冠島と沓島(舞鶴市)




 鳥か魚でもない限りは、舞鶴であっても簡単には行けそうにもない孤島。舞鶴野原の北方約10キロ、伊根町新井崎の東方約10キロの若狭湾上。
「まいづる秘境自然観察ツアー」に応募してでかけてみた。

この島の周辺は好漁場、あるいはダイビングも盛んのよう、そんなことが趣味な人でもないかぎりは行く機会はない。陸地からはるかに望む以外にはない。

自然保護のため、どちらの島も上陸は禁止されていて、行っても上陸はできない。そのため自然の宝庫であるという。




冠島・沓島遠望
↑野原からだと、二つの島の間を抜けて行くようである。左は高島、右手の岩は名を知らない。ここからだと真北へちょうど10キロある。






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 冠島


冠島・沓島:野原港出航
↑ 10:30、野原を出発。快晴、ベタ凪ぎ、風もない。空も空気もすでに秋の気配濃厚で、ちょっとない最高の日和だが、気温は37.6°Cにもなり、全国第二位の熱さになった。町全体でストーブを焚いているような、サウナへ入ったような、などと形容されるフェーン現象特有の息が苦しくなる暑さである。舞鶴は北国だから涼しかろうなどと考えてはならない、写真の日より4日後の10年の9月1日は、38.3度にもなり、全国一の熱さになった。私らの子供の頃は夏は熱くても31度だったが、ここ50年ばかりで7度は高くなっている、やはり地球温暖化か。もし全地球規模でこんな温度上昇があれば想像を絶したとんでもない大異変が発生することになるが−−

冠島・沓島
↑ 夏のモヤモヤがなく、遠くまでスッキリ見える。丹後半島はもとより、能登半島の山並までかすかに見える。こんな日はそうない。

冠島
↑ この船は高速、ここまで30分もかからずにやってきた。

冠島
↑ 老人嶋神社の鳥居が見える。頂上付近の少しハゲて褐色の所は台風23号で崩れたところ、古木が何本も倒れて海まで落ちたという、竜巻かといわれる。海岸ブチには白い石がたくさんあるよう、安山岩系のものか。

冠島
↑ 海はきれい。底まで見える。ダイビングのメッカはそのためか。

冠島
↑ 冠島に沿って、左回り。

冠島
↑ 舞鶴大浦半島の冠島・沓島に面した側は花崗岩だけれども、冠島・沓島はそこには似てなくて、西方の丹後半島系の地質のよう。丹後半島のカケラであろうか。この周辺では幾度も幾度も想像絶した規模の陥没や隆起が起こったのかも…


冠島の地形図(『舞鶴市史』より)
『舞鶴市史』は、(地図も)
 〈 冠島
舞鶴市北方、若狭湾上の無人島で、舞鶴港より二八キロはなれ、北緯三五度四○分四一秒、東経一三五度二五分四三秒にあり、大正十三年十二月九日(内務省告示第七七七号)オオミズナギドリ繁鋤地として、天然記念物に日本で最初に指定された。冠島と沓島及び中間の礁の配列は、ほぼ北二○度東の方向で新井崎(丹後半島)から南南西に伸びる海岸線の方向と大体一致している。(写真1)
 島は東西四一三メートル、南北一、三一六メートル、標高一六九・七メートルで面積二二万三、○○○平方メートルの無人島である。山地の大部分は角閃石安山岩で、遠望すると冠状で老樹密生し、原生林を構成している。南方の平地は沖積層の砂礫からなり、常緑灌木が密生し、一部低地となり、沼沢化しているところがある。海岸まで急峻で絶壁のところが多く、海岸は大きな岩が重なり合っていて、砂浜はない。西部、東部の一部に中新世の凝灰岩、凝灰角礫岩、凝灰質泥岩が露出している。この層に植物化石、落葉樹一六種、常緑闊葉樹五種を包含している。
 島は断崖や、海岸を除き、対馬暖流の影響を受け、タブノキ、シロダモ、スタジヒ、モチノキ、ヤブツバキ、 イヌマキ、ケグワ、ムサシアブミ、オオカサスゲ、キノクニスゲ等の常緑闊葉樹、落葉闊葉樹が混生した原生林で、暖帯植物景観を示している。
 島内には老人嶋神社、船玉神社があり、日本海沿岸の漁師の崇敬あつく、昔から大漁祈願のため近在漁村から「雄鳥参り」の行事が行われる。
 第二次世界大戦中に海軍は冠島聴測照射所を設置し、兵員が常駐した。冠島は奥島、恩津島、大島、老人島、雄島など異名が多い。(図4)

