才ノ神の藤 '12 (福知山市大江町南有路) |
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福知山市に含まれるが、元の大江町南有路の古地谷へ入って下さい。枯木峠の一つ川下側(北側)です。 「大雲橋」からだと、↓ 動画のように進んで下さい。藤まつりの時期だと道案内板やノボリが所々に出ています。トイレ、駐車場あり。 花の咲く時期や咲き具合は年により多少ちがいます。だいたいは5月の第二日曜くらいが見頃です。
フジが有名で、「才ノ神」は忘れられがちのよう、これが「才ノ神」のホコラ↓ もっとボロッチかったが、新しくなったよう… 案内によると、 〈 天然記念物「才ノ神の藤」 「才ノ神の藤」の祭神は八衢比古命・八衢比売命・久名戸神です。伝えによると、大十代崇神天皇の時、四道将軍丹波道主命が当地を巡視されたとき、蟻が群がっているのをご覧になり、「近くに人里があるに違いない」とお供の者に村里の在りかを探させました。道のほとりの大木の根元に石を拝む老人がいるのを見て、不思議に思った供人が「どのような神様ですか」と問うと、老人は「才ノ神」と答えました。供人がこのことを命に申し上げたところ、命は驚いて「恐れ多い」とすぐにかけつけて拝まれました。これよりこの地を蟻道(有路の地名の語源)の里と呼び、この神をまつって「才ノ神」とあがめるようになりました。 それ以来「才ノ神」は英知の神様として、何事によらず祈願すれば叶えられ、道を問えば行方を示され、道理を伺えば筋道を明らかにされる。常に深く崇敬しておれば、思い切って行っても失敗する事がないという。更に旅行航海の守護神・月経の神・婦人病・安産の神・子孫繁栄の神として有名です。神木は優に二千年を経た欅で回り約八・五メートルの巨木。その昔落雷にあったこともありますが、樹勢なお衰えることなく四方八方に枝を張っています。 これらからまる藤もまた神木と同じ樹齢で、根元周り二抱え余りもあり、これを降り取る者は必ず腹痛の神罰を受けたといいます。このため恐れて誰も手をふれなかったので、藤は東西約三二米、南北約二七米にまで広がり、五月中旬の花時には紫の房を垂れて咲き誇っています。(才ノ神の藤祭は五月中旬) 昭和八年五月十八日(1933)我が国植物界の権威三好学博士(東京大学名誉教授)が視察して「天下第一」の折り紙を付けられ、同九年五月一日文部省天然記念物として指定されました。 しかしその後、地方的であるとして、昭和三一年天然記念物の指定を外されましたが、昭和四八年町に文化財保護条例が制定されると同時に町指定に、昭和五八年には京都府の天然記念物に指定された。 〉 才ノ神とは才能の神ではなく、 そのご神木、ケヤキとフジ ↓ 塞の神(道祖神)の神木は、だいたいはケヤキではなくエノキが多いという、エノキ峠が多いのはそのためのよう。 樹齢二千年を越え、直径3メートル近くもあった御神木の大ケヤキ、もうその巨木の姿はほとんどなく、わずかな痕跡のカケラくらいしか残していない、少し白っぽく見えるのがケヤキだが、これは水平に伸びていて、枝なのか、幹の部分はほとんど朽ちているよう、これから往事を想像できる人はゼッタイに天才級。 そのケヤキにからまり同樹齢の二抱えもあったという巨大フジの6本も、からまりからまりしていて、何が何だかわかりにくい、今は2本しかないよう。 もとはこんな程度のものではなかったのだ、これではここの本来の自然のもつすごさとありがたみが理解しにくい、ここのヤマフジは全国屈指のもの、そんなにあるものではない、それはわれらの想定を大きく超えた超スゴーイものだったよう、頼む、拝む、ぜひとも、才之神の藤の往事の復元図を作っておいてくれぇ、バカでもよ〜くわかるようなイラストを掲げておいてくれぇ、管理者様ぁ。
