丹後の伝説:35集
市民の戦争体験


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市民の戦争体験

市民の戦争体験
あるはあるはというくらいあるのだが、いくつかを…
『女のつぶやき』(昭61 舞鶴虹の会)より
私たちは住所が新舞鶴駅と北吸駅・中舞鶴駅に近かった関係上兵学校に学徒動員されましたが、あとに残った百十名の者たちは、学校が海軍工廠(今の日立造船)の下請けの学校工場として借上げられ、大きな機械等が持ち込まれて飛行機の方向指示器の一部を作っていた様です。兵学校に行った者は、お昼のお弁当は兵隊さんと同じ食事で当時は各家庭ではとうてい食べることが出来ない美味しいものばかりで、食事が楽しみで働きに行っていた様なものでした。
 一方学校工場に残った人達は、毎日交替で行永の学校より中舞鶴の海軍工廠まで歩いてリヤカーを引き、各班が各々数人づつ朝学校を出て、昼食に間に合うよう班の数だけお弁当をリヤカーにのせて学校まで帰って来ます。その内容たるや、今思ってもよくあんなものが食べられるなと思う、大根メシ、豆かすメシ等まぜ物の方が多く、御飯つぶはさがさなければならない様なもので、おかずは漬物と梅干しで、たまに入っていたら海草のホンダワラの煮付けです。これがその当時は大変なごちそうだったのです。
 日曜日になると今度は勉強です。学校に行き各教室は学校工場になっていましたから、体育館に全員が集って集中授業を受けました。ですから私達にはお休みがなかったのです。よくも体が続いたものだと思い出しては感心して居ります。
舞鶴第二高女の様子。井関美智子さんの文章。舞鶴第二高等女学校生というから、私の母校の青葉中学校の前身。兵学校とあるのは機関学校のことで、今の総監部のあるところ。

私はいつものように昼食の準備に取りかかった。決戦下の日常生活は極度に逼迫し、まず日日の食糧に事欠く有様。それでも田舎では、田畑を作り食糧増産に励んでいたお蔭で、不自由ながらも何とか米や野菜を食べることが出来た。代用食と称するものは冬は大根飯、夏はぢゃがいも飯、秋はさつまいも飯であったが、「窮すれば通ずる。」の諺通り、これらの御飯も雑炊も美味しくいただいたものだった。その日の昼食はさつまいも飯、まだ充分大きくなっていない藷を土の中から手探りで掘り出し、賽の目に切ってお米に混ぜ少々塩加減する。結構美味しい。
 
上羽玉枝さん。
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昭和十八年四月、憧れの舞鶴第一高女への入学を許された。入学式の当日も警報の発令中で、緊張した空気の中女学生としての第一歩を踏み出した。戦争は日増しにはげしくなり、働き盛りの男の人達は次々と召集されて行った。
 校門前で私達の下校を待ちかまえて、千人針を求める人、一針一針に出征して行く人の無事と必勝を祈りつつ真心を捧げたものだった。非常時体制が進み、主な食糧はすべて配給になり、衣料はキップ制となって、男は国民服、女は決戦服が平常着となり、派手な服装や着流しは非国民という汚名を着せられ、国中が戦争一色にぬり変えられて行った。入学して最初の裁縫で手がけたものは防空帽、防空手袋、防空衣、モンペとそれ等を常に持歩けるカバンであった。
 敵機の来襲に備えて防空訓練もきびしく、爆弾や焼夷弾の投下を想定して白煙筒がたかれ消火の放水で教室中が水浸しになる様子は本番さながらで、軍港都舞一女の防空訓練は日本一とまで折紙が付けられる程で、学校の誇りでもあった。毎日一回行われる時局考査では軍事関係の問題が問われるのだった。又英語は敵国語として授業の時間数が短縮された。こうして学校でもすべてのものに戦争教育が取り入れられて行った。
 十九年戦争ははげしくなる一方である。若い先生を次々と戦地へ送り出した。「海ゆかば」を口ずさみ、発って行かれた先生のその後の消息はどうなっただろうか。六月、学徒動員令により三年生以上は軍需工場へとかり出されて行く。体育館も学校工場となり、上級生の去って行った教室は兵隊さんの宿舎に当てられた。残る一、二年生は学校を守りながら農家へ食糧増産の勤労奉仕や、運動場を開墾して「報国農場」と名づけさつま芋の増産にはげむ等、落付いて授業の出来る日も一少くなっていった。食料難は深刻で家庭でも庭先や植木鉢までが食糧確保の場所となっていった。
坂本喜久恵さん舞鶴第一高女というのは今の城北中学校。

