若狭湾に面する舞鶴市
お盆で各家に帰ってきていた仏様、先祖の霊を、この船に乗せて再び送り返す。
竹や麦ワラで4〜5メートルほどの大きさの船を1隻造り、各家を回って集めたお供え物や古くなった仏具などを乗せて、8月15日に西の国に向けて、海へ送り出す。
船を造るには、竹切り・川掘り・船造り・塩炊きといった様々な工程が伝わり、子供たちが手伝う(元々は子供たちの行事で、すべて子供達の手で行われた、最後の見送りの時は途中まで船と一緒に泳いで行った)。
村を挙げて見送られ送り出される精霊船。
小橋の精霊船(ショウライブネ)
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お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから探索してください。超強力サーチエンジンをお試し下さい。 ↑09年の夏は冷夏なのか、ツユが明け切らないような日ばかりで、夏らしい日ざしがない。この日は少し雲が薄い。ようやく夏のような気持ちがもてるような天候だった。普通は、昔のしきたりでは、お盆に泳いだりはしないのだが、そんな天候のためか、小橋の浜は、このようなにぎわいであった。 この小橋の浜のずっと先(砂浜の一番の西側)に白い「帆掛船」が見える。↑写真で言えば一番左の上側、それが精霊船である。 詳しく書けば、次のような段取りになっているという。子供達がいないと始まらないという行事で、『丸山校百年誌』に、 〈 ◎十三日 朝二時頃、ショウライブネに参加する子供をおこす。(子供組の川掘り、竹なまし)四時頃迄におはぎ作り。五時頃から花やお供えものの用意・墓まいりまでに、ショウライブネの子供のある家は風呂をたく。(川ほりの終った子どもは冷えきっているので風呂に入れる。)墓から帰ると寺からタナ経にまわる。夜は墓参りのあと浜で相撲をみる。お寺のかどで踊りがある。(小橋おんど)だんご作り。 ◎十四日 四時頃起き墓へ参りお供えをする。家には「ショウライダナ」(仏さんのお供えをのせる棚)を作り、その上に墓と同じように供える。ショウライダナは門口の戸袋の外側につけ、無縁仏のために供える。昼はミタマのメシ(あずぎごはん)を供える。墓からショウライブネの子が大きな鍋(村共有のもの)を浜で石を積んだくどをこしらえた上にのせ、海水を炊きほして塩をこしらえ、その塩をイガイのからに入れ、くばったり、もらいに行ったりする。その塩を、小豆ごはんに入れてたく。それをにぎりごはんにし、ミタマのハシ(十三本、七、八寸の箸をこしらえ糸でくくり束にして十二日のうちに仏壇に供えてある)で精霊に食べてもらう。夜、墓参り、相撲、おどり。 ◎十五日 朝参り、ソーメンをゆでて供える。このソーメンを、オイソ(荷物を背負う紐の意)という。十時頃から施餓飢、墓まいりから下りてくると、ショウライブネが出る。家々のショウライタナを子供組が集めてまわる(施餓飢のお経の始りと同時)仏壇のもののうち、オイソ、ミタマのハシもいっしょに集めてまわる。 ショウライブネかざりは浜で十四日にかざり始め、十五日は集めたものを、ショウライブネに積む。みんな浜に集まる。ショウライブネの大センドウの親がモーター船を川尻にもってまわり、それに親達と大センドウ、中センドウの子が乗りこみ、ショウライブネを引き綱でひっぱる。小センドウ以下は青年といっしょに泳いで送る。葛島沖まで運び、引き綱をはずす、夜は三日間のうち一番盛大に盆踊りを行う。 〉 「若衆宿」とか「若者宿」とか「娘宿」と呼ばれた、古くは村々にはあった年齢階梯制の、その一番年下になる「子供組」(今で言えば小5〜中3くらい)の行う行事であったという。今の言葉でいえば、子供会の行事であった(プラス出過ぎない程度に若干「青年会」)。