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丹後の伝説42

丹後の伝説:42集
泪ヶ磯の身投石、他

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泪ヶ磯の身投石 玄妙庵、対潮庵、沢蔵軒墓、保昌塚 三角無字塔菩薩岩

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天橋立:文珠地区

  泪ヶ磯の身投石 (宮津市文珠)


泪ヶ磯の身投石

『丹哥府志』

九世戸の庄
犬堂の西須津嶺の下に岐路あり、左は須津村へ出る、右は文珠道なり、其岐路より一町斗行て又岐路あり左を文見坂といふ。文見坂を下りて又坂あり、潮見坂といふ、潮見坂を下り鶏塚に至る、鶏塚の左に又坂あり、老翁坂といふ。文見坂の下より分れて右の方に道あり、飛石といふ。飛石より少し行て赤岩といふ岩あり、是辺まで橋立の洲先出る。飛石の間二三間斗行て泪ケ磯に至る。泪ケ磯より身投石の上を通りて老翁坂と合す、是より二町斗行て文珠堂に至る。文珠堂の東に渡あり、所謂九世戸なり僅に一町斗渡りて天橋に至る。文珠堂の西に穴憂の里といふ處あり、穴憂の里より須津村へ出る、是をとんこ廻りといふ須津村より弓木、岩滝、男山、溝尻などの数村内海にそふて相通る。是を通て江尻村に至る、是より天橋起る。抑是郷板列の庄今速石(今の府中)の庄などといふ古名あり、今合せて一庄とす蓋煩を除るなり。

【身投石】(泪の磯)。小松重盛の五男丹後侍従忠房に久しく仕へたる花松といふ白拍子、八嶋合戦の後忠房公はいずれの地に遁れけるや詳ならず、されば敵人の丹後に追はへ来るは必定なり、是時おめおめと公子を敵に渡さんより寧共に磯の藻屑とならんと早く之が備をなし、詳に矢野頼信に其よしを語り跡の事など頼まゐらせて帰て或夜の暁大岩の上より海に溺れて死す。実は跡を晦すなり。世の人花松の為に泪を流さぬものなし、よって此磯を泪の磯といふ、身投石といふは花松の溺れたる處なり。後の世に丹後物狂といふ謡曲に花松といふ狂女に又花松といふ男子を作る、此事実に非事なり。

泪ヶ磯

『丹後旧事記』
丹後掾曾根好忠。花山天皇寛和年中余社板列速石の里国府の袋草紙に曰く曾丹は丹後の掾也曾丹始会丹後の掾と号す其後任終曾丹號曾丹後と號好忠常歎といふ阿曾丹謂云々。佐者部類に曰く寛和の頃の人也任丹後掾。名寄和歌集に、與佐の海内外の浜浦さひて うき夜をわたるあまのはし立。此歌は任国の頃よみ歌也と伝ふ又夫木集に、かりねする閨のひさより入る月を 泪ケ磯に影浮ぶらん。是亦任国の歌なり。

