丹後の地名




 2022(令和4)
      浮島丸殉難77周年追悼集会



                         於:舞鶴市佐波賀下
                               殉難の碑公園

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 2022年(令和4年)8月24日は、浮島丸事件から77年目。77年前(昭和20年)のこの日(終戦から9日目)の午後5時20分ごろに当地のすこし沖合を通りかかった「浮島丸」は、ナゾの爆発を起こして沈没し、多数(これまでの政府発表では549名)の乗客や乗務員が亡くなった。
多くの犠牲者を追悼し、事件を新たに心にきざみ、平和につなげようと、今年もこの地で追悼集会が開かれた。
 新型コロナの感染防止を受けて、過去2年間は例年の形の集会は開かれず、少数の関係者のみに絞り小会を開いたという。一日も早い疫病の終焉と盛大な集会開催が待ち望まれていた。今年は通常通りの集会ということで、市民参加もできる形となった。
しかしコロナ禍の終焉はまったく見えず、むしろ増加しているくらい、舞鶴市でも毎日200人の新規感染者が出ている。入国制限も厳しい。通常通りの集会、と言っても、そうはいかず、今年は参加者130人とか例年の半数にもとどかず、式の内容もかなり省略された形であった。

今年は小雨がパラついて涼しい。いつもはガンガン照りで35℃とかになり、熱中症の一歩手前くらいになるのに、めずらしい天候になった。

 「…追悼する会」執行部の世代交代を、だいぶ以前に知た。今回は3年ぶりのしかも新執行部のもとでの最初となり、注目の集会である。
そうしたことで3年ぶりに出かけてみた。実は昨日もやってきたのである、開催するのかどうかも不明のため、確認にやってきたのだが、ここには何の掲示もなかった。毎日新聞のネット版で、昨日夕方に開催を知ったようなことであった。
ワタシは眼の調子が悪く、前月末に両眼とも白内障の手術を受け、術後1月は汗をかくようなはげしいことはダメとのこと、目なので大事をとって、今回は軽いカメラだけをブラ下げての、簡単な今年の77周年集会の紹介をしてみようかと思う。

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 当ページは今回の会の、式次第の流れに沿っての、様子一部の簡単な紹介です。
1 開会
2 黙とう
3 追悼の辞
浮島丸殉難者を追悼する会 品田茂会長の追悼の辞

在日本朝鮮人総連合会 京都府本部常任委員会 姜世哲委員長の追悼の辞

在日本大韓民国民団京都府舞鶴支部 金英王支団長の追悼の辞

スピーチの内容は下にあります。
4 献花

舞鶴市長と駐大阪大韓民国総領事趙成烈氏
5 来賓及びメッセージ紹介(下にあります)
6 追悼歌斉唱

追悼歌「はまなすの花咲きそめて」(京都朝鮮中高級学校生徒の皆様)
当会の名物となっていて、この歌がないと、どうにもカッコがつかない。今回もやってきてくださり、本当にありがとう。皆さんの銅像をこの地に立てたいくらいに思う

式の様子はユーチューブでライブ配信されたそう。視聴は会員限定とか、アーカイブがあるのかは分からない。マイクやスピーカーなどの器材も新調されて、ピカピカ…
コーラスのラインをいっぱいまで下げてくれたのはいいが、しかしそれは自分らが撮りたいからのようである。自分らだけが撮れればいい式がまだ残っているのか、報道機関などのカメラまわしを配慮している様子はない。撮れるもんなら撮ってみんかいの世界のままか。
ここは皆が撮りたいのである。ワシが写して満足するのではなく、ワシは一歩引いて皆が写せるようにしていくのが「会」の仕事であろう。せめて両側のテント(本部席と来賓席)をあと1メートル下げるくらいはして、大きくスペースをとってほしいもの。ワシらだけでなく、協力を仰げる方々の皆で推し進めるのだの意識を強く持たないと平和などつかめるわけもない。




