丹後の伝説:36集

百姓一揆・農民一揆の記録:2

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享保の一揆 宝暦の一揆

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田辺藩の農民一揆


享保の一揆

『八雲の歴史』
田辺藩享保一揆

 恐ろしいものの順序として「地震・雷・火事・おやじ」と言ったが、戦後「おやじ」は完全に脱落した。われらが先祖にしてみれば「川筋にもう一つあり大洪水」と追加したいところであろう。
 由良川水害の恐ろしさ、ものすごさは残された記録に歴然と刻み込まれている。(第十章 災害参照)
 享保一揆前後の災害をみると、享保十年干ばつ、十三年大洪水・十四年大水・十七年虫害(イナゴ)、前年冬以来、西日本一帯の天候不順による長雨・冷害と続いている。米価は石当り銀五〜六○匁(約一両)から一二○〜一三○匁の二倍以上にはね上り、各地で米騒動が起っていた。
 一揆勃発当時、田辺藩主牧野英成は京都所司代であった。藩主は対幕府との関係を維持することにきゆうきゆうとし田辺藩のすべてを傾倒しつくしたのである。今や必要な財源は完全に枯渇し、経済的政治的危機は目前に迫っていた。
 ・ついにその日は来た(資料によってくいちがいがあるが)
 享保十八年(一七三三)三月五日・百姓たちは年貢減免の要求を掲げて、村の庄屋を動かし、一緒になって大庄屋へ罷り出て共同行動を申し入れた。大庄屋は早々願書を藩役所へ差し出し、誠意ある回答を得るまでは引き下がらぬと「魚屋町・大橋・竹屋町辺に街道をふさいで」座り込みに入った。強訴の第一弾である。
 伝承では「村役人主動の陳情行動」となっているが、実は領民の怒りや不平不満が大きな渦となり大衆の大請願運動となったのである。田辺藩全領の農民が、三月五・六・七の三日間一斉に蹶起した。その動員数は二千人ほどという。「とうてい納め得ぬ負担」に対する大同団結であった。大手口より広小路本町舟入口の小門口へかけて、通りという通りを百姓たちの人波が埋めつくした。追いつめられた百姓たちの不退転の決意が感じとれる。藩主が京都在勤で不在のため、家老の一存による「御下知を待たず百姓共願の旨悉く御叶えなさる」の返答を得て引き上げた。約一か月後の四月六日領内八人の大庄屋は御役御免を願い出たが、藩はこれを許さず「そのまゝ大庄屋を仰せつけ」と留任を申付け、「向後、気儘不法の願仕り候ハバ頭人はもとより村中処罰を甘受する」との証文を取られた。
 これは後日の処罰をほのめかす狡猾な奸計であった。
 六月十六日付文書では、「此度の御領分一同免下げ御免の事は、先例のない重大事ゆえ、急度処罰されるべき処だが、困窮の者御救第一のこと故、御答御捨てなされ願の通り仰せつける」と百姓の処分はしない方針を述べている。
 ・六月二十三日検挙(二十五日とした書もある)
 なんの前ぶれもないまま、二箇村年寄又右衛門・源右衛門・平百姓佐兵衛三人は入牢、連判した一六人の残り一三人も捕えられ村方預けとなる。牢舎の三人は田地家財は村へ取り上げ、上納は村より相揃え出すべし、という処分がなされた。
 ・処 分
 享保十八年十二月二十一日
                  二箇村 源右衛門
                      又右衛門
                       佐兵衛
右三人今日死罪・源右衛門・佐兵衛ハ於二ケ村獄門被仰付 牢内ニテ首切リニケ村江遺ス 右三人妻
子追払跡欠所申付候
                      連判百姓拾三人
右ノ者共急度可被仰付候へ共 以御宥免其通リニ被差置候

 ゆるされた百姓拾三名は白銀百二拾匁(二両)を首代として仰せつけられた。刑死後七年、光国稲荷神社を建立して兄源右衛門を祀り、三十年後二箇下区に鈴岡稲荷を建て弟佐兵衛を祀りその霊を慰めたと伝える。今一人の又右衛門については不明とされている。一揆の犠牲者が二箇村に集中している点は注目されるところである。

