うことになったものです。
6.浮島丸事件死没者名簿を入手したことから、事件と追悼事業の経過を併せ「浮島丸事件の記録」(A6版188ページ)を1989年に発刊しました。
殉難の碑」及び「公園」の設置から20周年にあたる1998年に記念事業として浮島丸事件と追悼事業に取り組んでいる青森・東京・舞鶴の関係者による「シンポジュウム」と追悼事業をまとめた演劇「1998年夏・絆〜海を見つめる群像の物語〜」を発表しました。
7、浮島丸事件を題材にした映画「エイジアンブルー・浮島丸サコン」ハングル版がつくられ、2001年より韓国で上映されたことから、韓国で事件と舞鶴に対する関心が高まり、2002年・2003年には韓国光州市民との交流・相互訪問が行われ、韓国芸能の舞鶴市民へ公開公演が行われました。また、2005年には中国・北京大学での映画上映が行われました。
こうした国際交流の成果を受けて2005年、浮島丸殉難60周年企画として「国際シンポジュウム」を韓国・延世大学、中国北京大学の研究者、及び日本の関係者の協力を得て行いました。また、これまでの追悼事業の取組が評価され、駐大阪大韓民国総領事官名による感謝状が贈られました。
8.2010年8月24日「韓国併合」100周年・浮島丸殉難66周年追悼集会を実施。厚生労働大臣からのメッセージを始め駐大阪大韓民国総領事、京都府知事・舞鶴市長の献花と追悼の言葉をいただきました。参加者一同、犠牲となられた海に献花し悲惨な歴史を繰り返さないことを誓いました。9.2011年7月23日紙芝居「浮島丸事件」完成 上演活動開始。
8月25日から30日 紙芝居「浮島丸事件」完成報告下北ツアー実施
「浮島丸下北の会」と交流
11月14日 韓国海軍舞鶴寄港時 司令官・艦長・東京韓国大使館員(通訳)下佐波賀「追悼の碑公園」訪問・慰霊・献花
映画「エイジアンブルー・浮島丸サコン」製作監督死去 「東京 偲ぶ会」参加
10.2012年2月7日 韓国「ハンサリム」の一行 下佐波賀「追悼の碑」公園訪問 追悼・献花
6月 碑公園「ハマナスの木」植樹 追悼歌「ハマナスの花咲きそめて」歌詞パネル設置
11月韓国「東学農民軍の歴史を訪ねる旅」ツアーに参加
光州市民との交流会で「浮島丸事件」について講演
11.2013年8月8日「東アジア青少年歴史体験キャンプ」日・中・韓(中・高・大学生参加)「追悼の碑公園」浮島丸殉難者追悼集会実施
12.2014年「浮島丸追悼公園」環境整備 井戸設備確保
2014年8月24日 浮島丸殉難69周年追悼集会 開催
13.2015年7月25日「浮島丸事件 70周年のつどい」開催
追悼事業を振り返って 浮島丸下北の会の取り組みについて
映画「エイジアン・ブルー浮島丸サコン」 上映
14.2015年8月24日 浮島丸殉難70周年追悼集会 開催
15.2015年 韓国MBN TV局取材 光復70周年特集「帰国前」全国放映
16.2016年8月 韓国KBS TV局 取材 全国放映
17.2016年8月24日 浮島丸殉難71周年追悼集会 開催
18.2016年9月19日 浮島丸殉難71周年講演会 講師 中塚 明氏
19.2017年4月16日 北海道大学助教 ジョナサン プル氏 英国人
 ハイデルベルグ大学教授 Drスティーブン アイビンズ氏 ドイツ大
  共に、「引揚」をテーマに研究し来舞「浮島丸事件」を取材
 尚、アイビンズ氏は帰国し「浮島丸事件」の事業を国民に伝えていくと述べる。
5月11日 浮島丸事件学習 福知山市内中学1年生
8月24日 浮島丸殉難72周年追悼集会 開催
10月14・15日 近畿大学生協学生 宿泊研修「ピース・ナウ舞鶴」
11月11日 浮島丸事件研修 京都総連西支部 浮島丸事件 講演
12月27日 京都より浮島丸事件研修 年金者組合 女性の会
20.2018年5月9日 浮島丸事件学習 福知山市内中学1年生
7月1日  浮島丸殉難者を追悼する会顧問須永安郎さんを偲ぶつどい開催
7月27・28日韓国大邸KBS TV局 取材 8月15日放映
8月9日 日本歴史教育研究連合協議会 研修


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会場
