葵祭(あおいまつり)
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お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから探索してください。超強力サーチエンジンをお試し下さい。 「双葉葵」の花は、まだ私は見たこともないのだが、「藤」はこの周辺にもよく咲いていて実際にはこのように冠には豊受大神ゆかりの「藤」の花が飾られる。 賀茂祭の呼び名にならい、籠神社の例祭は「葵祭」と呼ばれている。葵神事とか、あるいは神幸祭を御陰神事とも呼ぶのだそうである。ご祭神を葵(青位)大神、とも呼び、懿徳天皇の4年よりとも伝わり、2500余年の歴史を持つともいい、丹後最古の祭りとされ、気も遠くなるほどの古くから伝わる神事という。賀茂祭も古いだろうが、こちらはもっとずっと気が遠くなるほどに古い、まして葵祭と呼ばれるようになったのは江戸期というから、真似するほどこともないと私は思うのである。 安寿姫には姉がいて「おふじさん」と呼ぶそうであるし、フジにしてもアオイにしても、ここのご祭神の性格と何か深い関係があるのではなかろうかと思われる。 葵祭は神事と並行同時にいくつもの伝統芸能が奉納される。そのいくつもある奉納芸能もまた並行同時に少し場所をかえて執り行われている。 氏子は中野・国分・大垣・江尻・難波野・小松・溝尻で、そうした村々の祭礼とも葵祭は重層している。 一人では葵祭の全体像は写せない。見所満載だけれども、観光客・見学者も多いし、プロ・アマのカメラマンも山といよう。それらをかき分け押し分け引き分けて、腰痛・足痛の持病で、思い機材をぶら下げて行くべきかどうかと迷ったのであるが、半分だけでも、と思いながら出かけてみた。以下ここにあるのは、だいたい前半部分の一部だけです。 籠神社は、ますます整備されて、立派になって、さすが丹後の一宮らしくなってきた。この辺りも以前と雰囲気が少し変わったように思われる。 午前9時、神門前石段下の広場では 一番太鼓が鳴る。 このあたり、午前9時40分。 ドンドンドンと低い音の一番太鼓が鳴り響く。 祭典の始まりが告げられる。 神楽はつづく。「扇の舞」「四方がかり」「剣の舞」「乱」と獅子神楽が舞われる。どれがどれだか私にはよくわからない。 10時。そこまで宮司さんたちの行列が来て待機している。「国家隆昌・世界平和と氏子崇敬者の繁栄を願い宮司が祝詞を奏上する」葵祭の祭典が始まろうとしている。 厳かに神事が執り行われる。抜き足差し足で近づきそっと、なにしとってんやろと、なかの様子をうかがう。 神門前では難波野の神楽は続いている。 本殿左に恵美須神社がある。古くは籠神社の元社であり、主祭神を祀るという。この前でも神楽が奉納されている。 これはどこの神楽なのか、恐らく大垣…。 神楽は江戸時代に導入されたものという。喜多が安永三年(1774)、落山が文化十五年(1818)、そのあたりが始まりで、これらが付近に流布した、祭礼芸能化は18世紀後半とされる。 神門と本殿の間をあばれまわる「あばれ獅子」(大獅子・江尻獅子)。愛嬌ある顔立ちなのだが、コイツはそうとうなあばれもの。トッケツという、大きな鈴を棒の先に付けた神具のガランガランガランの大音響のなかを、じっとあばれている。舞手は先が見えない。イノシシ猛進してくる。コイツはモーレツ獅子。コイツはこわい。 この獅子頭の室町時代の、写真と瓜り二つのものが丹後郷土資料館には展示してあった、したがってこれの発祥はずいぶんと古いもののよう。獅子頭やトッケツは神社のものという。 あばれ獅子は神門では、マアマアマアと、なだめられて、ここからは外へは出てこない。 ↓コイツが外へ飛び出してきたとき、いよいよ神幸行列がはじまる。行列の先導役でもある。 古来この暴れ獅子は有名で、かつては神幸行列でも、気が向くままに暴れることが許されていたという。 それまでもう少し間がある、 溝尻の大刀振り、笹囃子 参道での縄手振り(道振り)。ケーブル下あたりから、こうして二列縦隊で振りながら練り込んでくる。 おっちゃんには少々キツイか。 溝尻は大部隊。 神門前の円錐状につくられていた盛砂が潰されて、押し広げられ、その上が舞台になる。 年齢順に本振りが奉納される。 大刀振り(振物)は新旧があって、どれがどうなのか私にはわからないが、新しいのは江戸期のものという。丹後の場合は笹囃子と一体化している場合が多い、笹囃子は中世の風流踊りに起源を持つとされ、したがって、振物も一部はそのあたりまでは遡れるのではなかろうか。四月の初めから練習を始めるそうであるが、子供達もプロかいなと、見えるほどにうまい。みな京都府の指定民俗文化財になっている。 最後が笹囃子。