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羽衣伝説の山:磯砂山 (京丹後市大路)



七夕

磯砂山頂上
磯砂山の頂上(661m)。

360度の展望がある。日本海側は天橋立から、久美浜湾の小天橋まで見えた、日本海上の船からも見えるらしい。振り向けば京都の愛宕山も見えるという、この日は少々降砂ぎみでそんな遠くまでは見通せなかった。
丹後一は言うまでもなく、古代の丹波一の名山、『摂津国風土記』にも「豊宇可乃売神が丹波国比遅麻奈韋に遷せり」とある。伊勢外宮へ遷ったとは書かれてはいない。豊受大神降臨の信仰の山、我国の建国と深くかかわり、またこの山の羽衣(天女)伝説は我国最古の文献として伝わり全国的にも知られる。弥生から古墳期の渡来人たちの先祖もここに天降った山であり、建国神話とかかわる。
では実際にはとなると、意外と一般には知られてはいないよう。羽衣伝説とは三保の松原としか知らず、丹後には由緒正しい伝説があったことは地元の学校教科書すらも黙して教えないとか。



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七夕 一度は登らねばと思っていたが、機会がなかった。今回は丹後の海賊さんたちが登るというので同行させてもらった。
磯砂山登山口は大萱・茂地・大成・常吉があるそうで、北面・東面・西面からである。南面は天日槍の但馬である。明治期以前は女人禁制であったという。この山にちなんだ歌としては、和泉式部に送った権中納言定頼の「行きゆきすきかまほしきはいつ方に跡定むらん足の占山」(続古今集)、与謝野晶子の「人ありて比治の木の間に誘ふとも留るなかれ五月の霧よ」が名高いそう。
今回は最もポピュラーなルート、山の西部の大呂(大路)・大成側からよく整備された道を登る計画。

京丹後市大呂の集落
大路集落↑。
磯砂山の姿麗しい。和奈佐(わなさ)老夫婦の子孫、七夕(たなばた)伝説を伝える安達家は赤い看板の後の小高い岡の上、というか山腹にある。この集落一の旧家という、狩人の子孫と伝わるそうだがどうもワタシには鍛冶屋の大将のように思われる。和奈佐のワナは罠か、鳥を罠で捕らえる家系かも、鳥(特に白鳥)は鉄霊を示していることが多く、鍛冶屋にはピタリの伝説と見るのだがうがちすぎか、網野とか鳥取の地名が近くにある。同家のあたりを小字尾細という、京都府船井郡瑞穂町にも大朴(おぼそ)という所もあるが、阿波国那賀郡式内社の和奈佐意富曽神社の意富曽のことではないかといわれる。出雲風土記に、阿波枳閉委奈佐比古が見えるが、和奈佐は阿波国から来経した海人族と関係がありそうである。安達という姓からは、藤社神社の天目一箇神という製鉄神とかかわりがありそうに思われる。あっちからこっちからとキヘしてそれらが何重にも重なり合っているようである。


七夕 少し行くと道端に、
乙女神社(京丹後市大呂)
↑乙女神社。こんな案内看板が立っている。地元の伝承では天女には三人の娘があったという、その一人を祀るという。

乙女神社の案内板
乙女神社の案内板
乙女神社

 〈 「丹後風土記」には日本最古の羽衣伝説が記載されていますが、それとは別に、狩人の三右衛門(さんねも)と一人の天女が織りなす羽衣伝説が地元には伝わっていて、天女と三右衛門の間には三人の美しい娘がいたとされます。天女は三右衛門に隠された羽衣を見つけ、娘を残し天に帰ってしまった後、毎年七月七日の夜に星となって三右衛門と三人の娘に会いにやってくるそうです。この乙女神社は、天女の娘の1人が祀られているとされ、お参りすると美女が授かるといわれています。  〉 

『中郡誌稿』は、
 〈 乙女神社
(丹哥府志)乙女大明神、風土記に所謂天女八人の一なり
(五箇村誌草稿)乙女神社、大路、田畑(たなばた)神の姉天女八人の内の一人熊野郡より来る内殿は名工岡田藤四郎の作なり
(五箇村誌草稿)岡田藤四郎氏 大路の名工乙女神社の奥殿を作る結構緻密行人の此社を過ぐるもの皆之を賞すといふ死後家に社殿の雛形を見る今ありやなしや五箇校の成るや六ケ敷合せ口など皆氏の力によるといふ  〉 
七夕 ↓登り口はここ大成集落のチョイ手前。ここから車でまだ先まで登れる。
磯砂山登山口
↓少し登って羽衣茶屋。前は広場になっていてここに車を駐めるといい。
磯砂山

磯砂山登山道

七夕 ↓ここからは歩く。
磯砂山は花崗岩の山、丹後を代表する山らしい地層。
磯砂山登山道
コンパスも狂う鉄の山でもある。花崗岩に含まれる鉄分(磁鉄鉱)のせいか、これを還元すれば鉄が得られるという。
確かめようと安物のコンパスを持っていったのであるが、わずかの距離を移動しただけで、くるっと180度南北が狂う場所もある。観測場所はこの登山道途中のかなり上の方である。
      
