丹後の伝説
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丹後の伝説26

丹後の伝説:26集

河辺八幡神社、観音寺、海臨寺、他

 このページの索引
青郷の郷域は舞鶴側に食い込んでいたか 石灯籠(河辺八幡神社) おたかさん(舞鶴市西屋) 海臨寺とその大墓(舞鶴市田井) 河辺八幡神社の棟札 観音寺の梵鐘(舞鶴市観音寺) 猿の恩返し シノビ竹(舞鶴市河辺由里) 田楽舞(河辺八幡神社) 栃尾の民家
ぶっそうな石



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栃尾の民家(舞鶴市栃尾)

『市史編纂だより』(47.8.1)に、

集落・町並調査の概報
    専門委員  吉田美昌

文化庁から府教委を通じて依頼のあった
イ 西舞鶴 回船問屋等の町屋群
ロ 三 浜 海岸掘立柱舟屋群
ハ 栃 尾 大浦半島式のヒロマ型古民家群


栃尾 大浦半島式のヒロマ型古民家群
 市の東北部(大浦半島の頸部)府道田井・中田線の中間に位置し、大山峠への登りロに展開する戸数34戸(うちカヤぶき民家16軒)の農家集落である。
 昭和20年6月22日出火により7軒(17むね)が類焼の厄に遭って以来、カヤぶき屋根の改造や老朽化による改築が行なわれてきた。
 一般的に丹後型民家といわれる「田の字型」の家屋構造をもったものであるが、構造的には標準よりやや小さく(梁間3間のものが2間半)、耕地面頓を少しでも多くとろうとする生活手段のあらわれと見ることができる。
 今日農家のサラリーマン化がすすみ、農村の都市化がテンポを早めていく中て早晩こうした古い民家は失われてゆくことであろう。
 こうした傾向は、連帯している河辺原・河辺由里・西屋などの集落にも同じことがいえる。


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猿の恩返し(舞鶴市栃尾)

『舞鶴の民話2』に、


猿の恩がえし    (栃尾)

 むかし舞鶴が浜村、市場村、朝来村、河辺村とわかれていた、志楽村が中心であった。高浜とは一しょのまちであり、山あいの畑には、たくさんの猿がすんでいました。なかな人なつこく、人が畑で働いていると一しょにまねして棒ぎれで草をたたいていました。栃尾では家が五、六軒しかなかった、その中におじいさんとおばあさんしか住んでいない家があった。
じいさんは山すその畑を耕やしに行っていた、がんばって耕していたら、小ザルが草のかげからじっと見ている。なんで小ザルがみているのだろうと気にしながらせいを出していた。
日が西に沈み、じいさんはくわをかついで家に帰った。あくる日も次の日も小ザルはそこにいるのや、おじいさんは小ザルに、「お前毎日そこでじっとみているのは何でや」というと、小ザルは小首をかたげて思案げにしている。「何か心配があるのか」と聞いたら、小ザルはうなずくようにする、右手をまくらのようにして寝るまねをする、そして左手でおなかをさす、「だれか病気で寝ているのか」ときくと、頭を上下にふる、じいさんはいつもどうまきに入れている腹痛の薬を一粒さし出すと、小ザルはうれしそうに手にとって一目散にどこかにかくれてしまった。
 日が暮れたのでじいさんは家に帰ってばあさんに話した。ばあさんは、「じいさん良いことしたな生きているもの同志はみんな友達だ」と喜こんでくれた。
或くる日じいさんが畑を耕やしていたら、小ザルがやってきて、うれしそうに頭を何回もさげた。何かお礼いっているようだ、そして、じいさんこいこいといわんばっかりにやって来て、じいさんのズボンのすそを引っぱる、こっちへこい、こっちへこいと云っているようだ、じいさんはくわを置いて小ザルのあとを追った。小ザルは立ちどまってじいさんを見ながら先へいく、じいさんは小走りで腰をまげながらいく。しばらく行くと大きな木のむろ(穴)があった。小ザルがその中に入っていった。じいさんもその中に入っていった、その奥には大きなサルがいた。じいさんに向って何度も頭をさげ嬉しそうだ。小ザルがやって来て、じいさんのズボンのすそをひっぱる。おじいさんはそりかえるようにしてついていった。ぷーんとお酒のにおいもする、サル酒のにおいだ。木の葉の上には、おいしそうな木の実や、米のつぶしたのや、くりの実などが並んでいる。柿のじゅくしたのもある、おじいさんは手でサル酒を飲んだ、いそいで来たのでのどがしみるように何杯も飲んだ。何だか体がほてり力が出てきた。あれをたべ、これを食べ、おなかが一杯になった。どこからともなくサル達がやってきて、キャーキャーよろこぶ。大きなおかあさんザルもうれしそう
だ。
 少し暮くなったので、「ありがとう、もうかえるよ」とじいさんがいうと、サルたちは木であんだかごを持ってじいさんのあとにつき、じいさんの家まで送ってくれた。
 あのごちそうが いっぱい家の前においてあった。

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シノビ竹(河辺由里)

『舞鶴の民話3』に、

シノビ竹    (河辺由里)

 河辺谷のほぼ中央、河辺川の右岸に位置する、観音寺への登り口である。古代は志楽郷(和名抄)中世には志楽庄河辺村、慶長検地帳には高一三五・九三石由里村とみえ、村名に河辺が冠せられるのは、江戸後期である。延享三年(一七四六)の郡中高究付覚に記す農家の戸数は八。

旧語集に「当村に矢竹あり、昔源頼政が禁庭にていえ退治の射たる矢はここより出たと伝う」この文に私ははたと手を打った。河辺由里の原小学校に勤めているとき、菊の手に竹を求めた。

 子供たちが由里より坂を登り、観音寺にいく途中に沢山あるという。またその竹のある山は永野さんとこだと、永野さんは代々野守といい、これはむかし、殿様より「よく矢竹を献上してくれるによって、これより名は野守と申せ。」と代々語り継がれている。
この地はむかし源頼政の領地であった。今でも矢竹が沢山ある。矢竹に適するような節の間隔の長い竹である。
矢には、上から羽節、上(はぎ)、下作、袖すり節、中節、射付節と名がつけられている。やじりは射付節につけ、いろいろの種類がある。股雁(たまりか)、ねらび、尾ばさ、矢りかと等、矢の羽は本黒、本白、うま白、うまぐろ、中白、中黒、切文、うすべをとあるそうだ。

 近衛天皇(一八○一)が不思議な病にかかりました。全国から医術に長けた人たちがやってきてみたが、どうも原因がわからない。毎夜、御所のあたりになま暖かい、いやな臭いのする風がふーつと吹き、気味の悪い鳴き声が聞こえてくると、天皇がひどく熱をだされ、おくるしみになるのです。御所の人は、何かのたたりにちがいない。「これはきっと化物の仕業にちがいない。」毎晩のように警護の士たちが廻った。多くの士がいやな臭いにやられて倒れました。占の法師たちも首を振るだけだった。「誰か、化物を退治するものはないか。」とおふれがでました。

 すると源三位頼政が「わたしだったら、化物を退治できるでしょう。」と申し出ました。みんな頼政こそ当代一の強者だと喜びました。頼政は、大江山で酒典童子を退治した源頼光の子孫です。頼政は日がくれると二人の家来、鉄棒をふりまわす術、刀にかけては当代一の二人である。

 真夜中をすぎたころ、いつものようにあたたかい風が吹いて、天皇はうなされはじめた。頼政は大木の陰にかくれて、目をこらして風の吹いてくる方をにらんだ。いやな臭いが一杯たちこめる、真っ黒い雲が御所の屋根にやってきました。雲の中から不気味なうなり声が聞こえ、ぎらぎら光る二つの目玉が見える。二人の家来はうつぶせしている。頼政は弓を満々とはり、矢をつがえ、狙いをさだめて、ひょうと矢を射りました。
 「ギャー、ギャー、ギャー」と夜鳥の鳴くような、すざまじい叫び声が響きわたるとともに屋根から、大きな音をたてて真っ黒いものが落ちてきました。

