ようこそ、写真館へ No.39
おべっさん'12(蛭子神社の例祭)
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「おべっさん」は青島の 青島(蒼島、あるいは亀島と古くは呼んだよう)は湾口に伊根浦を塞ぐような位置にあり、山頂近くに蛭子神社はあるという。面積は約100平方メートルは周囲720m、標高50mの島。写真では一つの島に見えるが、二つの島々である。全島がシイの木など魚付林の樹木が生い茂る。↓写真なら島の左側(東側)対岸の亀山まで約120mの間は狭く、これを真口(まぐち)とか小間口と呼ぶ、反対側の写真の右側が広く(西側)対岸小坪(こつぼ)まで約500mの間に淀口、大間口と呼ばれる水道がある、これがかつては鯨が浦内に入るメーン水路になった、ここを通って鯨が浦内・お間内に入ってきた、迷い込んできたのである、一度迷い込むと出にくい地形で、座礁したようなものになる。鯨は、別に鯨ばかりでなく、イルカもブリもみなかつてはこの直径が1キロばかりの円形の浦内でとれたのである。今は舟屋が海ぎわを取り巻いていて、観光客が近づこうとも、これでは魚は近づかないだろうが、昔は波打ちぎわは魚付林で覆われていて、民家はそれより一段高い所にあったという。スーと魚が迷い込むようになっていたようである。 浦の外海を間外と呼びそこでも漁はあったようだが、ほんどはこの浦内の漁であった、今ではウソのような話になるが、それくらいこの浦は魚景豊でその漁を見守るように浦内を向いて蛭子神社が祀られている。
青島は陸から離れ、四面が海の島で、一般の者には島へ渡る方法がない、観光船にでも乗せてもらい、近づいた時に海から鳥居を写すくらいしかできないのであるが、たいへんに興味深い歴史がありそうである。 『伊根町誌』は、 〈 蛭子神社 鎮座地青島 祭神 八重事代主命(地域住民は「蛭子」を祭るとし「夷」又「恵美須」とも書く。) 例祭 八月二十日 沿革 江戸時代初期に福井県丹生郡四ヶ浦(現越前町)から御神体を移し青島に安置されたと伝え、社殿は元和五年(一六一五)三月に創建された。 〉 『丹後半島の旅』(澤潔)には、 〈 この蛭子社が青島に祀られたのはいつの頃かさだかではないが、亀島の倉野義男氏の話によると、神意により越前四ケ浦からわたつみの神の降臨する青島に迎えたという。越前と丹後半島との漁民のつながりのなみなみならぬことを物語るものであり、伊根浦は古代越前海人の出村であったのかもしれない。 〉 『日本の地名』(谷川健一)には、 〈 越前町の四ヶ浦は上梅浦、下梅浦、新保、宿の四つの集落をいう。明治二十二年にこの四ヶ浦と大樟、小樟とが合併したが、それでも四ヶ浦村、のちに四ヶ浦町と呼ばれた。それは戦後、城崎町と合併して越前町となるまでつづいた。この四ヶ浦の一つである新保の枝村に城ヶ谷という漁業集落がある。そこの人々はソリコと呼ばれていたが、これは、さきの文章と一致する。 ところで、丹後の経ヶ岬に近い京都府与謝郡伊根町の蒲入の一部は四ヶ浦から移ってきたといわれている。伊根町の青島に祀られている蛭子(ひるこ)神社の御神体の恵美須神(現地ではオエベスさんと呼ぶ)は、江戸時代初期に四ヶ浦から盗んできたものであり、四ヶ浦の人たちがそれを取り戻しにきたが、青島の蛭子神社の境内の近くの藤の木が大蛇になって防いだのでそのままになった、という伝承が地元に残されている。陸路をたどればかなり離れた越前町と伊根町との緊密な関係をいぶかしく思う向きもあるかも知れないが、海上では越前町と伊根町は若狭湾をはさんで東と西に一直線に向きあっている。若狭湾は両者をむすびつける共通の漁場であった。 〉 「 浦から浦へと移住していくことはよくあることのようで、たとえば西能登の石川県羽咋郡志賀町には「高浜町」や「小浜神社」があるが、江戸時代前期に高浜や小浜の漁師が、漁船でたどり着き村を作ったとものという。こうしたことで両町は姉妹都市となっている。四ヶ浦・伊根浦間の2倍以上はある距離である。