おまつの神事:冨留山神社 |
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頂きました「案内」に、 〈 富留山神社おまつ神事の御案内 (京都府指定民俗芸能文化財) おまつ神事は、寛仁年中(平安時代中頃)稲作の凶年がしきりに続いたので国史藤原経教卿が五穀豊穣の祈願所と定め、霜月15日に3本の御神火を神前にかかげ、豊凶を占ったことに始まります。 氏子役員三名が神職から御神火を授かり、神前に向かって右から早生(わせ)中生(なかて)晩生(おくて)の3本の大松明(おおたいまつ)に順次点火します。この大松明が次第に燃え上がる項、炎に魅せられると共に荘厳さと神秘さが社一体に漂います。 ある1本の大松明の炎が激しく揺れ動くとき、あたかも稲の開花期に向かって、台風の襲来を想わせます。 また他の大松明根元近くの縄巻き部に火が廻り、完全に燃えず崩れ落ちる様子は、稲の茎が病虫害に遭って倒れるのに似ております。 他に比べ順調な燃え方であったとき、決まって翌年の作付け品種に、高収穫が約束されるでしょう。 稲作作り百八十日の苦労と豊穣の願いを、僅か三十分程の神事に縮め炎への信仰がここに込やられています。 ほんのひと時、ごゆっくりとご覧くださいませ。 とき 平成20年11月16日(日)午前11時30分より ところ 富留山神社 ダイヤモンド会館前(JA志楽跡地) 小倉区氏子総代 小倉区長 〉 ↓ 場所はここ。国道27号線沿いの舞鶴市小倉、「志楽小学校」の向側の鎮守の森があるところです。高速で来られたなら、金剛院の少し手前右側。駐車場はないよう。 マツは松の木ではなく火の意味、ずいぶん古い言葉のようで、古語学者でも案外に知らないかも、手元の『古語辞典』をひくと「松」とは「松明」として、文献上の用例に『徒然草』をあげる。Xとは大Xなり、それではXがわからない。「おまつ神事」とは「火の神事」ということ。たぶんそんな古い言葉とともにこの神事も太古の時代から伝わるものと思われる。 またフルにしてもアラスにしてもシラクにしても、これらは日本語ではなかろうと思われる。誰もがまともには説明できなくなった古い外来語、渡来語、古朝鮮語で、文献以前、歴史以前の少なくとも古墳時代、あるいは弥生の昔からのものと見てかかるべきと思う。化石のように貴重な名が残されていて、それらの古語を冠する以上は、この周辺の歴史・民俗の古さも相当なもののはず。 この神事が農業と関係するもののように考えられているが、はたして本当にそうかは不明。フルには火の意味もある、ここではそれではなかろうかと思われる、フル宮とは火の宮であろう、火の神様を祀るのではなかろうか。祭神は午頭天王、それならここの火は鍛冶屋の関係が濃厚と思われる。三つの火で占うというのも何か製鉄風のような。この神事は元はあるいは鍛冶屋の年占だったかも−。阿良須神社には「たたら踊り」も奉納されるという。 顕宗紀に「 書紀は荒樔田に葛野坐月読神社を祀ったという記事であるが、この壱岐の月神が金属と関係深いようなのである。歌荒樔田は志楽一宮あたりの歴史にもピッタリと合いそうに思うのである。 ↓タネ火は神社のお灯明の蝋燭の火、それを麻殻へと渡すのだが、麻殻は燃えそうで燃えず容易なことでは点火できない、これに時間がかかる。麻殻は揚松明の麻殻と同じ、スーパーで売られているものと同じもののように思う、ここで栽培されたものではない。麻殻は大麻取締法で栽培できなくなり、一時はこの神事用の材料が入手できず、中断やむなきに至っていた。大麻といっても麻薬作用があるのはインド産の特別な種類だけであって、古来からこの地で栽培されていたものには当てはまるものではなかろう。大麻栽培と言えば大犯罪のように言われるが、それはごくごく最近の戦後の話であって、どこかの大国の属国になってからのことという、属国から真の独立がなった時にはもう一度見直すべきものかも知れない。大麻がなければ、先祖は着る物がなかった、先祖は木綿以前は大麻、木綿と書くがユウと読む、それを着ていた、今でも夏でも涼しげな麻の洋服があるがそれであって、そんな超貴重な植物で、日本の至る所で栽培されていたものであった。