丹後の伝説
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丹後の伝説30

丹後の伝説:30集

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アンジア島由来(舞鶴市小橋)
雄島のてんぐ 老人嶋の女神 こうじろだおし 多禰寺縁起 はりま踊り(舞鶴市小橋) 一ツ目小僧(舞鶴市小橋) 山姥(ひだる神)(舞鶴市小橋)


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アンジア島由来(舞鶴市小橋)


三浜・小橋沖の島々
手前からアンジャ島・磯葛島・沖葛島。右手沖合に見えるのは冠島と沓島。

『わが郷土』(丸山校百周年記念誌・昭51)に、
アンジア島由来 −小橋−
アンジャ島(沖から・今は陸つづきになっている)
 いつほどの昔のことでございましょうか。この村に、それは仲のよい兄弟がおりました。漁にいくにも、田へいくにも、いつも二人の姿はいっしょじゃったといいます。
 ところが、おそろしいものの中でも、何よりもおそろしいのは、はやり病いでございます。
 いまなら、注射一本でなんでもない病いが大変でございました。こんな場合、その頃は日本国中どこの村でも同じことでございますが、病人を隔離するよりすべはありませなんだ。
 今のアンジア島に小屋立てして、兄をうつしますと、弟は泣く泣く、毎朝、毎夕、小舟で食べ物を運んだものでございます。
 それでも、弟の懸命の看護も甲斐ありませんで、兄はうら若い生命を召されたのでございます。
一人残された弟は、その後も、毎朝、毎夕、島に小舟をよせましたそうで、
「兄者(あにじゃ)あ、兄者あ。」
と、島に向って呼びかける姿は、涙なしには見られぬものじゃったそうでございます。
これが「アンジァ島」の由来でございます。
(註)別説。南北朝の争いの頃、南朝ゆかりのある姫君が、逃れに逃れて、この島にこられ、ここに行在所(あんざいしょ)を建ててかくれておられたという。それで「行在(あんざい)島」と呼ぶようになり、それがなまって「アンジア島」と呼ぶようになったともいう。

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一ツ目小僧(舞鶴市小橋)

『わが郷土』(丸山校百周年記念誌・昭51)に、

ちんじの一ツ目小僧   −小橋−


 舟にのって、「野原」を通り過ぎ、「成生」へいく岬の手前に、ちょっと入りくんだ所がありまして、陸からは行けんところですが、きれいな砂浜があって、昔から、舟ではちょいちょい寄って休む所です。ここを「ちんじの浜」といいます。
 ある時、この村の親子が、漁に出ました。ところが、さっぱり魚がとれえて、一ぷくするために、このちんじの浜に寄りました。
 砂浜で握り飯のつつみをひろげて父親と男の子が、食事しとりましたら、
「あのなあ。」
というて、誰ぞがよってきた。ふり返りますと、これが、背丈は、小さい子どもくらいで、でんち着て、丸い大きな頭しとります。よう見ると、口が耳までさけとりまして、顔のまん中に、目っくり玉が一つギョロリとあるだけという、奇妙なかっこうです。
「あのなあ、うら、もうながいこと、何にもくとらん。ひもじゅうて、ひもじゅうてならんで、何ぞ食うもんくれていやあ。」
と、いうんで、父親は「こらあ人を食うちゅう、ちんじの一つ目小僧やな。」と、すぐ気がついたが、落ち着いて、握り飯を一つ遠くへほうってやりました。小僧はポイッと大きな口に握り飯をほうり込んで、すぐ、
「もっと、くれていやあ。」という。またやったら、またポイッ、またやったら、またポイッと、だんだん近よってきよりました。とうとう、ようけあった握り飯がみんなのうなってしまいました。
「あのなあ、もっとうまいもん、くれていやあ。生きとるもんをくれていやあ。」
というと、また一歩近づきましたから、父親はとっさに、子どもにいいました。
「舟の中の、魚をとってこいや。」
子どもは、魚なんか一匹も、とれとらんのにと、けげんな顔したら、
「ほら、早よいってさがしてみい。生けすの中に泳いどろうが。」
 父親が、しんけんにいうので、子どもは、走って舟まで行くと、いっしょうけんめいざがしたが、魚なんかおるわけはありません。
「おとう、どこやあ。」
と、いうたから、父親は、
「おかしいな、よっしゃ、さがしたろ。」
いうて、走っていって、舟のともをど−んと押して、舟にとびのりました。
一つ目小僧は、口から赤い舌をペロリと出して、ヒョコヒョコ追いかけてきましたが、もう間に合わん。
波打ちぎわに立って、舟の方むいて、
「だまされたあ、エサに逃げられたあ。」
と、手ばなしで、オイオイ泣いとりましたそうです。
帰ってから、子どもは、おそろしそうにいいよりました。
「ちんじの浜に 火ィヒッカリコ、
 ホー、ホッカリコしとったなあ。」
このことばは、今も伝えられております。