 二人の家来がみんなに知らせ、庭にかがり火をたいて明るくして大きな鉄棒でつついたが動かない。よくみると黒いものは、顔はサル、胴はタヌキ、手足はトラ、しっぽはヘビという、いままで見たこともない動物でした。けれども、鳴き声がぬえに似ていたので、ぬえという名で呼ばれました。不思議なことに天皇はこの後元気になられ、病気であったことなど嘘のようになられた。このとき矢に使われた矢竹が、この河辺由里の矢竹なのです。この立派な矢竹がこの都よりはなれた野辺にあるので「シノビ竹」という。

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おたかさん(舞鶴市西屋)

『舞鶴の民話1』に、

おたかさん       (西屋)

 波静かな白糸湾沿いに「岸壁の母」で有名なかっての引き揚げ港を左に見ながら河辺の谷に入っていくと、右側の田んぼの奥に竹やぶがあり、円形の古墳が数多くあるそうだ。その一つを東高の生徒が調べたことがあるが、まが玉や矢じりが出土したそうだ。昔、この辺りまで海で、日本海で活躍した海の男や海賊の城があったようだ。
 河辺の八幡さんを過ぎるころから坂道となるが、この一帯の田園で収獲されるお米は深田であるだけにおいしいとの定評がある。
 西屋へ入ると道の上の畑の中に「おかた屋敷」という小さなお堂がある。
 この辺りは昔から米作りが盛んで、おかたさんは米売りをしていた。おかたさんはケチンボで知られ、自も大変質素な暮らしをしていたが、三つの蔵にはいつも米がぎっしりと詰まっていた。

 おかたさんは、米を貸すときは小さな升で計り、返えすときは大きな升で計ることにしていたので米は貯まる一方だった。村人は、ひどいやり口だと知りつつも、おかたさんに米を借りにいった。町から米買い商人がやって来ても、いつもケンカするように言い争った。
 そんな訳で、村人は働いても働いても暮らしが楽にならなかった。村人は、おかたさんに何度もマスを同じにしてくれるよう頼んだが、おかたさんはガンとして聞き入れようとはしませんでした。
 それである時、村人は一致団結し、クワや竹ヤリを手に手におたかさんの屋敷へ押し寄せ、逃げるおたかさんの横腹を竹ヤリで突いて殺してしまったのです。
 おかたさんは死ぬ前に「わたしが悪かった。これからは、お腹が痛い人は、わたしが治してあげる」といって息を引き取りました。
 それ以来、お腹の痛い人が、おかたさんの小堂へお参りすると、不思議にもお腹の痛みは治るのです。

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ぶっそうな石(舞鶴市河辺中)

『舞鶴の民話1』に、

ぶっそうな石      (河辺中)

 河辺八幡神社の社殿前の灯ろうには神仏合体の彫りものがある。舞鶴では他にこのような灯ろうはなく、舞鶴市の文化財となっている。
 この神社の裏にあるやぐらには金の小判が埋めてあるといわれている。しかし、その小判が殿さまのものであったのか、庄屋のものだったのかは定かではない。
 この神社の裏には無住のお寺もある。昔、そこの坊さまが石のみで地蔵さまを彫ろうとした。硬い石で、こつんこつんと、一日に少しずつ彫っていた。
 その内に、お坊さまの髪の毛も、ひげもぼうぼうに生え、風呂にも入らなかったので異様なにおいを漂わせるようになり、村人は近寄るのをさけるようになっていった。
 そして、いつの間にか、お坊さまは死んでしまったが、石はいまでもそのままに置いてあり、その石の下にも宝ものがあるそうだ。今まで、こっそりとそれを盗みだそうとした者があったが、いずれも果すことなく病気で早死してしまったそうである。
 また、この石の上へあがるなら素足であがれ………と、なぜか古老はいう。

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田楽舞(河辺八幡神社)

『舞鶴市史』に、

田楽舞い (河辺中)

 河辺中の八幡神社に残っている「田楽舞い」については、その関係史料がない上、未調査部分も多いので全貌を明らかにすることはできない。しかしこれは、福井県三方郡に伝来して存続する、近江系の「王の舞い」と「田楽」が複合した祭祀行事と同一形式であることは確かである。
 またこの行事は、史料「加佐郡旧語集」に「御上御巡見ノ節ハ獅子ヲ舞ヒ入御覧」と記してあって、「田楽の舞」はこれを奉祀する特定の人々によって、古くから守られ受け継がれてきたが、これに供奉する氏子もまた地元六ヵ字の決まった家筋の人々であるという。
 「王の舞いは、普通神幸の前駆となっている猿田彦と同じような鼻高の面をかぶり、鉾をふり回して舞うもの」(若狭の民俗)で、この「王の舞い」に続き「田楽」がビンザサラと横笛を伴奏として奉納される。次いで「獅子舞い」が演じられ、最後にまた鼻高の面をかぶった猿田彦が顔をかくして神前を拝して終わる。
 若狭で行われているものは猿田彦に供はつかないが、ここの場合は普通の男形面をつけた供者一人がつく。これらの用具を入れる木箱の蓋裏には「太かぐら箱□入用銀之覚」の墨書があり、その入用銀を分担した八ヵ村とその金額を記し「明和五戊子年(一七六八)八月十一日」と書いている。
 また、のみ痕を残す木製面二面と木製鉾は、ともに地方作で中世のものと思われる。

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石燈籠(河辺八幡神社)

『舞鶴の民話4』に、


石燈ろう  (河辺)

 河辺谷は大浦半島の基底部にあり、河辺川が深谷川、河辺由里川の水を集めて舞鶴湾にそそぐ。この谷の開拓は古く、河辺川河口には古墳群が十六基もあり千田古墳といっている。古代は志楽荘、中世には志楽荘河辺村にふくまれていた。
 大浦半島の漁村を支え、これらの地域の交通、交易はこの谷を中心に行われてきた。大浦地区の臨海の集落は半農半漁が多いが、とくに成生、田井、野原、小橋は漁業に依存する割合が高い。これらの臨海村は府道野原線が開通するまで(昭和二十九年)は主として船で海路西舞鶴の町と往来していた。
 私の家の近くの山本文顕氏の話によると、龍宮の乙姫茶屋から北へ、海岸道を進むと、大波の重油タンクにさしかかる。現在は日本板ガラスエ場。中田へと海の汐の香のする海風に送られながら、中田の山の南端を廻れば、河辺中の八幡社の森がみえる。うっそうたる森がある。その社に石燈龍が所在しているのだ。
この八幡社はこの河辺一帯の氏神であって村社としては立派である。桜井之元氏が守ってきている。此の社は明治初年の神社明細帳調査以来八幡神社と号した。往時は三宅社とも三宅八幡宮とも称され、祭神は誉田別尊と猿田彦尊を奉祀する。再建年代は棟札によって、至徳六年、正和二年、正慶六年、寛永四年の四回で、現在の社殿は富士山の噴火した寛永四年だという。しかし本殿の方は、昭和年代に心なき少年のつけ火によって焼失している。しかし境内の木々は火にまけず現在も生き生きとしげっている。境内は三段の台地になっており、中殿には絵馬や奉額のかかった拝殿がある。この拝殿では秋の例祭が行われるとき、六集落の氏子が四種類の舞を神社に奉納する。
 この舞は鎌倉時代から収穫に感謝するものとして伝承されている。起源はわからないようだが、昭和五十九年に府の文化財となっている。
 この日神社近くの地元の豪族をまつったとされる祠で、笛や太鼓に合わせて、氏子二人が面をつけ、同じ動作を舞う「鉾の鶴」、ししの面をかぶり舞う「ししの舞」、太鼓を打ちながら舞う 「たいこの舞」を踊った。又、氏子十三人が、たもとで顔をおおいながら、神前に向かって立てひざで進む、「ひざずり」も披露される。見物人は近郷からやってきて、この伝統の舞に見入っている。この舞の道具箱には、明和五年(一七六八年)編木に天明五年(一七六五年)の墨書銘がある。
 さて石燈籠であるが、本殿前の向って右に立ち、八角型石燈籠である。上端は八角の低い段の上に単弁反花を置き、竿受けの円座には小蓮弁をきざんでいる。
 竿は円筒形で、上下に二条のひも、また中央には三条のひもをめぐらし、正面に貞治三年(一三六四年)八月二十五日と刻んであるのが読みとれる。中台はうすい八角で下方に蓮弁をこわし、下方には格狭間をほる。四方面を透火窓とし、四方大面取りにして八角形となる。四隅に蓮華上に胎蔵界大日、定印阿弥陀座像を浮きぼりにして、他の二面は蓮華上月輪に観世音菩薩、勢至菩薩の種子をきざんでいる。特に石面から肉厚にとび出している手法は珍しいものといわれている。
 笠は八角形で軒先にわらび手を造り出し降りは簡略しその上に八葉蓮弁のうけばなと、丹後の石燈籠の特長である長い茎をもった大きな宝珠を別石でつくっている。これは南北朝時代の優品である。山本氏は歴史的なことも記している。
 当時丹後の国の守護職であった一色氏は元来足利方にあり(北朝)山名氏一色氏と戦って勝つや、足利に背いて丹後は南朝に従ったのである。時は南朝年号の正平七年であったが後十九年(北朝貞治二年)に至り、再び足利に帰順、この八幡社石燈籠の刻銘年号は北朝年号たる貞治三年である。
 この燈籠が神仏合体であるのは、弘法大師は藤原氏以来の神仏葛藤の世相に対し、本地垂跡論として神仏合体説をとなえ、仏は本地であって、神は垂跡である、佛は釈迦牟尼であって無始無終絶対的である。そして、人間界に化現して衆生を済慶せんがため神と顕はる。故に我国は神祇は基本をたずねると、皆仏菩薩にして、仏も神も帰するところは同一であると説いた。弘法大師は神仏調和の思想を大成せずして入寂したが、平安朝時代より、この思想が益々広がったという。