…私は疎開先で夫を急病で失った。舞鶴湾を前にして、かまどの裏側を廻るような交通不便な村である。村の若者の大半は召集を受け、中には父子共に出征された家もあった。残った男達もほとんどが軍関係の工場或は火薬廠へ日勤、夜勤と昼夜の別なく家を外に、唯、敗けてはならぬ戦争のために馬車馬のように、時には奴隷のように追い立てられて働いた。学童は野菜作り、彼岸花の球根掘り、主婦は家に使用の最低限を残して米麦、穀類、芋等、又、松の木の根の供出をと正直な者ほど身を削るような思いで果していった。
 今になっても私にはさっぱり判らないことが一つある。それは、くぬぎの木の皮を供出するようにと言われたことである。姑は、「自分の息子も召集され戦地で戦っているのに、例へ物言わぬくぬぎの木とはいえ生きた木の皮を剥ぐような酷い事はようせん」と言っていたことを覚えている。一体、くぬぎの木の皮を何のために供出しなければならなかったのであろうか。
 軍港である舞鶴であってみれば空襲を受けるのは当然のこと、昼夜を問わぬ空襲で湾内に停泊している艦船に低空のねらい撃ちで攻撃する敵飛行機を迎え撃つ兵士を、山の木かげから覗き見た記憶が恐ろしく甦る。

 私は船に乗ると真先に背負っている我が子をひざにおろしだっこすることにした。この子の上には、三才、六才の子がいる。今、ひざに抱いている子は生後七か月何も判らぬ虫のようなものである。万が一船が触雷しても命が助かる可能性があるならば、この虫のような乳飲子を見捨ててでも、私だけは生き残って家に留守番をしている二人の子供を養育しなければならぬ。決して一緒に溺れ死んではならぬとこんなことをいつも考えていた。
私は少しばかり水泳の心得があるので一キロや二キロは泳げる自信がある。船に乗る度にこんな恐ろしい心で背なの我が子を抱きかかえ、いつこれが最後になるか判らぬと思って人前もはばからず乳房をふくませたっぷりと飲ませるのであった。乳房をふくませる時は慈母であり、背から下ろす時は夜叉となる母、何とも哀しくそして残酷な想い出である。…

