丹後の伝説:44集
成相寺の伝説
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身代わり観音 撞かずの鐘 底なし沼 成相寺奥の院
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[古本説話集] 下 新日本古典文学大系(『宮津市史』より)
丹後国成合事
今は昔、丹後の国は北国にて、雪深く、風けわしく侍山寺に、観音験じ給、そこに貧しき修業者籠りにけり、冬のことにて、高き山なれば、雪いと深し、これにより、おぼろげならずは人通ふべからず、この法師、糧絶へて日来経るまゝに、食ふべき物なし、雪消えたらばこそ出でて乞食をもせめ、人を知りたらばこそ「訪へ」とも言はめ、雪の中なれば、木草の葉だに食ふべき物もなし、五六日請ひ念ずれば、十日ばかりになりにければ、力もなく、起き上がるべき心地もせず、寺の辰巳の隅に破れたる蓑うち敷きて、木もえ拾はねば、火もえ焚かず、寺は荒れたれば、風もたまらず、雪も障らず、いとわりなきに、つくづくと臥せり、物のみ欲しくて、経も読まれず、念仏だにせられず、たゞ今を念じて、「今しばしありて、物は出で来なん、人は訪ひてん」と思はばこそあらめ、心細き事限りなし、今は死ぬるを限りにて、心細きまゝに、「この寺の観音、頼みてこそは、かゝる雪の下、山の中にも臥せれ、たゞひとたに声を高くして「南無観音」と申すに、もろもろの願ひみな満ちぬることなり、年来仏を頼み奉りて、この身いと悲し、日来観音に心ざしを一つにして頼み奉るしるしに、今は死に侍なんず、同じき死にを、仏を頼み奉りたらむばかりには、終りをもたしかに乱れずとりもやするとて、この世には、今さらにばかばかしき事あらじとは思ながら、かくし歩き侍、などか助け給ざらん、高き位を求め、重き宝を求めばこそあらめ、たゞ今日食べて、命生くばかりの物を求べて賜べ」と申程に、戌亥の隅の荒れたるに、狼に追はれたる鹿入り来て、倒れて死ぬ、
こゝにこの法師、「観音の賜びたるなむめり」と、「食ひやせまし」と思へども、「年来仏を頼みて行ふこと、やうやう年積りにたり、いかでかこれをにわかに食わん、聞けば、生き物みな前の世の父母也、我物欲しといひながら、親の肉を屠りて食はん、物の肉を食ふ人は、仏の種を絶ちて、地獄に入る道也、よるづの鳥けだ物も、見ては逃げ走り、怖ぢ騒ぐ、菩薩も遠ざかり給べし」と思ども、この世の人の悲しきことは、後の罪もおぼえず、たゞ今生きたる程の堪へがたざに堪へかねて、刀を抜きて、左右の股の肉を切り取りて、鍋に入れて煮食ひつ、その味はひの甘きこと限りなし、
さて、物の欲しさも失せぬ、力も付きて人心地おぼゆ、「あさましきわざをもしつるかな」と思て、泣く泣くゐたる程に、人びとあまた来る音す、聞けば、「この寺に籠りたりし聖はいかになり給にけん、人通ひたる跡もなし、参り物もあらじ、人気なきは、もし死に給にけるか」と、口ぐちに言ふ音す、「このにくを食ひたる跡をいかでひき隠さん」など思へど、すべき方なし、「又食ひ残して鍋にあるも見苦し」など思程に、人びと入り来ぬ、「いかにしてか日来おはしつる」など、廻りを見れば、鍋に桧の切れを入れて煮食ひたり、「これは、食ひ物なしといひながら、木をいかなる人か食ふ」と言ひて、いみじくあはれがるに、人びと仏を見奉れば、左右の股を新しく彫り取りたり、「これは、この聖の食ひたるなり」とて、「いとあさましきわざし給へる聖かな、同じ木を切り食ふ物ならば、柱をも割り食ひてん物を、など仏を損ひ給けん」と言ふ、驚きて、この聖見奉れば、人びと言ふがごとし、「さは、ありつる鹿は仏の験じ給へるにこそ有けれ」と思ひて、ありつるやうを人びとに語れば、あはれがり悲しみあひたりける程に、法師、泣く泣く仏の御前に参りて申、「もし仏のし給へることならば、もとの様にならせ給ね」と返ゝ申ければ、人びと見る前に、もとの様になり満ちにけり、
されば、この寺をば成合と申侍なり、観音の御しるし、これのみにおはしまさず、
『今昔物語集16』
丹後ノ国ノ成合観音ノ霊験ノ語第四
今ハ昔、丹後国ニ成合ト云フ山寺有リ、観音ノ験ジ給フ所也。其ノ寺ヲ成合ト云フ故ヲ尋ヌレバ、昔シ、佛道ヲ修行スル貧キ僧有テ、其寺ニ籠テ行ケル間ニ、其ノ寺高キ山ニシテ、其ノ国ノ中ニモ雪高ク降リ、風嶮ク吹ク。而ルニ、冬ノ間ニテ、雪高ク降リテ人不通ズ。而ル間、此ノ僧、粮絶テ日来ヲ経ルニ、物ヲ不食ズシテ可死シ。雪高クシテ里ニ出デ、乞食スルニモ不能ズ、亦、草木ノ可食キモ无シ。暫クコソ念ジテモ居タレ、既ニ十日許ニモ成ヌレバ、力无クシテ可起上キ心地セズ。然レバ、堂ノ辰巳ノ角ニ、簑ノ破タル、敷テ臥タリ。力无ケレバ木ヲ拾テ火ヲモ不焼ズ。寺破レ損ジテ風モ不留ズ、雪・風嶮クシテ極怖ロシ。力无シテ経ヲモ不読ズ、佛ヲモ不念ゼズ。「只今過ナバ、遂ニ食物可出来シ」ト不思ネバ、心細キ事无限シ。
今ハ死ナム事ヲ期シテ、此ノ寺ノ観音ヲ「助給へ」ト念ジテ申サク、「只一度、観立ノ御名ヲ唱フルソラ、諸ノ願ヲ満給ナリ。我レ、年来、観音ヲ憑ミ奉テ、佛ノ前ニテ餓死ナム事コソ悲シケレ。高キ官位ヲ求メ、重キ罪報ヲ願ハゞコソ難カラメ、只今日食シテ、命ヲ生ク許ノ物ヲ施シ給ヘ」ト念ズル間ニ、寺ノ戊亥ノ角ノ破タルヨリ見出セバ、狼ニ被敢タル猪有り。「此ハ観音ノ与給フナリ。食シタム」トト思ヘドモ、「年来・佛ケヲ憑ミ奉チ、今更ニ何デカ此ヲ食セム。聞バ、『生有ル者ハ皆、前生ノ父母也』ト。我レ、食ニ餓ヘテ死ナムト□□□肉村屠ブリ食ハム。況ヤ、生類ノ肉ヲ食人ハ、佛ノ種ヲ断テ、悪道ニ堕ツル道也。然レバ、諸ノ獣ハ人ヲ見テ迯去ル。此ヲ食スル人ヲバ、佛モボサツモ遠ク去リ給事ナレバ」、返々ス思ヒ返セドモ、人ノ心ノ拙キ事ハ後世ノ苦ビヲ不思ズシテ、今日ノ飢へノ苦ビニ不堪ズシテ、剱ヲ抜テ、猪ノ左右ノモモノ肉ヲ屠リ取テ、鍋二入テ煮テ食シツ。其ノ味甘キ事无並シ。飢ノ心皆止テ、欒キ事无限シ。
然レドモ、重キ罪ヲ犯シツル事ヲ泣キ悲テ居タル程ニ、雪モ漸ク消ヌレバ、里ノ人多ク来ル音ヲ聞ク。其ノ人ノ云ク、「此ノ寺ニ籠タリシ僧ハ何ガ成リニケム。雪高テ人通タル跡モ无シ。日来ニ成ヌレバ、今ハ食物モ失ニケム。人気モ无キハ死ニケルカ」ト、口々ニ云フヲ、僧聞テ、「先ヅ、此ノ猪ヲ煮散タルヲ、何デ取リ隠サムト」思フト云ヘドモ、程无シテ、可為キ方无シ。未ダ食ヒ残シタルモ有リ。此ヲ思フニ、極テ耻ヂ悲ビ思フ。