↑左右の写真の位置の距離は50センチばかりであるが、北がこれくらい狂う。乙女の山らしく変わりやすくてうつろいで気まぐれで、わけわからん…
地磁気の反転か、日本列島が移動したためか、それとも落雷で多量の電流が流れた影響かも知れない。1億5000万年の歴史ある山なのでそのあいだに何があったか正確に反転場所を計測していけば原因がわかるかも知れない、朝鮮半島の東側で大陸にくっついていた時代のもの、 当方はそうした機材もヒマも見識深い頭も持ち合わせていないので、どなかたお願い申し上げる。
本格的に登山する気なら、GPSか、ジャイロコンパスにすべしか。

七夕
磯砂山登山道

「頂上まで1000段」
ゲッ!ゲッゲッ! 1000段もあるのか。足腰弱くなった年寄りにはキツイのぉ、途中で死ぬかも知れんのぉ。しかしこの階段の先で、もしかして、天女に逢えるかも…
磯砂山登山道
↓風化した花崗岩の山、崩れやすいもろい山。花崗岩は「おぼろ石」とか「ボロボロ石」と地元では呼ばれているとか。おんぼろ石、そんなおかげで鉄も採りやすかったのかも…
磯砂山登山道

磯砂山登山道
ヒーフー、もう死にそう
磯砂山登山道
まだ半分
磯砂山登山道
まってくれえええ、すごい坂だなあ
磯砂山登山道
加悦谷の方向↑
磯砂山登山道
「ナンじゃいな、これは?」↑
頂上直前に建っている。文献を調べてみても何かよくわからない碑だそう。


七夕 頂上に到着。展望台が作られている。
磯砂山登山道

天女だ↓
磯砂山頂上
何か碑か石柱が建てられていたような礎石がある、↑何だろう、不明らしい。

ケズラ石
↑山頂からちょっと下った所に岩がある。「ケズラ石」と呼ばれている。「ケズラ」と呼ばれる灌木の葉に似ているからこの名があるという。
この花崗岩の岩塊はたぶんかつての磐座と思われる、豊受大神や天女はここでお祀りするのが本来と思われ、今では下へ降りてしまった多くの神社の故地であろうか。
ケズラ石(磯砂山山頂)

ケズラ石(磯砂山山頂)
↑そこは伊勢外宮の故地、そんな所へ登ってバチが当たっても知らんぞ。


七夕 磯砂(いさなご)山(伊去奈子(いさなこ)嶽)はフツーは、一山四名、比治(ひじ)山・比沼(ひぬ・ひち・ひぬま)山・足占(あしうら)(葦占)山ともいうといわれるが、実は10コ以上も呼び名があるそうで、伊佐山、白雲山、真名井山、鳶尾山などとも古来呼び伝えられるとか。
イザナギ、イザナミと似た山名で、イサナゴは丹波の国生み神話と関わる名でなかろうか、あるいは歌垣山か、しかしそうした伝承は何も残されていない。
明治前は女人禁制の山であった。あるいは女池までは登れたがそれ以上は禁制だったともいう。女が登れば禍あると信じられていた。竹野川の最上流で最大支流の鱒留川と常吉川は、いずれも磯砂山塊から発している。
古代以来の大聖山で、麓の一帯には数多く超古い歴史が伝わっている。本当かどうなのか地元の史家すらもよくわからない深き失われつつある謎多き山とその広い山麓地帯。そんなことで強く引きつけられる古代史ファンの方々も多かろう。
ヒジ・フジ・クジとかこの山の周辺にはそんな地名や神社が多い。アシウラやイサ、ワシオもそうだろうが、クシフル系ソフル系の古代地名。まさかウソだろうと思われるかも知れないが、麓に藤社(ふじこそ)神社(式内社比沼麻奈為社比定説もある)が鎮座する。もともとはこの山上にあったものと思われるが、コソは朝鮮語であり、ここでは神社の意味に使われているのだが、そうすればセットのフジもそうだろうと思われるのである。元々がそうした渡来人(渡来人はフツー北方系だが、ここはそれと習合した文化を持つ南方系倭人系の渡来人か)たちが祀ったものであろうが、誰も解明はしていないよう。歴史は古く弥生期の地名と思われる。そんな山に入る、身が震えてくる感動ものです。
磯砂山山頂の天女像
山頂の天女像(峰山の彫刻家・田中増二氏作)
その裏側
その裏側。天女(豊受大神)とは渡来人の神であった。



此の里の比治山の頂に井あり。其の名を眞奈井と云ふ。今は既に沼と成れり。此の井に天女八人降り来て水浴みき

とあるが、山頂には井はなく、沼もない。
天女の池・真奈井の池はどこにあるのだろう。メシを喰って下山。途中から女池(雌池)に向かう。磯砂山登山道の途中から行ける。


女池への道
その案内板には、
 〈 磯砂女池の羽衣伝説
北畠親房著の元元集(一三三七年)に
「丹後国風土記に曰く、丹後国比治の山(磯砂山)の山頂に井あり、その名を真井(女池)という。この井に天女八人降り来て水を浴みき。麓の和奈佐という老夫、天女の衣をかくし、児として無理に連れ帰る。
 天女看病に効く天酒をよくす、十有余年するうち、老夫の家富み栄ゆるも、老夫は汝はもともと、わが児にあらず″と家より追う。天女は泣く泣く放浪し、竹野の郡舟木の里にたどりて死す。
 里人天女を奈具社にて祀る。こは豊宇賀能売の命(伊勢外宮の豊受大神)なり」と、このように女池の羽衣伝記は日本各地に数ある羽衣伝記の中でも、極めて格調の高いものである。京舟後市  〉 

