丹後の地名





    2019(令和元年)
   浮島丸殉難74周年追悼集会

        於:舞鶴市佐波賀下 殉難の碑公園

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 2019年(令和元年)8月24日は、浮島丸事件から74年目。74年前(昭和20年)のこの日(終戦から9日目)の午後5時20分ごろに当地のすこし沖合を通りかかった「浮島丸」は、ナゾの爆発を起こして沈没し、多数(これまでの政府発表では549名)の乗客や乗務員が亡くなった。
 実の所は、事件と書くのか事故と書くのかそれすら不明で、残されている犠牲者の遺骨の数も不明になってきたような、日本政府の従来の一方的主張がゆらぎはじめたかも知れない感じだが、その返還は見通しがたたず、事故の原因や犠牲者数などはこれまでは何も納得のいく解明はなされていない。終戦直後のドサクサまぎれのままに、その後も74年間よいかげんな話だけで、ほったらかしにされ、忘れさせられてきた。浮島丸は実際には何も終わらないままにこの日を迎えている。

 今回は日韓関係史上最悪とも言われる、それは政府間のことではあるが、それが民間にも広がりはしないかと懸念されている中での開催となった。
実際に慰安婦「少女像」の展示が中止になったりしている。オオヤケの立場にある者も主催者に加わっているようだが、そのオオヤケの立場を正しくは理解していないように見える、公権力は社会のすべての人々の表現の自由を守り保障する憲法の立場だと心得ているのはチト頼りないが愛知県知事くらいだろうか、妨害すれば即警察だくらいの心得がほしい、ほかは自分の考えがオオヤケだと思い込んでいる者のようで、それはオマエの個人的な考えだろがオマエの立場はオオヤケの立場であってそれはそうしたものではなかろと言いたくなる程度の者、彼らとすれば日本国のためを思い国を愛して言っているつもりかも知れないが、それはその思いとは逆の結果しか生むまい、外部から日本を見る目も内部の人間の精神も決定的におとしめる、ドイツ大統領の発言などと比べてみればその人間の魂の品質の差は歴然である、敬虔なキリスト教徒と何の教えも持たない、子どもがそのまま大きくなっただけの人間の差かも知れないが、それにしてもこの程度のタイショウか、まさに再度の大敗戦が目前に迫ったの感がする、犠牲者はまた国民大衆である。
オオヤケが一部の人々の表現の自由を保障していない、「多くの人々」の考えしか見えていない中学生レベルの社会のように見える、大小に関わりなくもしそう表現公開を希望ならば、その場は公権力は税金を使って保障しますであろうかと考える、そうでなければ何がオオヤケだろう、誰にも自由があり民主主義かあることを認めなければ個人的私的な権力でないか、ワシが唯一のニセ権力にワレラは税金を納めているのか、それならまことに情けない社会でないか、自分が多数派なら少数派の表現は力で押さえ込む、もしやその通りなら大変にヤバイ、自由な国でも民主主義の国でもない、その名誉ある地位から転げ落ちつつある一党独裁のファッショのヒットラーの国である。誰が苦しみだれが大喜びするものかは当事件がよく物語る、理性を取り戻してくれ。
都市には自由と民主主義の空気のようなものがあった、ワタシの若い頃のハナシだが、あれがなくなっているように思われる、舞鶴にいては直接にはわからないが何かそのように感じられるのだが、田舎にはそれはなかったが、共同体的なつながりの良さのようなものがあった、それもなくなってきて、両方でひどい状態となってきているのかも知れない。ゼニゼニだけでそのほかには無関心社会か。
重要な問題だがそれはともかくも世界平和と諸国民の幸福と繁栄を希求するという憲法下の日本国民のハシクレとしては、同じ願いに立つ諸国民と力を合わせその実現に向けてさらなる努力を重ねたいと思う。ここまでは憲法だが、それは最低限の市民としての勤めのハナシで、我国の侵略を受けた国々の人々と向き合う場合は、われらは加害国の国民だということも忘れぬようにしたい、しかも償いきれない超重い大罪という負の大遺産である。しかもしかも当地はアウシュビッツなみの大虐殺の地である。もうどないしようの泣きたくなる立場だが、これを忘れるから、愚かにも偉そうにふんぞり返ることになる。ドメデタイと言えばそうした者かも知れないが、この穴があれば隠れたくなる立場を忘れると、日本人同士であっても歯車が当然かみ合わなくなろう。ワタシとしては、オマエなワシらは侵略者の側の人間だということを忘れてないか、その反省の立場にあるのならもっと謙虚に丁重な言動であってしかるべきやろ、とついつい言いたくなってくることになる。
まことに幸いにも当会には今のところはそうした影響は見られないようであった。はるばると空路駆けつけてくれる労組もあった。市民、労組の平和運動の新しい主体が生まれつつあるのだろうか。よくその声を聞きたいものと思う。


ぞくぞくとご到着。当時の世代よりも、だいたいは戦後の世代のようであった。新世代、次の世代、運動が引き継がれ広げられるかどうかの重要なカギの世代なのでこの声はよくよく聞きたいものである。ワタシは古い世代なのでワタシの声は聞かなくてもいいが、この世代の声はよく聞いてもらいたい。

過去の問題を今の事案にまでリンクさせて広げてはなるまい。帝国のゾンビでもあるまいし、過去は過去として今とは切り離して対処し、それはそれとしてその枠内で解決に向け真摯な努力をされるよう願う。


南北と日本が一つテントの下に集う、この光景はオリンピックと当会だけだとか…
隣国同士のケンカはやめよう。仲良くする、これが小学生でもわかる原則であろう。こんなことでケンカしても勝者はない、何のホコリにもならない、昔のことでケンカするなどは、子どもかとあきれて笑われて恥ずかしいだけのものであろう。

 またワレラの側も平和に向けて努力する二等兵だという立場を忘れてワシガワシガ、ワシはエライなどと勘違いしてふんぞり返り、互いを尊重するということをコロっと忘れると運動は回らなくなるのでこれも気をつけたい。
どこがオマエはエライんじゃ、と言われれば、答えることは、お互いまずはできない。お互いにそうたいした者ではなく、だからこそ力を合わせなければならないし、現状に甘んじることなく絶えざる努力が求められるものであろう。


 殉難の像が見つめる前の海が惨劇の海である。このあたりの海(今、船がいるあたり)に浮島丸は沈没、マストを海面上に出し犠牲者を船腹に乗せたままに、長く置かれたままであった。


このあたりの海岸は泳ぎついた人や泳ぎつけなかった人で一杯であった。

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 当ページは今回の会の様子一部の簡単な紹介です。

 ↓以下は集会の式の順番通りの紹介ではありません。1時間ばかりの集会のメダマ、小学生でもわかるもの(私の判断)の方を先に写してきたものを簡単に紹介します。

 献茶

 韓国茶道協会京都支部の皆様

 


 追悼の舞
 金一志韓国伝統舞芸術院の皆様
 

 追悼歌 はまなすの花咲きそめて
 京都朝鮮中高級学校の皆様
 


音楽データー



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はまなすの花咲きそめて'19」(mp3 4.78M)


