浮島丸事件
丹後の伝説:17集 |
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浮島丸事件第二次世界大戦の終結により、戦時中、大湊海軍施設部などで働かされていた朝鮮の人たちとその家族ら三、七○○余人を乗せた海軍特設輸送艦浮島丸(四、七三○トン)は、昭和二十年八月二十一日、朝鮮へ向けて青森県の大湊港を出航した。その途中、突如、日本の全船舶は昭和二十年八月二十四日以降航行を禁止、航行中の艦船は最寄りの港へ入港すべし、という連合国軍最高司令官の指令で航路を変更し、舞鶴へ入港することになった。ところが、二十四日午後五時ごろ、舞鶴湾内の下佐波賀沖にさしかかった際、突然、大爆発とともに船体は真二つに割れて沈没した。急報によって舞鶴海軍防備隊、同港務部、同海兵団始め地元佐波賀の人々がカッターや小船を出して現場へはせつけ、救助に当たり、近くの平海兵団や舞鶴海軍病院に収容して手当てを加え、遺体は舞鶴海兵団の仮埋葬地に葬った。この事故による死亡者は五○○余人に上り、そのほか多数の重軽傷者を出した。救助に当たった舞鶴海軍病院はその実情を次のように報告している。浮島丸救難実状報告 舞鶴海軍病院 一、患者収容の状況並に転帰の概況 昭和二十年八月二十四日平海兵団より浮島丸遭難患者多数発生の報に接し同日二○一五収容隊を派遣せしむ、即ち指揮官軍医中尉島田浩水 同附海軍上等衛生兵曹松田宏隊員十三名患者「バス」に乗車二○三○本院出発一二○○平団病院着収容を開始し、○後本院「トラック」患者「バス」総動員にて収容に当れり、隊員小数なる為平団衛生兵の応援を依頼し、「トラック」には一回要担患者約六名患者バスは軽傷者約二○名宛にて収容、翌二十五日○一○○を以て右収容を打切れり、其間本院に於ては当直員全員をして多発傷病患者収容部署に依り応急処置を施し治療品等も全部搬出準備し、万全を期しありて右応急処置終了のものより順次本院に送院せるものなり。 而して平団病院は狭小なる為室内は言うに及ばず附近の練兵場又は空地に収容しありて附近は歩行不可能なる程多数の患者なりき、その数二千名なりと言う。本収容隊は以上の如く職務に最善を尺し疲労も意に介せずよく最後迄頑張り○一○○に至り一応その任務を終了せるものなり 而して本院に収容せる同船患者の総数は百五十九名にして内三名の死亡を見たり、又、同患者は九月十六日を以て僅か一名の患者残し全部帰鮮せるものにして内五名の患者は旅費等全く所持金なき為本院にて便宜立替支弁せる状況なり 二、同船患者入院中の状況 食事は患者食を供し患者衣一、藁等ヘッド一、毛布二枚宛を貸与し治療に関しては手術、「ギブス」固定包帯等を施しその他の近代医学及びその技術を以てこれに当り万全を期したるものにして 一般下士官兵の治療と何等の差異なきのみならず寧ろ後日の兎角の批評を慮り之が治療には細心慎重に従事せるものなり、万全を期したる治療にも拘らず遺憾ながら左の三名の死亡者を出せるが、之が死因は頭書の病名の通りなり。 死因 氏 名(略) 備 考 一、患者食 一回量 米七分麦三分 計百九十一 副食物(豆腐、馬鈴薯、玉葱、青菜等) 二、看護員 看護婦十六名 衛生兵(特志)六名 当直は三直制にして兵一名 看護婦三名 終 (舞鶴市役所文書) また、乗船者および遭難死亡者数は、引揚援護庁復員局第二復員局残務処理部の発表によると次の通りである。 昭和二十八年十二月 輸送艦浮島丸に関する資料 第二復員局残務処理部 一、輸送の経緯 終戦直後大湊地区に在った旧海軍軍属朝鮮人工員多数は連合軍の進駐を極度に恐れたためか帰鮮の熱望を訴えて不隠の兆を示した。当時日本海軍としては既に解員手続きを完了した元工員に対して之を帰鮮せしめねばならぬという義務はなかったけれども事態の平隠な解決を欲したので特に特設輸送艦浮島丸(四、七三○トン)に彼等を便乗せしめこれを朝鮮に輸送する如く準備し昭和二十年八月二十一日朝大湊を出港した。 二、浮島丸の便乗者 同船は朝鮮人元工員二、八三八名、同民間人八九七名計三、七三五名(外に正規の手続きを経ずして殆んど乱入乗込みもいうべき者が少数あり)を収容した。 三、浮島丸が舞鶴に入港した経緯 「マニラ」に於て日本側代表者に手交された連合軍のRequirements Document No.3 に依り日本の全船舶は昭和二十年八月二十四日以後航行を禁止せられ、航行中の船舶は最寄りの港に入泊すべき旨指令された。 浮島丸はこれに基く中央からの命令により無通告にて舞鶴港に入港したのであるが、昭和二十年八月二十四日投錨前舞鶴湾内蛇島の北方に於て連合軍の敷設した機雷に触れ、沈没するに至った。 四、遭難死没者及びこれに対する通報 (イ) 朝鮮出身死没者は次の通りである。 区分 便乗者数 死没者数 記事 大湊海軍施設部工員 二、八三八 三六二 民間人 八九七 一六二 死後一〇六は軍属とす。 残り五六は十三才以下のもの。 計 三、七三五 五二四 「註」外に便乗遣骨十九柱がある。 (参考) 固有乗員の軍人二五五名中、死没者二五名(遭難当時遺体未収容)あり、依って死役者の合計は五四九名となる。 そのうち遭難当時遺体を収容せるもの一七五体、救助されて後病院に於て死没したるもの七名計一八二柱である。依って船内残存遺体は三六七体となる。 (略) 海面にマストを残して沈没した浮島丸の船体は、その後五年近くもの間、海底に放置されたままであったが、二十五年三月、元の所属の大阪商船鰍ヨ返還されたので、飯野産業潟Tルベージ事業所の手で引き揚げることになり、三月十三日、現場で着工式及び朝鮮人死没者の慰霊祭を行った。作業は二十三日から開始され、毎日二組の潜水班が死体捜索に当たり、白骨化した遺体を引き揚げる一方、遭難当時、舞鶴海兵団仮埋葬地に埋葬した遺体を発掘、火葬に付して、舞鶴地方復員残務処理部に運び御霊室に安置した。引揚げ作業は同年末まで続行され、後半部は引き揚げたが、前半部は作業困難のためいったん中止、二十九年二月末引揚げを完了した。収容された遺体は三四○柱で、残りは爆発時に四散したらしく船体内には見当たらなかった。その後、これらの遺体は富士通吾妻角の東本願寺別院に安置された。 そして四月十四日、第一回遭難者追悼慰霊祭が東本願寺と浮島丸殉難者慰霊祭実行委員会の主催により舞鶴東公会堂で行われた。慰霊祭はその後、四十年、四十二年にも行われたが、四十五年八月二十四日、日朝協会舞鶴支部が中心になって二条海岸の舞鶴東労働セツルメントで浮島丸殉難二十五周年追悼慰霊祭が催された。約二○○人が参列、犠牲者の冥福を祈ったあと、約三○人が船二隻に乗り、遭難現場の佐波賀沖で花束を海中に投下、霊を慰めた。