丹後の伝説:56集
−三重谷の伝説−

 五十日真黒人と小野小町伝説以外のもの。

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『大宮町誌』
 郡分(こおりわけ)

 水戸谷峠の頂上あたりを郡分という。これは三重郷が与謝郡からはなれ丹波郡(中郡)にはいった境界である。
 古来この部分については一種の迷信があり、小字郡分一六一二番地の稲田は恋破町(こいわけまち)と称へ、その田の水は離別の禁厭に用いられ、離婚や不縁を欲する者がやって来てこの水を汲んで持ち帰り、ひそかに双方にこれを呑ませるとすぐききめがあるという。この田の養水は東は山の神の近くの五の谷川の水と西は宮ヶ谷の谷水を潅ぎ、そしてその水は南方は水戸谷を経て野田川へ、北方は三重谷川を経て竹野川へ分れて流れるところから分離の迷信が生れたものらしい。
(三重郷土志)


『おおみやの民話』
 三坂の稲荷山の狐     周枳 堀 博
 昔のことだが、宮津祭によばれて、大内峠を越して宮津まて歩いたんだって、親類に寄ってごっ馳走になって、長い道中なんで、三坂まで帰ってきた時には、もう日が暮れかかっておったそうな。そいで、背中のご馳走が気になるだし、家へ急いでおったんだって。
 三坂の稲荷山の下から、周枳の猫山を回った所まで来たら、稲架が道をじゃましとるだって。道が通られへんだし、もう暗くなってきただし、背中の包を気にしながら、どうでも稲架を越さんなん。狭い木の間を通りぬけたんだって、『こりや狐にやられたんだかな』と思って、周枳の方を見ると、墓のある鬼山の下に、明かりが見えてくるだし、明かりがゆらゆらと動くんで、恐くて、こわくて、どうして家に帰ったか覚えとらんだそうな。そいでも、背中のご馳走は、どうともなかったそうだ。
 今でこそ、稲荷山の下は国道が通ったり、猫山は山ごと土を取ってしまって、辺りは、切り開かれて、ええ所になったが、昔は淋しいとこで、ようく狐に化かされた話を聞いた。
三坂の稲荷山には、古い狐がおるいう話を聞いた。

同上
 水戸谷で化かされる   上常吉 今田 きよ
 森本のお婆さんが、朝早う起きて、ぼた餅して、山田へ娘が嫁に行っとるで、そこへ持って行きなるだったげなが、水戸谷の頂上だかで、もう先が見えんようになって、ほいで、へたっておんなったげな、ぼた餅を背中に負うとんなって、ほいで、先い行こう思ったら、かったに前へ行かれんようになって、夜が明けてみたら、背中のぼた餅は、あったけど、外はもう砂だらけだったって。

同上
 いわ猿が理まっとった  延利 由村 金光
 五十河のだれかさんが、岩滝の町に行っての帰り、道戸(どうど)の滝の下を通ったそうなが、ちいと通りすぎたら後の方で、どうも人の食い合うような声がする。おかしいなと思って、あとふりむいて見てもなんにも見えん。それでまたちいと歩いたら、また同じような声がする。それで、にわかに恐なって、急いで帰って寝たそうなが、夜半に夢みせがあって、一匹の猿が出てきて、
「わしは滝谷のいわ猿だ。土がくずれて、頭の上にのっとって、いたてかなわんで、どけてくれ」いうで、夢がさめた。ぞれで、朝間早よう滝の下に行って見たら、案のじょう、一丈あまりのいわ猿が、土で理まっとった。ぞれがいまのいわざるだ。

『大宮町誌』
 人杖
 谷内から周枳に流れる周枳井溝は寛文八年から同一二年まで、満四ヶ年余の日子を費やして完成された一里八丁に及ぶ潅漑用水路であるが、工事が竣工していざ通水となった時三坂境のしょうが鼻(干潮ヶ鼻)まではわけなく通じたが、それから下流へはどうしても流れない。設計に誤りがあるとも考えられないし、さりとて高低に無理があるとも見えないのにどうしても水が越さない。そこで万策つきた村役人や長百姓達はよりより協議の結果、これ以上は人々が協力一致して神力にすがるより致し方がないと一決し、さっそく村人たち全員をこの村境に集め、さあ応援を頼むという掛声により、全員が声をそろえて大声に、「さあ越せ、さあ趣せ」ワァッと叫ぶと不思議や不思議奇しくも流水は一挙に堰を切ったように越し始めた。それから後はこの溝に水の絶えたことがないという。人の協力の力が科学を超越し自然を支配する事象として、今に人杖(ひとづえ)といって伝えている。(周枳郷士史)