 わかりにくくて不便な場所↓ですが、会場はここです。車も駐められます。追悼の意あれば、どなたでもご参加できます。11時からです。






  浮島丸殉難追悼集会の記録

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イチャモン顛末
カメラの三脚を立てると、広い面積を専有するし、子供などつまづく危険もあるし、主催者が嫌がるかも知れない、そんなことで普通は立てないのだが、ビデオの場合はそうしたわけにもいかない。
私の場合は、どこであれ、自分が最初に立てたりはまずしない。ほかの人はどうしとってかな、と確認してからである。ほかの人が立てているならまずOKだろう、というわけである。
ワタシばかりでなくベテランは皆そうしているように見える、管理者に許可を取るといってもだいたいそうした管理まではしていないし、責任は持てない、そうした人がいても、危険のないよう自己責任で公序良俗の範囲でよろしくお願いしますの返事くらいしか帰ってはこない。それはそうだ自分から会場を開いて「たくさんの人が来られることをねがいます」などと言っている以上は、写真もビデオもまして三脚ダメなどと勝手なことは言えないのも道理。どうしても遠慮してほしい所にはお寺のご本尊などに見られるように「撮影禁止」の小さな看板を立てる。案内書のはしにでもその旨を入れて、予め周知徹底の努力をする。せめいこれくらいのことをしていないと文句が出ても当然だろう。
「皆様のご参加を願います」は口先だけ、実は「ワシらだけでやるから、ヨソ者は勝手なことはするな」という立場か、「来てくれ」はウソで本音は「来るな」ということなのか、この基本的な姿勢がかかる問題なのである。
仮に不断はヒミツ、セクトですよ、ワシガ大将、ワシらだけの世界です、それであったとしても別にかまわないが、自らがこの日はオープンです、たくさんの人、どうか来て下さいの日にも、その流儀を出したのではそれはヤシである、オープンの日まで私物のように思ってはならない、集まってくれた人達が王様の日である、王様になってもらって以降も事業を主体者として支えてもらおう、一日王様の「わがまま」を聞いておかないといいものにならないなどとする深い叡智であろうか、オープンというなら普通の世間の意味でそうしたオープンにしてくれ。何よりもオープンの日くらいはもっとアイソよくふるまえ、店頭に幹部が勢揃いしてやってきた人をニコニコホペポコ迎えている、常識的にはそんな姿を想定しながら、人々はやってきているのだぞ。役人、学校の先生、そんな顔ぶれが多いようだが、この組み合せはヘタするとヤバイ、もっともそうしたことは苦手、本来は民に雇われた民の下僕なのだが、何を思い違いしているのか、いつでもワシが大将だと思っている、世間の常識もないとよく非難される、報道されるトップの方だけではなく、下の方もそんな所がある、そうした巨大組織の持つ暗部、誇りでなく埃のようなもので、上も下も真ん中もなく、右も左もなく、平和も戦争もなく、その世界でメシをくっていればいつの間にか共有している、たまたま表に出るかもみ消されるか、あんなトコにおるとワシまでおかしくなりそうだ、ワシだけならまだしも子までおかしくまるかも、と悩まれて巨大組織を去られた人をワタシが知る範囲でも何人かおられる、昔のことで、もう故人になっておられるが、今は聞かないが、それもせずに、言っては悪いがノーノーとガンバッテ続けているのだから、較べてみれば、現代人のセンスと生き方はタカが知れたクズのようなもの、そのダラクの先に次の浮島丸が立ち現れねばようが、ワタシもそのハシクレだろうから、そのワタシが言ってもムダかも知れない、言うのも馬鹿臭いことかも知れない、しかしもし短時間でもそうすれば運動は大きく変わるだろう。ワザワザとやって来てくれた大事のお客様に対する飛んでない大失礼をやってのだから、たまたまの珍しい大バカ者の個人的な仕業なのか、それとも全体のそうした社会での特異体質が、こんな特別の日でもどこかで影響しているのかを深刻に考えて、どう文句を言われても聞くより仕方もなかろう。オープンの日でもわけのわからんことを言って規制したがるのは舞鶴の腐った学校だけかと思っていたが、当会もそうした類なのか、どこか不思議な共通する精神が感じられた、教える資格があるのかの自己チェックもなしに人には親切にしなさい、などと教えているのであろうか。これは買ってもらうと困る、それも困る、どれも困る、クズだけ買え。気に入った物を買いにきているのだアホか、深刻に受けてとめてくれるのを期待する。
