丹後の伝説:47集
ブリ大敷網など

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鰤大敷網 藩主切腹事件

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  ブリ大敷網


ブリ(鰤)という大きな魚を御存知だろうか。伊根浦のブリ(丹後ブリ)は、古来日本一の名品とされる、漁師がそう言う、地元の漁師でなくよその漁師が言う「ボクは境(境港か)ですけど、ここのブリは良いですね、ほかとは違います、ハマチも良いです、大きいです、最高品です」と。
ブリはスーパーなどには並んでいるが、あれは養殖ハマチ、ここのは天然の最高品。

スズキ目アジ科の温帯にすむ沿岸回游魚。体は紡錘状で、背部は鉄青色、腹部は銀白色。体側に前後に走る淡黄色の帯がある。
体長1メートルほど。出世魚で、地方によって呼び方が異なるが、だいたい関東ではワカシ、イナダ、ワサラ、ブリの順、関西ではツバス、ハマチ、メジロ、ブリの順に名が変わる、舞Iもこの名である。食べるとたいへんにおいしい魚。魚釣りにも人気があって、春夏はツバス、秋にハマチ、冬が近くなり鼻水垂らして震えながら日本海の荒波に揉まれているとブリ、メジロが喰う。ハマチが3匹ほどかかっても上がらないが、ブリは1匹でも引き寄せられない。「あっ、しもた、底にひかかった!」などと言う。地球が釣れたくらいの重みがある。並のクーラーでは入らない、頭と尾っぽがクーラーからはみ出る。「人の棺桶か」と間違われるほどのビッグなクーラーがいる。一軒ではとてもさばけず、食べ切れるような量ではない。家庭用の冷凍庫などに入るものではなく、隣近所、親戚、会社のみなさんにお裾分けしてもまだ残る。


 『舟屋むかしいま』(図も)
 
出世魚・鰤
 鰤は成長につれていろいろなまえを変えるので「出世魚」と呼ばれています。イナダ(ツバス)、ワッコウ(ハマチ)、マルゴ(三年子)と成長し、四年で七キログラムから十キログラムの成魚「鰤」になります。まるまると太り、目のふちにくまどりが出来た成魚の風格と、その味のよさは「名魚」というにふさわしいものです。
 元禄一〇年(一六九七)刊行の『本朝食鑑』には、
「今以丹後之産為上品、越中之産次之、其餘不及二州之産(いまたんごのさんをもってじょうひんとなす。えっちゅうのさんこれにつぎ、そのよはにしゅうのさんにおよばず)」とあり、丹後鰤(伊根鰤)は古くから最高とされています。
 鰤は本州・四国・九州周辺に広く分布している回遊性の魚です。日本海側では、夏季に南から北にむかい、晩秋の頃、北から転じて南下してきます。丹後海に入った鰤は、時計まわりに、福井から舞鶴・栗田沖を経て伊根に至るものが最も多いとされています。丹後海に於ける盛漁期は、一一月から二月中旬までです。

古来、鰤は刺網で捕っていた
 伊根浦の鰤漁が何時頃から始まったか定かではありませんが、文書に表れるのは近世初期、寛永一八年(一六四一)からです。この頃から、明治三八年(一九〇五)に鰤大敷網が導入されるまで、鰤はもっぱら「鰤刺網」で捕っていました。鰤刺網
 鰤刺網は、図のような網を、海の上・中層に張り、鰤が網の目に頭を突っ込むのを待って捕える漁法です。
網は麻糸製で、目の大きさは七寸四分(二二・四センチメートル)丈け四尋・長さ二二尋(一尋は五尺で一・五b)のものを一把とし、二把をつないで一統としました。浮子には桐の木、沈子には石を使っていました。
 刺網は、水面下二〜三尋から、一二〜一三尋ぐらいの深さに、相互に重ならないようにし、八尋の間隔をおいて入れました。夫々の場所は抽選で決め、湾内・上の切・わりぐりの三場所と、沖・磯を、順ぐりに交代することにし、争いのおこらないよう、自覚的に統制がとられていました。
 網は毎朝揚げに行き、かかった鰤をはずし、網を入れ代えて帰り、持ち帰った網を網干場にかけて乾かし、修理もして、翌朝また替え網として使いました。
 鰤刺網が始まった初期は、湾内漁業でした。ところが、平田・亀島両村と日出村との間に、漁場をめぐるあらそいがおこり、日出村の人達が先ず湾外の「鋤崎」漁場を開拓しその後三ケ村共同で更に「割礁」漁場を開いて使用するようになったと伝えられています。
 享保一三年(一七二八)には、「湾内三四二場に、『すき崎』『わりくり』をあわせて、六五二場」となっていますから、湾内と湾外ほぼ同じぐらいの漁場をもつところまで発展させていたのです。