また、この慰霊祭を契機として殉難者の追悼碑建設の声が起こり、五十年秋、日朝協会舞鶴支部を中心に浮島丸殉難者追悼の碑建立実行委員会が結成され、府、市はじめ広く一般に協力を呼びかけた。 浮島丸殉難者追悼の碑を ぜひ皆様の手で 日本海を平和の海に!舞鶴湾を京都の表玄関に! これは、舞鶴の、京都の、そして日本のみんなの願いです。この美しい港にも、悲しく暗い歴史が眠っています。 朝鮮−三十六年間に及ぶ日本の植民地支配の中で仕事も土地も奪われて、年老いた母を残した若者が、一家の柱の父親が、次々に日本に連れてこられて過酷な労働にかりたてられました。 一九四五年八月、日本は戦いに敗れ、解放された喜びを胸に夢にまで見た祖国をめざして、三、七二五人の朝鮮人労働者やその家族たちは、青森の大湊から浮島丸に乗船し一路帰国の途についたのでした。 ところがその途中、連合軍最高司令官の「八月二十四日以降日本の全船舶航行禁止」の指令で、進路を変更して舞鶴港に入ったところ、八月二十四日午後五時二○分頃浮島丸は突如大爆発を起こし、真二つに折れて海底へ 母を呼ぶ子どもたちの、妻を呼ぶ夫の叫びは波間に消え五四二人の尊い生命が失われていったのでした。 残った人たちは、負傷した身体で、自力で岸に泳ぎつきあるいは近くの佐波賀の人たちが、急いで出した小舟に助けあげられました。 私たちは、舞鶴の暗い歴史の一つである、この浮島丸事件は将来にわたって、忘れ去ることのできないものと考えました。 そして毎年、追悼式典をおこなってきましたが、殉難三十周年を機に、これを永く記念する事業実施の声が起こり、今日まで各方面の皆様方の幅広い御支持を得て、その具体化にとりくんでまいりました。 この「殉難者追悼の碑」建立の事業が、舞鶴の平和な発展に役立ち、国際友好のかけ橋として、大きな役割を果たす趣旨を御理解いただき、格別の御支援をたまわりますよう心からお願い申し上げます。 一九七七年三月 浮島丸殉難者追悼の碑建立実行委員会 会長 佐谷 靖 (同前) こうした運動が実って追悼碑が完成し、五十三年八月二十四日午後一時半から佐波賀の現地で除幕式と慰霊祭が行われた。 海軍病院の種類は国の官僚の作文である。私たちはようがんばりましたといった報告書の作文である。加害者の国家のくせして何も痛みがない、いつの時代もこんなもののようである。 下の文書は当時の府や市や一般市民たちの意識であろう。痛みがあるが、加害者のツミの意識があるのかと問うとやはりもう一歩であろうか。 今年はそれからも30年がすぎて60周年であった。府や市は知らん顔をして横を向いている。一般のメディアは大きく取り上げているが、市の広報紙などは何も触れない。戦争も加害者責任も完全に風化し忘れられたようである。過去の歴史と将来の舞鶴港のことを思えば大変に異常なことだと思う。行政はもうかなりの程度におかしいようである、このまま進めば再び軍港への扉がひらかれるかも知れない。 しかし一般市民の間では続けられている。このあたりは舞鶴市民の立派な誇ってもいいところである。優秀な若い世代も加わっていろいろと運動を展開しているようだから期待したい。その時、歴史はどう動くのだろう。 さいわいにも追悼集会は続けられている。 この日は野暮用で行ってみることはできなかったが、その後ここを通りかかった。右はその時のもの・金領事の花輪が残っていた。 私の住む近くに佐波賀出のおばあちゃんがいた。今はもう故人であるが、この事件を覚えていないかと問うと、私はその時村にいたが、その事はまったく知らないという。知らないなんてそんな馬鹿な。いや本当に知らないのだ。という。 女学生時代くらいの年頃だったと考えられるが、そんな村人もいたようである。 あきれた話ばかりで気も滅入るが、この地は舞鶴港の顔のような地点である。地元としても、よほどちゃんとしておかないと、国際港としての基本姿勢が問われかねない。あれは国の事件だから、舞鶴は関係がないなどという市長がいたが、これもまたあきれたものである。
*殉難者を追悼する会*
*浮島丸事件 殉難60周年集会* *追悼事業の継続へ決意新たに* 終戦直後に多数の朝鮮人らが犠牲となった浮島丸事件の殉難60周年追悼集会が24日、下佐波賀の殉難の碑公園で行われた。事件から60年の節目を迎えたことから、犠牲者の遺族や遺体の収容活動に関わった人をはじめ約400人が訪れ、冥福を祈った。また、集会を主催した「浮島丸殉難者を追悼する会」は事件から東アジアの平和をテーマに考えるシンポジウムも開き、追悼を続けることで誤った歴史を繰り返さないとの決意を語り、パネリストたちが追悼の意義の重要さを述べた。 *終戦直後、多数の朝鮮人らが犠牲* *事件を教訓に平和の確立に尽力を* 労働に従事させられていた朝鮮人とその家族を乗せた船「浮島丸」が青森県から出航し、一九四五年八月二十四日に朝鮮半島へ向かう途中で舞鶴湾内で謎の爆沈をし、日本人乗員らも含め五百四十九人が亡くなった。舞鶴市民らが毎年追悼を続けるとともに、事件を題材とした映画「エイジアンブルー 浮島丸サコン」も作られた。 集会では、野田会長が「事件から教訓を学び取り、平和の確立に向けて力を尽くしたい」と追悼の辞を述べた。今年は長年の追悼事業に感謝したいと、駐大阪大韓民国総領事名の感謝状が、全庚壽(キムキョンス)領事から野田会長へ贈呈された。また、京都朝鮮学園の生徒や在日朝鮮人の女性コーラスグループらが追悼歌を合唱し、美しい歌声が海に響いた。 平海兵団にいた花崎保さん(78)=福知山市=は事件の翌日、遺体の収容作業にあたった。事件のことがずっと気になり、この日、初めて集会に参加した。「朝日が覚めたら重油の臭いが充満していて驚いた。ああしたことが二度と起こらないよう、朝鮮・韓国の人々たちと手を取って仲良くしなければ」と、六十年ぶりの爆沈現場の海を見つめていた。 *東アジア国際平和シンポ* *舞鶴と韓国との交流 追悼の意義話し合う* *共有できる歴史認識を* 東アジア国際平和シンポジウムは、この日午後から浜の市商工観光センターであり、三百二十人が来場した。同会事務局長の須永安郎さんがこれまでの追悼事業の歩みを、「エイジアブルー」製作者の伊藤正昭さんが韓国と中国での上映運動を、韓国・延世大学教授趙載國(チョウジュングク)が、舞鶴と韓国との今後の交流への期待、中国・北京大学副教授の金動(キンクン)さんが、日本の歴史認識の誤りについて触れ、東アジアの平和には共有できる歴史認識の土台づくりが必要と論じた。 続く来場者からの質問を交えての意見交換では、須永さんが「私たちにとって追悼とは、誤った歴史を繰り返さないという意味がある。その意志表示の取り組みの場が集会なのです」とした。 