伊勢神宮の御札には今も「大麻」と書かれていて、年末になれば町内会から斡旋の案内が回ってくる、近くの神社の御札も「大麻」と書かれている、オイオイこんなものを斡旋したりしたら犯罪だぞ、とドギッとしたりするが、こうしたものは今は紙製だが、以前は大麻(麻殻)だったのだろう、そうして御守に御祓に、各地の神事や仏事にも大麻が用いられていた名残りと思われ、大麻はそれくらい一般人にも親しいものであった。 ! (過去の話をしているのであって、当麻栽培を勧めたりしているのではありません。今は大犯罪です、所持・使用はもちろん栽培も決してしてはいけません。百科辞典には、 「タイマの穂や葉などには幻覚物質が含まれているが、品種によって含有量が異なり、日本の栽培品種にはほとんど含まれていないといわれる。しかし、タイマの栽培は麻薬使用防止のために免許制とされ、一般人の栽培は禁止されている。現在は、繊維用として栃木県などで栽培されている。」 [大麻取締法] 大麻(大麻草およびその製品)の乱用による保健衛生上の危害を防止するため、その取扱いを規制した法律(1948公布)。大麻の取扱いを繊維、種子の採取および学術研究の目的に限定し、〈大麻取扱者〉(大麻栽培者および大麻研究者)を都道府県知事の免許制にして大麻の不正取引、不正使用等を取り締まっている。本法により、大麻取扱者以外の者による大麻の所持・栽培・譲受・譲渡など、大麻取扱者などによる大麻の目的外使用、および大麻研究者が厚生大臣の許可を受けた場合以外の大麻の輸出入、大麻から製造された医薬品の施用、施用のための交付、施用を受ける行為などは禁止され、違反は処罰される。とあります。) ↓松明の麻殻の上には細かなカナン屑のような、麻殻よりも燃えやすい木屑が乗せてあるのだが、それでもなかなか燃えてくれない… ↑ 冨留山神社本殿正面の石垣には、この神事専用と思われる、石の板が三枚付けられていて、少しせり出している。この石垣と同時に組まれていたと思われ、石垣ができた頃にはすでにあったメーン神事だったのだろう。 下手に見えるのは阿良須神社の本殿(右)と拝殿(左)。今は冨留山神社(富留山・布留山・フル山いろいろ書かれる)が端に押しやられているように見えるが、一段高い場所にあることからもわかるように、元々この地は冨留山神社の鎮座地であったという。神社にも栄華盛衰、浮沈がある。阿良須神社は小倉、吉坂、安岡、田中、鹿原の総氏神で志楽一宮、今でも単に「一宮」と呼ばれ、式内社説もある。私が初めての小学校の遠足でやってきたのはここ「一宮」さんだった。オヤジが「どこやろな一宮って、一宮なんかいっぱいあるぞ」と言っていた、行き先は単に「一の宮さん」だけではわからない、ここなら志楽一の宮とでも書くべきとガッコのセンセも知らなかったのだろう、今はそんなことはないが、あの頃はヤブ蚊が多い所だったと今だに記憶にある。一方冨留山神社は小倉だけの氏神。 ↑ 松明は勢いよくメラメラ燃えて、かなりの熱量で熱い。後に立つ氏子総代がジリジリ後退するのはそのため。 ↓昭和8年には4700もの人々が見学に集まったというが、今はその何十分の1程度か。農業を棄て、伝統文化を棄て、地域を棄て、何もかもを棄て、さてこれから何をしたらいいのかも棄て、過去と同時に未来も棄てたた国だから仕方もないか。とんでもないハネカエリがなければよいのだが、平成9年、京都府指定民俗芸能文化財の指定を受けている。 占いの結果は誰が判定するということもないようで、各自で好きなように…ということのようでした。 ↓ 動画 (参考資料) 『舞鶴市史』 〈 お松の神事 志楽地区あ阿良須神社域内の富(布)留山社で陰暦の十一月十五日仁行われてりる「お松の神事」(写真76)は従前かる豊凶を占う火祭り神事として近郷に知られている。 この日、各字の氏子総代は威儀を正し、麻毅で作ったすり鉢形の大松明三本を二メートルほどの竿先につけて立て、これを早生、中生、晩生に見立てて神火をつける。その燃え方で翌年の豊凶を知る神事である。 