『丹哥府志』
【丹後鰤】
冬至前後晩方よりツボクリ、ワリクリの間に網を設けて翌朝これをとる。凡網は魚をとり廻して捕るものとのみ思ひしが鰤を捕るは左にあらず、細き麻縄にて結ひし網の目三寸斗もある網を通る筋に従ひて縦に張り置く、鰤其間を行く折節網の閃くに恐れて左右にそれて網にかかるなり、蓋魚の性進む事を知りて退く事をしらずといへども、斯様な事にて魚の捕れるは理外の理ともいふべし。



 『伊根町誌』(図も)
鰤大敷網の導入
 明治三十二年(一八九九)五月京都府水産講習所が宮津町柳縄手に開設され、水産に関する技術の講習と多種の試験漁業が実施されていたが、明治三十六年(一九○三)宮津水産講習所の牛窪其三男所長の提案によって、与謝郡水産組合の明治三十六年度事業として、府下の鰤漁場へ鰤大敷網導入を目的とし、四国・九州の先進地へ視察の計画が立てられた。
 視察先は高知県上ノ加江漁業組合漁場・宮崎県沿岸漁場・同県土々呂漁場の日高式大敷網漁法その他、熊本県や長崎県の鰮網漁業などの視察であった。視察にあたっては伊根浦の鰤漁場に鰤大敷網の導入を計り、伊根村の加藤藤吉と古板喜蔵の二人が選ばれた。二人は明治三十六年四月四日から五月五日まで約一か月間視察をなし、その報告は鰤大敷が将来性があるとしてその導入が強調された。
 ここに明治三十七年(一九○四)九月伊根浦漁業組合は鋤崎漁場に「鰤大敷網」の漁場免許を出願し、十一月七日付で免許が下り、若狭湾沿岸にあって最初の鰤大敷網が導入されることになった。
 鰤大敷網がはじめて布設されたのは、鋤崎漁場に明治三十八年(一九〇五)十一月からである。経営にあたっては従来の鰤刺網定置漁業権者(株所有者)による「鰤大敷網布設組合」が結成され、高知県上ノ加江漁業組合長であった窪添慶吉の指導をうけ、宮崎県の「三角大敷網」を敷設し、資本の大きいことから危険負担をさけるため共同経営により発足した。
 伊根浦の鰤大敷網の第一年目の漁獲高は、明治三十八年(一九○五)度鰤大敷網決算書によると、次のように報告されている。
鰤大敷網
となっており、諸経費の予算は一万円を計上し、「損のないように」が第一であったが、若干の利益を得ることとなったので、第二年目は更にハナチ礁(定京第四七二号)、赤崎(定京第四七三号)の免許をとり、鋤崎漁場と共に三漁場に大敷網を布設した。その結果は第一号部(鋤崎漁場)四万八五○○円、第二号部(赤崎、ハナチ礁)五万八八○○円、合計一○万七三○○円(当時米一俵七円十銭)の水揚を見て、鰤の漁獲数は九万一八四四本と大漁を記録した。この伊根浦の鰤大敷網の豊漁は、若狭湾沿岸の加佐郡田井・成生をはじめ、各漁村にすべて鰤大敷網の布設を見ることとなり、若狭湾は鰤大敷網漁場と化し、明治四十二、三年には府下に四○数統の大敷網が布設され鰤景気が出現した。
 鰤の豊漁と相まって、明治三十七年に阪鶴鉄道が全通して京阪神へ輸送が便利になり、伊根鰤(丹後鰤)の名声が大いにあがったのも当時である。

