丹後の伝説:53集
−天橋立周辺の伝説−


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 『岩滝町誌』より
 水頓和尚
水頓和尚
昔、小字石田に廃寺があった。水頓という老僧が住んでいた。
ある夜「すいとん、すいとん。」といって呼び起す者があるので、こんなに夜が更けてから誰が訪ねて来たのかと不審に思いながら急いで戸を開けて見たが誰も居なかった。
次の晩も同じ頃になると「すいとん、すいとん。」といって戸をたゝく者があるので戸を開けて見たが満月が空高く輝いているだけで人の姿は見えなかった。
しかし翌晩も同じ時刻になると「すいとん、すいとん。」と呼ぶ声がする。こんなことが四五夜も続いた。水頓和尚愈々不思議に思い、或は狐狸のいたづらかも知れない。今夜こそその正体見届け、生捕りにしてやろうと手ぐすねひいて待っていた。
例の時刻になるとまた「すいとん、すいとん。」と呼ぶ者があるので、水頓和尚足音をしのばせ、窓を細目にあけて視いて見ると一匹の古狐が長い尻尾で戸をスイッと撫で、次に頭をトンと戸に打ちつける。その音が、「すいとん、すいとん。」であることが判った。
よしよし和尚にも工夫があるぞ、と自問自答。翌日はその戸に仕掛けをして待っていた。
そんなこととは知らず古狐は例の時刻にやってきて「すいとん、すいとん。」を繰返りしていた。その時和尚がサッと戸を關けたので古狐ははずみをくらって家の中へ転げ込んでしまった。水頓和尚手早く戸を閉め、ひっ捕えんものと本堂まで追いつめたが見失ってしまった。
あたりを見廻すと一躰である筈の薬師様が今日は二躰いちっしやる。そこで和尚は「薬師様にお願いします。今、狐がここに遁げこみましたが見れば薬師様は二躰いらっしやる。どちらが本物だか教えて下さいませ。」
と、いうと、一方の薬師が指さして「あちら、あちら。」と示すので電光石火、その手をつかんで押さえてしまった。するとその薬師は本態を現わして「もうコンコン」と啼くので和尚は苦笑して許してやった。

 長地蔵
長地蔵
  卒塔婆型の石柱で高さニメートルばかりの花崗岩の地蔵尊である。字石田の東端にある四十平方メー
トル位いの庭園内に安置されている。
しかし、昔は今の場所から一〇〇メートルばかり東北方の一軒家の前の路傍に立っていた。
長地蔵というのは特にその背が高いばかりでなく、如何に背の高い者、即ち俗にいう大入道が背くらべをしても、また中男、小男が立並んで高さを競べても、背を比べるものの高低に応じて石地蔵は自在に背の高さを伸縮して背くらべをするものよりも高くなるという神通力を持っていた。しかもこの地蔵と背競べをしたものは其の後三年の閥に必ず死ぬると、いい伝えられている。これは奇蹟の実証を予防するためであろうといわれ、一説には古墳説も唱えられている。

 山添一族
山添一族のこと
  一色義清の実弟数馬は弓木城陥落後石田に遁げ隠れて山添宗左衛門と変名した。その長男徳左衛門、徳左衛門の次男が弓木へ分れた。これが山添六左衛門の先祖で今は十二軒に及んでいる。徳左衛門の三男清兵衛が奥大野倉垣(中郡大宮町)へ移り今では山添岩蔵外七軒を数える。徳左衛門は代々徳左衛門を襲名して富み栄え、庄屋をつゞけ十三代の間には府中の宮崎、岩屋の有吉、山田の小長谷等、地方の名門と縁組して旦那寺の弓木玉田寺へ詣るのに一寸も他人の地を踏まなかった時代もあったと伝えられている。そして石田だけで六、七軒の分家、四辻、幾地、岩屋に分れて何れも何軒かに広がった。石田の徳左衛門は十三代目に至って零落し、明治末年、神戸に転住し持ち地の内、現在の農事作業場の所だけが石田に残っていた。同人は終に神戸で長逝し子がなかったので後が絶えた。分家の兵右衛門は酒造家で酒兵と称し繁昌をつゞけたが、明治以後逼塞(ひっそく)し、相続者の幾造という者がとても芝居好きで、大正年間終に役者の群に投じ行方不明である。家は現在の山定の本家が新築された大道沿いの所にあったという。
玉田寺の過去帳を見ると、宝麿十三年(一七六三)未四月、山添禅冲の先妻、徹山日照信女の日牌料として石田の阿南弥山(宝蔵寺)二反歩(約ニァール)を寺へ納めている。同時に徳左衛門の父禅冲の日牌料として銀百二十目を納めている。