誠に申し訳もない、ワタシとしては例年どおりにカメラを用意して行ったのであり、いつものようにできる限り美しく長く記録に残したいと思っていたのであるが、かなわなかった。申し訳ないがシリばかりしか写せなかった。当会の今のやり方、会場の設営のあり方だとどうしてもこうしか写せない。
ワタシも若ければ、主催者の姿勢がどうあれ、何とか出演者に喜んでもらえるよう懸命の努力をしたのであるが、もうトシである、もうそうしたことが出来かねるし、今回の設営のあり方では、たとえそうしてもムリであった。
写せるものなら写してみんかい式のやり方考え方、見る人はジャマモノみたいに考えているのか、こうしか写せない。主催者の姿勢レベル以上には写せないし、もし写せればウソになろう。
ヘイトや差別の中、練習を重ねて遠路足を運ばれた皆様のことを思うと残念に堪えない。情けなくて泣けてくる。重ねて申し訳ないお詫び申し上げる。
キミたちのことなどはヘとも考えてはいない、これが会の基本姿勢とは考えたくはないし、そうしたことではなかろうが、しかしこれではそのように取られても致し方もあるまい。そうではないと言うのなら猛省とステージの抜本的大改善を強く望む。次回はキッチリとやってくれ。会がしっかりやってくれればワタシもシッカリ写す、皆様も喜んでくれるかも知れない。
もしもここにいつものように何君がいると、ここは考えてくれていて、ずいぶんと像とコーラスの間を空けてくれていた、カメラの引きしろを見てくれていたのであるが、これだけ空けてくれるとカメラが入れる、まがりなりにでも正面から写せた。彼はステージ設営の経験もあるし、ニコンの熱烈ファンでもあり、当然のこととして、そのようにしてくれていたのである。彼がいればこれはいいものが撮れるかと期待できたが、今年は彼の姿が見えなかった。
もうガッカリである、ロクなものが撮れんな、どないしたものかと悩んでいると、花の中にカメラを突っ込んでみたらどうですか、上から糸を垂らしてそれにカメラをぶら下げたらどうですかと、たぶん韓国の人だと思うのだが、見かねたか忠告して下さる。まあしかしそれも名案だが、致しかねた。
せっかく遠くからやってきて下さる皆様が気になる、しかし申し訳ないが、どうも写せそうにもない。
コーラスラインと像をこれだけくっつけて、どないして写せというのか。11名が横に並べばどれくらいの間を空けないとカメラに収まらないか、それくらいの計算もできないのか、15ミリ広角でもまったく写せない。カメラに対する配慮が足りないとかいったレベルのハナシではない、何もわかっていないバカばかりにもほどがあるぞのレベルである。はっきりと申し上げれば、わかっていないということすらわかっていそうにない。ワタシは最初は「配慮のない団体だな」と思っていたが、認識が進むにつれて、とうとう最後の認識に到達した、これが正しい認識のように思う、こんな大事なメデイア対策の重要性の認識がまったく欠落した団体だということである、簡単に言えば頭から下に到るまでズレまくった団体である。もうまったくその神経がないのと同じで、これは言えばわかるというレベルではない。下はマイク立てればそれでいい式、まてよここに立てていいのか、問題はないかの点検はない、幼児みたいなエエかげんな仕事であるし、上はその作業を目の前で見ているが、その欠陥は見えていない、おいおいそこはもっと空けてやれ、カメラが入れる分をみてやれ、今年は多いからかなり広い目にスペースをとってやれ、とか言うのかと思えば、何も言わない石のジゾサンか電信柱なみ、知らん顔して見てるだけ、作業者はこれでOKなんだなと思うだろ。上と下でお互いに「沈黙の掟」があるのではなかろう、お互いともにわかっていないのであろう、集団としてそうした知識も気もないということに見える。
仮にワタシが泣いてその設営のまずさを訴えたとしても理解はできないように思える、単に技術が理解できないというのならまだいいが、このレベルだと人間が疑われる、人としての魂と精神に疑問を持たれる、この子らの気持ちををしっかり大事に受けとめる気がないと見られる。
何度も言っているのだが、改善されなくてはもうお亡くなりになっているのと同じ、上は下に丸投げし、下は自分が行っている作業の意味も注意点も知らずただただ惰性で過去のやり方をさらにまずくして繰り返しているだけ。
国内のどの運動でもそうなのだが、ベテランは老化し役に立たず、若いのは育たず、全体に急速な劣化退化と空洞化が進んでしまったのか。情けなくてカメラ向けるのもイヤになってくる運動ばかりになっているが、当会もやはりそうか、まああきれた、お亡くなりになっているのでカメラ向けるのもイヤになった。仕方がないそのままアップするから口先とは大違い、その自己認識とは大違いのその拙劣な設営能力を全世界から笑ってもらうしかない。
大きなスピーカーなども見る者にはずいぶんとジャマになる。スピーカーは少々位置がずれてもどうということはない、見る者写す者優先思想はない、ワシの従来のやり方ファーストである。遠くから暑い中を重い器材を背負ってわざわざやって来てくれているのだから、そのせめてもの返礼にしっかり舞台設営をしておこうとかいった思いはカケラもない。田舎の演芸会以下である。ワタシのカメラなどはどうでもいいかも知れないが、プロの大きな報道カメラが入れるかどうか、そのスペースをみるくらいは、なんぼシロートでも考えてやってくれ。


さてそれよりも重要なハナシをしたい。
「殉難像」は芸術品美術品としてはすばらしい物である、しかしそれはワタシがノーテンキな日本人だからそう思うだけのものかも知れない、ノーテンキ日本人専用の像ならこれで十分、しかしそういった限定はできない像で、ちょっと良すぎる、もう少し控えめがよいかも、ワレラは加害者という認識が弱いかも。


朝鮮人犠牲者たちを「殉難者」と呼んでいいのかもかなり気になる、殉国とか殉職とかは国家社会のために覚悟のうえで命を捨てることだが、彼らはどこの国家社会のために、覚悟を決めて自らの意志で殉死したというのだろう。殉難は「国難にあたり自ら命を捧げて尽くす」という、「殉国」と同義の日本ファシズムの用語ではなかろうか(あるいは厚生省用語かも)。
殉難殉難と昔からいっているので、このサイトでもカッコをつけずにそのまま使っているが、これは大本営語やアベ語の類よりももっと日本ファショ的な歴史の実態を覆い隠して美化するような右翼言語ではなかろうか、言葉には敏感ですぐカッコつけたがる左の活動家らしくもない、この言葉が本当に適切か一度よく考えてみるべきでなかろうか。殉難者と呼んでおけば、国があとをナニとか補償とか取り組んでくれるかも、の淡い期待を込めて、当初はこのように、国(厚生省)に媚びた呼び方にしたのかも知れないが、ナニもしてくれそうにもない、腐った国に期待すると当方側までしだいにおかしくなってくる、そろそろ実態にあった呼び方に戻した方がいいかも知れない。

それはともかくも、こうした所ヘ立てると何物も政治的な側面が出てくるわけで、そちら側から見ればやはり加害者側の作った像であって、会側にはいじわるいかも知れないが、被害者側の立場にたてば何もムリしてまでこちらを向いて歌うことはなかろう、反対を向いて、殉難現場の海を向いて歌いたいかも知れない。
もしそうしてもらえるなら、皆が正面から見えて写せる、逆光にもならない。太陽に背を向ける位置だとかなりの補正をかけないと顔がマックロケになってしまう。見る側、写す側にもまことに180度都合はよくなる。
金一志さんの舞を見ていると強く意識されているのは殉難の海である。像はまあ仕方ないかの感じでほぼ完全無視、しっかり海を向いて舞っておられる、どんどんその傾向がつよまっている、コーラスの子たちも海へ向かっては最敬礼、像へは会釈と敬礼程度であった、それらはワタシの観測だが、実際はどうかは知らないがあるいはそれが正直な感情であろうかとも思うのである。
殉難の碑を向いて歌われるとかなりのムリをして見なければならないし、たいていの者にはその顔は見ることはできない。ステージに立って奥の像に向かって立ち、観客にはシリを向ける構図のステージはおかしい、まともではない、舞台監督はおらんのかい、観客にとどなられそうなことである。ましてや写す者の苦労は、会は自分が行った経験がなくわからないだろう、アホが写しとるわいくらいかも知れないが、写す側はこんなアホな並びをさらしやがってと、それは死にものぐるいものである。
会もひょっとして人ならば、人の深い思いや苦労のわかる人間になってくれ。

