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お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから探索してください。超強力サーチエンジンをお試し下さい。 すごい民俗芸能が伝わる。どうしてこんな山の中に(たいへんに失礼)と。ここでもまたもやそんな思いがわいてこざるを得ない。 観光案内書だって、何もそれほどにはないようである。偉そうに書いているが、私もそうであった。今回も坂根正喜氏に同乗させてもらいでかけたのであった。 途中までの道路はずいぶんとよくなって快適、しかし菅野の辺りは狭く、駐車場もないのでどこか邪魔にならなさそうな所に留めさせてもらうより手はない。 山は新緑、田は田植を終えている所もあった、4月下旬の日曜日、晴天で最良の祭日和になった。現地到着は9時30分。すでに神社近くの公民館前広場に部隊が待機していた。 わずかの戸数しかなかろうに、伝わる芸能遺産は途方もなくすごい。この村の過去の栄光のたまものだろうか、ドンドンヒャララ、ドンヒャララ、と囃子の音も聞こえてくる。朝から老いも若きも男も女も村は総出の大祭りなのだろうかと思われる。 今日の祭礼のある 『与謝郡誌』は、 〈 上山神社 筒川村字菅野小字本菅野鎮座、指定村社、祭紳天火日命、天津日子根命、活津日子根命、天忍穂耳命、熊野久須日命、多紀理姫命、多紀理姫命、市岐島姫命、勧請不詳、丹哥府志には延喜式内吾野神社なりとあるも丹後國式内神社證實考には吾野神社は加悦町にありとて当社の事は措て言はず。蓋し售來八大荒紳を祀りしものゝ維新の改革によりて荒紳の称を廃し五男三女神を祀るとなし上山神社と称して明治六年二月村社に列せられ大正十年六月二十四日神饌幣帛料供進神社に指定せらる、社殿拝殿完備し、氏子六拾七戸あり。 〉 『伊根町誌』は、 〈 菅野の神楽・太刀振り・花の踊り 菅野の氏神上山神社は室町初期の神像や棟札をのこす古社である。四月二十五日の例祭に特色のある神楽や太刀振り・花の踊りが奉納される。この日、枝垂れ花も鮮やかな猩々緋・傘鉾をおしたて、獅子を先頭にした一団がにぎやかに宮へと練込んでゆく。神楽をはやす「獅子荷」を舁ぐ人々もみえ、太刀振りをはやす大太鼓と棒振りをのせて疾走する楽台もある。祭の熱気がこうしていちだんと高まるなかで、やがて獅子が舞い、太刀振り・花の踊りが華やかにそして真摯に奉納される。 ここの神楽は、近在では「菅野の尾張獅子、落山の伊勢神楽」といって名のとおった存在である。落山は山一つ越した向うの地区でゆききがあったが、互いに系統の違う獅子舞を伝えている。 神楽はいま一二曲伝えられ、一、岡崎、二、神楽、三、剣の舞、四、花の舞、五、おそめの舞、六、玉の舞、七、天狗の舞、八、法螺の舞、九、両剣、十、不動の舞、一一、大神女郎の舞、一二、和唐内である。曲により天狗面をかぶりガリガリ(ササラ)を持つ天狗が出て、これは少年の役だが、他はすべて大人で、もとは資格をきびしく言い長男以外はたずさわれなかったという。はやしは「獅子荷」につけた太鼓・締太鼓と笛である。一人が獅子頭をかぶり尾持がついて八方を踏むしづめの舞「神楽」など、大神楽と共通する曲だが、この神楽を特色づけるのは次のような曲である。 おそめの舞 おそめ久松ともよび、尾持をしたがえた獅子がスゲ笠と扇子をもち「おそめの唄」にあわせて舞う。 大神女郎の舞 ササラを持ったヒョットコが扇子・鈴を持って八方を踏むオタフクにからむ。