地頭太鼓・大俣太鼓 '11 (舞鶴市) |
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西飼神社は、『岡田上村史』によれば、 〈 西飼神社 鎮座 岡田上村字地頭小字西飼 祭神 武甕槌命 鹿島神宮 経津主命 香取神宮 由緒 社記不詳であるが口碑によると、この地往昔岡田庄の要害の処であって武将の屡々屯せしことがあった。今を去る約五百年前、武勇の神である両祭神を奉遷して、国家安泰・武運長久を祈願したという。社殿はその後兵火にかかり現在の殿は明和四年の再建である。 古来西方寺猪蔵神社を一ノ宮、当社を二ノ宮大明神、高津江を三ノ宮、河守を四ノ宮と称したが、明治維新の際夫々現在の社名に改めた。明治五年村社に昇格する。 例祭日 十月十日 摂社 拾社あり。なお別に本社の側御壷神社を祀る。祭神年代共に不詳なるも明和年間再建の節土中より写経を蔵したお壷を発掘。再びそのまま土中に埋蔵し社殿を建立したので御壷神社と命名する 〉 近くに縄文遺跡もあるが、このあたりは古く、今の社殿の地には経塚があった。明知4年(1767)の社殿再建工事中に、嘉禄元年(1225)に写経埋納された壺が発見された、発見後小祠(御壺神社)を設け、その中に再埋納して、60年ごとに開帳することになったとされる。また社殿内には陶製の狛犬がある。慶長十五年三月吉日 於たなべかたはらまち 新三郎きしん仕申也の銘がある。 大川神社の秋期大祭(10月28日)に、3年に1度の年番の祭礼という大行事を行われた時代があり、戦時中に中止され、いまでは秋の例祭として行われている。西飼神社はホコ先として笠ぼこを先頭に、大俣・滝ケ宇呂・三河・高津江の各社を従え、各社とも青年が中心となって、太鼓・太刀振り・ヤッコなど、それぞれ各社の神事の奥儀を競い合い、なかなか盛大である。また西飼神社へもお礼参りとして、各社より盛大な練り込みをうけ、字内の各戸は客を迎えてにぎわった。そうである。
大俣は檜川の一つ上流の村だが、「大俣太鼓」は西飼神社にも練り込んでくる。 こちらの方が早く、予定では正午頃で、30分ばかりたたく。 たぶんこれで大俣地区の小学生のほぼ全員なのではなかろうか。
大俣太鼓のあとに練り込んでくる。皆で太鼓屋台を引きながら参道の坂道を登ってくる。
『舞鶴市史』 〈 地頭太鼓(地頭) 大俣太鼓(大俣) 丹後は伝説の宝庫といわれる中で、室町初期に描かれたという「大江山絵詞」には、源頼光が勅命を受けて家臣の四天王とともに、大江山の酒顛童子を退治した物語は特に有名である。この説話は、鎌倉時代からあり、室町時代の「お伽草子」にも載せられて全国に流布した。これに由縁の太鼓芸が地頭で行われるのは、出陣に際して戦勝を祈願するためのものであり、大俣のものは凱旋を祝ってのものである。 いまこれらの伝承を裏付ける史料はないが、古くから大江山系に住む里人達が、先人から受け継いだ郷土芸能の一つとして、大江山の鬼退治伝説が、このような形で定着していることは民俗的な意味で興味深い。 地頭太鼓 江戸時代に二の宮明神と呼ばれ、現在は西飼神社(地頭)と称する氏神の例祭(八月三十一日)に地頭太鼓保存会の氏子達が奉納する「風流」の中の太鼓芸で、丹波から丹後に伝わり、受け継がれている「楽太鼓打ち」と同系の芸能である。 その打ち方は、大太鼓の一人打ちから始まり、二人組打ち、舞い打ち、回り打ちと進み、早打ちをもって終わる。 大俣太鼓 獄神社(大俣)の例祭(九月二十三日)に、大俣太鼓保存会の氏子達が奉納する太鼓芸で、その打ち方は、大太鼓の一人打ちから始まり、振りをつけて打つ舞い打ちに続いて、二人が組んで打つ合い打ち、回り打ちのあと、急テンポのヤリベス打ちをもって終わる。 〉 『舞鶴の文化財』 〈 《無形民俗文化財》市指定文化財 地頭太鼓 指定年月日 昭和40年5月31日 保護団体 地頭太鼓保存会 (字地頭) 近畿各地に鬼退治伝承は多く、鬼として、伊吹・茨木・酒顛の各童子の名を残している。その中で最も有名なのが、勅命を受けた源頼光が家臣の四天王とともに、大江山の酒顛童子を退治した物語で、鎌倉時代以降の説話が室町時代の「御伽草子」にも載せられ全国に流布したものである。 