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山姥(ひだる神)(舞鶴市小橋)

『わが郷土』(丸山校百周年記念誌・昭51)に、

山姥(ひだる神)   −小橋−
 頭のかみを、きれいにせんと、ねだいとるのを、やまんばみたいやといいましたが、ほんまに、やまんばはおりましたな。
 山の方から、大きな体して、つるもなにも体につけたまんまで、村へやってきまして、
「ごはんを、よんでいやあ。」
と、いうんです。
 やまんばは、ひだるさがあまるとでてくるんで、村のもんが、にぎりをやりますと、辻の石にこしかけて、大きな口をあけて、
「はお、はお、はお、はお。」
と食べます。
そして、ひだるさがなおると、 山へ帰っていくんです。
山いうところは、ひだるいとこなんでしょうな。

(註1)ねだいとる…ぼうぼうにしとる。
(註2)ひだるい…はらがすいてだるいこと。

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老人嶋の女神(舞鶴市小橋)

『わが郷土』(丸山校百周年記念誌・昭51)に、



雄嶋(冠嶋)の話

老人嶋(おしまさん)の女神
       −小橋−

 今の雄嶋詣(おしままいり)は、六月一日だが、昔は三月三日じゃった。
 三月三日は、おしまさんの神さんが、島を留守にする日となっとった。おしまさんの神さんは、女の神さんで、だんなさんの神さんは、「にいざき」という所の神さんじゃった。三月三日は、年に一度、老人嶋から、女神さんが、恋いしいだんなざんに会いに行きなさる日やから、早うから島へ行ったら、女神さんが、人に姿を現わして舟にのるのが、恥しいてでけへん。そんなじゃまでもして、女神さんが会いに行けなんだら、村のもんが、老人鳩に上るなり、島が地震のように、ゆっさゆっさゆれたり、山鳴りがして、とってもそこにはおれんようになってしまう。
 漁師が、魚や貝をとりに海へ出ていっても、海が荒れて、家にも帰れん。しやなし、老人嶋に行っても、島がゆれて大変じゃ。船をかぶって一夜を過してから家に帰ったりしたもんじゃ。
 老人嶋さんには、木で作った古い船があるが、神さんが、この舟にのって「にいざき」へ行きなさる。
 ほんまか思て、ある人が、三月四日に島へ上ってこの舟みたそうな。そしたら、だれもいろとらんのに、舟の底がすりへったり、海の水でぬれとったりしとった。

 前は老人嶋神社は、「竹がダラ((平))」という島の高い所にまつっとったが、それでは、女の神さんが、海まで舟をおろすのに難儀しなさるんで、今の平らなところまでおろして祀りかえたんじゃ。
 なんせ前は、島の下を通ると、どうしょうにも、舟がピタッととまってしもうて、先へ漕げん。それで漁師は、舟の帆をおろして、老人嶋さんを拝むと、舟が進むんじゃ。
 今の所にまつりかえてから、もうそんなことは、起こらんようになった。
 せっかくの三月三日に、ワイワイじゃましにいかんようになったし、きっと、女の神さん満足しとらっしゃるんじゃのう。

(註)丹後半島、伊根の新井崎

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こうじろだおし(舞鶴市小橋)

