丹後の伝説:45集
鯨とり、捕鯨
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鯨とり、捕鯨の話 鯨の墓 青島
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『丹哥府志』
【鯨】(出図)

三才図会云。鯨は海中の大魚なり、大なるものは長サ千里、出れば即潮下る入れば即ち潮上る、雄者為鯨雌者為鯢云々。然れども斯く大なるものはある事なし、まだ卅間余りのものを以て最大なるものとす、吾丹後に於て捕ふるもの僅に八、九尋より十五、六尋を以て大なりとす、蓋鯨は他の魚と異り水中にて息する事能はず是非水上に浮み潮を吹て息するなり、よって鯨の通行する必ず人目にかかるなり、種類も数多あれどもザトウ、ナガス、セミ三種の外に出でず。抑鯨の稲浦に入る、大海より鰯の類を遂来り夫より海礒にそふて遂に稲浦に入る、其潮を吹て青嶋の内へ入るを待てち、高梨より嶋の方へ網を張切る、亀山の方も如斯網をはり網の上に舟を並べ、老人子供其舟に乗りて太鼓をたたき張り切りより鯨の出ざる様に防をなす、若き者は各モリ(鯨をさす鉾の名)を以て鯨の潮を吹く處へ往てこれをうつ、初てうつ者を一番モリといふ、褒美二番、三番に優る、既に六、七本もモリを撃て舟を引かしむれば稍疲ると見へて頻りに潮を吹く、よって彌々モリをうつ、卅本斗もモリをうって暫く舟をひかしむ、殆ど斃るを見て網を引廻し轆轤を以て嶋の方へ引きあげる、いよいよ斃るに及て必はねて西に向ふ、於是浮屠氏の説をとる、よって鯨をとるごとに伊根浦の寺院相集りて施餓鬼をよむ、少し不思議に思へども今地理を以て考ふれば、嶋の方は東にあたる、鯨の嶋の方へむければ必ずはねて西に向ふは水の方へむくなり、若し西手の浜へ引上たらば必ず東の方へむくまるべしと覚ゆ。初め鯨を浜の方へ引よせてまだ息のある絶へざる間に其背に登りて三尺四方斗肉を切り腹を抜き、腹内へ水をいれて冷さなければ少しの間に臓腑必ず腐敗するといふ、夫より次第に屠る、第一舌に脂あるとてまづ轆轤にかけて口を開き柱を立て、二、三人斗口の内に入り舌を切る。最初モリを五、六本うつ頃は所謂血の海となり、屠る頃は處々に泡の如く水に浮きたるものあり皆脂なり、水共に汲みて脂に製す、一人にて二斗三斗も取る、是寡婦の利なり。三才図会にいふ如く大なるものにはあらねど親しくこれを見て、噺に聞くとは存外大なるものと覚ゆ、詳なる事は鯨考にあり。
【モリ】(鯨を刺す鉾の名)
鉾の長サ三尺、鉾の頭鏃の如く三角の羽あり、唯羽の處鋼鉄を用ゆ其余は曲りても折れざるを要とす、柄の處に縄を付けて舟に繋ぐ、鯨を刺す時其縄を柄にそへて柄のぬけざる様に持つなり、柄の長サ五、六尺大サ三寸まわりもあり。
『伊根町誌』
伊根湾内の鯨捕り
鯨永代帳
現在青島の水産資料館内に「鯨永代帳」として明暦二年(一六五六)以降昭和二年(一九二七)までの亀島地区の捕鯨記録がある。
(附録「鯨記録」参照)
伊根湾内に入った鯨を、後述する漁具漁法によって捕獲するようになたのは江戸時代初期と推定され、この「鯨永代帳」には明暦二年(一六五六)から昭和二年(一九二七)までに約三五○頭が記録され、捕獲された年月日、鯨の種類、尋数(長さ)、入札代金、落札価、落札地区名、その他鯨肉、鯨油料、損益など詳細な記録が残されている。この記録によると捕獲された鯨の種類は座頭鯨・長須鯨・蝉鯨の三種にまとめられ、座頭鯨約一七○頭、長須鯨約一四○頭、蝉鯨約四○頭である。

↑鯨追い込みの風景
明暦二年弐月弐十日
麦 六十
一、座頭鯨 壱本 赤 百四十
油 七石
落札高梨 合 五百目得
長サ 七尋半
明暦三年酉三月八日
代 三貫弐百九拾目 一、蝉鯨 壱本
皮 百