鬼退治絵巻も竹野神社や岩屋寺に残る。竹野神社のものは、推古朝に麻呂子親王が大江山の鬼を退治した伝承を描いたもので、このことが「御伽草手」の酒顛重子伝承の基盤になったとも考えられる。 地頭は古くからの由良川の渡津で、ここに上陸し、大江山へ鬼退治に向う頼光一行の戦勝を祈った里人達の大鼓芸が今に伝承されたといわれるが、裏付ける史料はない。今では氏神の西飼神社の例祭日(10月10日)に奉納し、地区を巡る。 丹波地方の「楽太鼓打ち」と同系の太鼓芸で、屋台にのせた大太鼓を中心に、律動豊かにブチ(撥)を打つ。 地頭では、戦勝を祈る意味からブチは決して下へは向けず、上へ上へと打ち上げるという。 打ち方 1、大太鼓(一人打ち) 2、二人組打ち 3、舞い打ち 4、まわり打ち 5、早打ち 《無形民俗文化財》市指定文化財 大俣太鼓 指定年月日 昭和40年5月31日 保護団体 大俣太鼓保存会 (字大俣) 大俣は、源頼光一行が鬼退治のため由良川を下り、上陸した伝承の残る湊(現在の地頭)より、大江山連峰東端に栄えた普甲寺に至る檜川の谷の路村である。 地頭太鼓と違って、鬼退治の凱旋を祝い同地区の嶽神社に奉納され、現在も同社の例祭(10月10日)に氏子が奉納するが、伝承を裏付ける史料はない。 しかし、地頭大鼓同様、古くから大江山系に住む里人達が、祖先より受け継いだ郷土芸能のひとつとして、鬼退治伝説が太鼓という形で定着していることは、民俗的な意味も含めて意義深い。 打ち方は、大太鼓の一人打ちから始まり、舞い打ち、合打ち、まわり打ちとつづき、最後は「ヤリベス」という師匠格の打ち手による急テンポの打ちで終わる。 この太鼓芸には笛を伴い、地頭と比べると打ち方にやや異称はあるものの、ほとんど系統は同じものといわれている。 打ち方 1、大太鼓(一人打ち) 2、舞い打ち 3、合打ち 4、まわり打ち 5、ヤリベス打ち 〉 『京都丹波・丹後の伝説』 〈 大俣太鼓 舞鶴市大俣 秋祭りもたけなわのころ、あちこちから笛や太鼓の音が聞こえてくる。舞鶴市大俣地区にも、おとぎ話などで有名な源頼光の大江山鬼退治に由来する大俣太鼓が伝わっている。 昔むかし、丹波の大江山に鬼が住みつき、付近の村々や都に出ては大暴れしていた。そこで朝廷は源頼光に鬼退治をするよう命じた。頼光は坂田の金時、渡辺の綱らの四天王たちをひき連れ、日向の国(宮崎県)から、はるばる京の都を通り由良川を下って地頭港(舞鶴市地頭)に上陸した。大江山のふもとにあって何度も鬼の襲撃を受けていた大俣住民をはじめ、付近の人々は村を挙げて頼光一行の到着を大歓迎し、大俣村の千原泉守勘右衛門の屋敷に案内した。一行は山海の珍味などのもてなしを受け、旅の疲れを休めながら鬼どもの様子をさぐり、地形を調査し作戦を練った。 数日後、一行は大江山に登り、悪戦苦闘の末、見事に鬼どもを残らず退治した。その間、村人たちは毎日、一人残らず鎮守の森(獄神社)に参り、勝利のお祈りをし続けた。そのかいあってか頼光の一行は無事がい旋、再び千原泉守勘右衛門の屋敷に落ち着いた。 鬼がいなくなり平和がよみがえったので村人たちは大喜び。頬光たちの功績をたたえ、感謝の気持ちを込めて最高のもてなしをした。そのとき村人の中から平和を祝って祭りをしようという声が出、頼光を先頭に村人全員が続きドンドコドンドコ と太鼓を鳴らしながら村中を練り歩いた。強く、弱く、ときには激しく、そしておだやかに太鼓は打ち鳴らされた。平和を伝えるその音は、大江山一帯に響き渡ったという。そしてこの太鼓こそ大俣太鼓のはじまりだった。 それ以来、毎年獄神社の例祭(九月二十三日)に奉納されるようになりいまに続いている。ただ平和の太鼓だけに、火事や台風などの災害で村が被害を受けた年は中止することになっている。なお頼光一行が大江山に出陣するときにも地頭村で太鼓が打たれた。それはいまの地頭太鼓だといわれている。 〔しるべ〕大俣太鼓は舞鶴市の無形文化財に指定されている。打ち方は大太鼓の一人打ちからはじまり、振りをつけて打つ舞い打ちに続いて二人が組んで打つ合い打ち回り打ちのあと急テンポのヤリベス打ちで終わる。 〉 |
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