写す側の自主規制としては、基本的には三脚は立てない、立てている人は、三脚もっているのだぞと見せたいか、何も考えない人か、それなりの何か強い思い入れがある人なのである、何とか世界に伝えたいとか、記録を残す貴重なものだとかの価値判断あってのことなのである。そう思いながらやってもそう多くの人が見てくれるわけでもなく、愚かな徒労かと自嘲しながらやっている。。
この集会の会場でも同じで、確認をまずして、現場の記録写真もそれとなく撮っておく。どんなトラブルがあるかもわからず、自己責任だからである。
今回も1時間ばかり前に会場について、確認している、写真の通りに、ダレかが三脚を立てていて、ビデオカメラを置いていた。
毎回ここはダレかが私よりは先に来ていて三脚を立てていた。これなら大丈夫だろうと、その反対側が空いているので私の三脚を立て、むき出しでは見苦しかろとカモの布で覆っている。
そこへバカがやってきたエエカッコしたいというだけのカルイ者のようである、「イヤそこはジャマになる」「何でジャマじゃ」、反撃に遭ってあわてて、「皆がヘンなカメラがあるというとる、ナンあれはと」。でまかせ言うな、反対側にカメラがすでに置かれていることは十分に承知していたが、それは何も言わない、バカだけならカワイイがそうとうに根性ワルだから腹が立つ、当方だって何日も前から準備して暑い中を出かけているのだ、こんなバカに偉そうにされるとキレる、しっかりワナをかけてやることにした。
このダレかさんのカメラは私が行くより先から、集会が終わるまでここに置かれていた。もちろんビデオ撮影しているものと思われる。表側から写した写真にもこのダレかさんの三脚が写っているので見ておいて下さい。
いろいろいろいろとへリクツをこねて、それを書くのもバカバカしいのでもう書かないが、子供だましみたいなでまかせがこのオジイに通じるとでも思っているのか、しっかりせえよ、オマエはオレよりだいぶに若いだろが、脳味噌は老化の極地、もう死んでるぞ、情けねえヤツだな、私のカメラだけをのけるよう言う。いかに不当な言い分かは理解していただけよう。このダレかさんの三脚は何もいわない、ずっと置かれている、それなのにその反対側の私の三脚だけを言う。
参加者の全員の目に留まる所のイチャモンで、これ以上もめるのもいかがかと判断して会の言い分を聞くことにして引き下がったが、まったくナットクはしていない。
何が「ヘンなカメラがあるとミンナが言うてんですわ」だ、そのでまかせの先に次の浮島丸がなければよいが、そうしたデッチアゲの理由付けが万一本当だとしても「ありがとうございます、毎年キレイに撮ってもらいまして」という礼も届いている、これはでまかせではないぞ、そのメールを残している、いろいろ見方はあるものなのである、遠くから暑い中をたくさんの人が練習してかけつけてくれている、心ない差別と偏見、ヘイトスピーチの中なのである、迎える市民としてその礼としてせめて、と思いやっていることである。厳しい環境の中で生きている人は人間のデキが違う、おおきに、ごくろうさんの一言も言うでなし、当然みたいな顔して、さらにイチャモンまでつける、ワタシのような立場の者がよく「おおきにくらいはいえよ」と一人ぼやいているのを聞くが、あんなモンやで、腹立てないな、あれはなおらんで、死ぬか亡ぶまで、と慰めることにしている、しかしいかに人のために尽くしたことがない者で、そうした人の気持ちがわからない人のクズかが透けて見えて、それがナニサマに成り下がったのかと同市民同胞といえ情けない気持ちである、「外交上の配慮」から公にするのはどうしたものかとも考えたが、こうした運動員の多くによく見られる悪い体質のようなもの、もちろんそうではない人もいるが、一般にはこうした者であふれている、外からそれがそのまま会へ持ち込まれたものと思われ、会が気付かず放置していれば、須永氏スマイルからはずれるし、「須永さん言いにくい話なんですが…」の穏やかな迂回回路もなくなった、相手のムシの居所が悪いといきなりきついことになってくる、仮に理念が優れていても、それだけではどうにもならない、それよりもたいていはアイソのよい方ヘ人々は傾き、明るい明日が待っているわけもないと考えたものである。