志賀町にも原発(沸騰水型)があり、直下に断層はある、何といっても8年間も臨界事故を隠していた、また社民党の視察要請に対し「原発の必要性に理解のない方への対応は難しい」として拒否したが、抗議を受けて受け入れた。福島党首は「(視察拒否は)情報公開を定めた原子力基本法の基本方針に反する」。そうしたことは仲良くせんでくれよ。 ♪おらんくの池にゃ 潮吹くさかなが泳ぎよる。 まあ土佐の高知ばかりでなく、丹後の国もそうであった。全国の海がそうであったのだろうが、儲け主義の人間による乱獲がそれを破壊してしまった、元へ戻すにはまだまだ時間がかかろう、一度破壊すれば大変なことである。浦に迷い込んだ何頭かを捕る程度なら問題ないが、技術が発達することはそれ自体はいいことなのだろうが、それが大資本による捕鯨技術の発達となり自分さえ儲かればいいの資本主義的過当競争となれば、限られた資源は即失われる、捕鯨資本が責任取ってくれたりはしない、大損するのは人類全体である。原発をみれば理解できるように、自分の儲けしか頭にはなく、人類の未来などは何も考える知能がない人間以下のものでしかないから、強欲資本の大儲けには超厳しい規制が求められ避けられないわけである。どこかの政府やガクシャ・メディアなどのように、こうした連中はまちがっても過保護にしてはならない。潰すときはしっかりつぶして大損させることも必要であろう。 鳥居をくぐって石段を登ると左手に「鯨の墓」が3基あるといい、鳥居前の広場では鯨の解体が行われたという、蛭子神社と鯨は深い関係にありそうである。鯨やブリこそがおべっさんであったのかも知れない。
蛭子神社の祭礼、オベッサンも近年では衰えて、規模縮小が避けられないようだが、本来は次のように行われていたという。 『伊根町誌』に、 〈 祭典行事 宵宮(八月十九日) 亀島四区より祭礼船(高梨蛭子丸・立石神楽丸・耳鼻稲荷丸・亀島宝来丸)を出し、提灯九灯をともし横一文字をえがき、笛・太鼓の祇園囃で神社に参拝する。 本祭(八月二十日) 亀島四区よりあらかじめ定められたくじ順によって祭礼船に乗り込み、幟を押し立て青島に向かう。到着すると祭礼船を「こばりあい」にそなえて、表を正面にして艫(船尾)を島側につけ神社に参拝する。 奉納相撲 1.中学生の子供相撲につづき、青年の花相撲が行われ、現在も継続し催されているが、戦前は特に盛んであり、東(勧進)・西(寄り)の二組に分かれ、数十番の対抗相撲をとった。役相撲の取り組みになると見物人も力が入り、勝者には前頭(白御幣と金一封)、小結(銀御幣と金一封)、関脇(金・銀色分けの御幣と金一封)、大関(金御幣と金一封に小刀または弓)がそれぞれ与えられた。 昭和十五年(一九四○)の皇紀二六○○年奉祝の一記念行事として、全国青年の相撲大会が明治神宮に奉納された時、伊根地区より三名が出場して団体戦・個人戦に優勝した。 「こばりあい」(祭礼船競争) 奉納相撲が終ると四区の若者がそれぞれ一人は神楽樽をもち、三人で幟をかついで、くじ順に神社の石段を勢いよく五、六段飛び越えて海辺に下り、祭礼船に四区の乗り込みが揃うと同時に、「おせんどう」をあげて一斉に「こばりあい」をする。腕自慢、力自慢の若者達がこの時とばかりに船舷に両足をふんばり、八丁櫓を握りしめ、ときの声をあげて力一杯に汗をふりしぼって競い漕ぎあう。これが「こばりあい」である。 伊根湾内を青島から大浦へ向けて海上約一キロ、四隻の祭礼船が色とりどりの幟をはためかし、若者の意気をしめすさまは壮観であり頼もしい。 〉 蛭子神社は亀島村の氏神で、その四つの集落から祭礼船が出る。 手こぎの船が本来なのだろうが、漕ぎ手が集まらない集落はエンジン船のようである。何か肩がガクッと落ちているような… 後には舞鶴の山々がよく見える。 だいたい10時くらいに太鼓がお間内に響いて、これらの船が蛭子神社に集まってくる。