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河辺八幡神社の棟札

ここはおそろしく古い棟札が残る神社である。

『河辺八幡神社資料調査報告第一集 大般若経に取り組む』(平9年・調査会)に、(文中の写真資料などは略)


河辺八幡神社の棟札

伊藤 太

一、河辺に日本で二番目に古い棟札が?!

 第I章の冒頭に記したように、そもそも河辺八幡に天養元年という平安時代の年号を記した棟札があるらしいという未確認情報がことの起こりだった。私は、「京都府の地名」でこのことを知ったが、これには原典があった。「平安遺文」という一九九六年文化勲章を受けられた故竹内理三博士が編纂された平安時代の史料を網羅した権威ある史料集に、河辺の棟札がすでに紹介されていたのである。
 現在日本に残されている最も古い棟札は、平泉中尊寺の保安三年(一一二二)のもの、それに次ぐのが正治元年(一一九九)から新造された旨が記載されている東大寺法華堂の棟札とされているから、天養元年(一一四四)の読みが正しいとすれば、そのあいだに入り、日本で二番目に古い棟札ということになる。ところが、銘文としては不審な点があり、「遺文」も「本棟札銘は稍疑うべし」と注している。また、「遺文」の注には、「文は、東京大学史料編纂所史料蒐集目録三一三による」とあって、さらなる原典を明示している。これが、右に掲げた手書きの「京都府下史料蒐集目録」で、史料編纂所の伊木寿一氏と宝月圭吾氏によって昭和十五年(一九四○)の十一月から十二月にかけて調査されたものである。ちなみに同目録には、このほか、正和二年の〈棟札A〉、至徳元年の〈棟札D〉裏が同様に図入りで記載されているとともに、大般若経も巻第四百七の文亀元年の奥書が紹介されている。
 さて、今回、河辺八幡には一六件の棟札類が残されていることが確認されたが、中世分の写真を上に掲げた(棟札番号は一○九〜一一○頁の表参照)。銘文があることはわかるものの、ほとんど摩滅して肉眼では判読不能なものが多いことがおわかりいただけると思う。そこで、墨の痕跡を浮かび上がらせる赤外線モニターという特殊な機器を利用して、銘文の判読を試みることとしたのである。
 その結果、右に示した〈棟札C〉が、史料編纂所の目録の記載と「天養」の年号以外の銘文と寸法がほとんど一致することがわかった。やむをえない史料状態であったと言うべきではあるが、河辺の現地調査を行った東大の編纂官は、明らかに「至徳元年」(一三八四)を「天養元年」に読み誤ったのである(写真2のa参照)。
 結局、二四○年下がって、南北朝時代のものであることが判明したわけであるが、古さ日本第二位の座から降りなければならないことを悲しむ必要はない。この〈棟札C〉を含めて、河辺の棟札群は、質量ともに全国的にもまれな内容を誇りうるものであることが明らかになってきたからである。これらの棟札群は、一般の古文書以上に中世・近世の河辺谷の歴史を雄弁に物語ってくれるのである。

二、志楽庄河部村の文人代官

 いましばらく〈棟札C〉を検討してみよう。
 〈棟札C〉には、大願主として「御代官左衛門尉藤原秀経」なる人物が、藤原光行とともに、花押入りで記載されている(写真2のb参照)。花押は、現在の実印に相当する機能をもち、ふつう文書に記されて、その文書の内容を本人が認めたことを証明するサインである。
 丹後の棟札では、やや時代が下がって、文明六年(一四七四)の浦嶋社修造棟札、文明十四年(一四八二)の七所社修造棟札(泊)、天文二十三年(一五五四)の荒神社上葺造営之記(菅野)、天文二十四年の津母宮修造棟札(いずれも伊根町)に花押が確認されている。うち七所社のものには「国之代官太田新左衛門尉忠恒」と並んで「御代官三富豊前守忠胤」の花押が認められ、「御代官」というのが「筒川庄」の「領主二階堂山城大夫判官殿」の代官であることも読み取れる(この四社はいずれも二階堂氏を「領主」とする筒川庄に属していたと考えられ、四点とも同様の支配関係についての記載がみられる)。棟札に記載された銘文の意味や書式についてはまだ充分な研究がなされていないのが現状であるが、棟札に記された花押の意味についても、これら伊根町や河辺八幡の事例は重要な手がかりを与えるものと思われる。
 中世の河部村の支配構造については、正平七年(一三五二)室町幕府二代将軍の足利義詮が醍醐寺の三宝院賢俊に「丹後国志楽庄河部村地頭職」を安堵したこと(「醍醐寺文書」)と、十五世紀半ばごろには、志楽庄二百町余のうち、河部村公文分五町余を大方殿様が、河部村二十二町余を安国寺(丹後府中にあった禅宗寺院)が、同半済二十二町余を守護代家の延永左京亮がそれぞれ支配していたこと(『丹後国惣田数帳』)がわかる程度であった。至徳元年に藤原秀経が代官として仕えた志楽庄河部村の領主は、安国寺か三宝院を第一候補として検討すべきであろうが、その確定は今後の課題である。
 さて、〈棟札C〉と同年月日付けの〈棟札D〉が存在することは従来から知られてはいた。ところが、〈棟札D〉の三九・八mという横幅は、この時代のものとしては異様な幅の広さと言わざるを得ない。そもそも棟札というのは棟木に打ちつけられるものであったのだから、棟札本来のあり方から明らかに逸脱している。当初からのものであるかは検討を要するが、裏側の上下二ヶ所に角材を釘で打ちつけているのも、薄板にもかかわらずこの幅の広さであるのを保持するためのものと考えられる。そして、今回、新たに判明した表側の記載も、実に類を見ないものであった。
 横罫で区切られた上部に、丁寧に毛書きされた蓮台に乗った月輪(円光)をともなうキリークとバンの二つの梵字を描き、残りには縦罫によって区画された一○行に「敬白(敬ってもうす」 にはじまる長大な願文を記している(写真4参照)。蓮台に乗った梵字、罫線をともなった長大な願文とも、全国的に見ても例がなく、注目に値する。こういった類例のない記載をするために、異例な幅広となったと考えてまちがいないであろう。
 二つの梵字は、蓮台に乗り月輪を背負って、いわば仏像と同様に荘厳されており、明らかに本尊種子として扱われている。一般に、キリークは阿弥陀如来をあらわす種子、バンは金剛界大日如来の種子とされる。そして、八幡神の本地仏は阿弥陀如来であるとされている。当社が「八幡」の神号を有することが確かめられる最初の文献は、江戸時代の慶安二年(一六四九)の〈棟札B〉であり、種子キリークの記載もB以下HKLと続くが、〈棟札D〉の願文に見える「異圀降伏之明神、日域擁護之宗廟」は八幡神の神格を示すものとも読み取れ、あるいは当社はすでに南北朝時代から八幡神として認識されていたのかもしれない。
 長大な願文は、いまだ不明の箇所もあるが、現在わかる範囲で読み進んでいくと、冒頭の「右」に続けて「蓮華三昧の国に無垢不染の義兵を挙げ、円智無際の朝に鏡像無号の大平に至る」にはじまる仏教用語を散りばめた息の長い対句で始まっていることに気づく。この華麗な対句表現は文末までほとんど破綻することなく貫かれているのである。「層台霜を重ねて瓦に松あり」などといった表現が『白氏文集』驪宮高の一節からとられていることに至っては、本願文の文学的な性格を如実に示すものと言ってよい。
 中世村落の鎮守棟札銘としては、まったく異例なこのような棟札がなぜ作られたのであろうか。この文を注意深く読めば、〈棟札C〉の大願主藤原秀経の願文であることがわかる。中世の諸氏の系図の集大成である「尊卑分脈」をひもとくと、第二篇「藤成孫」に左衛門尉の官途が一致する藤原秀経があり、父秀時が元亨四年(一三二四)に死んでいるのもさして矛盾がなく、当人である可能性が高い。実は、この秀経を四代さかのぼると、後鳥羽上皇の近臣として「新古今和歌集」の編纂にたずさわり、「新古今集」以下の勅撰和歌集に八○首も入集している藤原秀能に行き当たる。そして、秀能にはじまる流れは、数多くの勅撰歌人を輩出しており、秀経自身も『風雅集』に一首、『新千載集』に二首採られている。この文学的な願文をもつ異例な棟札が、歌人代官藤原秀経その人の発案にかかると考えるのは魅力的な仮説ではなかろうか。
 なお、この願文と同文の由緒書がいくつか伝来しているらしいことも興味深い(第I章中嶋氏稿、六頁参照)。

