丹後の伝説:52集
−天橋立周辺の伝説−
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『岩滝町誌』より
嫁ヶ墓
嫁ケ墓
森本村(中郡、大宮町)に富豪があった。年頃の娘があり大変美人であったので、岩滝の富豪が懇望し、扇子納め、結納といった儀式も終っていよいよ黄道吉日を選んで婚儀の当日となった。
花嫁は駕、二十荷の荷物はそれぞれ人足が担いで一丁に余る行列、二十丁の坂道を先頭が頂上に達すると、一ぷくというので荷物を路に下ろし、汗を拭くもの、小用に立っもの。十五分間も休憩するとまた出発となった。ところが駕があまりにも軽くなったので視いてみると花嫁が居ない。さあ大変。総がゝりで山や谷を八方手をつくして捜したが全然行方が判らないので元来た道を引返すより外なかった。
当時はよく神かくしとか、天狗にさらわれるとかいって突然行方不明になった男女が少くなかった。そして一年も経過して偶然帰ってきたり、高い木の股に掛けられて人事不省になっていたり、山の上の愛宕堂の天井裏にかくされたりした例もあって、花嫁が余りに美人だったから魔神にさらわれたのであろうということになり、その日を忌日とし、路傍に嫁ケ墓ができた。
これ以来この森本峠鬼坂は中郡の本街道であるに拘らず、嫁入りの一行に限り迂回して大内峠、又は五十河(いかが)越えに路を取ることとなった。
ところが後日譚として伝えるところによると、後年、森本の者が伊勢参宮をして、街道に森本屋という店を見つけ、買物に入って見ると、驚いたことには女主人が嫁ヶ墓の主であり、噂のあった恋人も一緒らしいことが判って、伊勢参りの土産噺にしたということである。
大地蔵
大地蔵
岩滝、板列神社の森の西の谷を古くから寺谷と言っている。ナコウジ山龍泉寺という寺が建っていたと伝えられている。ナコウジは山号でなく、奈甲寺で龍泉寺とニケ寺であった。
龍泉寺の山号は岩滝山であったともいうが、兎に角、寺があったことを立証するように室町時代型、慶長型、色々の石碑が無数に出てくる。今その一部が千賀由吉彰功碑の傍に集めて整理きれ、仏法信者の老婆などが花を立てたり、線香を供えたりするのも見受けられる。
寺谷の上り坂に丈六(一丈六尺)の石地蔵が立っていた。そして眼光が朝日をうけると燦然として光を放ち、それが海上からよく見え、尊くも感ぜられたといわれている。こうして寺谷の大地蔵の名は広く知られていた。
丹後全国が泥の海となったという嘉吉三年(一四四三)(別の時だったという話もあるが)の洪水、地辷(すべ)りで大地蔵は台ごとすべりだし、その先端は現在の岩滝小学校の北一丁の処に及び、大地蔵は倒れたまゝ、田の底に埋没してしまった。この辺の田を今日でも大地蔵と言っている。
九十何才まで生き延びた小室しの(小室文治曽祖母)婆さんの直話によると、大地蔵は解谷(げしたに)川に横たわり背中の一部が安政地震まで見えていて掘り出すことの相談があったが、どうした訳か実現に至らなかった、と。
日露戦役後の明治三十八年にも大地蔵を掘り出して忠魂碑代用にという議が楠田喜兵衛、糸井徳右衛門等によって主唱されたが、此の時もまた成立しなかった。
弘伝上人
弘伝上人
「宮津府志」第四巻古蹟の部に「弘伝塚」として
「与謝郡岩滝村に在り、相伝えていう。
弘伝上人、生国は常陸の産なり。弟子華順と共に廻国して当国に来る。此上人故ありて鳥銃薬の妙法を持居たり。故に稲富一夢(弓木城主にして鉄砲の名手)これを伝えられんが為に懇ろに此地に留めて敬事せり。此上人彼が篤志を感じて足をとゞむること三年、秘法を残さず伝えたり。上人予ての大望にや内海にて華順と共に水底に入りぬ。上人の歌に
底清く後の世までもてらすべし三世を契りの袖のうれしさ
此上人は当村宗伝院の開山なりとそ。
此歌自筆にて相伝院に伝はれり、彼薬方も近頃まで此所に有りしが共に焼失せりとぞ。