冠島の暖性樹林(小橋)
冠島は全山がほとんど原始林でおおわれ、対島暖流の影響を受けて、常緑闊葉樹が密林をなしている。ことに山の峰にあたる部分はモチノキを主要樹とした樹齢五〇〇年〜八○○年位のシロダモ、ヤブツバキ、ナナメノキ、ヒロハノアオキ、イヌマキの大木が見られる。
その他、丹後地方としては本島のみに産するもので、湿地帯のオオカサスゲ、やせた地区のキクニスゲ(分布北限)、キジョラン、山腹に見られるナゴラン、平地のムサシアブミ(分布北限)等は貴重な植生である。  〉 

『京都府の地名』は、
 〈 冠島
 舞鶴市北方、若狭湾上の無人島。舞鶴港から二八キロ、北緯三五度四〇分四一秒、東経一三五度二五分四三秒。
 島は東西約四一三メートル、南北約一千三一六メートル、最高地の標高一六九・七メートルで、面積は二二万三千平方メートル。山地の大部分は角閃石安山岩で、南部の平地は沖積層の砂轢からなる。西部および東部の一部に中新世の凝灰岩・凝灰角礫岩・凝灰質泥岩が露出している。埴生は対馬暖流の影響を受けて、常縁濶葉樹・落葉濶葉樹が混生する原生林をつくる。またこの島はオオミズナギドリの繁殖地として、天然記念物に指定されている。当地方ではオオミズナギドリは「サバ鳥」(丹哥府志)とよばれ、洋上を群遊し魚類を追って移動するので漁場の目安となった。…  〉 

この日はすでに学術調査隊が何名か上陸していて、上のような調査をしていたそうである。日本列島、日本海の誕生時代の地質のようである。

 ↓冠島・沓島の地図


↓冠島の北側から西側へ。
冠島:立神岩


冠島:立神岩


冠島


冠島
↑ 立神岩。

『丹後風土記残欠』に、
 〈 凡海郷。凡海郷は、往昔、此田造郷万代浜を去ること四拾三里。□□を去ること三拾五里二歩。四面皆海に属す壱之大島也。其凡海と称する所以は、古老伝えて曰く、往昔、天下治しめしし大穴持命と少彦名命が此地に致り坐せし時に当たり、海中所在之小島を引き集める時に、潮が凡枯れて以て壱島に成る。故に凡海と云う。ときに大宝元年(701)三月己亥、地震三日やまず、此里一夜にして蒼海と為る。漸くわずかに郷中の高山二峯と立神岩、海上に出たり、今号つけて常世嶋と云う。亦俗に男嶋女嶋と称す。嶋毎に祠有り。祭る所は、天火明神と日子郎女神也。是れは海部直並びに凡海連等が祖神と斎所以也。(以下八行虫食)  〉 
沈島伝説、アトランチス伝説は何もこの島だけではない。アトランチスは大西洋(Atlantic Ocean)の名にも残されているが、ジブラルタル海峡の西方、大西洋にあったとされる大陸。プラトンの対話編『ティマイオス』・『クリティアス』に現れる伝説上の楽土で、紀元前1万年前くらいに地震のため一夜で海中に没したという。
「地震三日やまず、此里一夜にして滄海と為る」などはプラトンとの繋がりを思わせられる。
ビーナス
こうした岩を「立神」と呼ぶのは南方系の言葉のようである。何も信仰の対象とはなってはいない。

もともとは海の神様は女神様ではなかろうか。たいへんに美しい、美の女神も海の泡のなかから生まれたとか。








『田井校区のすがた』風島(葛島)
 〈 葛島神社(成生)−鳴生神社境内
葛嶋(風嶋)は、大宝元年の大地震までは大きい嶋で、東側の平地にこの神社があった。地震のため二〇〇米ほども海中に沈み、神殿は黒地の端に流れついたといわれる。そこでその流れついたところを宮ケ崎と呼んでいる。それから小字平の地に移したが、後、また現在地に移築したといわれている。  〉 