もし広島にアメリカ側が像を立てて、この前で日本人よ茶を点てよ、舞を舞え、歌を歌えなどと言われたとしたら、たとえどのように立派なアメリカ人グループが反省の心込めて立てた超芸術品像だったとしても、アホにしとるかいとたいていは横むき腹を立てることだろう。
さいわいにも舞鶴の場合は心広く優しい人達なので、おとなしく従ってくださっているのだが、それが当たり前のように考えてはなるまい。どちらを向いてもらっても結構ですの心構えがいるだろう。
もし広島にアメリカ人が殉難の像を立てていたとしたら、日本人はその像とどう向き合うだろうか…
こうした対比すら行われたことがないのではなかろうか。このような立場の変換をしたことはないのではなかろうか。最初から「ワシらは正義」「正義に気まっとるやろ」の立場に立っていたのではなかろうか。手前勝手な独善性、ワシらが一番エライと思い込んでいて、島国根性で周囲の人々の気持ちを察することになれていない、これが間違いの元ではなかったか。かつての帝国の兵士の精神とどこがどう違うのだろう。たとえ「決まっとる」ことであっても再度立場を変えて、見方を変えて点検しなければならぬのではなかろうか、思考が停止してしまうではないか。
「今年は殉難の像建立何周年に当たります」とか宣もうておられるフシを見ると、よくもまあそう俗物だな、これは加害者側が立てた物だから、被害者側の前でそんなことは言うなよ、そんなモン見ともないわい、と思っている人もあると考えておかねばなるまい、被害者側が立てた少女像をキモイ中傷誹謗だ取り除けと加害者側が言っているではないか、加害者側が立てた像を被害者側がどう見ているかはだいたいはわかるだろ、彼らは紳士淑女社交的だからそぶりにも見せないがそれが本心ととらえてはなるまい、立派な像だが、しかしワシらの気休めにしかならんモンだろがの思いにさせられた。気休めの飾りに当ページもあちこちに使わせてもらっている、一般的無関心日本人を想定してのことであったのだが、被害者側の人達も見て下さっているページなってきたようで、心ならずにも屈辱の思いに追い打ちかけてもと思い、多くはもう載せないことにします。
戦争体験の風化、劣化、退化と忘却をワレラ自身の魂の内にすら発生させてはいないか。手前勝手な思い上がりはありはしないか。加害者の都合のよいようには被害者は忘れてはくれまい。
彼らの戦争被害は今を生きるワレラ自身の手によって発生したのではないのは確かである、ワレラはまだ生まれてはいなかった、しかしワレラの父や祖父やもう少し前の代の手によって行われたのである、天皇や大将が直接手を下したものではない、ワレラ一般庶民の手によって彼らは甚大な被害を受けていた。一生懸命に平和運動をしているからと言って、直接の下手人ではないからと言って、戦後世代だからと言って、このツミは免罪されるだろうか。別に何をしろとは言わないが、せめてはワシラは加害者の末裔、十字架を背負う者のハシクレくらいの意識を持ち続けることは加害責任の最後の最低限の勤めかと、被害者側もその直接の被害者ではなく後裔とはいえ、被害はいまだに後裔にまで及んでいるのだろう、よく記憶しているのだから、加害者後裔のモラル上の責任かと思う、免責されている中学生ならともかくも責任感のある一人前の後継者のハシクレのつもりならば、自分に都合良く考えないで、彼らの心の立場に立ってよく考えてみなければなるまい。彼らの父や祖父やその少し前の肉親は、ワレラの父や…の手によって実際に殺されたのである。しかもこの写真の少女たちにも今もヘイトが投げかけられている。
ワタシの当ページも含めて、これまでずっと加害者側、抑圧差別蔑視者側の運動であった。これでいいのかの疑問は絶えずワタシの頭にはあった。このようなところを会の皆様は一体どうのように考えておられるのかと、参考にずっと見させてもらっているが、立派な参考になったというよりは、これではダメだの他山の石だの方が正直な感想である。言葉の端々に差別者がワレきづかず顔を出していることがある、気をつけてしゃべれ、誰が聞いているかわからんだから、SNSの時代アッという間もなく全世界に拡散してしまう、どんな田舎の片隅に住んでいようが常時世界市民としての姿勢が求められる時代となっている。
こんな低レベルの心がけなのか、日本人よわがハラカラよ、戦争はもう忘れたのか、これでよいと考えているのかと思うこともあった。
被害者側の市民権が十分に保障されていない、偏見と差別と蔑視の時代に、しかも現場が日本国内だったのでそれはある程度は、いやほとんど仕方がないことではあったと思われる、アメリカ本国で日本側が被害者の立場で原爆展を開催するというような自由な国では日本は今もないが、日本市民や行政の協力を得やすいように、不本意と察するが今しばらくこのかたちでシンボウ願えないかの気持ちの姿のようにワタシには見える、加害者側の政治や行政権力が表に出れば被害者側から出席を断られるかも知れない、それでは元も子もない、しかし行政の支援はどうしても必要だし、どうしたものかとずいぶんと悩んだ末での今の市民が表に立つという姿だったとワタシは見るのだが、須長氏より聞いたわけではないので違うのかも知れない、ともかくも将来もこれでいいといったわけではなかろうし、この状態が当たり前のように考えてはなるまい。超ビミョウなバランスの上の今の姿なので、ちょっとバランスを崩すと一気に全体が崩壊しかねないというものと思われる。ガラス細工のわずかな力の変化にでも、すぐに壊れてしまうかも知れない追悼集会だと認識してかかることが大事かと思う。近頃のノーテンキ加害者側はそうしたことは思いにもしないのかも知れないが、加害者側開催なのだから開催者市民のすべてが被害者側の心を第一と心がけていくよりこの集会は安定しない。
原爆犠牲者の追悼会をアメリカ人の(仮に良心的な人々であったとしても)主導で行っているとしたら、やはりどこかオカシイではないか、本来はそうしたものではないと考える。
舞鶴市民開催ならどうして被害者側の出席が得られるのか、舞鶴市民はそんなに立派なものなのか、あの連中のどこがぁ、引揚記念館には浮島丸はないし、昨年は献花にも来なかった市とその市民ではないか、いまだに差別し蔑視しているではないか、おかしいではないか。そうした疑問も当然にあろう。
実は事件の当日は当地佐波賀の人達が船を出し、海に飛び込み、懸命の救助活動をしてくれていた、真っ暗になるまでやってくれていた。これで救われた人も多い。
差別と偏見しかなかった日本で命を助けてくれる人がいた、舞鶴市民は命の恩人ということになり、その市民の言うことだから無下にはできない、恩返しにここは受け入れよう。だったのかも知れない。佐波賀の人達のこの仕事がなければ須長氏でもむつかしかったかも知れない。被害者側にはあの日の命の恩人佐波賀の人々の主催する追悼集会と見えているのかも知れない。
こんな場合は助ける側も命がけになる、兵隊さんは一番あと言いながら子ども女と引き上げていったという、この海はまたそうした感動の物語の海でもあった。
そうしたことはほとんど語り継がれていない、ワタシの住んでいる近くに佐波賀から嫁がれたオバアチャンがいた、この話を聞くと、知らないと言う。佐波賀といってもどちらの佐波賀か知らないが、ワタシの親の世代だから知らないハズはないように思ったのだが、そんなテガラ話ぽいことは村の中でも言わないのかも知れない、カッコよろしいね。
今になって偉そうに言っているのは何もしなかったバカばかりかも知れない、顕彰碑か救助の像でも建てられてはどうか。それでもマッチポンプと言われればそうなるが、この方がまだしも政治的友好史的にはよいかも知れない。

