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2016年(平成28年)8月24日は、浮島丸事件から71年目。「浮島丸殉難者を追悼する会」は、爆沈現場に近い舞鶴市佐波賀 の「殉難の碑公園」で、400名ばかり今夏も集会を開いた。71年前(昭和20年)のこの日(終戦から9日目)の午後5時20分ごろに当地のすこし沖合を通りかかった「浮島丸」は、ナゾの爆発を起こして沈没し、多数(これまでの政府発表では549名)の乗客や乗務員が亡くなった。
実の所は、事件と書くのか事故と書くのかそれすら不明で、残されている犠牲者の遺骨の数も不明になってきたような、日本政府の従来の一方的主張がゆらぎはじめたかも知れない感じだが、その返還は見通しがたたず、事故の原因や犠牲者数などはこれまでは何も納得のいく解明はなされていない。終戦直後のドサクサまぎれのままに、その後も71年間よいかげんな話だけで、ほったらかしにされてきた。 少なくとも、事件が全容が解明され、遺骨が帰るまでは続けなければなるまい、それが日本国民としての当然の責務であろう。 今回は水曜日だが参加者はいつもよりちょっと多いような気がした、ネットの閲覧数もいつもの年より格段に多い、関連ページの閲覧数が当サイトではトップになる日もあった。こうしたことは過去には見られなかった。何か変化があるのかも知れない。 今回は珍しいチームが参列していた。テントの下で皆さん真っ黒けにしか写っていないが、同じ紺のユニホームを着ている何かの大きな団体の人たちのように思われた。 韓国労組の人達だそうで、ワタシは事情不勉強で正確な事は書けないのだが、ネット(ソウル聯合ニュース)によれば、韓国の労働組合の二大全国組織、韓国労働組合総連盟(韓国労総)と全国民主労働組合総連盟(民主労総)の人たち。この日、当「浮島丸事件追悼行事」に参加したあと、午後には「丹波マンガン記念館」(京北町)で強制徴用朝鮮人労働者像建設および除幕式を開催するのだそう。 二大労組による朝鮮人労働者像の建設推進は2014年の浮島丸慰霊祭への出席が出発点になり、慰霊祭に2回参加したことで、朝鮮人労働者がどのように犠牲になり、生き残った労働者がなぜ帰ってくることができなかったのかなど、より広く伝える必要性を感じたとしたうえで、その一環として朝鮮人労働者像の建設事業を推進することになったという。二大労組は組合員による募金で1億3400万ウォン(約1200万円)の建設資金を用意した。その後、旧日本軍慰安婦被害者を象徴する「平和の少女像」を手掛けた彫刻家らと協議して労働者像を製作した。二大労組は「今回の強制徴用労働者像の建設は、当時朝鮮は植民地だったために朝鮮人労働者の徴用は合法だったと主張する日本政府に対し、二大労組が過去の歴史の問題をわれわれ労働者の問題として直視し、これの解決のために先頭に立つという意志を明らかにするものだ」と説明したという。 みなおとなしそうな顔立ちだが、韓国の平和民主の主力部隊のよう。どこかの国のさんたちとは大違いで目の向け所のレベルが格段に違う、こんなのばかりの国で、平和を願う舞鶴市民にとってはまことに心強いチーム、50名ばかりが見られた(80名だそう)。 今回も少々暑い日となった。当ページは今回の会の様子一部の簡単な紹介です。 ↓以下は集会の式の順番通りの紹介ではありません。1時間ばかりの集会のメダマ、小学生でもわかるもの(私の判断)の方を先に写してきたものを簡単に紹介します。
バックの音楽に著作権があるそうで、一部の国ではブロックされて見えないかも知れません。