落札耳鼻 赤百掛
長サ 七尋二尺 海老尾
八ツ
代 銀四貫六拾目 はくき
合 損得無
皮 弐百五十掛羽
赤 百八十掛羽
明暦三年酉霜月十一日
海老尾 十五掛羽
一、座頭鯨 壱本
油 十弐石
落札立石
合 壱貢五百目
長サ 八尋
代 弐貫四百五拾目
明暦三年三月十一日
一、座頭鯨 壱本
皮 百掛
赤 八十五掛
落札亀山 海老尾 七ツ
長サ 六尋半
代 三貫弐百五十目
油 五石
合 損得無
皮 六十五掛羽
麦 四十五掛羽
注 海老尾 「おばいけ」、「タッパ」ともいわれ、尻尾のつけ根のところで一番美味として珍重された。
麦 背中の肉をいい海老尾に次ぎおいしい部分とされる。
羽 鯨肉を一定の大きさの四角な升形に切り、「羽」は「把」で一羽(把)、二羽(把)と数えた。
油 古くは鯨からは主として油をとり、鯨肉を食用に供するのは従であった。後世は青島の姪子神社の鳥居付近で搾油した。
最も大きな鯨としては宝暦十一年(一七六一)三月八日の長須鯨で、長さ一四尋(約二一メートル)胴廻り六尋(約九メートル)とあり、耳鼻地区が落札している。一尋は普通両手を左右にひろげた長さであり、五尺位(約一・五メートル)とされるが、鯨をはかる時はできるだけ長く計り、両手をひろげふところには分厚い帳面を入れて腹をふくらませ、縄を地面まで垂らして時には約八尺(二・四メートル)ぐらいに計ったりしたと伝えられる。この他大きな鯨が捕れたのは年代の古いころに多くすべて長須鯨であり、寛文三年(一六六三)、同七年(一六六七)、同十二年(一六七二)、正徳元年(一七一一)、享保十五年(一七三○)、同十六年(一七三一)、寛保元年(一七四一)等の年には一三尋、一三尋半の鯨が捕れている。普通は六、七尋位(約九〜一○・五メートル)の鯨が多くまた一番味がよいとされている。
捕獲された鯨は年平均にすると一〜二本であるが、天和元年(一六八一)二月二日には「長須鯨拾壱本取候」と一度に一一本の水揚げがあり、そのうち八本は高梨・亀山・耳鼻・立石の四区にて「振鬮」(くじ引)で分配し三頭を入札している。
宝暦十一年巳三月八日
一、長ス鯨 壱本 長 十四尋
廻 六尋
代弐貫六百
札本耳鼻
皮 百八拾掛
麦 百六拾掛
赤身 三百八拾掛
はぐき 二十三
筋 百弐十斤
油 拾九石二斗
〆 七貫五百目利
注 この年の米相場は、石当り四十七匁四分(年貢米は三十六匁五分六厘一毛)であるから、利益金七貫五百目は米一五八石二斗となり、一俵四斗入りとして三九五俵分あり、耳鼻地区ではこの利益金を元にして舟屋台をつくったとも伝えられている。
『舟屋むかしいま』(和久田幹夫著)(下の写真なども)

↑「捕鯨実況写真 大正初期 にびの谷に追いこんだところ。まん中のやや下のところに鯨が見える。舟屋・母屋ともわらぶきが多く見られる。落合秀夫氏 所蔵」とキャプションがある。

↑「京都府与謝郡伊根湾捕鯨実況」 大間口38艘、小間口18艘、突船38艘、亀島村総がかりの捕鯨の図 とキャプションにある。

↑青島にある子鯨の墓 「児鯨塔」「在胎鯨子塔」など刻まれている。中央の墓は文化五年辰正月廿三日の日付がある。墓と墓の間にあるのは鯨の脊椎である。 とキャプションにある。
「お間内」漁業の花形、勇壮な鯨捕り
伊根のなかでも耳鼻の谷地獄
入るくじらをみな殺す (伊根の投げ節)
鯨捕りは何といっても湾内漁業の花形でした。
鯨を捕る権利は、亀島村(高梨・立石・耳鼻・亀山の四部落)が独占していました。
鯨がお間内に入ると、村はがぜん活気づきます。大間口(青島・高梨間)二〇四問(約三〇〇b)に網をはるのは高梨の分担、小間口(青島・亀山問)八七間(約一三〇b)は亀山の分担でした。大間田には漁船三八艘、小間口には一八艘が、それぞれ鯨が逃げ出さぬよう、船端をたたいて監視しました。追い込み船三八艘が、耳鼻の谷や黒地又は大浦に追い込み、一番銛、二番銛と鯨銛を打ちこみ、だんだん鯨が弱った頃、鯨船(大船)から鯨網をおろし、つつむようにはさんで捕獲しました。