〉 『舞鶴地方史研究』(1997.5) 〈 舞Iの三つの火祭り 加藤晃 … 〉 〈 お松神事 三つ目の火祭りは、志楽地区小倉の布留山神社で催されるお松神事(京都府登録無形民俗文化財)である。同様の祭りは、高野地区女布の金峯神社の后士さん・同地区域屋の祇園牛頭天王社のお松明・福井県高浜町岩神の新宮神社のお松がある。 例祭日は小倉が旧暦の一一月一五日(現在は一一月の第二日曜日)。女布が同じで、城屋は一二月一四日、岩神は同一五日、おそらく月遅れだろう。 祭事は、三本の松明を作り、向かって右から早稲・中稲・晩稲の順に並べ、早稲から火をつけ、その燃え具合「炎の上がり具合・風の強弱・下の灰の積もり具合(城屋)」によって、翌年の稲のでき具合、「台風・病虫害などの豊凶(岩神)」を占う。民俗行事に多い年占の一種である。 判定者は崇敬者たち自身である。かつての盛時には、実際に燃え具合によって植え付け時期を決め、相場が動いたという。 松明は高さ一米、幅一米、太り苧殻一六本を外側に輪状に並べ、中を細い苧殻で埋める。その量は三本とも同じ。柄は二・四五米の槍 (または杉)材で、途中を三年生の真竹四回巻きの輪でとめる。竹輪の内径は早稲三六糎・中稲三九糎・晩稲四二糎と定められている。着火のタイムラグを調節するためである。他の三ヶ所は松明が同じ大きさで、同時着火。 松明の規模は小倉が最大で二・五米、岩神は一米、高野地区のものはもっと小さい。 四ヶ所のお松神事は、さまざまに異なる内容を含んでいるが、共通するのは、 @祭礼日が旧暦の一一月一五日であること。 A早稲・中稲・晩稲と三つの松明を燃やし、燃か方により翌年の稲の豊凶を占うこと。 B牛頭天王社−素盞嗚尊を祀ること。 この三点である。 それでは、近郷近在から多くの人(昭和八年 四七〇〇人)を集め、盛大に行われる火祭りお松神事の起源と意義は何だろうか。 布留山神社は、前述祖『丹後国内神名帳』に記載された、正二位布留明神仁比定することができる。近隣の松尾明神と同じ神階であり、正三位の太社・波多・加和良・志東・木津よりも二階級上であった。今でこそ後に同境内に転入してきた阿良須神社=太社明神の末社に甘んじているが、かつては阿良須神社より神階が高かったと考えられる。 『丹後国内神名帳』の成立は、称名に「板列山上」「八幡」とあり、この岩滝の男山八幡宮が保元三年(一一五八)一二月三日には存在していたので、おおむねそれ以後のことであり、したがって、布留山神社の成立も、平安時代末までさかのぼり得ることになる。 さらに「布留」という神名に注目すれば、物部氏の氏神石上神宮の斎神「布留御魂剣」と同しであり、古代における物部氏とのつながりをうかがわせる。そうあれば、布留山神社の創祀時期は、奈良時代またはそれ以前も考慮に入れるべきこととなる。 社誌にお松神事の起源は、寛仁年中(一〇一七〜)にさかのぼるとあるが、その典拠が擬書であるから従えない。 布留山神社とお松神事の創始時期については、明らかにできないが、少なくとも苧殻を豊富に使うことができた時期、すなわち「木綿以前」であることは確かだろう。 ところで、祭日の意義についてはどのように考えたらよいのだろうか。 一一月は霜月神楽・アエノコト・新嘗祭など霜月祭りが行われるが、それらは稲の穀霊のよみがえりを祝い、五穀豊穣を予祝する。なぜならそれは冬至で始まる月だからである。 万物枯れ終り、一陽来復するのが冬至である。簡明なので原始の時代の一年の区切りにされたとも言われ、古代中国の暦の起点は冬至である。したがって、冬至は本来必ず旧暦一一月一日であり、旧暦一一月は「正月」である。 ところが一五日という日取りについて考えるとき、太古の行事の日取りを、後に作られた不完全な暦を通じて考えるという問題にぶつかり、ひたすらな混乱に陥る。したがって日取りにこだわり過ぎないで、行事内容と日取りの両面から見ることにしよう。 先に一一月の意義については、中国の陰陽五行説に基づく暦作成原理で説明したが、それによる元日は本来冬至であり、新年と同じく祝った。しかし冬至は月の運行にかかわらないから、旧暦での日取りは動く。