今福の蛇綱(京都府宮津市今福) |
お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから探索してください。超強力サーチエンジンをお試し下さい。 蛇綱行事は、宮津市内にはいくつかの集落で同じような伝統行事(舞鶴では「えんとん引き」などと呼ばれる)が行われてきたそうであるが、もっとも有名なのが今福集落のもの。 今福はイマフクとかイマブクとか呼ぶようである。市街地の南部、天橋立からだと真南へ5キロばかりの上宮津と呼ばれる大江山山麓、大江山を越える昔の京街道筋にある小さな集落。写真のようにKTR宮福線の喜多駅のある集落である。また京都縦貫道が村中東側を通っている。集落の背後は東に赤岩山、少し南に杉山(与謝大山)、普甲山を負っている。これらの裏山の尾根を越えれば舞鶴市になる。古くは道も通じていたというが今はないという。 毎年一月の十九日の午前十時くらいから蛇綱行事が行われる。蛇綱そのものは前日に「公民館」横作業場でこの地の老人会(福寿会)の手で製作される。 今年(2008)のこの日は、曇り空、少し雪交じりの小雨がちらつく空模様であった。気温は0度。道端には昨日来の雪がわずかに残っていた。 最初は報道陣のビデオカメラが数台と記者たち数名、それにアマチュアカメラマンが数人来ていた程度であった。 数年前の台風23号で大きな被害を受けた集落である。上流に名勝「今福の滝」を持つこの今福川が氾濫したのだが、今はご覧のようになっている。「上流の石を使ってます」とのことであったが、花崗岩である。宮津石と呼ばれるものである。 そうすると今福のフクは「吹く」のことと思われる。「今」はnowの意味ではなくnewの意味である。「新吹く」の意味になり、「古吹く」とか「元吹く」とでも呼ばれたかも知れない「吹く」村がこの奥にあったのではないのかと思われる。もしそうなら式内社の所在不明の布甲神社との関係で興味が湧いてくる。 玖賀耳御笠が逃れたと伝わる与謝大山(杉山)の西麓。吹くやカゴでないのがおかしいような地で、弥生時代からの遺跡もある、銅鏃も出土している。蛇綱もあるいはそんな古くから伝わる行事なのかも知れない。 『宮津市史』は、次のように書いている。 〈 今福のジャヅナ(蛇綱)行事 今福地区は、宮津市街地から南に延びる京街道筋の東に位置する。この地の行事の起こりは、江戸時代に悪病が流行した際、悪病を追い払うために藁製の大蛇を作り、村の入り口に掲げたのがはじまりと古老は伝えている。 かつてジャヅナ行事は青年会の行事であったが、第二次世界大戦中青壮年が出征したため途絶え、昭和五十五年(一九八〇)に老人会の手によって復活された。 一月十八日(午後)と十九日(午前)にジャヅナをつくる。今福公民館作業場に各自が藁を持ち寄り、制作に取りかかる。ジャヅナの頭である上あごと下あごは、一握りの藁を継ぎ足しながら約二メートルの長さにして、それを井桁に組んでナベトリ(鍋つかみ)の要領で作る。舌や耳そして子のジャヅナも同様に作る。 次に胴体は、二握りの藁束三つを左撚りにないながら、藁束を根元に足しつつなっていく。ない終えたところから、縄で元に戻らないよう等間隔に縛っていく。胴の直径二〇センチ。ジャヅナの頭から長さ五メートルまでなっていき、尻尾に向かって徐々に細くし、最後に切りそろえて扇状にひろげる。ジャヅナの全長は約五・五メートルとなる。 ジャヅナの飾りは、輪切りにした桐の木に銀紙を貼り、印を入れて日と鼻にする。またハゼの木の枝を角として突き刺し、そして、御幣を取り付ける。このジャヅナの尻尾に一・七メートルの子ジャヅナと、カゴ(楮)の木で作った剣を取り付けると完成する。 