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  新井崎神社の祭礼 (朝妻祭)
       (京都府与謝郡伊根町新井崎)


徐福(じょふく)を祀る神社として全国的に有名な伊根(いね)町の新井崎(にいざき)神社の祭礼行事。
現在は、というかかなり以前から新井崎神社だけの祭礼として単独では行われないようで、「朝妻祭(あさづままつり)」の一部としてとり行われている。

伊根町になる以前はこのあたりを朝妻村(明治22〜昭和29。大原・新井・井室・六万部・泊・津母・峠・畑谷の8か村が合併して成立)といい、バラバラであった村内の各神社の祭日をある一日に統一して行った歴史があるようで、その流れを引いて、今も旧村内の神社の祭礼を一度に行うのである。こうした祭礼は朝妻ばかりでなく丹後には多いのであるが、どの出し物が本来はどの神社のものかということはよくわからない、また今に伝わる出し物がすべてだったかもよくわからなくなってくる。

朝妻という地名は泊の海に注ぐ川が朝妻川、泊の松岩寺は江戸期に山号を朝妻山と号した。『曽我物語』の「朝妻狩座の事」としても知られる。近江の朝妻や大和の朝妻と繋がりがあるとも言われる。

朝妻祭は内部にグループがあるようで、井室地区は(08年)4月15日すでに終えていた。新井や新井崎地区は4月20日であった。

坂根正喜氏はこれまでに何度も行っておられるし、さらに新井の知り合いに電話して詳しく事前調査をしてくれていたので、私は乗っけてもらって行けばいいだけという殿様旅行であった。久しぶりの上天気でうかれ気分であった。


新井の千枚田←これが新井(にい)の千枚田。有名な撮影スポット。新井に入る手前に広がる。半島状に突き出ているのが新井崎。防波堤のあるのが新井漁港。
知らぬ人もない美田もすでにどこが田んぼかわからなくなっている。この斜面は海まで全部田なのである。というか、田だったのである。
海に面した急斜面を、こんな高さにまで棚田にしている。あちこちに凝灰岩の大きな岩が転がる。もともとは火山帯であったと思われる地である。一部耕作されている田も残るが多くはすでに放棄されいて、こうなってから10年くらいは過ぎるという。この国は自分たちのくう食糧を作らず、何を作り、何を自賛しているのだろうか。何か納得できかねる。頼りない釈明政治屋どもの自賛が虚構でなければよろしいのだが、このぶんではいつ虚構と代わることやら…。食糧を心配しなければならない国、超最低国家がここに見えるような気にもなる。
今もここの棚田の美しい風景を写真などで見られるかも知れないが、それはたいていがそれくらい過去の写真だそうである。写真というか写偽というべきか。新井崎神社(伊根町新井崎)()家のつもりなら世の中の偽を写してはなるまい。近頃の大本営発表のデーターと同じで、全体のある部分だけ都合の良いところだけを切り取れば、あるいは都合良い過去の写真をもってくれば、方法はいくらもある、…写真屋はどのような偽でも立派に写真として写せるのである。そんなんはなんぼでもおるで、そんなんばっかりやでと、また舞鶴の五老岳の展望台からだと、湾口の先、真正面に見える丹後半島がここである。高倍率の望遠鏡でのぞけば、ここの棚田もよく見えるなどと坂根氏はいうのであった。
(↓さっそく試しに登ってみたが、この日は霞がかかったようで、もう一つよくは見えなかった)

五老岳展望台より新井を見る




新井崎神社社頭での神事。浦嶋神社の宮司さんが執り行っておられた。9時30分〜。

新井崎神社は新井崎(子の日(ねのひ)崎・子日(ねひ)崎・(にい)崎)の突端にある。神社は東面していて、神社の正面に冠島がある。(この日は霞んでいてよく見えなかった)。
箱岩神社のすぐ先は断崖である。