三、中世の棟札と大工・宮座

 〈棟札@〉は、正応四年(一二九一)という鎌倉時代の年号をもつ河辺八幡のもっとも古い棟札である。すでに、「石津森」という表記が見られ、江戸時代末期まで呼びならわされてきた岩津森の名前が古いものであることが確かめられる。左辺が欠けているが、復元すると台形状の形態となり、尖頭を作らない点でも古態の棟札ということができる。大工・小工が僧名になっていることも興味深い。
 〈棟札A〉の正和二年(一三一三)も鎌倉時代である。@と異なり、尖頭型となっているのは一般的な形態であるが、銘文を見ると、中央に大きな文字が来るのではなく、右端に「岩津森大明神社事」と事書の形で記し、「如件敬白」で書き止める書式は願文の基本により忠実である。本文は「右、修造の志は、天長地久・御願円満、ことには当村安穏・諸人快楽…のため(なりヵ)くだんのごとし。敬ってもうす」と読め、神社修造が村の安穏を祈願して行われたことがわかる。
 注目に値するのは、「大工符中国貞」とある点で、これは比較的遠隔地でありながら丹後府中の大工が河部で仕事をしていたことを示す史料であるばかりでなく、府中大工の初出として特筆される。もちろん府中が本拠であったことは言うまでもなく、建武元年(一三三四)の金堂再興の次第を記した重要文化財「丹後国分寺再興縁起」に、左方分番匠天王寺(四天王寺)と並んで右方分番匠府中としてあらわれることは知られていたが、その行動範囲は案外広かったらしく、元応元年(一三一九)の丹波国何鹿郡室尾谷神社本殿棟札に「丹後国番匠藤原国家」とある(『綾部市史』)のは、この「国貞」と類縁のある者であった可能性も高い。
 当社棟札群は、このほかにも大工に関する記載が豊富で、室町時代の永享六年(一四三四)の〈棟札E〉では「大工倉橋住人左衛門九郎」と近隣の大工が登場するとともに「槍皮大工西京二本木道心入道」とあって京都から屋根葺き大工を招いている。また、応仁三年(一四六九)の〈棟札F〉では、「大工志楽庄兵衛藤原宗久」と「小工大夫・彦二良・四良二良、両三人」が、河部村の氏人等を指すと考えられる「殊願主諸人施主等」(「庄内堅牢」とある)とともに「敬ってもうす」書式になっており、大工らの主体性はより明確になっている。なお、〈棟札F〉で、右下隅に切り欠きがあるのは、物満つれば魔が多いという考え方から、わざと完形の一部を欠いた形にして魔障を予防したものと考えられる(福山敏男「棟札考」)。
 さて、はたして棟札と呼びうるかどうか検討が必要であるが、鎌倉時代の正慶元年(一三三二)の年号をもつ〈棟札B〉も、〈棟札D〉と同じく表裏に記載があり、表側に「敬白」ではじまる長大な願文を記し、裏側に宮座衆の交名を記すという点も共通している。表側の銘文は正慶元年の年号は読み取れるものの長大な願文は摩滅が甚だしく、赤外線モニターを以てしてもほとんど判読不能であった。このことは、宮座交名を記す側は判読できない文字が少なかったこととあわせ、願文を記す側が外気に触れる「表」面として社殿に打ちつけられていた痕跡と考えることができよう。
 読めない部分が多いとは言うものの、この表の文面が、整然とした願文の形式にのっとったものであることは見やすい。ただし、願文は本来、神仏に対して祈願する文書であり、宛先となるべき神仏や社寺の名も省略されることが多い。ところが、この場合、なぜか神名・社名ではなく、大工・権大工・同子息らが、給主・代官・公文・沙汰人といった荘園の支配者層に宛てる形式となっており、いささか異例である。あるいは、大工衆が社殿の建立を全うして、願主等の願意を神仏に聞き届けてもらうことを給主以下の荘園支配者に誓約する内容のものであるのかもしれない。
「給主」というのも荘園の管理を委ねられた役職のひとつと考えてよいが、宛先に見える給主河部三郎(河部を本貫とする武士的な人物を想像させる)、代官尊性・公文尊信・沙汰人唯道らの記載は、鎌倉時代における当地の荘園支配の構造を具体的にうかがわせる新出史料として重要である。
また、裏側には、祢宜以下の女性も含む神職等、四座三○名におよぶ宮座衆の交名、末尾に大願主と執筆が記されている。これは鎌倉時代の荘園村落における宮座史料として、きわめて貴重なものである。座衆の名のりには、由里・原・西屋・栃尾など現在も河辺谷を構成する字名を冠するものがあるほか、朝来谷に属する白屋などの地名も見える。大夫・権守・惣官・{仗などの名のりについては、最近の中世村落研究で注目されているところであり、学界に新たな材料を提供することとなろう。ともかく、現在も河辺八幡の神社組織として機能している宮講は、遠く鎌倉時代にさかのぼるものであったのである。