鰤大敷網の漁法と漁具の構造
漁法
 十一月初旬より二月まで網を常に海中に定置して、海岸から沖合に向かって垣網を出し、沿岸に回遊する魚群の進路を遮断し、魚群を沖合に誘導して、垣網の先端に設けてある袋網の中に陥し入れる構造になっている。
 一日に朝・日中・夕方と三回出漁(現在は早朝一回のほか夕方網持ちの時もある)した。網持ちに出る一時間前に旗で合図し、船(トモブト・全長七・五四麻・幅一・○六b・深さ○・五七b)四四隻に各二人乗り漁場に向かう。網場に着くと二隻ずつが船を括り合わせ舫船とする。初めひきてをくりあげて網口のたなわを水面にあげ、舫船二二隻が横に並んで各船は四人が片方の船に移り、手で網をつかんでかけ声を合せてひき寄せては離し、ひき寄せては離しながら網をくり寄せ、前へ前へと進んで網をもつ。沖の台には七、八人乗った大型の台船(長さ二丈八尺(八・四b)幅八尺(二・四b)深さ四尺(一・二b))が魚捕部の台の端を船中にとり入れ、舫船が近づくのを待つ。網がせばめられ魚捕部までくり寄せられると、たも網で魚を抄いあげ台船に移り、終わると網を放して帰途につく。

伊根の鰤大敷網
 伊根浦にあっては明治四十四年(一九一一)に鰤大敷組合による単独経営とし、鰤漁場は上の場一号から四号、割栗一号・二号の六か統を経営し、大正三年(一九一四)より鰤刺網は姿を消し鰤大敷一本となった。この年富山県氷見の「上野式大謀網」を導入し、大正十二年(一九二三)「落し式大謀網(越中式落し網)」が移入され、現在の「二重落式」は昭和四十六年(一九七一)からである。鰤の豊漁による最盛期は大正七、八、九年とつづいたが、大正十年以降不漁のきざしが見え昭和初期になると全く振わなくなった。
 この間、隣村と漁場の権利をめぐって漁業権の紛争が絶えず、村内には有株者と無株者の争いが繰り返された。

 『舟屋むかしいま』
鰤刺網から鰤大敷網への発展
 日本漁業界はじめての「漁業法」が実施された明治三五年(一九〇二)前後は、政治・経済・社会のあらゆる面で、日本の激動期でした。明治二七〜八年(一八九四〜五)日清戦争、同三七〜八年(一九〇四〜五)日露戦争と、一〇年間に二回も戦争をおこし、日本の資本主義が大きな勢いで発展していく時期でした。
「女工哀史」の上になりたった紡績産業の発展により、漁網の綿糸化(以前は麻が主)が進み、各種漁網の改良による漁獲も急速に増大する時期でもありました。
 九州の宮崎県伊形村赤水では、明治二五年(一八九二)から、四国の高知県上ノ加江村でも、赤水から学んで明治三〇年(一八九七)から、日高式の鰤大敷網が敷設され大成功をおさめていました。
 明治三二年(一八九九)には、「宮津水産講習所」が開設されました。「漁業に学問はいらん」といわれた時代で、初代牛窪所長は、草鞋がけで生徒募集に歩いたといわれます。牛窪所長は、宮崎・高知の鰤大敷網や、愛媛の鰯の船曳網漁業など、進んだ漁法を丹後にとり入れるべきだと考えました。「進歩した漁法は、教室で教えるだけではだめだ。『百聞は一見にしかず』、若い技術者を現地に送って習得させるのが一番だ」との所長の提唱によって、京都府与謝郡水産組合は、二人の代表を、一ケ月余四国・九州の先進地へ派遣しました。
 「刺網で捕る一年分の鰤を一日で捕ってしまう、一網万尾″という、驚くべき漁法」という二人の報告は、村中に大きな波紋と論議をまきおこしました。
 「すぐやるべきだ」との意見もありましたが、「三〇〇年も続いた、刺網漁という安定した漁法を変えることは、大変危険だ」「鰤株制を破綻にみちびくのではないか」「大きな経費をどうするのか」「下手をすると元も子もなくする」などの強い反対がありました。
 しかし、積極的推進の立場にたった、漁業組合長や村内有力者たちが、先進地高知県の上の加江漁業組合長、窪添慶吉氏との共同経営の方法で、「損をしないように・・・」という条件で、頑固な反対者を納得させ、新鋭漁具=大敷網導入を決めました。
 以上の経過で鰤大敷網は、明治三八年(一九〇五)から鋤崎漁場一統、そして翌三九年には、赤崎漁場を加えて二統が操業をはじめました。この年二統の水揚が、鰤九一、八四四本、一〇万七千円という大成功をおさめました。
 近世初期からの鰤刺網による水揚げは、少ない年は数百本、最高の年で一五、〇〇〇本であったことと比較してみれば、九万本がどれ程の大漁であるかがわかります。
 この大漁を見て、舞鶴の田井で二統、成生でも一統が操業をはじめ、伊根・田井・成生の五統で、三〇万本もの水揚げをしたのですから、京都の漁業界は大いにわきたちました。
 更にこの大敷網経営は、僚原の火のように全京都から福井まで拡がり、さして広くもない若狭湾に、四〇ケ統もの鰤大敷網が敷設されるようになりました。伊根浦の鰤大敷網導入の影響が、いかに大きかったかを知ることが出来ます。