而ルニ間、人々、皆、入リ来ヌ。人々「何ニシテ日来過シツルナド」云テ、寺ヲメグテ見ルニ、鍋ニ檜ノ木ヲ切リ入レテ、煮テ食ヒ散シタリ。人々、此レヲ見テ云ク、「聖リ、食ニ飢タリト云ヒ乍ラ、何ナル人カ木ヲバ煮食フ」ト云テ、哀レガル程ニ、此ノ人々、佛ヲ見奉レバ、佛ノ左右ノ御モモヲ新切リ取タリ。「此レハ、僧ノ切リ食ヒタル也ケリト、」奇異ク思テ云ク、「聖リ、同ジ木ヲ食ナラバ、寺ノ柱ヲモ切食ム。何ゾ、佛ノ御身ヲ壊リ奉ル」ト云フニ、僧、驚テ佛ヲ見事ルニ、人々ノ云ガ如ク、左右ノ御モモヲ切り取タリ。其ノ時ニ思ハク、「然ラバ、彼ノ煮テ食ツル猪ハ、観音ノ我ヲ助ケムガ為ニ、猪ニ成リ給ヒケルニコソ有ケレト」思フニ、貴ク悲クテ、人々ニ向テ事ノ有様ヲ語レバ、此レヲ聞ク者、皆、涙ヲ流シテ、悲ビ貴ブ事无限シ。
其ノ時ニ、佛前ニシテ、観音ニ向ヒ奉テ白シテ言サク、「若シ、此ノ事、観音ノ示シ給フ所ナラバ、本ノ如クニ□□□申ス時二、皆人見ル前へ二、其ノ左右ノモモ、本ノ如ク成□□□。人皆、涙ヲ流シテ□泣悲ズト云フ□□□。此ノ寺ヲ成合ト云フ也ケリ。
其ノ観音于今在ス。心有ラム人ハ必ズ詣デ、可礼奉キ也トナム語リ傳ヘタルトヤ。
『京都の伝説・丹後を歩く』
成相寺の身代わり観音
伝承地 宮津市府中
丹後国に成合寺(成相寺)という、観音の霊験あらたかな山寺があった。この寺を成合といういわれは、次のようなできごとによる。
昔、貧しい僧がこの寺に籠もって修行をしていた。この寺は高い山にあったが、国の内にも雪が高く降り積もり、風が激しく吹いて、だれ一人、そこへ通う人とていなかった。それで、この僧は食べるものもなく日を過ごし、飢死しかけていた。雪が深いので、里に出て食べ物を乞うこともできず、また、そうかといって、草木を食べることもできなかった。しばらくは我慢して過ごしていたが、十日ほども立つと力も失せ、起き上がる気力もなくなった。そこで、お堂の東南の隅に破れた蓑を敷いて横たわっていた。力が出ないので、薪を拾って火を焚くこともできなかった。寺が壊れたため、すきま風が吹き込んで、雪や風がビュービューと吹きすさぶと、とても恐ろしかった。力がなくて、お経も読まず、仏も拝まなかった。今この時が過ぎればきっと食べ物が出てくる、とはとても思われないので、心細いこと、この上もない。
まもなく死ぬことがわかって、この寺の観音に「お助けください」と心のなかでひたすら申し上げ、「ただ一度、観音さまのお名前を唱えただけでも、諸々の祈願をかなえてくださる。私は、長年、観音さまをお頼み申し上げてきたが、仏さまの前で飢死することは悲しいことです。高い官位を求め、重い財宝を願うのならむずかしいことでしょうが、今日食べ、生きるだけの食べ物を施してください」と念じるうち、寺の西北の隅の破れより狼に食われた猪がいるのを見つけた。これは観音さまがお与えになったもののようだ、食べてしまおう、と思ったけれども、長年仏さまをお頼み申し上げているのに、今更どうしてこれを食べることができようか、「生ある者はみな前世における父母なのだ」と聞いている、私は飢死しようとして父母の身体の肉を食らおうとするのか、生きものの肉を食べる人は当然仏となるもとを断ち、悪道へと堕ちてしまうことになる、だから獣たちは人間を見て逃げてしまうのだ、この猪の肉を食べれば仏・菩薩は遠く去ってしまわれるだろうから、と何度も何度も思い返した。けれども、人の心の浅ましいことには、後の世の苦しみを思わず、今日の飢えの苦しみに耐えられなくて、剣を抜いて猪の左右の腿肉を切り取り、鍋に入れて煮て食べてしまった。そのおいしいことはたとえようもないほどであった。飢餓感がおさまり、楽しいことは限りなかった。