「おかめ女郎おかめ女郎、ちょっとこちらへござんせえの、なんの暇のざよることでない、チチャゲモチャゲの相談がととのい」など一切れごとに言うシャレがおもしろい。 和唐内 薬屋、ついで和唐内、さらに獅子(二人立ち)が登場し、だんだん口上があって和唐内が獅子の生捕りを演じる。「はってふだんずきんはとらぬ、恵美須は身持がうすぎたない、しょうじん日にはつきやわれぬ、蝦夷松前にあらばこそ、体はおだぎに脇の下、布袋は土仏福(福禄寿)六人の、月代そるに暇がいる」といった長い口上である。和唐内は帷子の上に衣裳を着、肩衣に化粧まわしをつける。肩衣はひきぬきになっていて、立ちまわりの時に早がわりをみせるのである。 いずれも府下に類のない獅子舞である。「和唐内」は獅子芝居であり、獅子の腹を楽屋がわりに登場するのも興味ぶかく、東海地方に同趣の獅子舞がかなり伝承されるようであるが、流伝の歴史は明らかにしがたい。 次に行われる太刀振りは、例の棒太刀をもって太刀振り装束の青年が勇壮に群舞するもので、はじめに幼児二人の棒振りがある。新発意の名はないが踊り坊主とよぶ大人が飾りウチワをもって棒振りにつき添い、太刀振りをリードし、大太鼓が拍子を打つのも他と同様である。 最後に奉納される花の踊りは、祭の参加者全員によって行われるが、構成要員は、締太鼓を打つ小太鼓二人(太鼓持がつく)、音頭取り一人、踊り子四人である。本殿を背に音頭取り、それに向い合って小太鼓、その後に花をもった踊り子が並ぶ。ほどなく小太鼓が打ち出され、「イョウヲン 花が見たくば都へござれ」と歌がはじまると、踊り子が立ち上がって左手の花を扇子で打ちながら足を左右にひらいて踊る。大刀振りなど全員が役の姿のままそれに合わせる。小太鼓の打ち方に片等バチと両バチがあり、片バチの場合にも締太鼓の一方を太鼓持にもたせやや中腰で打つ。 「花の踊り」以下、「篠原踊り」「まりの踊り」「名所踊り」「傘踊り」「竹の踊り」「宝踊り」「恋の踊り」の八番の踊歌が伝えられている。支度は、小太鼓は太刀振り装束、音頭取りと踊り子は着物の着流しに白足袋で下駄をはく。踊り子は四つの組の代表がつとめるきまりである。花は菊の造花を竹にさし、歌を書いた短冊を下げたもので、造花は五本と決まっている。人気は神楽や太刀振りに集まるが、真摯なこの花の踊りは風流踊りの古風をよく伝えのこすものといえよう。 このようにこの祭は多彩な芸能をともなっている。その謂れは一切伝えられないが、以前ははるばる宇良神社の祭礼に参加した芸能の一つであり、神楽のほかはその始源が中世にもさかのぼりうるものと考えられる。なお境内に建つ舞堂は地狂言も演じた舞台であり、二重台なども現存し往時の盛況を物語っている。 〉 神楽は一二曲伝わるという。「尾張獅子」と呼ばれて、そちらの方から伝わったものといわれる。 一、岡崎、二、神楽、三、剣の舞、四、花の舞、五、おそめの舞、六、玉の舞、七、天狗の舞、八、法螺の舞、九、両剣、十、不動の舞、一一、大神女郎の舞、一二、和唐内。という。 見学に訪れている人は、村の人達ばかりかと思われる。村外はそうなかろかと思われた。 しかしカメラマンは多い。ごっついレンズを下げて、バッグには機材がごっそり、ウデにさも覚えありそうな面々。 毎年来て毎年似たような代わり映えしない写真ばかりを撮っていると自嘲するのであった。 獅子の中へは村人が代わり番こに入って演じる。 「尾張獅子」と呼ばれているのが興味深い。尾張から伝わってきたのであろうか。 意外と丹後あたりと尾張方面とは繋がりがあるのかも知れない。 少し西へ行けば、丹後町の もっとも有名なのは、最後の ここでは和唐内と書くが、和藤内は近松門左衛門の人形浄瑠璃「国性爺合戦」の主人公の名。