完成したジャヅナは老人たちが担ぎ、法螺貝を先頭に家々をまわり、人びとの頭を噛んでまわる。噛んでもらぅと一年間「無病息災」で暮らせると言われている。まわり終えると、村の入り口にある氏神荒木神社境内のイチョウの木に掛けて、行事は終わる。以前は村の入り口に立っていた柿の木に掲げた。 〉 さあ行こか−。と、10時に公民館を出発する。 蛇綱の長さは、これくらいのもの。工業製品ではないので特に規格があって±何pとかに決まっているわけでもない。 今年は「去年よりも長いな」「ツノは小さいかな」ということである。 ボッボッボーと法螺貝を吹きながら、今福の全戸36軒(空屋の含む)を残さず、頭を噛みつきに行く。 昔(戦前)は、この行事は青年団の仕事だったそうであるが、若者が減ったため途絶えた。いつから伝わるとも確かにはわからぬ古い伝統を潰したのは戦争のためであった。戦争は文化と郷土の敵だということを教えてくれる。昭和55年に老人会が復活させたものという。「今福蛇綱保存会」を作って続けておられる。 噛んでもらうと「無病息災」と言われる。恐がり嫌がる子に「賢くなる」と親御は進める。このヘビは不死樹の変形だから、無病息災どころか不死身となるし、エデンの園の智恵の木(リンゴの木)のヘビだから大変な知恵、猿と人間を分けるほどの神の知恵を授かることだろう。 こうして一軒一軒を全部残さず回って行く。 このヘビは尾っぽに剣をつけている。カタナのような形をしているが、土地の人達はケンと呼んでいた。これは そろいのハッピには波のような絵柄が付いている。これも蛇だろうか。群雲なら、それも蛇だろう。 素盞嗚命が八岐大蛇を斬った剣は (ゴゴともなるのでないかと思う。ゴルゴンというギリシャ神話に登場する妖女がいる。前身が蛇で髪の毛もまた生きた蛇、あまりの醜さに彼女の顔を一目でも見ようものなら、恐怖でたちまちに石にされてしまうという超バケモノである。メデューサとも呼ばれるが英雄ペルセウスですら、見れば石にされるので、直接に見ないで己が楯に彼女の姿を映しながら近づき、ようやく退治したのであった。ギリシャではそうなっているのであるが、これも本当は神様であろうかと思う。零落して妖怪にされてしまって我々には本当の姿は伝わらないが、たぶん石のように強健な体にしてくれる神様と思われる。アレキサンダー大王の鎧にも彼女が描かれていたのは石のように強い不死身をまとうという意味であろう。彼も又ヘビの大王であったことになる。 →長野県出土のマムシを頭に載せた土偶(縄文中期)。『蛇』(吉野裕子著)より。氏は蛇巫女像とされているが、これはゴルゴン(メデューサ)像かも。巫女なのか神なのか悪魔なのかはこれだけからはわからない。日本にもゴルゴンがいたかも知れないことになる。 爬虫類のクセにコイツは脱皮する。何度も脱皮して生まれ変わり不死と考えられていたのではなかろうか。 日本語の母も それは置いて、この行事はそうした悠久の神話時代に遡ると思われる。 子ヘビもついていると市史は書く。気付かなかったのだが、ヘビの一番最後の尾の部分を担ぐ人の担ぎ方が何となく不自然に感じられた記憶があり、持ち帰った写真を見てみると… これが子蛇綱だ。子持ちの、子連れの蛇綱ということか。 作業場に置かれているのを見たとき、尾が何でこんな形をしているのかと不思議に思ったのだが、これがどうやら子蛇綱だったようである。目鼻はなかったと思う。 母子の蛇綱。これはヘビというよりも神様だ。そんな神秘な風格を備えている。ずっと古い時代の神様だったと思われる。この母子への信仰がやがてマリアさんとキリストさんのように発展してきたのだと思う。 年に一度、お正月にだけ、この神様母子は氏子達に福を授けるため世界樹から降りてくるのだ。