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若狭高浜・7年祭 '13
 (高浜町・佐伎治神社)





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山上り

 「祭」は俳句では夏の季語という。夏の季語にしたのは京都の賀茂祭(葵祭)が6月に行われるためというが、祭といえば夏祭が主流のような感じになっている。しかしそれは都市においてであろう。丹後では伊根町の「海の祇園祭」、与保呂の「虫送り」もその一種か、城屋の「揚松明」はどうか。農村では春祭や秋祭が主流である。
夏祭には疫霊や罪穢を流し去る水辺の行事が多いとされる。丹後の東隣の高浜町の7年祭では、都市と呼べるかどうかわからないような小さな町だが(失礼)、ご覧のように祇園祭が彷彿させられる光景だし、主祭神は素盞嗚尊、お田植え(田楽?)に始まり、御輿の足洗いに終わる、「悪いものは水に流そう」のまさに水辺の疫病祓い怨霊祓い御霊会の起源が引き継がれていそうである。
当地ははやくから都市問題をかかえた町だったかと思われる。現在は押しつけられた原発をのぞけば、そうした不健康な土地柄とは見えない所である。地形とすればよほどに舞鶴の方が不健康そうな町で、見ろ、それが証拠に、舞鶴は医者ばかり、病院ばかりではないか、大儲けしているではないかと、昔から言われている。
海軍関係で舞鶴に赴任してきた軍人軍属の夫人がよく病気にやられているように思われる、特に太平洋側で育った人にはつらい土地柄のようである。
市民の健康によいことは何もしないくせに、病院が多すぎるといって潰してしまい、おまけに放射能ガレキ受け入れ燃やすと言いだす、台風の洪水ガレキを受け入れてもらったお礼だという、オイオイオイオイオイオイ、洪水ガレキと放射能ガレキはまったく違うものだろが、幼稚園様の頭しかないのか、10万市民の命を預かっているのだぞ、もうちいとしっかりしてくれよ! 行政や政治屋どもの超めでたさ、舞鶴地形の健康上の特質もご勉強にもなっていない様子、頭もご重体なのであろうかのぉ、悲しい不健康で愚かなことではサイコー、これでは全世界から世界遺産に推薦されかねない、名誉なことではないか。しかし祇園会のような祭はない。今はともかくも過去は、さまざまな都市問題に悩むほどの大きな町ではなかったのではなかろうか。
『京都の夏祭りと民俗信仰』は、

 〈 小浜(福井県)では、「大疫病」がおこると「町中より人像を作り舟に乗せ」て町を練り「果は海へ舟を流す」といわれており、宮津(京都府)でも天保八(一八三七)年の厄病送りについて、町中総掛かりで「厄病送」を行い、山伏に祈祷を頼み、人形・舟など種々の作り物を拵えて町はずれの鶏塚へ送り焼き払っている。  〉 
何か効果あったかはわからないが、丹後田辺については記述はない。当ページの一番下に『舞鶴市史』の記述を引いた。祈祷が頼りのようで疫病送りのようなことはしていないようである。
さて、社前の案内板案内板