これが女池(めいけ)
女池

女池


         

天人女房型というらしく、「かぐや姫」なども含むとされる話なのだが、世界的な伝説では「白鳥の湖」が有名、最初どこで発生したものか、両者は同根のものと思われる。しかし江戸期にはあまり知る人もなかったようで、『宮津府志』は、亀や蝦蟇がいるなどと書き残している。
 〈 伊佐奈古獄  中郡五箇村にあり。當国第一の高山なりと云傳ふ。一説に奈具社の縁起天女の比治山と云ふは此山をいふと、是非をしらず、此山のつゞき西の方を肱山峠といふ、按ずるに往古はすべてひぢ山と云ひ後枇はいさなごと呼分しにや。里民の云ふ此山は古木おひ茂りて容易には到りがたし、嶺近さ處に大なる池ありて緑毛亀(ミノカメ)の年経たる住む、土俗此池の主也といふ 又池の辺には一二尺斗の蝦蟇いくらもありと、実に人里遠き深山幽辟の地なればかゝる異類も有べき事なり、此池天女の降りし所といふ、又此山の麓に大路村とかや云へる村に何某といへる里民の家にて例年七月六日七夕の祭とて壇を設け事々敷祭を営むとかや、此者は彼天女を養ひし者の末といへり、彼池の様子かたかた考れば古のひぢ山も此山の事なるべし。ひぢ山天女の来由は神社の部附録にのせたり。  〉 



女池はどちらかと言えば南面側だが、磯砂山にはもう一つ北面に池があるらしくて、それを男池(おいけ)と呼ぶ、こちらの池と女池とはよく混同されて説明される。どちらが古来の真奈井なのか私にはよくわからない(磯砂山に真名井が実際には複数あったとしても別におかしいな話ではない、一つしかないと書かれた記録はどこにもなく、「答えは一つ」としか考え及ばない非科学的近代人が勝手にそう思い込んでいるだけのことである)。真名井の滝は山の北面側にあり、男池側になる。舞Iの真名井なども元々はここが発祥地であろう。
女池はあるいは目池かも知れない、目と書いてマナと読み、女池とは真名井のことではなかろうか。
 

羽衣伝説と白鳥伝説七夕伝説とは互いによく似ているが、さらに浦島太郎伝説も似ている。
網野町・島児神社



七夕七夕とはホントはどんな日?
七月七日の「七夕の日」に、この山の天女は戻ってくると伝わる、その日は麓の安達家では祭礼が行われてきた。「七夕」とは一般には、あるいは子供用には織姫と彦星に限定された夜空の男女星の架空の話であるが、語られないが実は地上では人間の男女が織姫彦星と同じように会うことのできる特別な日であったと言われる。
それは隠されていて(権力には都合が悪い「悪習」なので)ほとんど知る人ともないようである、勝手に戦争を引き起こして人を殺すことは「悪習」でなく立派な当然の「自衛」権、アホほどそのために税金をを使いアホほども秘密で縛るのは「悪習」ではない、スンバラシイと心得ているようなクレージが言うことなど、ドアホクサイので、少し書き加えてみると、

鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津(もはきつ)の その津の上に 率(あども)ひて 娘子(おとめ)壮士(をとこ)の 行き集ひ かがふ?歌(かがひ)に 人妻に 我も交はらむ 我が妻に 人も言問へ この山を うしはく神の 昔より 禁(いさ)めぬ行事(わぎ)ぞ 今日のみは めぐしもな見そ 事も咎むな
?歌は、東の俗語に「かがひ」と曰ふ

『万葉集』の高橋虫麻呂の「筑波の嶺に登りて?歌の会を為せし日に作りし歌一首」と題されている、有名な長歌である。短歌もついている。
大系本では、「鷲の住む筑波の山の裳羽服津のその津の辺りに、誘い合って男女が集まり、歌を掛け合って遊ぶ?歌(かがい)で、他人の妻と私も交わろう、私の妻に人も言い寄るがよい、この山を領治する神が昔から禁じていない行事だ、今日だけはいとしい妻も見るな、私のする事も咎めるな。(「?歌」は東国の言葉で「かがい」と言う)」と訳している。?の漢字は「曜」の偏が「女」。