この断崖はどんどん崩れているのではなかろうか、右は伝説の箱岩であるが、これがもう少し手前の樹が邪魔にならず写せた、もう少し右に(断崖の先に)寄れたのであるが、現在はこれ以上は行けない。何時の日か将来は新井崎神社の地も断崖に飲み込まれ消滅するかも知れない。

どのような神社なのかを見ておこう。
徐福伝説などは伊根町でも知る人は少なくなったという。忘れないようにと、最近入り口に石碑(右下)が建てられた。これを読めばいいのだが、漢文でムツカシイ。大学出た人でも漢字が難しいルビがないと読めないと文句いうくらいだから、せっかくだけれども、これはまず読める人はない。新井崎の断崖

「今はない古い案内板の写し」
祭神は秦の始皇帝の侍臣徐福を祀る。紀元前221年中国の統一に成功した秦王「政」は新たに皇帝の位をつくり始皇帝と名のり咸陽(今の西安)に都した。当時神仙思想が流行し仙丹に七返八環の法があって、この仙丹を服すると不老不死となることができるといわれ、権勢のある者は、この霊薬を求める者が多かった。
仙丹は三神仙(蓬莱方丈瀛?)に仙人が仙丹を練り不死の薬を蓄えているといわれた。
新大明神口碑記(新井崎神社)
始皇帝はこの神山にいたことがあるという方士(神仙の術をよくする道士)徐福に仙丹を求めることを命じた。伝承によると七代孝霊天皇の時代に秦の始皇帝が不老不死長生の神薬を求め方士徐福がこの地を易筮によって予知し漂着した。その場所は箱岩である。
この地で徐福の求めた神薬とは九節の菖蒲と黒茎の蓬である。
徐福は仙薬を求むるままに、この地にとどまり、よく邑人を導いたので推されて邑長となり高徳は等しく仰慕の的となって死後産土神として奉祀されるに至った。


『丹後旧事記』に、
子の日崎。俗に新崎と云明神は秦の徐福を祭る此地肥饒にして七尺の艾を生ず。

『丹哥府志』に、新井崎神社(参道から。手前の樹の裏側が本殿)
【童男童女宮】(新井崎、祭七月六日)
童男童女宮村人訛りてトウナンカジュクウという、其訛りに習ひて誰が書きたる縁起や童男寡女宮と記せり如何なる謂をしらず、古来秦の徐福を祭るなりと申伝ふ、俗に新井崎大明神といふ處なり。聴雨記続編朱子不註尚書處引、或説曰。日本有真本尚書乃徐福入海時所携者余初未之信也後観陽公日本詩有云徐生行時書未焚逸王百篇今尚存令岩不許伝中国挙世無人識古文先王典蔵夷貊蒼波浩蕩無通律則外国真有其本鴎陽之言未必無據朱子之不註者豈以是耶云。又始皇本記に徐福の事を載せたれども慥と日本にはあらず、然れども諸書を以て参考すれば徐福の日本に来る明なり、されども何れの御宇に来りて何れの国に居り如何様なる事をなしたるや、又其漂着せし處は何れの浜なりや其事蹟詳ならず、京洛西の大秦宮は徐福なりといふ秦の字をかけばなり、又紀州にもありと聞く、皆正史にのせたる事にあらず。
新井崎の徐福の宮初は疑ひしが其地を踏みて聊か信ずる事あり、新井より以西十里内外の處に湊あり、次に浦浜あれど波あれば着する事能はず、大洋より来りて勝手も知らざれば爰より外に着處はなかるべしとも覚ゆ、又其宮たる村より離れて四五町斗も山を下りて新井崎の恐ろしき處北海に向ひて神籬を建つ、尋常の宮造りにあらず、又其随神といふものを見るに、浦島などの随神と同じ形にていづれも千年にも及ぶものなり(冠服元製並年所を歴たる模様、大和などにある所と参考して記とす)、其等を参考して千年以前より斯童男童女宮と伝へ来ればたとひ正史に洩れたりとも虚といふべからず、たとひ徐福の漂着せし處にあらずとも其携へ来る童男女の由緒あるべし。王父柳街の話に蔓荊子のある處は皆昔唐船の着處なり、蓋蔓荊子は唐種なればなりといふ、此處蔓荊子のある處あり、なる程丹後も唐船の着し處なりと見へて往々唐船の話あり下に出す、尤朝鮮は略地の向ひ合ひたる處なれば折々朝鮮人の漂着するものあり、是等も地理に於て徐福の来る考にもならん。
神事(新井崎神社)