戦時下の食糧難に耐えて
            竹内 多津
 敗戦の年から早や四十一年、ずい分永い道のりを経たものではあるが、苦しかったかずかずの想い出は消えるものではない。
 殊に育ち盛りの子供達を抱えて一家の台所を預る主婦にとって、食糧事情の不自由であったあの年月の苦しさは、忘れようとしても忘れることは出来ない。
 日華事変が進むにつれて、我が国の食糧事情は徐々に、徐々に悪化をたどり、第二次世界大戦に至ってからは急速に進み、昭和十九年前後にはその頂点に達した。昭和十三年頃から、日用品、食料品の公定価格が定められ何事によらず暮し辛くなり始めた。そのためか、昭和十五年舞鶴市内の或る小学校では「食糧増産報国農場」を開設、青年学校、青年団、小学校高等科生徒で勤労報国隊を組織して食糧生産に従事、其の年の秋には米五俵半、とうもろこし三千貫、稗十六貫入り四俵、大豆三俵を収穫した。昭和十七年に入って、塩、みそ、醤油も配給制となり、三月からは牛肉、鶏卵、菓子が切符制となって肉は一世帯五十匁を三か月に一回配給、鶏卵は一人一か月に一個、菓子は十四才以下は一か月に六十銭相当、十五才以上は三十銭相当、八月から米は五分搗きとなり、十八年一月からは更に二分搗きとなった。人々は白米のおいしさが忘れられず、一升ビンで精米する智恵も覚えた。二十年七月には米の配給も成人が二合一勺となり、しかもこの中の何割かは大豆、大豆粕、高粱、芋、かぼちゃ等が含まれていた。こうした食糧不足の中で栄養を考え食欲を満たすのに主婦の毎日は大変であった。お金に不自由の無い人達はそれでも何とかしてルートをたどって闇物資を手に入れることが出来たが普通の家庭ではそれにも限度があった。人々は芋づる、かぼちゃの茎、大根の葉、その他野草に至るまで食べられるものは何とかして食べる工夫をした、町の食堂には食事時になると、雑炊を食べに来る客が行列を作り、コッペパンの自由販売があると聞くと何時間も待って買い求め、お豆腐屋さんへは、朝暗いうちに行き、開店を待って自由販売用の豆腐や油揚げを買った。
 私は、良人の生家も義姉も農家のため野菜にはそれ程の不自由を感じる事はなかった。けれども、農家とはいえ米とか芋類は供出が厳しかったので自家で作りながらも一日一回は雑炊なり大根飯を食べておられた様子であった。私達家族は、毎日毎日大根や豆粕を混ぜたご飯をたべ雑炊を啜り合ったものである。
 ある夜、台所で明朝炊くご飯に混ぜる大根をトントンと刻んでいると、近所の奥様が台所口からそっと入って来られ「その大根の皮と切り屑を貰えないか、家には五人の子供達が夕食を満足にたべられず悲しい思いをしている」と泣きながらのお言葉、私は大根の屑と奥様の顔を見比べながら困ってしまった。いくら困っていられるからと云ってもまさか大根の切り屑や皮を差し上げることも出来ず、かといってまだ手をつけずに残っている二本の新しい大根は後二日は使える我が家の大切な食料である。でも困っている時はお互いさま、後は何とかなるであろうと思い、失礼とは知りながら、新しい大根と乞われるままに皮と切り屑をお渡しした。奥様は宝物でも抱くようにして帰って行かれた。
 間もなく二十年三月末、私たち一家は良人の生家のある村へ三人の子供を連れて疎開したが、四日後に良人は急性胃潰瘍であっけなく他界してしまった。六才、三才、生後七か月の三児を残して。
 田と畑に囲まれた農村に移り住んでも所詮私たち一家は疎開者である。十日目ごとに四キロ離れた農協へ配給物を受取りに行き、団子のようなじゃがいもやひげみたいな甘藷を貰ってそれを主食の補いにするのであった。亡夫の母が一か月に一、二回「今日は仏様の日であるから」と云って白いご飯のおにぎりを子供達に一つづつ持って来て下さるのが何よりのご馳走であった。また「畑に大根の葉を残しておいたから拾って来て食べるように」とか、「種を取ったあとの大根を引き残しておいたから食べられそうなのがあったら拾って来なさい」とも言ってくれた。村の人達は皆、心まろやかな態度で温かい言葉をかけて下さり苦しい中にも母の体重が減ってゆくのに半比例して、三人の子供達は身も心も健やかに育ってくれたのが何よりの救いであった。
 八月の敗戦を迎えても食糧事情は相変らず苦しく、亡夫と共に営々として貯えたお金も貨幣価値の暴落で紙屑にも等しきものとなってしまった。戦争というものの残酷さをしみじみと思い知らされたものである。
 戦後に生まれ、飽食に馴れた人達には到底想像も出来ない事と思うが、私ども体験者が伝え残さねば誰が伝え得よう。絶対に風化させてはならぬ貴重なそして悲しい事実である。
戦争は勝者、敗者を問わず決して幸せをもたらすものではないと私は云い切りたい。
竹内多津さんの文章。
団塊の私などはこうした事の体験がないが、も少し年上になると、今でも私なんぞとは食事の仕方がちがう。正座して手を合わせてから食べる、一粒たりとも残さない。いかに腐った米粒でも決して捨てたりはしない。もう捨てたら、などと言っても聞かない。何とかして食べようとする。私らの世代はまだその気持ちが理解はできるが、も少し年下になれば、理解もできないと思われる。


