| 延喜式神名帳 | 

| 比定社の画像及び現在の所在地 | 熊野郡 十一座 並小  | 
        当サイト内へのリンク (主なもの)  | 
      
|---|---|---|
  
| 「室尾山観音寺神明帳」 | 
  
 
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
| 比定社 現在の所在地  | 
        位階 | 神社名 | 備考 | 
        参考 | 
| 従一位 | 熊野明神 | 式内社 | ||
| 従一位 | 式内社 | |||
| 従一位 | 山 | 
        |||
| 従一位 | 村岡明神 | 式内社 | ||
| 従一位 | 若 | 
        |||
| 正三位 | 式内社 | |||
| 従三位 | 式内社 | |||
| 正三位 | 式内社 | |||
| 正三位 | ||||
| 正三位 | 神 | 
        式内社 | ||
| 正三位 | 式内社 | |||
| 正三位 | 式内社 | |||
| 正三位 | 意 | 
        式内社 | ||
| 正三位 | ||||
| 正三位 | 女布の布杜神社か | |||
| 正三位 | ||||
| 正三位 | 國福明神 | |||
| 正三位 | ||||
| 正三位 | ||||
| 正三位 | ||||
| 正三位 | ||||
| 正三位 | ||||
| 正三位 | ||||
| 正三位 | ||||
| 正三位 | ||||
| 正三位 | ||||
| 正三位 | ||||
| 正三位 | ||||
| 正三位 | ||||
| 正三位 | ||||
| 正三位 | ||||
| 正三位 | ||||
| 正三位 | 下 | 
        |||
| 正三位 | ||||
| 正三位 | 國主明神 | |||
| 正三位 | ||||
| 正三位 | ||||
| 正三位 | ||||
| 正三位 | 赤坂天神 | |||
| 正三位 | ||||
| 正三位 | 田穂明神 | |||
| 正三位 | ||||
| 正三位 | ||||
| 正三位 | 大森社は三社ばかりあるがどこかわからない | |||
| 正三位 | ||||
| 正三位 | ||||
| 正三位 | ||||
| 正三位 | ||||
| 正三位 | ||||
| 正三位 | ||||
| 正三位上 | ||||
| 正三位上 | ||||
| 正三位 | 物田明神 | |||
| 正三位 | ||||
| 正三位 | ||||
| 正三位 | ||||
| 正三位 | 大宇賀明神 | |||
| 正三位 | ||||
| 正三位 | 三谷原明神 | |||
| 正三位 | ||||
| 正三位上 | ||||
| 正三位下 | ||||
| 正四位上 | ||||
| 正四位上 | 賀茂明神 | |||
| 正四位上 | ||||
| 正四位上 | ||||
| 正四位上 | ||||
| 正四位上 | ||||
| 正四位上 | ||||
| 正四位下 | ||||
| 正四位下 | ||||
| 正四位下 | ||||
| 正四位下 | ||||
| 正四位下 | ||||
| 正四位下 | ||||
| 正四位下 | ||||
| 正四位下 | ||||
| 正四位下 | ||||
| 正四位下 | ||||
| 正四位下 | ||||
| 正四位下 | ||||
| 従四位下 | 柴神明神 | |||
| (参考)与謝郡郷名帳 | 
 記載順通り
  
  
  
  
  
  
  
  
| 『和名抄』 高山寺本  | 
        『和名抄』 刊本  | 
        中世文書 | 備考 | |
| 田村 | 田村 | 田村庄(田数目録) | 久美浜町平田の周辺 | |
| 佐濃 | 佐濃 | 佐野庄(田数目録) | 久美浜町佐野 | |
| 川上 | 川上 | 川上郷(田数目録) | 丹波之河上摩須郎女(古事記) | 久美浜町川上谷 | 
| 海部 | 海部 | 海士郷(田数目録) | 久美浜町海士 | |
| 久美 | 久美 | 久美郷(田数目録) | 久美浜町久美浜 | |
| 私部郷(平城宮出土木簡) | 
丹後国が丹波国から分離独立したのは和銅六(七一三)年四月のことである。加佐・与謝(佐)・丹波・竹野・熊野の五郡が割かれて誕生した丹後国の最西部に位置するのが熊野郡で、『和名類聚抄』によると田村・佐濃・川上・海部・久美の五郷があった。しかし、平城宮木簡に「熊野郡私部郷」と記すものがあり、この地名が七世紀以前にさかのぼることも、藤原宮木簡に「熊野評私里」とあることで確認できる。また、天平勝宝元(七四九)年一二月に丹後国司が奴婢四人を進上しているが、そのなかの一人は熊野郡戸主大私部広国の奴倉人であった。私部というのは、后妃の私有民(部)で特定の職能を通じて物や労働力を提供する人々のことで、『日本書紀』にも、垂仁天皇の後宮に丹波(当時)から五人の女性が入ったことが記され、こうした伝承とも熊野郡の私部地名は関連する可能性がある。ただ、私部は大化改新で廃止され、私部の供給と関連する地名としての私部郷の名もその意義を失った結果、郷名としてのこらなかったと考えられる。

《熊野郡の部》
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