『与謝郡誌』に、
新井崎神社
 朝妻村字新井小字松川、村社、祭神徐福、秦の始皇童男童女に命じて不老不死の藥を此地に求めしめたりなどの傳説あり、明治六年村社、氏子六十戸、例祭九月十五日、外に無格社三寳荒紳、金刀比羅社、愛宕社等あり。

神事(新井崎神社社頭)私としては、子日(ねひ)崎も新井(にい)崎、(にい)崎もみな同じで丹生のことと考えている。新井崎神社とは丹生崎神社である。
 北の蒲入(かまにゅう)のニュウは丹生だと松田寿男氏は言っているし、伊根湾の耳鼻(にび)も丹生、筒川は間違いなく丹生に関係した名と思われるし、碇峠もある。このあたりは水銀の地である。
徐福伝説は不老長寿の霊薬としてヨモギやショウブといったものでなく、おそらくこの地の水銀と関係がある伝説と思われる。与謝郡の国内神名帳の従二位(にい)明神(たぶん新井崎神社)と従二位売布(めふ)明神(あるいは荒神社か)がおそらくこれに当たると考えるのである。



縄手振り(荒神社前)新井崎神社から西へ少し行った蝙蝠(こうもり)岳の麓に荒神社(三宝荒神・三柱神社)が鎮座している。新井の元宮とされるという。
蝙蝠岳は火山だそうで、このあたりの田の中にも凝灰岩の岩がゴロゴロしている。
新井崎神社社頭での神事が終わるとここへやってくる。
わたしはこれが売布神社なのではなかろうかと考えたりしているが、別に根拠はない。
←写真はその参道で行われるもの、ナワテ振りと呼ばれている。ここから今日の祭礼が行われる。


大刀振り(荒神社前)
荒神社(三宝荒神)境内で行われる大刀振り神事。


若者が何名か帰ってきたとかで結構パワーフルである。






大刀振り(荒神社前)『伊根町誌』は、
三柱神社(元三宝大荒神) 新井小字荒神
祭神 火産霊命・配祀興津彦命・興津媛命
例祭 四月十五日 太刀振りを奉納する
沿革 永享七年(一四三五)五月創建されたとされている。新井地区の元宮と伝えられている。
   昭和三十五年(一九六○)修造された。


笹踊り(花踊り):荒神社シンボチの口上はササオドリと言っていたが、府教委の資料によれば、伊根町のこのあたりは「花踊り」に分類されているようである。資料が手に入らず詳しく書けないが、実際このあたりの人は「花踊り」と呼んでいる。

しかし「花」も「踊り」もほとんどないようなおとなしいひかえめなもので、歌はあるが、歌詞はよく覚えていないようであった。公然とカンニングペーパー持参である。何曲かある。




左の二つは坂根正喜氏撮影の大刀振り・花踊りのビデオ(部分)。
原画はもっともっと綺麗な動画だが、圧縮したので画質は悪い。ご勘弁を。

これ以外にも、ナワテ振り、大刀振り、花踊り
など収録しています。
「デジタル丹後」





記念撮影:荒神社
記念撮影(於:荒神社=三柱神社の社頭)