『ふるさと岡田中』
享保一揆
 由良川筋に生活する者にとって、水害の恐ろしさは骨身に泌みているが、享保十(一七二五)年の旱魃、十三年大洪水、十四、十六年も大洪水、十七年は気候不順で寒冷長雨の上、空前の蝗の害で飢死者数知れずという状況であった。
 時の藩主牧野英成は京都所司代を勤め、役儀上の出費も多く、先納の御頼金を取り立てて体面を保つという状態であった。
 享保十八(一七三三)年三月五日、百姓達は年貢減免の要求を掲げて、庄屋・大庄屋を動かし、藩の誠意ある回答があるまで一歩も引かないと魚屋町、大橋、竹屋町辺の街道を塞いで座り込みに入った。田辺藩全領の農民が決起した大請願運動で、三月五、六、七の三日間一斉に立ち上がった。要求の根強さの裏には、のっぴきならない農民の生活破壊があったからである。結局、藩では百姓達の願いの旨悉く叶えるという線を出して引き上げさせた。南部弥左ヱ門組もその上に家老の証明をとって引き上げた。
 四月六日領内八人の大庄屋は御役御免を願い出たが許されず、反って私情にとらわれ支配の百姓に味方を致すは曲事と責任を問われ、向後、気儘不法の願いをする時は頭人はもとより村中処罪を甘受するとの証文をとられた。これは来るべき処罰を匂わせた重大誓約で、六月二十三日、突如南有路組の二箇村年寄又右ヱ門、源右ヱ門・百姓佐兵衛の三名は入牢、連判した十六名の残り十三名も捕えられ村方預けとなり、入牢した三名は田畑家へ、財は残らず村に取り上げ、上納は揃えて差し出すべしという処分がなされた。後三名は二ケ村にて獄門仰せ付けられ、牢内にて斬首遺体は二ケ村へ遣す。この三人の妻子は追い払われ、跡は欠所を申し付けられ、百姓十三名は御宥免となったが、白銀百二十匁を首代として仰せ付けられた。
   注 (処刑された三名に付ては、昭和二十四年「享保義民顕彰碑」が建てられた)。   (大江町誌抜粋)
 そして、享保十八(一七三三)年の免下りはいうまでもなく、元文三(一七三八)年には各村高の恒常的な高引(領内平均十二・五%)の実施を認めさせることになった。
   御用捨高
 免八ツ八歩 内八歩下り   一、正米 拾壱石三升三台八勺   富室村
 免八ツ三歩 内七歩下り   一、正米 二九石九升七合五勺   由里村
 免六ツ七歩 内七歩下り   一、正米 一八石三斗八升五台二勺 西方寺村
 免七ツ五分 内一捐五分下り 一、正米 一二石二斗五升三合七勺 河原村下見谷共
 免八ツ六歩 内七分下り   一、正米 九石四斗四升七台九勺  下漆原村
 免十 内七分下り                       上漆原村長谷共

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宝暦の一揆

『八雲のれきし』
田辺藩宝暦一揆

 享保一揆で獄門三名の犠牲者を出してから二十三年後のことである。鮮血の臭いいまだ消え去らぬ中で再び一揆は野火のように激しく燃え広がった。時は宝暦六年三月十五日であった。
 政治がゆがんでいれば、一揆はいたるところに起きる要素があった。江戸時代の一揆の数は三千を越えるといわれるが、そのいづれにも直接の史料は少ないという。命を賭けて藩権力にたてつく際に証拠をわざわざ書き残すはずがないからである。百姓一揆について残っている史料は、一揆からしばらく過ぎて書かれた見聞記で、その名の通り伝聞や時のうわさが多く、おのずと誇張も多くなりやすい。
 百姓の集団が一つの目的のために、時をたがえず一斉に蜂起するに至るまでの動向はどんなものか ・謀議はいつどのようになされたか。・村々への連絡と意見調整はどのようにしたか。など準備行動から実行行為までを史実としてとらえることには無理がある。頼りとするところは公儀筋の記録であろう。