『舞鶴の民話4』馬立島
 〈 大和の侵略。 若狭富士といわれる京都府と福井県にまたがる青葉山は、かつて活火山として、煙をはいていたが、若狭の島々は陸つづきであり、人も住んでいた。対馬海流に乗って百済の方から来たのか、現地に住んでいた原住民が勢力をはっていた。ある説によると出雲から北へ来た人たちともいう。
大和の勢力が勢力拡大のため、若狭の方へ攻めてきた、その騎兵隊の一行が、青葉山に住んでいる豪族を攻め現在の田井の方へ攻めていったとき、馬が一斉に立ちあがった。それでここを馬立と名づけた。何年前か分からないが青葉山が噴火し、それぞれの土地に海水が流れてきて、島となってしまったという。  〉 

これらの伝説は本当の話かどうか、そうしたことに現代人は興味があるようで、信じられない絶対にウソだというのが現在は学問的主流の様子。
現代人的なアサハカさではなかろうか。しっかりとこの種の記録に目を向けておかないと、同様な巨大地震は明日発生するかも−、発生しないことは絶対にないのである。これら伝説は将来への予言録でもあることをユメ忘れまい。

冠島


冠島


冠島


冠島


冠島・沓島
↑ こんな上天気の風も波もない日には魚もいないのか、鳥がまったく見えない。遊漁船もいない。


冠島へ上陸した様子は…
雄島参り2012
雄島参り2011






 沓島



↓ 冠島の2.2キロ沖合にある沓島南側より左回りする。
沓島


沓島


沓島


沓島


沓島
↑ 島の東側は絶壁。一番高いところは海抜80メートル。ロッククライミングの腕前ある人でも尻込みしそうな島。

沓島
↑ 沓島は二つの島よりなる。手前側を棒島。先を釣鐘島という。

沓島
↑ 釣鐘島に登るには写真の手前側より登るのだそうである。凝灰岩が挟まれている、グリーンタフか、湖か海底に堆積した地層と思われる、崖から崩れ落ちた礫が波打ちぎわに見え、どうもそれほど硬い岩と思えぬが、登れば岩はボロボロと崩れるという。比較的新しく隆起したのか、あるいは周囲が陥没してこの島だけが取り残されたか…、

沓島


沓島


沓島


沓島


沓島


沓島
↑ この写真が市史にある。沓島を北側より見た所。釣鐘というよりも海坊主がヌっと海底から顔を出したような感じ。ここが一番高く海抜85mある。


海坊主

明るい真昼だからいいようなものの、暗闇やシケの日に見れば、ゼッタイに海坊主に見えると思う。
灯台もなにもない。



 『舞鶴市史』
 〈 冠島の北方二・二キロに沓島がある。この島は二島からなり、面積は九、六八五・五平方メートル、高さは北の釣鐘島は八六メートに 南の捧島は八○メートル、周囲は絶壁で、上陸は困難である。捧島は頂上付近には矮樹があり、草本性植物が生えているが、大部分は裸岩である。舞鶴市が昭和四十年五月三十日に、ウミネコの繁殖地として、天然記念物に指定し、その後、ヒメクロウミツバメが繁殖していることが分かり、昭和四十三年五月二十三日に、内容追加の指定をした。
 昭和四十八年五月、沓島で日本海域で初めてカンムリウミスズメが繁殖していることが確認された。このほかにゴイサギが繁殖し、オオミズナギドリも頂上近くで繁殖し、ウミウ、ヒメウが生息するなど海鳥類の生息地、繁殖地として貴重なもので、注目されている。  〉 



沓島


沓島


沓島


沓島


沓島


沓島
↑ 西側も絶壁。ただ隊長がユビ指しす地点だけが少し緩やかで、ここならなんとか上陸はできるという。大本教開祖の出口ナオさんはここで11日間修行されたという。冠島・沓島はもともとは女人禁制の島。何もなく、岩に鎖で身を縛り付ける、今日などは岩場は60°にもなる、エチオピアのアンドロメダのようにして修行された。信者がこの場所を訪れるという。ノホホンの環境ではバカになることがあっても悟りなど開けたりはしない、人間、他の生き物もそうかも知れないが、リコウにはならない。ナオさんはその時68歳であったという。誰でも悟りが開けるわけではありませんから、マネをしないで下さい。