趙さんは「舞鶴は引き揚げの地であり、日本に戻れた者と迎えた者の喜びを記憶している。浮島丸に乗っていた人も帰りたかった。その気持ちがわかるのは舞鶴の人たちです」と話した。 最後にコーディネーターを務めた広島市立大学広島平和研究所所長の浅井基文さんが「浮島丸の追悼の取り組みは、日本の加害責任に正面から向き合っており、右傾化している日本に対する異議申し立ての発信になっている。日本を変える潜在力をもつ位置づけができる」と、事業の継続に期待を述べた。 … 浮島丸殉難62周年追悼集会(2007.8.24)一言も聞き漏らすまいと思い、ICレコーダーを買って参加させていただいたのであるが、主催者はあらかじめ用意していてくれていた。そうしたわけでメモリーチップにはしっかり録音もあるのであるが、その主催者の文書からそのまま写させていただいた。こんなに小さくなって進化したものだけれども、近くで喋られると、それを拾うので背景の音が聞けなくなる。これを改良してもらうと便利だけどね。2007年度は250名の参加があったという。来年はあなたもどうぞ。式典は11時からです。 追悼の辞
本日ここに「浮島丸殉難六二周年追悼集会」を開催するにあたり、549名の犠牲者の皆様方に謹んで哀悼の誠を捧げます。 1945年8月24日静けさを取り戻した舞鶴湾に入ってきた浮島丸が、午後5時20分頃ここ下佐波賀沖で、突然発生したすさまじい爆発音と共に、真っ二つに折れて沈んでいきました。静かな海は阿鼻叫喚の生き地獄に一変しました。 急を知った近くの佐波賀の人々などの懸命の救助活動にもかかわらず、婦人・乳幼児を含む乗客524名が乗組員の日本兵士25名と共に、かけがえのない生命を失ってしまったのです。 この大惨事には長い歴史的な背景がありました。1910年(明治43年)日本は統治権の委譲を朝鮮に強制して以来、36年に及ぶ、日本の朝鮮に対する植民地政策の結果、土地も仕事も失った人達が激増し、その多くは日本へ家族ぐるみの移住を余儀なくされました。一方、第二次世界大戦が勃発した1939年(昭和14年)からは、年老いた母を残した若者や一家の働き手である父親が、次々と日本へ強制的に連れてこられ、戦争遂行のための労働力として日本の各地で苛酷な労働を強いられました。 1945年8月15日の日本の敗戦は、その人々にとって苦役からの解放と明るい未来をめざす日となりました。 大湊警備府が出した「本国送還」の指示で、青森県下北半島方面で働かせられていた朝鮮人労働者とその家族3735人(政府発表)が乗った旧日本海軍輸送船「浮島丸(4730トン)」は、8月22日午後10時に大湊を出発して航行を続けました。連合軍の要求に基づいて発せられた日本政府の命令で、浮島丸が針路を舞鶴に向け、湾内に入って直後にこの大惨事が起きたのです。夢にまで見た故郷や肉親との再会を翌日にひかえで、船内が喜びに沸きかえっていた最中に、予想もしなかった大惨事に遭遇して奪い生命を失われた皆様の悲しみと無念さは如何ばかりであったでしょう。 私達は広範な市民の方々の浄財と京都府及び舞鶴市のご援助を頂いて、1978年8月、事件発生現場が一望できるこの地に「殉難の碑」を建立し、毎年追悼集会を開催して今日に至っています。 これは犠牲者の皆様方のご冥福を心からお祈りすると共に、そのような歴史的背景を持つ「浮島丸事件」を風化させず、我が国が過去の過ちと教訓を忘れて、再び同じ道を歩むことを決して許してはならないと考えたからです。 今日、事件は映画「エイジアンプルー浮島丸サコン」の上映運動等を通じて、日本全国や韓国、中国の多くの人々の知る所となりました。 私達は、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起きることのないようにすることを決意する」と明記されている日本国憲法の立場に立って、追悼集会を続けてきました。 東京、中目黒の「祐天寺」には、いまだ故郷へ帰れない「遺骨280体」が残っております。このことは「浮島丸事件」が、また「日本が起こした戦争」の後始末がまだ終わっていないと考えるものです。 私達が願う日本海(東海)は、友好の船が行き交う平和な海であります。「浮島丸事件」を忘れないことを「日本人の責任」として、事件から教訓を学びとり、平和の確立に向けてこれからも追悼事業を続けて行くことが浮島丸犠牲者の皆さんとの約束であると思います。 日朝、日韓、日中国民の友好関係のさらなる発展を念じ、犠牲者の皆様のご冥福を心からお祈りして、追悼の辞と致します。 2007年8月24日 浮島丸殉難者を追悼する会 会長余江勝彦 浮島丸殉難六十二周年 追悼の辞
私は浮島丸殉難六十二周年を迎え、悲しみも新たに、浮島丸犠牲者の霊前に衷心より哀悼の意を表します。 「亡国の民」の苦しみと残酷な差別、そして虐待に耐えた同胞たちが解放を迎えて九日目、夢にまで見た故郷へと向かっていた、夕凪の舞鶴湾佐波賀の地で、尊い命を奪われました。 犠牲者の無念さとご遺族の深い悲しみ、そしてまた、この日の傷跡に今も苦しんでいらっしゃる生存者の皆様のお気持ちを、どんな言葉で表親できるでしょうか。 私は日本政府が六十二年もの歳月が過ぎたにも拘わらず、この「事件」の真相解明も公式謝罪もせず、補償も実施しないことに、あらためて、強い憤りを禁じ得ません。 そればかりでなく、日本政府は、朝日関係を改善するための努力をするどころか、共和国に対する制裁と称して、マンギョンボン92の日本への入港禁止をはじめ、朝鮮総聯組織に対する不当な強制捜査を実施し、私たちの生活と活動を脅かしています。 最近、極度に達する朝鮮総連と在日同胞に対する不当な弾圧は決して許されることはないでしょう。 私たちは過去の歴史的教訓を正しく活かし、過ちを繰り返してはなりません。 来る10日には、南の首脳がピョンヤンを訪問します。こうした情勢の流れとともに朝鮮総聯は、これからも祖国の自主的平和統一の一日も早い実現のために邁進するとともに、朝日友好とアジアの平和のために貢献していく決意です。 最後になりましたが、「事件」直後の負傷者救助、そして今日まで真相解明と啓発、追悼行事等に努めてこられた「浮島丸殉難者を追悼する会」の方々をはじめ、地元佐波賀のみなさまに、衷心より感謝と深甚なる敬意を表し、あわせてご遺族のご健勝とご多幸をお祈りいたします。 2007年8月24日 在日本朝鮮人総聯合会京都府三丹支部常任委員会 副委員長 池 勝一 追悼の辞