丹後守小松忠房。安徳天皇養和年中任国司に小松内大臣重盛公の五男なりと系譜に有。平家物語三草合戦に曰く平家方の大将には小松の新三位中将祐盛同少将有盛丹後侍従忠房備中守諸盛侍大将には伊賀平内兵衛清家をえひの次郎盛方を先として其勢凡三千余騎三草山の西の山の押寄せて陣を取(中略)大将新三位中将祐盛同少将有盛丹後侍従忠房三草の手を破られ面目なふや思はれけん播磨の高砂より船に乗て讃岐の八島へ渡り給ひぬ、弟の備中守諸盛はかりそ何としてかは洩させけん平内兵衛えひの次郎を召具して一谷へぞ参られける。同所藤戸の合戦に曰く「平家の大将軍には小松新三位の中将祐盛同少将有盛同丹後侍従忠房侍大将には越中の次郎兵衛盛次上総の五郎兵衛忠光悪七兵衛景清を先として五百艘の兵船に乗連てこぎ来り備前の小島に着くと聞えしかば源氏頓て室を立て是も備前国西川尻藤戸に陣をぞとりたりける」
小松大臣殿の公達は嫡男三位中将惟盛は軍破れて後出家してみつの御山の権現へ詣て後入水有けるとなり新三位中将祐盛少将有盛共に入水あり、備中守諸盛は一の谷にて討死有丹後守忠房は悪七兵衛景清越中の次郎兵衛と共に世を忍び後次郎兵衛盛次を具して丹後但馬に身を隠し給ふと伝ふ。当国府中中村といふ処に忠房建立の神社有里俗左大将の宮ともつとふ、是は父重盛公を崇め奉りし社也といふ。又九世戸文珠の浜に泪ケ磯といふ有り此所に身投岩といふ大岩有是は忠盛卿に宮仕へせし花松といふ白拍子平家の運のかたふくかなしみ三草藤戸の戦の後忠房卿行方知れず成給ふときこえければ御忘れがたみを御子立をめのと矢野長左衛門頼重主馬判官盛久にたのみ置く所詮永らへべき命ならずと夜ふけて泪ケ磯に出て丈余の岩の上より落て海にしづみけると也、是を丹後物狂といふ謡物の曲に花松といふ狂女と記せり。主馬判官盛久矢野長左衛門頼重は忠房の忘れがたみの公達を守り奉り小松の館にありけるを源氏さがし来りて盛久頼重と戦ふ、破軍の後矢野は野間の庄に身を隠し公達を守護す盛久成相寺一辻堂のほとりにて搦めとられ鎌倉へ渡る、是を謡物の曲に盛久成相寺に隠れ居たるをさがし出して搦め捕りしといふは非也。今も野間の庄に平家の旗さし物楯板弓矢鎧等持伝へて一族也といふもの多し、又府中小松村忠房の苗裔ありと今も小松を名のる。

身投岩。與佐郡九世戸文珠の泪ケ磯にあり、寿永年中小松の重盛の五男丹後の侍従忠房卿に仕へし花松といふ白拍子の古跡なり任国の部に委しく記す。


『宮津府志』
涙ヶ磯
文殊道老翁坂の北海岸なり、又身投石とて大なる岩岸より少し離れて有り。橋立記に此所名所にて王藻あわび貝などよめり、丹後物語といふ謡曲に花松といふ狂人身を投げんとせし所と云傳ふ。


『丹後与謝海名勝略記』
【涙ケ磯】 名所なり。玉藻あはひ貝なとよめり。俗身投石といふ。丹後物狂の謡に花松身を投んとせし所なり。

泪ヶ磯の身投石

『与謝郡誌』
身投石、涙ケ磯
 龍燈松の東方二三十間して身投石あり。源平八島の合戦の後小松内府重盛の五男丹後守侍従忠房に仕へたる白拍子花松と云へるもの、公子を敵に渡さんよりは寧ろ共に磯の藻屑とならんと此岩上より公子を抱きて海に沈みたるより其大石を身投石と云ひ時人その死を憐みて此辺の海岸を涙が磯といふ。
 濁りぬる閏のひまより入る月の涙が磯にかけ浮ふらん  和泉式部
 休む鵜や魚見付ては身投石    太  乙
 藻の花の中に捨てたり身投石   斗  杯
 かつき出ぬ泪ヶ磯の鮑ゆへうみてふ海はかつきつくしつ 
 寒風や泪が磯を苦にもせず    西  州
 櫓の音や泪か磯の秋のくれ    文  之
 何處見ても壽永の迹は涙かな   青  萍