沓島


沓島




      

 (資料)

この日もらったコピー。財団法人国立公園協会が発行している『国立公園』2009.9号より
 〈 若狭湾国定公園西部 舞鶴を歩く
自然公園指導員京都府連絡会会長 荒木邦雄

冠島・沓島
 若狭湾国定公園西部の代表的景観要素の一つは、舞鶴湾の沖合約一〇qにある国指定天然記念物の冠島と、その二q程沖に位置する舞鶴市指定天然記念物の沓島である。
 冠島は、オオミズナギドリの繁殖地として大正一三年一二月に、我が国最初の天然記念物指定を受け今日に至っている。島内には二〇万羽を超えるオオミズナギドリの巣穴が地面のいたる所に作られている。無人島で上陸禁止のため、豊かな自然が残されていて、新種の生物が次々に発見されている。
 沓島も無人島で周囲は八〇mの断崖絶壁である。昭和四〇年五月三一日に、ウミネコ、ヒメクロウミツバメの繁殖地として舞鶴市指定天然記念物に指定されている。六月の繁殖期には、約一万羽のウミネコが抱卵する。他にヒメクロウミツバメ三〇〇羽超とカンムリウミツバメが棲息し、また、独自の進化をとげた陸産貝類(デンデンムシ)のナミマイマイ、ナミギセルがいる。この貝類は小さく、貝殻が硬い。水の乏しい沓島で生存するために、水分をできるだけ外部に逃さないよう工夫したものと思われる。岩だらけの島は、真夏の気温が六〇℃近くにもなる過酷な環境である。  〉 