浮島丸殉難者追悼集会にあたり、奪い命を落とされました、御霊に対し、謹んで追悼の辞を捧げます。 又、当時困難な場所で救助に尽力なされた、地元佐波賀の皆様方に改めて御礼申し上げます。 36年に及ぶ、日本植民地支配から解放され60年以上が経過しました。強制連行による同胞524名の犠牲者を出した、浮島丸事件、日本政府による積極的な真相究明がなされないまま、現在に至っております。怒りを覚えるものであります。 日本政府は過去の侵略戦争において得た教訓を謙虚に反省すべきであります。一部政治家の誤った歴史親裁による暴言、妄言は許すことができない。 過去60年以上に渡り戦争行為がないことは評価出来るが、最近憲法改正論議等不穏な動きがあるのは懸念されるところであります。 負の教訓の反省に立ち、新しい時代とともに構築していこうとする思いは私達同胞のこころからの思いであり、そして二度と繰り返さない事を学ぶ子孫達への願いでもあります。 私は殉難された皆様の無念を思う時、この殉難の碑の地で二度と愚かな戦争をしではいけない、全世界が平和で友好的な関係を築けるよう私達は努力し、微力ながら韓国民団を代表し、誓いを新たにする処であります。 最後に公私多忙中にも関わらず、人類愛と世界平和の為、今日の追悼集会にご苦労なさいました『浮島丸殉難者を追悼する会』関係者を始め、各関係機関の皆様方に心からお礼申し上げます。無念の殉難者の心に平和と安らぎが訪れることを願いつつ追悼の辞と致します。 2007年8月24日 在日本大韓民国民団京都府舞鶴支部 支団長 金栄吉 (メッセージ)
本日、浮島丸殉難者62周年追悼集会が挙行されるに当たりまして、謹んで追悼の言葉を申し上げます。 62年前のこの日、ここ舞鶴において海軍輸送船浮島丸が沈没し、多くの犠牲者を出す大惨事となりました。 この惨事を知る方々も高齢化する今日においてこそ、戦争の悲惨さと平和の尊さを次の世代に語り継いで行かなければなりません。 ここに改めて平和への決意を新たにするとともに、お亡くなりになりました方々の御冥福を心からお祈りいたします。 なお、厚生労働省でお預かりしております御遺骨につきましては、東京都の祐天寺に丁重に安置されているところでございますが、厚生労働省といたしましては、一日も早く御遺族の皆様に御遺骨を返還できますよう、韓国政府と交渉を行っているところです。 御遺族の方々並びに関係各位の御健勝を心より祈念申し上げます。 厚生労働大臣 柳澤伯夫 追悼
浮島丸事件62周年を迎え朝鮮人犠牲者に心より哀悼の意を表します。 永年の真筆な追悼行事に尽力される浮島丸殉難者を追悼する会と舞鶴市民に敬意を表する次第です。 2002年9月17日の朝・日平壌宣言(日・朝平壌宣言)に基づく過去の清算と日本の国交正常化実現、朝・日友好増進のために私達調査団は一層努力していく決意です。 2007年8月24日 京都府朝鮮人強制連行真相調査団 代表 柳 球采 浮島丸事件を永遠に語り継ごう
「下北の会」は大変に立派。『アイゴーの海』は、どこかで改めて引かせてもらいたいと思う。浮島丸下北の会 浮島丸殉難62周年追悼集会に連帯のメッセージを贈ります。 戦後62年がたった今、戦争体験を語れる人がどんどん少なくなっています。「戦争を知らない子供達」「戦争を知らない先生たち」そして、「戦争を知らない国会議員」が多くなっている現状を考えた時、浮島丸事件を語り継ぐことが「平和日本」を築くためにとても重要なことだと思います。 舞鶴市佐波賀にある「殉難碑」の前に立つと、故国を眼前にして亡くなられた人たちの無念さと、悲しさが胸にこみ上げてきます。 二度とこんなことがあってはならない、この思いが「平和」「人道主義」へとつながっていくものだと思います。 下北でも22日の浮島丸出港にあわせて、今はむつ市中央公民館の駐車場になっている出港地点で第14回「浮島丸出港追悼集会」を開くことになっています。 最後に、今集会が盛会であることと、この集会に参加された皆様の健康を祈念します。 2007年8月21日 浮島丸殉難者を追悼する会御中 朝鮮人浮島丸殉難者追悼歌 はまなすの花 咲きそめて
この曲を聴いてると泣けてきてね、などと言う人が多かったが、何かカスマプゲという曲に似ている、そんな事しか私にはわからないが、作曲は舞鶴出身の方だそうです。韓 丘庸 作詞 金 正花 作曲 1花咲きそめん はまなすの 丘に眠れる 浮島よ かの日 ああ わが故郷 ふるさとへ はやる心の 流れかし うらみは深き 舞鶴よ アリラン アラリヨ アラリヨ 2踏みしだかれし 浜辺にも 行きかう船の マストにも つらき涙の 港街 きみの 叫び声に 振り向けば ああ わが故郷 ふるさとへ 思いこめて 歌う心の 舞鶴よ アリラン アラリヨ アラリヨ 3いずれの日にか 帰りなん 死して みたまの 帰りなん 今日も 飛びかう 白き蝶に わが ああ わが故郷 ふるさとへ いで立つ人の 慕わしき 祈りささげん 舞鶴よ アリラン アラリヨ アヲリヨ 浮島丸殉難62周年追悼集会にあたって
1.1945年(昭和20)午後5時過ぎ、日本海軍特設輸送艦浮島丸(4730トン)が舞鶴湾に入港してきた。青森県地方で働いていた朝鮮人労働者とその家族(3735名)を乗せ、8月22日午後10時に大湊港を出港、釜山へ向かう途中針路を変更、日本海を南下して舞鶴湾に入ってきたものである。 入港してきた浮島丸は下佐波賀沖にさしかかったところ、突如大爆発音とともに中央部から二つに折れて沈没した。 突然の大事故により、近辺住民などの懸命の救助活動にも拘わらず朝鮮人524名、乗細見25名、計549名(政府発表)の犠牲者を出す大惨事となった。 2.1910年(明治43)日本は統治権の委譲を朝鮮に強制した。日本は朝鮮に総督府を置き軍隊を常駐させ、武断政治と同化政策をとった。朝鮮人民は日本語の使用を強制され、日本名を名乗らせられ(創氏改名)異民族の宗教である神社参拝を強要された。又、法律の悪用による土地取り上げが行われた。 15年戦争の進行と共に、朝鮮人にも徴兵・徴用がおこなわれた。徴用された人達は炭坑・鉄道や軍の施設の建設工事等に従事させられ苛酷な労働が強制された。浮島丸はこれらの人の帰国のため配船されたものであった 3.1954年(昭和29)4月1日、東舞鶴公会堂において第一回浮島丸殉難者慰霊祭が同実行委員会と東本願寺の共催で行われた。実行委員会の呼びかけ人は、大山郁夫(参議院議員)末川博(立命館大総長)住谷悦治(同志社大総長)大谷蛍潤(東本廟寺)その他の各氏である。 以来、東本願寺別院(市内浮島、至徳寺)などで追悼慰霊祭が行われてきたが、追悼の碑建立の気運が起こり、佐谷靖舞鶴市長(当時)を会長に「浮島丸殉難者追悼の碑建立実行委員会」がつくられ、幅広い市民の浄財と府、市の補助金を得、用地も現場を目前にした最適の地を地元のご協力で確保することができ、土地の造成は地元の建設業者の手で、像の制作は市内中学校美術教師の集団制作によって、1978年(昭和53)に完成した。 