音楽データー 同じものがここから↓ダウンロードできます(右クリック、「対象をファイルに保存」して下さい。使用は自分で聞く範囲にして下さい) 「はまなすの花咲きそめて'16」(mp3 4.60M)
参加者人数が多く、海岸は狭いので、皆が並んで「一斉投花」は難しい、ナニかほかのやり方が必要かも… 右手の島(蛇島)の西方(右側)約400メートル地点に浮島丸は沈んでいた。 当地は舞鶴のもう一つの原点、戦後史の出発点である。 2016年集会次第 (主催者のパンフ「浮島丸殉難71周年追悼集会次第」。当HPの引用はすべて同パンフによります) 浮島丸殉難71周年追悼集会 次第 1 開会 2 黙祷 3 追悼の辞 ・主催者 ・関係諸団体 在日本大韓民国民団京都府舞鶴支部 在日本朝鮮人総聯合会京都府本部常任委員会 4 来賓及びメッセージ紹介・献花 5 献茶 6 追悼の舞 7 追悼歌 「はまなすの花さきそめて」 8 献茶・献花 参加者一同 9 閉会
浮島丸殉難者を追悼する会 会長 余江勝彦氏の追悼の辞 〈 追悼の辞 本日ここに「浮島丸殉難71周年追悼集会」の開催にあたり、549名(政府発表)の犠牲者の皆様方に謹んで哀悼の誠を捧げます。 1945年8月24日舞鶴湾に入ってきた浮島丸が午後5時20分ごろ下佐波賀沖で突然発生したものすごい爆発音とともに真二つに折れ沈んでいきました。急を知った佐波賀や近隣住民の人々によって、自らの命も顧みず懸命の救助活動がなされました。しかし、女性や乳幼児を含む乗客524名と乗組員25名の尊い生命が失われました。 この大惨事には日本の長い歴史的背景がありました。 アジア進出のために、1910年(明治43年)朝鮮から統治権を奪い、総督府を置き、軍隊を常駐させ36年に及ぶ植民地支配を行ってきました。その結果、土地も仕事も失った人達が激増し、その多くは日本へ家族ぐるみの移住を余儀なくされました。一方、アジア・太平洋戦争が激しい中、年老いた母を残した若者や一家の働き手である父親が次々と日本へ強制的に連れてこられ、戦争遂行の労働力として過酷な労働を強いられました。 1945年8月15日の日本の敗戦は、家族との再会や祖国の独立への参加を現実のものとしました。 8月19日大湊海軍警備府が出した「本国送還」の指示で、青森県下北半島方面で働かされていた朝鮮人とその家族3735人(政府発表)が乗った旧日本海軍特設輸送艦浮島丸(4730トン定員800名)は8月22日午後10時大湊を出港し釜山にむけて航行を続けました。ところが何故か舞鶴港に入った直後、この大惨事が起きたのです。 夢にまで見た故郷や肉親との再会を翌日にひかえて、船内が沸き返っていた最中に、予想もしなかった大惨事に遭遇し、尊い生命が失われました。その哀しみと無念さは言葉では表し難いことであります。 私達舞鶴市民が浮島丸事件を取り組む時、一つには浮島丸事件の背景を「日本の歴史の中で考える」ことであります。もう一つは故郷へ無事に帰ることなく「絶たれた希望や想いを共有すること」であります。それを語り継ぎ忘れず次世代に伝える責任を「日本人として」果たさなければなりません。 1978年8月24日舞鶴市民は「犠牲者の冥福を祈るとともに、再び悲しい歴史を繰り返さない」という思いや事件を風化させないために、多くの市民の浄財と京都府及び舞鶴市のご援助を頂いて事件発生現場が一望出来るこの地に「殉難の碑」を建立し、以後毎年追悼集会を開催し続けています。 政府の責任において、事件の調査が未だになされていません。東京都中目黒の「祐天寺」にはいまだに故郷へ帰れない遺骨が「280体」が安置されています。