…のではなかろうか。 正式な噛まれ方は、頭を下げて手を合わせて拝みながら噛んでいただく、噛まれた後ももう一度手を合わす。子に「ちゃんと手を合わさんか」と注意する親御さんもいらっしゃったが、それが正解だと思う。もちろんいくらかのお賽銭の用意もさせていただく。 年神様、お正月様というのは、このように本当は蛇であったとわかる。この蛇はもうたいていの家庭にはやってはこないのである、残念な話であるが、実はこの蛇の代役、象徴としてあるのが、現在はお正月のカガミ餅である。カガが付いているように蛇餅、( 皆さんのお家にも、お正月には実はちゃんとこの母子の蛇が来られているわけになります。現代人は何でも知っているつもりだが、何のことはない…、何も気が付いてない…何でこんな餅を飾るのかと不思議にも思わない誠にウカツな者なのかもしれませぬぞ。 難しいことは置いて、噛まれ方その他いろいろと−。 ポストマンもガブリ。 今福にはこれくらいの小さい子がいないらしくて、どこぞに嫁がれていてこの日のために里帰り中の娘さんとそのお子さん。…という。 毎年来ているのか報道陣はよく事情を知っていて、どこそこのお家のお孫さん。待ち伏せている。蛇綱が近づいてくるとどっと押し寄せる。 子供たちにはえらい災難かも。悪魔に喰われるかのように怯える。 愛嬌のある顔してるんだけどね−。 やれやれ。 一通り集落を一巡し終わる。アップダウンのある斜面にある集落であった。約1時間ばかり。 「仕事」を終えたヘビは、そのあとは集落入口に鎮座する氏神「荒木野神社(荒木神社)」(村社、祭神屋船句々廼智命、由緒不詳、明治六年村社に列せらる。氏子三十九戸、祭典九月廿四日−『与謝郡誌』)へ向かう。 ここが「荒木野神社」。背景の山並は伝説の与謝大山。 美女ばかりを噛んできたのではなく、集落の全戸を噛んできた、集落はオジイちゃんオバアちゃんが多いので写真はほぼ全部を省略したのだが、みんな噛んでもらった。 これに噛まれることは、あるいはヘビの一族に属することの証明というのか確認というのか、集落全体がヘビの集落ということであろうか。それとも人とは案外にもヘビなのだろうか。吉野裕子氏だったか、「人とは人の姿をしているだけのヘビ」。ちょっとそんな気もしてくる。 私にいわせれば、人とは人の姿をした世界樹。しかしながら明日の株価も予想できない程度のオツムだから、そうあらねばと、お勉強中のサルである。あと何千年か進化を続ければ、あるいはそうなれるかも知れない。そうならねば亡びるであろう猿である。 校長先生も カメラマン氏も この後ヘビは境内の高い木(銀杏だそうだが)に巻き付けられる。 ヘビは神様だから神社に、あるいは本来の棲家・世界樹に戻った。 エデンの園の真ん中に生えていたという生命樹と智恵樹(リンゴの木)の遣いとしてのヘビである。たまたま偶然に一致したとかいうものではなく、それなりにここでなければならないという必然性があって、蛇綱は木に掛けられたのであろう。 蛇綱の伝統行事は、弥生時代どころか『旧約聖書』の時代まで遡りうると私は思う。役割を終えた神の遣いは本来はこうして木に架けられたものなのだろうか。 蛇綱の動画は「今福の蛇綱(2010)」にあります。 (参考) 尚、宮津市内には、同じような行事がほかの地区にも伝わるという。『宮津市史』より引用させてもらうと、− 〈 (1)勧請縄 年頭の行事のひとつに、「勧請縄」あるいは「道切り」と呼ばれる行事がある。これらの行事は、村のウチとソトの境に、また出入口の路上に、大きな縄や蛇を模した作り物を張り渡し、その年に災難や厄病が村に入らないように祈るのである。 