「浮島丸殉難者追悼の碑建立実行委員会」は同年「浮島丸殉難者追悼実行委員会」に改組し、追悼式典を行ってきたが、個人が参加できるよう1996年(平成8)「浮島丸殉難者を追悼する会」に改めた。 4.「会」は1989年(昭和64)事件の経緯と死没者名を収録した「浮島丸事件の記録」を刊行し、1998年(平成10)には「殉難の像」建立20周年記念行事として青森、東京、京都、舞鶴の関係者による「シンポジュウム」と事件と運動を回顧する演劇「海を見つめる群像の物語」を公演した。 5.1995年(平成7)浮島丸事件に題材をとった映画「エイジアンプルー・浮島丸サコン」が製作され、舞鶴ロケには多数の市民がエキストラとして参加した。この映画の中で舞鶴は、犠牲者を救助し、追悼を続けるヒューマンな街として措かれている。この映画は2001年(平成13)から韓国各地で上映運動が始まり、韓国で事件と舞鶴に対する関心が高まり2002年(平成14)、2003年(平成15)には韓国・光州市民との交流・相互訪問が行われた。 6.1996年(平成8)本集会に対し厚生大臣名で追悼の電報がよせられ、以後毎年、本集会に対し、政府から弔慰の表明が行われている。 7.沈没していた浮島丸は1950年(昭和25)に後半分が、1954年(昭和29)に前半分が引き上げられた。浮島丸事件犠牲者のうち、まだ引き取られていない遺骨280体が東京目黒の祐天寺に祀られている。 8.2005年(平成17)中国・北京大学での映画上映が行われた。こうした国際交流の成果を受けて、2005年(平成17)、浮島丸殉難60周年企画として「国際シンポジウム」を韓国・延世大学、中国・北京大学の研究者、及び日本の関係者の協力を得て行いました。又、これまでの追悼事業の取り組みが評価され、駐大阪大韓民国総領事官名による感謝状が贈られました。
この日は少し雨ぎみの空で何か少し心配模様だったが、涼しくてよい。出かけてみた。時刻より30分ほど前だったがもう車を駐める所がない。今年は昨年より多いような感じに思えた。(日曜日となり今年の参加者は350名だったそうで、昨年より4割ほど多かったことになる) 受付に品田茂氏がおられて、出来ましたよと、机の上に真新しい右の書がたくさん並べてあった。新聞などでもすでに報道されている『爆沈・浮島丸−歴史の風化とたたう』(高文研・1600円+税)。実はこれを買うのも今日の目的だったのである。舞鶴人ならばぜひ一冊お買い求め下さい。 浮島丸事件もそうであるが、国内にあり、すぐ出かけてみることのできる場所であっても、そこにあるのは山河だけで、当時の惨劇を伝えるものは何も残っていない。いかに惨劇だったとはいえ、忘れるなと言ってもこれでは忘れるかも知れない。 幸いここには「殉難の碑」が建てられているが、絶えずこうした書なり、碑なり何かを作り続け、取り組みつづけて過去の記憶を鮮明に取り戻していくより、平和というものは方法がないものかも知れない。そう考えられてこの追悼集会も毎年開かれているようなわけである。 浮島丸爆沈事件があり沢山(549名・これは日本政府発表のごまかしの数字。実際は恐らくその10倍の5000名くらいにもなるかも)の人が亡くなったということすら、実はよくは知らされてはいない。「平和」と口先だけではいっているが、府も市も広報紙には一行もない。観光案内などにもまずみられない。地元・舞鶴ですらそんなことだから、日本全体となると、まして外国にまでとなれば、知っている方はわずかであろう。過去が共有されて未来に生かされようとはされてはいない。5000名はこのようにただもみ消され、知らされることもなく、忘れ去られるめだけにこの海で無意味に死んでいったのだろうか。 過去には責任はないよ、といってこのような過去をどんどん忘れていって、気が付けば再び同じ過ちを繰り返えしていたでは、これは私たちの直接責任になろうし、次に死ぬのは私たちであろうし、5000名ではとうていきくまい、その1万倍もが死ぬことになろう。 そうした未来を忘れないためにも、また出かけいき、またここに書いてみようかと思う。 11:00。1分の黙祷ののち、式典がはじまります。録音機を持ち忘れたために、「追悼の辞」は主催者の案内にあるものをそのままコピーさせてもらったものです。 追悼の辞
本日ここに「浮島丸殉難六三周年追悼集会」を開催するにあたり、549名の犠牲者の皆様方に謹んで哀悼の誠を捧げます。 1945年8月24日静けさを取り戻した舞鶴湾に入ってきた浮島丸が、午後5時20分頃ここ下佐波賀沖で、突然発生したすさまじい爆発音と共に、真っ二つに折れて沈んでいきました。静かな海は阿鼻叫喚の生き地獄に一変しました。 急を知った近くの佐波賀の人々などの懸命の救助活動にもかかわらず、婦人・乳幼児を含む乗客524名が乗組員の日本兵士25名と共に、かけがえのない生命を失ってしまったのです。 この大惨事には長い歴史的な背景がありました。1910年(明治43年)日本は統治権の委譲を朝鮮に強制して以来、36年に及ぶ、日本の朝鮮に対する植民地政策の結果、土地も仕事も失った人達が激増し、その多くは日本へ家族ぐるみの移住を余儀なくされました。一方、第二次世界大戦が勃発した1939年(昭和14年)からは、年老いた母を残した若者や一家の働き手である父親が、次々と日本へ強制的に連れてこられ、戦争遂行のための労働力として日本の各地で苛酷な労働を強いられました。 1945年8月15日の日本の敗戦は、その人々にとって苦役からの解放と明るい未来をめざす日となりました。 大湊警備府が出した「本国送還」の指示で、青森県下北半島方面で働かされていた朝鮮人労働者とその家族3735人(政府発表)が乗った旧日本海軍輸送船「浮島丸(4730トン)」は、8月22日午後10時に大湊を出発して航行を続けました。連合軍の要求に基づいて発せられた日本政府の命令で、浮島丸が針路を舞鶴に向け、湾内に入って直後にこの大惨事が起きたのです。夢にまで見た故郷や肉親との再会を翌日にひかえて、船内が喜びに沸きかえっていた最中に、予想もしなかった大惨事に遭遇して尊い生命を失われた皆様の悲しみと無念さは如何ばかりであったでしょう。 私達は広範な市民の方々の浄財と京都府及び舞鶴市のご援助を頂いて、30年前の1978年8月、事件発生現場が一望できるこの地に「殉難の碑」を建立し、毎年追悼集会を開催して今日に至っています。 これは犠牲者の皆様方のご冥福を心からお祈りすると共に、そのような歴史的背景を持つ「浮島丸事件」を風化させず、我が国が過去の過ちと教訓を忘れて、再び同じ道を歩むことを決して許してはならないと考えたからです。 