↓大敷網は巨大で複雑で「鋤崎」に敷設されているものはこんなものという。岡に近いところにあるから気をつければ見ることができる。(『舟屋むかしいま』より)
鋤崎漁場






ブリがもとでの福知山藩主の切腹事件


 

『京都丹波・丹後の伝説』
命取りになったブリ    福知山市内記

 大阪の陣が終わって三十年。戦乱の火は消え、徳川の世は太平をきめ込もうとしていた。京街道を生野の里から土師川を下るように一里(四キロ)も歩くと、川向こうの城下町にぽっかりと島のように浮かんだ城が見えた。丹波・福知山城。
「いつ見ても良いながめじゃのう」lこうつぶやいたのは、藩主稲葉紀通。寛永元年、有馬豊の久留米移封のあと、大阪の陣での戦功を認められ摂津中島から移ってきた。戦乱の世に生まれ、武勲を最上とした青春時代を過ごした紀通も、体力の衰えも手伝って自然に郷愁を感じる齢になっていた。
 正月も近づいたある日、紀通は、天守から藩内を見わたしながら侍たちにいった。「藩内もようやく落ちついてきた。苦労をかけたその方たちも、正月には、くつろがねばのー。由良川のコイも良いが、どうじゃ、丹後の伊根では見事なブリがとれると聞く。京極殿に無心をして見よう」
 ブリ調達の使者はさっそく隣国・宮津藩へ立った。山の幸、コイなどのほか金銀を持参、藩主京極高広に目どおりした。高広は七万八千石の大名。
「なに 福知山藩から使いだとー」思いがけない客に高広は、半ば怪しみながら会った。
「京極様、聞けば貴藩では、海の幸が豊富とか。実は、正月にブリをいただきたいのでー」と使者。「なーるほど」。高広は一応承知した。そして「わざわざ無心しているからにはよほどのことだ。もしや江戸表に使い物にするのでは……」とかんぐった。高広は「福知山藩へブリを送るときにはブリの頭を落とせ。カシラがなくては使い物にもなるまい」とすべて頭を落とさせた。
「おお、宮津からブリがついたか。京極殿も話のわかるお人じゃ。どれ」ーと包みをあけた紀通は、驚いた。届いたブリ百匹は、どれもこれも見事に頭が落としてある.「おのれ、高広め、紀通を侮っだな」−紀通の怒りは爆発。正月の宴はとりやめになった。当時、宮津から参勤交代で江戸へ行くには、福知山藩内を通ったので宮津藩士は無事には通すなと命令。敵意に満ちた紀通は、その日も天守にいた。ちょうどそのころ事情を知らない宮津藩士が江戸から帰りに福知山城下の街道にはいった。「殿、あれは宮津藩士ですぞ」、「何、鉄砲を持て」。紀通の一発は、宮津藩士の命を奪った。
「宮津藩の家臣が、福知山藩で、紀通様に撃たれたそうだ。紀通様は、何か深いたくらみがあるのではないか」−はては紀通の謀反説まで、うわさは江戸へ伝わった.紀通はあわてたが、ブリの仕返しだとは公言できぬ.「ブリがわしの命取りになるとはのう」−慶安元年八月、紀通は天守で腹を割いて死んだ。藩は没収、松平忠房があとにきた。
 宮津藩士を殺したのは、実は、幕府隠密だったともいわれる。当時、幕府が外様大名の取りつぶしで暗躍していたことを考えると隠密説もうなずけるものがある。宮津の京極家も高広の子の高国のとき、福知山藩取りつぶしの十八年後の寛文六年五月、親不孝を理由に取りつぶしとなった。両家にとって、因果は相身互いだった。