正徳5年(1715)の時代物という。 金魚の品種にも同じ名があるが関係ないと思われる。日中アイノコの金魚なのだろうか。 「国性爺合戦」は、明・清抗争期に活躍した父が中国人、母が日本人の苫成功の英雄譚に題材をとったという。 彼はアイノコというのかハーフというのか、和唐内とは日本人(和)でも中国人(唐)でも「ない」という意味だそうである。 人種だ民族だといって何か特別にネウチがあって大昔から未来永劫変わらぬものとでも考え違いをする人もあるが、しかしこうしたものでお互い人間同士はアイノコができるほどにごく近いものである。人を何国人などと呼ぶのは最近の話で、そうとしか考えない場合は和唐内のような場合はどうなのだ、彼は何国人なのだということになる。 愛国心やナショナリズムなども同じで、そもそも国などというものは大昔からあったものでもなく、また人類の未来にも存在しないものであろう。ある人類史の発展段階でたまたま発生するもので、そうした歴史的に限定的なものであろう、人類史は過去に10万年もあったし、未来はそれもたぶん10万年くらいはあろうか、その間で国家があるのは、どの位の期間であろうか、1万年とはないであろう。そうしたものに対して、あたかも人類史に普遍の価値あるもののように思い違いをして、偏狭に度がすぎて、ムリに日の丸を掲げさせたり、君が代を歌わせたり、朝鮮人だ中国人だと差別したり、あげくには日本人だと何か偉い者のように根拠もなく勝手に思い上がり舞い上がる…、それは一人前の判断力のない愚かな小児が一時かかることもあるビョーキではあるが、大の大人がかかれば滑稽でばかげた大笑いものである。ええトシこいて今頃チエ熱だしとるで、とオツムの成長の悪さのテイドが知れわたる恥ずかしいものである。 明国が韃靼国に攻められ壊滅の危機に至ったとき明朝の遺臣苫芝竜と平戸浦の日本婦人との間に生まれた和藤内という青年が、父母とともに大陸に渡って明国の復興をはかる。 千里ヶ竹で猛虎を退治し、老一官の娘錦祥女と母の命を笛した行為によって錦祥女の夫甘輝を味方にし、九仙山の合戦などで勝利をおさめて逆臣李蹈天を討ったという。 ここの和唐内は薬屋が何かというハナシで、獅子をいけどりにする。 近松の浄瑠璃とは関係がなさそうである。 こうしたアイノコ(日中・日朝などの)が日本にも古来たくさんいたのではなかろうか。彼らはまたたいへんに優秀であったのかも知れない。アイノコ活躍譚の近松とこうした民俗芸能に残るものと、どちらがより古いものなのか、私にはわからない。 さらに大刀振り、花の踊りと続くのである。 ほかに予定があって、今回はここまでしか見ることができなかった。 平成25年の祭礼の様子 奉納順 「岡崎」「神楽」「剣の舞」 「花の舞」「お染の舞」「玉の舞」 「天狗の舞」 「法螺の舞」「両剣の舞」 「おかめ女郎」 「和唐内」 「棒振り」 「小太刀」 「太刀振り」 これだけの他には見られない貴重な芸能を持ちながらも、エエカッコしないのがよい。どこかの町なんかは、たいしたものでもないのに、エエカッコしてエエカッコして、ここ入ったらアカンとかすぐぬかす者もまた多いのだが、それがまったくない。どちらから見えられたのか知りませんが、まつりですから一緒に楽しみましょうで、の姿勢が貫かれている。 尾張の方たちが調べられて、当地の囃子と似た曲が尾張にありそうだと、最近メールをもらった、伝承が本当に出てくるかもしれなくなっている。 また丹後尾張には共通する方言がどえりゃーことあるそうで、京丹後市などがあんばよう調査すると報道されている。