 『丹哥府志』
 〈 【冠島】(宮津より海程凡八里、田辺より八里、小浜より八里、伊根湾より三里、野原、小橋より三里、出図)
【沓島】(冠島より相隔つ一里半、出図)
冠、沓の二島俗に沖の島といふ、一に雄島女島と呼ぶ、又大島小島、陰陽島、釣鐘島棒島、鶺鴒島などともいふ、皆二島相対する處の名なり。昔陰陽の二神爰に天降り初て夫婦の因を結ぶ、於是荒海大神といふ龍王を退治し給ふ、是時天女天降りて天の浮橋に松樹を植ゆ、天の橋立是なり、と風土記に見えたり。…略…
【老人島大明神】(島内)
老人島大明神俗に小島大明神とも称す、野原、小橋、三浜三ケ村の氏神なり。梅雨前後風波穏なる日浦々の者太鼓を撃つつ多く参詣す、蓋黄昏より船を艤して暁島に至る、島の前後に猟舟の泊するものあり、依て参詣の者酢、酒、味噌、醤油の類を船に出し用ふ也、其魚を買ふて之を肴とす、島の内にも自然生の菜大根の類あり、又竹の子、枇杷尤沢山なり、鯛などを釣る處を見て直に之を屠るに清鮮の味誠に妙なり、好事の者之を奇とする。宮内に米あり、難船の者爰に泊し、其米を借りて之を炊ぎ命を助かる者尠からず。
【洲先大明神】(島内)
島の南に洲あり長サ一丁余、蓋此洲あるを以て船の泊する所なり、其洲先に洲先大明神といふ、渺たる大洋の間風波の為に其洲の壊れざるは洲先大明神の護る所なりといふ。
【立神岩】(出図)
島より十間斗り隔てて切り立たるが如き岩あり、岩周り七八尺四面、其高サ卅丈余、海底幾何ある事をしらず。
【サバ鳥】
鳥の形鴎の如くにて水に泛ぶ、立能はず又樹木に集ること能はず、夜は土を堀りて形を没す、恰も門方の城の如し、波面に浮出たる魚に飛付て之を食ふ、是以其啄み喰する容易ならず、依て餓て常に飽こと能はず、故を以て食に当りては人を畏れず命を惜まず餓鬼ともいふべき様なり、まづ小島に限る鳥なりといふ。辛丑の夏六月十四日伊根浦に宿す、其夜三更の頃月の乗じて舟を泛べ大島に至る。始め鷲崎を出る頃風吹きぬ所謂夜風なり、よって蒲帆を掛て東の白き時分洲先明神の前に至る、明神より島山の下に至る凡二、三丁、其間小石の浜なり、處々にサバ鳥といふもの群り集りて其鳴?々たり、山の麓老樹森々たる間に老人島大明神の社あり、社の前後幟数十本、皆難航に逢ふ者の願済なり、社の後より山に登る、山の模様陸地の山と異ることなく、されども竹木の形は大に異なり松なども古びて葉短く木皮細なり、松にあらざる様にも見えたり、又十囲余もある桐の大木あり、定めて異草異木もある可しと、聊尋ねたれども何分一里余もある山なれば容易に極めがたし、山の内に蛇の大なるもの栖めり所謂うわばみなり、是島の主なりといふ、年々海を絶て野原、三浜の辺に渡る、若し是を見る時は必奇怪のことありて風波必起る、よって舟子余を招きて舟に上らしむ、既に舟に上る頃、日出の光波面に映じて朱を注ぐに似たり、実に日の海中より上るを見る、是時鯛を釣る者あり、又泊宿の漁舟アワビなどを採る、乃ち之を買ふて其鮮を割く、於是一杯を傾けざるを得ず、瓢酒を把てまづ両三杯を喫す。既にして島を巡り立神岩の際より小島に渡る、其間に白岩といふ處あり水底僅に四五尺の處に岩あり、凡四、五丁四方其色皚々たり、凡大島小島の間風は東西より吹き潮は左右より来る、依て處々に渦の處あり実に阿波の鳴門の如し、船人誤て其處に至る、船中皆愕然たり、江魚の腹中に葬られんとす、幸に遁れて小島に渡る、是時に方て再び瓢酒を把て茶椀に盛り之を嚥む凡五杯、傍人皆船に酔て吐気を発し舟中に臥しぬ。小島は大島に比すれば又一段の険阻なり、島の岸に舟をつくべき處もなければ攀ずべき道路もなし、奇岩千尺の間に落々たる怪岩互に聳立つ、誠に一大奇観なり、其険阻の際に?しき草花を見る、又枇杷の実るあり、嗚呼剛の中に柔あり柔の中に剛あり剛柔相摩して変化窮まらず、天地の情是れに於て見るべき也と工風の心起る、又花実の己が為にもせず又人の為にもせず、只天地の自然に任す情態を見るなり。  〉 

 『宮津府志』
 〈 冠島
府城より舟路八里、田辺より三里伊根浦よりも亦三里あり。島の廻り一里六町、山ありて諸木大竹生茂り其内海神の社一宇あり。水無月の頃は筍多く生て漁師の食とせり、但我家に持帰ることを島の神惜み玉ふとなり。諸国廻船俄に風波の凌ぎがたく難風に逢し時此島へ乗付て順風を待つ、島の内に臼杵鍋等ありて其用を達す。此島北受の岸に立神と云立岩あり、丸みさしわたし二間斗の太サにて長サ十五間立たる岩なり、島との間五六間切れて其間深きこと底を知らず、波静かなる時は船にて乗廻し見るなり。此冠島沓島は文殊縁起に文殊大士の冠沓を脱し跡といふは妄なり、橋立記に速日神の降止の霊跡なりとあり。
沓島
冠島の北海上一里を隔てあり。廻り二十三町餘ありとなり。此島には鷹隼等の巣あり、例年田辺よりおろすとなり、両島共に小鳥多く群れ集り曙毎に聲数里に聞ゆとなり。両島田辺の隷にて宮津の所属にあらずといへども、当国の名島にして他邦の人までも称する島なれば洩すに忍びず。此外にも当国海濱に島嶼数多し。  〉 