 鉢屋敷
鉢屋敷
  元禄十四年から少し前のころ、石田村に大金持があった。五十棟もある建物をなおし、その上なお増築しようとして附近の田や畑や籔まで手当り次第に買い占めた。そして日々何十人という人夫を使って切り取り、埋め立て、地ならしの工事が続けられた。
或る日大榎の根元から大へん立派な鉢を掘り出した。人夫は驚いて打込む鍬にも注意しながら一尺(三〇センチ三ミリ)二尺(六〇センチ六ミリ)と掘り進むと三枚、五枚と次々に出てきて遂に大小十枚の古代模様の立派な鉢を掘り出した。大金持は家運益々繁昌の前兆とよろこび、人夫には酒をふるまい、物識りや学者を招いて鑑定してもらったら、足利時代の素焼であるということであった。何人が何故に何時ここに埋めたものか記録も口碑もない。その後大金持も鉢の行方も不明である。

 字ショウブの由来
字ショウブの由来
  石田の西南に菖蒲という地名がある。今日、十戸位がその一画に庄んでいる。地名の起りは明らかではないが、或る古老の話ではタチ(菖蒲を流れる小川の川上の土地)で太刀を抜き菖蒲で勝負したのであるという。
この事から推察すると、天正年間、細川、一色両家の戦斗激甚となり、一色氏が細川のために城を十重、二十重に囲まれた時、附近の村落は皆兵火にかゝり百姓、町人は早々に難を避けたが、一色の残党はこのタチ(館)から出て、この菖蒲の地で切込みをして勝負を争ったところから、勝負をした地である意味が菖蒲という地名となって残っているのであろう。

 短地蔵
短地蔵
  此の地蔵尊は、昔不動尊附近の谷川が岐れて二派となる地点の路傍にあったが現在は新道と旧道と分れる所に移転されている。
石の質は極めて堅緻であって此の地方の産ではないように思われるが、肩から斜に一刀両断されたような痕跡がある。石の事であるから多年の風化作用によって刀傷のような亀裂が生じたものであろうが、この地蔵尊については次のような伝説がある。
甘、弓木の城主一色五郎義俊は田辺(今の舞鶴)の城主細川藤孝の娘と結婚した。三年の後、織田信長に促され上京することになった。途中田辺城に岳父(がくふ)藤孝(幽斎)を訪れるつもりで此の地蔵尊の前を通った。
突然、地蔵尊は義俊を呼び止め、「不吉の相あり、今日の田辺行きは思い止まるように。」と、注意した。短気な義俊は振りかえり、「何を。」と、いうや否や抜く手も見せず、地蔵尊を袈裟掛けに切った。
義俊は列を正し出発した。田辺城に義父藤孝を訪ねたが、地蔵尊の予言の通り義俊は細川のために謀殺され多数の部下も主人と共に敵刃に斃れた。.
其の後、里人等が両断された石地蔵を継ぎ合せて祀ったのが、この短地蔵であるといわれている。
また一説には子供の寝小便を癒す地蔵尊として有名であったとも伝えられている。