7 参加者全員による献花


8 閉会

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追悼の辞
メッセージなど紹介







「会」発行の案内の通りです。

追悼の辞
 本日ここに「浮島丸殉難77周年追悼集会」を開催するにあたり、犠牲者の皆様に心より哀悼の意を表します。
 1945年8月24日、舞鶴湾に入ってきた浮島丸は、午後5時10分、突然に爆発し、船体は真っ二つに壊れました。乗っていた朝鮮の人たちや、浮島丸の乗組員は、舞鶴の海に投げ出され、多くの人たちが力尽きて沈んでいきました。
 この大爆発を浜辺で目撃した下佐波賀の人々は、すぐに船を出して救助に向かい、佐波賀の人々と海軍の懸命の救助活動が続けられました。救助された乗組員の証言では、小舟で救助に駆けつけた女性は、あまりに酷い状況に「どうして、こんなことになったの!」と泣きながら、次から次へと遭難者の救助をされていたそうです。
 この大惨事により、女性や乳幼児を含む乗客524名(政府発表)と乗組員25名の尊い命が失われました。
 この浮島丸の大惨事には、明治以降の歴史的な経緯がありました。
 日本は、1875年の江華島事件以降、朝鮮への侵略を重ね、そして1910年には韓国を併合し、過酷な支配をおこなってきました。
 その結果、土地も仕事も失った朝鮮半島の人たちが:激増し、日本への家族ぐるみの移住が余儀なくされました。また、アジア・太平洋戦争が長期化するにつれて、朝鮮の若者や一家の働き手である父親が、募集、官斡旋、徴用などの方法で日本に連れてこられ、過酷な労働と生活を強いられました。
 そして8月15日、日本の敗戦により、アジア・太平洋戦争が終結しました。朝鮮の人たちにとっては、ようやく故郷に帰り、なつかしい家族と再会できるはずの航海でした。
 8月22日、青森県内の朝鮮人とその家族3735人(政府発表)は、大湊港を出港し、釜山港をめざしました。浮島丸の船内は、ようやく故郷に帰れる喜びがあふれ、とてもにぎやかだったといいます。
 しかし、その途中で、なぜか舞鶴湾に入った直後に、この大惨事が起きたのです。亡くなられた人たち、そして故郷で帰りを待っていたご家族にとって、その悲しさと無念さは、言葉では言い尽くせるものではありませんでした。
 1978年、舞鶴市民は、犠牲者の死を悲しみ、この痛ましく悲しい歴史を後世に伝え二度と再び大惨事を繰りかえさないために、地元下佐波賀の皆様のご協力と、多くの市民の皆様の募金、そして京都府ならびに舞鶴市のご支援により、この場所に追悼公園と追悼の碑をつくり、それ以降毎年、追悼集会を開催しております。
 私は、1995年に制作された映画「エイジアン・ブルー 浮島丸サコン」の舞鶴ロケのときに、追悼活動に参加しました。そしてこれまでに、追悼の取り組みをつづけてこられた多くの方々から、「追悼への思い」をお聞きしてきました。
 その中のおひとりは、1944年に14歳で大陸に渡り、南満州鉄道に勤務されました。そして戦争が終わり、悲惨で耐えがたい体験を重ねながら、16歳で日本に引き揚げてこられました。これからご紹介するのは、その方の「追悼への思い」です。
  「敗戦を迎えて、昭和21年6月に引き揚げてきました。日本に帰国できたときのうれしさは、言葉にならないくらいでした。引揚船から見えた、日本の山々の緑が、本当に美しかったことを覚えています。
 帰国してからは国鉄で働いていましたが、1977年に労働組合からカンパ袋がまわってきました。浮島丸の追悼の碑をつくるためのカンパでした。このときはじめて、私は浮島丸の大惨事を知りました。とてもショックでした。
 朝鮮の人たちも、故郷に帰りたかっただろうなあ。もう一日航海したら、なつかしいふるさとが見えてきたのに…。そう思うと、本当に気の毒で……。私は幸いにも、こうして日本に帰ることができたけれども、同じ人間として、故郷に帰れなかった朝鮮の人たちのことを思うと、せめて何かひとつでも協力させてもらわないと、申し訳なくて…」と、この方は語っておられました。
 私は、このように長年にわたって追悼に取り組んでこられた方々の思いを、これからも引き継いでいきたいと願っています。
 さて、浮島丸の爆沈から、77年が経ちました。しかし、未解決の問題は、現在も数多く残されています。東京の祐天寺には、いまだに故郷に帰れない遺骨が安置されています。また、浮島丸の乗船者の正確な人数も、犠牲者の正確な人数も、そして浮島丸が爆発した原因さえも、いまだに分かっていません。
 そのため、日本および日本人の責任として、事実を明らかにして、未解決の問題を解決していく歴史的な責任が、私たちには課せられているはずです。
 現在、世界では戦争や紛争が起きています。戦争は、起こすこと自体が誤りです。多くの人々が犠牲になってしまう戦争を、永久に放棄することが求められています。
 結びにあたりまして、本日ここに改めて平和への願いを新たにし、犠牲者の皆様への追悼の辞とさせていただきます。
   2022年8月24日
浮島丸殉難者を追悼する会
 会長 品田 茂