 〈 当社概誌。
神社名、佐伎治神社。
祭神、素盞鳴命・大己貴命・稲田姫命。
由緒、延喜式神名帳大飯郡小七座の一。若狭国神階記従三位砕導明神。中世社記焼失のため創建年代其他不詳なれども考証によれば、景行天皇皇子磐鹿 命に若狭国を授け賜ひし時既に当社在りしものの如く今より一千八百年以前の創建と推定せらる。
長寛年中神殿改造永禄年中高浜の領主二条某社領田七町七反歩寄進当時社運興隆なりしき往昔は或は薗部村なる深田の中園池林という処に在りしとも言い或は現今の城山の地に在りしとも言う。而して天正年中当国々武田家臣逸見駿河守昌経現在の地に遷し祀れりと伝う其後木下宮内少輔利房高浜の領主となるに及び大いに崇敬して造営後堀尾茂助吉晴造営の志ありしも未だ破損なかりしため鐘楼を建立せりという。
元和三年卜部兼英の文に、正一位砕導大明神の行名見ゆれど進階の年代不詳なり、正一位碎導大明神の鳥居扁額及正保三年酒井讃岐守忠勝造営の棟札及び安永六年の造営に際し酒井修理太夫忠治白銀一枚寄進の棟札存す。中世神仏混合の思想より社域に龍蔵院(真言)を建立社僧及び別に社人と称する者を以ちて奉仕し来りしが明治の新政となるに及び寺院を廃し新たに神職を任命。明治八年四月県社に列格同四十一年四月神饌幣帛供進神社に指定せらる。
神紋橘
祈年祭 三月十七日。
大祭日 例祭 十月十二日、十三日。
    新嘗祭 十一月二十三日。
    式年神幸祭(七年祭り)
特殊祭儀 巳年亥年の六月卯の日より酉の日まで。
請雨祭 非常の大旱に行う。
鳥居洗式 二十五年毎。
氏子区域 現高浜町高浜地区  〉 
佐伎治神社本殿
 佐伎治神社は式内社で、享禄5年の神名帳写(小野寺文書)には「砕導明神」とみえ、「若狭郡県志」は「砕導大明神」として「在高浜村木津ノ庄十ケ村之産神也」とある。
「若州管内社寺由緒記」は、もと園部にあったが逸見駿河守が現在地へ移したと記す。この頃別当寺として竜蔵院があったともいう。

当社には七年祭(県無形民俗文化財)とよばれる行事がある。連歌師・里村紹巴は、橋立紀行の途次、ここを通って「高浜祇園会桟敷なとうたれければ一見して明る夜ふかく立出ぬ」(永禄12年(1659)6月19日条)とあるそうで、少なくともそのころにはすでに行われていたと思われる。以前には旧暦6月の卯の日から酉の日まで7日間行われていたが、海水浴シーズンの関係で、そのつど協議により大体1ヵ月程早められて行われている。露店
2013年は6月30日〜7月6日であった。










 第一日 御輿おろし

 第一日目は、各区からの練込のあと、午前中に社殿前で御田植・太刀振などが行われ、午後は神輿が町中を練歩く。
若狭最大の祭といわれるだけあって、氏子はもちろんそうだろうけれども、たいへんな人波で、たんなる見物人もたいへん、期間が長く、場所は広大で、写真をしっかりと写すなどは神様でもムリである。


 お田植え(福井県指定無形民俗文化財)
お田植え

 

出演者は、
神主     左烏帽子に束帯姿、下駄をはき御幣をもつ   3人
御用かの  結城縞織の衣裳、白足袋、下駄ばき、白鉢巻をする
   エブリを持つ者  3人
   鍬を持つ物    7人(定数らしいが、今年はそれだけはいないよう)
早乙女   幼女。揃いの着物に赤襷白足袋下駄、扇子をもち花笠 10数人
おじいさん 浅黄麻裃をきて早乙女の指導役 1人

神主の唱え唄に合わせて「ごよがの」(御用家農か)がまず鍬にて荒起し、続いて田をならし「おじいさん」にひかれた早乙女たちが、口を揃えて謡をうたい田植えの所作をする。衣装が異形で派手で華美、やはり風流田楽系のものになるのだろうか。
ションボリ植えまする、というセリフもある、大田植えでない、小さな田植えはションボリ田植えとよぷよう、やはり久美浜の菖蒲田植えは田植えなのか。


 太刀振り(ふりもん)(福井県指定無形民俗文化財)
太刀振り
橋弁慶↑
牛若丸が鞍馬の山より武術修業を終り、源氏再興目的のため京の大路を往く途、五条の橋上にて平家滅亡を目指す弁慶と遭遇、弁慶は牛若丸を知らず、その刀ほしさに牛若丸と立ち合い敗北して家来となる場面。
 

「太刀振り」(ふりもん)といっても、出し物がたくさんある。神社前、各町の神輿駐輦所、本陣などで行われる。題目は、
東神輿(薗部区)
「橋弁慶」、「藤の棚」、「幡随院」、「白石噺」、「宗五郎」、「鈴ケ森」
中神輿(塩土区)
「伊達風俗」、「藤の棚」、「熊坂」、「彦左権現」、「橋弁慶」、「白石仇討」
西神輿(子生区中津海区立石区畑区)
「露払い」、「小太刀」、「棒振り」、「橋弁慶」、「日傘振」(以上子供) 「大長刀」