おうい、どのカメラで撮ってくれるんだ。
一杯あってわからんぞ。


これで午前中の行事は終わる。





新井崎神社の祭礼
13時から新井崎神社で行われる。内容は荒神社と同じ。

ナワテ振り:新井崎神社


ナワテ振りと呼ばれている。宮入りというか練り込みというか、そうしたもののようである。







ナワテ振り:新井崎神社












朝妻祭:新井崎神社


朝妻祭:新井崎神社



花踊り
紋付羽織袴姿は少なく、祭礼参加者全員。













新井崎漁港に恵比須神社がある。そこでも行われる。

於:新井漁港
『伊根町誌』は、
恵比須神社 新井小字臼の段
祭神 事代主神
例祭 四月十五日 太刀振りを奉納
沿革 昭和三十八年(一九六三)再建



恵比須神社(伊根町新井)
於:新井漁港












於:新井漁港

太鼓と笛、それに鈴というのか大きな鈴があったが、それが囃子。
ここは女性も笛を吹いていた。
日曜日であったにもかかわらずなぜか子供達の姿はまったく見なかった。
ほっといても子供が集まって来る、言わなくても進んで手伝うようでないと行事ごとの、そして地域の将来はないと心配になった。何か学校行事と重なったかも知れない。


於:新井漁港
この後は、お寺(玉林寺。境内に何か神社があるのか)と新井集会所広場(浦嶋神社の代わりという)で行われるという。
ここでの行事が終わると、幟を持って、すっ飛んでいく。1/8秒でこれだれ振れると飛ぶような速さである。どこにそんなエネルギーが残されていたのか。

この祭はたっぷりと一日かかる。帰りの時間も見てわれわれはこれで帰路についた。



なお『伊根町誌』(昭59)は、次のように記している。
新井の太刀振り・花の踊り傘鉾と猩々緋(於:荒神社)
 重なり合った千枚田が海にとける新井の景観はたとえようもなく美しい。そこに刻まれた無量の労苦がその美をささえてゆるがせないものであり、徐福をまつるこの新井崎神社の例祭には、太刀振りと花の踊りが伝えられ奉納される。
 祭日は四月十五日。この日、傘鉾を捧持し猩々緋をおし立てた人々がたくさんの小宮や寺、そして新井崎の宮に練込み、太刀を振り花の踊りをあげて、日一日祭の喜びにひたる。
 地区の青年がすべて参加する太刀振りは、棒振り・小太刀・大太刀・ナギナタ・居合からなりこの順に行われる。シデで飾った棒を振る棒振りは幼児の役であるが、他はすべて青年で、ジュバンにタッツケ、ハチ巻に飾り襷をかけ白足袋をはく。大勢が振る大太刀以外は二人一組で、小太刀と居合は刀、大太刀とナギナタは棒に刀をつけ、棒の両端にシデをつけた太刀を持つ。全体をリードしもどき芸をみせるシンボチ一人がこれに加わるが、その衣裳は刺繍などをほどこし色どり豊かに厚ぼったく仕立てた裾短かの着物で、ややしどけない格好にそれを着て腰に塩を入れたドウランを下げる。はやしは棒につるした大太鼓と笛、それにシンボチと同じ支度のトツケツがつく。太鼓には地を打つ小太鼓が加わる。トツケツ(於:新井崎神社)
 家主が中心となる花の踊りは、締太鼓をもつ太鼓打二人、ハナを持つ踊り子一二人(閏年は一三人)の構成で、紋付羽織、白足袋で下駄をはく。踊りにさいしては祭の諸役が全員加わり、まわりをとりまいて踊り子と同じく踊る。「四季のおどり」「毬のおどり」「やぐらおどり」「はくやおどり」「うらはおどり」「お嶋おどり」「長者おどり」「露のおどり」の八番が伝えられる。
 奉納は、トツケツを先頭に、シンボチ・棒振り・太刀振り、最後に花の踊りが一列になって進む練込にはじまる。この時「ナワテ振り」の太刀が振られる。こうして宮へ入ると、まず軍配を持ったシンボチの口上がはじまる。「東西東西、南北マイリ静リ候、今日ハ祭礼吉日、日モヨキ候、新井崎神社ニ祭礼差シ上ゲ候」。この口上が終るとすぐ大太鼓が打ち出され、棒振り以下の太刀振りが演じられる。小太刀・居合・ナギナタは見事な型の切り組みをみせ、大太刀は勇壮な揃い振りを披露する。この間、シンボチの道化風の演技が笑いをさそう。ついで花の踊りが踊り出される。中央に太鼓二人、そのまわりに踊り子が立ち、太鼓と音頭(踊子がうたう)に合わせて、右手の扇子で花の柄を打ち足を左右に開きながら踊り全員がそれにならう。素朴だが花に託す願いがにじみ出るように感じられる。シンボチ(新発意):向かって左3名
 花の踊りの花は、身長ほどの細竹の先端に一尺ばかりに切った麦わらを巻きつけ、それに寄り合って作った造花(桜)の枝をさしたものである。同じものが枝垂れ状に猩々緋にもつけられるが、この花々は祭ののち縁起物として家々に分け与えられたという。厄除けあるいは豊作のシンボルとうけとられていたようである。それこそが花に託した先人の願いなのであり、今に踊りをうけつがせたといってよいであろう。