神事が終われば、いよいよ「こばりあい」が始まる。だいたい11時からである。イケスや船などが手前に浮いていて、写す位置を探すのに苦労する、高梨側が全体がよく見えるが、しかしここからは遠くて、長いレンズがいる。 今年は「耳鼻」と「立石」の2艇だけのよう。遠くから見ていれば特に全力前進というのでもなさそうに見えるけれども、艪は予想以上に速いが八丁艪ともなればムチャ速い、船尾のものも含めれば九丁艪、約10名だが、これで鯨を追っかけたたのか、鯨も逃げれまい。 気温35℃はあったと思うが、こばりあいでもし艪をこいでいたら私なら熱中症になるだろう。青島を出て、耳鼻や立石側を大浦の入口くらいまでの約1キロばかり、時間的には10分ともかかっていない。
『宮津府志』 〈 亀嶋 府城の乾の方船路四里半伊禰浦にあり。今は村の名となりて島をば蒼島と云。橋立記に曰蒼嶋周廻十四五町許、常磐木生ひ茂りて青螺を浮べたる如く、嶋の形亀の如し亀嶋と名付しも此ゆへなり、又此辺の海岸に亀岩あり形奇なり、一説に萬代の浜といへるも爰なりといへり、又宮津記曰青島は椎の木しげりたる嶋にて伊禰五ケ村の墓所也、又此浦にて鯨を捕し時は大骨を此島におさめ、僧を請して鯨の回向とて読経あり、大なる塔婆を立るよし、年々大魚の腐肉島の内にみちで臭穢甚しとかや。 〉 『丹哥府志』 〈 【青島】嶋の長サ五六町、嶋の広サ一町斗、高梨、平田の辺より海を隔て六七町南、日出より僅に一町斗北、亀山よりも亦然り左右各均し地理まづ如此ものなり、天潮を通ずと雖も嶋を限りて別に一鏡面の海なり、此處にて鯨を取る、凡島山の上雑木ありと雖も多くは椎の木なり、其蒼々たる樹影海に映じていかにも浅深はかるべからぬ勢あり、是鯨の入る所以なり。 〉 『与謝郡誌』 〈 伊根浦、萬代浜 伊根村を中心として波見崎より新井迄を丹野府志に伊根浦の庄といふ 和布かる与謝の入海かすみぬてあきにそつけよ伊根の浦風 鴨 長明 引く潮の遠さかり行く波の昔をはるにもすめる伊根の浦雲 玄旨法師 伊根港の東端に亀に似たる岩あり、亀岩と云ひ亀島とも亀山ともいふ、青島蛭子神社享保年中の札に「宮城之北五里許有一漁村謂亥子浦蓋当府城之亥子也風景頗多最奇者亀島也亀島歳古不蔵六矯首江口恰如幻出萬代亀之曳尾也故亦謂萬代浦云々」とあり、これによれば宮津城の亥子の方に當り、亀に似たる島あるゆゑ伊根と云ひ鶴は千年亀は萬年といへることより寓代の磯と云ひ萬代の濱とも称す。 寓代の名をとゝめたり濱千鳥 如水 藻塩草濱の名に君がよはひの顕れて長閑き波も萬代の声 無名 昆沙門岩、弁天岩、根(クサ冠に専)浦 伊根湾内日出、平田間に奇岩凸起せり直立数十尺中間突抜けて門の形を為す最も奇観なり、西方若干にして又奇岩あり凹形を為し満潮の際は伊勢の二見浦の観ありその高き方の岩に弁財天の小祠あり弁天岩となす、天然の形状一は凸形を為し一は凹形を為せるより人之れを昆沙門と弁財天に配せるなるべし、之れより日出の入江を根(クサ冠に専)(ネヌハナ)の浦といふ。 来る人もなき禰ぬなはの浦なれば心とりすは見ゆるなるべし (名寄) 少将内侍 ねぬなはのくるしきほとの絶間かとたゆるも知らで思ひける哉 (後拾遺 伊賀少将 忘るゝも苦しくもあらずねぬなはのねたくもと思ふこともなければ (同) 青島、姪子社、鯨墓 伊根湾口に占拠せる青螺これを青島と為す、島上恵比壽の社あり。 蓋世所謂夷子宮者蛭子神也丹州与謝郡伊根庄亀島村辺之青島有一小社俗謂夷子之宮里民以漁為業祷而求福感応如谷響也地枕海岸而狭溢也祭之不便人以爲愁相議而欲換地奏巫楽而訟諸於神忽得託宣移社今處?石搬土不憚厥労伏希神徳益明邑民惟豊于時正徳改元龍集辛卯仲冬之吉記焉 願主 和久田彦左衛門 献 千代の釣神示も廣しさくら鯛 奥 吉右衛門 高梨次郎右衛門 和久田氏 遠山 蛭子祠の北方鯨墓あり牝鯨を捕獲し胎児あるとき之れを葬り法養するの例なり。 鯢胎亡追薦 常自寂滅相 在胎鯨子塔 文化五辰正月廿三日 諸法従本来 母鯨を捕へんとするとき元是なき児鯨母鯨に取すがりて取除かんとするも離れず遂に共に獲りたるも比の情を見て肉を食ふ能はず依て比に葬りたりとて丹哥府志に詳しく書けども茲には略す。 〉 |
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