ワレラの手は彼らを絞め殺してきた手であり、その血で汚れている、どう悔い改めようが、どう良心的に運動を進めようがマッチポンプ、マッチで自らの手で火をつけておいて、それを自らの手のポンプで水を掛けて消すと言う偽善的な自作自演の手法、行為でしかないと彼らには受け止められるかも知れない。自らの手で火を消したのならまだいいが、それもしなかった、連合国側に消してもらった、今も火種はくすぶっているが、それを消そうともせず、燃えよ燃えよと煽ったり、ほったらかしである、浮島丸もそうであって、書くのも情けないようなことであり、ワレラがやっていることは、目の前でいまだくすぶる火種の一つを消そうとしているだけのものであり、それはこれまでの歴史を思えば当然のことであろう、市民がバケツを持って、あるいは何も持たずに集まっているというところか。
会の立場はバケツ隊が仕事しやすいようにしてやるということであろうか。何度も言うが、ワレラ日本人はどうしてもふんぞり返る立場にはないし、賞賛されるという立場にもない。
当会もいろいろと根本的に考えてみなければならない時代に来たように思われるのである。スンバラシイスンバラシイと誰もが褒めてはくれようが、そんな歯の浮いたような褒め言葉で、実は加害者側の人間であるということまで忘れて、何かワシほどエライモンはおらんのじゃとのぼせ上がっている時ではなかろう。それは滑稽というよりもアワレなゾンビどもと同じ人のクズではないか。

 ついでに考えてみれば、少女像とか鉱夫像といった被害者側自身の立てた像を加害者側日本人は嫌う。「キモー」と日本政府全国民あげて集中攻撃である、「オマエのほうがよっぽどキモイわ、アホなことは言うな」という正気な日本人はごくまれである、日本国内はもとより、他国の領土にあるものさえ嫌い、撤去せよとか適切な対応とか言う(韓国内とかアメリカ国内に少女像を立てると日本政府が文句を言っている)、他国の領土のどこに何を立てようがその主権の中で行われていることでまったくの他国の自由、日本人が口出せる筋合いのものではなかろう、原爆像を日本国内のどこに立てようがアメリカが口出せないのと同じであり、彼らは少なくとも表立っては口出さないではないか。しかし日本の帝国ゾンビはこれに当たり前のように表だって口出すアホである。「もうオマエは死んでいる」のレベルである。まったくの根も葉もない中傷像でもないかぎりは口出しできないはずではないか。
被害者側が加害者側に謝罪を求めると無礼だと言って謝罪を求めたそうである、日本が原爆投下に謝罪を求めたら無礼なのか、かなり芯からイカレた「盗人たけだけしい」国が我国である、あたかも日の光を嫌うドラキュラの如く、そのような物が此の世に存在すればゾンビどもの生存にかかわる超重大事であり、常識も世間体も投げ捨てた懸命の最後のアガキのように見える。少女像の前では彼らはとけて砕けて裂けてチリとなってしまうのであろうか、歴史的事実と共存できない物とは一体何者か、やはり哀れなゾンビか。
右はもとより左の陣営でも加害責任などを言わない国なので、その当然の帰結でこれでは国を愛するとかいう立場とはまったく逆の結果しか生まないことが証明されているようなことである。
被害者側国がその答礼に殉難の海近くの殉難像を撤去せよ、無礼だ謝罪して適切に対処しろとか韓国政府が申し入れてきたとすればどう思う、勝手な思い込みによる自称リッパな国のようにはアホでないのでそうしたことはあり得ないだろうが、仮の話として考えておいてもいいかも知れない。
ワタシとしては将来的には被害者自身の手になる像か何かを立ててもらうのがよいと思う、それは自称スンバラシイ国の全日本の全国民あげての大反対に会うかも知れず情けないことであるが簡単なハナシではなかろうか、今の像はそれまでの代役と考え、すまんがそれまてシンボウしてもらえまいかのものかも知れない。



