篠田神社の筍の神事
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お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから探索してください。超強力サーチエンジンをお試し下さい。 「志賀里の七不思議」で有名な、篠田神社の「筍神事」。ここは丹後ではないのだが、城屋あたりから裏山を越えるとここであり、丹後と関係がないという地ではない。 筍神事は、金河内町・阿須須伎神社の茗荷神事と合わせて、ずいぶんと古くから有名らしく、文化12年(1815)正月の神事を見た野田泉光院は『九峯修行日記』に次のように記録されているという(『綾部市史』より)。 〈 (正月)三日 志賀ノ里 金口ノ宮茗荷ノ生ズルヲ一見ニ詣ヅ日出ニ着キ拝ス 去暮一見シ置キタル水ノ流レ玉垣ノ内去暮トチガヒ 掃除等綺麗ニシテ 三筋ノ水流レノ内ニ茗荷五本生ジタリ 一筋ニ三本 外二筋ニ一本宛 此茗荷ノ生ジ様ニヨリ其年ノ豊凶ヲ試ス事也 今朝未明ニ生ジカカリ 昼時ニハ四寸計リニ成ル此畔三筋ハ早稲中稲晩稲ト分ル 又風ノ吹クコトアレバ此茗荷タワメリ 丹波七不思議ノ一ヶ所也右ニ付参詣ノ者 夜中ヨリ群集スルコト数ヲ知ラズ 四日 篠田明神へ詣ヅ 笥生ズル地境ハ社内ニ四間四方計リニ玉垣アリ 其内シノメ竹薮三ヶ所ニアリ雪深キコト弐尺余 其竹株ノ根ヲ雪ヲ除ケ 辰ノ刻時分ニ見レバ雪中ニ弐寸計リニ生ジタリ 夫ニレ幣ヲ立テ印トシ置キ 昼時分ニ掘出シ見レバ 長キハ六寸 短キハ三寸計リ 是レヲ神前ニ供ス 参詣ノ諸人ニ拝シサスル也 此所モ一、二、三卜分ケテ年分ノ作方善悪ヲ試ス也 〉 日程こそ正月から節分へと変更にはなってはいるが、いまも記録通り昔ながらの形をとって厳粛に行われているという。 →今年は、ギャラリーがかなり多いような、カメラマンやウーマンもずいぶん多いような気がする。気がするというより絶対に多くなっていると思う。綾部は市や観光協会や地元の人々の力が入っているそうで、地域に伝わる伝統行事にも静かな人気が出て来てるような、あるいは年々深刻に進行する古里崩壊の危機感がそうさせるものなのか、何かしら感じられて、多くの人出で結構ですね、誠に同慶の至りの次第、と単純に述べて喜んでいていいやら悪いやら、私にもよくわからないのである。 「志賀里の七不思議」は、七つあるわけであるが、実際に現在に伝わるものは二つだけ。阿須須伎神社の茗荷神事(一日早く2月3日に行われる)と当社の筍神事。 『何鹿郡誌』には、 〈 七不思議は志賀の里に古来より伝はれる有名なる伝説なり。其説区々にして何れが重きか知り難けれど、比較的古き記録と思わるる寛保元年(従五位下九鬼大隅守隆寛の仕官学医)の記録によりて、其の大要を述べん。 金丸親王の末孫金里宰相の志賀の里を領治せし時五社を祈りて、御神前に千日参詣あり、然る後、左の植物の御手植えあり。 藤波大明神に藤 金宮大明神に茗荷 若宮大明神に萩 白田大明神に竹 諏訪大明神に柿 之れより五社の神、異験を現ししかば、向田の里の「ゆるき松」及「しづく松」と合せて世人七不思議といふに至れり。 藤は毎年陰暦正月朔日五ツ半時頃までに花咲き乱れしを、帝王に奉る風習なりしが、九十二代後伏見院の正安元年正月朔日、この藤の花を奉る時、船井郡水戸峠にて飛脚自在に蓋を開きしに、忽ち一羽の白鷺飛去りたり。こりよりこの奇跡なきに至れり。峠の麓の田の中に鷺の宮と崇め奉る宮あり。 茗荷は毎年陰暦正月三日御神前の手洗川に生じ、日の出より五つ時迄に出づ。