 鐘石(かねいし)坂の由来
 昔、内山に御利益のあらたかな十一面観音さんがあって、一名を「さづけ観音」といい、まことにお慈悲深そうな温顔で、十人の子どもをひたいやかいなにつけておられ、おまいりすると誰でも子供をお授け下さるということだった。この話を聞いた近在の信仰者が、も少し身近な所へうつしたらと夜半にこっそり背負って持ち出した。そうして村の少し下の山坂まで下ると、にわかに重たくなって動けぬようになった。「これは木像だのに、鐘石のようだわい」といいながらその山坂におろして帰った。その晩夢枕にたたれた観音さんは、「今さらわれたので、鐘石になって足留しているから早く迎えに来てくれ」といわれた。そこで早朝お迎えに行ったら、夢でみた通りそこに木像の観音さんがおられた。以来そこを鐘石坂と呼んでいる。(「丹後の伝説」より)
金石だろうか。


『おおみやの民話』
 牛取り岩   谷内 大同 徳和
 昔、百姓が崇山(あらたやま)に牛連れていって、たんの働いて、夕方に牛連れていのう思ったら牛がおらん、そいで見たところが、岩に手綱の跡がついとるだし、牛のひづめの跡があるんで、
「こりや、岩が、牛を取って食ってしまったんだ」いうことで、牛坂り岩になったと。
牛取り岩は崇山公園にある。

『大宮町誌』
 伝説・婿引き出水
 竹野川の一番上流は五十河地区の内山である。この地は山頂に近い海抜五○○mほどの高地であるが、数年ほど前までは人が住んでいた。昔奈良朝のころ府中国分寺より仏像を勧請し、高尾川妙法寺にこれを奉祀してその開発が始められたと伝えられている。すなわち、寺の「山内耕地」として田畑の開拓が早くから行われていたものと考られる。「向かい山内」といって、古くから大正の頃まで耕作をつづけていた台地もある。
 この地はこの寺院を中心として、住民の生活が営まれていたという。寺の焼失後享保一九年(一七三五)観音堂創立の頃には、戸数八軒と標札に記されているが、明治時代の最盛期に至っては、一六戸が山頂に近いわづかな台地に賑やかな一集落を築いていた。そして近隣の山村からは内山は“旦那衆どころ“だと噂されたこともあるという。だんだん人がふえると耕地をふやさなくてはならず、その開発にはなみなみならぬ工夫と努力がつづけられたが、問題は水である。小さな谷からの流水では到底この二haに近い田地の稲作は不可能である。ところが幸いなことには「婿引き出水」と伝えられる水が、世屋地区の駒倉へ越す峠の頂から多量に、内川地内に流れ込んでその田地を潤したことである。
 峠を越して駒倉地内に入ると、その右側に「みずみち」と呼ぶ深い谷がある。この谷には雑木も繁っているし、小さな山椒魚も棲んでいる豊富な水がある。そこで山腹を横切って水路をつくり、当然野間川へ流れるべき水を、竹野川の源流として内川地内へ流れを変えさせたのである。この水を「婿引き出水」という。
 昔この内川の若者が駒倉から花嫁を迎える縁談の際、貴重な贈物としてこの「婿引き出水」が花婿に届けられたのである。そしてこの水は以後内山台地の稲を豊かに稔らせたのであった。
 さてこの水は昭和五○年頃まで内山へ流れつづけたが、内山が無住の地となってからは、山腹の水路の修理もできず、したがって水は漏水して野間川へ流れ、今はただ水路のみ形をとどめているにすぎない。(五十何の口碑より)

『おおみやの民話』
 お仙女郎の池    五十河 田上 惣一郎
 内山の峰つづきの高原に、お礼女郎の池いう所がある。なんでも昔、お仏いう女が、小屋を建てて住んどったそうだ。ある位の高い人の女だったそうで、人目をさけけておった。
「小屋たてて、子を産んで、水を汲んで、湯うわかし、飲んだらそれが……」と、唄いながら暮しておったそうな。ある日、子どもを遊ばしでおったら、鷹が取っていこうとするで、弓を仕掛けて、鷹をとったいうことだ。なんでも木に弓をしばりつけるつるを、いっぱい引っ張って矢を掛け、藤のつるぞ結んでおき鷹がやってきたら、藤のつるを切って矢をはなって、見事に仕止めたいうことだ。

『おおみやの民話』
 橋立の風      五十河 田上 惣一郎
 久住村に、皇住(くすみ)弥左衛門いうお殿さんがおんなった。大変風流な人で、四季ごとに村の人を招いて、園遊会をされた。
 ある年の夏、園遊会があって、村の者にも使いがあった。
「よばれて行くには、なんどみやげがいる。何がよかろう」いうとったら、頓智のよい二人が考えついて、
「天の橋立の涼しい風を、狩って行つたら」いうことになって、夜業に、障子紙で紙袋をはって、橋立へ涼しい風を汲みに行った。帰る途中に一休みして、ためしに、少々吸ってみよう思って、風を出したら、風が出すぎて無うなってしまった。
「困った、困った」と相談の上、三人が、屁をこいで、袋に一杯つめこんで、それを殿様に差し上げたら、殿様は上機嫌で、
「橋立の風も、時がたつとすえたあ」と、いうたげな。