…戦時中一番の思い出となっているのはお勤めのことです。生れて初めての汽車通勤、西舞鶴から東舞鶴まで、今は廃線となり素晴らしい歩道となっている中舞鶴線に乗り換えて東門駅にはき出されると、現在は舞鶴市役所となっている場所が、旧舞鶴海軍々需部庁舎でした。そこが私の初めての勤務先です。その門をくぐるまでの道の両側には板塀に囲まれた軍人の官舎がずらりと並び、随分重苦しい感じを受けたものでした。今は随分広くなっている市役所前の三交路も、今程ではありませんが当時も大門通りから中舞鶴にかけてはメイン通りの大きな道路で、その一角に衛兵の詰所があり、何時も銃を持った衛兵が立っていて、その前を通る時はあまり良い気持がしなかった記憶がよみがえって来ます。
 勤務時の服装も終戦一年前くらいまでは、年長者は和服に袴付けで事務をとり、若い私達はスカートで出勤しておりました。四大節の式典には私達も袴をはいて長い袖を振り振り出かけ、楽しさ一杯の箸がころんでもおかしい時代を過ごしたものです。
 そのうち何時の頃からか思い出せませんが、毎日々々防空壕掘りにかり出され、奥深い横穴から、トロッコで土を運び出したものでした。その防空壕の中、ボタボタと雫の落ちる、ヒンヤリと冷たい所へ非常持出しの書類を持ち込み、そこで警報下を過ごしながらの仕事でございました。軍需部長には海軍中将が、以下大佐、中佐と偉い士官さんばかり、そんな中で若い中尉さんは、私達のあこがれの的でした。
 北吸の家々は士官さんの下宿が軒並だった様に思います。下宿に遊びに行き、菓子等頂いて話をする、まだ幼い私達のささやかな青春でした。軍の膝元に勤務し、物資を扱う軍需部にあって、物不足をあまり考えることなく暮していたのかも知れません。通常物品倉庫には、あらゆる品物が山積みしてあったようです。終戦後見た倉庫には銘仙の反物まであって何に使ったものかと、今でも不思議な気がしています。軍も上層部になると、もう何一つ不足を知らずに暮しておられた様に思えました。とにかくお昼食にしても、私達雇員は大豆ごはん(それでもおべんとうが出るだけまし)分配するのにバラバラとおしゃもじにすくえない様なごはんにみそ汗だけの食事なのに、士官食堂は、専属のコックが二人居て、会議室が食堂となり、テーブルを連らねて白布を掛け、肉料理、魚料理がズラリと並び家庭では見たこともない料理法で、いかにもおいしそうな御馳走が出て、その匂が庁舎に立ちこめたものです。もちろん、フカフカの白ごはん。なんと違いのあることか、当時はそれでも偉い人達だからあたりまえと思って見ていたのでしょう。今考えると馬鹿らしい話です。…
仲ハルエさん

…昭和二十年八月十五日、日本は敗戦を宣言した。当時私は津浦戦から単身帰還を命ぜられ、福知山作業隊長の内命を受け、大阪鉄道隊生瀬兵舎で十月一日の部隊開設に向けて準備中であった。
 その日以後、阪急電車でも多くの人々は我々が軍服を着ているただそれだけで冷たい目を私どもに注いでいた。中には面と向って、「あんたら兵隊のお蔭でこのざまだ」とはっきり言った人もいた。いかにも私は私なりに、勝つようにと念じつつ働いて来た。賽が投げられた以上、敗けてはならないと懸命になっていた、教壇でも戦地でも。
中田美代子さん。この文章は引用文だそうである。「あんたら兵隊のお陰でこのざまだ」。再びこんなことを言わずに済むよう、普段から心がけ、厳しい態度で臨む必要があろう。しかしあれから60数年後の最近の風潮は、この言葉をもう一度いうような気配にも感じられるのだが−、