『丹後の宮津』
涙ケ磯−身投石
 玄妙遊園からおりて国道にもどり、宮津の方へ少し行くと、浜がわに古い臥松があり、そこに大きな岩、そして「宝永四丁亥歳・冬十月十二日」と刻んだ供養塔、ならびに「天保四年七月十四日」とある隔夜供養繁があって、ここを「涙ケ磯」といい、あるいは「身投石」ともいっている。
 さてそのむかし、源平時代の丹後は平家一族の所領として、とくに内大臣重盛とはふかい関係があった。(丹後のいたるところ、その山間僻地の村々に平家落人の話を伝えている。)そしてここ「涙ケ磯」は、この平家亡びるときの哀れさにまつわる話を伝えているのである。いま江戸末期に書かれた「丹哥府志」によると−
 小松重盛の五男丹後侍従忠房に久しく仕へたる花松という白拍子、屋島合戦の後忠房公はいづれの地に遁れけるや詳ならず、されは敵人の丹後に追はへ来るは必定なり、是時おめおめと公子を敵に渡さんより、寧(むしろ)共に磯の藻屑とならんと早く之が備(そなえ)を為し詳に矢野頼重に其よしを語り、跡の事など頼まゐらせて帰て或夜の暁大岩の上より海に溺れて死す、実は跡を晦(くら)ますなり、世の人花松の為に泪(なみだ)を流さぬものなし、よって此磯を泪の磯といふ、身投石といふは花松の溺れたる処なり、後の世に丹後物狂という謡曲に花松といふ狂女に花松といふ男子を作る、此事実に非事なり。
とある。このほかに、なお異説もあるが、この話がもっとも有力に伝えられてきたことはいなめない。ちかごろ、この「涙ケ磯」も荒れはて、土地の人さえ見むきもしなくなったが、むかしは隔夜灯の燈火をそなえて供養としたほどで、他に享保四年の隔夜灯一基もあったが、石柱が斜に折れて棄てられたのを、後に「天橋立」の濃松(あつまつ)へはこび「剣豪岩見重太郎試し切りの石」としてしまった、大正八年のことである。
「岩見重太郎試し切りの石」→「岩見重太郎試し切りの石」
江戸期の文献類にも何も書かれていない。伝説の豪傑の「遺跡」はあとから作られたもののようである。


『丹後路の史跡めぐり』
涙ケ磯身投石
 老翁坂のほとりの海辺に涙ヶ磯身投石というのがある。埋め立てと家の建設でつい見逃し易くなっているが、昔はこの辺一帯深い海であった。
 平重盛の五男小松忠房は治承三年(一一七九)丹後の領主となって府中小松の館に居たが源平の戦いの時屋島の戦いに出陣し、備前国三草・藤戸の戦いに敗れて、家臣の主馬判官盛久、悪七兵衛景清、越中次郎兵衛盛次、上総五郎兵衛忠光らに護られて丹後へ落ちのびたが、盛次と忠光は但馬で討死、忠房は捕えられて鎌倉へ護送中、頼朝の命によって近江で警固の藤原基清(後藤姓・伊根、網野の地頭)に斬られた。忠房の家臣矢野長(弾)佐衛門の娘花松(岩井左衛門の娘とも)は白拍子として忠房に仕えていたが、二人の遺児を抱いてここから身を投げたと伝えられるが、実は身を投げて死んだと見せかけて世屋谷へ逃れたのだという。
 独りぬる閏 の ひ ま より入る月の
   涙が磯にかげ浮ぶらん  泉式部
 藻の花の中に捨てたり身投石 斗 杯