筑波山の歌垣(かの地ではカガヒと呼んだ。踏歌(中国)とも呼ぶ、コトトイとも呼んだのではなかろうか)の様子で、『常陸風土記』によれば、春秋の二回あったという、足柄峠から東の国々(関東平野全域とその東の国々)の男女は続々と連れ立って、食べ物飲み物を用意して登った、この夜は性はまったくフリーで、この夜に相手が見つからないようなことではイッチョマエの娘とはしなかったと伝えている。主に未婚の若い男女なのだろうが、特にそうとも限られていない様子は虫麻呂が歌うのでわかる。
短歌に「時雨」の季語があり、季節は秋とされている、「立秋」は8月7日くらいで、月遅れの七夕の日(陰暦)は秋の始まりの日であった。七夕の日の出来事でなかったかと想像もできるのである。
「七夕」の和歌は腐るほども残されているが、当時の人々にはわかりきったことなので、;品もアラレもなくモロ出しに「七夕」の行事内容が歌われたりはしていないが、現代人でもそのつもりで読めば、だいたいの様子が伝わってくる。
『懐風藻』に、紀朝臣男人の、「五言。七夕。一首。」がある。冒頭部分は、
犢鼻(たふさぎ)を竿に標(かか)ぐる日、…
犢鼻というのは「褌、下袴の類」と大系本は注している。今流に訳せば、七夕というのは、パンツを脱いで竹の竿に結びつけて、それを目印とした日というのである。七夕の夜は星の話や、竹に短冊を結びつけたりするのは子供用の話で、地上の七月七日の夜は大人の男女は、それぞれ自分のパンツを脱いで、それを竹の竿に結びつけて、「ここにいるぞ」「ここにいるわよ」と呼び合った夜だったということのようである。
この漢詩全体は、「男女二星の一年に一度の逢会の喜びの情はまだ半分にも満たないのに(天上の二星の歓情はまだ十分尽しきれないのに)、夜は白みはじめ、天の河には暁の光がさしはじめている。」と歌っている。天上の話にして、実は地上の男女の心情を歌ったように思われる。これなどは七夕の風習がよくわかるものである。虫麻呂にしても男人にしても国家権力のエライさん、当時では超一流の紳士で文化人だが、民衆ばかりでなく、彼らとて同じように加わっていた。
他の地でもあったことで、『出雲国風土記』嶋根郡

 〈 邑美(おほみ)の冷水 東と西と北とは山、並びに嵯峨(さか)しく、南は海?漫(ひろ)く、中央は鹵(いしはら)、?(いずみ)??(きよ)くながる。男も女も、老いたるも少(わか)きも、時々に叢(むらが)り集ひて、常に燕會(うたげ)する地なり。

前原の埼 東と北とは竝びに??(さか)しく、下は則ち陂(つつみ)あり。周り二百八十歩、深さ一丈五尺はかりなり。三つの邊(ほとり)は草木自から涯(きし)に生ふ。鴛鴦(おし)・鳧(たかべ)・鴨、随時(ときどき)當(いた)り住めり。陂の南は海なり。即ち、陂と海との間は濱にして、西東の長さは一百歩、北南の廣さは六歩なり。肆(なら)べる松蓊鬱(しげ)り、濱鹵(なぎさ)は淵(ふか)く澄めり。男も女も随時叢(ときどきむらが)り會(つど)ひ、或は愉楽(ての)しみて帰り、或は耽(ふけ)り遊びて帰らむことを忘れ、常に燕喜(うたげ)する地なり。  〉 

『摂津国風土記』
 〈 歌垣山
摂津の国の風土記に曰はく、雄伴の郡。波比具利岡。比の岡の西に歌垣山あり。昔者、男も女も、此の上に集ひ登りて、常に歌垣を爲しき。因りて名と爲す。  〉 
この山は今も歌垣山の名を残してある。亀岡から能勢町へ入ったところ。有名な妙見さんの北側の山になる。

『肥前国風土記』
杵島山
 〈 杵島の縣。縣の南二里に一孤山あり。坤のかたより艮のかたを指して、三つの峰相連なる。是を名づけて杵島と曰ふ。坤のかたなるは比古神と曰ひ、中なるは比賈神と曰ひ、艮のかたなるは御子神()の名は軍神。動けば則ち兵興ると曰ふ。郷閭の士女、酒を提へ琴を抱きて、歳毎の春と秋に、手を携へて登り望け、楽飲み歌ひ舞ひて、曲尽きて帰る。歌の詞に云はく、
 あられふる  杵島が岳を  峻しみと
 草採りかねて 妹が手を執る。  (是は杵島曲なり。)  〉 