一方柳田国男が説き続けたように、満月に相当する一五日は「重い境目」であった。 ごく大ざっぱに言えば、一一月一五日は元日にあたると考えられる。そうであれば、一一月一五日は穀霊のよみがえる日であり、お松の神事は新しい穀霊に新年の収穫の多寡をうかがう行事と考えられる。一一月一五日を中心に祝う七五三や氏子入りなどの民俗行事も、新年の元日なればこそ意義を有する。 また同日小倉の各家庭ではケンチン汁を作って祝う。ケンチャン祭りとも言う。女布では甘酒講があった。これは油祝い・女の神事とよばれる民俗行事である。意義・関連は不明とされているが、原義は新年を迎える物忌みと解されよう。物忌みにおいて男は家を出、女は寵るものであったものが、さまざまに変容したのであろう。 つぎに牛頭天王とのかかわりだが、中国発祥の牛頭天王が、祇園信仰と習合して素盞嗚尊として権現し、陰陽道に取り入れられ、御霊信仰とも結びついて疫病・病虫害除けに効験があると信じられてきた。農村では虫送り・疫神送りの松明行事に定着した。 しかしながら、豊饒国の国王である牛頭天王は本来豊饒と繁栄をもたらす神であった。 したがって、お松神事の始まりは、もともと天王信仰にもとずく呪具である松明が、豊饒を司る牛頭天王信仰と結びつけられて、年初にあたり、松明の燃え具合に神意をうかがう行事になったのではないだろうか。そこに修験者の介在を見ることは困難ではない。 「マツ」は古代において火そのものをも指し、沖縄では今も火を表す「オマツ」という言葉が使われているという。「お松神事」とは御神火神事を言い表わしているのだろう。 本稿は、私自身の年来の疑問を解くことから出発した序説に過ぎない。また機会を得て幽明の彼方に今少しくっきりした像を結びたいと思う。本稿をなすにあたって、瀬戸美秋先生はじめ井之本泰・伊藤太・坂根勲・行永清温の各氏にご教示戴き、千原文子さんをはじめ市立舞鶴西図書館のスタッフの皆さんに お世話になった。深く感謝いたします。 〉 『舞Iの民話4』 〈 おまつの神事 (小倉) 志楽の山々が紅いに、黄にと美しく色どられた。私の家の郵便箱に一枚の紙きれが入っていた。「おまつ」神事のご案内である。志楽小学校の少し東へ行った阿良須神社の本殿の西にある小社の布留山神社の神事だ。長い間この神事はなかったのだ。十一月十二日、私は何か小学校の遠足のとき胸がどきどきして眠れず、朝早く起きたときと同じような気持だ。 志楽谷には、青葉山(六九九メートル)から発する志楽川が流れ、鹿原川の水を合せて舞鶴湾に注ぐ谷ぞいに、丹後と若狭を結ぶ若狭街道が通る。舞鶴市域内でも古代から最も開けた地域の一つで、古代は志楽郷、中世は志楽荘春日部村の地、西大寺領春日部村、暦応四年(一三四一年)十月四日付足利尊氏寄進状(西大寺文書)によって知られる。 丹後国田数帳には 志楽荘 二百町九段百八十歩内 九十四町三段三百四十六歩 西大寺 四十二町五十歩 三宝院 春日村公文方伊賀次郎左衛門、河部村安国寺、延永左京亮、国貞名安国寺……とあり、志楽荘の春日部村の実態は、舞鶴市梅垣忠氏所蔵の梅垣西浦文書によって、かなり明らかにすることができる。承久元年九月の田畠寄進状案で、親門等二十二名の名主らが「包正名田百十歩」などを無縁霊所西願寺に寄進したものである。連署者の中に、志楽荘の名主名がみえる。西願寺がどのような寺院であったか不詳であるが、精神的在地寺院の一つだった。 現小倉の阿良須神社(春日部村、志楽荘一の宮)には中世文書一○余通所蔵される。最も古いものは、観応元年の政所尭基による春日部村大森宮晦日調田一段の宛行状であるが、その外宮庭関係の貴重な史科がある。 私は自転車を走らせ阿良須神社に着いた。下に自転車をおき、石段を上がった。もう沢山の氏子がいる。カメラをさげた人もいる。「教頭先生もよくきたな」とみんな歓迎してくれる。丁度氏子代表の三人の人が神殿の前に立っておられる。神殿の前には、右から早生、中生、晩生の三本の大松明かある。 神職から十二時にご神火を受け、それぞれ大松明に点火します。パチパチと燃えあがる。