『丹後資料叢書』より
 〈 丹後の地震は既に千年の歴史を有つ
  (橋立新聞昭和二年三月二十九日第一七三七号至同三十日第一七三八号)   中島丹溪
 日本はほんたうに地震の国だ、あの惨鼻をきはめた関東の震災を始め一昨年の北但地震それにつゞいて今回の奥丹後の地震、まだ若年の吾人が覚えてからでももう三回を数へその都度幾多同胞の貴い生命と巨億の国帑とが一瞬にして灰燼となりおゝす。
 有史以来大地震の数は史学の文献上実に何十回あるか幾百回あるかしれないのである。そしてこゝばかりはまづ以て安全だと思慮し喜び住んでゐたこの丹後の山国でさへ今度はそれが根柢から覆へされてしまっていまや自動車の通る地響きにさへ鼓動の高鳴りを覚ゆるではないか、もう地震と聞くだけでゾッとする実に丹後人は心の平衡を正に失してゐるがやうだ。偉大な学人わが日本の生きたる国宝ともいふべき世界地震学の権威今村明?博士でさへ地震の予言は今尚でき得特ない、天気予報さへ絶対的でない今日地震予言の達成を望むことは恐らく望む方が無理なのであらう。
 同博士の発表には山陰地震帯の活動は明治近年の浜田地震からしてその後漸次東進しつゝあるといふことや山陰沿道は概して急峻な断崖を有し過去において著しい地変のあったことを示してゐるといふのにみてこゝに思ひ起すことは丹後唯一の最古代史丹後風土記の凡海郷の章において千二百年前に起った当地の大地大地震変を傳へて曰く
 「大賓元年三月巳亥地震三日やまずこの郷一夜にして蒼海となり纔に郷中の高山二峯海上にいづ。今號して常世の島といふ俗に称して男島女島と云々」
とある文献でこれによって博士の発表が一層よくうなづかるゝでないか。
 殊に今を去る九百九十九年前延長六年の醍醐帝の御宇に時の国司によって編纂されたるその牧載そして編纂時前僅かに二百年余の該地震を記録するには疑ひを容れ得ない史実として扱はねばならない。今浦辺の人々に聞くと大浦半島から冠島に通ずめ海底には隆起した一線があって双方を繋いでゐる由この事実によって推考するとなるほど地震によってあのあたり一帯が蒼海と変じたことが首肯される。然も凡海郷なる當時の本郡九郷中の一地方が亡びて僅かに老人島に訛語の名残をみせてゐることよりみるもますますこの肯定を深めしむる。試みに地図を披げてこのたびの震災被害地を観察するならば郷村より峯山を経て加悦に通ずる一線とこれに直角位の山田より岩瀧を貫ぬく震災線がある。而してこの山田岩瀧の震災線を引のばして東に至るならば大浦半島と男島との間の海中をば過ぎてつきぬける。この通過上において一千二百年の昔一郷が陥没して大海と変じた凡海郷の大々地震を生起した地下層と現在東漸しつゝありといふ山陰地震帯の活動とが果してどうなるものであらうかといふことを私は痛切に感じいるもので今後もしこの地方にして地震が起るとすれば東丹後や若州の地方はどういふ結果を来すであらうか予測の限りにあらずとするも、今や新築せんとする人はそれぞれに万一のため耐震設備を加へてをく要がありはせぬか敢て大方深慮の諸士に向ひ丹後にありし老人島大地震の文献をば告げてをく。  〉 