『万葉集』
 〈 海石榴市の八十の衢に立ち平し結びし紐を解かまく惜しも (十二巻)
紫は灰さすものそ海石楷市の八十の衢に逢へる児や誰  (十二巻)  〉 
市もその会場となったようで、軽市は
允恭記に
 〈 天飛む 軽嬢子 したたにも 寄り寝て とほれ 軽嬢子ども  〉 
古代日本の有名な所ばかりだが、南方系海人系の習俗と思われる。丹後にもあったはずだが、明確には確認されていない。
踏歌は今では「わらべあそび」の「はないちもんめ」がその残滓ではなかろうか、「どの子がほしい」「この子がほしい」と男女に分かれてかけあう。これすら今では消えてしまい、こんなことをして遊んだ記憶はもう誰にもないかも知れない。
どこかのフォークダンスにわずかに残っているかも、「ブンメイ」から遠く離れた「未開地」の集落では今もあるのでは、そんなテレビ番組を見たような記憶がある。そんな「未開地」でなくとも、近くの国々、ワレラ(倭人)のルーツとされる国々でも今も見られるという。グっと近い所では「盆踊り」はその残滓とする話もある、そういわれれば期日は近いし、明治期には「盆踊りは風紀を乱す」とたびたび盆踊り禁止令が出され、それでも踊ろうとする人々と、取り締まる警察のぶつかり合いが繰り返されたといわれる。
虫麻呂は筑波山の裳羽服津で行われたと歌う、津は川口の港だが、舞鶴には「コットイ崎」(特牛崎)がある、志楽川川口の東舞鶴図書館の対岸の北側の山というか丘のような所で、今は土地開発されてその昔の様子はない、ここがあるいはコトトイ崎でないのかと見てはいるのだが、すぐ隣は海軍向けの遊郭が栄えた「龍宮」になる、しかし別にナニも確証らしきものはない。
人類の歴史10万年と見て、その9万9千年間はこうした慣習があった。最近の千年ほどでそれは忘れられて、特に日本では昭和に入ったころには忘れられた、忘れたこともスコーンと忘れて、支配者どもの考えで、それまでは神聖であったが、性はいかがわしい忌むべき隠すべきカレラ権力によって取り締まられるべきものにおとしめられるようになった。この風習の変化と見られる「夜這い」はごく最近までワレラの近くで見られたものであったという、田舎の分教場などに単身赴任した女性教師が村の若者達に凌辱された、今ではこういい、大事件で大犯罪だが、村の若者達は、巡査につかまってナンのこっちゃろと頭がこんがらがった、大昔の村の始まりからずっと先祖代々やってきたことをやっただけではないか、郡誌などが編纂された時代には確実にあちこちにまだ残っていた民俗風習だと思われるが、それに触れる郡誌はない、ただただ皇国は実に強いスンバラシイスンバラシイだけである、今の一面的でアホ的で権力無批判迎合の観光行政やマスゴミと同じで、罪深いものがある、「皇国」国内ですらいろいろな伝統文化があるのだ、それを一方的判断で一部だけを目を塞いでしまう、消してしまい、ありもしない一部「歴史」だけを誇大に美化して伝える、保育園でも「国歌国旗」にしたいそうである、権力ははまちがいなく狂っている、クソどもが情報操作しくさって、真実のマッサツ・ドクサツは過去長年にわたり今も強い、サル社会より劣る大変に危険な傾向が強めている。
たぶん1%にも、あるいは0.1%に満たないような者が99%に対してどうのこうのとクソ道学者くさいことを言える立場ではなく、どちらが本当にいかがわしくクレージーか、メチャクチャアワレな気の毒極まる、再生不可能な社会であり人間なのか、今のワレラの「現代的センス」は本当に正当で間違いない確かなものかは、どこかの国のクレージ親分の合法的誕生とか、合法的に戦争で人を殺すとか、合わせて、そんな国の子分国民としては、よく検討するべきかも知れない。人類の未来はどれくらいあるのかわからないが、それはまた今とは違うもので、現在のように将来もあるということもない。

七月七日は牽牛と織姫の星祭は中国的な伝説で、倭国ではずっと古くは、重要な神(王)が現れる、あるいは重要な神(王)が亡くなる、そうした日ではなかったのかと、浦島太郎さんもこの日に漁に出て常世へ行ったという、常世は常夜でヨミの国でもある、浦島太郎さんは七月七日にあの世へ行きました、という話であり、彼(神なのか王なのか)この日に死んだということである、死は悲しいしことなのか、それとも喜びなのか、当時はどう考えられていたのかは不明、しかし親恋しさに彼はよみがえる、手に玉手箱という死の箱を持たされて。ヨミの国から帰ってくる、死から蘇生するのはイザナギや大国主、山幸彦と同じであり、浦島太郎は丹後の国生・国作の始祖神(王)であったのかも知れない。そのほか各地の伝承など見てみれば思わされるが、こうした特異な日と認識されていたのではなかろうか。
七月七日は立秋であり秋の始まり、これまでの神(王)が常夜へ去り、新しい神が常夜より現れる日なのかも知れない、ネブタも元々はこの日に行われたといい、穢れ禍いや邪鬼が追われる、送られる、流される、焼かれる、殺される、と観念された日かも知れない。
八日の夜明けとともにすべて穢れた過去はすべてリセットされ、なかったこととされる、まことに都合のよく過去の禍いがすべて払われて、マッサラの新しい年、新しい世界が始まる「年度終い」「年度始め」 。
対になるのが節分の次の日の立春、古くはこの日が正月と考えられていた。七月七日も正月とする1年を2年と数える、2倍年暦があったものかも…