名投石

上のような伝説が伝わるのである。この手前の石から泪ヶ磯へ身を投げたと。石の位置は昔と変わらないのだろうが、深い海だった泪ヶ磯は今は埋め立てられている、あるいは埋まっている。
そんな伝説を信じてここへ来て見てみれば、手前の石はナンゾに何かによく似た姿をしているではないか。何だろうか。そうだ、かの「怪しからぬ物」にあまりにもよく似ているではないか。手前は自然石そのままだろうが、これが身投石である、向側の石垣のような物は人工のもののようである。何をイメージしてこうした形にしたのかは容易に想像できる。これは元々は陰陽石なのではなかろうか。手前の自然石が陽石で、向側の石組と合わせると全体として陰石になりそうに思われる。古代語で言えば、手前の自然石がマラ、人工の石組と合わせると全体でホトに見える。マラとホトは一緒のもののようである。マロコ親王とホトタタラ姫は同じものなのかも、そうした地元に伝わったずっと古い陰陽石伝説、鍛冶屋が加わっていたのかも知れないが、それにすっと後の「丹後物狂」は附会、あるいは被せたのではなかろうか。
天橋立は異名を確か陰陽嶋とも呼ばなかったか、陰陽嶋は冠島・沓島だ、かの嶋は鶺鴒嶋とも呼んだ。橋立も冠島も古来この種の信仰観念もつきまとう場所で、意外にもここは天橋立とも冠島とも関係深い場所ではなかっただろうか。
天橋立伝説は後の世ではずいぶんと高尚な話となりはてているが、本来はこんな素朴な信仰があったと思われる。

『元初の最高神と大和朝廷の元初』
丹後国逸文風土記に、伊奘諾大神が御寝ます間に梯が仆れ伏して、天橋立が出来たというのは、伊奘冉大神も、共に、同地に寝ていられた次第であって、諾の大神が、天上から御通行になったのは、冉の大神が、此地に居られたから、その許へお通いになった次第と窺われる。二神、同処に寝ていられた間に、梯が仆れ伏して、天橋立が出来たが、それ以来、諾の神は、天にお帰りになることが出来なくて、冉の神と共に、此地に鎮まりましたという古伝なのである。
 天の浮橋(天橋立)によって、伊奘諾尊が、天上から、籠宮(与佐官)の女神(伊奘冉尊)の許へ通われたという、この地方の有名な説話は、決して、近代に出来た新らしい造説ではなく、奈良朝以前の古伝説であり、極めて深い信仰に根ざしたものであることは、両大神を祭る磐座を鶺鴒石(子種石)と云い、又、その石の後尾が密着していることによっても窺うことが出来るであろう。
 家蔵の日本書紀(慶長刊本)の天浮橋のところの頭註に、「夫婦ノ道タガイニ志ヲ通ズルコト虚空ニ橋ヲカケタルガ如シ而テ此時ハ虚空ニテ所ヲ定メザリシカドモ其幽跡ヲノコシテ今丹後ノ国天橋立トハ天ヨリ降テ此浦ニ跡ヲトドメケル也」と云っている。天橋立を天浮橋と申すことは、相当の昔から云い伝えられているようである。
 逸文風土記丹波郡比治山の天女宇賀能売神は、羽衣によって空から降られたと伝え、又、与佐郡天橋立の伊奘諾大神は梯によって天から降られたと伝えられる。この両伝は、羽衣によるものと、梯によるものと、男神と女神との相違があるが、いずれも、天から降られて、地上に住みつかれたことは一致しており、神霊降下の古い伝の例と見られる。





玄妙庵 対潮庵 沢蔵軒の墓 保昌塚


『丹後の宮津』
一千年の歴史をほこる文殊堂周辺、その他この門前町をかこむ地域には、古来多くの名勝地がつくられ、旧蹟があった。たとえば「夕日ケ浦」「竜穴」「杉の清水」「金剛峯」「能野山(よしのやま)」「菩薩岩」「穴憂の里」などなどというのがそれであるが、海岸線は埋立によって、山々は無関心から、古人が親んだそれらの名勝も旧蹟も、いまはほとんど失われ、それらを訪ねるすべもない。ではそのほかの残された名勝・旧蹟一二を、いま少し訪ねてみよう。