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市民の戦争体験(続き)

『平校閉校記念誌』(昭62)に、

…戦争が始まってからの授業の様子を以下ここに掲載してみます。
 「雨の日は作業が出来ないので教室での勉強でした。天皇の名前を神武天皇から今上天皇迄を、一週間で暗記をするとか、ソロバンの練習は体育館で上級生が机と椅子を持ち出し全員で練習をするのでした。体育は冬など上半身裸で体育館を十周するとか、グランドを十周するとかが授業の一つでした。冬は雪もたくさん降りましたので大きなすべり台を作って、スキーやソリで練習をしました。夏は平の八幡様の先の、宮の浜という海岸で生徒全員が泳げるようにと、体育の時間は練習をしました。泳げない子供は小舟で少し沖の方までつれていかれ、舟からはめられて海岸までむちゃくちゃに、犬かきで泳いでくるというかなりきびしい練習でした。それから戦争中なので体育の時間には、ナギナタの練習をずいぶんしました。また運動会といえば走ることと障害物競争で第一場所にはモンペが置いてあり、その次にはエプロンが置いてありそれ等をつけて、次に頭にテヌグイをかぶり、火たたきを持って、バケツをさげてゴール迄走るのです。
 それから三浜の人で戦死者がでると、平の小学校の高学年は三浜の小学校で行なわれる葬儀に参列しなくてはならず峠の悪い道を歩いて行かなければなりませんでした。また平校区で戦死者が出た場合は、三浜の生徒が来てくれました。お天気のよい日は、トグワと鎌を持って山へ出かけ、開懇をしそこにサツマイモを植えたものです。でも植えただけでは大きくなりません。今から思えばよくやりました。肥を箍に半分ほど自分達で入れて、二人でかついで、大豆やサツマイモにかけて行きました。きたなくていやな作業でした。稲が植えてある田んぼへ出かけ、稲に付く害虫(カメ虫)という虫取りに田んぼへ行きました。田植時期には一週間学校が休みになります。その間毎日毎日、田植ばかりで、私達子供の頃は、勉強よりも農作業の方が大切だったのです。それからマオという草を切って来て、皆で集め学校へ持って行き、直径四センチ、長さ七十センチぐらいの竹を半分に割って、まるい方とまるい方と背中合わせにして、その竹をゆわえて、竹と竹の間にマオをはさんで引っぱると、中の芯と皮がきれいにはがれるのです。その皮を加工して、軍隊に拠出するのです。」…


『原校百年誌』
運動場はいも畑となる
 昭和十六年十二月八日、遂に大東亜戦争は太平洋戦争となる。この頃になると、米をはじめ、衣料の窮乏の度は深まり、町の人たちの買い出し、縁古をたよっての食料買いがはじまった。「欲しがりません勝つまでは」子供達の合ことばとして、耐乏生活の中で増産運動は続けられた。子供たちの遊び場である運動場は、堀り返してイモ畑になった。
 町からは中学生たちが、衣料の原料になるマオ、チョマをとりにやってきた。ドングリ拾いもやった。たべられる雑草は次々に試食もした。十七年の四月アメリカの飛行機が東京を空襲した。戦の波は遂に内地に波及した。学校では高等科を中心として戦意昂揚のため軍事教練が全国的にはじめられた。河辺の各地では防空ごうが堀られ、防空演習も行なわれた。若い人も壮年も体のいい人は、次々に召集、赤紙がやってきて軍隊にとられていった。小学生はこれらの人を日の丸をふって、村の人々と共に平口まで送っていった。強い決意をしても、再び帰ってこの河辺の土を耕すことができるかと思うと、何かしらこの故郷が極楽のように思われ、子供たちのうちふる日の丸がさびしくみえた。「勝ってくるぞと勇ましく、誓って国をでたからは……」送るうたごえは何かうつるな感じもしてきた。しかしこの人たちの幸のためには、我が身はたとえ敵の弾にあたろうと、みたてとなろうと我が身をはげまし、故郷をあとにせねばならなかった。
 送ることが多くなると共に、白い木箱を胸に、無言のがいせんを迎える回数も多くなった。小学校で同じ机で学んだ彼、よく走った、よく勉強した。共にわんぱくして先生を困らせた彼、今は無言でこの河辺に帰ってきた。小学生の列ぶ前を我が家に帰る。彼はこの並ぶ子らにどう話しかけているのだろう。安らかにねむりたまえ。