しかし、重い罪を犯して、泣き悲しんでいるうちに、雪もやっと消え、里人がたくさんやって来る声や物音が聞こえてきた。訪ねてきた里人たちが、「この寺に籠もっていた僧はどうなったのだろうか。雪が高く積もって、人が通ってきた形跡もない。何日も経っているので、もう食べ物もなくなったのだろう。人の気配もないが、死んでしまったのか」と口々に言い合うのを聞いて、僧は、この猪の肉を煮ているのをなんとかして隠そうと思ったが、時間もなくて、どうしようもなかった。食べ残した肉がまだ鍋にあって、僧はとても恥ずかしく悲しく思った。
そのうち、里の人々が、みな、寺に入ってきた。人々が「どのようにして、長い間、過ごしていたのですか」などと言って、寺を回って見ると、鍋に檜の木を切って入れ、煮て食い散らした様子であった。人々はこの様子を見て、「お坊さま、どんなに食べ物に飢えておられたといっても、いったいだれが木を煮て食べるでしょうか」と言って哀れむうち、仏を見申し上げると、左右の腿が新しく切り取られていた。これはお坊さまが切り取って食べたのだと奇妙に思って、人々は「お坊さま、同じ木を食べるのだったら、寺の柱でも切って食べればよろしいでしょう。どうして、仏さまのお体を削り申し上げたのですか」と言った。僧は驚いて仏を見申し上げたところ、人々の言うように、左右の腿が切り取られていた。これを見て、僧は、煮て食べたあの猪は、観音さまが自分を助けようとして、お姿を変えられたものであったのか、と思い至り、心からありがたく思って、人々に事の次第を語った。この話を聞いた人々は、みな、涙を流して、深く感動し、ありがたく思うこと、この上もなかった。
そのとき、仏の前で観音に向かって「もし、このことが、観音さまのお示しになったことなら、もとの通りにおなりください」と申し上げたところ、人々が、みな、見ている前で、その左右の腿はもとのようになった。これを見て、涙を流して感激しない者はだれ一人としていなかった。このことによって、この寺を成合寺というようになったのである。
その観音は今もおわします。信仰心のある人は、かならず詣でて拝み申し上げるべきである、と語り伝えたとかいうことである。 (『今昔物語集』巻十六)
〔伝承探訪〕
丹後国分寺跡地に建てられている丹後郷土資料館の横を通り、二キロの山道を上って行くと、成相山中の成相寺境内に至る。成相寺は西国三十三番の観音霊場の一つで、寺への参詣の道はいくつかあったが、これもその一つである。今はロープウェーなどで傘松公園まで上がり、さらにバスで寺門まで至るというコースが一般的である。
この寺は、『宮津府志』の引く寺記によると、慶雲元年(七○四)、真応という僧が霊夢を見てこの山に分け入り、不思議な翁から聖観音の像を授かって堂を建てて安置したことに始まるといい、文武天皇の勅願所とされる名刹である。平安時代、この山麓には、奈良時代以来の丹後国府が置かれていて多くの役人たちが政務を執り、また都との往来も盛んであった。国分寺を初めとする大きな寺々もあり、大いに賑わっていた。「天橋立」「大江山」などの歌枕の地もあり、都人にとって心惹かれる土地であった。こうしたなかで、この寺は観音信仰の拠点として知られていたらしい。平安時代後期の『今昔物語集』にこの寺の本尊の霊験譚が載せられるのは、このような文化的背景が深く関わっている。