花踊りの様式
 宇良神社を中心に伝承される花踊りは、たいへん素朴な踊りである。足を左右交互にふみ出し、ときに扇をひらめかせるだけの踊りである。しかしそこには、いろいろと振りがあり、歴史のきらめきとも覚える美しさが秘められている。
 花踊りは、締太鼓二丁で打つ拍子と小歌によって行われる。小歌は音頭出しの音頭をうけ踊り子もともにうたう。シンボルともいうべき花と扇は原則として踊り子だけが持つ。これら各役の奉納の際の位置どりは、蒲入と新井が、音頭出しと太鼓打を中にして円陣をくむほかは、すべて対向型で、音頭出しと向かい合って太鼓打と踊り子が位置する。全員が坐ると音頭の一ふしが出されて、太鼓打と踊り子のみ立ちあがり踊りはじめ、終わるとともに坐わるというのが共通したかたちである。花踊り:新井崎神社
 うたは踊り子もうたうが、長延などでは、音頭とりと踊り子の唱和する形態がみられる。他所でほとんど音頭出しをうけて、あとは合唱となるのと異なる点である。
 新発意ないしそれに該当する役は、ここにも共通して存在する。なかには新井のように、軍配をもって口上を述べる場合もある。しかも明らかに「粗相なる笹ばやし」と言いもする。その限り新井のシンボチは新発意そのものの役柄を伝えている。そこにはたぶん花踊りの系譜を考える鍵がひめられていようが、花踊りにおける新発意役は太刀振り専属というのが共通の姿となっている。もっとも蒲入や寺領のようにこの役のものが花踊りの次の曲目をふれるところも少なくない。楽器は、花踊りでは締太鼓のほかは一切用いない。締太鼓の数は二丁と定まっている。例外は河来見で、ここでは片バチの曲にはすべて鼓が加わったといわれる。片バチの曲とは、太鼓打が左手に締太鼓を持ち時ハチ一本で打つ曲をいう(太鼓持はつかわない)。花踊りはこの片バチの曲と、締太鼓を持たせて打つ両バチの曲に明確に分かれているのが特徴である。片両バチの差異といえばいま一つ看過しえないものがある。それは、開き扇で踊るもの、ツボメ扇で踊るもののちがいである。両用の用い方をあわせもつ例外曲もあるが、大半ははっきり分かれている。本庄浜の踊りについて、宇良神社の先代宮司宮島茂久が昭和六年にまとめられた詳細な書留があり、現在は相違するところもあるが次にその概要を記述する。…
「はくやおどり」ではなく「かくやおどり」ではないかと思うが、それは次のようなものである。
かくや踊り(片バチ)
一、ヒイヤー俺は伏見のはたごやの娘 返す
  ヒイヤーとのに去られて出合もするが
  サア  かくやがお方じゃござらねど
  ヒヤ  かねほしや
一、ヒイヤーおれは大阪のはたごやが娘 返す
  ヒイヤーとのに去られて出合もするが
  サア  かくやがお方じゃござらねど
  ヒヤ  かねほしや
一、ヒイヤーおれは堺のはたごやの娘 返す
  ヒイヤーとのに去られて出合もするが
  サア  かくやがお方じゃござらねど
  ヒヤ  かねほしや
  かくやおどり 型
  いざおどろはなし。コココンの二度目の出しから音頭する。くりかへすと同時に起上り、左足を前に一歩出して扇は右脇に開く。一度上下にひるがへして左側に伏せて右に開く。また上下にひるがへして左に伏せる。次々にくりかへす。
サアかくやがお方ちゃござらねどといふ間、扇と花を左右上下互にひるがへす。ゴザラネドのドの音をきく時に扇を左脇に伏せる。次に右に開く。前と同じく一度上下にひるがへしては移りゆく。
きりの型、同断。