これらの行事は、今福、山中の二地区で今日もなお行われている。ここでは、昭和二十五年ころまで行われた波路地区も合せて紹介する。 山中のジャ(蛇)行事 山中は宮津と舞鶴市岡田を結ぶ旧道(山中越)沿いに面し、一七戸の家々が点在する。この地区のジャ行事は、かつて「村祈祷」と称して、青年会行事の一環として二月十日に行われていた。ところが戦争中に青年が出征し、ジャ行事は一時中止されたが、たまたま伝染病が流行したため、ジャの作り物のかわりに、官本の和貴宮神社からお札を受け村境に立てた。しかし戦後、思いがけない不幸が村で続いたため、昭和二十一年二九四六)に、再びジャ行事を行うようになった。それ以降一月十五日の初集会の日に日時を変更し、村の行事として今日まで続けられている。 ジャ行事は、午前九時に村の公民館に集まり、藁で頭を作るもの、シイ(椎)の木で目や鼻を作る者、藁を打つ者、細縄を編む者などそれぞれ手分けして行う。頭や耳や舌の作り方は、いずれも藁を一握りずつ井桁に組んで、ナベツカミの要領でなっていき、それを左ないの胴体に縛りつける。ジャは全長約二・五メートルで、三体作る。頭はほほ球形で、大きさは直径約三二センチである。約一時間ほどで作り上げ、お神酒をそれぞれのジャに注ぎ、三方に別れてジャを掲げに行く。村境の皆原と接するシモンチャヤ(下茶屋)、栗田峠、新宮峠の三か所に掲げる。そして、午後からの初集会に、ジャ行事のお神酒をいただき、無病息災を祈る。 なお、隣村の惣でも、青年組の行事として同様にジャ行事が昭和二十五年まで行われた。 波路のコトのジャ行事 波路は、栗田トンネルを抜けると眼前に宮津湾が広がり、その国道一七八号線と平行して走る北近畿タンゴ鉄道をまたいだ山側の集落と、海岸沿いの集落にわかれる。同地区では、昭和二十五年までジャ行事が行われた。ジャ行事は一月十五日から二十日の間の日に、一五歳から二五歳までを会員とする青年会の行事として、大将(青年会長)の家を宿として行われた。 当日朝八時に、会員は五合の餅米を持ち、大将の宿に集まり、餅つきの準備をする者、ジャ作りをする者、ユルダやホウの木を山に取りにいく者など手分けして行う。ジャは全長一・二メートルで、頭の大きさは直径五〇センチぐらいである。形態は山中とほぼ同じであるが、この波路のジャにはシルケン(刀)と呼ぶ長短の刀が胴体に付いた。このシルケンはホウの木を削り墨で刃を描いたもので、長い方は四〇センチが一振り、二〇センチの短い方が四振りを一匹のジャに突き刺した。 ジャが出来上がると、山側の「中の谷」と「宮の谷」の二つの谷の入り口の柿の木へ、伊勢音頭を歌いながら、ジャを掲げに行った。そして、宿に帰り、ついた餅でぜんざいをつくり、ユルダで作った長いお箸を用いて食べたという。 行事の意義 今福の古老の伝えによると、「江戸時代に悪病が流行した際、悪病を追い払うために藁製の大蛇を作り、村の入り口に掲げた」という。このように悪病や生活を脅かすような災い事が村に侵入するのを防ぐことが、どの村でも一様に目的となっている。 時の流れの中で、その意義が薄れ途絶えてしまったところがある。しかしその一方で、山中地区に見られるように、「思いがけない不幸が村でつづくため」といった理由から、この行事のもつ意義が改めて問われ、その結果、回帰現象として復活したところもある。 その行為のなかで、今福では、作り物を引きまわし、人々の頭を噛んでまわり、無病息災を祈願する。村を構成する個人を守ることから、村全体を守ることへの広がりを、その行為に読み取ることができるのである。 〉 |
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