四、近世の棟札と六ヶ村体制

 中世分最後の〈棟札F〉の応仁三年と、近世分最初の〈棟札B〉の慶安二年のあいだは一八○年もあいており、他の間隔は、一九〜五六年である(一覧表参照)から、この間の棟札が失われている可能性も考えられる。
 〈棟札G〉も表裏に記載があり、続けてあらわれる梵字キリークが八幡大菩薩の本地仏である阿弥陀如来をあらわすことは裏側に明記されている(一一一頁参照)。ここで、中世には見られなかった近世の棟札に特徴的なこととして、観音寺僧の関与をあげておかねばならない。〈棟札B〉の裏側には「補堕路山(補陀落山は観音寺の山号)住僧」とあり、表側には「権律師快栄法主」と見える。また、寛文十年(一六七○)の〈棟札H〉は近世には珍しい平頭型ながら、キリークの種子と「法主慶寛」の名を記している。同じくキリークの種子を戴いた宝暦十三年(一七六三)のKLには「八幡宮別当」と明記して「観音寺華蔵院敬+手雍」なる僧が鳥居造立の棟札を作成している。河辺谷の奥に位置する観音寺(ないしその子院である花蔵院)が河辺八幡の別当をつとめるという体制が幕末近くまで続いたらしいことは、大般若経の経櫃の安永六年(一七七七)と文政十年(一八二七)の箱書からも明らかである(第U章森本氏稿、一六頁参照)。
 中世分の棟札では、確かに〈棟札C〉に「別当観音寺」という記載が読み取れるのであるが、墨色が銘文の他の部分と明らかに異なっており、後で書き入れた可能性が高く、中世から観音寺が別当であったとは考えない方がよい(写真2のC参照)。一覧表の「神職(別当)等」の項目を参照すると、中世分では、祢宜・祝・神長などが子細に記されているものが多かったのが、近世に入ると一切見られなくなる。やはり、中世と近世とでは当社の祭祀の仕方に何らかの変更があったと考えるべきだろう。結論的に言うならば、それは、中世の宮座祭祀から近世の観音寺別当祭祀へ、中世の宮座体制から近世の六ヶ村体制へという変化であったと考えている。これについて、中世にさかのぼりながら検討してみたい。
 〈棟札D〉の裏側は、右下に摩滅して判読不能な箇所があるが、全体を六段の段組構成によって理解することができる。第二段右半分中央に「願主」とあって同段右端に「次第不同」とあり、六段目左端に「以上、末座これを略す」とあるから、この間に記載された、祢宜秦助光・祝私友房・神長私延弘を除く、一二名(以上)が願主の交名であると読み取れる。同時に、「末座」の語からこれを宮座の交名であると見なしてよいだろう。この願主である宮座衆が、六段目中央の「河部村氏人等」ともイコールで結ばれることは「敬白」の位置からも明らかであろう。そう考えた上で、横三段にわたって書かれた交名を見直すと、必ずしも祢宜・祝・神長を座衆ないし氏人等から排除していないように見えてこないだろうか。
 ちなみに、中世の棟札に記された祢宜の名を見ると、順に、僧乗祐↓藤井弘利↓秦助光↓丹波安光となっており、僧名の乗祐は別としても、氏の一致がまったく見られない。これは、当社の祢宜等の神職が血縁によって相続されていたのではないことを示すものと考えられる。ここで思い起こされるのが「阿良須神社文書」の文安六年(一四四九)置文案で、志楽庄一宮の祢宜は宮座構成員のうち一老と呼ばれる最長老がつとめ、祝は次席の二老がつとめることになっていた、という記事である(第Z章小西氏稿、九一頁参照)。同様に、河部村岩津森宮においても宮座構成員から神職を出すシステムが取られていたと推測されるのである。祢宜等と座衆を一体化する表記の仕方もこうした事実の反映であり、こういった中世の祭祀のあり方を「宮座祭祀」と名づけておきたい。
 そもそも、〈棟札B〉の四座交名においても、〈棟札D〉の座衆交名においても、現在の河辺谷の字名や地名が見られるものの、決して六ヶ村別になっていなかったことに注意したい。中世では「村」と言えば「河部村」を指したのであった(〈棟札A〉の「当村安穏」を想起せよ)。ところが、〈棟札B〉になると「河部村氏人等」は「当谷中生子」の表記にとってかわり、すでに「当所中村」が登場している。〈棟札H〉で、「法主慶寛」と「願主当谷中」とが左右に相並んで「敬ってもうす」主体となっていることは、近世の別当・六ヶ村祭祀体制を示唆するものと見なせるだろう。また、〈棟札K〉では「河辺庄」という表記があらわれるのも、中世の志楽庄河部村の記憶が消え、谷中七ヶ村が成立したことの反映であろう。
 宝永十年(一七○七)の〈棟札I〉は、二枚の板を背中合わせに打ちつけた珍しい形態をもっているが、人名の記載を見ると、大工・木挽に限られ、他の棟札のように氏子や別当などが一切登場しない。これは、同年月日で、六ヶ村に観音寺村を加えた河辺谷七ヶ村総勢四二名・一院・一村中に谷外の―村中・四名、というきわめて多数の奉加者を記す造立勧化札が残されていることと合わせて考えるべき事柄であろう。一覧表に明らかなように、中世近世を問わず棟札に記載される人名には、広い意味で願主を構成する氏子衆と大工衆が必ず登場するはずなのである。つまり、宝永の造営にあたっては、大工衆と河辺谷氏子衆の交名とが〈棟札I〉と〈棟札 J〉とに分化したと理解できる。〈棟札J〉がわずかに尖頭型を作り出しているのも、この木札の棟札との類縁性を示唆するものかもしれない。 先に棟札の銘文の書式等についての研究はまだ不充分であると述べたが、私は、棟札を、社寺の造営にあたって神仏に願いを聞き届けてもらうための願文の一種であると考えている。願文と言えば、紙に書かれた文書をまず思い浮かべるので、この考え方になじみにくい人があるかもしれないが、そもそも願文というのは、仏像の胎内や塔の露盤などに直接書かれることも多かったのである。神仏に願いを聞き届けてもらうためには、作善業と言って何かよいことをしなければいけない。神社の前で頭を下げること自体がそうした行為かもしれないし、お賽銭をあげるのも身近な作善業のひとつかもしれない。願文には、写経をするとか、大般若経を転読するとかいった具体的な作善業が冒頭に記されるのがふつうである。「私はこんな良い行いをしました」と宣言してから、やおら神仏に聞いてもらいたい願いを記すのである。社殿を造営するなどという大事業はこうした作善業の最たるものであって、そのスポンサーも代官などの有力者が出資してくれればしめたものだが、おおむね氏子一同で取り組み、作業にたずさわる大工衆も大勢ということになるだろう。棟札の中央に「奉造立」などと大書するのは作善業の宣言であり、記載される氏人衆や大工衆らの人びとは、ひとしくこの事業に結縁して神仏に願いを聞き届けてもらい村の安寧をはかろうとする願主に相当するのである。仏像などの胎内におさめられた奉納物にも、銘文を記した木札と、紙に記された願文と、数多くの人名を記した結縁交名がセットになることがあり、棟札も単独ではなく他の木札等と関連させることによって意義が明らかになる場合も多いと考えられる。Iの大工衆棟札とJの氏子勧化札の場合が、その好例であろう。
 J以下、MNOといった横札は、いずれも六ヶ村ないし観音寺村を交えた七ヶ村をはっきりと分別して記載している。Nは断片で年号を欠いているが、人名がMとほとんど一致するので同時期のものと考えられるが、MNOのいずれからも、各村ごとに「世話人」を置いていたことがうかがえる。近世の六ヶ村体制の実態は、まさしくこれらの横札群に詳細に表記されているのである。
 四二名の宮座衆ほかの人名を記す鎌倉時代の〈棟札B〉、河辺谷七村四二名ほかの氏子名を記す江戸時代の〈棟札J〉をともに残し、中世以来の宮座・宮講の具体的な変遷をたどることができるのは、おそらく全国的に見ても稀有な事例ではなかろうか。その上、現在も、河辺八幡が谷中六ヶ村の宮講の組織によって運営され、中世の田楽のおもかげを色濃くとどめる祭礼芸能が氏子衆によって奉仕されているというのだから、現在に直接つながるものとして、史料の貴重さは一層高く評価されるだろう。この棟札群が、河辺谷の歴史をたどる上でまたとない史料であることは、多くの方にご賛同いただけるものと思う。