徐福伝説であるが、簡単に荒唐無稽と退けがたいハナシなのである。丹後は函石浜の貨泉で知られるように大陸との交通は確かにあったと思われる地である。徐福は斉の国の人で、斉の国は山東半島である。山東半島は倭人の遙かなるふるさとのような場所で、最近のDNA鑑定はそれを立証する。
『郷土と美術』(84.2)に、
丹後の海の伝説 井上正一
徐福の社
 今をさる二千二百余年前、中国の秦の始皇帝の命をうけて東海に不老不死の薬草をもとめて出港し、漂流の末、日本のこの地に流れついたといわれる徐福を氏神としてまつったのが新井崎大明神であり「丹哥府志」という古書にもこの社を調査した記録を載せ「初は疑ひしが其を見て聊か信ずる事あり」と記している。
 これは大陸からわざわざ日本列島に不老不死の薬草を求めてやって来たというのだが、竹野郡網野町木津(橘)の伝承では、垂仁天皇の命をうけた田道間守が不老不死の霊果(橘)を求めて大陸にわたり、霊果を得て本土に着船したのが木津の港であったと伝えている。オホーツク海あたりから南下する寒流は、日本海中央部を通り、逆に沖縄辺で二分されたクロシホの暖流は日本列島にそい、沿岸を洗って北流する。これは昔も今もかわらない。徐福は暖流に乗って大陸から丹後半島の新井崎まで漂流したであろうし、浦島子や田道間守は日本海中央部を寒流にのって大陸に着いたであろう。次項のつぎにしるす弥一たちもやはり寒流に流されて漂流したのではなかろうか。…



『伊根町誌』に、
新井崎神社 新井小字松川(旧村社)
祭神 事代主神・宇迦之御魂神とされているが、元三宝荒神を祭り、現在地区の住民は徐福を祭るとしている。御神体は木像約三○センチ余の男神・女神(童男・童女)像である。
例祭 四月十五日
古くは陰暦九月二十日であったが、陰暦七月六日となり、昭和五年(一九三○)より陽暦四月十五日となる。昭和三十四年(一九五九)に伊根町の祭日は八月三日に統一され、昭和四十八年(一九七三)ふたたび四月十五日となり現在に至っている。
沿革 創建年代は一条天皇の関白藤原道兼の時代にあたる長徳四年(九九八)七月七日とされているが、記録としては文禄年間(一五九二〜一五九五)に建立された社を、寛文十一年(一六七一)四月再建に着手し、同年九月十六日に完成している。(棟札に祢宜野村仁兵衛、別当玉林寺、大工手間二三五人とある)その後石段をはじめ境内が整備され、現在の建物は昭和三十六年(一九六一)四月、本殿の修理と上屋が再建された。
  小狛犬  天保 七年(一八三六)八月 若連中奉納
  大石灯籠 天保十一年(一八四○)五月 大阪橘屋清三郎寄進
  石灯龍・狛犬 明治四十三年(一九一○)嵯峨根孫兵衛寄進
  大狛犬    明治四十五年(一九一二)大阪市大平安、嵯峨根孫兵衛、広島県佐々木市郎寄進
  新井崎神社碑 明治四十五年(一九一二)建立
神社の別当としては、代々玉林寺の住職が管掌していたが、明治以降神社法施行後は宇良神社の神官が兼掌している。