船は「ともぶと」と呼ばれる、全長七・五四b、幅一・〇六b、深さ〇・七五bのものでした。
鯨銛は長さ一尺八寸(五四センチメートル)の鉄製の銛に、長さ八尺(二・四b)の樫の柄をつけ、銛の頭は鏃のように尖り、約一〇センチメートルの逆鉤が羽の形につけられ、打ち込んだあとで抜けないように工夫されていました。この鉄の部分に六分(約二センチメートル)の麻の銛綱がつけてあり、その一端を船につなぎとめ銛を打ちこむと鯨が船を引き廻すかっこうになるのです。
普通で七から八尋、最大一四尋の鯨が、手傷を負ってあばれまわるのですから、鯨捕りは危険極まりない、まさに命がけのたたかいでした。銛綱にまかれて海に引きずりこまれ不幸にもなくなった人もありました。
しとめた鯨は、総代の浜辺で、後世は青島の蛭子神社下で処理しました。
亀島村にとって鯨鯨りは、一村あげて賑わいを見せる一つの大きな行事でした。作業は多く夜に入るので「かがり」を焚き、庄屋は高張堤灯を掲げました。主婦達が白米七斗の炊き出しをし、にぎり飯を二個ずつ配るのが古来からのならわしであり、鯨船には酒も振舞われました。
鯨の入札は、亀島四区によって行われ、札値の高い地区に落札しました。鯨がとれるとただちに宮津藩に注進し、掛り役人が入札に立合いました。藩は落札高の十分の一を「鯨運上」として確実にとりたてました。
「亀島区有文書」によると、明暦二年(一六五六)から昭和二年(一九二七)までの二七一年間に約三五〇頭が捕獲されています。年平均一〜二頭ですが、天和元年(一六八一)二月二日には、一日で長須鯨を一一頭も獲ったと記録されています。鯨の種類別は、座頭鯨一七〇頭、長須鯨一四〇頭、蝉鯨四〇頭などで小さいのが三尋、最も大きいのは、長さ一四尋廻り六尋(長須鯨)もありました。一尋は五尺(一・五b)ですから、二一bもあったのです。
この記録には、捕獲年月日、鯨の種類、長さと胴廻り、落札価格、落札地区名、目方(皮・麦・赤身・はぐき・筋・えびお・油等別に)、損益などが克明に書きのこされています。
利益配分は、捕獲に要した一切の経費(湾口の網おき賃、鯨船乗賃、引船賃、小廻り賃、かがり代、酒代等)を差引き、益金を亀島村の百姓株(参照、後出鰤株制)七五株に割って、持ち株に応じて分配されました。
鯨の処分がすべて終わると、鯨魂を弔うため塔婆を立て、僧を招いて浜供養を行い、入札価の一〇〇分の一を成相寺に納め、毎年正月一九日には成相寺で施餓鬼を営むのがならわしとなっていました。
青島に鯨の墓が三基あります。「児鯨塔」とあるのは、親鯨をしとめたとき、子鯨がどうしてもそのそばを離れなかったので、やむなく子鯨も殺し、その肉を食うに忍びないとそのまま葬り、墓を建てたといい伝えられているものです。文化五辰(一八〇八)の墓には「在胎鯨子塔」とあり、記録に「右之鯨ニ子有」と記されていることから、胎児を葬ったものであることがわかります。
漁師たちの、やさしい心づかいが伝わってきます。

『丹哥府志』
【鯨の墓】(青嶋)
鯨をとる毎に施餓鬼をよむときく、よって鯨をとればのこらず此墓に葬るかと思ひしが、左にはあらで子鯨の墓なりといふ。嘗て鯨をとりしが子鯨母鯨にそふて上となり下となりて其情態甚親しく、既に母鯨の斃る頃も頑是にき児の母の死骸にとり付て乳を飲む様にも見へたり、よって屡々これを取除んとすれども遂に離れず、無據子母と共に殺すに至る、いかなねものも其様を見ては其肉を食ふに忍びず、此處に葬りて墓を建て供養せりといふ。或説に鯨はセミとナガスは捕り易けれども独りザトウ甚捕りがたしと、子持鯨はまづ児鯨さへ捕りたれば母鯨は少しも其場を去らず身を以て子を掩ふに至る、是を以て却て心易く捕れるものなりといふ、定て此墓の鯨もザトウなるべし。