尾張から参河、遠江にかけて何か繋がりがようけ感じられる。(右の方言表。舞鶴も丹後で、だいたいはこうした方言も使われているが、丹後弁の中心からは周辺地なので理解できない丹後弁もある。「ぬくとい」は言わない、ヌクイという。「まっと」も言わない) 『京都新聞』(2015.2.1)(写真も) 〈 *丹後と名古屋交流促進を 京丹後河村市長が講演 丹後弁と名古屋地方の尾張弁が似ていることを縁に、名古屋市の河村たかし市長が31日、「丹後と名古屋の大交流新時代」をテーマに京丹後市の峰山総合福祉センターで講演し、地域の特色を生かした交流促進の構想を語った。 赤いが「あきゃあ」、おいしいが「うみゃあ」など両地域は多くの方言の発音が似ている。文化交流の歴史を調査中の市と市教委が地域の連携に結びつけようと企画。市民ら280人が参加した。 河村市長は、減税や給与削減など自らの施策を、方言を交えてユーモラスに紹介し会場の笑いを誘った。丹後の印象を「ちょっとやそっとでは来られない秘境的な所」と語りつつ「リニア新幹線ができたら名古屋駅から丹後へと乗り換えるルートを作りたい」と構想を語った。 また、100歳以上が多い京丹後市の特色を挙げ「どんなうみゃあもん(うまいもの)を食べたら長生きできるのか、名古屋のお年寄りを連れて調べに来たい」と述べた。(近藤大介) 〉 (参考) 『伊根町誌』に、 〈 上山神社 菅野小字宮山(旧村社) 祭神 五男三女神(元八大荒神) 配祀三柱 火産霊命・興津彦命・興津媛命(三宝荒神)・天忍穂耳命・天之菩卑能命・天津日子根命・活津日子根命・熊野久須毘命・多紀理毘売命・市寸島比売命・多寸津比売命 例祭 四月二十五日(元旧暦九月八日) 由緒・沿革 社伝によるとこの神社は、醍醐天皇延喜五年(九○五)撰上の延喜式内社吾野神社であるともいわれるが、創立年代は後一条天皇長元九年(一○三六)としている。応永四年(一三九七)九月八日社殿が類焼し、翌応永五年(一三九八)九月八日社殿上屋を再建した。この時同村小字大神の三柱神社(三宝荒神)を配合奉祀し、御正体として「鏡を懸け奉る」とある。神社の修造はその後永正十八年(一五二一)より翌大永二年(一五二二)にされていることが、現在所蔵されている「古神撰器」の黒塗の献上用円形操盆底の部分に記録があり、大永二年(一五二二)二月二十二日と明一記されている。現存する棟札の記録としては、天文二十三年(一五五四)の「筒河庄菅野村荒神社上葺造営之記」があり、「宮造之次第」として、八月十六日よりとりかかり十月四日に完成されたとある。願主は太田新左衛門尉時直で、領主より銭弐貫文、公文より銭壱貫文の寄進があり、上棟の折は領主、公文、願主時直はそれぞれ馬一匹を奉納し、その他祢宜、妙光庵振宗寺より奉納の品名があり、氏子よりの分として刀祢綱五郎・辻二郎四郎その他奉加者の名と共に寄進の目録が記されている。また上棟式のあと御祝いの返礼に餅をつき、鯛・布をもって、城主三富修理亮をはじめ、時直、妙光庵振宗寺・その他氏子のうち一井・刀禰・辻・稲場・神子等主要なところへ十三日間にわたって出向いている。その後延宝七年(一六七九)領主永井左近大夫の「下命」として、「名主」宇治五郎右衛門により神殿上家の修復があり、棟札には「奉葺替荒神宮于時延宝第七己未菊月念八日(九月二十八日)」とある。 また寛保三年(一七四三)二月、宮津城主青山大膳亮は宇治五郎右衛門正英に命じて神殿上屋を修復造営せしめている。 