今は遠慮がちに大人たちが手伝っているように見える。 −(今の子供会は、決して小橋のことを言っているのではなく、どこでもたいていそのようなのだが、子供が主体でなく、「子供会という名の親会」のようなものに成り下がっていて、かんじんの子供がお客さんのような感じに見える。しかし、本来は子供自身が主役であり、自分たちの力だけで村の行事の一部を執り行っていくものであった。そうした中で彼らは村人の一員としての自覚と力量を培い成長していったのである。 大事な時にあまり親がハシャギ過ぎると子が成長しないということも考えておかねばなるまい。抜けてるくらいにしておいた方がよいと私は思う。よくこの時期は、地蔵盆にかけてはそうした子供の苦情の投書が新聞などに出ている。 何も小橋の話をしているのではない。日本社会一般がそうなってきているし、ますますそんな感じが強くなっいる、という事がいいたいのである。というのは親が知らないし体験していない、先祖の確かな智恵を引き継いでもいないので、そんな素人的な方向へ行ってしまうのかも知れない。 子供会の行事の後に親が反省会という名の慰労会をして酒を飲んでいる、子供は家でテレビでも見てしらけきっている。そんなのを見て、あちこちの青年団では「あいつらアホちゃうか、もうよい年の子がおるのに、なんであの子らに任せんのじゃ」とよくニガ笑っていたのを思い起こす。子供は次期の青年会員だけに気になるのであろうか。)− ↑衆院京都5区のある立候補者もかけつけた。政治家には策があるのか。伝統行事は成り行き任せか。 『京都の夏祭りと民俗信仰』は、 〈 丹後の精霊船行事の中で、最も豊富な内容を備えているのは舞鶴市小橋である。 … 小橋 小橋は若狭湾に突き出た大浦半島の先端に位置しており、漁業を営む六十二戸の集落からなる。 小橋では、少年たちにより組織される子供組によって行事が運営される。その構成は、オオセンドウ(大船頭・十四歳)、チュウセンドウ(中船頭・十三歳)、ショウセンドウ(小船頭・十二歳)、カコ(水夫・十一歳)、カコノカコ(水夫の水夫・十歳)で、オオセンドウが全体の指図をする。 小橋の行事は、八月九日に始まる。この日は竹切りで、オオセンドウが作業にあたっての注意をして、誰が何本竹を切るか指示を出す。オオセンドウは、作業には加わらず指示を出すだけで、ひたすら道の草を刈って通りやすいように整備する。 竹を切ると、小橋区を見下ろす若宮神社に運び込む。神社では老人会の長老たちが待っており、彼らが和紙を使って帆を作り、それを縫い合わせて帆を完成させる。近年では、和紙の代わりに模造紙や新聞紙を使うことも多い。子供組は、自分たちが運んできた竹を二〜三センチメートルごとに切って、帆の具合を調整するコザルを作る。… 〉 小橋は超歴史のある所、大陸と向き合っている。 縄文時代より古い小橋遺跡もある。 サヌカイト製の有舌尖頭器が出土した。昭和37年(1962)小橋川の改修工事中、川床の粘土層の中から先縄文時代の打製石器。丹後地方最古の遺物とされている。 〈 この舞鶴に、はじめて人の痕跡をとどめるのは、小橋出土の石の槍先、「有舌尖頭器(ゆうぜつせんとうき)」です。この持ち主は、おそらく、シベリア大陸から地続きに歩いてやってきた旧モンゴロイドといわれる狩猟民だろうと思われます。 第4間氷期の温暖が、海水面をあげ、朝鮮半島からきりはなされてしばらくたった1万年から1万2千年前のことです。舞鶴人第一号は、こうして出現したのです。 〉 (「舞鶴のあゆみ原始」より) 海山+喬寺 その小橋川が浜の一番東側に流れ込んでいるが、その東側に、海山*喬寺がある。難しい漢字を書くお寺で、光霽山海山+喬寺という田井海臨寺末の臨済宗のお寺である。 ↓小橋川の河口 ↓古木の「鎮守の森」に囲まれた海山+喬寺 ↓施餓鬼法要が行われている。 ↓私の所も臨済宗だが、同じ光景である。 『京都の夏祭りと民俗信仰』は、 〈 十時から、海山+喬寺で施餓鬼の法要が行われる。法要中も子供組は坊さんあおぎをして手助けをする。法要が始まってしばらくすると、お経をあげた施餓鬼の旗と供物が集落内を通らずあらかじめ作っておいたボンミチ(盆道)を通ってショウライブネに運び込まれる。これは、施餓鬼の供物が集落内を通ることを忌みきらうことからきている。 〉 ↓浜辺に置かれたショウライブネには、供物が積み込まれていく。 ↓祈りが捧げられる。人々の目がやさしい。 ↓施餓鬼が終わり、ハタなども積み込まれ、いよいよご先祖様のご出発の時がくる。 冠島のあたりまで曳かれていくという。 見送る村人たち。 (参考) 『丸山校百年誌』 〈 子供組「ショウライブネ」(精霊船のこと) 子供組は、盆行事の精霊船を作ることから生まれた。精霊船作りは次のような順序で行われる。(戦前は親達に聞き自分達で造った。) 「帆縫い」八月十三日までに親が縫っておく、十三日早朝二時から子ども組の活動が始められる。 ・竹きり 「大センドウ」「中センドウ」と「大センドウ」の親は、「ワカシラヤブ」へ行って必要な竹を切り出す。 ・川ほり 「小センドウ」以下は川へ行って、川底に穴をほり、俵で川をせきとめる。(胸がつかる程の深さまで堀る)この穴に持って帰った竹をつけ、石でおもしをする。(竹を細工しやすいようになめすためである) ・小屋つくり 盆行事をするための小屋を浜につくる(大センドウの親)「小センドウ」以下を持つ家は、一戸についてむしろ一○枚、タツ(稲木のこと)一本、縄一○尋、麦藁を提供する。 十三日、十四日「ボンナゼ」(盆撫でか?) 「小センドウ以下は、二尺×一尺の板を用意し、浜に作った小屋の前におき、その上にうしろ浜の汚れない白砂をとってきてのせ、手でかまぼこ形にかためる。この砂が少しでも汚れていても、また形づくる時、一度でもたたいても、砂をすてさせられやりなおしとなる。(たたくことは禁忌とされた)出来上ると、村の人が詣りに来て、これに線香をたてる。その後「ショウライブネ」の子どもだけの相撲が浜で行なわれる。これを十三日、十四日くり返す。 十五日「ショウライブネ」流し なお、その他に「ショウライブネ」の組織の活動として、次のようなことがある。 ・毎夜八時頃当番をきめて、火の用心の夜回り ・若宮神社でのキモダメシ。月のない夜(新月)を選んで、一人で宮へ上り、カネをならす。他の者は下で待 ち、鐘がきこえないと、何度でもやりなおし、以上は昔から続いている。 他の行事として、若宮神社の清掃、村の中の道の清掃を行っている。 若衆組 「小橋のワカシラ」 小橋の若衆組は、子供組の「ショウライブネ」の組織の上に連っている。年令階層は次の通りであるが他にも説がある。 「カコノカコ」 一○才 ↑ 「力コ」 一一才 子 「小センドウ」 一二才 供 「中センドウ」 一三才 組 「大センドウ」 一四才 ↓ 「シンコ」 一五才 ↑ 「ヤクジタ」 | 「ヤク」 一九才 若 「ヤクアガリ」 衆 「小ワカシラ」 組 「中ワカシラ」 | (上より七人衆と云う) | 「大ワカヒシラ」 二八才 ↓ ワカシラ入りの儀式十二月三十一日 今年「ヤクジタ」に入る者は、山へ行ってカシの木(三米程)を根から堀り出し、皮をむき根を洗う。これを「ヤクアガリ」以上のワカシラ七人衆の分を作り、他に一人薪一束(三尺まわり)、酒と魚を持って魚鳴りの準備をする。夕方若宮神社の堂に集る。「ヤク」以上は羽織を着て集る。(ヤクになるまで、羽織は着用できない)年令層順に上座より位置して坐り、大ワカシラから「ワカシラ入り」の言葉がある。