今日、事件は映画「エイジアンブルー浮島丸サコン」の上映運動等を通じて、日本全国や韓国、北京の多くの人々の知る所となりました。 私達は、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起きることのないようにすることを決意する」と明記されている日本国憲法の立場に立って、追悼集会を続けてきました。戦後63年の長い時間が経ち、又「浮島丸殉難者追悼の辞」を建立しましてから30年の月日が経ちました。 しかし東京、中目黒の「祐天寺」には、いまだ故郷へ帰れない「遺骨280体」が残っております。このことは「浮島丸事件」が、また「日本が起こした戦争」の後始末がまだ終わっていないと考えるものです。 私達が顔う日本海(東海)は、友好の船が行き交う平和な海であります。「浮島丸事件」を忘れないことを「日本人の責任」として、事件から教割を学びとり、平和の確立に向けて、これからも追悼事業を続けて行くことが浮島丸犠牲者の皆様との約束であると思います。 日朝、日韓、日中国民の友好関係のさらなる発展を念じ、犠牲者の皆様のご冥福を心からお祈りして、追悼の辞と致します。 2008年8月24日 浮島丸殉難者を追悼する会 会長 余江勝彦 追悼の辞
本日「浮島丸殉難63周年追悼集会」そして「殉難の碑」建立30周年にあたり尊い生命を落とされました殉難者の皆様に韓国民団を代表して追悼の辞を捧げます。 又事件当時我々同胞の救助に尽力されました地元佐波賀の皆様そして長年に亘り追悼の行事に努めてこられた「浮島丸殉難者を追悼する会」の方々に謹んでお礼申し上げます。 殉難者にとっては長い日本国による植民地支配と強制連行等我が同胞にとっては筆舌し難い苦痛を受け最後に乗船した「浮島丸」爆破とは何とも悲惨な結果であります。日本政府はこの蛮行の責任者にも関わらず真相解明もせず賠償も謝罪もしないことに日本国の本心が見て取れます。 又最近ではテロ防止に名を借りた「入管法」改悪、在日韓国人の中には事情により一般永住権を持つ者もおり再入国の度に指紋を取られその場で顔写真を撮るというまるで犯罪者の様な扱いを当たり前のように淡々と事務的にこなしております。 到底血の通っている人間の仕業とは思えません。どこまで我々同胞を馬鹿にしたら気が済むのか、この怒りをどこにぶつければいいのでしょうか。 永住外国人「地方参政権」問題にしても中々成立しないのも根は同じ所にあるからです。 しかしながら民間人同士では話は別であります。我々は韓日交流をより一層深め皆が「家族」になるように努力して参ります。 そしてこれが平和の輪を広げ最後には世界の平和に繋がればと思います。 最後に韓国と日本が永遠に争うことなく親しき隣人になりますように心から願い追悼の辞と致します。 2008年8月24日 在日本大韓民国民団京都府舞鶴支部 支団長 金栄吉 通訳 在日韓国婦人会京都府舞鶴支部 会長 閔二生 浮島丸殉難六十三周年追悼の辞
私は浮島丸殉難六十三周年を迎え、悲しみも新たに、浮島丸犠牲者とご遺族の皆様に衷心より哀悼の意を表します。 ようやく太平洋の戦火が収まり、「亡国の民」の苦しみと残酷な差別、そして虐待に耐えた同胞たちが解放を迎えて九日目。 夢にまで見た故郷へと向かう同胞たちを乗せ、この舞鶴港に入ってきた浮島丸は、突然、爆発を起こし、夕凪の舞鶴湾佐波賀の地は修羅場と化し、多くの人たちの懸命な救助活動にもかかわらず、同胞と日本人乗組員、549人の尊い命が無惨にも奪われました。 犠牲者の無念さとご遺族の探い悲しみ、そしてまた、この日の傷跡に今も苦しんでいらっしゃる生存者の皆様のお気持ちを、どんな言葉で表現することができるでしょうか。 今年はこの「殉難の辞」が建てられて三十年になります。 三十年前にチマチョゴリを着て、碑の前で「はまなすの花さきそめて」を歌った中学生が今、中学生の子を持つ母親になっています。 こんなに長い年月が経ったにもかかわらず、日本政府はこの「事件」の真相解明も公式謝罪もせず、補償も実施しないことに、あらためて、強い憤りを禁じ得ません。 そればかりでなく、日本政府は、朝・日関係を改善するための努力をするどころか、今日も共和国に対する敵対視政策を続け、制裁と称して、マンギョンボン92の日本への入港禁止をはじめ、朝鮮総聯組織に対する不当な強制捜査を実施し、私たちの生活と活動を脅かしています。これは平和と国際友好を摩う大きな流れに逆行しているといわざるをえません。 ご遺族の皆さんを始め、多くの関係者の方々がこの六十三年の間にご高齢となりました。 しかし私たちは、この不幸なできごとを風化させることなく、代を継いで、過去の歴史的教訓を正しく活かし、過ちを再び繰り返してはなりません。 朝米対立関係の終息と世界平和、そして朝鮮半島の非核化と平和安定のための六者協義も最終段階に入りました。こうした惰勢の中で、朝鮮総聯は、祖国の平和統一と、朝日友好、アジアの平和のために一層貢献していく決意です。 ご遺族の皆さんと「浮島丸殉難者を追悼する会」の方々をはじめ、地元佐波賀の皆様のご健勝とご多幸を祈願して、私の追悼の挨拶とします。 2008年8月24日 在日本朝鮮人総聯合会京都府三丹支部常任委員会 副委員長 池 勝一 寄せられたメッセージの紹介。 本日、浮島丸殉難63周年追悼集会が挙行されるに当たりまして、謹んで追悼の言葉を申し上げます。
63年前この日、ここ舞鶴において海軍輸送艦浮島丸が沈没し、多くの犠牲者を出す大惨事となりました。この惨事を知る方々も高齢化する今日において、戦争の悲惨さと平和の尊さを次の世代に語り継いでいかなければなりません。ここに改めて平和への決意を新たにするとともに、お亡くなりになりました方々の御冥福を心からお祈りいたします。 東京都の祐天寺に丁重に安置されているところでございますが、厚生労働省といたしましては、一日も早く御遺族の皆様に御遺骨を返還できますよう、韓国政府と交渉を行っているところです。 御遺族の方々並びに開係各位の御健勝を心より祈念申し上げます。 厚生労働大臣 舛添要一 浮島丸運動のさらなる前進を目指して