今、称名寺裏山共同墓地の頂上に八角型の墓石が残って居り、岩本家の祖先として同家で祀られている。これが弘伝塚であるといわれているが、古老の口碑は府志の記するところと異り、上人は晩年「わしは此山の共同墓地の先達になるんだ。」といって、生きながら棺に入り、こゝに埋葬されたのであると伝えている。上人は独身の廻国者であった筈であるのに子孫が今日まで残っていることは、不可解であり、又、岩本の姓は上人のものであったかどうか。岩本姓は町内外同家だけである。
千賀の仇討
千賀の仇討
昔、岩滝村に千賀という豪族があった。
弓木城主一色氏の武将であった千賀志摩守には子供がなかった。その夫人は深く之を悲しんでいたが。或る人から「成相山の観世音は霊験あらたかで、若し祈願をこめるなら必ず子供を授けて下さるでしよう。」と奨められ、之に力を得た千賀夫人は三七日の長い間、風の日も雨の朝も怠ることなく日参をした。
近道のため小松坂から往復していたが、ちようど満願の日、ふだんのように小松坂を下りてくると、路傍の叢の中から赤児の泣き声が聞えて来た。不審に思って其の辺をを探してみると、身なりも立派な一人の婦人が、何者にか惨殺きれ、その上、臨月であったのか、玉のような女の子が生れ出て、しきりに泣いているのであった。
夫人も一時は大へん驚いたが、ちようど満願に相当する日であるので、きっとこれは観音様が授けてくださったものであると信じ、其のまゝ自分の家に引取って掌中の玉のようにいつくしみ、養育に心がけた。
女の子は成長するに從い、女に必要な一通りの技芸はもちろん身につけた。更に戦國時代の武家の子として婦女子でも武道の心得も必要であるといって練磨きせたので、日に日に上達して一廉の腕前になった。
拾われた女の子が十三才になった時、千賀家に実子が生れた。夫婦の喜びは大へんなもので風にも当てないような育て方であった。
ある日夫人は女の子を膝元に呼び、過去の顛末を話して聞かせ、実子でないことを知らせた。
女の子は真相をきかされ、一旦は驚き悲んだが、今日まで育ててもらった恩を深く憾謝し、尚、実母の仇を討ちとりたいといい、暫くの間暇を願い、養父母の許を得て健気にも雲山万里の旅に出た。
親の仇を探して三年間、諸国を遍歴したが少しも手掛りがなかった。
三年目の十一月の末、備前国岡山の町にきて、とある刀研師の家に立ち寄った。何の気なしに、主人と客の話を聞いていた。
客「此の問頼んでおいた刀は研いでくれたか。」
刀研師「充分、入念に研いでおきました。立派な名刀であるが、惜しいことには刀尖三四寸のところに刃こぼれがありますなあ。」
客「それには仔細がある。憶い起せば一昔、ちようど身共が武者修業のたぬ、諸国を遍歴していたみぎり、丹後国成相山で一人の卑しからぬ婦人が臨月で産気づいた様子であった。草原の中で非常に苦悶しているのを見た。しかも、それが難産で手の付けようもない。むしろ一思いに切り棄てて、此の苦痛から救い、かつ我が腕と、刀の切昧とを試しみることができたら、いわゆる一挙両得であると思い、不憫ながらも遂に切り捨てた。その時誤って、刀身を傍の石に打ちあて刃こぼれを生じたのがこれである。」
と、誰はばかることなく高声で話していた。
先刻からこの話を聞いていた彼の女は躍り立っ胸を押し鎭め、さあらぬ体で客の帰るのを待ち、刀研師に向っ'て遂一其の顛末を物語り、女の事であるから、万一仕損じては一期の不覚であるからといって其の助太刀を願った。その刀研師、元来武士の浪人になったもので、その上、義侠心が深かったから孝女の切なる願いに感動し、一議に及ばず之に快諾を与えた。
さて、愈々仇討ちとなったが、彼の女の武芸非凡なる上孝子の一念、助太刀を待たず其の本懐を遂げることができた。其の時に孝女が用いた刀は千賀家に伝えられていたということである。(「岩滝村誌」による)
嫁の降った話
嫁の降った話