『わが郷土』(丸山校百周年記念誌・昭51)に、

こうじろだおし   −小橋−

 昔、こうじろのおとうが、一人で雄嶋さんに、まいりに行った。
 行きはよかったが、帰るとすると、ものすごいあれになっとった。けど、こうじろは、腕に自信があったので、舟にのりこみ、海に出た。波は、さかまいて、どえらいあれじゃ。
 とうとう、舟は、ひっくりかえってしもうた。こうじろは、波にもまれとったが、さいわいなことに、近くに、岩が頭出しとる。ひっしで泳ぎついて、この岩にしがみついて、海が、しずまるのをまととした。そやけど、波は、こうじろを岩からはがそうとして、おそいかかるし、いっこうにおさまらん。「もうあかん」とさすがのこうじろも思た。
 その時、白い刃をむきだしてあばれとる波頭のあいだから、黒い空に一羽のかもめが飛んどるんが見えた。
 こうじろは
「かもめよ かもめ。うらは こんぴらさんを いつつもおがんどった。われは こんぴらさんの使いやろさかい、うらがこうして、こまっとることを、なんぞして、村のもんにつたえてくれ。」
 と言うて、かもめを拝んだ。
 それから、どれだけたったか、こうじろが岩にしがみついたなりで、ふと我にかえると、ふしぎや、波はおさまり、むこうの方から村のもんが、ろをこぐ舟が、近づいて来よるのが見えた。
 こうじろは、こうして命びるいをしたが、この時の岩は、今でも『こうじろだおし』と名がつけられて、雄嶋さんのそばで、白い波頭をかんどるよ。
(註)こうじろ=幸次郎(家号現存)

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雄島のてんぐ(舞鶴市小橋)

『わが郷土』(丸山校百周年記念誌・昭51)に、

雄嶋のてんぐ  −小橋−

 夜がらちあみに雄嶋さんへよう行きよりましたそうな。
 雄嶋さんの北側に「つくしがうろ」というところがあります。ここへ、あみをよう置いたそうですが、あみを置くと、山の上の方から、大きな石やら、小さな石やらが落ちてきよる。ドッボーンと海へはまるやつやら、船にも、かんかんあたってあぶのうてしやない。
 いそいで、沖へこぎだして逃げたそうです。
 やれやれ助かったと、明るうなってから、雄嶋さんへ行くと、これはどうじゃ。石の落ちたあとも、何もない。「これは、おかしい。」と、船のまわりを、ていねいにしらべても、石のかすったあともない。
 こんな時は、
「また、てんぐさんにいっぱいくわされた。」
と、いうたもんです。
 てんぐがおったのは、雄嶋さんだけでのうて、野原の『ひんでのいそ』にもおりまして、こんなことがあったそうです。

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はりま踊り(舞鶴市小橋)

『市史編纂だより』(55.7)に、

民俗文化考(小橋のはりま踊りについて)


       専門委員 野村幸男

 本年度民俗調査を依嘱されて、郷里大浦半島の小橋部落を調べて見た。幼ない時から多少は知っていたものの、調査項目に従って古老達の話を聞いていると、私達の想像以上に古い時代の生活様式や、年中行事などが現在にも引き継がれていることに驚きを感じたが、特に民間信仰の問題についてこれが強いように思われた。現在は交通機関の発達により、近隣地域との連絡も容易になって来ているが、古い時代には海と山に囲まれ、外界に対して閉鎖されていた半農半漁の村の平凡な生活の中で、この生活にアクセントをつけ、精神の安定、村人達の団らんのひとこまとしての精神文化が、今も生き続けているのである。
 私はこれらの民俗伝承の中から、この部落に最近まで大切に引き継がれていた「はり間おどり」について紹介し、今後の当部落史調査の出発点としてみたい。
 小橋部落には、古くから落人伝説があり「私達の祖先は平家の残党である」とか、「海洋民族の子孫である」とかいわれている。これらの落人の話の中て、史実として考えられるのは、中世の治左ヱ門一党のことである。治左ヱ門一党については、部落の東端、野原部落に行く旧街道の山の斜面に、宝篋印塔を含む石塔墓群があり、村人はこれを「治左ヱ門墓」と呼んでいる。(私も少年のころ、友人との遊びの最中、この墓を見て奇異な感じを受けた記憶がある)その中の一つの墓碑銘に天正十五年(1587)ときざまれている。
 このほか、小橋部落と他地方とのつながりを考えさせられるものの中に、前述の「はり間踊り」がある。この踊りは、先きの世界第二次大戦前まで氏神若宮神社の祭礼に奉納されており、村の重要な行事であった。
  「正徳六年
   鯨代銀割符帳」
   (村の海岸でクジラがとれた時の分配金を記す)
  の中に
   一、拾三匁  はり間殿へ
          村中より御へい上る
   一、十三匁五厘はりま殿へ
          在廻り入用
とあるを見ても、この踊りがこの村で重要視され
ていたことを知ることが出来る。
 古老の話では、この踊りは各戸の長男によって
氏神に奉納されたという。松井久吉氏の筆になる
「祭用踊全集」によれば
     はり間おどり
ことしのいねの穂色のよさよ、穂色のよさよ、
あてによりかかるウ、主しによりかかるウ。
とのごに姫はよりかかる、よりかかる、ヒンヤー
みなーようにおならびあれ、みなーようにおな
らべそろたか、はりまおどりをひとおどり、ひ
とおどりヒンヤー
はりまの国の源内殿は、赤松様のごたかのよさし
はりまをまわりておさしあるヒンヤー
はりまおどりをひとおどり、ひとおどり
ヤアはりまのくにの源内殿は、赤松様のござと
ころヤー、今とてまいりながむればヤアー
とうは白金、ばんは赤金、すかし物ヤアー
ざいはこがれとまづみゑるマアー
はりまおどり、はりまおどりを一とおどり、一6
とおどり
ヤアーさしておでいをながむれば、ながむれば、
おんつねしゅうとみゑしもの、弓千五百にやり
千すじ、上下の具足が千ようばかり、ほらかけ、
ほつぼが千五百ヤアー、はりまおどりを一とおどり、はりまおどりを一とおどり
ヤアーさアておへんをながむれば、ながむれば、
若殿ばらが千人ばかり、やをはぐふぜいがあら
みごと、ヤアーはりまおどりを一とおどり、ヤ アーひとおどり
ヤアーさアてせんすいをながむれば、ながむれば、沖から鶴が四つ連れて又四つ連れて、八つ つれて、千年々の石たたみ、ヤアーなみにたい こをうたわさる、ヤアーはりまおどりをひとお どり、ヤアーひとおどり、ヒンヤーはりまおど りはこれまで、そうらそらおどりの姫はみなつ ぼみ、ヒンヤーみなつぼみ、みなつぼみ 終り