 献茶・献花
 集会の最後は犠牲者たちの眠る海へ向けて、参加者一同の献花。タイミングが合わずバラバラの献花となってしまったよう。



なんと美しく頭を垂れる子たちだろう。いたく教えられ感動させられた。
哀悼の意を表わす世界で最も美しい最敬礼の瞬間、だとワタシは思った、これを見ただけでも今日ここを訪れたネウチがあった。日本でもこうしたやり方をするが、どこの国でもこうした礼(お辞儀)をする作法なのだろうか。彼女たちは事前に教えてもらったものなのだろろうか、それとも自然に出たものなのだろうか、格調の高い礼儀正しい美しすぎる哀悼に正直かなりビビってしまった。
見習おう、会の皆様もどうかこの姿であってくれ、常普段はともかくもこのセレモニーの席での話だが、そうでなければ何のための追悼集会なのだろう、こうした気の毒な膨大な犠牲者を生んだ、その加害者はワレラであった、もう二度と加害者になるのはイヤだ、平和に暮らしていこう、犠牲者はその尊い命を犠牲にしてそのことの大切さを教えてくれた、とそこを思い起こし、深い哀悼と無駄死ににはしませんの決意の念を表するものでなければ、仏作って魂入れず、生きてるワレラの魂がその方向に大きく強くゆり動かされるものでなければ、そもそも追悼集会にならないではないか。
ワレラは加害者側なのだから、被害者側よりももっと最敬礼の姿勢が求められる、こうした美しいことはムリとしても心の姿勢としてはそうあるべきであろう、しかしキミたちがこんな姿をしているの見たことがない、たいていは逆で、背中側へ頭がいっていないか、ふんぞり返るという姿勢、醜いぞ、あれは勘弁してくれ。
被害者側の子か孫かはこんなに頭を垂れているのに、加害者側の子や孫はふんぞり返っている、情けないというか狂っているというのか、日本人としてよく考えてみるべきと反省させられた。
主催されている加害者側の人達はみな立派なよい人達である、手前ミソながらそう申し上げる、何も憎くてボロクソに書いているのではないが、そのように見えたからそう書いているだけなのである。
被害者側は鮮烈に記憶されているが、加害者側は自己に不都合で忘れてしまいたい記憶であり、実際にそれを忘れてしまう。もしかすると人間の脳にはこうしたまだよく知られていない楽天楽観ノーテンキメカニズムがあるのかも知れない。
みにくいと言えばそうだが、それがか弱き人間かも知れない。関東大震災時、日本人による朝鮮人大虐殺現場(官憲の隠蔽があり正確ではないが朝鮮人犠牲者2000以上、中国人犠牲者200のよう)を目の前にして、日本人は嫌いだ、私は朝鮮人になりたい、そう叫んだ日本人がいた(折口信夫)、朝鮮人と似ているとかで殺されかけた日本人もいた(千田是也)、氏の場合はたまたま知り合いが通りかかり、彼は日本人だと言ってくれたからよかったものの、そうでなければお亡くなりなっていた、それを忘れまいと是也(Korean)の名を名乗られた、こうしたことでこうした時はキチガイで何をするかわからないのがワレラであり、ワレラの官憲である(銃殺死体もあり軍隊が加わっていたことが知られる)、人を殺すのだからそれ相応の理由がなければなるまい、そんな理由と権限が同じ人間にあるとは思えないが、ともかくもまあまあ納得できる理由と権限を持つ者でなければなるまい、野蛮人でもこうした殺人は行わない、さすがのアウシュビッツも震える、中世の魔女裁判のような、どちらが魔女か悪魔かわからない、アドレナリンが出過ぎるのか、ヨーロッパ中世の閉鎖村落的集団なのか、自分たちは神で他の者は悪魔か魔女かのように思い込んでいるキチガイ集団なのか、ワレラは今の世でもこうした異常な人間にヘンシンする者だ、それに気が付かない者の集団いうことを忘れては何もわからない。
当時の中国政府は調査して「中国人犠牲者名簿」を作成している、朝鮮は日本だったので日本政府が犠牲者名簿を作らねばならないのだが、そうしたものはない、どこか当事件と似てはいないか。
自分ではどう思っているかは別として相手側相手国側からワレラを見れば、ワレラは人間のクズとしか見えまい、そう認識しておかねばなるまい。もし三発目の原爆が落とされるとしたら、どの国に落ちると思うかと問うと、それは日本でしょう、当然かのようにと答えられたという、オマエらクズの国がふさわしかろ、という意味なのか、これがワレラの自己認識とは180度異なる世界側からのワレラの見方かも知れない。世界を知らない島国人で安マスコミはヨイショするばかり、国内で彼らと仕事を奪い合うような状況は当時と似ているとか、気をつけねばなるまい。
当地人でもそうかも知れない、東京のド真ん中ではないので有名人の言動は記録されていないが、舞鶴人でもそうして実際に加害者日本人ではない、朝鮮人被害者になってしまい、自分は加害者日本人だの立場を忘れてしまう。朝鮮人なる人もあろうし、それもイヤと何人ともわからない妙な者になっていったり、現場には近づかない、そもそも事件の記憶からこらえてくれよカナンでよ逃れようとする、たいていのほとんどの日本人はみなそうであって、この日の会場へやってくるなどは舞鶴人としては超上等の人なのである、クソもそのまねして混じり込むかも知れないが、たいていは立派な魂の持ち主ばかりのはずのものである、せっかく天より与えられた天賦の良き心なのだから、宝くじに当たるほどの確立しかないものなのだから、あとは自分の手でしっかりと磨き込んでいこうではないか。実際に自分が加害を加えたわけでもないのに過去の先祖の事を責められてもカナンワイヤの特に若い人には苛酷なつらい現場だとは思うが、それを経験しなくては本当の舞鶴人にはなれまい、舞鶴市民が開催してくれたのだからと被害者側もやってきたくれるという立派な舞鶴市民にはなれまい。
いつだったか会長さんのお宅にうかがったおり、部屋の壁は朝鮮の仮面、何という物か、民俗舞踊と使われるのであろう能面のもとでなかろうかと思われるいろいろな表情の仮面で一杯であった、折口信夫のように氏も日本人であることを忘れたいのかな、朝鮮人になりたいのかな、日本人としてつらい思いの強い良いよい人なんだとフト思った記憶と重なった。
浮島丸事件だけを切り離して、自爆か触雷かと考えるのではこの事件そのものも背景もその後の対応もその正解は得にくい、ましてや加害者側だけの勝手な発表や見解や「裁判」などに何か意味があるだろうか、あるとしたら加害者側がそうであって欲しいと願うアヤシイ話だくらいで、まともな者なら頭から信用しないであろう、これでは何も真実はわかるまい、この事件の根の深さを知るだけのものであろう、広く日本人による野蛮極めた朝鮮人虐待史、アジア人虐殺史の深い根のあるワレラの近現代社会に存在した今も残る鬼も泣き出す宿痾部分の一部として、その一連の大事件史の続きとして見ていかねば、当事件だけというわけではなく何度も何度も似たような事件が起きていたのだから、この事件だけを独立した物、前後に例を見ないマレな悲劇とみるならばワレラの側の十分な解も対応もでかねると思われる。今の日本にそれら事件の追悼や解明をしようとする団体があるものかどうかもわからないが、もしあれば手を取り合わねばなるまい。


右手の島(蛇島)の西方(右側)約400メートル地点に浮島丸は沈んでいた。
当地は軍都舞鶴のもう一つの原点、戦後史の出発点である。

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 2019年集会次第 (主催者のパンフ「浮島丸殉難74周年追悼集会」当HPの引用はすべて同パンフによります)  

浮島丸殉難74周年追悼集会
   2019年8月24日(土)午前11時 舞鶴市下佐波賀「殉難の碑公園」

1 開会
2 黙祷
3 追悼の辞 
 ・主催者
 ・関係諸団体
在日本朝鮮人総聯合会京都府本部常任委員会
在日本大韓民国民団京都府舞鶴支部
4 来賓及びメッセージ紹介・献花
5 献茶
6 追悼の舞
7 追悼歌 「はまなすの花さきそめて」
8 献茶・献花 参加者一同
9 閉会


 追悼の辞やメッセージなど紹介
「会」発行の案内の通りです。

 浮島丸殉難者を追悼する会 会長 余江勝彦氏の追悼の辞


 〈 追悼の辞
 本日ここに「浮島丸殉難74周年追悼集会」の開催にあたり、549名(政府発表)の犠牲者の皆様方に謹んで哀悼の誠を捧げます。
 1945年8月24日舞鶴湾に入ってきた浮島丸が午後5時20分ごろ戸島付近で突然爆発し、真二つに折れ沈んでいきました。
 急を知った佐波賀や近隣住民の人々によって、自らの命も顧みず懸命の救助活動がなされました。しかし、女性や乳幼児を含む乗客524名と乗組員25名の尊い生命が失われました。
 この大惨事には日本の長い歴史的背景がありました。
 アジア進出のために、1910年(明治43年)朝鮮から統治権を奪い、総督府を置き、軍隊を常駐させ36年に及ぶ植民地支配を行ってきました。その結果、土地も仕事も失った人達が激増し、その多くは日本へ家族ぐるみの移住を余儀なくされました。一方、アジア・太平洋戦争が激しい中、年老いた母を残した若者や一家の働き手である父親が次々と日本へ強制的に連れてこられ、戦争遂行の労働力として過酷な労働を強いられました。
 1945年8月15日の日本の敗戦は、家族との再会や祖国の独立への参加を現実のものとしました。
 8月19日大湊海軍警備府が出した「本国送還」の指示で、青森県下北半島方面で働かされていた朝鮮人とその家族3735人(政府発表)が乗った旧日本海軍特設輸送艦浮島丸(4730トン定員800名)は8月22日午後10時大湊を出港し釜山にむけて航行を続けました。ところが何故か舞鶴港に入った直後、この大惨事が起きたのです。
 夢にまで見た故郷や肉親との再会を翌日にひかえて、船内が沸き返っていた最中に、予想もしなかった大慘事に遭遇し、尊い生命が失われました。その哀しみと無念さは言葉では表し難いことであります。
 私達舞鶴市民が浮島丸事件を取り組む時、一つには浮島丸事件の背景を「日本の歴史の中で考える」ことであります。もう一つは故郷へ無事に帰ることなく「絶たれた希望や想いを共有すること」であります。それを語り継ぎ忘れず次世代に伝える責任を「日本人として」果たさなければなりません。
 1978年8月24日舞鶴市民は「犠牲者の冥福を祈るとともに、再び悲しい歴史を繰り返さない」という思いや事件を風化させないために、多くの市民の浄財と京都府及び舞鶴市のご援助を頂いて事件発生現場が一望出来るこの地に「殉難の碑」を建立し、以後毎年追悼集会を開催し続けています。
 政府の責任において、事件の調査が未だになされていません。東京都中目黒の「祐天寺」にはいまだに故郷へ帰れない遺骨が「280体」が安置されています。浮島丸事件はまだ終わっていないと考えます。
 敗戦から74年が経ちましたが現在もなお、世界各地で物事を力や暴力で解決しようとする動きが続いています。
 日本における人として過去の愚かな行為をしっかり認識し、伝える事が今、最も重要となっています。
 戦争のない平和なこの国をつくろうという思いが継続される必要があります。
 特に浮島丸の惨事は、日本の戦争政策の結果起きた事件として語り継がれる事が大切です。
 歴史の勝手な抹消や忘却の上に近隣諸国との真の友好が、生み出せるはずがないと考えます。
 私たちは二度と悲しい歴史を繰り返さないために、正しい歴史の事実を広く伝えていく事が重要と考えます。
 犠牲者の皆様のご冥福を心からお祈りして、追悼の辞と致します。
2019年8月24日
浮島丸殉難者を音障する会
会長 余江 勝彦
  〉 