慶応三年(一八六七)十二月三十日の夜半のことである、岩滝藪後町前田佐蔵(喜八)家はもう寝ていたが、裏の雨戸をどんどん叩くので戸の隙間から視いて見ると、豈図らんや、髪をふり乱し、一巾半の紅木綿の腰巻だけの人が手には神社の剣先を握って吹雪の中を沓脱石に直立している。もちろん跣足(はだし)である。吃驚(びっくり)仰天した佐蔵は早速表に飛び出して見たが、隣近所皆寝ているのか真暗だ。唯三軒北隣の千賀和喜蔵(千政の父、今の足立泰三家)と道隔てた南隣の竹屋旅館日下部清右衛門(今の千賀雄爾家西隣)とが明るいので其処にかけこんで事情をいうと、二人は直ぐに来てくれた。そして、近所の他の人々も起して来る。此寒中では生き神様でもたまるまいからと取り敢えず雨戸を開けて座敷に布団を敷いて臥きせる。顔を視いて見ると西光寺下の安田磯右衛門の娘きみらしいというので、誰かが磯右衛門へ調べに行くと、いや、きみは納戸(なんど)で早く寝た筈だからと言いつゝ寝床を見るともぬけの空である。
背戸口に下駄が脱ぎ捨てゝあり、明日の手酒用にと宵に買ってきておいた一升徳利が空になって転がっている、別の近所の者が磯右衛門とは垣田啓蔵の婆さんが特別に昵懇だから呼んできて見せたらといい婆さんを呼びに行った。婆さんが来て一目見ると、あゝこれはきみに相違ない。しばらく大事に寝かせてやって下さい。と言って帰ってしまった。磯右衛門の近所も聞き伝えて捨てゝおけぬと、北隣の上柳利兵衛、南隣の糸井仁助、前隣の糸井長助(菓子屋、現在高岡美喜雄の家)三人が刀一本腰に差して見に来た。
本人が寒いと言いだしたので大布団を重ねてやった。暫くすると、水が飲みたいという。酒一升もあおったのだからその筈である。そして朝迄寝てしまった。
神様が連れ出して川裾の森で躰も頭髪もすっかり洗ったのであるという。雪が四、五寸も積っているのに佐蔵の庭へ何処から入ってきたのか、すこしの足跡もついていない。天狗が空中を持って来たのであろうという評判であった。
神様の思召しには背くわけにはいかぬというので、きみはそのまま佐蔵と夫婦になり、二人は幸福に相当な年令まで友臼髪を楽しんだ。ところが此の裏面に一つの悲劇のあったことを書き添えておく。それは浜町蒲田久左衛門(今の小池藤太郎家)が磯右衛門の娘きみを懇望して縁談が成立し、愈々結婚の夕、正に三々九度の盃事が始められようとしたとき、前田佐蔵が無言で久左衛門家の表から入って、皆の怪しみ見る中を裏へ抜けてしまった。これは無言の結婚抗議であるからといって盃事を中止し、縁談解消となっていた後のことであった。(八十九才、千賀政吉直話)
よいじゃないか
よいじやないか
「よいじやないか」というのが慶応三年秋から同四年の春にかけて熱狂的に流行した。神札の剣先(木もあれば紙製もあった)が夜の間に、門口とか中庭とかいった処へ落ちてぎた。八幡様、稲荷様、大神宮様等、種々様々である。するとその家では青竹を二本持ってきて戸口の左右に立て七五三を施す。村の人々はお下がりがあったそうなといってお祝いに来る。喜び合う。それが五十人入り替り立ち替りである。之に対し家内では酒肴を用意して、まあ一杯と勧める。そうすると「酔えばよいじやないか、酔えばよいじやないか。」と互にいいあって踊り狂う。七五三飾りの家をみては次ぎ次ぎには入っていく。神様の降下は一晩に何軒も何十軒もある。同じ家へ別の神様がまた降りる。
千賀とか、山家屋などの富豪の家は平素は容易に奥の聞など覗くことも出来ぬので、この時とばかり進入して単笥を引き開けて赤襦袢、縮緬の羽織などを取り出して無断で着る。家人が見つけて止めても一向平気である。
「借りてもよいじやないか。破れてもよいじやないか。」と踊りにまぎらす。別の者が「そじや、そじや。」と相槌をうって一緒に踊りながら次の家へ行ってしまう。
九十才近かった広野国造の直話によると「神札に『万吉神様お気に入り』と書いてあったりした。」ということである。万吉は大丸百貨店の佐七の幼名で小室文治の曽祖父に当る人である。お札をこっそり製作して降らした内の一人であったという。
古老の話では、深夜大空に飛行機の飛ぶような音が轟々と響きだし、黒い影も仰ぎ見られたということである。
「あれは天狗だ、狗賓(ぐひん)だ。」と、いって恐れたともいわれている。
他の地方の記録では、いたずら者が凧に神札を沢山結び付け高く揚ったところでシャクッて(急に引っ張る)諸方に降らしたのであるといわれている。
大まつり
大まつり
大祭の伝説、すなわち時代行列の由来は昭和三十年五月二日、縮緬祭りの余興として開催された、その時代行列が岩滝小学校々庭に到着した時、校庭に集った三万の大衆に向って拡声器で放送きれた説明が要を得ているから茲に採録しよう。
「満場の皆様、只今から大名行列の由来について簡単に御説明申上げたいと存じます。
この行列は徳川時代に全国三百の諸大名が江戸の徳川幕府へ参勤交替する道中の供揃いを実演するものであります。徳川幕府がなくなってから約百年、こうした道具と動作の一部は残っていても、全部揃っているところは他に例がないそうでありますから、生きた文化財と申しても過言でないと存じます。
岩滝には大名は無かったから、大名行列というのを憚り、大祭と祢しました。そこで他から一万両祭と評せられ、祭の豪華版であると共に岩滝の富み栄えていることを誉めたゝえられたものであります。
そうしてこの道具は但馬の出石藩が千石騒動で半地になった際、売り替えられたものを手に入れたもので、皆様も講談本や芝居でご存知かと思います。先祖の千石権兵衛久秀は豊臣太閣の家来であり、十人力の強力で護衛役を仰せ付かっていました。頭のいい人で太閣が伏見城在城のとき、次の間に宿直をするのに、曲者がは入っても直ぐわかるように蒲団から手足を外へ出して寝る例でありました。
石川五右衛門は千鳥の香炉を盗みに入って、うっかり権兵衛の足を踏んだので訳もなく捕えられてしまったのであります。五右衛門は郷土史によると野田川町幾地城主の弟で、一色丹後守に仕え、一色が細川に亡ぼされたので都に出て豊臣秀次に仕えました。秀次は太閣の養子で、淀君が秀頼を生んだので地位が危くなってきたから石川五右衛門は太閣を暗殺すべく桃山城へ忍び込んだというのが真相であります。どろぼうでなく忠臣であります。千鳥の香炉を盗みに入ったのならば窃盗で打首だが、そうでなく太閣暗殺の大罪を犯そうとしたので大釜で煮殺するという惨酷極まる刑に処せられだのでありましよう。
そこで千石権兵衛は命の恩人でありますから、太閣は面前に睡び出して「千石権兵衛六万石を遺わす。」と申し渡したが、権兵衛だまっているから聞こえぬのかと思って、太閣はもう一度「千石権兵衛六万石を取らせる。」と、いった瞬閻、頭を上げた権兵衛は「合せて十二万石有難うご座る。」と、口上で受取を書いてしまいました。
倫言汗の如しで、天子や、大閤は一旦口に出したら引き込めることができない。
千石権兵衛はとうとう十二万石にのし上ったが、それは信州の小諸(こもろ)であり、上田城に移り、孫の政明の時代に出石へお国替えになったのであります。
七代目の久利の時、一族であり、城代家老であった千石左京という者が、わが子の小太郎を藩主にしようと目論見、御殿医鷹取巳伯に毒薬を調合させそれを久利にすゝめようとした。近習の神谷転が之を探知して訴えるが家老が権力で押えてしまい、神谷は放逐され、久利はやがて亡くなりました。
そこで実弟道之助が後を継ぐべきであるという一派に対し、左京の子、小太郎を後継者にしようという一派と、両派に分れ、いわゆるお家騒動となった。
神谷転が江戸で暗躍する。寺社奉行の取調となって左京は獄門、家野甚助、岩田静馬は死罪、その他左京一味は遠島、追放等で一件は落蒋したが、之がため出石藩は半地になりました。之は天保六年(一八三五)で今から百二十二年前であります。
当時、岩滝の蒲田久兵衛という豪商が、出石藩の御用商人をしており、曲淵(まがりぶち)という御殿女中を
妻に迎えて関係が深かったから、旧道具の払い下げを受け岩滝へ寄附したのであります。
爾来、大祭は三年目、五年同、十年目と次第に間遠になり、明治に入って十三年、二十六年、大正四年、同十年は岩滝村に町政が実施された記念行事として催されました。それから今回の縮緬祭まで途絶えていたのでありました。