『おおみやの民話』
 鬼の牙    新宮 井上保
 むかし、むかし、新宮に、どえらい力持ちがおったげな。青鬼や赤鬼の、力くらべがあって、その時に新宮の力持ちも、力くらべに行っただって。そうして、青鬼をいっぺんにやっつけただって、そうしたら赤鬼が怒って、
「今度はわしの番だ出てこい」 いうて、新宮の力持ちに飛びかかってきただって、二人連れ上になり下になり、力くらべしとったげなが、赤鬼がとうとう負けてしまったんだって。そうして、
「あんたには負けたで、何でも好きな物をもっていけ」いうたで、
「そんならお前の牙をくれ」いうて赤鬼の牙を引きぬいただって、そいて、『その牙を、村の者に見せたろう』思って、持ってもどって村の上までもどってきたら、川で婆さんが洗濯しとって、
「お前は今日、鬼と力くらべに行ったげながどうだった」いうもんだで、
「そりゃ、鬼よりわしの方が強かった。見てくれ、これが鬼の牙だ」いうて、取ってきた鬼の牙を婆さんに見せた。そうしたら、
「ちょっと見せてくれの」いうて、手に取って見とったげなが、ちょっと、口を開けて、ガタガタッと合せて、
「ああ、よう合う」いうで、いいして見せただげなが、見るも恐しい鬼婆になって、空高く舞い上り、奥山の方へ帰って行ったそうだが、鬼が姿をかえて、牙を取リ返しにきとっただって、それから、鬼婆ができただって、悪い婆さんはあっても、鬼爺いはおらんそうです。

同上
 大蛇の屍    新宮 井上喜一郎
 昔、萬燈の日がもとで、新宮の奥山が大焼けになったそうだが、そのとき、大きな蛇が焼け死んどったって。なんでもその屍が奥山を三谷にまたがって残っとったそうだ。その骨の一つが、しげさん家の納戸のふみ台になっとったそうだ。うそのようだが、ほんまだそうな

同上
 ひいふの谷の山桜  新宮  井上 喜一郎
 新宮の奥に、ひいふの谷いう所があるが、そこに、なんでもむかし、大きな桜の木があったげな。その桜は、宮津の町からでもよう見えたということだが、宮津の殿様は毎年お城から花見をしとったそうな。
 ところがある年、一向に花が咲かん。それで家来をやって、調べさせたところ、なんと花が咲かんはずだった。その木をえぐり取って、木地わん作りが住みついとって、仕事をしとったそうな。その一の枝でつくった立臼が、つい、ひとむかしまで、茂さん家にあったそうだが、あんまり重たいので、つづみ形にしてあったということだ。その枝でつくった不精盆いうのが、あっちやこっちやに残っとるという話だ。

『京都の昔話』
 白い馬・赤い馬・黒い馬
 むかし、新宮(大宮町)に八郎いうもんがおって、春、山ん谷の田の畦はぎに行っとって、かんだをはいどったら、カーンカーンと石に鍬があたるような音がするだって。そうしたら、石の間に白無垢いうもんがおったって。それで、そいつをつかまえて、子供がおらん八郎は、持ってかえって箱に入れて飼うたったそうな。とっても大事にしたそうな。それで、そいつはよう大きいなって、箱のうちにおれんようになったって。そうしたら、「箱から出してくれ」言うだって。それでかわいそうになった八郎は、
「出したる、出したる」言うて出したったら、白無垢が、
「わしは、いまなんにもお礼がでけんけど、一月先の今日の、宵のくちに、小野坂の上り口で待っとっておくれ。そうしたら、白い馬に乗ったさむらいが来るで、棒でガーンとなぐったってくれ。きっと、ええことがあるで。もし、ようなぐらなんだら、ちいとま待つとったら、赤い馬に乗ったさむらいが来るで、それをなぐったってくれ。それもようなぐらなんだら、待っとったら黒い馬に乗ったさむらいが来るで」そう言うて、山に帰ったそうな。
 それで、一月たったその日の宵のくちに、小野坂に行って待っとったら、坂の上から白い馬に白いさむらいが乗って、パッカパッカ下りてきたそうな。そこでボカーンとなぐったら、尻をなぐってしまった。それでまたじいっと待つとったら、こんどは赤いさむらいが赤い馬に乗って。パカパカ下りてきた。こんどこそはと思って、ガーンとなぐったら、早すぎてあかなんだ。そこで、こんどこそはと待っとったら、来た来た、坂の上から・パッカパッカと黒い馬が、黒いさむらいを乗せてやってきた。そこでこんどは横から、ガーンとはらっただって。そうしたら、ガチャガチャーと金の山が崩れるような大きな音がして、そこにこけたそうな。それで、その晩げ家にもどってから、ばあさんに、これこれしかじかと話して、あく日の朝ま早う見にいったら、小野坂の下に穴あき銭が馬の形ほど山になって落ちとったいう話だ。
 どうやら、白い馬のは小判で、赤い馬のは銅貨だったにちがいないいうことだった。それで八郎はそれがもとで幸せになったそうだ。     語り手・井上 保

 







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