参考文献

 京丹後市五箇磯砂山


『逸文風土記』丹後国
 〈 奈具社
 丹後の国の風土記に曰はく、丹後の国丹波の郡。郡家の西北の隅の方に比治の里あり。此の里の比治山の頂に井あり。其の名を眞奈井と云ふ。今は既に沼と成れり。此の井に天女八人降り来て水浴みき。時に老夫婦あり。其の名を和奈佐の老夫・和奈佐の老婦と曰ふ。此の老等、此の井に至りて、竊かに天女一人の衣裳を取り蔵しき。即て衣裳ある者は皆天に飛び上りき。但、衣裳なき女娘一人留まりて、即ち身は水に隠して、獨懐愧ぢ居りき。爰に、老夫、天女に謂ひけらく、「吾は児なし。請ふらくは、天女娘、汝、児と爲りませ」といひき。(天女、答へけらく、「妾獨人間に留まりつ。何ぞ敢へて従はざらむ。請ふらくは衣裳を許したまへ」といひき。老夫、」「天女娘、何ぞ欺かむと存ふや」と曰へば、天女の云ひけらく、「凡て天人の志は、信を以ちて本と爲す。何ぞ疑心多くして、衣裳を許さざる」といひき。老夫答へけらく、「疑多く信なきは率土の常なり。故、此の心を以ちて、許さじと爲ひしのみ」といひて、遂に許して、)即ち相副へて宅に往き、即ち相住むこと+餘歳なりき。爰に、天女、善く酒を醸み爲りき。一坏飲めば、吉く万の病除ゆ。其の一坏の直の財は車に積みて送りき。時に、其の家豊かに、土形富めりき。故、土形の里と云ひき。此を中間より今時に至りて、便ち比治の里と云ふ。後、老夫婦等、天女に謂ひけらく、「汝は吾が児にあらず。暫く借に住めるのみ。早く出で去きね」といひき。ここに、天女、天を仰ぎて哭慟き、地に俯して哀吟しみ、即て老夫等に謂ひけらく、「妾は私意から来つるにあらず。是は老夫等が願へるなり。何ぞ厭悪ふ心を発して、忽に出し去つる痛きことを存ふや」といひき。老夫、増発瞋りて去かむことを願む。天女、涙を流して、微しく門の外に退き、郷人に謂ひけらく、「久しく人間に沈みて天に還ることを得ず。復、親故もなく、居らむ由を知らず。吾、何にせむ、何にせむ」といひて、涙を拭ひて嗟歎き、天を仰ぎ」て哥ひしく、
 天の原 ふり放け見れば
 霞立ち 家路まどひて
 行方知らずも。
遂に退き去きて荒塩の村に至り、即ち村人等に謂ひけらく、「老父老婦の意を思へば、我が心、荒塩に異なることなし」といへり。仍りて比治の里の荒塩の村と云ふ。亦、丹波の里の哭木の村に至り、槻の木に據りて哭きき。故、哭木の村と云ふ。復、竹野の郡船木の里の奈具の村に至り、即ち村人等に謂ひけらく、「此處にして、我が心なぐしく成りぬ。古事に平善きをば奈具志と云ふ。」といひて、乃ち此の村に留まり居りき。斯は、謂はゆる竹野の郡の奈具の社に坐す豊宇賀能賣命なり。(古事記裏書・元元集)(日本古典文学大系2)  〉 

逸文風土記の地理記述の通りなら、比治山というのは今の久次山(咋石嶽・真名井山)で、比治の里とは久次の集落、郡家は五箇のあたりにあったことになる。荒塩村は新治あたりではなかろうか。逸文風土記にもとづく限りは今の磯砂山であったとは考えようがない。
しかし逸文風土記は郡家の伝え(丹波王家の伝え)であって、麓の安達家はじめ民衆のレベルでは磯砂山とも伝わっていたのでなかろうか。丹波王家の始祖神が天降ったのは久次山のように思われる。天女が降りる以前にワナサという人々がこの地にすでにいたのであろうか。ワナサは阿波の海人か。「倭の水人」が竹野川をさかのぼってここに先住していた場所へのちに渡来系がやってきたということか。


『丹後風土記残欠』
 〈 当国は往昔天火明神等の降臨の地也。たぶん丹後国は丹波国と合せ一国を為したのであろう。日本根子天津御代豊国成姫天皇(元明天皇)の御宇に、詔して丹波国の五郡を割いて丹後国を置いた。丹波と号くる所以は、豊宇気大神が当国の伊去奈子嶽に天降りたる時に、天道日女命等が大神に五穀及び桑蚕等の種を請い求めて、其嶽に真名井を掘り、其水を潅いで水田陸田を定めて、悉く植えた。そうすると秋の垂穎が長く盛んに茂り、甚だしく快かった。大神は之を見て大いに歓喜び、ほんとうに良い(以下意味不明「而植彌之子田庭」とある。勘注系図の彦火明命条には、ここは「面植彌之与田庭」とあって、籠神社では、”田植満てし田庭”と読んでいる)田庭だ、といった。その後にまた大神は高天原に登った。それで田庭と云う。
丹波・旦波・但波、以上其文字皆、多爾波の訓である。
国の大体。首離尾坎東西壱百拾四里壱百参拾歩。南北七拾貮里壱百拾歩。東隣若狭国。西隣但馬国。南隣丹波国。北海に接す。
国中に所在の山川海野、其産する所の禽獣、草木、魚亀等は悉くこれを記すを得ず。但し其一二を郡毎の条の下に記す。(以下三行虫食)  〉 