追悼と平和と友好のオープンの場である、仮に日頃は覆いようもなく根性が悪く人間性のカケラもない心ないクズであっても、せめてこの日ばかりはお互いに根性の悪い態度は慎しみ、真人間で温かく穏やかに事に当たろうではないか。歴史は二度繰り返す、浮島丸がもう目と鼻の先で待っている。マルクスもペゲルも認めている、ワレラ自身も深い内省を欠いていれば、その大きな歴史要素となってしまう、この日はその内省ためのものでもあろう。



電話もネエ、メールもネエ、ネットもネエ、連絡先問合先もネエんだからあるわけがネエ、
 …俺らこんなのいやだ、俺らこんなのいやだ。

イヤだけれども大事な機会であるし、イヤだだけでは済まされないものでもある。事件現場近くに住む日本国民のハシクレとして、当地は深く戦争責任や植民地支配責任を感じて集まるわけで、えらい気の毒なことをしてしまった、と某かの加害責任に責められながら、日本国内のアウシュビッツなる現場を前に厳粛に向き合わざるを得ない、さてさて非力なワシでも何かできることがあるのだろうかと、何も会に心酔しているとかのわけではない、会の笛に踊っているわけでもない、「ワシらは助けたんじゃ」などと軽い者もいるかも知れないが、たいていは会員以外ならほぼそうした重い思いを心に抱いてのことであろう。そうした人達が集まる場であり、会にはそのホスト幹事役を願っていて、何も万全は期待しているわけでもなく、40年もご苦労さん、深謝スの気持ちだが、お集まりいただいた皆様ありがとうございます、十分な心配りもできませんが、共に追悼し我国が過去に冒した戦争の責任の一端を思い起こし二度とそうした過ちを犯すまいと心に刻む機会となりますようにとか、の挨拶もなく、会の挨拶だけには周囲の人々への感謝の気持ちが見られず、それは言葉足らずとしてまだよいとしても、舞鶴流の外来者に向けての無愛想がそのまま出ていて、さらにワシガワシガ、ワシガ40年やっとります、ワシだけがやっとます的な、ワシはエライんですとでも言いたいのか、40年の超ベテランとも思えない、どうしょうもない田舎の舞鶴天狗なような虚勢でにまで出てくれば、同じ舞鶴人でも腹に据えかねることになる。
ワレラにエラそうにする資格があるのか、この地で日本人のハシクレにその資格があるのか、考えるまでもなかろう。
会にできる声がけは「お困りはございませんか」「何かお手伝いできますか」であろう、ついでに「ワシは40年もやっとりますアホですさかいに、たいていのことなら何でもわかります、何でも遠慮なく聞いて下さい。ただし古いことならで、新しい事はあんたらの方が詳しいだろ。40年もおりますが40年ファーストでありませんよ」とでも言えば、おっカッチョエエ、この人はアホではない、とソンケーしてもらえるかも知れない。
市民的な横つながりの運動だから、市民に上下の関係がないように、40年であろうが0年であろうが、同じココロザシを持つ者同士として何もお互の資格には大きな差はない、40年は上、0年は下、とかの年功序列組織ではない、まして外部の人とはそうした関係ではない、そうしたことは置いて目標めざして互いに尊重し合い協力し合うというものであろう。
口先はともかくも不断からどっち向いてお仕事されているのか、市民はまったく視野にはないような様子が窺えそうなことで心寒いことでもあり、だいぶにブラックボックス的なところがありそうで、その現れかも知れないが、台風で延期されたことも市民にはわからなかった。ワタシもわからない。どうするんだろうと、当日現地まで出かけてはじめて知った。会のSNSもなく、ブログもホームページもない、メールもない、電話も公開されていない。連絡先が公表されていないのだから一般市民から会にアクセスする道がない。
会には知っている人もいるので電話して聞けばわかるかも知れない、しかしいそがしいだろう家に居るだろうか、スマホなんか持ってたかな、と遠慮したが、こんなことでどう市民に向けて発信し運動を進めていく気でいるのだろう。