 現在、部落で小橋郷土芸能保存会が結成され、はりま踊りの復興に努力が払われている。
 上述の歌の中の〃はりま〃は播磨の国に通じ、赤松様は播磨の守護大名赤松氏につながりはないか、また歌の中に含まれる武士的要素、それに播磨−加古川−由良川−小橋とつながる古い時代の交通路があったのではないかといういろんな幻想がわいて来る。
 もちろん不確実な事を簡単に結び合わせての、牽強付会は厳につつしむべきものではあるが、古い民俗的伝承をもとにして、着実にそれらの事実を確かめて行くことも、将来の郷土調査の中で重要な分野を開き得るのではなかろうか、と考えられるのである。
 現在、京都府及び舞鶴市で調査中の民俗文化(芸能)の中に城屋揚松明(城屋)など19件が挙げられている。これらの調査の対象になっていないものの中にも、上述の「はりま踊り」など数多く残っているであろう。またこれら多くの民俗文化の起原や、由来はほとんどが不確定である。しかし、例えば民俗芸能についても、それぞれを舞(太刀振りも含む)、踊り、太鼓等に類型化し、それぞれのもつ地域住を整理して行けば、一つの文化の流れを見出していけはしないだろうか。
 当舞鶴市には(1)丹後からの文化(主として海上)
       (2)由良川を下って来た文化
       (3)若狭からの文化
以上三つの文化の流れが考えられないか。それと同時に、京都(中央)とのつながりを如何なる材料をもとにたどって行けばよいか、などいろいろな興味が湧いて来る。文化の流れの探索は模糊とした部分が多く、真相をつかむことは容易ではなかろう。しかし私達は確かめられた一つ、一つを足がかりとして、古い時代の郷土の人々の生活の一端にでも触れ得たら幸いであると考える。