『伊根町誌』
鯨の墓 青島の蛭子神社の鳥居をくぐり、石段を上ると、左手に小さな鯨の墓が三基ある。「在胎鯨子塔」「鋭胎凶霊追薦」「児鯨塔」と墓碑銘が刻まれ、その一つに「文化五辰正月二十三日」と明記されている。伊根湾にて捕獲された鯨の数は、亀島地区の古文書で青島水産資料館に保管されている「鯨永代帳」によると、明暦二年(一六五六)より大正二年(一九一三)までの二五七年間に三五五頭が数えられるが、文化五年(一八○八)正月二十三日の記録を見ると、「座頭鯨壱本長五尋、廻二尋壱尺、代銀弐貫九拾匁」とあり、「右之鯨子有」と付記されている。この「鯨の墓」の由来について丹哥府志には次のように記されている。「嘗て鯨をとりしが子鯨、母鯨にそうて上となり下となりて其の情態甚だ親しく、既に母鯨の斃る頃も、頑是なき児の母の死骸にとり付きて、乳を飲む様にも見えたり、よって屡々これを取除かんとすれども遂に離れず、拠無く子・母共に殺すに至る。いかなるものもその様を見てはその肉を食うに忍びず、此処に葬りて墓を建て供養せり、定めてこの墓の鯨もザトウなるべし」とある。
また鯨を捕獲すると施餓鬼をあげて代金の一○○分の一を成相寺に納め、毎年正月十九日には、成相寺に詣で施餓鬼を営み供養をなした。伊根漁民の信仰心と人情の厚さを示すものである。
「たそがれてひぐらし鳴けり鯨墓」
そのほかの鯨
『田井校区のすがた』
鯨の話
数年に1度、忘れたころにクジラが網にはいります。1月〜2月ごろが多く、クジラがくると漁がしをい、と昔からいわれています。
ここでとれるのはイワシクジラで、昔はクジラがとれると、その歯を各戸で分けて家の入口にぶらさげておいたそうです。魚の骨がのどにささったとき、これでのどをなでると骨がとれるといいました。
古い記録では、成生で明治44年にブリ大敷にクジラがはいりました。このクジラの、小売代金が16円9銭で、そのクジラの供養のために「鯨施餓鬼(せがき)」をしていますが、そのお布施が7円30銭でした。
また、この地方では、イルカをイルカボンと敬って呼んでいます。それは、イルカが魚を網に追い込んだり、また逆に魚を追い散らしたりするからです。
毛島の毛島明神は、イルカの神様で、「伊留嘉明神」ともいい、7月18日に毛島参りをします。
『市史編纂だより』(s52.5.1)
◎捕鯨事業開始=日本海方面に鯨族の出没する事実は、疾くに当業者の注目するところなりしも其捕鯨事業の根拠地は朝鮮にては迎日湾、内地にては佐渡に設けられ、之を丹後地方に試むるものあらざりしが、東洋捕鯨株式会社は敏くも日本海の中心たる舞鶴が、陸上四通八通の便を得たるに着眼し、昨年来ひそかに調査中なりしが、いよいよその有望なることを認め、四所村字吉田に事業場を設くることとし、二年(大正)二月以来着手し、其筋の許可を経三月より漁船二隻をもって近海を遊弋、捕鯨に従事せしが、幸先よく初航に於て長さ六間と七間の二頭を漁獲、直ちに処理し四月終業までに七頭を捕獲せり。(舞鶴郷友会報大正2.5.15)
『高浜町誌』
鯨供養塚
鯨供養塚は和田高森近くの国道沿いにある。
大正七年七月三一日国鉄小浜線の建設中、夜半鯨が潮を吹きつつ鰯を追って青戸の入江に入って来て、海岸の泥土のため動けなくなった。作業をしていた飛島組の若者たちによって捕えられた。長さ一五メートルもある大きな鯨であった、その鯨の冥福を祈るために碑が立てられた。

『伊根町誌』
青島