浮島丸事件が発生してから今年で63年目を迎えました。この間、映画・演劇・テレビ等で浮島丸事件が取り上げられ、西山登紀子参議院議員による国会質問、厚生大臣によるメッセージなど国政の場でも取り上げられるようになり、浮島丸事件は大きく前進したように見えるが、日本政府は浮島丸事件の背景となった「日韓併合」「植民地政策」への反省と謝罪の意を表明せず、逆にあの戦争を正当化し、朝鮮半島には多大な投資をし、朝鮮半島の発展に寄与したのだから感謝されるべきだと、うそぶく政治家もいて唖然としています。 野田さんと須永さんがいつも育っておられた「浮島丸事件は間違った日本のアジア政策がもたらしたものだから、日本人の手で真相を究明し、慰霊をしなければならない」を思い出し、それを実行している舞鶴の「追悼する会」の行動は、アジアに発信した「日本の良心」だと思います。 浮島丸下北の会も舞鶴の運動に学び、浮島丸の出港地点にモ二ュメントを残したいとむつ市に申請することにしました。 「浮島丸殉難63周年追悼集会」の盛会を心から願っています。 2008年8月24日 浮島丸下北の会 会長 齋藤作治 そして府知事・市長の献花。 今年は「殉難の碑」ができて30周年にも当たり、呉栄煥・駐大阪総領事も出席されていて、献花そしてメッセージを述べられた。 慰霊の舞 「追悼の碑」の前に立ち、浮島丸が沈没した沖合を遠く望み、強制連行、強制労働がなかったらと思うと「この慟哭の叫びに耳を傾けよう、忘れてはいけない」との思いがこみ上げてきました。…
平和への願いと鎮魂の祈りを捧げる「金一志韓国伝統芸術院」のメンバーによる舞。この集会に先立って昨夜「韓国伝統舞踊の夕べ」が催され、多くの人々が集まったそうである。こうした歴史には本物の芸術家たちも目を向けるのが当たり前で、悲劇に学んでこそ芸もよくなっていくと私は考えるが、どこかの国の芸術家たちは何をしておいでになるのか。これはどこの国の歴史であったかをお忘れか。 追悼歌「はまなすの花 咲きそめて」 いつもは学生さんたちが歌っていたが、今回は京都朝鮮歌舞団の呉明姫さんのソロ。 花咲きそめん はまなすの 丘に眠れる 浮島よ 碑の上に こうべたれ かの日 偲びつ 遠い影 ああ わが故郷 ふるさとへ はやる心の 流れかし うらみは深き 舞鶴よ アリラン アラリヨ アラリヨ 聞いていると泣けてくる。「アリラン アラリヨ アラリヨ」のあたりが響く。曲がっていた心が真っ直ぐに治されていって、それと同時にボロボロと涙が出てくる。心の底の方が泣いているように思われた。カラオケで超ヘタクソな歌ばかり聞かされているので、歌の効果などあったことも忘れていたが、聞く人を真人間に変えていく文化の力がある。 しかし泣くとカッコが悪いようだし、ファインダーが覗けなくなるし、ちょっとこらえていただけであった。皆も泣いている。 ハマナスは北海道の道花になっているとか、しかしかの地ばかりでなく舞鶴でも咲く、このあたりが南限とか、近くの神崎浜には「はまなす橋」があり、七月ころに自生のものが咲くそうである。日当たりのよい砂浜に咲くそうで、実はおいしいという。佐波賀にも咲くかどうかは知らない。 献花 最後は参加者全員による献花。 「追悼」というのは、死者を偲んで痛み悲しむことではあるが、この日は自分も63年前にこの海で死んだつもりになって、もしも私もここで無念の死を死んだのなら何を63年のちに生きる人々に望むかということもよく考えてみるべきかと思う。それが本当の追悼であり鎮魂であろうかと思う。 二度と再びこうした惨劇が決して起きることのないように平和に幸せに暮らしてくれ、皆で力を合わせてやってくれ、ということであろうが、そうしていくのは日本人のすべてに課せられた戦後責任であるし憲法の精神でもある。もうかなり怪しくなってきているなかで、もう一度しっかりと決意を固めて、魂をゆさぶって、気合いをいれなおそうではないか。 市民の手による追悼集会も、いろいろと課題を抱えているようであるが、よくやってるなーと私は感服しているのだが、それでも長いと惰性もマンネリも生まれよう、絶えず新しい課題に取り組んでいかなければなるまい、事件の真相の解明もしなければならない。 なぜ帰国を急がせたのか。 なぜ舞鶴に来たのか。 爆発の原因は。 何人が亡くなったのか。 63年が過ぎたが依然不明であり、舞鶴では戦争も浮島丸事件も終わってはいない。課題は山と残されていて追悼集会も続けられるだろう。 未整理状態ですが、私のパソコンに残っている記録。 『舞鶴市民新聞』(97.6.3) 記念館と碑を訪れ
金沢市民と京都・奈良の大学生 アジアの歴史を再認識 引き揚げ・浮島丸事件 日朝友好へ平和学習 日本と朝鮮半烏の歴史を学ぶ余沢市氏らが三十一日、浮島丸事件の爆沈現場を訪れた。翌日の一日には、京都と奈良市内の大学生七十二人来鶴、引き揚げの歴史と浮島丸事件について平和学習を行った。 朝鮮半島との友好に取り組む「日朝協会石川県支部」(金沢市、大森定嗣理事長)は、日本と朝鮮半島の近・現代史を学習しようと、三年前から各地をめれている。今回は、石川県内でも上映された映画「エイジアン・ブルー」で知った浮島丸事件の現地を訪れようと、同支部の呼びかけに応じた金沢市民十六人がやって来た。 一行は三十一日、下佐波賀の殉難者追悼の碑がある公園に到着。碑を背にしながら、「浮島丸殉難者を追悼する会」の須永安郎さんや余江勝彦さんから、事件の概要や碑について話を聞いた。初めて碑を見た大森さんは「石川県でも漁船が機雷に触れ、数十名が死亡する事件があり、それと重ね合わせて浮島丸事件の話を聞いていました。五十年前に戻ったみたいです」とと話していた。 また、一日には、大学生協連関西地連京滋・奈良ブロックが主催する平和学習会「'97Peace Now in Kyoto」が開かれ、龍谷大学の学生や韓国などからの留学生が訪れた。 平の引揚記念公園では、「舞鶴語り部の会」の安田重晴さんからシベリア抑留の体験を聞き、引揚記念館の展示品を見て回った。その後、大浦会館で同追悼する会の須永さんに浮島丸事件の経過について講義を受けた。平和学習会を企画した立命館大学五回生、松島洋一(22)は「アジアの歴史を再認識し、友好関係をつくるきっかけにしたい」と話していた。 『舞鶴市民新聞』(96.8.23) 浮島丸事件