まったぐ若者ア俺一人。婆さんと爺さんと数珠を握って空拝む。俺らこんな村いやだ 俺らこんな村いやだ。東京へ出るだ。東京でベコ飼うだ、と若者たちは去っていった。ワタシらの頃である。
きょうびの市民運動では考えられないことであるが、これは「40年の伝統」で、運動が市民の方を向いていない、古い型であることによるものであろうか。あるいは市民運動でなく労働組合運動として立ち上がってきた歴史、舞鶴という町での運動といった文化的な制約などにによるものと思われるのだが、まだその胎内から離れていない、母体と一体のものなのか、それとも母体から新たに誕生した独立した生命体なのか、そのあたりが今もアイマイのように見える。独立した組織なら総会とかは欠かせないが、そんなものがあるのかどうかもわからない。自分の実体をはっきりしておかないと、深い理解を持ってくれる場合ばかりではないので、対外関係が難しいことも増えてくるであろう。今のままでは組織としての実体があるのかないのかもわからない、抗議の申し入れ先もわからない、これでよいなどどは思わないで制約を弱さを一歩一歩克服していこうではないか。
永年の栄光の伝統とは一面「古い老朽機械」だということで、ヤバイやっかいな物だということでもある、原発以上の時代物、点検して修理して分解して部分的にでも新しい機械に入れ替えて、ちょっとおかしければすぐ止める、そうしていかないと、大事故となりかねないものだということでもある、全体的には時代に合った新機械に入れ替える基本設計も頭におかねばなるまい、赤信号黄信号の絶えることはなかろう、安泰にアグラをかいてはおれない。
これは今となれば大きな弱点にもなり、市労○あたりや舞教○あたりがカゲで中心になるような市民運動は気をつけなければなるまい、労働運動としては優れていても市民運動としても優れているとは何も限らない、ヘタすれば浮島丸事件を引き起こした体質を残しているかも知れない。過去の運動を引き継いだ、あるいは労働運動そのままでは市民はカヤの外という感覚が残る、どこか身内だけの意識で、外には排他的で独善的な、いくら市民運動だと言っても、それはホンマか、オマエらの自己都合だけでないのとなりかねない、せっかくの運動も現代的、市民的役割を果たすことができない。ワタシのようなジイさんでも、ちょっとね、古すぎでないの、ワシらが20代か10代頃のものだ、あの当時はこうするしか方法もなかったが、あのやり方でないか、しかし電話番号くらいは書いておかないと後でブツクサ言われるがな。やれやれ50年前の気の利かないそのままの化石かゾンビだな。ジイさんもため息つくようなことであった。
会は独立した組織として自分の足で立って市民に向けて十分な情報を発信してくれ、そうすれば、当サイトもめでたく役割を終えられる。ワタシが言ってることが理解できてるだろうか、失礼かも知れないがそんな恐れすら感じる。「40年の伝統です私らはがんばって来ました」はそうであっても、ちょっと置いておかれるとよいかも、たとえば仮にどこかのバスの運転手なり船長なりが、ワシはエライ運転手で40年もガンバッテきた者です、ソンケーせにゃ間違いですで、などと問われもしないのに、自分から吹聴すれば、客はコリャまともじゃねえ、多くの命を預かっている以上はモハン運転は当たり前、エライ運転手も当たり前ではないか、何を思い違いしているのだ、ヤベーヤベーと皆降りてしまう。
看板立てて済み、電子情報技術についていけまへん、ならカワイイが、ついていけないからか、アレは悪魔の機械でゴザル、タマシヒが抜かれまするぞ、か敵視軽視蔑視している感覚では、たぶんできまいが、イチャモンつけの事務局ではなく、いまどきの市民組織としてしっかり、舞鶴まで行ってよかたと誰もに思ってもらえるよう、そうした仕事のできるものに刷新し、いつの日にか、もしかして自己チェックもして、マコトの意味で浮島丸を終わらせてくれるかも知れないと期待しておこうか。



 
関連情報
 72年前の浮島丸事件とその後のおおよその経過は、すでに何度も書いていますのでそちらを参照して下さい。

以前の追悼集会については「浮島丸追悼集会:丹後の伝説17
事件そのものについては「浮島丸事件
など参照して下さい。



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