徐福伝説 紀元前二二一年、中国の統一に成功した秦王の「政(せい)」は、新たに皇帝の位をつくり始皇帝と名のり、成陽(かんよう・今の西安)に都した。この一世の英雄秦の始皇帝は方士徐福を召して不老不死の霊薬を求めることを命じた。当時神仙思想が流行し、仙丹に七返八還の法があって、この仙丹を服すると不老不死となることができるといわれ、権勢のある者はこの霊薬を求める者が多かった。仙丹は三神仙(渤海にある蓬莱・方丈・エイ州)に仙人が仙丹を練り、不死の薬を蓄えているといわれた。始皇帝はこの神山にいたことがあるという方士(神仙の術をよくする道士)徐福に、仙丹を求めることを命じたのである。伊根町字新井には古くから徐福信仰があり、地区住民は徐福を産土神として祭り、新井崎神社の祭神として崇拝している。
 伝承によると『七代孝霊天皇の時代に秦の始皇帝が不老長生の神薬を求め、方士徐福がこの地を易筮によって予知し漂着した。漂着した場所は新井崎のハコ岩で、長途の船旅と波浪によって疲れ果てて岩の上で休んでいると、時の澄の江の邑長(むらおさ)がいぶかって来意を聞いた。徐福は「始皇帝の欲している仙薬を求めて来たが、眼前にある仙薬は少なく、得られなければ秦の都威陽宮に帰ることは許されない」といってこの土地に住みついた。この地で徐福の求めた神薬とは「九節の菖蒲と黒茎の蓬」(からよもぎ)である。
 徐福はその後里人をよく導いたので、推されて邑長となり、里人の仰慕の的となって、死後産士神として奉祀されるに至った。』と伝えられている。「からよもぎ」は普通のよもぎ(綿蓬)と異なり、葉の裏にある白毛が少なく、草餅(よもぎ餅)にするため早春に蓬をつむとき、特に「からよもぎ」をえらんで若葉をつみとる。成長した葉は「もぐさ」にもなる。「からよもぎ」は当地方では新井崎海岸(のろせ海岸)に多く自生しているが、近年、道路の改修、土地基盤整備等により少なくなったが、現在なお自生している。
 「童男童女宮」(とうなんかじょぐう) 新井崎神社は徐福を祭り新井崎大明神とよんでいるが、縁起に童男・童女の渡来を「童男寡女」と記したことにより、住民は「とうなんかじょぐう」とよぶようになった。御神体が男女二神であるのは、徐福とともに渡来した童男・童女をあらわしている。
文献−新大明神口碑記
原夫丹之後州与佐郡澄江里新大明神者震旦奏始皇帝奉侍之童男女也実当(二)本人王第七代孝霊天皇御宇(一)焉蓋始皇帝好学(二)長生老之仙術(一)其方也朝服(二)金丹石髄(一)暮飲(二)酒瓊醤(一)以欲(レ)求(二)真人不死之神薬(一)九茎薬草九節菖蒲不老延齢薬餌也故勅(二)命童男寡女(一)而言曰域丹後奥郡澄江里與(二)龍宮城(一)同所而異名也汝等去此真人之霊薬可(二)尋得来(一)儻不(レ)然則勿(レ)帰焉童男寡女承(レ)勅而得々航(レ)海来著(二)岸干澄江(一)時澄江村長怪而且問云答以(二)上件事(一)矣頃間談(二)成陽宮等事(一)日先始皇帝都京也云々(下略)
   維時嘉永五(一八五二)龍次壬子孟夏日禺居
         澄江里金剛山下写焉氷子(花押)

祭礼
 宵宮には青年と若家主が中心となり、手丸提灯をもって参拝する。本祭は三柱神社(三宝荒神社)・新井崎神社・龍権さん・老人島(おびとじま)神社・愛宕社・恵比須社・本尊さん(玉林寺)・金比羅社に太刀振りと花踊りを奉納し、翌日(後宴)に宇良神社・秋葉社に祭礼を入れる。







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新井崎神社の祭礼

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