玄妙遊園
 門前町から国道を、さきにみた対潮庵へ行く道へまがると、ロマンスカー(旅館・玄妙庵経営)とかかれたケーブルカーがある。これに乗ると一分半一○○メートルの上が玄妙遊園であるが、そこに「竜宮閣」といわれる小さい楼門があり、ここから眺める「天橋立」をとり入れた景観は、実に天下無双といえるが、周囲の設備はきわめて貧弱、遊園というには余りに小さい。しかしここの「天橋立」展望は、すべての欠点をおおって美しく、ここへあがった価値は十分である。古来、岩滝の大内峠から眺める「天橋立一字観」、府中傘松公園からの眺望、栗田峠の「橋立観」など、いずれも「天橋立」を眺める名所とされてきたが、その感覚はとうてい旧式の箱庭的であり、それにくらべるとこの玄妙遊園からする「天橋立」展望は、まったく趣きをかえた洋画的とでもいえる、いわゆる現代感覚にうったえる絶景である。
 だが私がここをとりあげるわけは他にある。それは「天橋立」を歴史的にみる場合、忘れてならぬその歴史的回顧があるからである。というのは、足利尊氏が京都室町に幕府をひらくと、この丹後はその一族である一色氏範光を守護とした。丹後と将軍家足利氏とは、こうして早くから浅からぬ関係がむすばれたが、その足利三代の将軍義満は、明徳四年五月(一二九三 )、一色氏三代の満範にむかえられて、文殊堂参詣をかね、ここ「天橋立」にあそんだ。そしてその「天橋立」を眺める場所にえらばれたのがこの玄妙の山であった。すなわち満範はこの遊園より少し上に席を設け、ここから惜みなく「天橋立」を眺めさせたのであるが、この時将軍義満は絶景をかぎりなく感賞し、「これ宇宙の玄妙なり」とまで激讃した。そして席にあてられた亭舎を自ら「玄妙亭」と名づけたが、この時以来、義満はここ「天橋立」景観が忘れがたく、この二年後の応永二年九月には四代将軍義持が、そして応永九年五月(一四○二)には義持と義満が同道して、いずれも文殊堂参詣をかねて「玄妙亭」にのぼり、この美しい絶景をあくことなく眺めたのしんだのであった。こうして知られた玄妙の山は、以来「天橋立」を眺める名所として、かならず人々の訪うところであったが、それが後には禅家の道場として「玄妙庵」となり、さらにすたれて一時は忘れられたようであったが、しかし智恩寺の古図には明かに「庵跡」を記して、これをみるものに今もなおその歴史的回顧にふけらせるのである。そして近くは、去る昭和廿六年十一月、旅館・玄妙庵に天皇をむかえてその旅次の慰めとしたが、この時の天皇の歌に−
 文殊なる宿の窓よりうつくしと しばし見わたす天の橋立
とあり、その幾百千年かわらぬ天下の絶最であることを、ここ玄妙の山はいつまでもほこるかのようである。


“対潮庵”の谷
 門前町から国道筋に出て、玄妙遊園の下から旧文殊村地内へ抜けると、やがて「対潮庵」の谷へはいって、「保昌塚」や「沢蔵軒の墓」をたづねることができる。昔はこのあたり一帯に梅が多く、鴬の名所としてその名も「梅渓」といわれていたし、「対潮庵」は智恩寺の隠居所として、室町期文明年中以来の清境であった。ところがいまはすっかり荒れはてて、それらをたづねる道さえも明かでない。古老でさえも、この「保昌塚」や「沢蔵軒の墓」などについては、ほとんど知らないのである。
保昌の塚
 土地の人はこれを「保昌塚−ほしょうつか」とよみ、それが藤原保昌の供養塔であるとはいわない。もっとも保昌供養のために建てた塚かどうかも明かでないが、碑面に「奉納如法経五部・元応二年二月朔日」(一三二○)とあるから、これも鎌倉末期のもので、経塚であることは明かである。そして「保昌塚」ということは、ずっと昔からの土地の人々の伝承であって、いつ誰がということは知られていない。けれども、やはり丹後国司としての藤原保昌という武人が、この土地の人々に深い心のつながりをもっていることだけはいなめない。
沢蔵軒の墓
 これもはっきりと沢蔵軒であることを知る墓碑ではないが、「荒神」としておそれ、沢蔵軒の基といい伝えている。豪勇の小笠原沢蔵軒が、室町期の永正四年(一五○七)一色と武田のたたかいに、武田勢応援のため下丹、成相寺山にこもって一色勢とたたかったが刀およばず、ついに山をくだり、ここ文殊堂まで逃げのびて腹を切り、臓腑をつかんで天井に投げつけ、部下のものたち八十二人とともに自殺したのが、同年の六月二十三日であった。この「沢蔵軒の墓」というのがこれらの亡魂を供養したものか、あるいは死体を始末した場所か、これも明かでないが、以上の史実は多くの資料によって知られるし、日本史をいろどる戦国時の一断面が、ここ「天橋立」のほとりにもみられることは、歴史というものの動きを深く回想させずにはおかない。