 百姓の要求と願下げ

百姓の要求がなんであったかを的確に語る史料は十分ではないが、
     定免引下げ
   農料米、籾代米、ほか米、銀札等拝借
等であったと見られる。藩では「徒党を結び不法の強訴、其上御城下へ罷り出濫望に及」んだ者に対し「願之筋有之ハ御免被成段」を申し渡し引き取らせた(午後四時ころと推定される)。
四月上旬までには二四〜五人を検挙、入牢、捕方が日夜村々を徘徊する事態になり、百姓たちはおびえ、仕事も手につかない日々となった。「庄屋達、隠れ隠れに寄合」「早々残らず願返し」を申出る。
  六月中旬の藩の回答は次のようである。
  一、三月上納三千二百七俵一斗
  一、農料米千俵
     右之通此度為御救被下置候
  一、籾代米千七百五十俵当見上納ニ相定置候処此度御用捨ヲ以 当秋上納被仰付候 其外拝借米之義ハ兼而定之通上納可致候
この申し渡しの前文には
   此度の狼籍公儀御法度に背き其科は重い先非を悔い願下げたのは奇特神妙である御救の御恩に報いる様農業に精出せ
と記されている。

  宝暦騒動処分
  宝暦六年三月二十三日、藩は東西の大庄屋に命じて、次の起請文を書かせ差し出させた。
   起請文前書之事
  ―、此度願之通御許容被成下、仰付難有奉存候此上者如何様之儀ニ付而モ一統御上ニ対シ毛頭御恨申
 上間敷候。
    右趣於相背者
      宝暦六丙子年三月
 右之通致惣人血判差上申候
 その上で、四月一日夜、中山村半左衛門・水間村森・油江村重右衛門・和江村新平・丸田村三助・八戸地村孫左衛門・河原村五郎左衛門の七人が、同二日には、八戸地村二人・八田村一人・堂奥村一人の四人を逮捕、其の後二箇村善右衛門・久田美村弥重右衛門・河原村藤十郎右衛門・桑飼下村伝次郎・大川村新右衛門、三日市村庄次郎・吉田村一人其の他東でも多数を捕縛して牢に入れたが、取調べの上だんだん出牢を許される者もあった。
 八月関係者を吟味のうえ、九月十二日処罰を公表した。それによると、打首三人(上福井村)・獄門五人(八戸地村二人・上福井村・河原村・堂奥村各一人)隣国三ケ津御構追放九人(上福井村三人・八戸地村二人・吉田村・行永村・常村・安岡村各一人)、追放一五人、村預け四人、過料一三人、役儀召放し二人以上となっており、これらの人々が真実の発頭人であったならば、宝暦一揆の中心は上福井村で、同村では「東西江誘引廻り不屈ニ候」として、過料一人前銭五百文を科せられた者も六人あった。
 八雲地区では、八戸地村に重処刑者が集中しており、「八戸地字の歴史」によると、八戸地村の主謀者長右衛門・庄左衛門の二人と、河原村五郎左衛門・上福井村助左衛門の四名は、処刑のうえ、上東村小字宮の谷に、堂奥村喜右衛門は、白鳥峠においてそれぞれ獄門に付された。打首にされた上福井村三人の名は藤右衛門・伊左衛門・源右衛門と記されている。
 百姓一揆は、御定書に従えば、極悪犯罪として取締られているが、苛酷な年貢米の取り立てに耐えきれず、蜂起結集した免租運動であり、主謀者は極刑覚悟のうえで犠牲となったものである。八戸地村の長右衛門は法名宗剣禅定門として、庄左衛門は道剣禅定門と受戒しともに郷土の義民として、菩堤寺宗見寺と八戸地の共同墓地に祀られて、地区民に尊崇されるところとなっている。