さて、この話は、本尊の聖観音がその身を猪肉として食べさせ、修行僧の飢餓を救ったという霊験を説くものである。しかし、この話のなかで不思議なのは別の食物を与えてやることができたかもしれないのに、なぜ、修行僧にいったんは殺生戒を犯させるのだろうか。それは、おそらく、これによって、修行僧が戒律を破ったようにみえながら、真実、仏によって救われているのだという、その落差、仏が身代わりとなってその身を食べさせるという有り難さ、などが強調されるのであり、聴衆に宗教的・文学的感動を与えたのであろう。
この尊い聖観音像は秘仏とされ、三十三年に一度の開帳を待って、本堂内陣の厨子のなかにおわします。なお、先の寺記には、この話は開基の真応上人のこととして載せている。
『丹後の民話』(萬年社・関西電力)
宮津市・成相寺のおこり
股のぞきで有名な傘松公園の上にあるお寺でのこと…
昔、貧しい一人の僧侶が山寺に籠って仏道を修行していたがゝその寺は海の中に天のかけ橋を横たえる不思議にも美しい景色を眺められる場所ではあるが、人里離れた高い山の中腹ではあり、冬は特に風が強く雪も深いところであった。
ある年の冬、例年よりもひどい雪が降り続き、この山寺は雪の下に埋まってしまい、常さえ困難な山路のこととて人の通行は全く途断えてしまった。この僧侶が常から心して蓄えた冬籠の食糧も次第に乏しくなり、遂には全く食するものもなくなり仕方なくあたりの草木と雖も凡そ飢を耐える為のものは口にし遂に食尽してしまった。草履、筵なども すでに無くなっていた。しかし一向に風と雪はおさまらず外は恐しい光景で人里に降りて乞食することも出来ないので、空腹をこらえて一心に経を念じて仏の加護を祈るのみとなった。けれども絶食も十日を過ぎると、全身の力が抜けて起き上ることさえ出来なくなったので、お堂の辰巳(東南)の角に破れ衣を敷いて寝ていたが、寺の各所から吹込むすき間風は容赦なく飢えて寒さにおののく僧侶を一層苦しめ、唯食物が現われる事を空想するのみという心細い状態であった。既に死を覚悟した彼は、最後の力を振りしぼって寝たまま「自分は今まで唯一筋に観音を頼み奉って来ましたが、修業半ばにしてその仏前で餓死することは、何と悲しいことでございましょう。高位高官を望んだり、重い財宝等を願うのではありません。唯々何とかこの飢えと、寒さから抜け出し、世に永らえるための食物をお与え下さい」と一心に観音様に祈った。すると、その時、寺の戊亥(西北)角の破れたところから、狼に喰い殺されかけた一匹の猪が飛び込んできた。「これは不思議、さては観音様の恵み給うところか」
と、一瞬喜んだが、「待てよ、仏を信仰修行してきた身が今さら何で肉食できようか。生あるものは皆前生の父母なりという。我今食に飢えて餓死寸前といえども、生ある猪の肉をくうとは、仏の道を棄てて悪道に陥るものである。そのためか、もろもろの獣は人を見ると逃走する。殺生して肉食する人は、仏も菩薩も遠去り給うためである」と煩問した。しかし、それ以上考える力もなくなり、咄嗟に倒れている猪を傍らにあった降魔護心のための剣を抜いてその左右の股の肉を切り取った。