蒲田久兵衛は後に海賊船にひっかかり没落してしまいましたが、豪壮なる邸宅は現在の山与醤油と丸糸との間にあって海岸まで続いており、明治の中期まで久兵衛屋敷として一部が残っていました。子孫は菓子屋のキング堂と蒲田三郎家とであります。なお、岩滝が明治前後に跨がり、由家屋、大千賀、大糸井、米品等大金持ちの勢揃いをしていた時代は、各自家独特の催し物を加え、錦上花を添えたと伝えられております。」
『みやづの昔話』より(カットも)
金太郎いわし
金太郎いわし 溝尻 後藤重男
本庄さんいうて、もう殿さんが、夏、あの暑いで、結局その、夕涼みに、舟で酒盛りをねえ、夕涼み、あの文珠の入口の方で夜涼みしておられたらしいですわ。晩、涼しさをとるために、そこで、金の盃だとか、金の樽で酒をこう飲んでおられたらしいですわ。ほしたらその、金の樽がどしたんか海に落ちて、で、ここのみよしの、自分とこのみよしのは、漁師ばっかしとったんですってねえ。田んぼのあるところはなんぼもなかったすけど、その漁師に、金の樽や盃いうもんを、
「網で引いてとれ!」言うて。
地引き網が昔はようけあって、今は重ねかんざしいうて、さんごしょうみたいな、こんなかたまりがあっても、ぜんぜん引けれへんですけどねえ。昔は、もうこんな大けな長い、橋立までずうっと藻が生えて、もう小さい、もうどういうのか、魚も、うなぎでも、えびでもねえ、なんでもようけおったんですわ。今はそういう藻が全然生えへん。その金の樽を、どういうんか、みよしのの漁師が全員出て、ほで、地引き網をようけつないで、ほで、引いたわけですわ。ほしたら、その、金の樽は一つもかからなんだけど、いわしがものすごとれて、もう、どうともならんほど、いわしがとれた。ほしたら、結局その殿さんが、そのいわしを食べたら、ものすごいうまいいわしで、それが結局まあ、どういうんか、金樽いわしいうことだったのし。そうですけど、それが、どこやろか、金太郎になってしまって、金太郎いわしになったのですけど、金樽いわしだったんです。
成相山の竜
成相山の竜 国分 安田一雄
成相山の向って本堂行きますわね。本堂の右側に小さいたちものがあるんですわ。そのたちもののところに、どういいますか、額みたいにしてね。そして、その竜が、目にね、釘打たれとりますわ。ほで、作は左甚五郎の作だいうて聞いとるんですけど。
で、その、どういうんか、蛇ちゅうか、竜ですな、竜、竜いうとるんですけど、竜は夜な夜な、その、あそこにちょうど、ハウスが、まあ、丹海のハウスがあるわけですけど、あそこに蓮池、蓮池いうてね、
底なし池、一名、底なし、底がなかったら、水がたまるわけちゅうわけありまへんけど、蓮が生えとり出て、どもならんので、まあ村人がその、
「こんなことはどもならん。こわい」ちゅうことで、そうなら、魂こめて作った左甚五郎に頼んで、出んようにしてもらおうちゅうことになってね、左甚五郎が釘で目の玉へ釘打ったちゅうんです。その釘が、今の釘は、洋釘で、丸い釘ですわ。昔は舟釘みたいでね、鍛冶屋さんがテンテコ、テンテコやって打った釘なんです。ちょうど祈り釘に使うくぎなんですな。それで目の玉へ打ちこんだところが、その夜から出んようになったということも聞いとるんですけど。
白蛇のたたり
白蛇のたたり 長江 小藪コマ
あのね、日ケ谷いうところの、その厚垣いうところがあって、そして、そこにな、どういうおひとだか知りまへんが、年寄りさんがおって、あの、白い蛇がおったで、白い蛇は、そんな蛇は見たことがねえで、金持ちになるでいうて、長持ちに入れて飼うてえて、ほて、えさをやっては飼うとんなった。ほしたところが、もうおーきんなって、大きんなって、長持ちに置いとくったってどうもならんして。ほして、大きな山をな、そこんうちの山へ連れて行って、
「この山はお前にやるさきゃあに、この山でお前は、あの、命をつねやあでいけ」言うてな、その山へ連れて、そこのうちの大きな山へ連れて行って放えただって。木の生えとる大きな林い放やただ。大きな山がその白い蛇にやってあるだいうて。ほて、そこをほかの人が行って、あの、そこのうちの人ではなあけど、ほかの人が、
「木いくれえ」言うたりしてね、
「あそこにある木くれえな」言うたりすると、まあ、そこのうちのが、