浮島丸事件はまだ終わっていないと考えます。 私たちは「政府の行為によって再び戦争の惨禍がおきることのないようにすることを決意する」と明記されている日本国憲法の立場に立って、追悼事業を続けいく決意です。 「浮島丸事件」から学び、平和の確立に向けてこれからも「日本人の責任」として追悼集会を続けていきます。 犠牲者の皆様のご冥福を心からお祈りして、追悼の辞と致します。 2016年8月24日 浮島丸殉難者を追悼する会 会長 余江 勝彦 〉 在日本大韓民国民団京都府舞鶴支部 支団長 金英王氏の追悼の辞 〈 追悼の辞 本日ここに浮島丸殉難71周年を迎え 韓国民団を代表しまして尊い命を落とされました同胞の皆様に 謹んで哀悼の意を表します. 日本に強制的に又は騙されて或いは土地を奪われ仕方なく日本に来て 劣悪な環境の下強制労働させられた同胞が 解放直後の1945年8月24日再び祖国に帰れるというはやる気持ちと喜びを胸に祖国に向かう矢先の爆発でした。 同胞達の無念さを思うと本当に胸が締め付けられます. 悲劇はそれだけでは有りませんでした.祖国が分断されてしまいました。 そして今 東アジアでは各国の思惑に身動きが取れなくなり 祖国統一はおろか東アジアの平和がものすごく不安定になっています. 何故こうなってしまったのか 祖国の分断を強いた戦争を恨むしかありません。 そして今 日本に於いては我々韓国民団の地道な地方議会等への働きかけによりヘイトスピーチ対策法が今年5月になってやっと成立しました. 刑事罰は無いもののヘイトスピーチ根絶に向けて一歩前進したと言えるでしょう。 しかし排外主義団体は言論、表現の自由を建前とした厚い壁に保護されている為 在特会の元会長が東京都知事選に立候補するなどヘイトスピーチがより巧妙かつ陰湿化すると思われます。 よって我々韓国民団は気を緩める事なく自治体への働きかけを強めて ヘイトスピーチ根絶をめざして戦かわなくてはなりません. 最後に当時救命活動に当たられた佐波賀の近隣住民の皆様と 長年に亘り追悼の行事に努めてこられた 「浮島丸殉難者を追悼する会」の方々に謹んでお礼申し上げます。 2016年8月24日 在日本大韓民国民団京都府舞鶴支部 支団長 金英王 翻訳 在日本大韓民国婦人会京都府舞鶴支部 会長 朴昭子 〉 在日本朝鮮人総聯合会京都府本部常任委員会 副委員長 李 時雄氏の追悼の辞 〈 浮島丸殉難71周年 追悼の辞 「浮島丸爆沈事件」発生71周年を迎えた今日549名の犠牲者に心から哀悼の意を捧げます。 植民地《亡国の民》の苦しみと悲しみ、そして残酷な民族差別と虐待に耐え、ようやく解放を迎えて、明るい希望を胸に懐かしい祖国に向かった3735名の同胞を乗せた浮島丸が、何故この舞鶴港で突然大爆発し、何故549名の尊い命が犠牲にならねばなかったのか、71年経った今日に至ってもその真実は明かされていません。 儚く犠牲になった、同胞たちの悔しさを晴らすためにも、真相解明は一時たりとも遅らせることはできません。 安倍政権は、国民の反対をおしきり戦争の道へとつながる戦争法案をつくり国会で強行採決をしました。 私たちは民族的怒りをもって断固反対します。 私は《朝・日ピョンヤン宣言》の精神にもとづきこれからも朝・日間の絆をより一層深めていきたいと思います。 解放された祖国の繁栄と、懐かしい故郷での楽しい暮らしを夢見て、浮島丸に乗船し、無残にも犠牲になられた先輩たちよ。 私たちは諸先輩たちが抱いた夢と希望を必ずや実現させて行くことを此処に固く誓うものであります。 