(しるべ)福知山城跡は福知山駅から東約一キロ。現在残っているのは、銅門脇の侍だまりと常盤井など。特に石垣は、明智光秀が築城の際、墓石などを使ったといわれるものが、そのまま残っている。天守閣跡は.朝暉公園の名で桜の名所として知られている。



『天田郡志資料』
…寛永元年、稲葉紀通侯、勢州田丸より転城、采邑四万五千石、侯、其先は美濃の人、姓は越智、伊勢国河野氏に出づといふ。…
丹後国、宮津城主京極高廣に乞うて、鰤百尾を得んとす。高廣、素と放縦横暴、冷語して曰く、彼れ、遠く我に取るは、是れ必ず権貴に賂ふならんと、乃ち、一百尾、皆其頭を断ちて之を送り来れり。侯、怒りて曰く、高廣、何ぞ予を侮辱するの甚しきや。彼れの家士、吾境を経ば、必すせ殺して以て此怨に報ぜんと。たまたま丹後の駛卒過ぐ、侯、城楼より、発銃して之を斃す。時人、流言して曰く、侯不軌を謀り、行旅を殺掠すと。隣国大いに驚き、兵を出して之に備ふ。或人、之を江府に告ぐ。侯、怖れて、使を京師に馳せ、所司代板倉重宗に告げて、其誣妄を弁ず。幕府、乃ち江府に出でゝ、其趣を陳すべき報書を発す。書、未だ到らず、偶々、国中、相驚懼して曰く、隣国の兵至ると。侯、歎じて曰く、隣国・我を誤れりと、即ち、腹を刳りて死す時に、慶安元年八月廿日なり。



『舟屋むかしいま』
「伊根鰤」がもとで「福知山藩主切腹」の大事件

 「伊根鰤」が古くから如何に天下の「名魚」として珍重がられていたかを示す事件がおこりました。福知山藩主稲葉紀通が宮津藩主京極高広に鰤(『続々皇朝史略』には百尾とある)がほしいと申入れてきたのにたいし、宮津藩主が、「これは幕府へ賄賂につかうにちがいない」と判断して、鰤の首を全部切って贈ったことから、さわぎが大きくなり、遂に福知山藩主が切腹して果て、稲葉家が絶えてしまったという事件です。この鰤が伊根鰤であることはうたがう余地もありません。
『徳川実紀』慶安元年(一六四八)八月に次のように出ています。 「その頃紀通(丹波国福知山城主稲葉淡路守紀通)は京極丹後守高廣が国に使して、その国の鰤給るべきよし乞たり。高広これを聞て、これは紀通が我国の土産を乞受て、執政、権門のもとへ芳苴(わいろ)の料にするならんとて、鰤の首を一々に切て贈りたり。紀通是をいかり、さらば京極が家人の我所領を通行する者ある時一々に誅し、このうらみを散ぜんと待居たり。しかる折ふし京極が脚力(飛脚)の城下を通る者有と聞、急ぎ櫓に上り、みづから鉄砲を放て打しに、不幸にして京極が飛脚にはあたらず、他国の飛脚にあたって打殺す。隣国の大名等これを伝え聞、紀通謀反し、往来の旅人を禁殺するとて、以の外周章におよびしなり。紀通大阪に行て身の罪なき事を申開かんとせし時、はや隣国の大名等城近くよせ来るとて、家人等ひそめきあへり。紀通聞て、今は力及ばず、我当家の恩を蒙り、何のうらみをいだきて謀反を企る事あらむや。是はまさしく隣国の大名等が、我所領を押領せんため、かかる浮説をいひふらし、今また討手にむかひしものならん。この上の恥をさらさんよりは自殺せんにはしかじとて、鉄砲の火薬まき散し、我死せし後、是に火を付て焼立てよといひ置て、みづから腹切て死す。其後火彼薬にも付しかど、希有にして消しとぞ。紀通が謀反という事あとかたもなきそらごとなりしかば、翌年にいたり紀通が二子大助といへるに資財ことごとくたまひしに、四年五月より大助疱瘡を煩ひその六月四歳にてうせたり。長子竹松といひしは、これより先に死せしかば、遂に其家絶はてしこそ哀なれ」









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