「やるで、切ってこい」言うたりしてな、ほいで、そのやる言いなった人は切りい行ったら、もう必ずその人はものすごい怪我する。ほいで、やっぱりその蛇が、自分のものを取るで、そういうことをするんだろう言うてでましたで。厚垣の人はそう言うてな、私もその話聞きました。そんなんがあるんだで言うてでました。それはほんまにその白い蛇を飼うてて、山へ放えただ言うて。へじゃけえ、人の目にはやっぱりつかんいうてな。その白い蛇はどこへ隠れとる知らんけど見えんいうて。ほいでもう、その木を切りい行ったら、もうその人は必ず怪我するいうて、行かれんだ言うて。
竜灯の松
竜灯の松 日置 北條英太郎
竜灯の松の、あの、伝説は、これは若い男女の、まあ、恋愛の結果、例えば二人の女が一人の男の取りあいをするとか、二人の男が一人の女を取りあいするとか、そういうことが、まあ、事実あることですわな。その取りあいの結果と悲惨な末路とうまいこと、その、話に、その、したのが、それが、その当時の竜灯の松にまつわる伝説の、もう、なっとるんですわ。
それはざっと話してみますと、あの、ここの岩滝というところ、この次の、岩滝町がありますな。そこの、もうひとつちょっと先に、ああ今は、あの、岩滝の町になっとるか、そうか野田川町になっとるか知らんけども、あの、山田というところがありますわ。山田村っていうのが。あそこにどういう庄屋か知らんが、庄屋があって、それが、あの、どっか夜久野の方から、あの、娘をもらって、そうして自分の家の召使いに使おうと思ってもらってきたんらしいですな。さあ、その娘が「小菊」という名前であって、で、その小菊がだんだん成長するようになって、すばらしいべっぴんになった。ほんで小菊というのがべっぴんになるんで、あたりの青年がもう小菊が見たいもんだから、何も自分が欲しいもんでのうても、何か買うものを考えていって、わずかなものを買うて、小菊の、あの、店へ行ってものを買うて、ほて、みな青年が競って小菊を見に行ったとこういう。で、だんだん成長する、その、すばらしい、まあ、小野小町のような女になったんでしょう。ほんで、その当時の、あの、一般の若い人が、こういう歌を言うた。
♪小菊見てから、うちのかかあ見たら
おかめ、ひょっとこ どんぐり目
ていう歌を歌った。
♪小菊見てから、うちのかかあ見たら、
おかめ、ひょっと こどんぐり目
ていう。それくらい、その、べっぴんじゃったって。
行って小菊見に行ったんじゃ。そういうために、まあ、たいへん繁盛した。
ところが一方、今度は、こっちの、あの、府中の、この隣の府中というところがある。ひとつ部落に、海岸に、あの、溝尻という部落があります。その溝尻は、あの、橋立の内海のあそこを、あの、地盤にした漁師が、ほとんど漁師やった。そこの漁師村に「オト」という若者があって、それがまあ、男としてはすばらしい、その、美男子だって、だんだん成長するほど、その、成年期になったらすばらしい美男子になった。んで、四方の、今度は娘たちの評判として、
「あそこのオトさんいうたら、ほんまにすばらしい」というようなことで、たいへん、その、まあ評判になった。ところがそのことをその、山田の小菊が聞いたと。ほんで、聞いて、そうならと思って、まあ、小菊は、あの、まあ、いつか見に行ったらしい。ほんだ、なるほど音に聞くオトさんだ、すばらしいで、そういう恋の心が起こったという。で、まあ、どういうことかで、まあ、そう知り合いになって、で、交際するようになった。ところが、まあ、ある期間、そういうことが続いたが、ある時期から小菊は、その、オトさんとこ会いに行くのを、昼間じゃなく、晩のうち、晩に、こう、会いに行ったって。ほたら、晩に行っても今夜もおらなんだ、明日もおらなんだ、昨日もおらなんだ、おかしいな、とこう思いだして、ほやて、こらどういうことからと思って、まあ、不思議だと思っておるうちに、今度は一般的な評判になったのが、オトさんがどこかのすばらしい、あの、べっぴんと恋になって、毎晩橋立で出会うんなそうな。こういう、まあ、噂が聞いたちゅうな。ほんで、それ聞いたんで、