『ふるさと岡田中』
宝暦騒動
 宝暦六(一七五六)年三月十三日、乞食風の者が三人、由良川筋の南北を歩き所々に立ち寄って、百姓一同難儀をしているから藩主に御願い申し上げねばとの呼びかけに、三月十五日、久田美村の河原へ東西の百姓が続々集まり、不参の村へは参加するよう呼びにやったりしたが、夜の五ツ半になっても当村の者は誰一人見えず、いよいよ不参するならみんなで押しかけ、参加するなら隣村へ連絡するようにと、上村・地頭・二ケ村へも順に伝えた。河原に来たのは夜のこととて確かなことは分らないが、およそ三百人ほど集まったようである。
 郡内の東の方の様子をみようというと「夜明けまでには知らせてくる手筈だから必要なし」ということであった。なるほど、十六日の夜明けには書状で、東西共に伊佐津川土手に集合するよう連絡があり、すでに白鳥峠には千七、八百人詰めている様子に、一同は久田美河原を出発した。途中野村寺の庄屋方・引土の源三郎・上東の治兵衛・町方等、思い思いに乱入して、飯・カユを炊かせ、腹ごしらえをして、十七日の朝、上福井村、大野辺一杯水の向こう古畑山に集まった。河原五郎左ヱ門扇子を開いて、「東西東西、この度の願いの筋、私年寄で歯も抜け口上も言い難いが先ず、免二損下げ、三月立御用捨、籾米御用捨、前大庄屋への預け米農料米御用捨と藩公への要求項目をよみ上げた。当時の大庄屋八人を東西二人に、在々の庄屋残らず召し上げ、後役も三年限と願いこの場へ丹波屋作左ヱ門、仝嘉右ヱ門、舟戸屋孫左ヱ門、京屋九郎右ヱ門の四名が公儀の差し図にて出て来た由にて、右の願いを書き止め、藩公に差し出すことになり、壷屋与一左ヱ門方へ扶持米を貰いたいと願い、一村に米一俵宛を得、そこへ藩庁から下役衆・下目付衆が来て、願い通り御聞き下されたとの返事があったので全員引き上げた。
 三月二十三日、大庄屋八人はお役を召し上げられ、新たに東西二人、泉源寺村孫六・由里村新左ヱ門へ仰せ付けられ、各四組を受け持つことになった。
 東西ともに起請文を書き藩へ差出すよう仰せつけられ、左記の通り差出した。
   起請文前書之事
―、此度願之通御許容被成下、仰付難有奉存候此上者如何様之儀に付而も一統御上に封し毛頭御恨申上間敷候
右趣於相背者
    宝暦六丙子年三月
右之通致惣人数血判差上申候
 以上の通り起請文を書き、天地神明に誓って違背なき旨、熊野牛王の血判で提出した。四月朔日の夜、中山・半左衛門、水間・森、油江・重右ヱ門、和江・新平、丸田・三助、八戸地・孫左ヱ門、河原・五郎左衛門 入牢
 四月二日、八戸地二人・八田一人・堂奥一人入牢、その後、御詮議厳しく二か村・善右ヱ門、久田美・弥重右ヱ門、河原・藤十郎次右ヱ門、下桑飼下・伝次郎、大川・新右ヱ門、三日市・庄次郎、吉田一人、その他東でも牢入り 。呼び出し数多く、詳細は判らないが城下の百姓共は恐怖におののいた。しかし、その後だんだん出牢も許され、八月には八十九人となり、九月十二日御仕置を受けたる者は、
 打首三、獄門五、追放廿四、村預け四、過科一三、役儀召放し二の処分を受けた。
 これより先、五月三日に願い下げを許すから耕作に精を出すよう、庄屋、年寄を呼び出し申し渡しかあり、また、
六月中旬になって、庄屋、年寄を白洲に召し出して申し渡しがあった。その内容は、先非を侘びて願い下げたことは
奇篤神妙である。御救いの次第を仰付けられるので、有難く承知して農に精を出すようにと云う趣旨で
 三月上納三千二百七俵壱斗 御救
 農科米 千俵       御救
 籾代米 千七百五十俵は夏上納を秋上納
 其の他拝借米の義は定めの通り上納可致御領分惣百姓共へ口上申渡す
 此の度百姓共、党を組み多勢の気に乗じ、狼籍なる挙動・無道法外なる願い義理に背き年来の御恩を忘れ、御城下を騒し天道の冥加御上の趣きを顧みざる段その科甚だ重し。第一御公儀の御法度に背きたる事宥し難度く、下々として申訳難立事ながら、悪党の誘いに乗りしかたなく理不尽の振舞したるものと不便に恩召し詮索せず、お慈悲を以って願い通りの配慮をされた。先非を悔い速かに心を改め、願の筋を取り下げしは奇特神妙の至りであると恩し召され、公儀の手許は不如意であるが、救ってやるよう仰せ付けられた。謹しんで有難度く承知せよ。正しき道を歩き、末々の者も異論のないよう農に精を出し、御上の御恩に報いるようにせよと。