 鶏塚

鶏塚(にわとりづか)
  文珠街道の傍にある鶏塚にはいろいろの伝説がある。
その一つは、和泉式部の歌集を埋めた所であるといわれ、是が通説のようになっている。
また一説には、宇多天皇(八八八〜八九七)が宇治山から掘り出した金で雌雄の鶏を造らせた。皇后、井上太子等宇多天皇を怨むことあり、例の鶏を用いて天皇を呪詛した。事露われ、皇后も太子も廃して庶人とした。其の後、金の鶏は藤原氏のものになったが、更に足利のものとなった。
将軍義満の時、賊が宝庫に忍びこんで之を盗み、与謝の海(宮津湾)の老翁坂附近の磯に近い小島の中に埋めて置いた。後年、その賊が捕えられ、金の鶏をかくした場所を自白したので、金の鶏は再び足利氏のもとに返った。それでこゝが鶏塚と伝えられているのであるという説である。
我が岩滝にも鶏塚に関する一つの伝説がある。
昔、弓木村の野田に源兵衛という真面目で慈悲深い百姓があった。家には牛の外に、猫と鶏を飼いどちらも大へん可愛がっていた。猫は飼いだしてからもう二十年以上も経っていた。
こういう人柄であったので他人の気受けも至ってよく大へん幸福に暮していた。
或る晩、飼っていた鶏が宵啼きした。翌朝附近の人々は心配をして「鶏の宵啼きは不吉の兆(しるし)である。
早く棄てないと災難を受けるというのに……。」と話していた。
いつの間にか近所の人々の噂は源兵衛の耳にも入ってきた。源兵衛も全然気が付かなかった訳でもなく、また何となく気持ち悪く思っていた時であったので、胸騒ぎがして落ちつくことができなかった。
しかし一方では今まで数ケ年間飼い馴らしてきた鶏を今更簡単に捨てゝしまって餓死させるにも忍びず、そのままにしていた。
其の夜また頻りに啼いたので近所の噂も一層高くなって来た。源兵衛も益々気にかゝったけれども棄てるのが可愛そうで、其の内には宵啼きも止むだろうと思ってそのまゝにしておいた。然るに次の夜もまた頻りに啼きだした。流石に慈悲深い源兵衛もたまりかね、やむを得ず決心して、翌朝早くこの鶏をつれ野田川尻に行った。さながら人に物を言いきかせるように、
「お前を飼ってから満三年、お前には是といって罪はないけれども、世間の人の忌み嫌う宵啼きするので、このまゝにしておくわけにはいかない。お前が宵啼きするのは不吉の兆があるからだと人が言っている。だから如何にかわいいからといっても家におくことはできぬ。今日限りでお別れだ。今、此の海上に流すが何処かの磯に流れついてなさけのある人に助けてもらえ。」
と、いって二握り、三握りの籾をそえ、俵にのせて我が子に物いう如く、涙ながらに押し流した。
鶏をのせた俵は波の聞に々々漂っていっだ。源兵衛は去りかねてしばらくの間たたずみ見送っていたが、いつまでも別れを惜しんでいても仕方なくやがて家に帰っていった。
それから五日ばかりたった頃、一人の修験者(六部)が、宮津の方から文珠の方へ磯辺の岩を踏み越え、飛び越え(昔は、山が海に迫り、今の様な文珠街道はなく、海岸を飛び石伝いに往来した)やがで山道を辿って谷に下り、老翁坂にかゝろうとしだ時、突然磯に近い海の中から怪しい鶏の啼声が聞こえて来た。修験者は不審に思って立止って見たが、あたりには人家はなく、打寄せる白浪の音、枝を払う松風の外、人家がないから鶏のいるはずがない。これはいよいよ怪しいと思っていると、又異様な鶏の啼声。よく見ると十杖ばかり(修験者の持っている杖十本位つなぎ合せた距離か)離れた処に小島があり、その松の根元に一羽の鶏がいる。啼いているのはこの鶏であった。それにしてもこんな海中の小島に何故鶏がすんでいるのか不思議であるのに、それだけでなく、其の啼声が異様であると思っているとまた二声、三声啼いた。
耳を澄して聞くと「野田の源兵衛を猫が喰う。」鶏は悲しそうに啼いた。修験者は、世にも不思議な事もあるものだなあ、何はともあれ、源兵衛という人を訪ねて見よう、必ず訳のあることにちがいない。
修験者は路々「源兵衛という人を知っていますか。」「源兵衛という人がありますか。」と尋ねてみたが知っているという人には会えなかった。修験者は成相寺に詣で、それからも尚、道々「源兵衛、源兵衛。」といって尋ね歩いた。
やっと「弓木村に源兵衛という人がある。」と、教えてくれる人があったので、修験者は大へん喜び、同家に至り休憩させてもらった。見ると、炉辺に逞しそうな赤猫が眠っている。修験者は汲んでもらった湯茶をのみながらよもやまの話をしながらそっと猫の方に注意をしていた。