絶えなんとする力を振りしぼって早速この肉を鍋に入れ煮て食べると、その美味なこと、今までに例のない程で、飢えも忽ち収まり、まるで天国に昇るような心地となった。しかしそれも暫し、ハッと我にかえった僧侶は、重罪を犯した良心の仮責に堪えかね、仏罰の程も思われて泣き悲しまねばならなかった。
それから幾日かたってさしもの雪も漸く治まり、彼の身を案じた里人達が大勢連れだってやって来た。「この寺に籠っていた僧侶は、どうなっただろうか」「人が通った跡もない」「日数も大分たつので食物もとうに絶えてしまったのであろうに」「人気が見当らぬのは死んだのではないだろうか」などと口々に言いながら山を登って来た人々の声を聞いて、僧侶は先に猪の肉を煮炊きした鍋などを隠そうと思ったが、間に合わず唯茫然と寝ころんで、僧の身であり乍らの肉食を深く恥じ悲しんでいた。まもなく、入って来た人々は、僧侶がまだ生きているのに驚き、寺内を見廻ると鍋に檜の木を削って煮詰めたものがあった「僧侶がいかに食に飢えたりとはいえ、木を煮て食うとは哀れなものよ」と心から同情し、さて本堂の仏像を見ると、その左右の股の部分が切り取られているではないか。「さては僧侶がこれを木食したのか、同じ木を食うならば寺の柱を削ればよいのに、何故に仏像を壊し奉るのか」と、僧侶をなじりつめよった。僧侶は愕然とした。「さてはあの時煮て食べた猪は、観音様が我を助け給う為に猪になり給うたのか」と、仏の慈悲に感激すると共に悲嘆し、心から恥じ入って人々に事の子細を述べた。
これを聞いた人々は皆涙を流して、仏の慈悲に感激しつつも悲嘆した。やがて僧侶は観音様の前に進み出て「もしこのことが観音様の示し給うところならば、何とぞもとの如くに成り合い給え」と一心に祈り続けた。すると多くの人々の見る前で、見る見るうちに観音菩薩の尊像の左右の股がもとの如くに成ったので、またまた人々は仏の神秘な慈悲心に感泣したという。これより以後、この寺を成合(相)寺と呼ぶようになったということである。
(宮津・林崎貞治様より)
「成相寺:西国三十三所二八番札所:宮津市」
『宮津市史』(写真も)
観音菩薩立像 二躯 字成相字 成相寺
木造(本尊)七四・○(前立尊)九二・六センチ
平安時代(十二世紀)
西国観音霊場第二十八番札所として信仰を集める成相寺の本尊及び前立尊である。成相寺の観音の霊験については、『今昔物語集』巻十六に「丹後国成合観音霊験語第四」に採られた説話でよく知られている。すなわち、この寺で大雪に降り込められ飢えに苦しんでいた僧を、観音が猪に身を変えて救ったという話である。このとき、僧が食った腿を欠いたが、祈りによって再び回復したことから成相の名が起こったという。
本二像はいずれも一木造で、左手は屈臂して未敷蓮華を執り、左手は垂下して、腰をややひねって蓮華座上に直立する同形のものである。本尊は、一木造で、両肩先、天衣の遊離部を別材矧ぎとする。適度な胸の量感と均整のとれた体躯、また愛らしい相好の表現に平安時代後期の特色がみられるが、衣文をほとんど表さない素朴とも言える彫法には、中央の正統仏師とは異なる趣がある。本尊像の台座裏には寛政四年(一七九二)の修理記があるが、光背、台座、宝冠、持物等はこの時の後補と考えられる。