之によりて其の年の早稲、中稲、晩稲及田畑一切の状況並びに風雨、旱損、水難を卜す。現に存して此の日参拝する者多し。 竹は毎年陰暦正月四日境内の瑞垣の中に筍を生じ、旭より五つ時迄に出づ。卜定の状茗荷に同じ、この神事今に存す。 萩は陰暦正月二日の午の刻に花咲くこと夥しかりしかど、今此の神事なし。 柿は旧暦正月六日三個づつ朝五時に生じ、日中に色よく熟したるを、帝王に奉りしといふ。世人之を御用柿と呼ぶ。 人皇九十四代正和元年花園院にこの柿を奉る時、飛脚船井郡須知の里にて、渇のため民家に立寄り、茶を乞ふ。俄に腹痛起り、柿の入りたる箱は北の方へ飛帰りしと、之より異験なくなれりといふ。 雫松は向田の南方にありて、四つ時に雫の落つること雨の如し。これによりて旱損水害を卜定せりといへる。今其の跡に一基の碑を存す。 ゆるぎ松は雫松に近く、向田の南方にあり。都に凶事あらばその葉深く、其の他の状況は雫松に似たり。今其の跡に碑を存す。 〉 不思議な伝説の伝わる、考え始めると面白い伝統行事のようである。 金里宰相が志賀里を領知したとき、付近の五社に詣でて、植物をお手植えになった、筍はその一つと伝説は伝える。これは意外にもある程度は史実を伝えているのかも知れない、と私は考えたりするのである。近くに実際に金里という、伝説どおりの地名がある、金里宰相とはここにいた首長ということであろうか。 高槻町金里は舞鶴側から行けば、27号線上杉信号から物部の方へ入り、高速の下を潜って、抜け出た所が「金里」である。 →写真の中央左手の山が「茶臼山古墳」である。 『綾部市史』は、(図も) 「茶臼山古墳 長さ六○メートル、高さ四・五メートル)墳頂部から出土した須恵器片や墳形からみて、完存する確実な五世紀の古墳である。」としている。 発掘調査されているわけでないので、詳しいものはないが、全長60メートルは、このあたりの丹波・丹後では最大の前方後円墳である。 この古墳の被葬者が、あるいはその子孫が伝説の金里宰相か。 高槻町には篠神社もあり、篠田神社とは何か関係ありそうな社名にも思われる。 金里というくらいだから鉄だと思われる。篠もやはり鉄を意味する古語ではなかろうか。 大江山の鬼とも関係がある鬼が棲んでいたとも伝わる。そうした鬼の神社の一つであろうかと思われる。 また金丸親王は金河内(金口)町の式内社・阿須須伎神社の祭神である。 篠田神社は、白田大明神とも呼ばれたようであるが、この神社は『何鹿郡誌』に、 「志賀郷村字遅岫小字北野にあり。明治六年村社と公定、大国主命を祭る。現在氏子一九五戸、遅岫、向田、別所の三区之に属す。山家領時代は篠田大明神と奉称して、本地弥陀なりき。例祭十月十七日。」 とあって祭神はあるいは天目一箇神かも知れない。 筍の神事そのものは、だいたい11時くらいから始められる。 筍占いの要領は↓のように参拝者にあらかじめ配布されている。 篠田神社本殿の後にご覧のような篠竹を植えた「お宝田」がある。 実際にここで芽を刈るわけである。 一本目は、正面東側の中ほど。 二本目は、西側の奥。 三本目は、その近く。 さて、どのように判断されますか。 (参考文献) 当社の案内板 〈 志賀の七不思議と「竹の子さん」の縁起 その縁起 今からおよそ一四〇〇年前の崇峻天皇の頃、大和朝廷は、国の中心勢力をかためるため、金丸親王を遣わし、丹波の国々の地方豪族を征伐することになりました。 すさまじい戦いに悪戦苦闘の末、ようやく丹波の国々を平定した金丸親王は、おおいに喜び、これ一重に神仏のおかげによもものと、丹波の国々に七仏薬師如来を納め、国家の安泰を祈りました。