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『中筋のむかしと今』(平15)
…災害の中でも飢饉はとりわけ影響が大きく、物価の高騰・飢え死にから一揆をも引き起こしました。
 おもな飢饉だけでも江戸時代に十九回を数え、正徳元年(一七一六)には「夏田辺領大干魃、大森神社御手洗清水乾き古今未曾有のこと。この年森村・行水村にて百姓三十六人逃散、妻子共百八十三人。」と記されています。逃散というのは年貢が払えないので夜逃げすることです。
 江戸時代の初期には飢え死にがたくさんでましたが、後期には施粥・施米が行われるようになりました。後に見る一揆は二度とも飢謹のさなかに起こっています。
 後のちまで語り草になった天保七年(一八三七)の飢饉は、うち続く凶作で米がなくなり、全国でうちこわしが横行する中、春の雪解けが遅く、麦は病気で半分もとれず、豆の殻もなく、四月から雨ばかりで大水もたびたびあり、八月に大荒れで水がついて穂も出ず、晩稲も谷田は皆無でした。米価は石あたり銀百十八匁が暮れには下等米でも百八十匁、翌年四月には二百五十匁に高騰しました。この翌八年は大坂で大塩平八郎の乱が起きています。六月には町方で飯米がなくなり、九月までに六千六百人分四千俵が不足していました。冬に酒屋・油屋が施粥したところ、九百六十人が押しかけました。幸い八年は平年作、十年は大豊作となってひと息ついたのでした。
 嘉永六年(一八五三)の大旱りには、公文名御水道が二尺五寸(約八十センチ)ひび割れとなりました。
 疫病は飢饉にともなうことが多く、発生するとなかなかおさまりませんでした。天然痘・コレラ・はしかなど、薬もなく朝代神社や愛宕社に祈るしかありませんでした。…



一揆
 田辺での百姓一揆は、先に見た伊佐津村の例のほか、くっきりとした特長をもった二つの大一揆が起きています。
 享保の一揆は、藩主牧野英成が京都所司代に任命されたので物入りがかさみ、御用金二千両を押しつけ、以後も年貢の取り立てを厳しくしたところに、そもそもの原因がありました。
 その上町方では享保十三年に二度の大火で城下町があらかた焼けてしまいました。村々では享保十年の旱魃の後不作が続き、ことに享保十七年はイナゴの大発生が起きて全国的に大凶作になりました。にもかかわらず藩庁は豊作と称して取り立てを強行しました。百姓は野良道具まで売り払って上納にあてましたが追いつかず、家一軒の代金が米八斗ではどうにもならず、冬にはみんな逃散する覚悟をきめていたのに、それも大雪でままならず、とうとうどうしようもないところに追いつめられたのでした。
 明けて享保十八年(一七三三)正月、中筋・池之内・祖母谷の村々が寄り合い、恨みをはらすべしと相談をかさねました。二月二十九日五十三ヶ村の庄屋が万願寺村に集まり、一味同心して要求を大庄屋に訴え、藩庁に取り次いでもらうよう申し合わせたのでした。志楽・大浦・川口下へも呼びかけ、三月五日に城下に押しかけることを決めました。各村では百姓全員が連判状に署名し、庄屋たちも別に連判状を作りました。要求は米と金を貸す、税率をさげる、未納年貢の免除など五項目です。
 このようにして三月五日の午前八時、九十三ヶ村の百姓三千人が二ッ橋の下の安久川原に集まり、十時には大手門近くの堀端に押しかけ、びっしりと座り込みました。破れ着物・古蓑・荷俵を身につけ、豆がらを食べるという哀れな様子、火の用心第一に静かにしていました。
 要求書は早朝奉行所に出してありましたが、はじめ藩側は京都にいるお殿様の返事を聞かないと回答できないと、村へ引き揚げさせようとしましたが、一揆勢はもちろん拒絶しました。そこで庄屋に説得を命じたので、やむなく安久川原まで引きましたが、夜になって寒いので町中で野宿しました。翌朝また堀端に移った一揆勢に対し、藩側は昨年未納の年貢だけ免除する案を出してきましたが、一揆勢はまたも拒否したばかりか、伝えにきた大庄屋が藩の言いなりになっていることを攻撃し、つかみ合いになりかけました。しかし庄屋たちがまとまって止めたため、ようやく静まったのでした。しかしこの騒動に恐れをなしたのか、城内から同心・小頭二人が出てきて、「村々の願い通り、残らずかなえる」と言明したので、一揆は完全勝利となったのでした。
 藩側はその後要求額を下げさせて一揆を収拾し、処分は行いませんでした。この一揆の特長、庄屋たちが見事に結束して指揮をとり、きわめて統率のとれた行動に終始したことが、処分をさせなかったのでしょう。また、この一揆の成果である平均十二・五パーセントの税率の引き下げは、期限の五年がすぎた後も五年ごとに延長されていきました。
 これにこりた藩側は庄屋を味方につけるよう働きかけていきました。それで宝暦の一揆はまったく違う様子になったのです。
 宝暦になってから豊作が続き、百姓も町人も安楽に暮らせるようになりました。ところが宝暦五年は万代未聞といわれる大凶作。田畑ともに実入りせず、たちまち米価は倍を越えました。百姓たちは年貢の減免があるものと期待していましたが、藩側は多少の延納を認めただけで、きびしく取り立てました。百姓は家財・道具などを質入れして年末分は納めましたが、年が明けると飢饉となり、くずを掘って飢えをしのぐありさまでした。
 宝暦六年(一七五六)、延納分の上納期限三月十五日をひかえた十三日ごろ、乞食風の二三人が川筋の村に一揆をふれまわり、十五日に久田美の川原に二百人ほど集まりました。十六日には、白鳥峠に集まった千七百人ほどの一揆勢と伊佐津村の土手で合流し、藩庁に要求する内容を討議しました。活発な議論の末、税率の二割下げ・延納分の免除など五項目の要求を決めたのでした。この間も参加者がどんどん増えたため、上福井の一杯水付近に移動。要求書を提出した後、再び伊佐津土手に集結しました。そこへ藩側の役人が来て、要求をすべてきくと告げました。一同大歓声をあげて喜んだに違いなく、午後四時に解散したのでした。
 宝暦の一揆の特長は第一に、庄屋が加わらず平百姓を中心に、非差別部落民をも結集して闘ったことです。第二に、統制らしきことがなく、要求も大衆討議で決めた反面、大庄屋・豪商に対してうちこわしが起きたことです。第三に、年貢の減免だけでなく、庄屋の解任・大庄屋の定員減など封建的支配の改革を要求したことです。第四に、藩側は用意周到に準備しており、延納分の三千俵などを免除する代わりに、要求の願い下げをさせ、処分を強行したことです。数多くの百姓を逮捕し呼び出した上で、打ち首三人・獄門五人・追放二十四人・罰金五百文上福井村六人という悲惨な結末となりました。
 しかしながら、二つの一揆は田辺の百姓の心意気を示すものとなったのです。