猫が時々爛々たる眼を開いてこちらを睨む眼光の鋭き、物凄きを感じたが、さとられぬよう何くわぬ顔で世間話をしているうちに秋の日は既に暮れかけていた。
修験者は「初めて伺って、無遠慮なお願いをして恐縮であるが、今夜一晩泊めていただくことはできないであろうか。」と、丁寧にたのんだ。源兵衛はもとより快く引受けてくれた。夕飯を終り一刻余り世間話をした後、修験者が先づ床につき、源兵衛等もまた次の一室で寝床に入った。心に一物ある修験者は眠ると見せかけて、ひそかに猫の挙動を窮っていた。
秋の長い夜が次第に更けていった。草木も眠るという丑三つ時、彼の猫が裏窓の破れたところから入ってきた。
足音をしのばせながら修験者の臥床を一周してから源兵衛の枕もとに忍び寄り、しばらくためらっている様子であったが、やがて、首をさしのばし、その寝息を窮っているようであった。時々こちらを睨む眼光は爛々として、ほの暗い行灯の光に金色に輝き何とも言い現わしようのない物凄さであった。
修験者は一刻も眼をはなさず、じいっと猫の様子を見つめていたが、今度は真赤な舌で、鼻のあたりをなめたり、鼻を突き出して嗅(か)ぐような格好をすると、源兵衛は夢にでも襲われたように苦しそうな声を出しては苦悶をした。修験者はわざと目が覚めたように見せかけて「うん。」と声を出し、両手を伸ばすと、猫は驚いて、ひらりと飛び退き、のそりのそりと炉辺に行って蹲った。こんなことが二三回もあったので、修験者は夜明けを待っていた。
間もなく夜も明け、幸い猫もいなかったので、修験者は源兵衛を近くに呼び、声をひそめて「近頃あなたの心に怪しいと思うことはありませんか。」と尋ねて見た。
源兵衛さてはと胸騒ぎがした。そこで鶏が宵啼きをしたのでこれを棄てたことを話した。
修験者は悲しそうに、そして態度をあらため「知らないのなら仕方がないが、その宵啼きは、あなたを不幸にするためではなく、あなたの災難を救おうとしたのです。あなたに危害を加えようとしているのは、鶏ではなく今いる猫です。」と、いって、昨日こゝに来る路であったことから、咋夜認めた猫の怪しい挙動にいたるまでの一部始終を話し、自分が泊めてもらった理由も告白した。
源兵衛、身震いじながらきいていたが、思いあたるふしがあると見え、話しをきゝながら頻りにうなずいていた。やがて、「私があの猫を飼いだしたのは二昔も前です。年を経た猫は禍いすると言い伝えられているが、そんなことがあるものか、と我が子のように可愛がってきました。もちろん、食物等にも気をつけ十分与え、毎日一度は魚もたべきせていたので御覧の通り世間の人にも羨まれるばかり肥え太っています。
年をとったためか、近来は鼠さえも捕ることができず、役にも立ちませんが、棄てるのも不憫であり、代りの子猫も飼わず、いたわってもらっていることをよいことにして増長し、他家に行って大きな鯛を盗んで来ました。
謝罪に行き、鯛は弁償しましたが、こらしめのため厳しく叱って其の改心を期待して居ました。
また、先日は、近所の家に入っていって、非常識なことをするといったらーー寝かせてあった赤ん坊の頬をなめていたということがあったので、余りのことに腹が立ち、頸筋をつかみ、こらしめのため続け様に七ツ八ツなぐり、尚厳しく言いきかせてやりました。察するところ、それを遺恨に復讐しようと思ったのにちがいありません。如何に畜生といえ、少しは恩ということも知るべきであるのに、恩を受けた主人に仇をもって報いんとする不敵の振舞は容赦できません。しかし、不憫なのは鶏です。私を救うために啼いたのに、知らぬことゝはいえ海へ流したことは可愛そうなことをしました。」と、万感胸に迫り、暫時茫然とした様子であった。が、修験者に向い「速く例の鶏を迎え取りたいと思いますが、幸い小島に上っているならしばらくは無事でしよう。それよりも先づ身にふりかゝる災難の根を絶っことが先決です。」と、いった。
そうこうしているうちに猫が帰ってきたので、修験者の助力を得て直ちに捕り押え、裏畑に引き出して厳しく樹木に縛りつけ、遂に之を打ち殺して山中に埋め、鶏を助け出すために急いで舟を出して小島に漕ぎつけた。着いた時には、数日の飢えに堪えることができなかったのか、鶏は松の根元で死んでいた。
源兵衛は歓き悲しみ、穴を掘って之を埋めて帰り、修験者に事情を話し、その恩に感謝し、数日間修験者を留め厚く之を遇した。その後源兵衛は鶏のために塔を建て、文珠智恩寺から僧を招き供養した。これが、今の鶏塚であるとも伝えられている。(「岩滝村誌」による)