最後に、余江勝彦会長を始めとする《浮島丸殉難者を追悼する会》の皆様と地元住民の皆様に心からの謝意を表し私の追悼の辞といたします。 在日本朝鮮人総聯合会 京都府本部常任委員会 副委員長 姜主淳 在日本朝鮮人総聯合会 京都府本部 通訳 呉 淑姫 〉 寄せられたメッセージなど 〈 本日、浮島丸殉難71周年追悼集会が挙行されるにあたり、謹んで追悼の言葉を申し上げます。 71年前のこの日、ここ舞鶴で海軍輸送艦浮島丸が沈没し、多くの犠牲者を出す大惨事となりました。 この惨事を知る方々も高齢化している今日こそ、戦争の日悲惨さと平和の尊さを次世代に語り継いでいかなければなりません。 ここに改めて平和への決意を新たにするとともに、お亡くなりになりました方々のご冥福を心からお祈りいたします。 なお、厚生労働省でお預かりしているご遺骨は、東京都の祐天寺に丁寧に安置されていますが、現在、外務省等と連携して韓国政府と早期の返還に向けて取り組んでいます。 ご遺族の方々及びに関係各位のご健勝を心より祈念申し上げます。 厚生労働大臣 塩崎 恭久 〉 〈 浮島丸爆沈事件71周年に際して 日本帝国主義による植民地統治から解放された喜びに沸き、懐かしい故郷へと向かう同胞を乗せた日本海軍輸送船「浮島丸」が爆沈され、早や71年の歳月が過ぎようとしていますが、日本政府はこの事件の真相を明らかにしていないばかりか、その責任を一貫して回避し続けています。 この悲惨な事件により、数千人の罪なき同胞たちが尊い命を落とし、懐かしい祖国の地を踏むことさえできませんでした。 私は、浮島丸爆沈事件71周年に際し、この爆沈事件により尊い命を落とされた同胞犠牲者とその遺族に謹んで哀悼の意を表するとともに、日本政府が事件の真相を速やかに明らかにし、誠意ある態度で犠牲者と遺族たちに対する謝罪と補償を行うことを強く訴えます。 日本政府は、朝鮮民主主義人民共和国に対する不当な制裁処置を発動し強化しつづけることによって、日本社会で朝鮮と在日朝鮮人に対する敵対意識をかってなく煽っています。 朝鮮人強制連行や日本軍性奴隷問題など、日本軍国主義の加害事実を正当化しょうとする傾向も高まっており、このような社会的風潮によって最も大きな被害を受けているのは、まざれもなく過去の朝鮮植民地支配の子孫であり、とくに民族教育を受けている在日朝鮮人の子どもたちです。 在日朝鮮人の子供達は、心無い輩たちのヘイトスピーチにより心を傷つけられ、また、高校無償化制度から不当に除外されるなどの深刻な被害を被っています。 私は、日本政府が朝・日ピョンヤン宣言に基づいて一日も早く不幸な過去を清算し、在日朝鮮人に対する不当な差別政策をただちに是正することを強く求めます。 対話を通じてのみ真の友好関係が築かれるということは歴史の教訓です。 私は浮島丸爆沈事件71周年に際し、朝・日間の不幸な過去を皆様とともに、力を合わせ必ずや克服し、心が通い合う真の友好関係をつくるため、より一層の努力を傾けていく決意を新たに表明します。 浮島丸殉難71周年追悼集会にご参席された皆様に、心から敬意を表します。 2016年8月24日 在日本朝鮮人総聯合会中央本部 権利福祉局長 陳 吉相 (チン・ギルサン) 〉 〈 浮島丸殉難者を追悼する会 会 長 余江 勝彦 様 「浮島丸殉難71周年追悼集会」開催へのメッセージ 海軍特設輸送艦「浮島丸」が舞鶴湾内で、大音響を残して沈没し、朝鮮人524名と乗組員の海軍軍人25名が帰らぬ人となった。その日から71年。 長きにわたり、「浮島丸事件」の真実を検証し、歴史と向き合い、この事件で犠牲になられた方々の立場に立って「殉難現場」において「浮島丸殉難追悼集会」を開催されておりますことに敬意を表します。 