『稚狭考』に「大飯郡高浜の祭りは亥・巳の年に行はる、この祭りに太刀ふりといふ事あり、大鼓の節に合せた太刀を左、右より打合すなり」と記している。
丹後の「ふりもん」とちがって、演出が強くストーリーがあり、太鼓の囃子、奉納神事というより芝居性がある、近世都市の文化ではなかろうか。橋弁慶などは舞鶴河辺八幡にあったが、丹後ではほかにはないのではなかろうか。


 神楽
神楽
 

荒獅子の一場面
題目には「弊の舞」「剣の舞」「本神楽」「荒獅子」がある。


 三御輿の巡幸

 



 御輿は3基ある。↑これは素盞嗚尊の御輿で一番大きく、130人で舁ぐ。
祭神が3柱だから、かも知れないし、ほかに理由があるのかも知れない。祇園祭も3基の御輿である。それぞれ境内で砂ぼこりを巻き上げて大暴れしたあと、町内巡幸に出て行く。




  第二日目 山上がり

 祭礼二日目は「山上がり」と称されて、7基の全曳山が神社本殿前に揃う。曳山といってもすべて「芸屋台」であるが、いずれも華麗壮観で立派なものある。祇園祭の「山」は人形さんが乗っているが、古くは人が乗って芸をしていたのではともいわれる、また今も路面で芸をする「山」もあるから、芸屋台も「山」と言えば「山」なのかも、人にかつがれたり担われたりするものでなく、車輪がついていて曳かれる大きな「山」で、あるいは少しヘボイめの本物祇園祭の「山」くらいなら負けそうにもない感じがある。
曳山(7年祭り)


 本殿へ向かって屋台の上で演じられるのだが、見る場所がない。石段の参道だけで、それも鳥居などあるし、何といっても参道なので奉納関係者が参詣する道である、十分見られる所は何名分もない。町内各地の御旅所や本陣などで奉納されるのを見るのがいいのかも知れない。
本殿正面での奉納が終わると、その場所を次の曳山に譲る。子供達の「日本舞踊」「歌謡舞踊」と屋台囃子や太鼓演奏がある。
神様からも見えない↓


曳山
 見物には本殿前石段の参道がベスト、しかし下の方は舞台が見えずダメ、上の方も屋台の屋根や飾り物に役者の顔が隠れてダメ、いいところはわずかな場所しかない。
何年前か、千人も入りそうな大きな会場の大ステージで行われていたことがあるが、あれもダメ、残念ながら舞台負けするというか、ああしたところには向かないのである、決してああした所でやるものではない、こうしたおもちゃのような小舞台ミニミニ劇場で舞われてこそいいようである。
動画のアップも著作権にかかりそうな曲が多く制限されるが、
 






  最終日 本日

 最終の七日目は本日(ほんび)といって神輿の還幸祭が行われる。宮崎海岸の鳥居浜で神輿の御洗式がある。
御霊会はタタリする怨霊を領域外へ囃しながら祓い流し浄めるわけだから、その祟り神を乗せている御輿やこの会に使われたものは一切は本来は流されるか、壊されたり焼かれたりしたものと思われる、御霊会に使われたものは特に二度と絶対に戻ってきてもらっては困るものであるが、今はそのカッコを残するだけである。
 






 参考文献

『定本柳田国男集』「妖怪談義」

 〈 若狭高浜町の県社佐伎治神杜などでも、以前は六月上酉日の大祭に太刀振といふ式あり、氏子等刀を抜いて撃合ひをして後、やはり「だいじりうつた」と口々にののしつたといふ。この社の祭神は素盞嗚尊外二神で祇園祭には相違ないが、祭の式は津島天王と異って居るのに、伴信友翁の如き学者までがこの社の式内の神なることを主張しつつも、しかもその「だいじりうつた」を尾張から模倣したものゝやうに説かれるのは、理窟に合はぬことである。
 自分の見る所では、尾張の台尻大隅守は取りも直さず越前又は日向大隅の禰五郎である。  〉 