だんだん炎は大きくなる。氏子たちは杉やひのきの大木のかげからじっと見つめる。大松明はもえる。荘厳と神秘が社の中をつつむ。この神事がいつからおこったか祥らかでないが、寛仁年中(十一世紀はじめ)凶年が続いたので、国司篠原経敢卿が五穀豊穣の祈願所として布留山神社を定め、霜月十五日に三ケの御神火を神前にかかげ、翌年の豊凶を占ったことに始まると古老は語る。 大松明はもえる。バリバリ、氏子代表はじっと両手をあわせて祈る。 ある一本の大松明の炎が激しくゆれ動くとき、稲の開花期に向かって台風の襲来を思わせる。他の大松明の根元近くのなわまき部に火がまわりおちる様子は、あたかも稲茎が病虫害にあって倒れ伏すようだ。順調な燃え方があるときは、決って翌年の作付け品種に、高収穫が約束される。稲作り百八十日の、苦労と豊作の願いがこの三十分あまりの神事に炎への祈りとなってこめられる。 三本の大松明は順調にもえている。子供は何か分からないが、母親の手をじっと握っている。燃え上がる松明がくずれていく度に氏子から拍手があがる。私もカメラをむけ豊作を祈りながら写す。神事は長いようで短かかった。三本の松明が燃え落ちた。みんなほっとしたようだ。今年は外米輸入の外交問題が新聞紙上をにぎわしているが、日本はやはり米の豊凶が大切である。あの三本の松明のもえぐあいから、志楽荘の田は豊かな黄金の稲の穂が、秋風にゆれるだろうことは間違いないだろう。 〉 『舞鶴市民新聞』(h1、11、14) 〈 松明の火に豊作祈る*布留山神社で「おまつ」神事* 〉 〈 大松明(たいまつ)を燃やして、来年の稲作の出来を占う伝統の「おまつ」神事が十二日、市内小倉の布留山神社で行われ、燃えさかる大松明に氏子たちが来年の豊作を祈願した。この神事は社殿前に「早生」「中生」「晩生」の三本の大松明を立てて神火を点火、その燃え具合で、翌年の豊作の品種を占う。おお松明は高さ約二・五bの柄に、直径一bのすり鉢状に束ねた麻殻(おがら)をのせたもの。十一世紀のはじめ、国司だった藤原経教が同神社を五穀豊穣の祈願所に定め、神火を捧げたのが始まりとされている。地区の恒例行事として毎年行われていたこの神事も、大松明の材料の大麻が法律による取り締まりの対象のため、一時中断していたが、三年前に十四年ぶりに再開された。この日は、午前十一時半に神事がスタート。森本太郎夫宮司から氏子代表に手渡された神火は、大松明の上でごうごうたる炎となり、天を焦がす勢い。境内では大勢の氏子がこの神事を見守ったが、炎の勢いの良さに「来年もきっと豊作」と表情がほころんでいた。 〉 『京都新聞h7、11、10』 〈 伝統継承への熱意*12日に祭り大たいまつ完成*「おまつ神事」復活10年*舞鶴布留山神社* 〉 〈 舞鶴の伝統的な祭りとして知られる布留山神社(同市小倉、森本太郎夫宮司)の「おまつ神事復活して十年目を迎え、十二日に行われる。三本の大たいまつを燃やし、米の豊凶を占うが、地元の人たちは「貴重な古来の形を継承していきたい」と、保存への気持ちを新たにしている。この祭りは、平安時代中期に始まったという。麻殻(おがら)を束ねた大たいまつ三本を稲の早生(わせ)中生(なかて)晩生(おくて)に見立てて神社境内で燃やし、その様子で占う。大たいまつの材料となる大麻が、大麻取締法の強化で手に入りにくくなり「別の材料で伝統を崩すよりは」と、昭和四十八年からいったん中止した。その後、栃木県から購入できることになり、同六十一年に復活した。今年も、長老の指導で地区の十六人が大たいまつ作りに取り組み、九日までに完成した。十二日は、午前十一時半から神事、正午ごろ点火する。小倉区の小嶌一之区長(50)は「都市化が進む中で、伝統行事を通した地域の触れ合いを大切にしていきたい」といい、祭りの保存に携わる行永清温さん(69)も「米づくりはやはり農村の基本です。その意味で、災への信仰が受け継がれてきました」と、今年の無事開催を祈っている。 〉 城屋の「お松明」神事 冨留山神社 |
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