「浮島丸事件」の背景にあるのは「植民地政策・併合」という民族差別と「戦争」です。歴史の事実を忘れず、後世に伝えていくことを誓い、「二度と誤った過去の歴史を繰り返さない」とする貴会に連帯のメッセージを送ります。 私たち「浮島丸下北の会」は、長年のひとつの課題であった「浮島丸は何故、終戦からわずか一週間後に大湊港を出港したのか?」というテーマについてまとめる予定です。「会」の今は亡き大先輩が、背景にあるのは8月15日の「終戦」以後も続く「北方での戦争」と「スターリンの北海道占拠構想」があったことを明らかにしたのです。 貴会のさらなるご活躍と「浮島丸殉難71周年追悼集会」の盛会を心からお祈り致します。 2016年8月24日 浮島丸下北の会 会長 村上 準一 〉 〈 連帯のメッセージ 2016年度 浮島丸殉難71周年追悼集会 御中 2016年度浮島丸殉難71周年追悼集会にあたり、犠牲になられた方々への心からの哀悼の意と、平和への誓いをこめて連帯のごあいさつを申し上げます。 ニ度と戦争のない平和なせ界と日本を作ることが政治の責任と、強く自覚をしているところです。歴史を逆行させる安倍政権の戦争法と憲法改悪は、絶対に許すわけには参りません。 戦後70余年。私たちは、「戦争できる国づくり」を許さず、今こそ日本の平和憲法を守り、韓国・朝鮮の皆さまと手を携えて、恒久平和の実現ため全力でがんばる決意です。 最後に、ご遺族ならびにご参加の皆きまのご健勝とご多幸を祈念し、ごあいさつとします。 2016年 8月 24日 日本共産党 衆議院議員 こくた恵二 参議院議員 井上さとし 参議院議員 倉林 明子 〉 参考資料 会の略史が同じパンフに書かれている。 〈 浮島丸事件と追悼事業の経過 (資料) 1.昭和20年8月24日午後5時20分頃、京都府舞鶴港に入港してきた海軍特設輸送船「浮島丸」(4730トン)は、突如大爆発を起こし船体は二つに折れて沈没、地元の人々や海軍艦艇の救助活動にもかかわらず、乗組員25人、乗客524人計549人(政府発表)が死亡する大惨事となりました。 2.浮島丸に乗っていた人々は、青森県地方で働いていた朝鮮人労働者とその家族3735人(政府資料)で、戦争の終結に伴う帰国の知らせで配給された浮島丸に乗船、8月22日午後10時青森県大湊港を出港、朝鮮釜山をめざして航行中8月24日進路を変更して舞鶴港に寄港し、この災禍にあったものです。 3.浮島丸の船体は長く海中にありましたが、昭和25年に後半分が、昭和29年に前半分が引き揚げられ、船内の遺骨も収集されました。これを機に京都の著名人の呼びかけによる慰霊祭が舞鶴東公会堂で行われ、以後は市民の手で慰霊祭が行われてきました。 4.昭和50年代に入り、関係者の死亡等により事件の風化が心配されるようになり事件を語り継ぐモニュメントを製作する動きが起こり、舞鶴市長(当時)を会長に「浮島丸殉難者追悼の碑建立実行委員会」がつくられ、市民の募金と、京都府・舞鶴市の補助金を得て、事件現場を目前にした場に「殉難の碑」及び公園がつくられ、(昭和53年)、以後この場所で追悼集会を行い今日に至りました。 5.「浮島丸殉難者追悼の碑建立実行委員会」は建立事業が完了したことから、「浮島丸殉難者追悼実行委員会」に改組されました。平成7年浮島丸事件を題材にした映画「エイジアンブルー・浮島丸サコン」が製作され、舞鶴市内でもロケーションが行われこともあって、事件に対する市民の関心の高まりが見られことから、個人参加の組織に改めることにし、平成8年5月10日「浮島丸殉難者を追悼する会」を発足させ、以後追悼事業を行うことになったものです。 