「なるほど、そんなことだろうか、どんな女が来たんだろうか」と、つまり自分の恋人取られたような感じですわ、小菊にしてみると。だからその女が憎てかなわん。そいつを見届けて、もしわかったら、あの、承知ならんということで、ほして、そういう気侍ちでおったが、一方そのオトさんていうオトの方は、どうでその女と出会ったかというと、どこでか知らんけど、まあ、知り合いになって、ほして、小菊を捨てて毎晩、今度は橋立へ、厚松へ行って、厚松で出会うた。その向こうの女が、女は、あの、竜灯の松という松が、あの、文殊の、宮津へ行く方に墓が、墓地がありますわな、道々に。あすこにあったんですわ。あの松に灯をともすから、灯をともしたら来たということを知って、来てくれよということで、あの、そういう約束で、ほいて、灯がともったら、こっちから見とってオトさんが、「あっ、灯がともった。よし、来た」。ほうやって、人が大方寝静まってから、一人、櫓をこいで厚松まで行って、あそこで出会うた。こういうことじゃったらしい。
ところが、あの、一方、その、小菊はそんなことは知らんげれども、どうもそういうことらしい、と思って、そうして、あのまあ、どんな女か見届けたろうと思って、まあ、夕暮れから、厚松へ行って、松の陰に、こう隠れて待っとったちゅう。ほたらなるほど、すばらしいべっぴんがやって来た。
「ああ、あれか」。こう思って、
「よし、もうあれだったら、今度来たら、もう堪忍ならん」ちゅうんで腹を決めて、そして、短刀を持って、あの、それから何日かして厚松で待っとった。なるほどやって来た。よしっと思って飛びかかっていって、そしてあの、まあ、それを殺そうとしたとこうが、向こうは大蛇になって、ほうして小菊に火を吹いてかかった。小菊はそれも恐れずに必死で髪を振り乱して、短刀で闘った。ところが一方その、男のオトの方は溝尻という、あの、漁師村の自分の家の舟小屋の前で、こう、竜灯の松に火がともったんで、さあ、出ようと思って待って見とった。と、にわかに空がかけくもって、すばらしい夕立になった。雷がなった。で、よう行かんと待っておったところが、橋立の厚松の上で、大蛇が火を吹いとる、小菊は髪を振り乱して短刀をふるって闘っとるのが、松の上に見えたちゅう。まあ、ほして、そんなことだから、小菊は勝てるはずはないけども、何せ必死ださかい、闘ったと。
「ああ、こんなことがあったんか」と思ってもう、オトはそこへ、その晩に行く気になれずに、そのまますっこんで、雨も止んでしたんで、ところが明けの日の朝になったら、一般のその辺の若い人たちが、若い衆が、
「ああ、今、橋立に小菊が死んどるそうな。橋立の厚松の浜に死んどるそうな」ということで、小菊を見に行こうと、この辺の若い衆がどんどん押しかけて、小菊の死体を見に行ったと。したら浜辺に、血みどうなって死んどったと。
ほうして、あの、いうことなんで、そこで、今度はオトは、その後どうしたいうたら、あの、小菊は死んだし、したんで、そういうことの供養のために、というのか、まあその恋人の末路を悲しむあまりに、自分でも生きておれんような気持ちになって、そうして自分は、今度は首つって死のうという気持ちになったちゅうんです。ほたらその竜灯の松のちょっと手前に、今もあると思いますけども、昔から、あの、海へこう、大きな岩が広い岩が、こう、のめり出たって、岩石がこう見えとるとこありました。で、そこへ赤松の、こんな大きな赤松の、すうっと海の上へ出た松がありました。今はどうもないらしいいけど、確かにあったんですわ、それは。その、そこが身投げ石、身投げ石とか身投げ石とかいう名がついとった。これがそこでオトが、あの、首吊ったのか、海はまったんか知らんけど、そこで最期を遂げた。で、恋の末路というものは、こういう哀れなものだということを教えたんだないかと思っとるんですで。で、その火を吹いた竜は、竜宮の乙姫じやったと、こういうこと。
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