五、河辺谷の外へのひろがり

 棟札から、現在の宮講が、鎌倉時代から変遷を経ながらも現在に至ると立証できることがわかった。その一方で、大般若経が、鎌倉時代の近江今津からやってきたように、棟札からも中世・近世の河辺と各地との交流をうかがうことができる。
 中世にも、府中・倉橋・西京・志楽庄という遠近各地の大工が当社の造営を行っていることは先に見た。続いて近世の大工の記載を拾っていくと、Bに「大工治内町(寺内町)五左門」、Hに「田辺権工藤原繁次」、Iに「大工丹後加佐郡田部丹波町住人寄金藤原家春」などとあり、田辺城下町の大工の記載が目立っている。これは、元和八年(一六二二)の田辺藩の成立にあずかって城下町に職人が集住させられたことの反映であると同時に、鎌倉時代に丹後の首都であった府中大工が出張ってきたように、当社は、田辺城膝下の大工が施工すべき格式を誇っていたことを示すものであるかもしれない。なお、Nの石壇寄進記にも田辺の和泉屋太郎兵衛が銀一○匁という多額の寄進をしていることが記載されている。
 このなかで、〈棟札H〉で、田辺の権大工に対して、大工は江州の藤原家次となっていることは、近江のどこであるかは不明ながら、中世に湖北今津の大般若経が来たように、時代をへだてて当地と近江との交流があったことを示す史料として無視できない。
 〈棟札K〉に河辺谷の栃尾村の大工義平と長次郎が登場するが、一四年後の安永六年の大般若経をおさめる経櫃の箱書にも栃尾村大工藤原伝四郎が記されている(一六頁参照)。
 横札類に記されている河辺谷以外の地名を見ると、赤野村(J)・平村 (J)・長内村(J)・浜村(N)・千年村(千歳、N)などの舞鶴市域の地名のほかに、福井県高浜町に属する宮尾村(J)の記載が注目される。宮尾へは現在も河辺谷の奥の栃尾から抜けることができ必ずしも遠隔地ではないが、Jの場合、これらの谷外の村の記載五件のうち、宮尾村を含む三件の人名が「某女房」となっていることは、彼女らが河辺谷から嫁いでいった人物であったことを示しているのかもしれない。
 また、Mに「氏子六ヶ村」と明記されながら、MはじめJNが観音寺村を含む七ヶ村の部立てになっているのは、観音寺の当八幡宮別当としての役割を含め、谷におけるその微妙な地位を反映していると考えられる。
 このほか、当社には、上に掲げた焼損した蟇股材をはじめ、近世の扁額三面が残されている。河辺谷の歴史を明らかにする資料は、まだまだどこかに眠っているのかもしれない。

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観音寺の梵鐘(舞鶴市観音寺)

『舞鶴の民話4』に、

観音寺の梵鐘 (河辺由里)

 大浦半島北部になだらかに横たわる空山を背に、その南端山腹標高二八○米辺に、集落がある。観音寺より急坂を登る。岩場があり綱を下げたらし、それをしっかりつかんで登る。小学一年生も六年もこのところが一番好きである。水に恵まれた山腹斜面には水田耕作が行われる。

 村の名は当地にある観音寺に由来する。観音寺は延暦年間(七八二年〜八○六年)の開創と伝える。村は半ば門前町でもあった。慶長検地郷村帳に高七一・五六石、土目録でも同高、延享三年(一七四六年)の郡中付覚によると農家は七戸深雪と交通困難のため、参る人はあるが、離村が進んでいる。山号浦陀落山、真言宗御室派、本尊千手観音、江戸時代になって縁起文書によって延暦五年(七八四年)異人の持ち来たった千手観音、不動、昆沙門天を祀ったのに始まる。鐘楼、経蔵が多くあって伽藍を誇り、南北朝の貞治二年(一三六三年)に兵火にかかり、応永二六年本堂が再建されたが、これも兵火にかかり、文明の初年、法爾により香殿その他の寺院が再興されたという。現在の本堂は朽ちているが明治二十一年に焼失後、二十五年に再建されたものである。鐘楼は鎌倉時代の作、石塔は室町時代で昔のことを伺い知る、形として残ったものは少い。
「寺所」「塔の上」「奥の坊」「仁王堂」「坂中堂」「坂本堂」の地名が残っている。又今は山林になってる所でも全部といってよい程田の形が残っている。昔の人の通った旧道は永い年月に深く掘られている。観音寺の歴史は汗と苦労の連続だった。昔の人たちは現世の苦労よりも、来世の楽を願ったのかも知れません。坂道を女の人でも四十粁の肥料とを背おって上ったのですから大変なことで、庄屋であった梅垣さんは、子供の頃、雪がふれば学校におくれるのは当り前で、今とちがって二米近い雪道で「ガソジキ」はいた人が道にふみ分けてもらって、上級生から一列になって学校にいき、学校に着けば、まず濡れたものを、ストーブに干し、かわいてから勉強するということでした。

 農繁期になれば学校を休んで手伝うし、弟の子守もしたものです。こんな生活をしていても村を出ていく人は少く、念願の立派な道が開通しましたが、楽になったと共に今度は反対に村を出て、山麓の由里に住む人が多くなってしまった。全く世はまゝならぬことですねと、学校の窓より、村の方をみながら語ってくれました。

 焚鐘は市の指定文化財になっています。銘文から丹波国、興福寺の楚鐘として延慶元年(一三○八年)に制作され、鎌倉時代後期のもので、三期にわたる銘文と宮津日記から、この焚鐘は、江戸時代は宮津の経王寺に移転、その後、明暦三年に宮津の国清寺に買いとられ、さらに宮津の如願寺がゆずりうけ、元録三年(一六九○年)に観音寺の仁王像と交換した。

 又中門をくぐった右側に、河辺八幡神社と同型式の八角型石燈篭も市指定文化財で八角型である。銘文が刻まれている。丹後国観音寺、願主下岸、大工兵六、文亀元年(一五○一年)十月二十六日敬白と、火袋は四方透火窓で、上部に縦連子を、窓開の四方の大面取り壁面には蓮華上の月輪内に種子を刻んでいる。種子は、阿閃、宝生、阿弥陀、不空成就の金剛界四仏を表している。笠も八角で丈が高く、降り棟を簡略化し、軒先にわらび芋をつくり出す。宝珠の茎は長く、請花も大きく、別石でつくっている。

 今はこの村に住む人はなく、屋敷内は都会の心なき人に家財をとられ、田の耕作に必要な物おきとなっている。最近になり、脱サラの都会からの人が二所帯ほど移り住んでいるという。
 観音寺に住いしていた人たち、このごろになって、寺の再興の気運が出てきたという。うれしいことだ。

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海臨寺とその大墓(舞鶴市田井)

『舞鶴地方史研究』(90.10)に、

海臨寺とその大墓覚書
 宮津市 中嶋利雄

 海臨寺(舞鶴市字田井、禅臨済・東福寺派)に大墓(おおはか)と称する墓地がある。大墓という語は字名に用いられたりするところからみると、惣墓を意味する語かとも思う。私は一九七六
(昭五二)年以来九回ここを訪れているが、なかなか分からないことが多い。

一、寺史について
 開創を南北朝期とし、曇翁源仙(どんのうげんせん)を開山とする寺伝は疑いを入れない。この点丹後臨済の古寺のなかでも注目すべきであろう。東福寺開山聖一国師の弟子白雲慧暁(はくうんえぎょう)は東福寺四世で永仁二年(一二九四)栗棘庵(りっきょくあん)を開創、その門のひとりに谷翁道空(こくおうどうくう)があり、曇翁源仙はその門に出ている。
  海臨寺開創について多少煩雑にわたるが史料について述べておきたい。
 先ず「竜安十境」について述べることとする。室町時代五山文学の大家岐陽方秀(きようほうしゅう)の作「竜安十境」は応永二十二年(一四一五)の作、竜安寺は丹波船井郡桐野(現園部町)蟠根寺(現、禅曹洞)のことである。次に関係部分を煩をいとわず『東福寺史』より掲載しておく。(読み下しは筆者)
 信士宮道公、法名祖妙、観応の間丹後に在り、曇翁仙和尚に謁し、弟子の礼を執り、崇奉惟れ篇し、其の後二十余年、公桐野を領し、便ち斯の地を相収す、窪めるは之れを填め、穹きは之を夷かにし、役々土木、竟に、応安癸丑の歳を以て寺成る、殿堂廊ブ・像設鐘鼓、凡そ叢林に有るべきとする所は悉く備う、而して曇翁に請うて之れに居らしむ、曇翁徒に訓えて規度あり、至徳丙寅七月二十一日に於て終す、年七十三(中略)応永乙未春三月九日岐陽方秀、
私註 1みやじ又みやみち。蟠根寺位牌に、竜安院蟠根寺殿祖栄活妙大居士。室町幕府政所代の家蜷川氏親朝。因みに、『寛政重修家譜』に、親朝「尊氏につかふ、累世公領丹波国船井郡桐野河内に住す、桐野に寺を建立して蟠根寺といふ。曇翁仙和尚をこふて開山とす、某年死す、法名祖妙」
2蜷川氏が観応(一三五○−五二)の間、丹後に住したということは考えられない。丹州(多くは丹波を指す)を誤ったか。
3、応安癸丑は六年(一三七三)、この年蟠根寺完成、開山曇翁和尚。
4至徳丙寅は三年(一三八六)、曇翁示寂。