五郎、すなわち御霊会のことだろうか。

『大飯郡誌』

 〈 〔若狭国神名帳〕従三位砕道明神
〔若狭国郡県志〕在高浜村木津庄十ケ村之産神也所祭神三座謂素盞鳴尊稲田姫大己貴命是也(略)
〔稚狭考〕高浜村砕導明神さいちと呼来れり近き所に坂田村あり…通音とすべし。
〔神社私考〕砕道と書て佐伊知と唱へり里人の旧記に永禄の頃高浜の領主二条殿より当社に田七町七反寄付ありといふ(〔大田文〕本家二条殿御領立石庄七十六町)其後いたく衰え給ひて薗部村なる深田の中園池森と云ふに小社にして在しを天正の頃逸見駿河守昌経今の地に徒し祭れり其後木下宮内少輔利房(〔妙長寺文書〕惟俊)高浜の領主となり再建す又その後堀尾茂助晴建立の志ありたれとも未破損なきによりて鐘楼を建奉れり縁起に上下大明神(若狭彦姫)の御弟宮也とありと云へり…  〉 

『高浜町誌』

 〈 佐伎治神社
 高浜の南部、砕導(さいち)山麓にある。祭神大己貴命(大国主命)・素盞嗚尊・稲田姫命。旧県社。「延喜式」神名帳に戴る「佐伎治神社」で享禄五年(一五三二)の神名帳写『小野寺文書』には「砕導明神」とみえる。「若狭郡県志」は「砕導大明神社」とある。「若州管内社寺由緒記」には、もと薗部にあったが(住伎治神社由緒略記には現在の城山にあったともいう)逸見駿河守が現在地へ移したと記されている。この頃別当寺として竜蔵院(真言寺)があって、その社僧が常住して神事を併せつかさどっていたが、明治維新「廃仏棄釈神仏混淆」禁止令によって跡を断ったといわれている。
 当社に七年祭とよばれる行事があり、以前には旧暦六月の卯の日から酉の日まで七日間行われていたが数年前より海水浴期の関係でそのつど協議により大体一か月程早められて行われている。第一日を神輿おろしといい、神輿は三基あって中山は塩土、若宮、本町、中町、大西、今在家、宇治、事代地区が担当、東山は薗部、岩神、横町、赤尾町地区、西山は子生、笠原、坂田、立石、中寄、畑地区である。各区からの練込みのあと午前中に広嶺神社前で御田植・社殿前で太刀振り(県指定無形民俗文化財)が行われ、 午後神輿が町中を練り歩く。二日目から六日目までは各区の御旅所などで屋台芸が演じられ、最終の七日目を本日といって神輿の還幸祭が行われ、途中宮崎海岸の鳥居浜で神輿の御洗式がある。当社の神宝に雨乞鐘(県指定文化財)といわれる焚鐘がある。無銘ではあるが平安時代のものだという。
 雨乞鐘は延元元年(一三三六)暴風雨の時、打ち寄せたのでその地名を鐘寄と名づけられた。付近の祠に納めたが「アネゴーン」の音色を発するので、姉に当たる鐘が海中にあるものと幾度か捜したが、引揚げることが出来なかった。その後神のお告げによって永和元年(一三七五)現在の佐伎治神社に奉納した。姉をしたう妹鐘を旱天続きに海中に沈めると雨を降らす故を以て雨乞鐘と名付けた。近年では大旱ばつのため昭和一四年七月一○日午後、鐘寄の海岸に沈めかけると青葉山麓から、紫黒色の雲が盛り上がり雷雨をもたらし、一夜明けた住民は伝説の恐しさと信仰の尊さに感服したのである。
 また神社に元和六年 (一六二○)細川忠興の重臣で戦功目覚しかった沢村大学(横町出身)の寄進による「鰐口」がある。  〉 