 天野姓と広野姓
天野と広野姓
  伊勢の国長島の城主天野周防守(六万石)が加藤清正に攻め亡ぼされたのは足利時代末のことであった。
清正は憐むべきこの天野のために一封の添書を書いてくれた。それは、足利の一族であり、足利のために孤忠を守って丹州弓木城に立篭っている一色義俊に宛てたものであった。
こうして天野は弓木城に客分として何年かを過し、落城と共に大内峠の下に隠れて終に百姓となり、気楽に余生を送り、清正の手紙や武具は子孫に伝え、ひそかに武術を磨いていた。
八代目の長治郎は殊に剣道、柔術共によく出来たので、いつしか宮津藩主の耳に入り、本庄公に召し出され、江戸藩邸に入ったのは三十余才の時であったが、公のお覚えめでたき反面には同藩士の嫉視甚だしく、それがために凶刃に斃れたのは数年後のことであった。
国の遣族へは只急死とのみ知らせた。長治郎の実弟兵助もまた武術が相当できたから兄の変死の噂をきくと黙視して居ることができず、仇討ちの腹案を練って江戸へ上った。そして新助と名を改め仲間に住み込み、兄の仇を百方探したが何の手がかりも得られず、月日の経つにつれ、仇討ちの熱も次第にうすれ、終に町人となって江戸に住みついた。
今、城山に「天野家代々の墓」があるが、広野はこの天野の分れである。九代弥左衛門の時、清正の手紙と系図とは博物館へ出したりして家宝としていたが、大正十二年の東京大震災で烏有に帰してしまったことは惜しい。

 菩提山
菩提山
  天平十五年(七四三)に弓木と石田の中間の山麓に一寺が建立され、菩提山宝蔵寺と名付けられた。
開基は奈良の良弁杉で大変名高い良弁僧都で華厳宗、これがために寺の後の高い山が菩提山と呼ばれ今日に及んでいる。寺は天正年間に一色氏により、一色城下東南の地に移築され、霊苗山玉田寺と改められ、臨済宗となって現在までつゞいている。

 『やみづの昔話』より(カットも)

 星婿入り
星婿入り 難波野 斎藤次夫
つんどらさん(オリオン座)が、昔、二つだって、今、三つになったいうんがさあ、いうてくれたんが。
江尻だかどっか知らんけど、まあ、娘がおって、ほれから、他所から来た人が、どこか若者がおって、ほで、その二人が晩に出会うたりして、ほして、朝のつんどらさん、二つを目安にしては家に帰った。そして、ずーっと出会うとるうちに、若者が来んようになってね。何日か後に若者が急用がでけて、あいさつも何もせんと知らん間に、どこか行ってしまったんやてな。それを、さあ、また帰ってくるだろうて、その娘さん待って待ってしとっただけど、とうとう帰ってこん。それで、その後追うて、後の消息わからんけえ、それ時分から、一つ入れて三つになった。今では三つになってる。