 ここには田井海臨寺開創に触れていない。曇翁出生は示寂の年より逆算して正和三年(一三一四)と考えられる。とすると蟠根寺開創は六十才、蟠根寺開創に至るまでの二十余年は、とても丹後に下って一山の開山となるなど考えにくい。海臨寺蔵の曇翁禅師頂相の容貌はかなりの年令を思わせるし、更にその賛に、
 「谷翁室内得心博/随虚住庵三十年独有竜安山上月(中略)海林開山曇翁仙禅慈像□退?老衲性海拝賛」とあるのも、「随處住庵三十年」(そのうちに蟠根寺建立に至る二十余年も含まれると理解する)ののちに「海林寺」開創という意であろう。だから「海林寺」開創は禅師晩年として誤りはないと考える。但し示寂のところは「竜安十境」の如く、再び丹波にのぼって蟠根寺とすべきであろう。

 なお東福寺編『東福寺史』には、丹後青蓮寺(現、舞鶴市大波)の開山を曇翁の師谷翁道空としている。また海臨寺蔵明治十二年「寺院明細帳」は海臨寺末寺帳であるが、その中にも、曇翁開山の寺として江正庵(大山)・海蔵寺(三浜)・正伝寺(瀬崎)・洞春庵(大丹生)・極楽寺(栃尾)・海潮庵(下大波)・高秀庵(杉山)・金竜寺(田中)を挙げている。何れも証明すべき資料なく、伝承の域を出ないものであるが、海臨寺を中心として東福寺栗棘門派の教線の浸透の深いことをうかがわせる。

 『丹後国加佐郡旧語集』(「舞鶴市史史料編」所収)に、海臨寺を至徳三年建立とし、こんにちまで地誌類に援用されているのは誤伝であることを付言しておく。

二、大墓について
 海臨寺南方、境内に接してほぼ三○m×四○mの墓地がある。そのほかにも付近に散在墓地がみられるが、いまはそれら散在墓地を除いて、その中心大墓について考察してみたい。その大略の区画図は別図のとおりである。そのうち、T区は無縁墓、X区は海臨寺歴住墓地である。その他の区画のうち、U区〜\区が私の調べたところである。調べたといってもほんの表面的な観察で、次に述べることからもお粗末な試論に属することが多いと思うが、ご批判がいただければ幸いである。

1 大墓全体景観の特色
  (イ)圧倒的に多いカラト(石龕)墓(前方に扉がついて、なかに一石五輪を入れる)と、カラト型笠塔婆(上の屋根部はカラト墓と同じであるが、塔身部が短形の一石で、表面に一石五輪などの浮彫を施したもの、扉がないので敢えて笠塔婆と仮称しておく)。この種の墓塔は若狭・丹波にも多く、丹後においても北部熊野郡に至るまで広く行われている。もっとも、北部にいく程、又内陸部に入る程、その密度は薄くなるといえる。
(ロ)三角墓(頂部圭頭形で、一七○○年頃を中心に前後をあわせて六、七○年の間(延宝〜享保の間)に用いられた墓塔)が極めて少ない。
(ハ)戦国期〜近世初頭に造建の宝篋印塔が七基もある。
(ニ)中世〜近世初期の板碑及び一石五輪はその大部分がT区に集められ(尤もこの中には近隣出土のものをここに持ってきたものも多い。)、その他U区。V区の後方に集められたものもある。

2 大墓についての若干の考察

(イ)一石五輪の問題  この墓地の一石五輪には二系統を分けて考えねばならない。一は中世より近世初頭にかけて、それ自体単独で墓塔として土中につきさしなどして建っていた一石五輪、二はカラトの中に納められている一石五輪である。一はその大部分が現在無縁墓に集められ、二の一部もその保護屋であるカラトを失い無縁墓に集められている。一について年紀銘を有するものに大永三年(一五二三)銘のものが無縁墓にみつかっている。因みに、一の一石五輪で丹後各地で私がみた最も時代の早いものでは、宮津大島顕孝寺墓地に文明七年(一四七五)銘のものがあるし、後期のものは元禄期にとどまっていることを付言しておく。二については次の(ハ)項においてふれる。
(ロ)板碑の問題  一般に舞鶴地方の板碑は宮津地方のそれに比べて粗雑なものが多く、この墓地で年紀銘を有するものを未だ見ていない。大まかな観察では十五世紀中期頃まで遡ると思われるものは極めて少ない。
(ハ)カラト墓出現の時期  確かなことはいえないが、私の十数年前に調査した時(現在のように墓地が整理される以前)の写真の中に、カラト墓側壁の刻銘に天正十三年(一五八五)のものがあり、中の一石五輪二基もその時代にふさわしい形をしているから、確かな刻銘のあるものを根拠とする限りでは、カラト墓の出現は近世の極く初頭ということになる。宮津地方で板碑や単独一石五輪は、元禄前後を境に急速に三角墓に転移する。このことは丹後全域を通じての傾向といえるように思う。ところが大墓においてはその三角墓が極端に少なく(Uノ2区上段に二基みられる)、丹後全体を通じて一般に三角墓出現の時代には、既にその以前からカラト墓が行われて三角墓の出現を極度におさえているように思う。しかもカラト墓出現の時代にはさきの(イ)の一に属する一石五輪や、板碑と共存の時代が続いたと思われる。近世初頭に全面的・急速にカラト墓に移行したとは考えにくい。ただしその一石五輪や板碑の消滅の時期は、丹後の他の地方と大きな差があるとは思われない。そして一般には、近世後期にかけて、頂部アーチ型墓、更にそのうち頂部方形型墓へと移っていくのに、ここではその時代に於てもカラト墓又はカラト型笠塔婆が最も多く行われているのである。
 墓塔を地域文化の問題としてみるなら、このような民俗が他のどの地域に関連をもつのであろうかという疑問が
あるし、一般には三角墓を採用する百姓層が元禄前後に出現するのに対し、カラト墓を採用する層はもう少し早く出現したということであろうか。そしてカラト墓は、一般の三角墓の時代にもそのまま続き、実に近世を通じて盛行するのである。その場合、両者の百姓層の性格はどう違うのであろうか。
 最後に私が中近世墓塔の変遷をいう場合、三角墓についてつぎの点を申し上げておきたい。それは、近世三角墓の出現は、中世板碑の変貌したものとうけとるべきだとは考えながらも、それにしても、多くの地方で中世型板碑と一石五輪が急速に消滅して三角墓に全面的にその地位を譲ったということには、その変貌に特別の重味をもつも
のがあると考えたいということである。それを私は近世初頭における村の支配百姓層の大きな変化の反映とみてはどうかと考えてみるのである。私のあてずっぽうな推断かもしれない。
(ニ)大墓には宝篋印塔の問題、無縁墓発祥の問題等たくさんあるがいまはふれないでおく。ただこの地方の宝篋印塔についていえば田井・野原・三浜・小橋等海岸地方に多くあるということは、格別の意味づけが出来るかもしれない、たとえば戦国水軍の中での有力層と関わりがないかなど、私はいまそんなことも考えているのである。
    海臨寺史に関しては、ご住職から貴重なお教えをいただきました。記して謝意を表します。