『京都の伝説・丹後を歩く』
 〈                        伝承地 中郡峰山町大路
 昔むかし、大呂に三ネモという若い猟師がいた。ある夏の暑い日に、足占山(磯砂山)に登った。その頂上付近には池があって、その近くの木の枝に、見たこともない、きれいな着物がかけてあった。三ネモは正直者で、他人の物など盗んだことはなかったが、あまりきれいなので、持って帰りたくなった。そこで、手で取るのは悪いと思い、鉄砲の先に引っかかったようにして取り、大急ぎでわが家に帰って、その着物を隠した。
 その池で泳いでいたのは天女であったが、水から上がって着物を着ようとすると、着物がなかった。そこで、三ネモを調べてみようと思って、きれいな娘に化け、彼の家にやって来て、「家に置いてくれ」と頼んだ。三ネモは一人暮らしてあったし、きれいな娘でもあったので、彼女を家に置くことにし、嫁になってもらった。天女は家の中を調べてみたが、羽衣は見当らない。そのうちに子供ができて、三歳にもなった。
 ある日、天女が子供に「お父さんは毎朝どこを拝んでいるのか」と尋ねると、子供は床の柱だと教えた。そこで、天女は、三ネモが出かけた後で床の柱をよく調べてみると、柱の下のところに埋め木がしてあった。不審に思い、それを外してみると、中には羽衣が入れられていた。天女は、これさえあれば天に帰れる、と喜んで「もしわたしに会いたいなら、千荷の堆肥の上にこの種を播き、蔓が伸びたら、それを伝って来てほしい」と書き置きをして、羽衣を着て天に帰っていった。
 仕事から帰ってきた三ネモは、天女だったらなおのこと別れてなるものか、と、村人たちに頼んで千荷の堆肥を積み重ね、天女が残した種を播いた。すると、ほどなく芽が出て伸びてゆき、雲よりも高くなった。そこで、三ネモがその蔓を何日も何日も上って行くと、とうとう天上に着き、天人たちに迎えられた。彼は、「瓜畑の番をしてほしい。しかし、いくら瓜が赤くなっても食べてはいけない」と言われ、毎日瓜の番をしていた。すると、たくさんの瓜があまりにおいしそうに成っているので、彼がとって食べていたら、にわかに大洪水が起こって流されてしまった。それを見て、天女は「七日、七日に会おう」と叫んだが、悪魔が「七月七日に会おう」と取り次いだ。
 それ以来、天女は、年に一度、七月七日の夜に三ネモと会うことになった。また、三ネモの流された川は、天の川として、今も天に残っている。大呂の家には、残された子供の子孫が今も続いている。  〉 

 〈        (『丹後の民話』第二集))  〉 

『中郡誌稿』
 〈 安達三右衛門
(五箇村誌草稿)田畑(タナバタ)神の跡小字大路安達庄蔵氏宅なりこの家代々三右衛門を以て家の名とす大路にて最旧家なりこの事跡口碑に妄説を伝ふ宜しく風土記逸文にしたがふべし
旧七月六日七夕まつりにぎはしく支那の星まつりと混合して竹に短冊をさげてまつり餅をつきて祝ふ
(実地調査)安達氏祖先猟師にて磯砂山雌池にて天人の羽衣を獲云々との古風土記伝説の家と伝へ祖先伝来と称する矢筒一個矢四本及天女と牛を引き居る老翁とを図きたる図一幅を蔵す当地方俗間に有名なり矢筒は真黒になり居りて見分け難き程なり図幅は幾段にも雪を現はし秋草など書き添へ愛らしけれと至て近作にして土佐風の図なり之を織女像と称し七夕以前に之を披閲する時は暴雨ありとて見ること許さず編者郡誌編纂の為め強て之を一覧せしに偶々驟雨迅来す郷人皆其験あるに感歎せり
童謡古伝
(実地調査)大路にて古くより伝へたる子守歌あり
大路の山の雉(木地にかく)の子鳴くと鷹がつかむぞ
此の童謡に就て木地屋の孩児泣きて止まさりしかば親なる者怒りて戸外に出し置きたるに鷹来りて抓み去りたりと俗伝を伝ふさまでの註解をも要せさるにと思ふ  〉 

『逸文風土記』近江国
 〈 伊香小江(存疑)
古老の傳へて曰へらく、近江の国伊香の郡。與胡の郷。伊香の小江。郷の南にあり。天の八女、倶に白鳥と爲りて、天より降りて、江の南の津に浴みき。時に、伊香刀美、西の山にありて遥かに白鳥を見るに、其の形奇異し。因りて若し是れ神人かと疑ひて、住きて見るに、実に是れ神人なりき。ここに、伊香刀美、即て感愛を生して得還り去らず。竊かに白き犬を遣りて、天羽衣を盗み取らしむるに、弟の衣を得て隠しき。天女、乃ち知りて、其の兄七人は天上に飛び昇るに、其の弟一人は得飛び去らず。天路永く塞して、即ち地民と爲りき。天女の浴みし浦を、今、神の浦と謂ふ、是なり。伊香刀美、天女の弟女と共に室家と爲りて此處に居み、遂に男女を生みき。男二たり女二たりなり。兄の名は意美志留、弟の名は那志登美、女は伊是理比口羊、次の名は奈是理比賣、此は伊香連等が先祖、是なり。後に母、即ち天羽衣を捜し取り、着て天に昇りき。伊香刀美、獨り空しき床を守りて、吟詠すること断まざりき。(帝皇編年記)(日本古典文学大系2)  〉 