↓落丁があるのかつながらないのだが、−
 〈 丹後の地震と成生漁村の古記録
(橋立新聞昭和二年自四月二十日第一七五七號至同二十一日第一七五八號)   中島丹溪

 こゝ丹後の国、大浦半島の一角・北海の怒涛とうとうとよせては返す荒磯に禄こき山を脊にした成生といふ一漁村がある。
 僻遠の地とて杖をひく人は少ないが古来丹後鰤の漁場として廣くその名が喧傳されてゐる。
 ところが今まで豊富であったこの鰤がどうしたことか近年さっぱり少なくなって田井成生の村は勿論のことこれがために加佐郷における経済界にまで多大の影響を及ぼしてゐるといふことであるが今度突如勃発した奥丹地震に遭遇して種々研究の動機を与へられた私ははからずもこの僻地にしてしかも沿革のなかなかに遠く且文献に顕れた史蹟伝記の相応にあることをしることができた。
 多年鰤の豊漁をもって全盛をきわめ村は続々新らしい普請ができる電信電話が通じはては鰤大尽だなどと美くしい言葉の羨望の眼を浴びせかけられて全く成金風を吹かせてゐた田井成生であったが昨年といひ今年といひはやくも鰤の不漁がたゝって全村全滅せんばかりに気をもんでゐる。
 一昨年であったか隣村の野原海岸の畑が陥没して蒼海と変じたとか丹後の沖に沢山の浮石が漂流してゐるとか気持ち悪い噂がもてはやされてゐたことがあつだが、それからまた鰤不漁だといひ、かうした現象はてっきり奥丹地震の前提ではなかったらうか。
 何らの変事もないのに魚族の棲息する場所が変ったり海底の石が浮びあがらう筈はないのであってこれはてつきり今度の地震と関連したかゝわりを持ってゐるに違ひなからう。或は奥丹地震に関係あらずとしても日本海中の海底にはかるべからざる地震、噴火等の地変が起ってゐたのではないかと思はれる。
 さて前にもいったやうに成生については実に今から二千年の昔に遡ることができるのであって丹後風土記の志楽郷の章に曰く
 「人皇十代御間城入彦五十瓊天皇(崇神天皇)の御代丹後の国青葉山中に睦耳、御笠といへる土蜘蛛根拠を定め附近良民を苦むること多かりしかば天皇、日子坐王(開化天皇第三皇子)を遣はして之を討たしめたまふ。王即ち都をたちて若狭丹後の国境に至られたる折不思議や甲胃鳴動して光を顕はすこと恰も火がもゆるが如くなりき。しかる程に巌石ありてその形甲に似たろを以て将軍の甲岩と名づけその地を称して鳴生と號せられたり」と
 この時賊の巨魁睦耳は青葉の山から追はれて志託郷に至りそこの稲木の中に身をひそめて遁れやうとしたが王子は馬を進めてその稲木の中へ入りまさにこれを刺さうと遊ばされたところ睦耳忽ち雲を起し空中を走り飛んで南へ去った。
あり、こゝ三舞鶴人は中島丹溪君の緒論をまたずとも心せねばならない。
 さて丹後の沿革史において最吉の地震記録はかの大寳年間老人島を生じた「凡海郷の大陥没と思ひこんでゐたに、永浜氏によると「白鳳四年の当国大地震」があげられてゐる。なるほどなと思っていると先夜中島君来って人皇十代崇神天皇の御宇青葉山に巣くふ鬼賊退治の日子坐王が北方より該岩窟を改めたとき山地鳴動したゝめに鬼賊は敗亡したといふ。そのときの鳴動を地震地変によるものとなしその地が鳴り生邑であって今日成生と呼称されている。云々等の推考から当国地震記録の最古は右であらうと報じられた。これは既にも述べた陥没的内浦湾のあたりであり全土断砦でなりたちいる成生半島の物語りであるだけに私は中島君の所論を肯定する。
 永浜氏による丹波地震記録、うち適確に丹後が震源地であったと考ふべきものは地変記録のある弘化四年の奥丹木津村にをける「二丈餘地落ち地昇る」の文献であらう。木津村は今回幅四尺にいたる亀裂や、桑田変じて滄海になった耕地の大湖変やそれに新温泉の噴出等いろいろ地変現象のあったところいまを距てる八十年前には二丈余の今日いふ断層が生じたものか、それにしては古老伝のとりたてたもののないのはどうしたことであるか。震源的記録はないが丹後人を極度に震怖せしむるものは明応五年にをいて「五月十一日」と同「八月廿五日」と同一年内にあいを三月をいて丹後に大地震が二回もあったと報ぜられていることである。明治二十九年六月には三陸津浪があって同年八月には陸羽の大地震があった。同一地方にしてこの三箇月に地震のあることは明応五年の丹後にかぎらず世上その例があるのである。寒心せざるをえない。
 先人が後世にのこしをきくれた偉大な賜の安政の地震史三巻についてみるもグワラグワラとくる大震は最初の第一震であってそのあとは余震の中小度のものにすぎない。濃尾地震の体験者談も関東震災も但馬震災もはたまた今次の奥丹地変にをける経験にもこの最初の第一震こそ怖ろしいものであることを詳知するが一震後三月目にをいて更に大地震があるといふ上述した明応五年の丹後大震記録は吾人にひとつの警告を与ふるものではあるまいか、なに、余震は大丈夫さあと太平楽をかまふることはまことに命しらずの言であって、ゆらゆらつと地の震ひを感ぜぱ忽ち長火鉢のあたり伏せ勢をとるか逸早く戸外にとびでるかである。ともかくも敏感にとびだすことがなによりである。
 けふ此頃の丹後は到るところ地震談に花がさく、そして尾鰭のついた誇張談も伴なふ、いや峯山の地震はいきなり地が三尺もとびあがってすぐに家を倒した。にぐるまが全くなかったといふ。いやはや恐ろしい次第であるが諸君、私は右の諸説を虚偽だと針ずる。誇張だと考へる理由は曰く左の通り。
 峯山町の全人口に対し今回の震死者数は三二%である。左すればたすかった数が六八%となる。諸君この六割八分の助者数には倒潰家屋にふせられて屋根をめくりにげでてきた者もあるであらうがその大部分は家屋の倒潰前に既に戸外即ち街路にいでてゐた人々であらねばならない。いひ換ればあの三月七日の午