 在日本朝鮮人総聯合会京都府本部常任委員会 副委員長兼組織部長 金 正根氏の追悼の辞


 〈 浮島丸殉難74周年 追悼の辞
 「浮島丸爆沈事件」74周年を迎え、549名の犠牲者に心から哀悼の意を捧げます。

 日本植民地亡国の苦しみと悲しみ、残酷な民族差別と虐待に耐え、祖国解放の喜びの中、明るい希望を胸に懐かしい故郷に向かった3,735名の同胞を乗せた浮島丸号が、この舞鶴港でなぜ大爆発し、尊い命が犠牲にならなければならなかったのか、74年経った今日に至っても真実は明かされず、事件に対する真相究明や公式謝罪、保障すらありません。

 儚く犠牲になった同胞たちの悔しさを晴らすためにも、真相解明は一時たりとも遅らせる事はできず、真相解明と解決のためには、我が民族の植民地分断からの過去を清算し、祖国統一と朝・日関係正常化を実現する中で、なされなければなりません。

 新時代の統一大綱である「板門店宣言」と「9月平壌共同宣言」が採択され、6月30日には〈分断の象徴〉板門店で、朝・米首脳会談が電撃的に実現し、朝鮮の自主的平和統一の新しい機運が高まる中、安倍政権はこれと逆行するように対朝鮮敵視政策と、在日同胞に対する不当な差別を加えています。

 我々は、「わが民族同士」の精神に基づき、「板門店宣言」と「9月平壌共同宣言」を履行し、我が民族の念願である祖国統一を成し遂げ。「朝・日平壌宣言」に沿い、朝・日間の親善と友好の絆をより一層深めていきたいと思います。

 解放された祖国の繁栄を夢見て、懐かしい故郷で楽しく暮らそうと浮島丸号に乗船した先輩たちよ。私たちは、先輩たちが抱いた夢と希望をかならずや実現させていく事を固く誓うものであります。
 最後に、余江勝彦会長をはじめとする「浮島丸殉難者を追悼する会」の皆様と地元住民の皆様に心から謝意を表し、追悼の辞といたします。

      2019年8月24日
      在日本朝鮮人総聯合会 京都府本部常任委員会
    副委員長兼組織部長金正根(キム・ジョングン)
  〉 


 在日本大韓民国民団京都府舞鶴支部 支団長 金英王氏の追悼の辞


 〈 追悼の辞
本日ここに浮島丸殉難74周年を迎え 韓国民団を代表して尊い命を落とされました同胞の皆様に謹んで追悼の意を表します.
日本に強制的に又は騙されて或いは土地を奪われ仕方なく日本に来て 劣悪な環境の下強制労働させられた同胞が 解放直後の1945年8月24日再び祖国に帰れるという逸る気持ちと喜びを胸に祖国に向かう矢先の爆発でした.
同胞の無念さを思うと本当に胸が締め付けられます.
昨年の平昌オリンピックを境に東アジア情勢はこれまでの一発触発の状態から急転回し非核化に向けた話し合いの会談が何度か行われ 当初の速度感からはかなりスローダウンしたものの破談には至っていません.
長年に亘るお互いの不信感を無くして行く為にはある程度の時間は必要であります.
互いが粘り強く交渉すれば必ず合意出来ると信じます.
そういう中で韓日関係は今や最悪であります.
我々がこの平和を祈る追悼集会を始め 様々な韓日交流を進めて来た中で突然降って湧いた様な騒ぎであります.
韓日が光復後和解したのですが 目に見えない本当に小さな火種が残っていたようです.
今や互いが意地を張り子供のように駄々をこねています.対話しか有りません.
経済戦争とか言ってはいますが 勝者の無い戦いをいくらしてもお互いが消耗するだけです.互いが冷静になって膝付き合わせて 我が国の保守,進歩政権がどちらになろうとも今後このような事を起こさず完全に火種を消し すばらしい隣国,友好国になるよう切願致します.
最後に当時救命活動に当たられた佐波賀の近隣住民の皆様と 長年追悼の行事に努めて来られた浮島丸殉難者を追悼する会の方々に謹んでお礼申し上げます.
2019年8月24日
在日本大韓民国民団京都府舞鶴支部
支団長  金英王
  〉 


 献花

駐大阪大韓民国総領事、京都府、舞鶴市の献花
今年は市も献花に見えられた。昨年の非礼はかんべんしてやって下され。
(被害者側の総領事が見えられているのだから、外務省に相談してもう少しは高官を派遣してくれないか舞鶴市さん)

 寄せられたメッセージなど

 〈 本日、浮島丸殉難74周年追悼集会が挙行されるにあたり、謹んで追悼の言葉を申し上げます。74年前のこの日、ここ舞鶴で海軍輸送船浮島丸が沈没し、多くの犠牲者を出す大惨事となりました。
この惨事を知る方々も高齢化している今日にこそ、戦争の悲惨さと平和の尊さを次世代に語り継いでいかなければなりません。
ここに改めて平和への決意を新たにするとともに、お亡くなりになりました方々のご冥福を心からお祈りいたします。
なお、厚生労働省でお預かりしているご遺骨は、東京都の祐天寺に丁重に安置しており、返還が実現するまで、外務省等と連携して適切に対応したいと考えております。
ご遺族の方々並びに関係各位のご健勝を心より祈念申し上げます。