また、志賀の里の藤渡金宮″若宮諏訪″白田(後の篠田)の五つの社を厚く信仰されたということです。 親王の子孫金里宰相は、この五社の大明神に千日参りをされ、これを記念して、藤波大明神には「藤」、金宮大明神には「茗荷」、若宮大明神には「萩」、諏訪大明神には「柿」、白田大明神には「竹」をお手植えされ、国家の安泰と子孫の繁栄を祈願され、このことを大和朝廷に報告されました。この時以来、この志賀の里にいろいろ不思議な奇瑞があらわれるようになったということです。なお、この五社のほかに、向田の「しずく松」「ゆるぎ松」にも同時に不思議な霊験があらわれ、これらをあわせ「志賀の七不思議」として、今に語りつがれています。 その奇瑞 篠田神社=白田大明神の「竹の子さん」 毎年、旧暦の正月四日になるとや日の出より八時までの間に、神殿裏の「御ミノシベ」と呼ばれる竹林から、竹の子が三本出るのです。これを神前に供え、その竹の子の出る場所、その育ち具合いから、その年の稲作の早稲(ワセ)中稲(ナカテ)晩稲(オクテ)の吉・凶を占うのです。 この神事は、今も、新暦の二月四日に「筍祭 祈願祭」として行われ、地元の人からは、タケノコさん≠ニして親しまれています。 つい最近まで、氏子の人 数人が、三日間籠堂に泊まり、日に三度づつ、氷のように冷たい篠田川の水を浴び、行をとってきましたが、今は取り止めになっています。 是非、一度、節分の日にお詣りください。 志賀郷公民館 〉 『綾部市史』 〈 筍と茗荷の神事 七不思議 志賀郷に七不思議の伝承があり、民俗学的に興味のある多くの資料を提供している。一八世紀中ごろに記された『神社仏閣七不思議縁起』によると、「崇峻天皇の時に麻呂子親王が大江山の凶賊を退治するため本郡に来り、志賀郷に篠田神社や願成寺などを勧請開山し、また七仏薬師を安置した。そして千日祈願をしたところ、それに応じて神仏は次のように奇瑞を見せられた。 正月朔日 藤波神社に藤の花が咲く。 二日 別所の御用柳坪に七色柳の花が咲く。 三日 金宮大明神に茗荷を生じ、その年の作物、早・中・晩稲の豊凶・風雨・日柄・水難をしめした まう。 四日 篠田大明神に筍を生じ、その年の作方、早・中・晩稲の豊凶・風雨・日和・水難をしめしたまう。 五日 若宮大権現の社前に萩の花が咲き、一切耕作の豊凶をしめしたまう。 六日 向田・鍋倉にある滴松より滴が雨の如くに落ち、日柄・水難をしめしたまう。 七日 向田・松の下にある動(ゆるぎ)松が、都の吉事のある年は末の葉が動き、凶事がある年は下の葉が動い て都の吉凶を知らせたまう。 このうち別所町の七色柳のかわりに、志賀郷諏訪神社の御用柿が正月六日に実のり、日中に七色を呈するのを不思議とする伝えもある。藤波神社の藤の花は、正安元年都へ運ぶ使いの者が水戸峠(観音峠)で筺を開いて見たため、白鷺となって飛び去り、それより奇瑞はなくなった。七色柳は正和元年、使の者が須知でお茶を飲んだところ、にわかに腹痛がおこり、柳の筺は北へ飛び去って、それより奇瑞はおこらなくなった。火の喰い合わせによるものである。若宮神社の萩もいまは奇瑞がない。滴松・動松は、明智光秀が福知山城を築いたときに棟木にしようと伐らせた。ところが木こりが終日切っても、散らかしておいたコケラが夜中に集まって元の木となって、切り倒すことができなかった。それで一片切れば一片火中に投込み、焚きつくしてやっと切り倒し、城の棟木にした。 このように記して、五つの奇瑞はいまはあらわれないとしている。