『逸文風土記』駿河国
 〈 三保松原(参考)
風土記を案ずるに、古老傳へて言はく、昔、神女あり。天より降り来て、羽衣を松の枝に曝しき。漁人、拾ひ得て見るに、其の軽く軟きこと言ふべからず。所謂六銖の衣か、織女の機中の物か。神女乞へども、漁人與へず。神女、天に上らむと欲へども羽衣なし。是に遂に漁人と夫婦と爲りぬ。蓋し、已むを得ざればなり。其の後、一旦、女羽衣を取り、雲に乗りて去りね。其の漁人も亦登仙しけりと云ふ。(本朝神社考五)(日本古典文学大系2)  〉 



天女伝説や建国伝説は元々は何も我国のものではなかろう。渡来人たちが持ってきたものであろう。それは半万年の歴史をもっているが、そこにつながるのでは…
白頭山山頂の天池
真名井のはるかな故地はここか。写真は白頭山(長白山)の天池(2500m超の16の峰々に取り囲まれて周囲13キロ、深さ200m超ばかり)。天の真名井がもしここなら、高天原もここになろうか…、日本族ばかりでなく、朝鮮族や満州族の太古よりの大聖池、近くでは清朝もここを聖地としていたという。
 「白頭山」「長白山

 〈 白頭山 韓(朝鮮)半島の北端にある標高2744mの最も高い山で、この民族の象徴的な存在でもある。古くから神秘性の高い山で、壇君の生誕地や建国神話の舞台にもなった。中国では長白山と呼ぶ。頂上に天池がある。  〉 
摩尼山開天祭・仙女の舞 ↓

暫城壇 江華島摩尼山の山頂にある方形の祭壇。壇君が天神への祭りを行ったという。

摩尼山開天祭 10月3日は壇君の古朝鮮建国の日に定められている。その日、暫城壇で祭天儀式を行い、八仙女の舞が献舞される。
上の資料↑は『図説 韓国の歴史』(河出書房新社1988)による。

古くは磯砂山の頂上でもこうした舞が奉納されていたのかも知れないが、日本でも8名の天女が舞い降りたことになっている。これは北斗七星のことで、七星ではなく、一つに連星があって八つ星とされているのだが、日本の場合はこれは豊受大神に習合される。天照大神は北極星で、これは天皇にも習合される。だから大和権力による政治的人為的にゆがめられた宗教観念に基づく伝説と思われる。残缺にはこんな話はなく、こちらが本来のこの地の伝説かも知れない。
キトラ古墳の星宿図
キトラ古墳(7世紀)の星宿図の北斗七星↑。直径6ミリの金箔を貼って星を表しているが、もうはげ落ちたのか柄の部分の最後の星(大熊座η星)は見えない、その次の二つくっついているのが、ミザールとアルコルの肉眼でも見えるという二重星(グルグルとお互いに回り合っている連星。これらもそれぞれ連星というが肉眼では見えない)。北斗七星は実は8つの星と見られていたようである。風土記当時、日本天文学がどこまで発達していたかは不明だが、ここに表された天文知識は外来のもので、高句麗からだとか唐からだとか言われている。

磯砂山は聖山なので地元ではその信仰伝承の口外が長らく禁止されてきたというし、また皇国史観の狂気吹き荒れた戦時中などは、この山の周辺から高天ケ原や真名井など天皇の出自に関わってきそうな歴史について、皇国史観以外の立場から疑念的な発表をしたりしようものなら、即官憲が飛んできた、ヘタすれば殺されかねない、即免職、転勤、解雇になった人もかなりあったと言い伝えられている。溝谷神社(弥栄町溝谷の式内社)が古来新羅明神と呼ばれて、それを日本人が拝む、なんでチョーセン(差別用語)を拝むんじゃ、天皇陛下だけを拝んでいればいいのだ、オマエらおかしいと厳しく取り調べられたという、今でもこんな大変に困った子孫がけっこういるくらいだから、当時ならさぞや大変であったことだろう、インチキと大ウソがバレバレになってしまう、ここは調べるな、の特定機密の場所だったのである。
先人たちは知っていたかも知れないが、書き残されることはなかった、うっかりした事を言えば刑務所行き、虐殺される、そうした山であった。
天皇さん神さんとするために、時の権力が秘密だ、漏らせば死刑だと暗にしてきたためか、せっかくの伝説はそれ以後は発展させられることなく、蝦蟇棲む池となっていった。他国ではみごとに昇華させて世界的芸術までに高めていた。恥ずかしいのぉ。乙女の山には不似合いな、そうしたあまり知られない暗黒の日本史もまた秘めている。秘密保護法なとどいうものは本当はそうしたネライを「二度繰り返す」ものである。

天孫の壇君が建国したのは紀元前2333年という。これを古朝鮮、壇君朝鮮と呼ぶ。朝鮮の支配者はどの国もすべて天孫であった。どこかの国の全体支配者も同じ、そしてどこかの地方支配者もまたその別れのようで天孫であったよう。このあまり知られない山(日本では)はこんなどこかの国家発生の秘密を見せてくれる。
チョンマゲは満州族の弁髪の一種といった人があったが、そうかも知れない、尺八という楽器は私は日本古来の日本だけのものかと思っていたが、白頭山の中国側麓にもよく似た楽器があるようで、テレビで見て、ヤハリなぁと思わざるを得なかった。
尚、白頭山は百年に一度は爆発しており、ここ数年に大爆発を起こすと予測されているとか、もし爆発すれば、アイスランドの千倍の被害が出るそう…





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