才之神の藤はあいにくにも花は今年はよくなかった。花がたいへんに少なく、小さく、モジャモジャとしていて、勢いがない、調子がよくない様子。ここのフジだけでなく、山に咲く、まったく自生のヤマフジも同じようにアウト。「今年は見ませんな」などと言われている。桐の花とよく似ていて、間違えるのだが、その桐の花も見ない。異常気象のせいかも… ヤマフジはカピタンフジとも呼ばれ左巻きで、山野に自生する。花の色は写真のように藤色と呼ばれる。(「左巻き」と言うのは、タオルを左向きに絞った様子) ワルイ花では申し訳ない、これは↑フツーの年(2016) フジといってもいろいろ、↓ これはノダフジ(野田藤)というのだそうで右巻き、日本固有種とか、園芸用として藤棚などによく植えられている。途中の民家の藤棚に見事に垂れ下がっていた。「あそこのフジとは違う品種です、あそこのはヤマフジ、あそこのは咲いてなかったでしょう、今年はダメで、ここらの山のフジはみなダメです。これは特に長く八尺フジといいます。一番長くなるフジです」とのこと、この品種は問題なしに咲いている。八尺はどうか知らないが2メートル近く垂れ下がるものもあるという。 途中の曹洞宗普門寺の藤棚の白藤 ↓ 「伝説によりますと、白藤を観賞すると不死身になるといわれています」と案内がある(サブー)。よく咲いていて、ここも問題なし。大きなクマバチが一杯いてミツ集めをしている。↓ ちょっと面白いフジの民俗学。 藤づるの繊維から作った藤布は原料が自給できるうえにきわめてじょうぶであったため山村では長い間愛用されてきた。藤織りは宮津市上世屋のあたりでは今に伝わり、「藤織り講習会」などが開かれている。 古事記に、春山之霞壮夫のために母親が一夜のうちに藤損で衣服や弓矢を作ったことが見え、万葉集では「荒妙(あらたえ)の藤」と詠まれて織目の粗い布を意味した。そうした古〜い長〜い歴史を持っている。 花はその垂れ下がる形から稲穂を連想させて、豊作を予兆する神聖な木ともされたという。農作業の始まる卯月八日に天道花といってツツジやヤマブキの花とともにフジの花を山から採ってきてさおの先につけて、庭先に立てる風習は広くあり、29番札所の松尾寺の卯月八日の仏舞いの日は、天道花と称して民間では、この日屋敷内にフジ、シキビ、ツツジ、シキダラ、フウキンの花束を長い竹棒に結びつけて立てる行事があると記録にはある(私は探したのだが、見つけられなかった)。これはメイ・ポールだ、世界樹だという学者もある。そうだろうと私も考える、フジは世界を更新するよう。藤と関わり深そうなものは世界を更新するよう努力が求められているような、何やら責任を負っているのかも… この日は花折節供ともよばれるように、山から農作の神を迎える日であり、庭先に立てる花は神を招く依代であったという。フジの花は自然暦として農作業や漁期の目安とされ、古く勧農鳥とされたホトトギスがきて鳴く木でもあった。 またフジはヘビに似ており、不時に通ずるとして屋敷に植えるのは忌まれたという。「朝藤夕縄」といって、朝に藤をもやすのを忌む風もみられるという。
花が見頃になると、地元自治会によって「藤まつり」が開催される。古くからあったようだが、花のない今年も結構盛り上がっていた様子。出し物はいろいろ。御守などもありますが、こんなのもいかが… フジ色の花と美しさを競おうかという、ミス藤娘コンテストは、ザ〜ンネンに、それはありませんでした。彼女などピタリ?ちょっと、ちいさい、美女と年齢はまああまり関係がないか? ↑ この頃の子は、スモウというのは普段あまりとって遊ばないのか、スモウのカッコウになってないように見えるのだが、奉納相撲らしく、このとりかたでは何かチトあぶないような、中学校義務化は柔道より相撲が先なのでは… 何の花か、すこしシモの田に植えられて、絨毯のように見える。 見ればほかにも道端のあちこちに野花が咲いている。花の季節を迎えている。ブンメイにダラクしてしまった者には、何か魂がリセットされるような気持ちになってくる。 大きな藤棚の下にいると、すべてを忘れ心が安らぎます。目をとじると人間を超越した大自然の営みと、躍動する藤の鼓動が聞こえてきます。どうかそんな自然のすばらしさを感じとって下さい。 本当にそうかも知れない。たまには自然に戻るのは義務かも知れない。
『原日本考』 〈 塞神・道祖神 石を尊重の風 サイ(塞)の神、即ち後世称して道租神といふ神は、わが国内に最も広く行きわたって祭られる神で、場所は町や村のはづれ、道路上の境、辻、分岐点等で、神の表示は一般に石であって、この爲め石神、石塔の渦もある事は、読者諸氏に於ても充分御承知の通りである。この石に、「塞神」、「道祖神」と文字を彫りつけ、転じて韓「幸神」、「衢神」とし、神として名称を明かにしては「猿田彦命」、陰陽道や仏道に付会しては「庚申塚」、「青面金剛」、「弘法大師」、「馬頭観音」等の名を刻み、その像を彫り、日月の図様をしるす。 