ここに記されている七不思議の多くは農作物の豊凶を占うもので、日本各地で行われている年占いとよばれるものである、そのうち筍と茗荷の年占いは神事として現在まで伝えられてきている。 文化十二年(一八一五)正月の神事を見た野田泉光院は『九峯修行日記』に次のように記している。 「三日 志賀ノ里 金口ノ宮茗荷ノ生ズルヲ一見ニ詣ヅ日出ニ着キ拝ス 去暮一見シ置キタル水ノ流レ玉垣ノ内去暮トチガヒ 掃除等綺麗ニシテ 三筋ノ水流レノ内ニ茗荷五本生ジタリ 一筋ニ三本 外二筋ニ一本宛 此茗荷ノ生ジ様ニヨリ其年ノ豊凶ヲ試ス事也 今朝未明ニ生ジカカリ 昼時ニハ四寸計リニ成ル此畔三筋ハ早稲中稲晩稲ト分ル 又風ノ吹クコトアレバ此茗荷タワメリ 丹波七不思議ノ一ヶ所也右ニ付参詣ノ者 夜中ヨリ群集スルコト数ヲ知ラズ 四日 篠田明神へ詣ヅ 笥生ズル地境ハ社内ニ四間四方計リニ玉垣アリ 其内シノメ竹薮三ヶ所ニアリ雪深キコト弐尺余 其竹株ノ根ヲ雪ヲ除ケ 辰ノ刻時分ニ見レバ雪中ニ弐寸計リニ生ジタリ 夫ニレ幣ヲ立テ印トシ置キ 昼時分ニ掘出シ見レバ 長キハ六寸 短キハ三寸計リ 是レヲ神前ニ供ス 参詣ノ諸人ニ拝シサスル也 此所モ一、二、三卜分ケテ年分ノ作方善悪ヲ試ス也」 若荷と筍の神事は、日が正月から節分の日と変わってはいるが、いまも昔ながらの形をとって厳粛に行われている。この神事は、稲作が生活の中心であった時代の習俗を伝えるものであり、民俗学的に考察すべき多くのものを残している。次にいま行われているようすを記そう。 篠田神社 筍神事 氏子は篠田・別所・向田の三町区であるが、神事は篠田町の氏子だけが祢宜となって行なう。篠田町では上・下・深山の三組にわかれていて、順番に各組から祢宜を出す。祢宜は四人で、当番の組のうち女ばかりの家や不幸のあった家を除いて、氏子の中から選ぶ。その方法は十二月四日のお講の日に、一人一人の氏子の名を記した小さい紙を一センチ角ぐらいに折りたたみ、三宝にのせて神前に供え般若心経をあげる。そして前年の祢宜一人が、一心に祈りながら扇子で三宝の上一センチメートルほどのところをなでると、名前をかいた紙が扇子に吸いついてくる。それを神前の段下に待つ氏子のところまで、そのまま静かに運ぶ。そこで氏子の手に落とし、開いて氏子の名をよみ、一人の祢宜がきまる。これを四回くりかえして四人の祢宜を選びだすのである。この選び方は神聖であって、選ばれた人は祢宜を必ずひきうけるという。 祢宜の交代は選ばれたその日、すなわち十二月四日である。祢宜はそれより一年間、篠田神社とその他の村中の神社の守りをするのである。 一月三十一日から筍神事にかかる。祢宜は餅をつき、神前に御灯明をあげ、籠も堂に七五三繩を張り夕方から籠る。籠り堂に入ったら他の者は一切入れず自炊である。一日三回、別所から流れる小川に素裸で入り心経一巻をあげる行をとる。氷の流れる川水に腰まで浸ると、声も出ないぐらいになるという。水の中で心経一巻をあげ、終わるとそのまま裸で神前へまいり、また心経一巻をあげる。寒いけれどもかぜをひいたものはないという。この行を一日三回つとめていたが、近年は水に入ることはやめ、心経だけをあげることにしている。 こうして宮に籠り精進潔斎をして、二月四日午前零時になると、四人の祢宜はワラの深グッをはき、提灯をもち、玉垣の中に入り木のスキで筍をさがす。雪があれば素手で雪をかきながら探す。ローソク一本がなくなるまでぐらいはよいが、そのあとになると指先が凍えて感じなくなるという。そうして探しあてるのに朝の五時までかかることもある。