筒河庄菅野村荒神社上葺造営之記 百文 同 太田新左衛門尉時直(花押) 当村氏子出之分 同料足分 奉加并諸下行 五斗七升 刀祢綱五郎 百文同人 弐貫文領主 同氏子奉加分 六斗一升 辻二即四郎 百文同人 壱貰文公文 五斗七升 □孫五郎 百文同人 上棟馬一疋領主 四斗八升 河頼二郎三郎 百文同人 同 馬一疋公文 四斗八升 同上彦二郎 百文同人 同 時直 五斗 神子彦三郎 百文同人 御簾戸張 領主 三斗 中孫三郎 百文同人 祢宜祝烏帽子 同 壱斗九升 刀祢子源四郎 百文同人 御座畳二重妙光庵 三斗一升 向紺屋 百文同人 同 氏子 奉加之分 弐斗 祢宜大夫 百文同人 五斗 振宗寺 壱斗弐升 小峠大家 百文同人 九升 河西上孫四郎 百文同人 一、餅 百廿日御供之日記 壱斗 小峠奥二郎三郎 百文同人 一、鯛 三懸初日御城二日 同 壱斗五升 新屋彦三郎 百文同人 一、弓弦布二端 三日時直四日同 五升 三郎四郎 百文同人 一、善之綱布二端 五日妙光六日振宗 三斗八升 河西二郎大郎 百文同人 一、御幣布一端 綿三筋七日一井 壱斗 犬山弥三郎 百文同人 麻 五八日宮前 壱斗 上菅野若口 百文同人 九日 刀祢 十日 辻 宮造之次第 上山しやらい上 十一日 稲場 十二日〔〕 十三日 神子下行米三升宛 天文三年甲 寅 山男始在所吉谷 田舎大工 一、弐貫百文 釘之代 参貫三百文 六十六人作料 一、拾石弐斗 捻下行 一、四十人 山男相加 右 一、六十人 大鋸引 上葺 舞殿聖御善 一、百六十人 榑趣人天平間 平間此内寵候也 一、弐千八百枚 榑板数 願主太田新左衛門尉時直 天文念参年甲八月十六始 干時天文念三甲寅年十月四日造畢 上棟御祝言下行 このように代々の領主は奉納品を捧げて神事をとり行っている。 明和三年(一七六六)六月二十八日造作、寛政八年(一七九六)二月職奉納 文化八年(一八一一)三月七日鳥居建立 文政九年(一八二六)八月一日修覆 嘉永六年(一八五三)四月社殿再建 明治六年(一八七三)二月十日村社 大正十年(一九二一)神饌幣帛供進神社に指定される。 昭和元年(一九二六)拝殿、新築起工祭十月八日、落成式翌二年十月八日 昭和四十六年(一九七一) 社殿修覆 祭礼 神楽、太刀振り、花踊り奉納 社伝によれば応永五年(一三九八)九月八日再建された上棟祭に太刀振り・花踊りが奉納され、その時からの行事が現在まで伝承されている。 神楽は口碑によると寛文五年(一六六五)菅野の酒屋大江文左衛門の祖が尾張国より伝え、現在尾張獅子といわれ有名である。 その種目は一二曲あり、昭和四十五年(一九七○)京都府古里芸能祭に参加し、四曲を上演し、これを期に昭和四十六年(一九七一)に上山神社芸能保存会が結成され、戦後中止されていた祭礼を復活してから毎年とり行われている。 獅子舞一二種−1岡崎 2神楽 3剣の舞 4花の舞 5お楚女の舞 6玉の舞 7天狗の舞 8法螺の舞 9両剣の舞 10不動の舞 11大神女郎 12和唐内 なお明治末期まで八月九日の祭りには「山神の力祭」と呼ばれて、巨石上げが「肩上」・「前抱」・「背負」等、近郷の力自慢の若者が集まって競い合い、力石の重量は大が米二俵相当、中が米一俵半、小は米一俵量にてそれ ぞれの優勝者の名が記録し残されている。 社宝 猩々緋一流、神饌器他祭礼具一式、木像狛犬(鎌倉時代と推定) 御神刀三振り 1 明珎紀義重作 (わきざし長さ一尺七寸五分)(京都府文化財指定) 2 備前長船住祐定作 (わきざし長さ一尺七寸五分) (同) 3 洛陽住藤原広信作 (わきざし長さ一尺六寸七分五厘)(同) 境内社 大山祇神(山の神) 宇迦之御霊神(稲荷社)と猿田彦神(庚申様)を合祠。 〉 |
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