百姓一揆の恩人を祀る稲荷社
 細川幽斎が田辺城の築城に際し、真倉川と池内川の流れを九枠橋で一本に瀬替えを行い、伊佐津川ができた。約二十年後の京極高知は瀬替えされた川の護岸工事を行って伊佐津川は整備された(一六○一)。この瀬替えによって境谷より分離された伊佐津は、伝承の域を出ないけれども、貫文年間(一六六一〜十年間)と思われる頃、田辺城築城のために京極侯(三代目)の代に苛斂誅求(税のむごい取り立て)が行われた。
 当時の伊佐津は山も畑も無いので当時の百姓は非常に苦しんだ。諸種の課税に耐えられないので田租以外の一切の諸役を免じられるように、数回にわたり城主に嘆願したけれども聞き入れられなかった。京極藩政下の苛斂誅求に反抗する百姓たちは意を決して集まり相談の結果、伊佐津村の庄屋が代表して直訴するという典型的な代表越訴型一揆を起こすことになった。ときの伊佐津村の庄屋金加孫左衛門(水島正子家先祖)は、田辺城主が京都への道中に直訴しようと意を決したが、追っ手に捕らえられ、強訴の故をもって打ち首の刑に処せられ、家族は闕所(田畑屋敷家財没収)となり、若狭へ追放された。
 けれども寛文九年(一六六九)田辺城主は京極侯から牧野侯に代わり、家族は許されて帰郷し、水島惣右衛門と改称して家を再興した。牧野侯の世に願意ゆるされて以来、明治まで約二百年間、伊佐津は田租以外の諸役は免除された。村民はこれに感謝して伊佐津の稲荷社に一揆の犠牲となった庄屋を祀ったという。(舞鶴市史や関係者の伝承による)   [水嶋 昇]


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市町別
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