三本見つかる(頂くという)と太鼓をたたいて村中に知らせる。 一番に発見された筍が早稲(わせ)、次が中稲(なかて)、三番目が晩稲(おくて)をあらわす筍である。発見するとそこに札を立てて見やすくしておく。 参詣人は朝からおまいりし、玉垣の中の笥のようすを見て、豊凶の判断は各人がするという。高いところにあれば水が少ない、低いところにあれば水は多い。筍が寝ていれば風が吹く、東の方にあれば作柄がよ く、乾の方面にあればよくないという。午前十一時半ごろにお刈り上げをして、神前に供え参詣者に拝させるが、このときは筍が前より大きくなっているように見えるという。 この神事には例年参拝者が多く、近村はもちろんのこと舞鶴・豊岡・若狭からの参拝者があり、与謝郡には篠田講があって、毎年代参があるということである。 阿須須伎神社 茗荷神事 この神事ももとは氏子のお籠りがあったが、近年は行われなくなっている。節分の朝、神主が瑞垣の覆をとりはずし、氏子の見守る中に垣の内へ入り、小さい流れの中に生えた茗荷を三本刈り、三宝にのせて神前に供えるものである。筍神事と同じように近村から、大川筋の村々、丹後若狭から多数の参詣者があり、明治のころまでは前夜から農家に泊りこんでこの神事を拝んだという。 柳田国男氏によれば、日本の祭の本質はお籠りにあるという。おこもりをして年占いをする神事が伝えられていることは珍重すべきことである。 〉 『森の神々と民俗』 〈 篠田神社のタケノコサン 例年、宮総代と祢宜四人が、二月四日の午前零時すぎに神社に集合し、社殿裏のお宝田のシノダケ(シノビダケ・寒竹ともいう)の薮に入って、事前にタケノコの生え具合を確認し、発見次第「わせ」「な可て」「おくて」の木札をさしておく。今年(平成十年)は竹の花が咲いてほとんどが枯死したため、三日の正午すぎから作業に取りかかり、夕方までかかって三品種を見つけることができた由。 午前十一時より祭典が行われ、その後、白装束姿の二人の祢宜がお宝田に入り、昨日見つけておいたタケノコを鎌・ノコギリ・ノミを手にお刈り上げの式を行う。禰宜以外はみだりにお宝田のなかへ立入ることはできない。 お宝田のなかは凸凹の起伏にとんだ地形になっており、ところどころに自然石がころがっている。低地に生えたタケノコは雨量が少いことを示し、逆に高所でタケノコが見つかると、その年は雨量が豊富で用水に困らないとされている。西の方角に生え出た場合は不作気味、中ほどより東の方が豊作だという。まっすぐにのびたものは性が良く、根の曲り具合によって風向きを占うならわしである。 掘り上げが終ると三宝にのせて拝殿にもどり、神前で奉告祭を行う。タケノコは厨子のなかに「わせ」「なかて」「おくて」の順に並べて拝殿のぬれ縁に置き、参拝者に披露をする。当社の場合、神職は占いには一切関与しない。作柄の見立てはもっぱら地元の氏子たちの経験と眼識に負っている。たとえば、麝島周市(明治四十一年生)は今年の作柄について、「早稲も晩稲も今年はわりあい色が良いなア。しかし、晩稲はタケがやや小さいのう。今年は東南の方角から風が吹くが、出来はいい。早稲と晩稲は低いところに生えとったから水が少い。逆に中稲は高いとこで見つかったので水が多いことのしるしや。中稲は根がいがんどるので、東南の風が心配。晩稲はまっすぐで肌がきれいやから豊作やろ。早稲は平年作。毎年だいたいよくあうで」と占ってみせた。 〉 |
資料編の索引
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