           厚生労働大臣  根本 匠
  〉 


 〈  私たちは、74年前、日本の朝鮮植民地統治から解放された喜びに沸き、懐かしい故郷へと、愛する家族のもとへと帰ろうとする同胞たちを乗せた日本海軍輸送船「浮島丸」が爆沈され、数千人の無辜なる同胞たちが犠牲となったこの凄惨な事件を一日たりとも忘れたことはありません。
 私たちは「浮島丸亅爆沈事件により尊い命を落とされた同胞犠牲者とその遺族に謹んで哀悼の意を表します。
 筆舌に尽くし難いこの事件から74年が経つたいまも、日本政府は真相究明とその責任を一貫して回避し続けています。その無責任な姿勢により、いまだ同胞犠牲者の遺骨はすべての遺族に返還されていません。
 現在、日本政府の朝鮮民族に対する犯罪史の否定は、看過できない深刻な段階へと至っています。
 日本政府は、南朝鮮大法院が強制徴用被害者たちに対し戦犯企業が賠償責任をとるよう判決を下したことに反発し、輸出規制という経済報復をなりふり構わず行おうとしています。
 そのような日本政府の対応は、民族差別と排他意識にもとづくヘイトスピーチをまん延させているばかりか、日本軍国主義の加害事実を正当化しようとする傾向をいっそう高め、日本社会に北南朝鮮との反目と対立、敵対を過度に煽る結果をもたらしています。
 そのことによって日本の朝鮮植民地支配の犠牲者とその子孫である在日朝鮮人、とくに民族教育を受けている子どもたちが多大なる被害を被っています。
 朝鮮学校に通う子どもたちは、高校無償化制度から不当に排除されるなど、民族教育を受ける権利を著しく侵害され。深刻な差別状況に置かれています。
 私たちは日本政府に対し、朝日ピョンヤン宣言に基づき朝鮮民族に与えたあらゆる被害と苦痛に対して謝罪と補償をし、戦後一貫して行ってきた在日朝鮮人差別政策をただちに是正することを強く求めます。
 私たちは「浮島丸」爆沈事件74周年に際し、日本の未来は過去の清算なくしてあり得ないということを強く訴えるとともに、良心ある日本の人々との真心通じる友好親善関係の構築のため引き続き尽力してまいります。
 本集会にご参席された皆さまの益々のご健勝、ご活躍を心からお祈り申し上げます。
2019年8月24日
在日本朝鮮人総聯合会中央本部 権利福祉局
  〉 


 〈 「浮島丸殉難74周年追悼集会」開催へのメッセージ
 舞鶴市「浮島丸殉難者を追悼する会」の皆さん、例年にない暑さ続きの今年、また、予想もしなかった日韓政府の良好とは言えない関係のなか「浮島丸殉難74周年追悼集会」に開催 本当にご苦労様です。真相究明に努め、再び戦争への道を繰り返さないためにご努力されています皆さんに敬意を表するとともに連帯のメッセージを送ります。
 下北の私たちも貴会の取り組みに学び、8月22日(木)に「第26回浮島丸出港追悼集会」を開催しました。今年の集会のテーマは「戦後世代が調べた浮島丸事件とは?」でした。下北の地域で「浮島丸事件」に取り組むことになった背景を原点に戻って考えてみよう!となったものです。きっかけの1つは、2月に海外から2人の青年が「浮島丸出港の地」を訪れました。「浮島丸」についての応答の最後に「この下北で浮島丸事件へ取り組むことになった理由を教えて下さい。」でした。会員が戦後世代となった今、次世代に引き継いでいくために真実を知る努力、差別、蔑視政策の放棄、戦争責任を果たすことの意味を再確認しています。
 対話を通して日韓友好のみならず、東アジアの平和の道が一日も早く開かれることを願います。「浮島丸殉難74周年追悼集会」のご盛会を心からお祈りいたします。
2019年8月24日
浮島丸下北の会 会長 村上 準一
  〉 


 〈 
                     2019年8月24日
浮島丸殉難者を追悼する会
 会長 余江 勝彦 様

  浮島丸殉難74周年追悼集会へのメッセージ

         日本共産党 衆議院議員 こくた恵二
               参議院議員 井上さとし
               参議院議員 倉林 明子

 2019年度浮島丸殉難74周年追悼集会にあたり、犠牲になられた方々への心からの哀悼と平和への誓いをこめて連帯のごあいさつを申し上げます。
 二度と戦争のない平和な世界と日本を作ることが政治の責任であると、強く自覚をしているところです。
 一昨年の国連での核兵器禁止条約の採択など、いま世界では平和への希望ある道が前進しています。
 私たちは、引き続き戦争法の発動、「戦争できる国づくり」を許さず、日本の平和憲法を守り、皆様方とともに手を携えてアジアと世界での恒久平和実現ため全力でがんばる決意です。
 最後に、貴会の発展、ご遺族ならびにご参加の皆さまのご健勝とご多幸を祈念し、ごあいさつとします。
  〉 


 〈 メッセージ
 浮島丸受殉難74周年追悼集会開催にこあたり、浮島丸事件で亡くなられた方々に、心から哀悼の意を表明いたします。

 東京都目黒区にある祐天寺には、先の戦争で亡くなられた旧日本軍人・軍属として、1971年から朝鮮人戦争犠牲者のご遺骨が祀られています。日本の戦争犯罪の肩代わりをさせられた、韓国・朝鮮人BC級戦犯として処刑された方や特攻隊員として亡くなられた方など、今なお700体のご遺骨が仮安置されています。そのうち、275体は74年前の今日、舞鶴湾佐波賀沖で爆沈した浮島丸の犠牲者のご遺骨です。

 明治の時代以降、政府が行ってきた富国強兵政策が、「日韓併合」をはじめとするアジア諸国への進出、戦争へ、ひいては浮島丸の殉難につながったことを忘れてはなりません。私たちは、1日も早く、祐天寺に仮安置されているご遺骨が遺族の許へ、故国の地にお返しをできることを願って、追悼会を続けてまいりました。

 残念ながら、報道では日韓両国の関係は戦後最悪の状況と伝えられています。しかし、室町時代から江戸時代にかけて、朝鮮通信使はその行程の中で、市民との交流を行うなどの長い友好の歴史があったことも忘れてはなりません。近年では、若い人たちを中心にK-POPや日本のアニメーションが自然に受け入れられています。下北、目黒、舞鶴で行われている追悼集会は、不幸な歴史を心に刻む市民の交流の場でもあります。

 本日の追悼集会にお集まりの舞鶴市民のみなさん、長きにわたりこの集会の開催にご尽力されてきた実行員会のみなさんに、改めて心からの敬意と連帯の意思を表明いたします。

 私たちは本日午後2時から31回目の追悼会を開催します。74年前に、舞鶴湾佐波賀沖で、沈んだ浮島丸に乗船していた人に思いを巡らながら。
2019年8月 24 日
第31回朝鮮人戦争犠牲者追悼会 世話人一同
  〉 