当社の性格を表していそうな「雨乞鐘」の伝説。本殿の脇に宝庫がある。朝鮮鐘と伝わる。

雨乞鐘庫

雨乞鐘庫の案内板

『高浜町誌』

 〈 雨乞鐘(中寄)
 むかしのこと、大嵐があった。そのとき、高浜の海辺に一つの鐘が打ち上げられていた。村人たちは、この鐘を拾い上げてお宮へ納めた。
 昔、朝鮮に姉妹の鐘があった。どうしたわけでその鐘が、はるばる日本のしかも高浜の浜近く漂着したのだろう。
 その姉妹の鐘のうち、妹鐘は海嵐に乗って、今の鐘寄の浜へ打ち上げられたのだという。今も佐伎治神社の宝庫に保存されている鐘がそれである。
 伝えによると、この鐘を撞くと今でも、鏡寄の沖合に沈んでいる姉鐘をしたい「アネゴーン」と悲しい響きで鳴るそうである。そこで何とかしてこの姉鐘を引き上げようと、何度も試みたが、そのつど一天にわかにかき曇りものすごい大雨となり、大空が抜けおちたのではないかと思うばかり、しかもそのうえ群り寄って来た烏賊の大群は、海上一面墨を流して水中真っくら闇となり、どうしても引き上げることが出来なかったという。
 そういうことから久しく、旱魃が打ち続き、どうにもならなくなってきた時は、この妹鐘を海辺に運び出し、七日間海中につけると、必ず雨を呼ぶといわれている。そんなことからこの鐘を「雨乞鐘」と名付けられたのである。
 近年では、昭和一四年夏、四○日間の大旱魃のあった時氏子中は、この「雨乞鐘」を、故事にならって七月一○日午後一一時鐘寄海岸に沈めようとした。ところが見る見る青葉山麓から紫黒のものすごい雲がわき上がり、またたく間に大粒の雨となり、その夜も雷雨がはげしく住民は恐れおののいて神徳の深いのに驚き入ったということである。
  (注)延元元年(一三三六)丙子八月十一日荒浪のため此鐘の寄りたる場所は上ユリ村下ユリ村の境なり鐘を曳揚げたる時は村中惣掛りなりし是を両村の名付神・ユリの御前へ上げたる処鐘衝き堂の釣り木折れ落ちたるに付湯を上げ候処妾は女の事故佐一彦(佐伎治社)へあげ呉れよとの神口あり永和元年(一三七五)乙卯三月三日住一彦へ納む
     延元元年丙子八月十一日上下両村は浪荒の為め疲労名状し難く神様へ湯を上げ候処神名を村名に附けるを故荒れ候まだ外にむつかしき事あるとの神口あり其由を上様へ願ひ御見分の上御しかゑ下され候 一、上ユリ村は鐘を曳揚げたるに付鐘寄村と改む云々
     (佐伎治神社誌)
 この鐘は、昭和三一年三月一二日福井県指定文化財となり、若狭地方最古の和鐘といわれている。
 鐘の丈、九三センチ、鉢回り、一六○センチ、そのほか、胴回りの文様などに和鐘としては珍しい特徴がある。
   月いづこ 鐘は沈める 海の底  芭蕉
               於敦賀吟



和鐘 一口 佐伎治神社
                      総高九三p 口径五一p
                          鎌倉時代
若狭最古の梵鐘で、同社神庫につるされている。銘文はないが、上帯にある飛雲文及び竜頭の形状から鎌倉時代の初期に鋳造されたものと考えられる。鐘身鋳型の外型が上下二段からなり、乳の形状が短円柱形である点から、平安時代から鎌倉時代にかけての頃に造られたものであろう。乳は四段四列、上帯に飛雲文が陽鋳され、池の間(二八・○センチ×六・五センチ) に舟型光背を背負う不動明王らしい像容が各四面に陽鋳されている。
社伝によれば、延元元年(一三三六)八月一一日中津海の海岸に漂着し、永和元年(一三七五)に神告によって佐伎治神社に奉納されたものであるという。通称雨乞鐘と呼ばれている。伝説によると、この鐘のほかに今一つの鐘が海底にあると伝えられ、それが姉鐘で、打ち上げられたのは妹鐘だという。残っている姉鐘を引き揚げようとこの鐘を海に入れると、海中はたちまち暗黒に濁り、今猶引き揚げられていない。それで、旱魃の際、この鐘を海中に入れ雨乞いをしたのだと伝えている。  〉 