下から見る玄妙庵と橋立ビューランド

『丹後路の史跡めぐり』
玄妙山
 玄妙庵ホテルのある玄妙山は明徳四年(一三九三)五月十八日、山名氏を駆逐してようやく丹後を平定した一色満範の招きに応じて将軍足利義満が若狭、丹後巡視のかたわら文珠参詣に立ち寄り、満範の案内でこの山に登って天橋立を見おろして感嘆し「これ宇宙の玄妙なり」と言ったので玄妙山とよばれるようになったという。そうして応氷二年(一三九五)の九月十九日は義満のあとを継いだ将軍義持がここを訪れ、さらに八年後の応永九年(一四○二)五月には義満、義持父子が揃って訪れている。将軍家の一色氏に対する絶対なる信頼もさることながら、満範の得意はいかばかりであったろう。
 一色氏はもともと三河(愛知県)の一色の産であり、尊氏の挙兵には一族をあげてこれを援け、尊氏が九州へ敗軍した時もこれに従って菊池一族と戦って大いに戦功をあげている。そのため尊氏の母方の領地丹後のほかに三河・若狭・伊勢三国を与えられてここに血族又は代官をおいて知行し、自らは室町幕府にあって将軍を補佐した。一色家は室町幕府の中では管領家に次ぐ重職である相伴衆(しようばんしゆう)とよばれ、これは将軍が正月に椀飯(わんぱん)の大饗に臨む時に列席できる家柄のことである。さらに四職(ししき)の中の侍所の長官という要職を代々つとめきた家柄でもある。
  殊に満範は将軍家より名前を一字もらう程信頼が篤かった。
  玄妙山には禅道場玄妙庵が置かれたことがあるが、いまは同名のホテルとなっている。

保昌塚と荒神塚
 天橋立駅裏部落の竹薮のに、忘れられたように広大な石垣を積んだ退潮庵の跡がある。もと智恩院の別院であった。ここに元応二年(一三二○)二月、如法経五部奉納と銘のある宝篋印塔があるが、土地の人はこれを藤原保昌の墓と伝え保昌塚とよんでいる。保昌は右京太夫致忠の二男で盗賊袴垂(はかまだれ)を誅したことで有名な部将である。長元九年(一○三六)九月七九才で没している。また並んで立つもう一つの宝篋印塔は荒神塚とよばれ、武田の部将小笠原朝経入道沢蔵軒の墓だといわれている。永正三年(一五○六)武田元信は普甲山の守りを突破して成相寺を占拠し、小笠原沢蔵軒を援将として上山田城と加屋城を陥し入れたが、急を聞いて室町から帰国した一色義有は翌四年成相寺に火をかけたため元信は命からがら船で若狭へ逃れ、沢蔵軒は後陣をうけたまわって退却しようとしたが、一色の軍勢に加悦谷と普甲峠を固められて脱出できず、ついに文珠堂に入って一門八二人と切腹し、はらわたをつかみ出して天井に投げつけて死んだという。