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 参考資料
会の略史が同じパンフに書かれている。


 〈 浮島丸事件と追悼事業の経過   (資料)
1.昭和20年8月24日午後5時20分頃、京都府舞鶴港に入港してきた海軍特設輸送船「浮島丸」(4730トン)は、突如大爆発を起こし船体は二つに折れて沈没、地元の人々や海軍艦艇の救助活動にもかかわらず、乗組員25人、乗客524人計549人(政府発表)が死亡する大惨事となりました。
2.浮島丸に乗っていた人々は、青森県地方で働いていた朝鮮人労働者とその家族3735人(政府資料)で、戦争の終結に伴う帰国の知らせで配給された浮島丸に乗船、8月22日午後10時青森県大湊港を出港、朝鮮釜山をめざして航行中8月24日進路を変更して舞鶴港に寄港し、この災禍にあったものです。
3.浮島丸の船体は長く海中にありましたが、昭和25年に後半分が、昭和29年に前半分が引き揚げられ、船内の遺骨も収集されました。これを機に京都の著名人の呼びかけによる慰霊祭が舞鶴東公会堂で行われ、以後は市民の手で慰霊祭が行われてきました。
4.昭和50年代に入り、関係者の死亡等により事件の風化が心配されるようになり事件を語り継ぐモニュメントを製作する動きが起こり、舞鶴市長(当時)を会長に「浮島丸殉難者追悼の碑建立実行委員会」がつくられ、市民の募金と、京都府・舞鶴市の補助金を得て、事件現場を目前にした場に「殉難の碑」及び公園がっくられ、(昭和53年)、以後この場所で追悼集会を行い今日に至りました。
5.「浮島丸殉難者追悼の碑建立実行委員会」は建立事業が完了したことから、「浮島丸殉難者追悼実行委員会」に改組されました。平成7年浮島丸事件を題材にした映画「ちょうエイジアンブルー・浮島丸サコン」が製作され、舞鶴市内でもロケーションが行われこともあって、事件に対する市民の関心の高まりが見られことから、個人参加の組織に改めることにし、平成8年5月10日「浮島丸殉難者を追悼する会」を発足させ、以後追悼事業を行うことになったものです。
6.浮島丸事件死没者名簿を入手したことから、事件と追悼事業の経過を併せ「浮島丸事件の記録」(A6版188ページ)を1989年に発刊しました。
殉難の碑」及び「公園」の設置から20周年にあたる1998年に記念事業として浮島丸事件と追悼事業に取り組んでいる青森・東京・舞鶴の関係者による「シンポジュウム」と追悼事業をまとめた演劇「1998年夏・絆〜海を見つめる群像の物語〜」を発表しました。
7、浮島丸事件を題材にした映画「エイジアンブルー・浮島丸サコン」ハングル版がつくられ、2001年より韓国で上映されたことから、韓国で事件と舞鶴に対する関心が高まり、2002年・2003年には韓国光州市民との交流・相互訪問が行われ、韓国芸能の舞鶴市民へ公開公演が行われました。また、2005年には中国・北京大学での映画上映が行われました。
こうした国際交流の成果を受けて2005年、浮島丸殉難60周年企画として「国際シンポジュウム」を韓国・延世大学、中国北京大学の研究者、及び日本の関係者の協力を得て行いました。また、これまでの追悼事業の取組が評価され、駐大阪大韓民国総領事官名による感謝状が贈られました。
8.2010年8月24日「韓国併合」100周年・浮島丸殉難66周年追悼集会を実施。厚生労働大臣からのメッセージを始め駐大阪大韓民国総領事、京都府知事・舞鶴市長の献花と追悼の言葉をいただきました。参加者一同、犠牲となられた海に献花し悲惨な歴史を繰り返さないことを誓いました。
9.2011年7月23日紙芝居「浮島丸事件」完成 上演活動開始。
8月25日から30日 紙芝居「浮島丸事件」完成報告下北ツアー実施
「浮島丸下北の会」と交流
11月14日 韓国海軍舞鶴寄港時 司令官・艦長・東京韓国大使館員(通訳)下佐波賀「追悼の碑公園」訪問・慰霊・献花
映画「エイジアンブルー・浮島丸サコン」製作監督死去 「東京 偲ぶ会」参加
10.2012年2月7日 韓国「ハンサリム」の一行 下佐波賀「追悼の碑」公園訪問 追悼・献花
6月 碑公園「ハマナスの木」植樹 追悼歌「ハマナスの花咲きそめて」歌詞パネル設置
11月韓国「東学農民軍の歴史を訪ねる旅」ツアーに参加
光州市民との交流会で「浮島丸事件」について講演
11.2013年8月8日「東アジア青少年歴史体験キャンプ」日・中・韓(中・高・大学生参加)「追悼の碑公園」浮島丸殉難者追悼集会実施
12.2014年「浮島丸追悼公園」環境整備 井戸設備確保
2014年8月24日 浮島丸殉難69周年追悼集会 開催
13.2015年7月25日「浮島丸事件 70周年のつどい」開催
追悼事業を振り返って 浮島丸下北の会の取り組みについて
映画「エイジアン・ブルー浮島丸サコン」 上映
14.2015年8月24日 浮島丸殉難70周年追悼集会 開催
15.2015年 韓国MBN TV局取材 光復70周年特集「帰国前」全国放映
16.2016年8月 韓国KBS TV局 取材 全国放映
17.2016年8月24日 浮島丸殉難71周年追悼集会 開催
18.2016年9月19日 浮島丸殉難71周年講演会 講師 中塚 明氏
19.2017年4月16日 北海道大学助教 ジョナサン プル氏 英国人
 ハイデルベルグ大学教授 Drスティーブン アイビンズ氏 ドイツ大
  共に、「引揚」をテーマに研究し来舞「浮島丸事件」を取材
 尚、アイビンズ氏は帰国し「浮島丸事件」の事業を国民に伝えていくと述べる。
5月11日 浮島丸事件学習 福知山市内中学1年生
8月24日 浮島丸殉難72周年追悼集会 開催
10月14・15日 近畿大学生協学生 宿泊研修「ピース・ナウ舞鶴」
11月11日 浮島丸事件研修 京都総連西支部 浮島丸事件 講演
12月27日 京都より浮島丸事件研修 年金者組合 女性の会
20.2018年5月9日 浮島丸事件学習 福知山市内中学1年生
7月1日  浮島丸殉難者を追悼する会顧問須永安郎さんを偲ぶつどい開催
7月27・28日韓国大邸KBS TV局 取材 8月15日放映
8月9日 日本歴史教育研究連合協議会 研修
8月24日 浮島丸殉難73周年追悼集会 開催
10月12日 京都北部私立高校5校教員 研修
10月13 ・ 14 日 大学生協宿泊研修
11月24日 駐大阪大韓民国教育院主催 教員
2019年
1月13日 KBSラジオ放送 電話取材
2月11日 京都修学院九条の会 研修
4月11日 韓国バルグヌリ(村単位生活共同体)団体研修 慰霊
5月15日 福知山三和中 学習
8月5日 韓国 ハンギョレ21 特集取材(週刊誌)

  〉 

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会場
 わかりにくくて不便な場所↓ですが、会場はここです。車も駐められます。追悼の意あれば、どなたでもご参加できます。11時からです。






  浮島丸殉難追悼集会の記録

2024追悼集会
2023追悼集会
2022追悼集会
2021

8/16に訪れたが、集会看板がない、広場一帯はムクゲの花が美しい、綺麗に清掃されて、花が手向けてあった。公式発表かわからないが、「本年の浮島丸殉難76周年追悼集会については、コロナ禍のため、昨年同様人数を大幅に制限して開催し、一般の方のご参加はお断りすることとしました」の文を「戦争展実行委」が載せている(新聞の折り込みチラシ)

2020は、こんな看板が現地に立ててあった

事務局様へ。一般市民は現地まで赴かないとナニもわからない。SNSかナニかで情報発信を願えないだろうか。

2019追悼集会(このページ)
2018追悼集会
2017追悼集会
2016追悼集会
2015追悼集会
2014追悼集会
2013追悼集会
2012追悼集会
2011追悼集会
2010追悼集会
2009追悼集会








 
関連情報
 72年前の浮島丸事件とその後のおおよその経過は、すでに何度も書いていますのでそちらを参照して下さい。

以前の追悼集会については「浮島丸追悼集会:丹後の伝説17
事件そのものについては「浮島丸事件
など参照して下さい。



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