佐伎治神社の本来の祭神は天日槍でなかろうかとする説もある。元の鎮座地薗部といい、サバ街道の起点地笠原、朝鮮鐘の伝説といい、金属や海との関わりといい、宇治という地名もあって、そう見るのがあるいは正解かも知れない。
『地名・苗字の起源99の謎』

 〈 こうして但馬の出石を定住の地としたアメノヒボコ族は、その地の首長たちと姻戚関係を結ぶことで勢力をしだいに土着化させていった。たとえば前津見(サキツミ)などはその土着の先住勢力のひとりであるが、『延喜式』〈神名帳〉に「但馬ノ国の養父ノ郡 佐伎都比古阿流知ノ命ノ神社二座」とあることから推測すれば、「前(サキ)」・「佐伎(サキ)」は「沙[羅]城(サラキ)(=斯[羅]城)(シラキ)で、「津」・「都」は「の」、「見」は「主」、「阿流知」は朝鮮古代語の「閼智(=主)」だと見てよいだろう。これと似た名前の神社には佐伎治神社(若狭・大飯郡の高浜)などがある。  〉 


『舞鶴市史』

 〈 疫病
 疫病は飢謹と共に発生することが多い。一度発生するとたちまちまん延し、簡単には治まらず犠牲者も出る状況であった。この対策は神仏に頼る以外にこれを押さえる手立てがなかった。藩は町人たちに、挙って朝代社、大川社、理正院(円隆寺)、愛宕社等へ参拝、祈祷に参加するよう呼びかけた。また、全町、各町の町人も自ら神社へ参拝すると共に、臨時待ち、日尽くしを行った(「同上」)。
 近世初期の記録は見当たらないが、天明期以後の「病難除御祈祷」の記録を示すと次の通りである。

 天明四年(一七八四)五月十九日  藩主より病難除御祈祷の御札を町中へ遣わさ れる。同二十三日臨時待ちで朝代社 理正院へ総参り。同二十四日日尺し
 〃 五年(一七八五)七月二十三日 総町中より御祈祷 町方流行病の気配があるので、病難除                        御祈祷、二十三日臨時待、同日日懸かり 町中総参り、朝代                       社、愛宕社(知恩院)、神明社 公儀より仰せ出された触書に                       は、
                 一 時疫ニハ大つぷの黒大豆をよくいりて壱合、甘草壱匁水にてせんじ                   出し、時々飲んでよし
                 一 時疫ニハ茗荷の根と葉をつきくだき汁を多く飲んでよし
                 一 時疫には牛蒡をつきくだき、汁をしぼり、茶碗半分ずつを二度飲ん                   で、その上桑の葉を一握り弱火にてよくあぶり、きいろに成たる時、茶                   碗四はい分の水を二はいせんじて一度に飲んで汗をかきてよし、も                   し桑の葉なくば枝にてもよしと教えている
 〃          七月〜九月  天下風邪流行、しかし人は死なず
享和三年(一八○三)四月      四月ころ日本中にはしかはやる
天保九年(一八三八)八月      城下町一帯疫病流行容易に終息せず、町々からの願いにより                      朝代社において十四日鎮疫祭、十五日勧請御祈祷を頼み、十                      五日朝五ッ時(午前八時)年寄・肝煎は上下(かみしも)をつけ                      参詣のこと、組頭ははかま、羽織を着用、並びに町方すべて参                      詣のこと十四日臨時待、十五日日尽し、十六日円隆寺で鎮災消                     除の祈祷を行う
安政六年(一八五九)七月二十八日 世上で悪病が流行し、朝代で祈祷正四ッ時、年寄・肝煎羽織                       、はかま着用参詣する
〃 七年(一八六○)二月二十五日 朝代社にて朝五ッ時より七ッ時(午後四時)まで庚申祭、流行                       病除去の祈祷執行、年寄・肝煎ははかま、羽織を着用の上参                       詣する
万廷元年(一八六○)八月    諸所でコロリという病気に多くの人が患う。東吉原町内の世話方                     や役方から当病が平静になるよう吉坂稲荷へ祈祷依頼、神主は                     東稲荷社にて二夜三日の祈祷をおこなう
文久二年(一八六二)七月   当年性上一統はしか大流行する
                     (「田村家・森本家・土井家文書」「竹屋区有文書」)  〉 













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