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青郷のひろがり(福井県側からの見方)


『福井県史』「通史編1 原始・古代」に

 第四章 律令制下の若越
   第一節 地方のしくみと役人
    二 若越の郷(里)
      青郷の広がり
 若狭には奈良時代には三方郡と遠敷郡の二郡があったが、遠敷郡は天長二年(八二五)七月にその西部を大飯郡として分立させた。『和名抄』(高山寺本、以下「高本」)によれば、旧遠敷郡の地には、遠敷郡に属する遠敷・丹生・玉置・安賀・野里・志麻の六郷と大飯郡に属する大飯・佐文・木津・阿遠の四郷の全部で一〇郷あったという。しかるに『和名抄』(大東急記念文庫本、以下「急本」)は、遠敷郡に遠敷・舟生・玉置・余戸・安賀・野里・神戸・舟生・志摩・佐文・木津・阿桑の一二郷を記し、大飯郡は大飯・佐分・木津・阿桑の四郷とする。しかし舟生・阿桑はそれぞれ丹生・阿遠の誤記であり、かつ舟生は二度出てくるという二重の誤りを犯している。しかも佐文(分)・木津・阿桑(正しくは阿遠)は大飯郡に属すべきものであることは、両本を比較すれば明らかである。したがって急本でとるべきは、遠敷郡の余戸・神戸の二郷である。そこでそれを入れれば全部で一二の郷となる。
図56 若狭国郷(里)推定図

図56 若狭国郷(里)推定図
注1 地図中の郷名は『和名類聚抄』(高山寺本)による。
注2 数字は注1以外で木簡にみえるもの。        

 そのうち比較的郷(里)の範囲がわかるのが、多数の贄木簡の出土が知られる遠敷郡青郷である。青郷は大飯郡分立後は大飯郡に属することになり、『和名抄』(高本)では阿遠郷と記載されている。青郷の故地は、大飯郡高浜町に青という地名があることから、その近辺の関屋川下流域一帯にあたるとみられてきた。
 しかるに平城宮・京跡から出土した木簡によって、青郷の広がりがより具体的にわかるようになってきた。前項でふれたように、律令制下では五〇戸で一里を構成していたが、霊亀元年(七一五)から天平十二年(七四〇)ごろまでの間は里が郷とよばれ、その下に二、三の里が置かれるという郷里制が施行された。最近、その開始を霊亀三年とする説も出されているが、同じ里という名でも、それ以前と異なった意味で用いられるようになったわけである。また郷(里)のなかには、相互扶助・検察の組織として、近隣の五戸からなる五保の制があった。したがって郷里制下の里や五戸の名がわかり、その現地比定ができれば、郷の範囲が推測できるのである。そして青郷はその良い例となっている。しかも全国的にみても、これほど郷(里)内の地名が現在に伝わり、現地比定ができる例はまれである。その点で青郷は特筆すべき事例である。
写真49 高浜町青付近

写真49 高浜町青付近

 そこで青郷の範囲を復元してみよう。まず郷里制下の里には、川辺里・青里・小野里があり、五保の名としては氷曳五戸と田結五戸が知られる。このうち青はさきほどの高浜町青にあたろう。小野は現在ではこの文字の地名はないが、内浦湾を望む位置に高浜町神野・神野浦があり、このあたりに比定できよう。また氷曳もこの文字ではないが、それがヒビキと読むなら、やはり内浦湾の西岸に高浜町日引がある。それに対し川辺は高浜町内にそれに該当する地名はなく、同町に西接する京都府舞鶴市の河辺川沿いに河辺由里・河辺原・河辺中があり、その一帯に比定できると考えられる。ただし、そこは青とは山を隔てた連絡の不便な地であり、あるいは関屋川下流域にあてるべきかもしれない。さらに田結にあたるとみられるのは、同市田井である。この田井については、文永二年(一二六五)「若狭国惣田数帳案」(東寺百合文書『資料編』二)に「青郷六十町八反百廿歩 除田井浦二丁八反四歩定」とみえ、本来田井浦が青郷に所属していたことがわかる。そしてその田井浦は「丹後国志楽庄に押領せられ畢んぬ」という。ここに田井が丹後国に編入されるようになった契機があるわけである。
 このように里と五保の所在を推定すると、青郷(里)は高浜町から舞鶴市にまたがり、東は高浜町青から西は舞鶴市河辺地区まで、大浦半島の少なくとも東半部を占めることがわかってくる。その郷(里)の範囲の西半部は現在では舞鶴市に属するように、のちには丹後国に所属するに至っている。国の領域が時代により変遷したことがうかがえるわけである。そして青郷は右の地域内の入江や川沿いに点在する、いくつかの小集落から成り立っていたのである。その場合、入江に位置する小野・氷曳・田結と青との連絡には、陸上よりも船が使われたことであろう。そして一つの郷は二、三の里から成り立っているのが普通であることからすると、青郷に属する里はほぼ先の川辺・青・小野里くらいであり、二つの五戸は三つの里のいずれかに、位置と連絡の便を考えると、おそらくは小野里に属したのであろう。
 当時の郷(里)が自然に形成された一つの村落ではなく、一郷(里)五〇戸という数を合わせるため人為的に構成された村落であることを、この青郷の例はよく物語っているといえよう。一方、郷里制下の里の名が、地名として現在もよく残っていることがわかった。これまで郷里制の里の名が現存地名として残っている例が少ないことから、里も自然村落ではなく、郷を機械的に二ないし三に分割した法的擬制であると考えられてきた(岸俊男『日本古代籍帳の研究』)。しかし、青郷においてはこれはあてはまらない。したがって青郷の里は実際の村落をかなり反映しているとみられる。しかしこの場合でも、郷全体で五〇戸にするため、各里の郷戸数を調整するための操作が行われ、たとえば自然村落としての神野浦と、やはり自然村落の田結・氷曳を合わせて、小野里を作るというような作業が行われており、単純に里は自然村落であるということはできない。同じことは五戸(保)についてもいえ、田結五戸・氷曳五戸はそれぞれ、田結・氷曳にあった村落を五つの郷戸に編成した結果できたものである。このように行政的に組織された当時の郷・里は、ある程度自然村落を反映しながらも、一郷を五〇戸に合わせるために各戸の範囲を決め、さらに郷・里の範囲を調整する、編戸という人為的作業をふまえて作られたものであったのである。
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京都府や舞鶴市もこうしてweb上に資料をどんどんと置いてくれるとずいぶんと市民は助かるのだが…。
口先だけの活性化とかではなく、地域の本当の活性化はまず情報の共有だと私は考えている。これが偏在すれば活性化はありえない。権力が隠していても町は死ぬ。せっかく失敗の原因を大赤字が生まれその尻ぬぐいを納税者に押しつけているのを公約にそって明らかにしようとするのに、共犯者どもには具合がよほどに悪いのであろうが、それに腐った理屈をつけて反対するような手前ド勝手な大バカ者が多いような町では舞鶴は早晩死ぬことだろう。衆院よりもこちらが先に解散した方がよかろう。

さてでは舞鶴側ではどう見ているか…

『舞鶴市史』(通史編上)に、

「福井県史」(史料編1古代二六七頁)は平城宮跡出土木簡「  □敷郡青郷 川邊里 庸米六斗 秦□ 天平二年十一月」の川辺里を、舞鶴市字河辺原・河辺由里付近に比定し、若狭国遠敷郡青郷の郷域が東大浦地区に深く入り込んでいたとしているが、地勢を度外視した丹後・若狭両国境界の推測は如何なものか。また、同県史は、文永二年(一二六五)の「若狭国惣田数帳」(「東寺百合文書」)に記載のある同国青郷の「田井浦」を舞鶴市田井に比定し、古代の青郷域とする。右の田数帳には「田井浦二町八反四卜  被押領丹後国志楽庄畢」とも記されている。なお最近、平城宮跡から青郷「田結」と書かれた木簡が出土して、この田結を田井とする説も出ている。
何も見ていそうにもなかった。小心者は目をつぶっている。舞鶴市は史料など関係がないのであろう。ここからも郷土史の発展は期待できそうにもない。
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