『丹哥府志』
【対潮庵】興彦龍の半陶稿に対潮庵の記あり。今之を略す。



『丹後与謝海名勝略記』
【対潮庵】 旧跡 夕日の浦西の山腰にあり。興彦龍半陶稿に記有。



三角無字塔 菩薩岩


『宮津府志』
三角五輪
橋立記に無字塔といふ。内の海より文殊堂裏へ入江に成たる右の方山裾の海渚にあり、其形石を以て三角に建たる塔なり。其来由しれず、案内志には山伏の塔とす、俗に藤原保昌の塔なりといふは非なるべし。
橋立図記云、無字塔俗に三角五輪と云ふ由来しれず、此塔より南の方二町餘殺生禁断の所なり、昔寛印供奉の禁じたる余風残れり、又此海上の殺生勅裁にて禁じたる事大谷寺の奏状に見へたり。寛印が事仏閣部大谷寺の下にのせたり、大谷寺奏状は同部大谷寺の下に出せり。



『丹後の宮津』
三角無字塔
 対潮庵の谷をでて、またもとの村の道を西へ行くと、山すそに石の鳥居があり、その奥への谷を宮谷といい、ここに吉野神社といって、明治以前は天橋山智恩寺の山内鎮守の社であったのを、文殊村の氏神としたお宮がある。しかし足をそのまま山すそにそって鉄道の踏切りにむけ、ふたたび国道に出ると、コンクリート建住宅の西側、畑の中に石垣でかこまれた古い五輪の塔があり、よくみるとその笠の部分が三角で、ちょっと変った感じをうける。しかもこの塔には一字も字というものがなく、だから古来人はこれを「三角無字塔」(重美)といっているのであるが、いったい何のための塔かわからない。けれども、その手法からいっても鎌倉期のものともみられ、埋立前は海中にあったところから、あるいは殺生禁断の塔であろうというのが、一応の見解である。
 もっともこれは筆者だけの見解でなく、「丹哥府志」や「天橋記」、また「大谷寺奏状」などにもそれらしく書いてあって、「此塔より以南二町余の所網苫を設ける事習ひなり、殊勝に覚ゆ。之より殺生禁断の地と定まりしは勅裁なるよし、事は大谷寺奏状に詳なり。或云、無字塔は殺生禁断の塔なりともいふ。」というのが「丹哥府志」の記事である。しかしまた、この塔も藤原保昌の供養塔だという説もあり、いづれが正しいかわからないが、そのまま去る昭和十三年十二月、国家は重要美術品の指定を与えたところに、一見の好奇心もわき、かつこの辺一帯の古い歴史をかえりみるよすかにもなろうというものである。


『宮津府志』
菩薩岩
内の海輪の崎の辺、岸より一町許離れ海中にあり、俗に見猿岩といふ。廻り五六間の丸き岩の上に石像の地蔵を安ず、立石二尺ばかりなるに面に地蔵を彫刻す、方一尺斗の石を以て石像に蒙らしめたり、其石恰も人の笠をきてうつぶきたるが如し、前の方へ傾きて今も落ちなんと見ゆ、立石の先は薄く尖りたるを穿ち入たるものなり、いかなる風雨にも落ちず傾かす誠に奇工といふべし。石像の左方下に文字を刻す、磨滅して見へがたし。伝へ云ふ三重村に在し大江越中が所造一千體の地蔵の内なりとかや。


『丹哥府志』
【菩薩岩】(無字塔の西)。菩薩岩は俗に見さるといふ大江越中守の彫刻する一千躰仏の一なり。


『丹後与謝海名勝略記』
【菩薩岩】 能野より三町はかり西の渚に有、岩上に石地蔵あり。俗に不見猿といふ。右坂にも石地蔵あり、是を不聞猿といひ、男山の谷道にも石地蔵あり、是を不言猿と云三の名を称する事詳ならす。是三重の大江越中守か所造一千体の内なり。是より三四町西を輪の崎といふ。








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