内容は一人前になってからの言葉使い、挨拶の方法、立居振舞いにいたるまで、細かく定められた格式の厳しい言い渡しであり、始めてこの会に入る者で恐怖感を持たない者は殆んどないくらいであったという。その後サカズキをもらう。新入会者の持参した酒と魚で宴をひらき式を終る。引き続き、「年ごもり」「いおなり」に移る。 いおなり(魚鳴り、魚が海面にわきたつことをいう意) 「ヤクジタ」の集めた薪を堂内の壁に接して積み上げ、その上に「ヤクジタ」は正座させられる。「ヤクアガリ」以上の者は、褌だけの素裸となり「カンコの木」(ヤクジタの用意した樫の木の呼び名)を持って床を打ち鳴らし、歌いながら踊る。歌の文句は、「みやましんざんくすの木を ふねにつくりて いまおろす…」(別記)(薪の上にいる「ヤクジタ」はかもめを象徴し、踊「ヤクアガリ」以上の者は魚を象徴したという。) 踊りが始まると「ヤク」(同じく裸体)は村の中へ走り出る。この走る順路もきめられており、イカリの形に走った。この「ヤク」が走り終って堂へもどると、踊りを終る(八時頃)。 次に「ヤクアガリ」以上は堂よりおりて自由行動となる。堂に残った「ヤクジタ」は一刻程たってから「ヤクアガリ」以上を迎えに村へ下りる。「ヤクアガリ」以上の者をさがし歩き、見つけると堂へもどるよう頼む。(名前にかならず「サマ」をつけてていねいに頼む。古くは、きまり文句があったという。)こうして二度目の集合が成り立つと、前にやったと同じことをもう一度繰り返し、「宵のいおなり」「夜中のいおなり」と、二度のいおなり行事が終って、はじめて「ヤク」以上は家に帰る。 年ごもり 「いおなり」の行事が終わった後「ヤクジタ」は堂に残って年籠りに入る。一月二日の「船祝い」の早朝、浜の丸石が見え始めるのを待って堂を下りる。 その他のワカシラの活動 小橋の場合は、ワカシラの組織は村の中ですべての面に働いていたという。氏神祭りの振りもの、相撲など。又、村の道直しはすべて「ワカシラ」がやった。「ワカシラヤブ」という土地も持っていたといわたれる。 年令階層差が厳然としており、下の階層ほどつらい仕事を持たされたともいい、組織が強固で機動性があったらしい。村八分裁判権も持っていたという。 (魚鳴り) いおなりの歌詞(年ごもりにワカシラが歌う) ・宵の魚鳴り……九時頃より行なう みやましざん くすの木を ふねにつくりて 今おろす (アレショウ コラショウ) えいこのこのこの このふれは おござござござぶねかいな− そこでへんへも はんはも やらいての へんよここっこ ほりかわの またのへんよここっこ しげるまつやま (ザザンコー) −手に持った木を掛声と共に炉に打ちおろし、灰と火の粉をたてる。− ・夜中の唄……十二時より始まる おきのかもめに ひよりをとえば おれはたつとり なみにとえ (アレショウ コラショウ) 合の手 さすぞ ひよこのさかずき さすぞさかづき うけたまえ− うけて ひよこのこぼすな うけてこぼすな つゆほども− 五尺ひよこのてぬぐい 五尺てぬぐい なかそめて (何ぞめぞ−) 合の手 こんにうこんに あさぎに かのこ むらさきに 中そめて− おれにひよこの くれよやれ おれにやるより やどにおけ やどがよければ おもたたぬ− さどと ひよこのえちごは さどとえちごは すじむかい はしを ひよこのかけよやれ (何ばしを−) 合の手 すぎばし そりばし まるきばし ふなはしを はしのひよこのしたなる はしのしたなる あのとりが (何とりぞ−) 合の手 うのとりが うおをひよこのくわえて (何うおを) 合の手 こいか こふなか なまずのうおか たんたんたんごの ぶりうおか ぶりを ひよこのくわえて ぶりをくわえて ぶりしゃくを− (ションガイ ヒョコノイカリ ザバー) 合の手 −ザバーの掛声は、ザザンコと同様、炉を打つ− ・夜明の唄……六時頃行う やらおもしろのー おふなあそびに二十二隻こばやに さていちまつのー (サーイ) 合の手 へさきそろえて ふかぐちかわがわ じゅんれいなかじま すみだ川にて ろびょうしそろえて えいとる とんとろ しんとろやー (サーイ) 合の手 やなぎさくらを こぎまぜて しゅんえんなかばの ことなれば おきか さかさかずき えいこのこのこの くださるる しげるまつやま (ザザンコー) −夜明のいおなりは、下駄をはいて行うことになっており、「ザザンコ」でこの下駄を踏みならす。− 三浜のワカシラ 若衆組の組織として古くからあって年令層と呼び名は次の通りである。「小ワカシラ」一六才〜一九才、「中ワカシラ」二○才〜二三才、「大ワカシラ」二八才。 大晦日宮ごもりの儀式 (ヨボシギ。丁年儀とかく) 大晦日の夜、松原神社の堂に集まり、上座に「大ワカシラ」が座り、下座に新しく「小ワカシラ」になった者が座り、「大ワカシラ」から迎える言葉(規律違反を戒め、前向きな姿勢で村の秩序を正すという内容)がある。 午後九時頃宮籠りの式が初まる。会長は、宮籠りの式を宣言、全員神社参拝、再び座を作り、今年「コワカシラ」となる者を紹介し、ワカシラとしての注意をする。 一、朝晩村人と出会いの挨拶をすること。 一、浜で出舟の舟などで困っていれば、それを手伝う。 一、年長者を敬い、呼び捨てにしてはならない。丁寧な言葉をつかう。 一、その他 十九才の者は、中央に出て、ヨボシキの挨拶をする。 来年のワカシラヤドを決めて、中ワカシラが小ワカシラを連れて二人でその家に借りに行き結果を報告する。 丁年儀(ヨボジギ)(中ワカシラ)となる者は皆に酒、さかなをふるまう。宴会となり、以後行動自由となる。 午前○時全員神社へ参拝、再び席を作り、会長は、今年の明方(あきほう)へ向い新しい砂を机の上に三つに山盛りにしてそれをならし、おごそかに指でその砂に「始吉祥」と書き初めをしてすぐそれを消し、全員に向って「おめでとう。」と、新年の挨拶をする。以後行動自由、夜明け前再び全員神社参拝して開散。 各家では神仏、戸口等に〆縄を張る。 盛砂(もりずな)をかど口にする。 一月十一日 作り初め「ワカシラ」の行事 廻り持ちの宿でこの年二八才となり「大ワカシラ」を終る者の奢りで宴会が行なわれ、その前に〆縄をあんだ。 朝から「小ワカシラ」は、一戸につき藁八束、半紙八帖を集めて、ワカシラヤドに集まる。「大ワカシラ」「小ワカシラ」は、たて臼を逆にして置いた周りに位置し、用意した藁で〆縄をあみ上げる。他の「ワカシラ」は周りにあって藁をさし入れ、ねじりよるのを手伝う。(長さ一八ヒロ) 〆縄が出来上ると、退会者(大ワカシラ)は、ユズリハの木(前の日に割って板状にしておく)で、カモメと鯖を各一対作る。其の他の付属品は「小ワカシラ」が作り、墨で目や鱗を描き入れる。庖丁などの道具も、木形で作成する。 付属品が出来上ると、〆縄にとりつける。更に「トシワイダワラ」(年祝俵、豊年俵ともいった。三○×一五糎位)を藁で作り、これも下げ、縄の中央には、前もって多祢寺から持ち帰った「大漁祈願五穀成就」と書かれた札をかかげてすべてが出来上る。 次に村の入り口(海蔵寺下の旧石段付近)に櫓を組み、道をまたいでメ縄をはった。(〆縄は一月十八日の村祈念の日まで置き、魔除けとしたという。)こうして、一切の作業が終了して、ワカシラヤドで宴が行なわれた。 その他ワカシラの行事 (年中行事参照) 一月十四日 狐がえり 九月二十三日 氏神祭の「万代上げ」 〉 |
資料編の索引
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