伊根湾の入口に浮ぷ椎の古木におおわれた緑濃い島は青島と呼ばれ、湾口を扼して内海の防波堤の役目を果たしている。周囲約一・五キロ標高二○b面積約五f余りの大・小二つの島からなり、その姿が亀に似ているとして古くは「亀島」と呼ばれたが、現在は青島と愛称されている無人島である。この島は古来より伊根湾岸に住居する亀島・平田地区住民の共有の財産としてあり、伊根の海が四時波静かであり、風波のおそれもなく漁業を営み得るのも、この「青島の賜」ということができる。島内には元和五年(一六一九)三月創建の蛭子神社をはじめ、正法寺跡・弁財天古跡・鯨の墓等があり信仰の地としてもあった。昭和十七年(一九四二)十月、大浦に現在の火葬場が新設されるまでは、養殖場として開削されたところに火葬場があって、内湾住民は死後は必ず海を渡って「島の焼場」で火葬に付された。またその付近に亀島地区住民は墓を建てていたが、昭和十八年(一九四三)旧海軍が軍事施設を建設することとなった時に、火葬場と共に移転した。伊根の漁民にとって、青島が果たしている最も重要なことの一つは、魚付保安林としててある。古来より島の樹木の伐採は一切許されず、江戸時代の「浦方取締法令」に、「青嶋ニ而木葉ニ而も拾ひ取申間敷候、若枯木ニ而も取候者有之候得ハ急度曲事可被仰付候事」とあって、木の葉一枚、枯木一本も取ってはならないとして厳重に取り締まられ、現在に至るまでよく保全され、原始林の観を呈している。このようにして青島は全島が樹木でおおわれ、ことに椎の古木が生い茂っているので、秋になると大量の椎の実が落ち、近年は椎の実を拾いに行く人は少ないが、かつては「椎一升米一升」といわれ、亀島地区住民は順番を決めて出掛けその収穫は貴重であった。江戸中期の儒学者貝原益軒が元禄二年(一六八九)の「丹後与佐海図誌」に、「伊根鰤」がうまいのは「青島の椎の実をくらうがため」と記しているのはおもしろい。この青島は第二次世界大戦中に昭和十八年(一九四三)、旧海軍が舞鶴港の防備のため、青島の南側沖合に向けて魚雷発射場を建設し、頂上に監視所を設けて警備にあたったが、敗戦後爆破して今は突堤のみがその名残りを止めている。周辺には「ヒジキ」・「黒鼻」などの烏賊締網の好漁場があり、内湾の島に沿って近年ハマチ・鯛などの養殖が営まれている。
第二次世界大戦後に伊根町・伊根漁業協同組合・地元関係住民代表が協議して、観光施設をつくるため資本金二○万円で「青島開発株式会社」を設立し、次のような計画をたて青島に観光地としての施設の整備が取り組まれた。
1 大・小二つの島の間にある平坦地(約五○b〜七○bの三五○○平方b)に養魚場をつくり、タイ・ハマチ・フグ等の養殖を行う。またその一部を仕切って釣堀をつくり、生きのよい刺身を食べさせる。養魚場は水深三bとし内湾と外湾に水門をつくる。
2 水産資料館を建設して古くから伝わる漁具・古文書・絵図面その他の資料や魚類の標本等を陳列する。
3 休憩所兼食堂・公衆便所等を新築する。
4 青島燈台と展望台・旧正法寺屋敷・蛭子神社境内を結ぶ山あいの海岸線に遊歩道をつくる。(「椎の木道」)
5 丹後海陸交通株式会社から、小型のモーターボートを夏期三か月間借りうけ、定期便としお客を送迎する。
これらの計画はそれぞれ実行に移され、養魚場は昭和三十五年(一九六○)に工事に取りかかり、昭和三十七年(一九六二)七月に完成し、鯛・ハマチ・フグ等の養殖が試みられ、釣堀形態をとって一時観光客に喜ばれたが、外海と内海の海水の流通が適当でなく、特に夏期に海水がかわらぬことと、海底の深度が不充分なため、魚が死滅するおそれがあるとして現在は休止している。
水産資料館は昭和三十八年(一九六三)三月完成し、二階建ての建物で階下に漁具類や魚類の標本が陳列され、休憩所兼食堂としてあてられている。二階には古文書・絵図面等貴重な史料を陳列し保管されているが、今後更に保存と活用が考えられている。