その信仰の内容は道路の安全悪疫の流入防止等で、この神は前述の如き路傍に祀られて、旅行者、通行者を保護し、また村や町の外部から流行病の入って来るのを防止する力があるとせられる。一方ではまた此の境を守って、内部一般の居住者の爲めに、農産物の多産、子孫繁栄の精力授与の信仰がある。神の表示物であるその石に、どうしてさういふ霊力があるのかは問題だが、兎に角子供に恵まれぬ婦人等が、出産を祈って別に小石等を用意し、神前に石を供へる風習がある。… 〉 『大江町誌』 〈 才ノ神の藤と欅 マメ科・ニレ科 南有路古地(ふるぢ)の奥、綾部市西方町に通じる古地峠のはじまるところに藤のからまった巨大な欅がある。その根元は空洞化がはなはだしいので周囲の測定は困難であるが約七九○センチメートルである。古くからこの空洞に才ノ神を祀ってきた。 欅はたび重なる落雷のため梢が折れたが、樹勢はおとろえることなく四方八方に枝を張ったので、これが自然の藤棚となった。欅にからまる藤は大小六株であるが最も太いものは周囲一八○センチメートルに達し、藤のひろがりは道路を越えて山に達し約四五○平方メートルにも及んでいる。花期は他の藤より少しおくれて五月中旬過ぎに開花するが、花穂は長く美しい。花が咲き揃うころ毎年藤祭りが行われる。 地域では、欅・藤共に才ノ神の神木としてあがめ、これを手折る者は必ず腹痛をおこすと言い伝えてきた。 昭和九年五月一日、才ノ神の藤は文部省天然記念物の指定を受けた。以後有路保勝会なども発足して、この藤はいよいよ大切にされたが、昭和三十一年一月二十三日指定解除となった。昭和四十八年九月二十七日、大江町は第二類史蹟名勝天然記念物に指定してこの名藤の保存に努めることとした。自然の藤棚であった欅も、その後風水害などの影響を受けてほとんどの枝が失われ、近年樹勢がとみに衰え藤棚の用をなさなくなってきたので、昭和五十一年二月鉄骨製の藤棚を設置して現在に至っている。 藤の宮さんのまつり 五月には有路の藤の宮さんのまつりがある。この藤はかつて(昭和九年五月一日付)天然記念物として文部大臣の指定をうけていた名藤であるが、この藤を「才の神の藤」とよんでいる。 この「才の神」が「塞の神」であることはまちがいない。「塞の神」は一般には「道祖神」といわれるもので、その名のごとく防障、防塞の神であり外から襲いくる疫病や悪霊を村境や峠、辻などで防ぐ神であり、さらに行路の神、旅の神である道祖の信仰と結びついた。この神は、村人の運命を知り、縁を結び、子供と親しい神とされる。 〉 フジと丹後の伝説 花を見ればわかるように、フジはエンドウ豆の親分みたいなもの。実はソラマメである。 この実は焼いて食べられるそうである。 そうしたことで「磯砂山の羽衣伝説のサンネモ」や「ジャックと豆の木」を思い浮かべる。 『丹後の民話』第二集に、 〈 …天女は、これさえあれば天に帰れる、と喜んで「もしわたしに会いたいなら、千荷の堆肥の上にこの種を播き、蔓が伸びたら、それを伝って来てほしい」と書き置きをして、羽衣を着て天に帰っていった。 仕事から帰ってきた三ネモは、天女だったらなおのこと別れてなるものか、と、村人たちに頼んで千荷の堆肥を積み重ね、天女が残した種を播いた。すると、ほどなく芽が出て伸びてゆき、雲よりも高くなった。そこで、三ネモがその蔓を何日も何日も上って行くと、とうとう天上に着き、天人たちに迎えられた。彼は、「瓜畑の番をしてほしい。しかし、いくら瓜が赤くなっても食べてはいけない」と言われ、毎日瓜の番をしていた。すると、たくさんの瓜があまりにおいしそうに成っているので、彼がとって食べていたら、にわかに大洪水が起こって流されてしまった。それを見て、天女は「七日、七日に会おう」と叫んだが、悪魔が「七月七日に会おう」と取り次いだ。 それ以来、天女は、年に一度、七月七日の夜に三ネモと会うことになった。また、三ネモの流された川は、天の川として、今も天に残っている。大呂の家には、残された子供の子孫が今も続いている。 〉 丹後古代伝説では、「真名井の水」と並んで「フジの花」が重要な要素となってきた。天羽衣=豊受大神と関わる花で、フジは丹後を代表する花である。京都賀茂祭=葵祭ではフタバアオイの花を冠に刺して飾るが、丹後一宮の春例大祭は葵祭とも呼ぶが、「フジ祭」とも呼ばれて、フジの花を冠に刺す風習がある。 |
資料編の索引
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