 文珠の質流れ
文殊の質流れ 難波野 中田實
地球に来ると酒があるちゅうんで、神さんが下りてきて、酒を飲んどったわけやね。飲んどったところが、橋立がこけてしまった、そうしたらね、もう、酒買うのには金がいるでしょ。金は天国にはなかったもんらしいね。そいでその、知恵の文殊行って金借りたちゅうわけや。神さんがね。そして、酒を買って飲んだ。三べんも金を借りに行ったところが、
「仏の顔も三度までいうさかい、もうそうそうあかん」て、そう言われて、
「ほじゃ、橋立の梯子を抵当に入れるから貸せ」ということになって、金を借りてねえ、そして、それも飲んでしまった。
だから、橋立のふもとまで、一番こっちの根っ子まで、文殊の地内なんですわ、ね。文殊質流れしたんだから。
もし、この辺で、水死体があっても、向こうにずーっと一晩の内に送ってしまうんだ。橋立の方に。橋立に上がると、文殊の区の人が水死体は世話せないかん。管轄が向こうの管轄だから。

 育たぬ桃
大師話ー育たぬ桃  日ケ谷 藤原保
この日ケ谷ではねえ、まあ今ならどうか知らんけれど、桃、桃ねえ、桃というのはできないんだ、虫が入ってねえ。今はもう消毒する方法がある。いろいろとしてだなあ。そして摘み花したりしてだなあ、適当な桃作りというものはできると思うけど。まあ昔はそういう農薬もなしだ。で、日ケ谷に絶対桃ができんのだ。桃がならないんだ。花は咲くんだで。だけ、実がだなあ。まあ、あの、なにか花がくしゃくしゃになって、ほして、その、実がつかないんだ。
それは、その、弘法大師さんが、この、この辺をまわりなさったときに、その、日ケ谷のあるお婆さんに、
「桃くれんか」いうてだな、言うたら、
「そんなもん、おまえらにやられん」言うてな、桃をあげなかったいう。それから日ケ谷はだなあ、桃が、あの、育たないようになったということを、そういう話を聞いとおる。そら、まあ逸話だろう、本当の。

 送り狼
送り狼  日ケ谷 松田千鶴得
落山(宮津市落山)から筒川の本坂にある製糸工場に通っていた私の母(かね)さんが、筒川の仕事が終ると、五時に落山まで帰るんですって。毎日、母親のもとへ帰るのが楽しみで、どんだけ通ったか知らんだけど、厚垣(宮津市厚垣)まで帰ると、とっぷり日が暮れましたそうです。あるとき厚垣の宮さんまでもどって来たら、淋しい宮さんだったが、そこを通りかかると、宮さんから白い犬ころ見たいなもんが、コロコロッと転げて来た。
「ありゃあ、おかしげなもんだわ」思って見とると、そいつが先に歩くらしいんですわ。それでもう気持ちが悪うて、恐なってきて、もう村はありゃせんし、落山まで来るんだろうか、思ったら恐て、寒気がして困った。犬でもなけりゃ猫でもなく、見たことないもんだったそうな。そうして、汗かきもって落山と日ケ谷へ行く分れ路へ来たときに、ぴかっと落山の電気が見えたで、「送り狼に送ってもらったら、礼を言うと、ひっくり返して去んだそうだが」と、親に聞いたことを思いだして、
「よう送ってくれた。もうここからは恐わにゃあ、ひとり去ねるで、もう去んでおくれえなあ」言うたら、ぷいっとうしろ向いて、ぴゅっと厚垣の方向いて、走って去んじまったって。
「ああ、やっぱし送り狼だった」思ったら、また山から出えへんか思って、恐て恐て、走り込むようにして去んだ。















丹後の伝説53
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育たぬ桃
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