浮島丸殉難77周年追悼の辞
 「浮島丸爆沈事件」から77周年を迎え、私は、朝鮮総聯京都本部を代表し、ここ舞鶴の地で尊い命を失われた549名の犠牲者のみなさまに、心から哀悼の意を表します。
 日本による不当な朝鮮植民地支配の下、多くの朝鮮人が強制的に故郷から引き離され、異国の地で過酷な労働に従事させられました。
 1945年8月15日に祖国の解放を迎え、日本にいた多くの朝鮮人たちは、大いなる喜びと希望を抱いて故郷の地へ帰ることを望みました。浮島丸に乗った同胞たち約3,700人も同じ思いだったことでしょう。にもかかわらず、500余名の同胞たちは見知らぬ地で死を遂げなければなりませんでした。その無念さを思うと、胸が張り裂けそうになります。
 日本政府には、不当な植民地下、強制的に労働を強いられた朝鮮人の帰郷の希望をかなえ、彼ら/彼女らが無事に、安全に故郷に戻れるようにする責務がありました。にもかかわらず、日本政府は「浮島丸爆沈事件」に対する公式謝罪や補償はおろか、真相究明すらまともに行っておりません。
 そもそも日本政府は日本軍性奴隷(「慰安婦」)や徴用工被害者など、日本の植民地支配による被害者たちが謝罪と補償を求める切実な声を歴史的に無視し続けてきました。それどころか、昨今は政府当局者らが過去の植民地支配を肯定したり、加害事実を否定したりする言説が増えています。
 私たちは日本政府が「浮島丸爆沈事件」被害者への謝罪と真相究明を行うことを望みます。そして、植民地支配被害者たちの声に真摯に耳を傾け、被害者への公式な謝罪と補償を行うことを望みます。
 私たち朝鮮総聯はこれからも朝日関係の改善のため、日本の市民のみなさまとの友好親善のために、より一層力を入れて活動してまいります。
 最後に、品田茂会長をはじめとする「浮島丸殉難者を追悼する会」のみなさまと地元住民のみなさまに心から謝意を表し、追悼の辞といたします。
               2022年8月24日
         在日本朝鮮人総聯合会 京都府本部常任委員会
               委員長 姜 世 哲


追悼の辞
 本日ここに浮島丸殉難77周年を迎え 韓国民団を代表して尊い命を落とされました同胞の皆様に謹んで追悼の意を表します.
日本に強制的に又は騙されて或いは土地を奪われ仕方なく日本に来て 劣悪環境の下強制労働させられた同胞が 解放直後の1945年8月24日再び祖国に帰れるというはやる気持ちと喜びを胸に祖国に向かう矢先の爆破でした.
同胞の無念さを思うと本当に胸が締め付けられます.
 世界申がコロナウイルスに振り回される中 今年2月ロシアによるウクライナの軍事侵攻により残虐な殺戮が始まりました.
今回の戦争で西側と東側の構図がはっきりと見えてきました.
新たな冷戦の構図が出来ました.
東アジアに於いても緊張が急激に高まりつつあります.
世界中の人が大国と大国の対決に振り回されています.
戦争は誰の為にするのか 大国は国益の名の下一部の特権階級の為に国民を犠牲にしているとしか思えません.
我が国には保守の新政権が誕生し韓日関係が改善されると思った矢先に 元徴用工厚生年金脱退手当金99円問題が発生しました.
台湾に対しては時価で払っています.人の神経を逆なでするような事を臆面も無く行っています.
日本国にはもっと誠実な対応を求めます.韓日両国が歩みよって早期の解決を望みます.
 最後に当時救命活動に当たられた佐波賀の近隣住民の皆様と 長年に亘り追悼の行事に努めてこられた浮島丸殉難者を追悼する会の方々に謹んでお礼申し上げます.
        2022年8月24日
     在日本大韓民国民団京都府舞鶴支部
               支団長  金英王


(まだ細かい文字が見えにくいため、そのほかは別の機会に紹介します)

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会場
 わかりにくくて不便な場所↓ですが、会場はここです。車も駐められます。追悼の意あれば、どなたでもご参加できます。11時からです。






  浮島丸殉難追悼集会の記録

2024追悼集会
2023追悼集会
2022追悼集会
2021年

8/16に訪れたが、集会看板がない、広場一帯はムクゲの花が美しい、綺麗に清掃されて、花が手向けてあった。公式発表かわからないが、「本年の浮島丸殉難76周年追悼集会については、コロナ禍のため、昨年同様人数を大幅に制限して開催し、一般の方のご参加はお断りすることとしました」の文を「戦争展実行委」が載せている(新聞の折り込みチラシ)

2020は、こんな看板が現地に立ててあった

事務局様へ。一般市民は現地まで赴かないとナニもわからない。SNSかナニかで情報発信を願えないだろうか。

2019追悼集会
2018追悼集会
2017追悼集会
2016追悼集会
2015追悼集会
2014追悼集会
2013追悼集会
2012追悼集会
2011追悼集会
2010追悼集会
2009追悼集会









 
関連情報
 77年前の浮島丸事件とその後のおおよその経過は、すでに何度も書いていますのでそちらを参照して下さい。

以前の追悼集会については「浮島丸追悼集会:丹後の伝説17
事件そのものについては「浮島丸事件
など参照して下さい。


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