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多禰寺縁起

多禰寺縁起の元となったといわれる『田辺府志』の記事、

京極高知訓誨庶臣

高知一日諸臣を召集訓教していわく、我国に移来りて熟(つくづく)其むかしを聞くに、人皇三十二代用明天皇大和磐余に宮居し給ふ時まで此国に鬼賊おほく鼠(かくれ)居まして生民をなやましくるしめる事叡聞にいりしゆへ、退治して蒼生を済(すくひ)給はんと叡慮をめぐらされ給しに諸官の内にて撰出あるべきとありしが、皇后の御腹に四子産し給ひ第一には厩戸皇子是聖徳太子の御事なり、第二には来目皇子、第三には殖栗皇子、第四には茨田皇子、又蘇我大臣石寸名嬪の腹に田目皇子をうめり、葛城直磐村女廣子の腹に麻呂子皇子を誕せり、勇健菖人にすぐれ材智世にたぐひなく、佛陀神明を尊崇ふかく官臣をめぐみ庶生あわれみ給ふゆへに、其徳宮城にもれ四夷におよべり、是によりて當国鬼賊退治の勅命ありし時麻呂子親王心慮をめぐらされ、我帝命にしたがひ彼国に馳向ふとも彼を追討して其功勲をたてざる時は其困労益なきのみにしもあらず、王道の瑕瑾(かきん)我身の恥辱たるべし、此上は佛陀神明の威神力をかり此運をとぐべしと、先宮中にて七仏薬師の法を修せらる、第一には善名称吉祥王如来、第二には寳月智巌光音自在王如来、第三には金色寳光如来、第四には無憂寂勝吉祥如来第五には法界雷昔如来、第六には法界勝恵遊戯神通如来、第七には薬師瑠璃光如来(七薬師異名あり、今は一説を記せり)右七薬師の法を勤修丹誠を抽(ぬきん)で鬼賊殺戮国家平治の堅誓をたて、小金體の薬師一躯を鋳させ護身佛に持受せられ、又天照皇太神に祈誓をぞ立給ひ、此度神力にて鬼賊を討果し諸願成就せばかならす寳殿を其所に結構し神徳をながく仰奉らんとふかくもちかひ給い、それより丹後與謝郡河守庄鬼賊棲家尋いり給ひしに、彼鬼窟に英胡、軽足、土熊 或説土車三なにごゝろなく居ませしに、無二無三に切籠給ひ三鬼のうちたやすく二賊を討留られしに土熊一鬼討漏し給へば逃去て竹野郡にかくれいりしを四臣を先魁としてまた彼所にいたり見給ふに岩窟にふかく竄れて見へざりし程に、路にて白犬奉し寳鏡を松枝に懸給へば鬼形明らかに照し露せし程に力を労し絵はす生捕らる、其時其松を鏡懸松となづけける、此時より国中安穏におさまりたり、是皆神佛擁護の力なれば七佛薬師の寳構を造立せんと、第一には善名称吉祥王如来は加悦庄施葉寺、第二には寳月智巌光音自在王如来は河守清園寺、第三には金色寳光如来は竹野元興寺、第四には無憂寂勝寳吉祥如来は竹野神宮寺、第五には法界雷音如来は溝谷庄等楽寺、第六には法界勝恵遊戯神通如来は宿野成願寺、第七には薬師瑠璃光如来は加佐郡白久(しらく)庄多禰寺(七所薬師の霊跡一説ならず、是は宮津城主信濃守尚長御改なり)如此七寺を建立ありて其後天照太神の寳殿を営建して勧請し給ひ、伊勢の齋女(いつきめ)に相順し熊野郡の中より士姓をゑらび少女を齋女にたてまつらる、側に別宮あり是則麻呂子の本宮なり、親王本より佛陀神明を信仰し給ふ事は父用明帝の御教にして、齋女を備らるゝも其時に酢香手姫の皇女を用明帝より伊勢太神宮にそなへらる、其風規により絵ふとなり。其後四百八十年の後人皇六十六代一條院の御年に当た、丹波大江山に酒顛童子住しが王城の方近ければとて別所に移り、大江山には茨木を第一の守衛として諸眷族を残し置、雨所同じく鬼窟として住籠り国人をなやましくるしめる、其事帝城にひざき叡聞にいりしゆへ源頼光に誅伐すべきよし勅命あり、正暦元年三月二十日に都をたって多田にくだり父満慶入道に御暇乞ありて、翌日は大井の光明寺に詣給ひ今度朝敵たやすく退治する擁護の力をくはへ給なば大磐若経六百巻奉納あるべきとて一紙の願書を捧られ、一夜参篭あって丹誠をこらされ、諸寺諸社におほせて秘法を修せられしに、八幡大菩薩の夢想を蒙り住吉大明神の先導にて心やすく彼童子を退治せらる、是皆佛神擁護の力なり。武威を天地にふるひ武名を万世にのこし海内の平安おもひなん身はかやうの先例を相考て其こゝろをはなつべからず、かならか私情にまかせ邪業異法をこのみて悌神を蔑にする事は蛍火の光にほこりて日月の明を欺にことならず、天下の理にしては天子は直に上天の主宰にかわり出給ひ、次に摂政将軍は天の四帝にそなわり出でゝ国家に執政して佛神の冥慮を頼み給へり、庶臣群民の類としていかんぞ私家に自法を立主君の政行を背べしや、ひとへに其分別なくして実行にこゝろをよせば家賊に同じ、我諸臣のもの表には武門の家風を本とし内には沸神の二法を信仰すべしといへり。

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