赤だすきの金次郎
(昭和二十二年卒) 水ロ正夫

 昭和十九年のはじめであっただろう。きびしい物不足の中で、金銀、鉄と各家庭から金具類の供出が強制的におこなわれた。じいさんの大切にしていた金時計、ゆびわ、花びん、火鉢……。ださねば非国民のようにいわれた。
 整列、校門より並んだわたくしたちの前を、白い布をまきつけ、赤だすきをかけた金次郎の銅像が大八車にのせられて、砲弾になるのか、魚雷になるのか国の御為に旅立つことになったのです。みんなの目から涙が流れる。雨の日も雪の日も、たきぎを背おって、ぼくたちが学校にやってくるのをじっとみつめてくれていた。国民科の時間に先生から、金次郎さんの話をよくきかされたものだ。金次郎の家は河辺の村のような農村だった。早く父に死にわかれ病弱の母と弟妹、金次郎が小学四年の年頃には、一家の生活は金次郎の全責任になっていた。昼は人足に、夜はわらじあみと、なれぬ仕事に身を粉にして働いたそうだ。又勉強が大すきで、本を買う金もないので、本を人に借りたり、往復八里の道をものともせず本を写しに通った。銅像の本を読む姿は、たきぎとりの帰り道、なにもせず歩く時間ももったいないと本を読んでいる姿です。

『与保呂校百年誌』


金次郎さんの応召

 昭和十八年太平洋戦争はきびしくなり、第一回の学徒出陣が行なわれた。「見よ東海の空あけて…」の愛国行進曲、「貫様と俺とは同期の桜……」の同期の桜などの歌がラジオ、レコードはもちろん、子供などの間にもうたわれ国民の士気をあおった。しかし食糧をはじめ衣料、学用品等の不足の度は深く各家庭から金属類の供出が強制的に行なわれた。この波に日頃登下校のときに常にあいさつした二宮尊徳の銅像も、中舞鶴校、志楽校と共に本校のも仲よく市役所に搬入された。雨の日も風の日も、校庭の一隅にたって、勤勉力行の精神を児童に身をもって教えた二宮金次郎さんも今度は国を守るため、砲弾や魚雷となって国の守りに役立つことになった。


軍国主義下の小学校
   昭私十八年度卒業 土本義己

…私達の小学校時代は、軍国主義一色。陸軍大将、東条英樹は男の子の最高のあこがれの的でありました。学校では月に一回ぐらい日の丸弁当の日というのがあって(弁当のおかずは梅干一つ、ふたをあけると日の丸の旗にそっくり)全校生徒が講堂に集って黙とうをして、戦地の兵士や両親に感謝をしたのち、会食をするのです。又五月二十日の海軍記念日には、日露戦争で日本艦隊がロシヤの艦隊に大勝した日本海海戦の話しを聞かされました。私が四年か五年の時、東出先生の日本海海戦、東郷連合艦隊可令長官の作戦の話しが一番印象に残っています。教育の中では、修身が最高の科目とされ、何時間かは校長先生に教えられました。いくら算数や国語がよくできても、修身が悪ければ駄目だといわれたものです。修身の中心は天皇に忠義をつくすということであったと思います。





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