 睦耳は、その後もまた土蜘蛛、匹女と共に有路(蟻道)の郷にあらはれたらしく日子坐王再び追討の軍をむけ蟻路郷の血原(千原)といふ所で匹女を殺し日本得玉命(加佐郡朝来村田の口神社祭神)もまた下流から睦耳を追いてこゝに迫られ睦耳は急に河を越えて逃れ官軍は楯を列ねて川を守り矢を発すること蝗の飛ぶが如くその時一艘の舟忽然川上に降り土蜘蛛は由良港に至って遂にそのゆく衛しれずとなった。
 そこで日子坐王は石を拾って占ひ以て睦耳の与佐大山に登った事を知られたといふことであるがこゝに成生方面の村は初めて安きを貧り得るやうになったので日子坐王の霊を奉祀した大将軍神社はこの村の鎮守神としてこの功績を徳と永遠にし尊崇して今日に至った。
 推して看へるにこの事はもともと崇神天皇の十年四道将軍がそれぞれ派遣されることゝなり道主命が丹波の国へ下られるまでの事であって今から二千有十年の昔に遡って考へることができる。
 これについて少々憶測を逞しうするならばその昔日子坐王が畏き勅命を蒙って当にこの国に下られたとき偶然にも勃発した地震のために劇しい地鳴りを生じたことを後世日子坐王の甲胃鳴動火を顕して容易に猖獗の賊を駆逐することができたと王子の功績をより拡大し禮讃崇飾して即ち神秘化して斯くいひ伝へるに至ったものではなかったらうか、はなしは元へかへるが。
 由来成生の村は前記のやうに鰤の産地を以て往昔より聞えてゐるが然らばこの鰤はいつのころからとれ
るやうになったかといふにある書物に

 「ある時共同して綱をはりけるに如何なしたるにや綱忽ち破られだれば又しかへていれける程にいれる綱みなみな何物にかに破られ更に漁獲なかりしかばこれ必ず強壮なる他魚族の襲ひ来るなりとて新に強き綱を作り試みに之を投じけるに思いだがはず多の鰤魚をとることをえたり」と。これ蓋し田井成生における鰤の最初であらうその後東山天皇の宝永三年地震があったが丹後旧語記をみると「地震後は鰤とれず近年多くとれたる鰐鰤をも廻らず運上はなし」といへばこのころにをいては鰤の外に鮫さへとれてゐた事がわかるそれに地震後は廻らずとあることが私が前に「近年不漁の原因が丹後地震との関係からしてゞはなからうか」といったそのことゝ相表裏して一層さうであるやうな感じを起させる。加佐郡誌によってみると
 「土民この地震きば鰤の祟りなりと恐れてそれより以後は漁を営むこと少なかりき」
 まことに昔の人は悠長なことをいってゐたものだ、これによってそのころ迷信深い漁村の人々の心理状態がよくうかゞはれ、僅の間にも自然的に思想上の智識が発達したことが痛切に感じられる。(終)  〉 










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