6.浮島丸事件死没者名簿を入手したことから、事件と追悼事業の経過を併せ「浮島丸事件の記録」(A6版188ページ)を1989年に発刊しました。 「殉難の碑」及び「公園」の設置から20周年にあたる1998年に記念事業として浮島丸事件と追悼事業に取り組んでいる青森・東京・舞鶴の関係者による「シンポジュウム」と追悼事業をまとめた演劇「1998年夏・絆〜海を見つめる群像の物語〜」を発表しました。 7.浮島丸事件を題材にした映画「エイジアンブルー・浮島丸サコン」ハングル版がっくられ、2001年より韓国で上映されたことから、韓国で事件と舞鶴に対する関心が高まり、2002年・2003年には韓国光州市民との交流・相互訪問が行われ、韓国芸能の舞鶴市民へ公開公演が行われました。また、2005年には中国・北京大学での映画上映が行われました。 こうした国際交流の成果を受けて2005年、浮島丸殉難60周年企画として「国際シンポジュウム」を韓国・延世大学、中国北京大学の研究者、及び日本の関係者の協力を得て行いました。また、これまでの追悼事業の取組が評価され、駐大阪大韓民国総領事官名による感謝状が贈られました。 8.2010年8月24日「韓国併合」100周年・浮島丸殉難66周年追悼集会を実施。厚生労働大臣からのメッセージを始め駐大阪大韓民国総領事、京都府知事・舞鶴市長の献花と追悼の言葉をいただきました。参加者一同、犠牲となられた海に献花し悲惨な歴史を繰り返さないことを誓いました。 9.2011年7月23日 紙芝居「浮島丸事件」完成 上演活動開始。8月25日から30日 紙芝居「浮島丸事件」完成報告下北ツアー実施「浮島丸下北の会」と交流 11月14日 韓国海軍舞鶴寄港時 司令官・艦長・東京韓国大使館員(通訳) 下佐波賀「追悼の碑公園」訪問・慰霊・献花 映画「エイジアンブルー・浮島丸サコン」製作監督死去 「東京 偲ぶ会」参加 10.2012年2月7日 韓国「ハンサリム」の一行 下佐波賀「追悼の碑」公園訪問 追悼・献花 6月 碑公園「ハマナスの木」植樹 追悼歌「ハマナスの花さきそめて」歌詞 パネル設置 11月 韓国「東学農民軍の歴史を訪ねる旅」ツアーに参加 光州市民との交流会で「浮島丸事件」について講演 11.2013年8月8日 「東アジア青少年歴史体験キャンプ」日・中・韓(中高・大学生参加)「追悼の碑公園」浮島丸殉難者追悼集会実施 12.2014年「浮島丸追悼公園」環境整備 井戸設備確保 2014年8月24日 浮島丸殉難69周年追悼集会 開催 13.2015年7月25日「浮島丸事件 70周年のつどい」開催 追悼事業を振り返って 浮島丸下北の会の取り組みについて 映画「エイジアン・ブルー浮島丸サコン」上映 14.2015年8月24日 浮島丸殉難70周年追悼集会開催 〉 会場 わかりにくくて不便な場所↓ですが、会場はここです。車も駐められます。追悼の意あれば、どなたでもご参加できます。11時からです。 |
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関連情報 71年前の浮島丸事件とその後のおおよその経過は、すでに何度も書いていますのでそちらを参照して下さい。 以前の追悼集会については「浮島丸追悼集会:丹後の伝説17」 事件そのものについては「浮島丸事件」 など参照して下さい。 |
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