一方、前立尊は、本尊と同様の姿態構造になるが、二像を比較すると、体躯のプロボーションや肉身のモデリング、衣文の表現などに本尊より幾分洗練されたところがあるが、その差はさほど大きいものではない。
(台座裏墨書)
施主宮津本町丁字屋喜平泊・寛政・子年・大仏師・吉泉・幸之進・奉再興
『宮津市史』
つかずの鐘 字成相寺・成相寺
慶長十三年の銘がある成相寺の梵鐘は、悲しい言い伝えを持つ。この鐘を鋳造するために、付近の村々から寄付を集めたが、府中の村で一軒だけ、金を出せない家があった。その家の女房は、赤ん坊なら差し出せるのですがと言ったという。実際に鋳造が始まると、どういうわけか二度続けて失敗し、いよいよ三度目にとりかかったとき、寄付をしなかった家の赤ん坊が、溶けた銅の中に落ちてしまった。鐘は見事に鋳上がり、鐘楼につるされたが、鐘をつく度に悲しい音が鳴り響き、赤ん坊の鳴き声に聞こえるため、寺では、ついにこの鐘をつくのをやめたということである。
『宮津市史』
底なし池 字成相寺・成相寺
成相寺の本堂の下にある蓮池が底なし池とよばれる。この池には大蛇が住んでおり、寺の小僧を次々と呑み込んでいった。かわいそうに思った和尚が、藁で人形を作り、衣を着せて小僧に見せかけ、中には火薬を詰めておいた。大蛇はそうとは知らずに藁人形を呑み込むと、腹の中で火薬がはじけた。苦しみながら坂を降りた大蛇は、ふもとの国分寺のつり鐘を頭にかぶり、なお阿蘇海に入ったが、文珠のあたりでついに力尽き、沈んでしまったという。
『丹後旧事記』
狭屋山滝。宮津府志に曰く成相山の後を狭屋村といふ上狭屋村下狭屋村二村有爰に茅葦の草堂あり成相寺の奥の院と伝ふ、堂の後に七八丈の瀧あり幽谷寂々として塵外の異境いふべくもあらず寺を慈眼寺といふ上野甚太夫の古城地なり日置より一里半奥なり。
『丹哥府志』
【山台】(鼓ケ嶽)
山台は蓋白山台なり、成相寺の古図に白山権現のある處なり、白山権現既に廃社となる今其台石のみ残るよって仙台といふ、台石の間に鏡一面あり、俗に成相の奥院といふ。
『丹哥府志』
【観音堂】(三間四方)
此観音堂は成相観音の旧跡にて俗に成相の奥院といふ、今慈眼寺の支配となる、然れども成相寺は爰にあり(文武天皇十三年成相へ移す)、世屋山成相寺者本尊聖観音文武天皇十三年建立当国世屋山移于此處云、蓋其世屋山といふは此處なり。堂の東に麻谷といふ上世屋村の端郷あり、人家五、六軒斗もあるなり、麻より七、八丁斗行て瓔珞阪あり、瓔珞阪より又一丁斗も行て観音阪あり、昔此處より今の成相へ移し玉ふ時瓔珞の落し處なりとて今に瓔珞阪といふ、観音堂といふは観世音の厨子を休め玉ふ處なりと今口碑に伝はる、よって元伊勢、元善光寺に習ふて元成相といふとかなり、成相奥院といふは非なり、慈眼寺より観音堂に至る、凡二、三丁斗も山に入り幽邃の處に堂宇を建つ、いかにも霊場なりと覚ゆ、堂の裏に銚子の滝あり。
『丹後与謝海名勝略記』(貝原益軒)
【成相奥院】 日置より一里半下世屋村松尾村を経て上世屋村なり。三町はかり山奥に三間四面の茅堂あり、是成相の奥院なり。堂後に五六丈の瀑布あり。幽谷岑寂として塵外の霊境なり。寺を慈眼寺と云。天橋山に属す。
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