何曲かあり、これが終わるころ「あばれ獅子」が飛び出してくる。 祭礼のカナメ、祭神の神霊を 本殿は後の高い所で、そこから神霊を、何というものか知らないのだが、傘のような物の中に遷し、それからまた鳳輦に遷すようである。 神が誕生する地は本来は本殿ではなく、どこか古来からの磐座ではなかったのかと想像するが、その地は伝わらないようである。その誕生の地から、本殿へ渡るのが神幸祭の本来の姿と私は想像している。そうした行事はいつの時代かに中断して絶え、新たに再興してこうした姿になったものと思う。 神幸の巡行は11時30分の予定 まだ祭は続くのですが、この先はいずれまた… (参考文献) 『元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図』(籠神社社務所発行)より 〈 例祭 當社の例祭は明治以降四月二十四日に行われる。然し往古は四月の二の午の日に行われる古例であった。そして之の神事を葵祭又は葵神事と云い、又之の御神事を御蔭祭とも呼ぶ。之は山城の一之宮である賀茂別雷神社並びに賀茂御祖神社で古来四月の二の午の日に御蔭祭が行われ、又同月二の酉の日に葵祭が行われたのと軌を一にし、欽明天皇の御代に始まったと伝えられる。當宮祭神を葵大神、又は青位大神とも申す古記も存する。之は御祭神の再誕に関する、所謂御生れの神事であるが、當神社に於ては更にその淵源をたどると、人皇四代懿徳天皇の御代四年甲午年に始まったと伝えられ、之の祭儀には豊受大神及び、彦火明命・彦火火出見命・丹波道主命に関する深秘がある。賀茂社と異る所は、賀茂の祭礼では祭員が葵の葉を付けるが、當社では祭員等が冠に藤の花を挿すことが古来の例になっている点である。このように當神社では藤の花が御祭神に深い由縁を持ち、その始めは藤祭と称していたのであるが、欽明天皇の御代に始まった賀茂祭が葵祭と称せられるに及んで、當神社でも葵祭と称されるに至ったと伝えられる。 これは當神社の元初の祭神豊受大神が水徳の大神であらせられ、与謝郡真名井原の真名井の水に因んだ本来の故事であったからである。 伊勢の祠官度会元長の神祇百首と云う和歌に、「藤花 花開ハ真名井ノ水ヲ結トテ藤岡山ハアカラメナセソ」とあり、註に「件ノ真名井ノ水ハ自天上降坐ス始ハ日向ノ高千穂ノ山ニ居置給フ其後、丹波与佐之宮ニ移シ居置タマフ、豊受大神勢州山田原ニ御遷幸仍彼水ヲ藤岡山ノ麓ニ居祝奉リ朝夕ノ大御饌料トナス」と見える。これは藤の花と真名井の水のことを詠じた歌であるが、外に當神社の祭に藤の花を用いたことは、後拾遺和歌集に良暹法師の詠める歌に、「千歳経ん君が頭挿せる藤の花、松に懸れる心地こそすれ」とあるに依って知られている。 本宮に対して奥宮である真名井神社の例祭は、豊受大神が伊勢国に御鎮座された日の前日である九月十五日であったが、明治以後新暦を用いるようになってからは十月十五日となった。 豊受大神はその御神格の中に月神としての一面も持っておられ、真名井神社の昔の例祭が、九月十五日と云う満月の日に行われた事もその反映と思われる。又その御神徳が数字の奇数に関わりがあり、一年の五節句(一月七日、三月三日、五月五日、七月七日、九月九日)、殊に後の七・九の二節句とは最も深い結びつきの神秘がある。古来中国に於て、奇数が陽とされ、偶数は陰を表した事と照應する教学が、當神社祭神秘伝の中に存するようである。 特殊神事 當神社の御神事の神事は御蔭神事と申し、當神社第一の神事である。 之は御祭神彦火火出見命が、天の御蔭日の御蔭とかくりまして、世をしろしめす行事と伝えられるが、當神社に於ける御生れの神は丹波道主命である事は最近まで極秘伝とされていた。又、賀茂に於ては別雷神と申されている。 この御神事(お渡り)には、太刀振神事と云う典雅雄壮な特殊神事が遠く貞観年中から行われている。更に神代からと伝えられている鶺鴒囃(ササバヤシ)の古儀も行われるが、之は爺と孫(男子)、即ち祖孫共演の笹竹のはやしであり、弥生期農耕社会の一つの習俗を、現代に伝える極めて貴重な神事であると云われている。 又、現在は中絶しているが、塩土の神が彦火火出見命の為に籠船を造られた故事に依って、「塩土の舞」と称された神楽、又、彦火火出見命と浦嶋太郎に因んだ「児の舞」と云う神楽のあった事が古記により知られる。 又、真名井神社の例祭には豊受大神に深い由縁を持つ、五穀神事と云う古儀が伝わっている。 〉 |
資料編の索引
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丹後一宮・元伊勢籠神社は、国宝・「海部
氏系図」はじめ数々の至宝が伝わる。
磐座時代まで遡る歴史を持つ上に、風光
明媚で知られる日本三景・天橋立にある。
葵祭(藤祭)も2500余年の歴史を持つとい
われ、当神社最大の祭礼とされる。