供養を続ける谷口さん(千歳)が主人公 子らに語り伝えようと絵本に 京都市内の保母や父母らが出版 あす、殉難者追悼集会 終戦直後、舞鶴湾で起きた「浮島丸事件」の犠牲者らの供養を続ける谷口はまさん(80)=千歳=を主人公にした手作り絵本が、京都市内の保母、園児の父母らによって自費出版された。絵本は谷口さんの婆を通して、事件のことを語り伝えている。保母らは二十四日、下佐波賀で行われる殉難省追悼集会に出席する予定で、谷口さんに絵本を手渡すことにしている。 「浮島丸」が爆沈した当時、平に住んでいた谷口さんは 「バーン」という大きな爆発音を聞いたが、「爆弾が落ちたのだと思っていた」という。その後、下佐波賀沖に船が沈み、多くの韓国・朝鮮人らが亡くなったことを知った。「佐波賀のあたりを歩くと、女の人の悲しい声が聞こえるような気がしました」。 昭和五十四年、市民有志らが事件の犠牲者らを追悼しようと、爆沈現場近くに殉難者追悼の碑を建立。谷口さんはこの碑を見るたびに、「何かを訴えられているような気がしてならなかった」と思ったそうだ。翌年から近くに住む梅坦クミコさん(72)、佐竹たねさん(82)と一緒に、犠牲者らの供養になればと、碑のある広場の草取りを続けている。 千歳の自宅から峠をひとつ越えたところに碑がある。歩いて四十分。初めのころは碑の周りに草がひどく繁っていたため、一人で草取りをすると丸二日かかったこともあった。碑には必ず花や果物などを供えていた。 京都市内の西七条保育所に通う在日韓国人の園児の母親が、「浮島丸事件」について語ったことがきっかけで、保母らが三年前、追悼集会に初めて出席。ここで谷口さんに出会い、その活動を知った。保母らは谷川さんの姿を通して、子供たちに事件を知ってもらおうと、絵本を制作することを決めた。 絵本の題名は「みかん山のはまさん」。A4変形判で三十六ページ。千円・「浮島丸事件を絵本にする会」のメンバー、園田すみえさんが切り絵で、絵を付けた。同会事務局の森田文子さん(48)=山科区=は、「ごく普通の人である谷口さんが供養を続ける姿を知ってもらいたかった」と話していた。谷口さんは「私は本になるようなことはしてはいないのですが…。二度と事件を繰り返さないでほしい気持ちでいっぱいてす」と、二十四日の追悼集会での再会を心待ちにしている。 「浮島丸事件」は、朝鮮半島の釜山に向けて青森県大湊港を出港した海軍特設輸送艦、「浮島丸」が昭和二十年八月二十四日、寄港した舞鶴湾内てなぞの爆沈をした事件。強制的に働かされていた朝鮮人三千七百三十五人と日本人乗組員二百二十五人が乗船、五百四十九人が亡くなった。 絵本の問い合わせは… 『舞鶴市民新聞』(97.6.17) 平和をテーマに歴史の見直し
爆沈現場の海に献花も 殉難の碑前で交流会 浮島丸事件を学ぶ 綾部の中・高生と西高生舞鶴朝鮮初中級学校生ら 長崎市に振りそでの少女像をつくっ綾部の中高校生らと、市内の舞鶴朝鮮初中級学校、西舞鶴高校の生徒らが十五日、浮島丸事件をテーマに交流会を開いた。日本人と在日朝鮮人の生徒らが、殉難の碑と爆沈現場の海へ献花した。 長崎に投下された原爆で亡くなった少女を供養し、世界の平和を願うため、綾部市内の中高校生らが全国に募金を呼びかけ、振りそでの少女像を昨年三月に建立。その後、平和をテーマに地元の歴史を見直す学習会を開いてきたが、今回は舞鶴の同年齢の若者らに呼びかけ、浮島丸事件を一緒に学ぶことにした。 綾部の中高校生約三十人、舞鶴からは約二十人の生徒が参加。下佐波賀の殉難の碑前で、この碑と少女像を制作した和田中学校の余江勝彦さんから話を聞いた。また、爆沈現場の海へ船の上から花束を投げ、犠牲者のめい福を祈った。 『京都新聞』(97.9.5) 「浮島丸」の惨事を劇に
東舞鶴高生 きょう文化祭で上演 東舞鶴高(舞鶴市泉源寺)の生徒が、五日に開かれる同高文化祭に、一九四五年八月、終戦直後の舞鶴湾で朝鮮人労働者らを乗せたまま、なぞの爆発を起こし沈没、五百人以上の犠牲者を出した「浮島丸事件」を題材にした劇「自由を求めて」を上演する。生徒たちは「地元で起きた悲惨な歴史的事実を多くの人に知ってもらいたい」と、意気込んでいる。 日朝の友情と爆沈織り込み 生徒ら脚本作り フィナーレはスライドで 同高文化祭は、三年生が毎年、クラスごとに劇を上演しており、生徒たちの一大イベン卜になっている。「自由を求めて」を演じるのは九組の生徒たち。二年前に浮島丸事件補テーマにした映画「エイジアン・ブルー浮島丸サコン」が上映された際、舞鶴ロケも行われるなど、なじみ深いことから同事件を題材に選んだ。 劇は、青森県に強制連行された朝鮮人・大林と日本人・石川伯雲の間に芽生える友情と大林ら朝鮮人を乗せた浮島丸が、帰国途中に舞鶴湾でなぞの爆沈をするまでを描く。 劇の最後には、舞鶴市民らでつくる「浮島丸殉難者ほ追悼する会」から借りた、沈没する浮島丸や強制労働の様子を収めた写真を縦、横三メートル大のスライドに映し出す。 脚本は「エイジアン・ブルー」を参考に、五人の生徒で書き上げた。衣裳や大道具作りなど、お盆過ぎから準備を開始。出演する十四人の生徒らは、毎日五時間近い練習を繰り返した。 総責任者の長谷川瞳さん(18)は「脚本を三回も書き変えるなどストーリーのつじつまを合わせるのに苦労した」と話し、主人公の石川役を勤める山口善弘君(17)も「全体練習が少なく不安もあるけど、ぜひ見にきて」と張り切っている。 『舞鶴市民新聞』(96.6.8) 韓国のKBS取材班
「浮島九事件」の番組づくりで来鶴 市民らにインタビュー 大韓民国の韓国放送公社(KBS)の取材班が二十六日、舞鶴市内を訪れ、浮島丸事件に関する取材を行った。事件の犠牲者らの追悼を続ける市民や、事件当時救出にあたった地元の女性から話を聞いた。スタッフらは「浮島丸事件は韓国と日本の歴史に残る未解決の問題。この事件の持つ意味を探り、日韓の友好関係を深める番組にしたい」と、爆沈現場をテレビカメラに収録していた。 取材班は、KBSの林世亨(イム・セヒョン)プロデューサーら四人。事件の爆沈現場と追悼を続ける日本人の姿、また、韓国の遺族らが日本政府を相手に事件の公式謝罪と賠償を求めて京都地裁に起こした訴訟を紹介する番組づくりのため、二十六、二十七の両日、舞鶴と京都で取材した。八月十一日の一時間番組「サンデースペシャル」で放送される。 追悼集会に毎年かかわってきた野田幹夫さん(69)と須永安郎さん(71)の二人か取材に同行。下佐波賀の殉難者追悼の碑前で、事件への思いや集会の様子、追悼の碑を建立した市民運動などについてインタビューを受けた。また、スタッフらは爆沈現場近くに住む参島恵子さん(72)を訪問。小舟を出して遭難者を救出した参島さんは、「たくさんの人が『アイゴー、アイゴー』と叫んでいた」と、当時の様子を証言した。 林プロデューサーは、日本政府はこうした事件をはじめ、過去の問題を解決してこなかった。両国の友好を深めるためにも、韓国側から解決策を探る番組にしたい。また、韓国人の反日感情は強いが、こうして追悼を続ける日本人がいることも伝えたい」と話した。 野田さんは「長年の運動がきっかけとなり、事件か映画に取り上げられたことなど、韓国の人にも知ってもらいたい」と、取材にこたえていた。 |
09.08.24の64周年集会 10.08.24の65周年集会 11.08.24の66周年集会 12.08.24の67周年集会 13.08.24の68周年集会 14.08.24の69周年集会 浮島丸事件の背景や考証などは「浮島丸事件」 「浮島丸事件」へ 資料編の索引
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