青島灯台は「伊根港灯台」として昭和三十年(一九五五)五月建設され、光度三五○○カンデラ、灯質は明暗白光三秒、二秒の点滅になっており、光達距離は一七海里に及び、沿岸漁民の安全な航行に寄与している。
遊歩道は昭和四十七年(一九七二)に、蛭子神社前付近から旧魚雷発射場の突堤前に通ずる「椎の木道」としてつくられ、原始林の中を歩む幽邃の趣きをもっている。
観光地としての青島の開発は今後の課題であるが、いずれにしても将来共にこの地の発展には最も重要な「要」をなす島である。

伊根の昔話
『丹後伊根の昔話』
猫の浪花節 日出・折戸 はる
昔、子のない人で、もう猫をたいへん可愛がって、おいしい魚でも、上身を取って、猫に食わせたり、へて、自分は粗しやぶるようにして、そんだけ猫を可愛がったいうんですわ。もう、なんでもおいしい物をその猫に、油揚げでも買うてやるわ、まあそれほど可愛がったんですって。
ほしたらさあ、ある時に旦那さんの留守の問に、もう、ものすげえ良え男が入えって来て、へてまあ、あのことだ、とにかく、家のおかみざんは、浪花節が好きなで、あのうことだ、浪花節を聞かしたげよう思って、恩返しに。ほいて、さあその良え男が、「浪花節を言わしてくれ」言うて。ほいて、「今日は、旦那さんも留守だし、また、二人揃った時に、同し聞かしてもらうんなら、私一人では勿体ないで、またお願いしますわ」言うてしたら、「いいや。旦那さんの留守の間に言いたえ」言うて、「そうですか。ほんなまあ言うてもらおうかあ。一人で勿体無えけど」言うて、さあもう、素敵な浪花節を聞いたいうんです。ほしたところが、途中で、「ちょっと言うときてゃあことがある。吾は、何隠そう。あんたに何時も可愛がってもらっとる猫だ。ほいで、吾が浪花節を言うて聞かせたいうことは、絶対誰にも言うてくれな。もしあのうことだ、貴方が、吾の言うこと聞かんと人に言うたら、へたら、吾はたちまち猫になって、貴方を噛み殺す」言うた。「そうか、そうか。まあそういう都合なら、絶対人には言わへんで」、言うとったんですって。ほしてまた、それから続きをまあ、真剣にその、浪花節を言うたいうんです。
ほしたところがさあ、旦那さんが、帰って来て、戸口にい、あらっ!浪花節の声がするなあ思って、立ち止まって聞いとったんです。もう、それも、素敵な上手なんでしたそうな。ほえから、こりやまあ、あのうことだ、変なことだ。吾の留守の間に、こんな良え男が来て、思って。それからまあ、しばらくしとったら、その浪花節が済んだいうんです。
へえからまあ、「今帰って来たで」言うて、知らん顔して帰って来て、「吾なあ、さっきに帰って来たけえど、もう、あんまれあのうことだ、上手に、浪花節語りが、語っとる按配だって、吾ゃしばらく間いとったで。ほで、あの人は一体どこの人だ」言うて、さあもう、どこまでもそう言うて問うんですって。「どこの人だ知らん人です」いうて、言うんですけえどな、「そんなことはなかろう。そんな、知らんなにいうことはあれへん。陰にああいう人を拵ゃあとったんに違ゃあ無ゃあ」言うて、もう、責めて責めて責めて、もうどこまでも責められるもんですで、言わんとおられん。
ほえで、言おうと思ってさあ言うたんです。へてしたら、猫は、ふら−りふらり眠りもって、囲炉裏の端にあたっとったげな。さあ言うたらもう、その猫が、たちまち、ウオーいうて大きな口開けて、噛みついて、とうとう、そのおかみさん噛み殺いたいう。まあ、いちがぶらり。
〔名彙「猫の浄瑠璃」集成・二五五〕
 
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